事情
俺の家は、7回建てマンションの4階、403号室にある。
このマンションの家賃はそこそこ高いが、俺のアルバイトはそれこそ特殊だから、稼ぐのはあまり難しくない。
姉貴が死んでから、もう少し安い所へ転居を考えたが、幼い妹への急激な環境変化はあまりよろしくないのでは? という浅慮によって、住居の変更は断念した。
俺は自宅を通り過ぎると、隣の家、404号室をノックした。
はーい、という若い女性の声が聞こえて、暫くすると鍵を開ける音が聞こえて、中から若い女性が現れた。
彼女は、伊勢 瑞樹。 姉貴の親友だった人だ。
サバサバした人で、地毛だという茶髪のポニーテールと切れ長の黒い目が特徴の、所謂仕事の出来るキャリアウーマンの様な美人さんだ。
俺たちもお世話になった人で、姉貴が生きている時は、料理が壊滅的な姉貴に代わって食事を提供してくれていた。
それで瑞樹姉さんと呼んで、俺たち兄妹は、もう1人の姉として慕っていた。
現在は、俺のアルバイトの間、妹を預かってもらっている。
「遅い! もう9時だよ!」
開口一番、瑞樹姉さんからお叱りを受けてしまった。
確かに時計の針は、9:10を示していた。
「里香ちゃん、言ってたよ。お兄ちゃんまだかなぁって。もう寝ちゃったけどね。
ねぇ、アルバイトも大事だろうけど、もう少し里香ちゃんの側にいてあげてよ。
アイツが死んでから、まだ2年しか経ってないんだから」
そう言われて、思わず視線を下に降ろす。
俺のアルバイトは、危険で万が一ではあるが、身内が狙われる可能性もある。
それを回避する為に、俺はアルバイトの依頼は家から離れた所で行っている。
が、その分移動にも時間がかかる。
それで里香が寂しがっているなら、一考する必要があるな、と俺は心で思った。
「んむ…? お兄ちゃん?」
いつの間にか、里香が寝巻きを着て、目をこすりながら立っていた。
「おぉ、里香。兄ちゃんだよ。ただいま」
「ん…おかえり…」
そう言うと、里香は俺の足に抱きついた。
俺が里香を抱っこすると、里香は再び睡魔に負けて、寝始めた。
まだ小学2年になったばかりの里香は、軽くて、小さい。
「じゃあ、瑞樹姉さん。ありがとう。それからアルバイトの件は、しっかり考えておくよ」
「ねぇ、前々から言ってるけど、私があんたらの生活費も…」
「いや、いいよ。瑞樹姉さんだって実家に仕送りしないとだろ? 気持ちだけ受け取っておくよ」
瑞樹姉さんの家はあまり裕福でなく、5人兄妹の長女である瑞樹姉さんは、必要なお金以外は全て、実家に送っていた。
「アイツにあんたらを頼まれたのに…」
「いや、里香が一人ぼっちで家にいなくてすむのは、瑞樹姉さんのおかげだ。本当にありがとう」
悔しそうに上唇を噛む瑞樹姉さんに俺はそう言った。
看護師の瑞樹姉さんにとって、夜勤明けは休みたいだろうに、それを忍んで、里香を見てもらっているのだ。
感謝のしようもない。
「じゃあ、おやすみ」
「えぇ、おやすみなさい」
俺は瑞樹姉さんと別れると、隣の自室の鍵を開けて、中に入った。
広めの玄関で靴を脱ぎ、廊下の突き当たりの里香の部屋に入る。
電気を点けると、そこには小学生の女の子相応のファンシーな光景が広がっている。
俺が誕生日に買ってあげた、テディベアの置いてあるベッドに里香を寝かせる。
里香の寝顔を見ると、姉さんを思い出す。
きっと里香は、姉さん似の美人になるだろうな。
だが、それまでは、何があっても護ってみせる。
里香を見る度に俺はそう決心する。
俺はベッドから立つと、電気を消して、
「おやすみ、里香」
と言うと、部屋を出た。
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「やぁ!」
「ぶはっ!!」
リビングで飯を食っているといきなり後ろから声をかけられて、思わず食べていたハンバーガーを吐き出してしまった。
「うわっ! 汚っ!」
「お前…昼間の。確か、プルートだっけか?
なんでここにいる?」
「えー? 12時に迎えに来るって言ったでしょ!」
「もうそんな時間か」
飯を食って、風呂に入ると大体この時間になる。
「じゃあ、行こっか!」
「どこに?」
「それは行ってからのお楽しみ」
プルートは真っ白の歯を惜しげも無く見せつけながら、ニッコリ笑い、指を鳴らした。