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灰色勇者物語  作者: 蟹家
16/17

灰色勇者物語

(一)


 蒼い満月は、静かに。

 私はベッドの上で1人、それを見ていた。


 昨日、干したシーツは陽だまりと彼の匂いが混ざって柔らか。クローゼットの中には直したばかりの服、鍋の中にはまだ残っているスープ。畑には大きく実りそうな野菜があって、日が昇れば餌を欲しがる鶏たちが鳴くのだろう。


 この家には、何にも代え難い生活がある、かけがえのない日常がある。


 そう、思っていた。


 けれどレフ、彼は私を置いて行ってしまった。



「ヒュドラを少しでも足止めしなくちゃ」


 そう言って、使い慣れた弓と短刀を持って飛び出して行った。止める私の言葉は微塵も聞かないで。


 分かる。分かるよ、レフ。

 ヒュドラに王都が襲撃されて多くが死ねば人間は大きく衰退するし、陥落してしまったらそれこそ絶滅は目前になる。貴方が数秒稼げたら、その僅かな時間で逃げ果せる人も多いだろう。

 もしかしたら、貴方のお陰で王都の陥落が防げるようになるかもしれない。


 でも、だけど。

 それが何なんだ。

 末路は絶対。

 いつかは、滅びる。 

 必定の絶望を、少し未来へ押しやるだけ。



 私はそんなことのために、貴方を失いたくない。

 私は、他の何よりも貴方と過ごす毎日が大切なのだから。


 三つ四つと泡が弾ける。

 レフと同じように考えた誰かが、きっと戦っているのだろう。誰かを救うために、誰かがまた生を散らす。


 皆んな、皆んな身勝手だ。


 また一つ、泡が。


 その命は誰かが何よりも大事にしたかった命の筈なのに。

 何かを守るためにと言って、その命を投げ捨てる。


 守るために命を使うというのは、詭弁だ。嘘だ。

 命に貴賤はない。

 数さえも関係ない。

 命は命とさえも不等価で、代えられない。

 だから、命を使って命を守ることも、命に対する侮辱だ。



 レフ。

 貴方は身勝手だ。

 私にとって他の何よりも大切なその命を、貴方は私にとってどうでもいいものの為に投げ出そうとしている。

 それは、レフ。貴方の我儘だ。



 目を閉じる。覚悟を決める。


 だから私も、そうなろう。

 

 我儘になろう。

 所詮、人は自分の為にしか生きられない。

 自分の大切な何かの為にしか、生きられない。

 私は、私の大切なこの生活を守る為に。


 深く息を吐いて、目を開けた。


 ベッドから降りて、ダイニングへと。

 さらりとテーブルを撫でて、月光差し込む窓辺に近付く。


 そして、そこにある聖剣に触れた。

 埃被ったその下に、冷たく無機質な感覚。それは、寂しげで、気高く、何人にも侵されない。

 聖剣は、かつての私の覚悟そのものだった。最早崩れ去ってしまった、私の覚悟だった。


 今。今もう一度。

 ここに私の覚悟を誓う。

 手の平で埃を払う。そして、下げ緒に頭と左腕を通して、聖剣を背負い、家を出た。



 夏、夜、星の瞬き。

 少し冷えた風が私を包む。僅かに混ざる、血と煙の匂い。

 低く浮かぶ雲は赤く色付いていて、その下の集落の様子が分かった。


 前へ、倒れ込むように。

 地面まで数十cmまで迫った瞬間、私は右足を上げて地面を思い切り打った。そして、その次の瞬間には左足を。そうして交互に蹴る。

 その極端な前傾姿勢のまま、私は走り始めた。



 命の消える感覚は続いている。

 どこかの誰かが、また一人、また一人と死んでいく。

 これがレフじゃありませんように。

 それもレフじゃありませんように。

 私はただ、そう願う。



 数分走ると、15mほどの幅で木々も何も薙ぎ倒された場所に出た。

 それは王都の方角へ向かって、真っ直ぐに続いている。

 これがヒュドラの這いずった跡なのだろう。



「……おじょ……ちゃん。助け……て、くれ……」


 その声と共に、誰かが私の足首を掴んだ。

 目をやれば、倒れた木々に潰された中年の男が力の入ってない手を懸命に伸ばしている。

 顔にもう死相が浮かんでいる。助からないのだろう。


 この男も、大切な誰かのために、ヒュドラに立ち向かったのだろう。敵わないと知っていて、それでもなお、救いたいもののために。

 けれど、足をその手から払った。

 そして、私は右手で聖剣の柄に触れる。



「ごめんなさい。私が救いたいのは、貴方じゃないの」


 そう言い残して、私はレフを探すために、また走り始めた。




(二)


 荒い、呼吸。

 街道に仰向けで寝転がり、胸を上下させている。私の足音に気付いたのか、目をこちらに向ける。そして、私の姿を認めると、少し呼吸を整えて、右手に力を入れて体を持ち上げようとした。けれど、その体が持ち上がることはなく、無様に転がった。



「ア、ルマ……」


 私の目に映ったレフは、見るも無惨。

 左側の腕と下腹部、そして脚は丸めた紙屑のように潰れていて、今にも千切れそうだった。特に腕は、最早皮一枚の所で辛うじて付いているようだった。


 けれど、でも。



「レフ、生きてて良かった……」


 安心感。


 1184。

 今日消えていったその命の中に、彼が入ってなかったことに安堵した。

 腕が潰れていようと、足が粉々だろうと、生きていてくれたことに感謝する。



「レフ、貴方じゃ何もできない。だから、帰ろう。私たちの家に」


 レフのように立ち向かった幾百人の行いで、ヒュドラの進みはどの程度遅くなったのか。答えは、火を見るよりも明らかだった。微塵も遅くなりはしていない。


 生きている、とは言ってもレフは重傷だ。なるべく早くに彼を連れて帰って手当てしなければ、死んでしまうだろう。

 腕は切断するしかないだろう。足も、もしかしたら。

 そんなことを考えながら彼に近付いて、肩を持った。


 口の端からは血が垂れている。レフは荒い呼吸を繰り返すばかり。



「……アルマ、ごめん」


 耳元で小さくそう呟いたと思ったら次の瞬間、彼は私のことを思い切り押した。

 態勢を立て直す間もなく、私は少し飛んで倒れる。



「な……、レフ。なんで」


 上体を起こして、思わずそう叫ぶ。



「動かないで、アルマ」


 私よりも張り上げた声で、レフはそう言う。

 左足が潰れている彼は、一人では立っていることもできない。けれど、倒れ込みながらでも、彼はこちらをしっかりと捉えていた

 レフの手には聖剣。その刃を自らの首筋に当てている。

 私を押した瞬間に抜き取ったのだろう。



「レフ、なにするつもり……?」


 瞳、冷たく固い何かが宿っていた。それはまるで、最初に会った時と同じ。氷のような意思。



「アルマ、助けに来てくれてありがとう。でも、ごめん。僕はここで死ぬ。この聖剣を以って、ここで死ぬ」


「な、なんで……」


「アルマ、ごめんね。アルマが、勇者じゃなければ良かったのにね。それだったら、僕もアルマと一緒に帰ったのにね」


 けれど、その氷の奥に炎が盛っている。あの日とは違う。

 レフは小さく息を吐き出すと、落ち着いた声で、言った。



「アルマ、君はさっき、こう言ったね。貴方じゃ何もできない、って。じゃあ、何かできるのは誰?」


 それは……。

 その質問に私は視線を落として、唇を噛んだ。



「それはアルマ、君だ」


 またどこか遠くで命が消えた。誰かが守りたかった命が消えた。



「そして、アルマ。君は僕じゃ何もできないって言ったけど、それは違う」


 ポタリ。

 地面に赤い雫が落ちた。それにふと顔を上げれば、レフの首の皮を切ったせいで聖剣に血が伝いって、鍔で雫を作り、垂れている。



「僕は、世界のために、死ねる」


 落ちた雫が、地面に血だまりを作っていく。そこにまた一滴落ちて、ポタリと音を立てた。

 彼の荒い呼吸音が聞こえる。それを少し落ち着けて。



「僕は、君が勇者の責務を果たすためにどれだけ悩んでいたのかも知っている。君がもう誰の命を使いたくないのも知っている。多分、他の誰よりも。……けど、ごめん」



 湿気た夜風に私の金髪がさらりと撫でられた。



「僕は、君にその力を使って欲しい。その力を使って、人を救って欲しい」


「……嫌だ、出来ない。私には、やれない」


 震えた小さな声で、そう返す。


 私は、レフが好きだ。

 他の何よりも、愛おしい。



「アルマ。……一緒に色んなものを見たね。山も、街も、海も見たし、砂漠も見た。高原に、雪原。東西南北。長いこと旅をしてこの国の色んなところに行ったけど、行けてないところもいっぱいあるんだろうね。色んなところに色んなものがあって、そして、色んな人がいた。お金持ちから貧乏人。優しい人もいたし、そうじゃない人もいた。僕は人なんて、下らないものだと思っていたけど、君と一緒に旅をして、色んなものを、人を、人の営みを見て、そうじゃないと分かった。日々を一生懸命に過ごす人は、美しい」


 人の命の無上さをレフと一緒に過ごして私も知った。けれど、私にとってレフはそれよりも大切だ。


 ポタリと、また一滴。赤い雫が地に落ちた。


 レフの命を奪うなど、出来るわけがなかった。



「君は、僕が好きだ」


「うん、レフ。私は貴方が好きだ」


 だから。だから、レフ。

 貴方には死なないでほしいんだ。生きていてほしいんだ。


 頬を何かがなぞって、私は自分が涙を流していることに気が付いた。



「ありがとう、アルマ。けど、ごめんね」


 レフは瞳を閉じて、息を吐きながらゆっくりと開く。

 そして、彼は聖剣の刃を先程よりも強く自らの首に押しやった。



「……僕がこの聖剣を以って自らの命を絶ったら、君は僕の命を無下にはできないだろう」


 頭の中の血が全て下った感覚。

 思考は真白に落ちて、夜の闇に身体が解けたようだった。



「貴方が……。好き……だから」


 彼が自ら死を選ぶなら。

 

 勇者となった日のことを思い出す。

 今の私は、あの日の父と同じなのだろう。


 私も避けられない絶望に、抗えないのか。

 目の前で彼が死んでいくのを嘆いて、自らの無力に泣くのか。



「僕だって、自分の命は大切だ。……だけど、それ以上にここに生きる人たちの命のためになら、それを投げ出していいと思える」


 彼の目の底、燃えている。


 レフ、貴方は我儘だ。

 私はこんなに生きていて欲しいのに。

 この世界の何よりも、貴方が大切なのに。

 レフ。だから、私は貴方が好きだ。



「ごめんね、アルマ。よろしく」


 そう言った彼の手にはぐいと力が入って、自らの喉を斬り裂こうとする。


 私は、彼の手を叩いて、それを止めさせた。

 不意をつかれた彼からは聖剣が落ちて、地面に当たり、カランカランと音を鳴らした。

 驚いた彼の顔を、私は両の手で包む。


 ヒュドラに嬲られて、土に汚れ、口からは血が垂れている。




 そして私は、そっと彼に口づけをした。


 静寂。

 一瞬か、永遠か。

 彼と口づけた瞬間に時間感覚なんてどこかに失せてしまっていて、そのどちらでも同じように思えた。


 驚いて硬直していたレフの体からゆっくりと力が抜けていって、そして、私の背をそっと抱き寄せた。


 ずっとこうしていられるのであればそれが一番よかった。けれど、彼の頬の冷たさ。そして数えきれない勢いで消えていくそして、それらは、もうあまり時間がないことを私にはっきりと分からせる。彼の命も、この世界も、風前の灯火だ。


 レフの口の端から流れる血は顎の方へ伝っている。私は少し唇を放すと、彼の顎先で出来た赤い雫にそっと舌先を付ける。


 鉄の味。

 知り切っているその味に感じたのは、懐かしさ。そして、条件反射的に私の心を落ち着かせてくれる。

 それから、血の跡をなぞりあげた。口にまで辿り着くと、私は舌先を彼の中に侵入させる。そして、鉄の味に私の知らない味が混ざった。甘さと酸っぱさが混ざったそれに、私は胸が締め付けられて。


 私の口の中にはもう、充分以上の血が溜まっている。それをゆっくりと、飲み込む。喉元を過ぎて、私の一部になる。



 レフは、聖剣が殺すのではない。

 私の、一人の人間のアルマの意思が殺すのだ。


 上手く言えないけれど、私が彼の全てを手に入れた。私が彼の心を受け継いだ。他の誰でもない。この私が。


 レフからそっと、唇を離す。小さく吐いた息の音は、彼に聞こえただろうか。



「……ありがとう」


 風が吹き抜けて、濡れた頬が冷たい。

 私はレフから手を放して立ち上がり、黙って彼の横を通り過ぎた。



「好きだよ」


 彼の言葉に、返事は要らない。

 そして、涙はその場に残して、私は王都の方へと駆け始めた。




(三)



 結論から言えば、私は間に合わなかった。


 王都は月下にうねる8つ首の大蛇に蹂躙されている。

 長大な壁は一部が破壊され、街は火と煙を上げている。6割程度は最早、瓦礫だ。

 叫び声、断末魔、哀哭。それらが一つとなって、夜天を貫く。それでも、ヒュドラは虐殺を止めない。むしろ、勢いを増していく。人間を嬲り、食らい、殺す。

 王都はもうほとんど陥ちている。これからあるだろう魔物の追襲の中で、もうあれだけ長大な壁を築き、街を復興させるのは不可能だろう。人も物資も、何もかもが足りない。

 つまり、人間の滅びは、もうすぐそことなってしまったのだ。 

 だから、ヒュドラを倒そうと、最早意味のないことなのだろう。こうなってしまっては、そんなことは焼け石に水だ。精々1年、先延ばしにできるだけ。



 ――――だけど。



 だけどそうだろうと、関係なかった。

 レフはこの世界が好きだといった。この世界のためになら、命を投げ出していいと言った。私は彼の守りたい世界を、ほんの少しだろうと長く存在させるために、剣を振るう。


 それが彼の命を任された私の、アルマの意思だ。



 照らすは月光。

 流れた誰かの血が、私の行き先を示す。


 私は息を吸い込んで、その言葉を口にしようとする。

 すれば、森羅万象が私の声を聞くために黙り果てた。



「アッシュグレイ」


 呟き、響く。

 右手に収まった聖剣。絶望を斬り裂くその剣は、何の輝きもない。

 きっちりと、なんの違和感もなく握る。重さも形も全て、慣れている。試しに振ってみる必要もない。


 呟きを聞いたのであろうヒュドラは、その8つの首を私に向けた。


 16の赤い目で私を捉える。

 

 私は剣先を空に向ける。


 襲い来るそれに、私はただ振り下ろした。



 ――――「一」。



〈灰色勇者物語、完〉

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