望まれて
どうして僕はここに残ったのか。自分でも答えは見つけられないまま、それでも特に帰る理由も無くて、自分の席に座ったまま、何とは無しに黒板を眺めている。微かに消しムラのある黒板を見ていると、板書を殴るように書き付ける教師の姿がふと浮かんだりもする。硬質なその音が、聞こえたような気もしたりする。でもそれらはすぐに砂城の如く崩れ落ち、時の刻まれる音のみが残る。それ以外は沈黙が満たしている。満たしているというのは変な言い方だ。実際ここには何もない。何もないし、もしあったとしても、何にも興味は無い。
この景色が僕に何かを齎すだろうか。ありふれた教室の景色。何も。何もだ。何一つだ。齎されるものはない。僕自身が、何も得ようとしていないから。手に入れても虚しいだけだから。僕が手に入れたものは全て、いずれ消えゆく。僕の身体、僕の生活、僕の世界。みんなみんな、終わるものだ。
急に背後から吹き込んだ冷たい風が、沈みかけた思考を一気に浮上させた。かなりはっきりとした鳥の羽ばたきが、風を追って忍び込むように続く。
窓は日直が閉めて帰ったはずだが。
静かに振り返った僕の目に、僕と同じ学ランを着た見覚えの無い人影が映った。
「黒板なんか眺めちゃって。楽しい?」
夕日に染められた橙色の街並みを背景に、窓枠にしゃがみ込んだ彼は小さく笑ったようだった。逆光になった彼の表情は、どうにも読み取れない。椅子ごと向き直った。自嘲気味な笑いが、自然と顔の奥から染み出してくる。
「いや。楽しいことなんか無いよ。どこにも」
「楽しくもねーのに見てんの? 変な奴」
それだけを言って、またくつくつ笑う。
「ホント変な奴だな。お前、誰?」
誰、と訊かれるのはなんだか新鮮だった。よほど変な奴なのだろう、こいつも。
「宮内結」
「結?」
やはりそこか、と内心嘆息する。
「随分と女々しいお名前で」
「ああ。僕は女になる予定だったからね」
そう。父は女の子が欲しかったのだ。念願の我が子が男であることを知っても父は認めなかった。僕に女の子の名前を付けたのは父だ。母や親戚中の反対を押し切ってのことだった。三十代の終わりで僕を生んだ母は、実質的にそれが最初で最後の出産になってしまった。父は僕を女の子のように扱おうとしては男だと気づき、母を責める。母を責める父を僕が止める。すると父は僕を責める。それでも母は父と別れたいとは言わない。結果、あの家は居心地が良くない。あまりにも頭の悪い父。父をやり過ごす術を持たない母と僕。
それで家に帰る気もしなかったんだな、と今更納得する。
「ふうん」
興味ない、とでも言いたげに彼は気のない声を出した。
「で、そっちは」
「あ、俺? アスカだ。飛ぶ鳥と書いて飛鳥」
俺も十分女々しい名前か、と彼――飛鳥は笑う。
「初対面でこんなこと言うのもなんだが、俺ら地味に似てるな」
少し意外な言葉で、僕は僅かに首を傾げた。半分は疑問から。もう半分は警戒から。
「例えば?」
「名前が女々しい男だ」
「……それだけ?」
「理由は無いのに放課後の教室にいる」
「後は?」
「それから、お前からは生きてる匂いがしない」
「ストップ」
今確信した。こいつはおかしい。走って逃げだした方がいいかもしれないレベルでおかしい。
だけど、その台詞には興味をそそられずにいられなかった。
「どういう意味?」
「あー、つまりだ。まともに生きてる感じがしない」
「違いが分からないんだけど」
「じゃあさ」
よいしょ、と飛鳥は教室側に足をぶら下げて窓枠に腰掛けた。相変わらずの逆光の中、飛鳥は僅かに首を傾げ。
「生きるって、どういうことか知ってっか?」
何を唐突に、と思う。そして何を今更、とも思う。こいつもやはり同じことを言うのだろう。みんな同じことを言うのだ。あの時もそうだった。そしてきっと今も。
「また『命を大切にしろ』って話か?」
「はぁ?」
心底呆れた、という調子のため息が返ってきた。
「違うわ。ってかあのな、お前は疑問形に疑問形で返すのかよ。テストだったら0点だぜ?」
どこかで聞いたような言い回しに、思わずクスッと笑いが零れた。その息遣いの合間に、背後の時計がカッチコッチと時を刻んでいく。
そういえば、自嘲と愛想以外で笑うのは凄く久し振りかもしれない。
「でだ。知ってっか?」
沈黙した僕の中を雑然としたイメージが流れ、そして消えていった。
「……いや、知らない。というより、何となくのイメージしかない」
「やっぱそうか」
何かを確信したように、飛鳥は小さく何度も頷いた。やはりこいつは変な奴だった。今、もう一度確信した。
だけど経験上、こういう奴の方が気が合うということを知っている。
「「やっぱお前、変な奴だな」」
何故か綺麗に声が揃って、二人で少し笑った。飛鳥は暫く肩を震わせて、そして唐突に言う。
「なるほどな。そりゃ生きてる匂いもしないわな」
笑顔は消えないままの首を傾げて説明を促すと、飛鳥は何やらにやにやし始めた。
「みんな普通は答えるんだよ。生きるとは何か。心臓が動いているということ、人を愛せるということ、今ここにいるということ」
数え上げるように飛鳥は言う。
「人と繋がるということ、覚えられているということ。あと、腹一杯食えるということなんて言った奴もいたな。普通人間って生き物は、何かしらの生きる『意味』を持ってる生き物なのさ」
「自分が人間じゃないって言い方だな」
「まぁ、その辺については後程」
どこか楽しげな声音で飛鳥は言った。
「そいで、結は――」
「ごめん、名前呼ばないで」
「つれねぇな」
ふん、と飛鳥は鼻を鳴らした。
「じゃあ宮内君。お前は一体なんで生きてるんだ? その理由は?」
あー、と言いながら考えてみる。一般的に自分にとって大切なもの。例えば親、自分、友人、本、アルバム、それら全ての記憶。案外あるな。
でもそれらは考えれば考える程に、なんだかどうでも良くなって。
「無いね」
「嘘だぁ、無いわけないだろうよ」
「いや、無い。強いて言うなら、生きるのも面倒だしもう一度死ぬのも面倒だし、特に現状を変えようという気も無いから成り行きで生きてる。そんな感じ」
「死のうとしたのか」
余計なことを口走ってしまったと思った時には、もうほとんど投げやりになっていた。
「そう。自分の部屋で首を吊った。母に見つかっちゃったんだけどね」
飛鳥は何も言わなかった。
「母はごめんね、ごめんねって、それしか言わなかったな。父は怒鳴り散らして、お前なんか死ねば良かったんだと僕を殴りつけた。俺の面目を潰す気かとも言われたっけ。クラスメイトは途端によそよそしくなった。まぁそれは仕方ない。教師に至っては『お前は人生まだ長い、命は大切にしろ』ってその一点張りだ。おかしいだろそれ。何も分かってないくせによく言えるもんだよ」
思わず語尾が震える。
「その日からかな。現実も空想も分からなくなって、ずっとずっと気違い扱いなのさ。どこにいるのか何をしているのか、ふっと分からなくなることがある。意味のない罪悪感が津波みたいに迫って来る。僕はもう、この世に何の未練も無いんだ。僕がいなければ母はあそこまで苦しまなかった。父だって」
そこまで言って、ふと我に返った。
いつの間にか俯いていた顔をそっと上げて、飛鳥をまっすぐに見つめる。
「ごめん。忘れて」
「そんなん忘れられるかよ」
応えた飛鳥の声は、僅かに揺れていた。
「言いたかったのに言えなかったんだろ?」
「そうみたい」
泣きそうな自分を宥めながら、僕はいつの間にか消えていた笑顔を取り繕った。
「じゃ、俺の話をしようか」
急に姿勢を伸ばして、飛鳥はそんなことを言った。橙色だったはずの背景は、いつの間にか紅を帯びている。
「あのー、これ言うとよく『ちゅーにびょう』とか言われるんだけど」
すう、と飛鳥は息を吸い。
「俺、死神なんだ」
噴いた。涙とか一瞬で引っ込んだ。
「ないわ」
「言うと思ったよ」
あーあ、と飛鳥が肩を落としたのがまた面白かった。
「でも俺、本当に死神だから」
「死神ってその、えーと、鎌とかマントとかは?」
「ビビらせたら悪いかと思って置いてきた」
再度噴いた。
「親切かよ」
「ほっとけ」
バツが悪そうに頭を掻くそのシルエットは、何をどう見てもただのアホにしか見えない。最高に胡散臭い。
「でだな。鎌とマントはどうでも良くてだな」
その必死さに免じて話は聞いてあげよう。
「それで? 死神が僕に何の用」
「そりゃ勿論ビジネスの話だろうが」
当たり前だろ、と飛鳥は言う。心外と言わんばかりの声音は僕なんかより余程人間らしい。
「ビジネス?」
「簡単に言うとだな。お前を安らかに死なせてやる」
これは流石に、真顔にならざるを得なかった。
「俺が見るに、お前は俺から誘われるだけの人間ではあると思った。希望とか、幸福とか、そういう『生きてる匂い』が、お前からは一っ欠片もしなかった。こんなん初めて見た」
「自覚はある」
「だろうな。そこで俺から提案だ。俺はお前を冥土まで直通で送り飛ばし、ついでに最優先で生まれ変わらせてやれる」
「転生か」
「そう」
「お前のメリットは?」
「人に転生できる」
さらりと飛鳥は言う。
「俺は、死神をやめて人として生きられる。お前は、お前ではない誰かに転生できる。但しだ、今よりマシな状況になるかどうかまでは保証しかねる」
正直、僕にとってそれは神が与えたチャンス以外の何でもなかった。
「つまり、あくまでもこれはギャンブルだ。……乗るか?」
即答しようとして、一瞬だけ迷う。
「二度はないぜ」
でもやっぱり、出した答えは一緒で。
「殺して。今すぐ」
「今、で良いのか?」
「良い。今すぐ」
飛鳥自身が、逆に迷っているようだった。そこまで考えてふと、自分が飛鳥を本物の死神だと信じきっていることに気付いた。――これも死神の魔力なのだろうかと、思う。
僕が女だったら、惚れてたかもしれない。
逆光の紅の中、飛鳥は微かに微笑んだようだった。
「じゃあ――『行ってらっしゃい』」
その姿を脳裏に焼き付けて、紅の内に飛鳥の暗い影が沈み込んで、そして。
ぷつん、と糸が切れた。
* * *
「一組で人が倒れてたって」
「マジ?」
「誰?」
「宮内結」
「宮内ってあの自殺未遂やった奴?」
「それそれ」
「また自殺か?」
「それは知らないけど」
「余程死ねてよかったんじゃないの。知らんけど」
「それな」
「ねぇ、赤ちゃんができたみたい」
「……本当か?」
「本当」
「本当か!?」
「だから、本当よ」
「なんてこった!! 本当か!? 電話だ、電話しないと!!」
「ちょっと落ち着いてよパパ」
「あっ、ああ、すまん、取り乱した。……なぁ」
「うん?」
「その子、男の子かな、女の子かな」
「どちらでも、良いじゃない? 強いて言うなら、女の子」
「……うん。そうだ。そうだな」
「結華って男っぽいよね」
「ちょっと何それ、どういう意味?」
「何て言うの? こう、サバサバしてるというか」
「ああ。前世男だからじゃん?」
「はぁ!?」
「あ、いや、今の無しで」
「ええちょっと、そんなさらっと言われたら気になるじゃん」
「いや、ホントに深い意味はないんだって」
「それじゃつまんないっ」
「つまんないって……」
「ねえ、前世のこと思い出したら教えてよ。めっちゃ聞きたいから」
「……ま、努力くらいはしてもいいけど」
「卒業までに絶対!!」
「ええ……しんどいわ……」
* * *
高校は、第一印象で選んだ。どこか懐かしい感じがしたから。
「よう、結」
バスを降りたところで、隣の席の男子が声をかけてくる。小学校からずっと一緒で、何故か高校まで被ってしまった。私のことを「結」と呼ぶ。
「お前、良い『匂い』がするな」
ぎく、と自分の全身が強張るのを感じた。
「変態か!!」
「ちげぇわ!!」
ツッコまれるとすぐに動揺するのは、初めて会った時と何も変わっていない。
「出会い頭に人の匂い嗅ぐのやめてくれない!?」
「違う、誤解だ、そういうんじゃない!!」
「じゃあどういうのなのよっ」
「それは、その、話すと長くなんだよ……」
「あっそ」
冷たく言ってみてから、小さく笑った。高校まで被ったのは少々不服だ。不服だけど、安心する。きっとこいつはどこまでも私についてきてくれる。そんな気がした。それも、嫌じゃない。
ポニーテールを春風になびかせて、私は彼に向き直った。
「行こう。遅刻しちゃうよ、飛鳥君」




