58話 『それでは向かいましょうか』
「…………」
温泉宿華の湯の一室。
グルッドは目線の先――部屋の窓ガラスに反射する己の姿をじっと見つめている。
その生気の感じられない死んだ目を、ただただ茫然と、何を思うこともなく眺め続けていた。
――ガチャリ。
扉が開錠される音とともに、同室のメルオンとメリィがゆっくりと中に入る。
しかしグルッドはそれにも一切反応を示すことなく、虚ろなにらめっこをするのみだ。
「グルッド」
「――――」
メルオンがその名を呼び、ようやく彼の方へと顔を向ける。
しかしそこにも一切の表情は見て取れず、ただただ機械的に反応したに過ぎない。
「いや、なんだ。そのー……風呂行かねえか。せっかくの温泉宿なんだ、もったいねえだろう?嬢ちゃんも一度こっちくるかもしれんが、張り紙でもしとけば何とかなるだろ」
「気分転換するさ!」
「……そうか」
「おう。行こうぜ」
グルッドは一旦窓の方へと顔を戻すと、ほどなくして重い腰を上げる。
それなりに気まずさを感じていたメルオンはこれに安堵のため息を漏らし、足元のおぼつかない様子のグルッドを支えながら部屋を出る。
忘れないように張り紙を残して、露天のある一階へと向かった。
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華の湯はスイレン一番の温泉宿というだけあり、数か所に何種類もの温泉が用意されている。
そのほとんどが男湯、女湯、そして混浴とご丁寧に用意されているが、無論の事混浴は男性客に大人気で女性客はほとんどより着かない。
華の湯に戻ってきたネーアとアネラは、手早く受付を済ませて部屋がある4階に向かおうというところであった。
「あるんだ、エレベーター……」
ネーアは受付カウンターの隣、その扉の前に立って少しばかり感動した。
階段を登るのは言わずもがな結構体力を消耗する。
エレベーターという世紀の発明品がこの世界にもあるとは夢にも思っていなかった故、実際目の前の扉があき、動いている所を見なければ完全に信じることはできないだろう。
「えれべ……何?」
「え、ああいや!この機械と似たのがボクの世界にもあって」
「へぇー、なるほどね。でもこれは機械仕掛けじゃないのよ。円盤って言ってね、使用者の魔力で動くのよ」
「そう、なんだ」
アネラの話を聞きつつ、改めてその円盤と呼ばれているエレベーターの周辺を見てみる。
と、そこには確かに、魔力供給のためと思われる手形が用意されていた。
その手形の隣に、階数指定のボタンらしきものが配置されている。
どうやら今円盤がどこに止まるかというのもここでわかるようになっているようで、その辺に関してはエレベーターより新設設計になっていた。
「ふむふむ。このボタンを押して、ここに手をかざして……と、おわ!」
手形が光、魔力が吸収されていく。
そして否応なしにそれなりの疲労感がネーアを襲った。
「ふお……これ、もしかして……」
ネーアは一瞬膝をカクンとさせ、アネラに顔を向ける。
「そ、使用者の魔力を使うってことはそれなりに疲労もついてくるの。大人数で分配すると楽なんだけどね。今4階までいく分の魔力を一人で補ったから、相当来てるんじゃない?」
「仰る通りで……」
どうやら機能面ではエレベーターには及ばないらしい。
少し残念に感じながらも、その扉が開くのをじっと待つ。
そして大よそ1分。
「お」
「……メルオンさん!?」
「……(プイ)」
ようやく扉が開いたと思ったら、先に受付を済ませ自分たちの部屋にいた3人が中から出てきた。
驚いて反応するメルオンとネーアに対して、これを見たとたんにアネラはさっと視線を逸らす。
「どうしたんですか?ボクたちも一旦部屋に行ってからそちらに行こうと思ってたんですが」
「おお、オレらこれからそこの露天に行こうと思ってな。一応張り紙はしといたんだが……この分だと無駄になっちまったな」
「ネーアも一緒にどーさー?」
「おいおいメリィ、お前変なこと考えてねえだろうな。残念だがオレらは男湯だ。間の混浴なんて行かねえぞ?」
「なに言ってるさー!そんなわけないのさ!」
「あ、あはははは……」
2人のやり取りを笑って聞き流す。
そして思い出した。
自分は女湯に入らなければならないことを。
いやまあ、入る分には仕方がないしいいのだが、アネラと一緒に入らなければならないことに恐怖すら覚えた。スキンシップと称してあっちこっち触られたりしたらたまったもんじゃない。
それでもって生憎ネーア達がとった部屋には浴室がないのだ。
アネラに見張ってもらいつつ一人で済ませるという手も通じない。
ああ、それなりに楽しみにしていた温泉が一気に恐怖のどん底へと落っこちていく。
「オレたちはそう言うことだから先に行ってるが、実際嬢ちゃんたちはどうする?露天に行くならあがった後ロビーで待ってるが……」
メルオンのその提案に、ネーアはアネラの意向を見る。
するとアネラは、ネーアの片手をがっしりと握って大きく首を横に振った。
ここまではっきりと拒否反応を示されるともはやすがすがしいというか、天晴れとすら言いたくなる。
「……だ、そうです。気を遣わずにゆっくりしてください。元々そのためにきたんですから」
「むう、そうか。じゃあ遠慮なくそうさせてもらうとしよう。1時間もしたら部屋に戻ってると思うが、何かあればまた寄ってくれ」
「はい。ごゆっくり!」
そうしてネーアは3人を見送る。
このやり取りでもう円盤は行ってしまったし、改めて手を握ってくるアネラに向き合った。
ちらちらともう大丈夫かどうかと確認するアネラの姿は、やっぱりどこか放っておけない愛くるしさを感じる。
「大丈夫だよ。でどうする?」
「……私たちもおフロ、行かない?」
結局行きたいんかい!
本当にメルオンたちと一緒になりたくないだけなのか。はたまた何か理由があったりするのかしないのか……しかしながらいつまでもこの調子ではこの先が本気で思いやられる。
どうせアネラとは裸の付き合いをしなければならないのだ。ついでにガツンと言ってやろうと思いつつ、返事に答える。
「うん。いいけど、一ついいかな」
「――なに?」
「うん、できれば人が少ないところがいいかなー……なんて……」
ネーアはアネラに対する懸念に加え、もう一つ不安なことがあった。
それは温泉の――不特定多数の中に入っていくこと。
年頃の男の子としては、己の立場を利用して望むところと言いたいのだが、ピュアッピュアで耐性のない自分にはまだ早いとも思っている。
もちろん主観的にはもう女性の身体というのも慣れたものなのだが、客観的に他人の裸体を見るとなればまた話は別だ。
こればっかりは場数を踏むしかない……なら今がチャンスだろうというのはどうかツッコまないで欲しい。
「なるほど、そうね……そしたら3階にも露天があるからそっちに行きましょ。あそこも十分景色がいいのだけれど、中途半端だからって行く人少ないのよ」
「ほほう……ありがと。じゃあ、一度部屋に行って着替えの浴衣とったら3階だね」
意見が合致したところで、ネーアとアネラが円盤の手形に手を重ね合わせる。
その時のエレベーターに揺られる感覚は、まるでこれから魔王の城の最深部にでも到達するかのような緊張感に満ち溢れていた。
さあ、地獄の様な天国のはじまりだ。
つづく




