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Unrealシリーズ

アンリアル・レイン

作者:

 退屈だ。

 毎日、毎日、彼はそう思っている。今日も決まったスケジュールを消化し、その繰り返しから抜け出そうと足掻いても何も変わらない。虚しいだけだった。

 巽理央(たつみりお)、それが彼の名前だ。十七歳、高校二年生である。

 彼自身はこの名を好いていなかった。嫌いと言うのは忍びないが、重いのだ。女の名前だからと子供じみたことは言わない。どれほど馬鹿にされても耐えてこられた。

 けれど、成長するにつれて胸の奥にあったものが溢れ出してきた。まだ大人になりきれないが、それを爆発させるような子供ではないつもりだった。そうしてはいけないとわかっている。


「――ねぇ、リオ。何考えてるの?」

 腕を引き、問いかけてくる声に理央は現実に引き戻される。

 女の園として男子の羨望を集める女子校の制服に身を包んだ少女が上目遣いに見ていた。

 名前は忘れた。どうせ、今日限りのパートナーであって、呼ぶこともない。

 マスカラを塗りたくった睫、際にラインを引いてまで大きく見せようとした目はその努力も虚しく綺麗には見えない。一体、彼女はこの汚い化粧にどれだけの時間と金を費やしたのだろう。みんなと同じ化粧をすることにどれだけの意味があるのだろうか。

 この前も同じような顔をした女子と遊んだような気もするのだが、全く思い出せない。

「あんたが退屈な女だってことかな?」

 取り繕う気にもなれず、理央は適当に言った。

 彼女が甘ったるい声で話すのは自身のことばかりで、取り入ろうとしているのは明白だった。寒くなってきたというのにスカートを短くして自慢げに見せるほど細くもない足を晒していたが、そそられるものもなかった。香水の匂いが鼻腔を突き、胸焼けしそうだ。

 今日は無理だ。急に遊ぶ気が失せて、理央は彼女に冷たい視線を向ける。

「サイテー!」

 勝手に掴んでいた腕を放し、彼女は鞄をブンッと振り回す。ぬいぐるみのキーホルダーやバッジに彩られ、学業に関係ないものばかり詰め込まれていると思しきそれは最早立派な鈍器だ。

「サイテーなのはあんたもだろ?」

 さっと避けて理央が言えば彼女はぴたりと止まる。

 顔や金、単なる遊びが目当てだというのは見え透いている。行き先も聞くまでもなく決まりきっていた。甘くとろけるデートなど必要としていない。刺激が欲しいだけなのだ。

 美少女として有名だったかもしれない彼女も聖女ではない。

「あんた、何様!?」

 浴びせられる罵声にも理央の冷めた心は痛まない。『俺様』と言われ慣れている。その通りとしか言いようがないのだ。不自由を知らず、何でも思い通りになってきた。これから先もそうなると漠然と感じている。

「わかってたことだろ? 自分だけは特別になれるとでも?」

 彼女と同じように理央も有名人である。金持ちでイケメンな遊び人、そう噂されても誇らしくも何ともない。一度きりで捨てられるという悪評もきちんと入っている。

 だから、彼女は理央がどういう人間かをわかっていながら近付いてきたのだ。理央を選んだのは彼女であって、責める資格はない。

 理央の遊びに例外はない。どんな美少女でも、つまらなければ終わりだ。ただの退屈しのぎに過ぎないのだから。

「あんたなんか……! 地獄へ落ちろ!」

 陳腐な台詞を吐き捨て、彼女は走り去る。理央はその背が遠ざかるのをただ見ていた。

 最低なことをしているのはわかっている。酷い奴だと自嘲したくなるぐらいだ。

 これから先どうなるかわからないのだ。自分の進むべき未来が見えなくて足掻いている。単純に来年には決めていなければならない進路が不安なのではない。『巽』の家名も、『理』の字も『央』の字も何もかもが重荷だ。潰されそうで、いっそ潰されてしまえばいいと思うのに許されない。だから、馬鹿みたいに虚しい遊びを繰り返してしまう。


「――冴えない言葉だったな」

 まるで理央の心を読んだかのようにその声は響く。

 人通りが少なく、誰も自分達を気にしないと思っていたところに彼女は突然現れた。

 一言で表すならば美少女、先程の彼女とは違う正統派だと言える。歳は理央とさほど変わらないだろう。艶やかで真っ直ぐな黒髪、大きな瞳、ジーンズにミリタリーなジャケットというボーイッシュな格好ながら可憐さを持つ華奢な女だった。

 だから、理央は聞き間違いだと思うことにした。それは綺麗な声だったが、あまりに淡々としていたのだ。

「私ならもっと刺激的な言葉を吐いてやるのに」

 今度ははっきりとわかる。唇が動くのが見えた。確かに彼女がその言葉を吐いている。

「退屈なんだろ? リオ・タツミ」

 ゆっくりと彼女が近付いてくる。理央は動けなくなる。思考は正常でなかった。

 彼女は理央をじっと見詰めた。そして、ニッコリと微笑む。理央でさえも魅了される美しい笑みだった。

 前に会ったことがあるか、自分に問いかけてみるが、こんな美少女を忘れるはずがない。

 過去に相手にしなかった女が全身を整形して復讐しに来たのだろうか、そんなことはあるはずがない。あまりに馬鹿げている。これは現実の世界であって、ドラマではない。劇的なことは何一つ起こるはずがない。

 ついに彼女の顔が目の前に迫る。人形のように整った顔だ。化粧はほとんどしていないだろうに魔法にでもかかったかのように動けなくなった。

 頬に触れる冷たい手の感触、ほのかな甘い香りは髪が纏っているものだろうか。

 遅れて唇の感触に気付く。キスを、されている。

 なぜ、こんなことになっているのかはわからない。けれども、このままもっと深く……そう思った時には離れてしまった。

 初めてそれを覚えた時でさえ、こんな思いにはならなかったはずなのに理央は放心していた。

 その口付けの真意を確かめたくて、ぼんやりしたまま、もう一度彼女の顔を見た理央は幸せな夢から覚めたように凍り付くしかなかった。

 剃刀のように細められ、冷たい表情はまるで氷の仮面だ。だが、彼女が仮面を付けていたとすれば、あの笑みの方だったのかもしれない。

 固まる理央を嘲笑うように彼女は酷薄に笑ったのだ。

「――お前を殺す」

 低く囁かれる声、愛の言葉などではない。甘美な響きはない。毒だと本能が告げている。

 そのまま隣を擦り抜けるように去っていく彼女を理央は目で追うことさえできなかった。金縛りにあったように動くことができないまま、ただ震えていた。

『――お前を殺す』

 脳内で繰り返す鮮烈な言葉、単なる捨て台詞ではなく、本物の殺し文句なのかもしれない。

 あれが愛のないキスだったと理央が気付いたのは、随分後のことだった。



 次の日になっても、理央の心が晴れることはなかった。余計に曇るばかりだ。

 まるで悪夢を見た後のように、もやもやとしたものが胸の内に渦巻いている。忘れられそうなところで思い出してしまう。忘却を許さないというようにあのシーンが再生される。

 理央にとっては悪い夢そのものだったのだ。現実味のない現実と、現実味のある夢を混同しているに違いないと思うことで葬ろうと一日中努力した。

 結局、昨日までと大して変わらない今日を何とかやり過ごした理央は珍しく真っ直ぐに家へと帰った。あんなことがあっては遊ぶ気にもなれない。

 一人暮らしのマンション、何も考えずに寝室へ行き、鞄を放り投げようとしたところで、ようやく異変に気付いた。

「おかえり、早かったじゃないか。今日は遊んでこなかったのか? リオ」

 彼女はベッドの上でニコリと笑んだ。昨日と同じように、まるで家族のような口振りで。

「な、なんでお前が……!」

 理央は混乱する。これも悪い夢、その続きなのか。

 どうやって入り込んだのだろうか。どうして、気付けなかったのだろうか。

「このベッドで何人の女とヤったんだ?」

「ヤってねぇよ」

 答えがないまま質問で返されて理央は思わず答えてしまう。そんな自分もどうかしていると思うが、男の部屋に上がり込んでベッドに座り込み、不躾な質問をしてくる美少女もどうかしていると思うのだ。

「家には連れ込まない趣味か。なら、悪いことをしたな。私が記念すべき第一号だ」

「心にもねぇことを言うんじゃねぇ」

 彼女は思ってもいないことを平然で言う。今まで相手にしてきた女もそうだったが、彼女の場合はうんざりするような、遊びに溺れたい気分が吹き飛ぶような不快感はなかった。

 尤も、それは怒りを感じないということではない。種類が違うというだけのことだ。

「随分ご立腹じゃないか」

「怒るに決まってるだろ!?」

 この状況で怒らずにどうしろというのか、教えてほしいぐらいだった。

 そもそも、彼女はわけのわからないことばかりだ。不法侵入に不遜な態度、昨日のキスと殺し文句――考えたところで答えを捻り出すことができない。

「何だ、童貞か?」

「そういうことを言ってんじゃねぇんだよ!」

 笑われて理央は激高した。全く笑えない。笑えるはずがない。そんなもの随分昔に卒業した。でなければ、不健全な付き合いなどできない。

「わかってる、昨日フられた女のことだってお前以上に知ってる。趣味がいいとは思わないが」

「ふざけんじゃねぇ! つーか、お前は一体何者なんだよ!?」

「私は私だ」

「答えになってねぇ!」

 全くわけがわからない。

 どこまでも可憐で女を感じさせる見た目に反して全く女らしくない口調が尚更混乱を招く。

 彼女が普通でないことだけはわかるが、正体はどこにも行き着かない。理央が理解できる域を超えてしまっている。

「あまり怒るな。うっかり殺してしまいそうだ」

「そうだ、それだよ!」

 思わぬ再会で頭の隅に飛んでいたが、彼女は昨日理央を殺すと言った女なのだ。思い返す度にぞっとする。あの殺し文句だけは本物だったと思う。

「まあ、落ち着け。私も鬼ではないから、話し合いには応じてやる」

「だから、なんで上から目線なんだよ!?」

「愚問だな。私がお前の命を握っているからに決まっているだろ?」

 彼女は悠々としている。何せ、突然現れて、キスした後に殺すなどと言うような女だ。まともであるはずがない。

「お前は一体何者なんだって聞いてるだろ!?」

「わからないか?」

 彼女はその大きな目でじっと理央を覗き込む。

「わかるわけねぇだろ!」

 わかっていたら頭の血管が切れそうなほど叫んだりしないものだ。

「現時点でお前を殺す気はない。適当に説明してやるから落ち着け」

 彼女はわざとらしく溜息を吐くが、落ち着けたならばここまで興奮していることもない。

「お前はさっきから何様のつもりなんだ! 目的は金か? 金なんだな!?」

 わからないことばかりで理央は制御できないほどの苛立ちを覚えていた。理解できないことは気持ちの悪いことだ。早くはっきりさせてほしい。

「ガキの小遣いなどいるものか」

「全身整形して出てこられたってわかんねぇんだよ!」

 あっさりと否定され、理央は叫んだ。金に違いないと思っていただけに理解不能だった。

「整形……? 何の話だ?」

 彼女の眉間に深い皺が刻まれ、いかにも予想外というように訝しげにしている。それには理央が驚いた。

「お、お前っ……俺に恨みとかあるんじゃねぇのかよ?」

 恐る恐る理央は問う。彼女は今までに会ったことのないタイプで扱い方がわからない。

「私にとってお前など何でもない。くだらない妄想だ」

 彼女は言い切った。室内には彼女と二人っきりである。その目に理央を映しておきながら全く見えていないかのようでもある。

「ひどい言い方だな」

「さっきの答えだ。私は暗殺者……と言えば聞こえはいいかもしれないが、ただの人殺しだ」

 彼女はさらりと答えるが、理央は冗談だとは思わなかった。

 彼女の目に偽りなどなく、視線だけで殺せると言っているかのようでもあったのだ。

「そっか……親父かよ?」

 急に力が抜け、理央は床にへたり込む。

 そして、彼女の唇の端が吊りあがる。肯定、ということだろう。

「言っとくけどな、親父は俺のためには絶対に動かねぇよ」

 これが父への脅しのための接触であっても意味のないことだと理央は思う。放蕩息子を人質に取られたくらいで動じるならば、あんな仕事はしていないはずなのだ。

 理央の父(ひさし)は政治家だ。央にはもう一人、息子がいる。将来有望どころか、既に出来の良さをまざまざと見せつけている長男央理(おうり)が。彼も既に政治家である。

「少しは頭も使うんだな。下半身でしか動かないと思ってた」

 彼女は感心したようだったが、理央としては嬉しくも何ともなかった。

「それしか考えられねぇだろ」

 自分を殺すために暗殺者を雇う人間がいるはずもなく、恨みの対象でないならば話は簡単だ。

「全身整形女の復讐劇を考えてたくせに」

 ニヤリと笑われても恥ずかしくはなかった。

「普通、暗殺者がやってくるとは思わねぇだろ。映画じゃあるまいし」

「それほどお前はひどいことを女にしてきたのか? 殺されても不思議じゃないことを?」

 彼女は馬鹿馬鹿しいと言いたげだが、理央の気持ちがわかるはずもないのだ。自分との遊びに夢中になってしまうような愚かな女が何を考えるのか、彼にすらわからないのだから。

「だって……親父は、親父だ。それに、人質に取られても何の弱みにもならない俺が、そのせいで暗殺者に付き纏われるなんて、まずありえねぇ」

 どんな気持ちで父を見てきたかもわかるはずがないだろう。

「随分、落ち着いたじゃないか」

「わかんねぇよ。現実味がなさすぎてどっか麻痺したのかも」

 指摘され、理央はやっと苛立ちが治まったことに気付く。

 結局のところ、全ては彼女が正体不明であったせいなのだ。

 彼女が暗殺者だとわかっても驚く気にも怖がる気にもなれない。そんな気力はもう残っていない。だから、彼女は普通ではないのだと納得したほどだ。

「さて、はっきりしたころで今日の夕食は何だ?」

「今日は……って、何でだよ?」

 普通に答えそうになって理央は気付く。なぜ、彼女がそんなことを気にするのだろうか。

「今日からここに住むからな」

「は?」

 さらりと言われて、理央はまた理解不能に陥る。それは一体どういう意味なのだろうか。

「お前を監視するため、私はここで暮らす。お前に拒否権はないが、寝るのはソファーで我慢してやるから安心しろ」

 彼女はいかにも面倒臭そうに説明し、間抜けな顔をする理央を笑う。

「ふ、ふざけんじゃねぇ!」

 理央は叫ぶしかなかった。ここで「はい、そうですか」はありえない。

「どうせ、女は連れ込まないんだろ? 困ることなどあるものか」

 困ることは大ありだ。

「どうして、人殺しと一緒に住まなきゃいけねぇんだよ!」

 なぜ、女の言いなりにならなければならないのかという思いもある。

「言ったはずだ。お前に拒否権はない。私が決めることだ」

 理央の意思などまるで無視だ。従わなければ殺すとでも言うのだろうか。


「私はレイン」

 どんな言葉をぶつけてやろうかと考えて沈黙した理央に彼女が言う。

「レイン、それが私の名前だ。よろしく、リオ」

「れいん…? れいん……」

 理央は反芻する。不思議な響きだと思ってしまうのはなぜだろうか。

「そうだ。レイン、雨だ」

 純日本風の名前だと思い込んでいたばかりに理央は呆気に取られてしまったのだ。

「変わった名前だな。最近はそんなの多いから不思議でもねぇけど……コードネームか?」

 合うような、合わないような……理央は首を傾げる。

 彼の名前も女のようだと言われ、日本人っぽいかと問われれば微妙なのだが、自分のことは棚上げである。

「雨の日に拾われた。だから、レイン。それだけのことだ」

「単純だなぁ」

「そんなものさ」

 淡々と言うレインになぜか理央の方が寂しくなる。

 理央にとって親は当然の存在だが、誰しもがそうではない。一般の家庭に生まれた平和な子供が暗殺者になるとも思えない。

「って、よろしくじゃねぇ! 騙されねぇぞ! 絶対、騙されねぇからな!!」

「よし、今晩はピザだな」

 喚く理央を無視して、レインがどこからともなく取り出したのはピザ屋のチラシ――おそらく電話台に置いてあったものだ。たまに友人が遊びに来た時に頼むためである。

「勝手に決めんな! つーか、暗殺者のくせにピザなんか食べたいのかよ……」

「暗殺者のくせにとは何だ。勝手に定義するな」

「……まあ、たまにはいいか」

 わけがわからなくとも、写真を見ていると腹が減ってきたような気がしてしまう。

 最近、食べてなかったと思えば実際に胃袋に収める様を夢想してしまう。

「わかったよ」

 理央は諦めることにした。これは自分がどうこうしようとしてどうにかできることではないのだと。

 そうして、理央とレインの奇妙な生活は始まってしまったのだった。



 数日でレインはすっかり理央の生活の一部になってしまった。

 当たり前のように彼女との朝が始まり、昼が過ぎ、夜が終わり、また朝になる。

 身の危険を感じることもなく、特別何かが変わった感じがしないのが不思議だ。どちらかと言えば護衛がついたような気がしている。歳も近い彼女との生活は妙に楽しかった。

 ただ理央が学校に行っている間だけはよくわからない。ドラマのように学校に潜入してくるわけでもなく、理央が所有する漫画を読んだりテレビを観たりして過ごしているらしかったが、それが全てでないことはわかっていた。

 レインには仲間がいるのだろうか。上司がいるのだろうか。依頼主とは会っているのだろうか。それは一体誰なのだろうか。

 疑問は雨のように理央に降り注ぐが、レインにぶつけることはできそうにない。

 きっと、もう後戻りできない状態になってしまっているが、袋小路に追い込まれてしまいそうで、理央はレインの仕事のことを興味本位では聞かないことにしていた。

 けれど、疑問の答えの一つは勝手にやってきた。


 その日、理央はレインと街に出ていた。休みの日に家でダラダラしているというのも退屈で、外に出ようとしたらレインもついてきたのだ。

 まずは腹ごしらえだと入ったファストフード店で、シェイクを飲んでいたレインは不意に理央が残したフライドポテトをつまんで顔を顰めた。

「リオ、お前はよくこんな不味いものを食べられるな。金もあって、食糧にも困らないのに、なぜ、わざわざ食べる?」

 勝手に食べておきながら、ひどい言いようだ。まさか食べたことがないとは言わないだろう。理央のイメージではジャンクフードばかりを好んで食べるイメージであった。それとも、高級料理ばかりを食べていたのか。

 思い返せば、ピザを食べた時にも冷めたピザに文句を言い初め、理央が電子レンジで熱々にしてやったものだ。その時は配達にかかる時間のこともあり、変だとは思わなかった。

「ポテトが冷めると急速に不味くなるのは常識だろ。熱々を食べなきゃ美味しくないよ」

「だから、五分後に世界が終わるみたいに慌てて食べてたのか。健康状態が良好過ぎるお前が飢え死にするわけでもあるまいし」

 レインが冷めた視線を送ってくるが、痛くも痒くも何ともない。早食いがみっともないとも思わない。食事のマナーというものを叩き込まれたことはあるが、守ったことはない。

 小さなシェイクをいつまでもチビチビと飲んでいるレインの方が変だと思うほどだ。

「あのな、ファストフードってのは、ファストに食べるから美味いんだよ」

 理央は妙に勝ち誇った気分だった。ほんの小さなこと、くだらないことかもしれないが、優越感がある。暗殺者は全知全能ではないのだと感じられるからなのかもしれない。

「ファストフードは寿命の減りをファストにするぞ」

 レインは言い返したつもりらしい。理央はニヤニヤ笑いを止められなかった。

「身体に悪いものは美味い。自分の健康を顧みない人間だけがジャンクを食べていいんだ」

「……デート代をケチる男は嫌われるぞ」

 レインは唇を尖らせる。悔しいのかもしれないと思うと自然に笑いが口から零れる。

「さっきから何がおかしい?」

 レインが睨むが、全く怖くなかった。多くの人がいる店の中でシェイクを手にしていると彼女は本当にただの女の子だ。

 暗殺者としての気迫は騒音に削がれてしまっているのかもしれない。

「デートじゃないだろ。俺は金があるからって女にフレンチ食べさせたり、ホテルのスイートに連れ込んだりしないし、高いアクセサリーも贈ってあげない」

 デートだったら楽しいのに、そうではない。

 理央はデートに金をかけない主義だ。長続きしないことはよくわかっている。貞淑な乙女のように見えてもフィルターがかかっているからに過ぎず、すぐに嫌な面が見えてきくる。だから、絶対に入れ込まないと決めているし、溺れさせてくれるような相手も存在しない。

「――どうせ、知ってるんだろ?」

 その問いの答えは笑ってはぐらかされてしまった。けれど、忘れたつもりはない。彼女は自分のことを調べ尽くしているのだと。


 食事の後は適当に立ち並ぶ店を見て回る。元々、目的のない外出だった。ウィンドーショッピングも気分転換になるだろう。何件か巡ったところで、レインが突然理央の腕を引いた。

「リオ、買ってくれ」

 彼女が指さすのは、ショーウィンドーの中でマネキンが着ている可愛らしいワンピースだ。流行らしいピンクの花柄でふわりとしたシルエットのそれをレインが着ているのを想像してみるが、どうにもしっくりこない。

 今日も彼女は安っぽく、そして、小汚いと言われても仕方のない格好をしているのだ。

「そんなのを着るのか?」

 理央は半眼でレインを見た。冗談だと思ったのだ。

「さっき、食事代をケチっただろ? 当然の報いだ」

「当て付けはやめてくれよ。絶対着ないだろ?」

 似たような物を他の店ではもっと安く売っているだろうに、随分とブランド料を取るようだ。店名をどこかで見たような気もする。雑誌を片手にねだられたことがあったかもしれない。

「ケチって私の機嫌を損ねるのは賢明じゃない」

「そういう服が着たい気持ちはわかってやることにするから、もっと安いのにしよう。な?」

 妙な身の危険を感じて理央は説得にかかる。気分は凶悪な殺人犯に立ち向かう交渉人ではない。我が儘放題の彼女を何とか懐柔しようとする情けない彼氏だ。

「これがいいんだ。どうしてもこれがいい」

「どうせ、高い報酬貰ってんだろ? それとも、いつもターゲットにたかってるのか?」

 すっかり呆れて、理央はうっかり踏み込まないと決めていたことを口にしてしまう。

 だが、また笑ってはぐらかされた。

 レインはさっと店の中に入り、同じワンピースを掴むと真っ直ぐにレジの方へ向かったのだ。

「あっ、おい! 待て!」


 結局、理央にワンピースを買わせ、別の店でそれに合う鞄、靴までねだったレインはご機嫌に見えた。他の女にはここまでしないのに、と思うものの楽しいのも事実だ。

 次はどこに行こうか、と理央は考える。浮かれていたのかもしれない。

「行きたいとこはあるか?」

 問いかければ、レインがピタリと立ち止まる。それから、振り返った。

「――レイン」

 その声に理央も振り向く。理央が発したものではない。

 若い男だった。おそらく自分よりも年上だろう、と理央は観察する。

 背は百九十近くあるだろう。平均並みの身長を持つ理央が見上げなければならないほどだった。服の系統はレインと同じようにミリタリー風だが、彼女以上に金をかけているのは間違いない。ただ小汚いのではなく、スタイリッシュで、それが彼の良さを引き立てているようなのだ。彼は日本人離れした顔立ちをしていて、金に染めた髪はまるでライオンのような風格を醸し出している。服の上からも引き締まった肉体がよくわかる。

 初対面の人間をジロジロと見るのは不躾だが、そもそも彼の視界に理央は入っていない。ただ真っ直ぐにレインだけを見ている。

「……レオ、そっちの仕事はいいのか?」

 理央はレインを観察した。仲の良い友達という風ではない。その表情は険を孕んでいる。

「ああ、問題ねぇよ」

 レインの問いにレオはぶっきらぼうに答えた。そういう男なのだろう。この男の方が理央の持つ暗殺者のイメージに近い。

「レイン、この人は?」

 二人の世界に入られるのも癪で理央は聞いてみたが、大方想像はついている。

「私のパートナーのレオ。拾われた時、人食いライオンみたいだったから、レオだそうだ」

 パートナー、胸の内で繰り返せばチクリと痛む。

 彼がレインの暗殺者仲間であることは見た時にわかった。恐怖はない。他の答えを期待していたわけでもない。ただ、パートナーという言葉がとても特別なものに思えたのだ。

「こいつは、アレだろ?」

 レオが理央を一瞥する。まるで物を見るように暖かみの欠片もない。

「まあ、情を移すこともねぇか」

 レインは答えなかったが、レオは続けた。

 その言葉は理央の胸に突き刺さる。だが、その冷たい視線も言葉もあの人には及ばないと理央は思う。『あの人』は暗殺者ではないのだが。

「またすぐに一緒にいられるようになるな、レイン」

 理央には当てつけに感じられた。実際、そうなのだろう。彼はレインが好きに違いない。

「女々しいことを言うなよ」

「だって、俺ら、ずっと一緒だっただろ?」

 レオがニヤッと笑った気がした。その目がお前は所詮ターゲットの息子だと言っているようだ。被害妄想なのか、実際そういう意味が込められているのか理央にはどうでも良かった。

 気付いてしまったのだ。いくら理央がレインを可愛いと思おうとも、もう一度キスをしたいと求めても、ずっと一緒にいたいと願っても、彼女は簡単に自分を殺せるのだ。心も体も打ち砕くことができる。彼女がくれたあの冷たいキスは死の口付けだったのだから。



 レオに会ってから理央の心は冷めていった。浮かれていた自分に気付いてしまったのだ。

 レインは『殺す』と言って、死の口付けをしてきた。だから、どんなに理央が彼女を好きになっても、その逆はあり得ない。

 家にも帰り難くなった。自分の家だというのに変な話だが、できるだけ彼女と顔を合わせる時間を減らしたかった。そのために、大して絆もない友人と遅くまで遊んだ。気を紛らわそうとしたが、何も面白くはなかった。思い浮かぶのはレインのことばかりだった。


 理央が帰れば、レインがベッドを占領していた。周囲には何となく買ったものの、ほとんど遊んでいなかった携帯ゲーム機や漫画が転がっている。

 テーブルの上にはカップラーメンの残骸がある。食べて帰ると連絡したから勝手に食べたのだろう。ポテトチップスの袋も転がっている。

 そうしていると、彼女は本当に普通の女の子に見える。自分に負けず劣らず無為な生活をしているような気がして滑稽だった。


 ベッドに近付くとレインはゴロンと転がって理央を見上げる。

 仰向けになったせいで髪がはらりと落ちて耳が顔を覗かせた。銀色のドクロが理央を見る。ピアス――小振りだが、女性向けとは思えないものだ。

「随分ごついピアスしてるんだな」

 可憐な顔立ちに反してハードなレインなら不思議ではないが、気になってしまった。

「ああ……あいつと同じだからな。趣味が悪いだろ?」

 聞かなければ良かったと理央は内心思う。あいつというのは一人しかいないに違いない。

 彼が同じ物を付けている様が容易に浮かんでしまう。

「レオと?」

 否定してくれと思いながら問えば、レインは頷く。

 手を伸ばしてみたが、ピアスがあるのは、その左耳だけだった。

「何か同じものを持っていたいと言うから、仕方なく片方だけ貰ってやるんだ。でかい図体してるくせに、女々しい奴だろ? 昔からそうなんだ」

 レインは笑うが、理央は笑えない。彼の情を思い知らされた気がする。

 レオはレインが好き。だから、どこにいても何をしていても、ささやかながら確かな主張をするのだ。一組であるものを二つに分けてこそ意味があるのだろう。

 今、レインの側にいるのは理央だが、それは彼にとって障害にはなりえない。ターゲットの家族である以上、きっと殺されてしまうのだ。やがて死んでいく存在、それだけに過ぎない。

 そう思っても、悲しいのには別の意味があった。


 レインは起き上がる。艶やかな髪の毛はぐしゃぐしゃになっている。ほとんど一日中、ベッドの上にいたのだろうか。

「楽しんできたのか?」

「まあ、な」

 本当のことは答えられなかったが、曖昧にしてもレインは追及しないとわかっていた。

「楽しめる内に楽しんでおけ」

 レインは何気なく吐いたのかもしれないが、その言葉は重くのしかかってくる。胃の辺りを圧迫する。

「その内、楽しめなくなるから?」

 聞かない方がいいに決まっている。そう思いながらも理央は聞いてしまった。

「そういうことになるんだろうな……」

 歯切れの悪い答えに一体どんな意味があるのかわからなかった。

 悔しくて、悲しくて、苦しかった。



 何事もなく時は過ぎ、それが理央を不安に駆り立てる。

 いつまでこの日々が続くのか。いつまで一緒にいられるのか。いつまで生きていられるのか。

 母からの連絡がそれを増長させる。離れて暮らしていても、たまに連絡を取るのだ。家の方も特に変わった様子もないようだった。


「親父に脅しをかけているつもりなのか?」

 通話を終え、理央は問いかけてみた。

「そうかもしれない」

「おびき寄せられるとでも思ってるのか?」

 ターゲットが父の方だったとして、自分の側にいることは無意味だと理央は断言できる。

「どうだかな」

 はっきりしない答えに理央は「わけわかんねぇ」と漏らす。近頃のレインが精彩を欠いているような気もする。

『――お前を殺す』

 慣れてしまったのか、あの時のような鋭さを感じられない。

「なぁ、いつまで一緒にいられるんだ?」

 我ながら馬鹿な質問だとは思っていた。仕事のことについては聞かないことにしようと決めたのに自棄になっているのかもしれない。

 自分を殺すと言った相手と一緒にいたいというのは滑稽だが、レインといると落ち着くのだ。

「何だ、私に惚れたか?」

 レインはフッと笑うが、笑い事ではなかった。全く笑える話でないのが現実だ。

「そうだと言ったら?」

 理央はほのめかしてみる。自分がレインを試すのは変だとわかっているが、悔しいのだ。

 自分だけが振り回されているということが。

「おおよそ恋というのは勘違いだ。真実の愛があるとして見付けられる可能性は限りなく低い。誰もが巡り合えるなら、この世は平和だ。そう反吐が出るほど平和な世界になってしまうさ」

 哲学者になったつもりか、理央は声には出さなかった。

 彼女の年齢を聞いたことはないが、大して変わらないだろう。暗殺者として全く違う道を歩んできても生きてきた年月が倍も違うわけでもない。だから、恋愛を語られてもしっくりこないのだ。そもそも、彼女は誰かに愛されることがあったのだろうか。

「暗殺者も存在しないってことだよな?」

「そう、きっと、私という哀れな存在も生まれないさ」

「雨の日に拾われて安直な名前付けられたりも?」

「本当に愛されて生まれてくるのなら、ないだろうな。自分の名前を知らない子供など生まれるはずもない。真実の愛は永遠らしいからな」

 彼女には本当の名前というものが存在しないようだ。

 けれど、それ以上理央は踏み込もうと思わなかった。もっと聞きたいことがあった。

「俺を殺したら、どこに行くんだ?」

 聞いても意味のないことだろう。死んでしまえば聞くことも、見ることもできない。

「わからない。私達はどこへでも行く」

 レインの仲間が何人いるのかは不明だ。聞いて教えてもらえることでもないだろうが、『私達』には最低でもレオが含まれている。

 彼はレインとずっと一緒にいられるのだ。本人が言っていたように、今までがそうだったように、これからも。彼はレインにパートナーとして、その存在を認められているのだから。

「いつになったら、俺を殺すんだ?」

 ついに核心に触れてしまった。それは一番聞いてはいけないことのはずだった。

「自分の残り時間が知りたいのか?」

「違う。レインといられる残り時間だ」

 笑われようと理央は本気だった。知ってしまえば少しは後悔なく今の時間を生きられる気がした。余命を宣告された患者のように旅立つ準備ができる。

 けれど、レインは声を上げて笑った。彼女がそこまで笑うことは珍しい。

「馬鹿な男だな。私といたって何もいいことなんてない。私が消えればお前は清々する。今までのことは全て夢だと思って、いずれ忘れる」

 淡々とレインは言うが、彼女はきっとわかっていないのだ。理央の気持ちが本気であることをわかろうとはしないのだ。理央を馬鹿にした犯人は彼女以外にはありえないと言うのに。

 『殺す』と言われたことが嘘になる。それは今の理央にとっては最早嬉しいことではない。

「いやだ、離れたくない!」

 まるで子供だと理央自身もわかっているが、側にいられるなら子供のままで構わない。

 レインは固まっていた。急に無表情になって、理央は少し怖くなる。煩わしくなったのだろうか、ついに殺したくなったのか。

 暫く彼女は瞬きさえしなかった。それから急に顔を歪めて、自分の髪をぐしゃりと掴む。

「……まいったな、こんなのは初めてだ」

 彼女は迷っているように見えた。そう思いたいだけなのかもしれない。

「……何人もの要人暗殺に関わってきただが、今回のようなのは初めてだ。私も戸惑っている」

 ゆっくりとレインが語り出すものの、半分は嘘のような気がして理央は首を横に振った。

「そうは見えない。俺だけが一人で馬鹿みたいに振り回されてる」

「私はプロだからな」

「そんなのずるい」

 レインの感情は理央には見えない。きっと、自分の感情は筒抜けであるはずなのに、フェアではないと感じる。暗殺者に公平さを求めること自体が大きな間違いなのだろうが。

「お前はとても面白い男だな、リオ。初めてだよ」

 目を細めて、レインが笑う。レオとは違うと言われているようで、理央は少しだけ誇らしく感じられた。

「お前は俺を退屈させないよ。いい意味でも悪い意味でも」

 初めて会った時、レインは問いかけてきた。

『退屈なんだろ? リオ・タツミ』

 彼女は本当に刺激的だ。

「安心しろ――お前は私が守る。必ずだ」

 急にレインは真剣な顔をする。いつも凛々しく感じられるが、違うのだ。それが混乱を呼ぶ。

「それって、どういう意味だ?」

「お前は何も気にしなくていい」

「だって、俺を殺すんだろ?」

「知らなくていいんだ。知るべきじゃない。いや……知ってほしくないのかもしれない」

 なぜ、今更守るなどと言うのか。なぜ、自分を部外者にしようとするのか。

「お前の側にいてやるってことだ。素直に喜べ。いや、泣いて歓喜しろ」

 からかわれているのか。

 今日のレインは何か変だ。理央にもわかるほどだったが、それ以上は何も聞けなかった。



 真相を聞こうとしてははぐらかされ、日々理央の心のもやもやが増えていく。

 こんな状態で一緒にいたいわけではないが、いなくなられるのも嫌で耐えるしかなかった。

 また母から電話がかかってくれば、今度こそ父に何かあったのではないかと思ってしまう。

「もしもし? 理央?」

 いつもと全く変わりない明るい弾んだ声だった。

「何? 母さん。この前、話したばかりだろ?」

「パパがたまには帰ってこいって言っているのよ」

 理央は不安になる。今まで父にそんなことを言われたことはなかった。否、母が勝手に言っているだけなのかもしれない。

「別に家出してるわけじゃないし、ちゃんとこうやって連絡とってるだろ?」

 一人暮らしすると言った時、『好きにしろ』と言われただけで喧嘩したわけでもない。直接話すことはないが、十分だと思っていた。忙しいのだから自分に構っている暇などないだろうと。

「理央から電話してきたことないじゃない。メールだってあんまり返してくれないし……」

 何を言いたいのかわからない絵文字だらけのメールを思い出せば頭が痛くなる。

「母さんは俺にマザコン息子になってほしいわけ?」

 同じようなメールを返せば満足するのか。毎晩、その日のことを伝えればいいのだろうか。

「そうじゃないけど……」

 小さくなる母の声の向こうで父の声が聞こえた気がした。

「あなたは私達の息子だもの。帰ってくるのは当然でしょ? 今度のお休みに会いたいって」

「何だよ、急に」

 本当に急すぎる。自分の死期を知ってしまったのではないかと理央は内心ドキドキした。

 本当に父がかけさせているのだと確信するが、替わってくれとも言えない。

「それでね、パパが友達を連れておいでって言っているのよ」

「友達?」

「そう、最近一緒にいる子? 女の子なの? 長い黒髪の」

 また電話の向こうの父が何かを言っているようで、不思議そうな母の声に理央は心臓が跳ね上がるのを感じた。これが電話で良かった。おそらく自分の動揺は伝わっていないだろう。

「な、何で親父が知ってるんだよ! 監視は付けないって約束だろ?」

 監視しないこと、干渉しないこと、それが父と理央との約束だった。

 偶然見かけた、聞いたということがあるだろうか。父が知るはずもないことだと理央は思う。

「お付き合いしている子がいるなら教えてくれればいいのに。母さん、悲しいわぁ」

「友達だって!」

 それも違うが、同棲していても付き合っているわけではない。同棲の事実は知らないか、言わないだけかはわからないが。

「あら、ムキにならなくてもいいわよ。母さん、どんな子でも反対しないから」

 この母ならば、どんな人間でも受け入れてしまうだろうが、これはそんな話ではない。

「あ、あのさ、兄貴は?」

 こうなった以上、回避するという選択肢はないだろう。だから、家に帰るのは仕方がないとして、一つだけ心配なことが理央にはあった。

 本当に父が自分の死期を悟って家族を勢揃いさせてしまうことだ。

 いつお迎えが来ても不思議ではないと自ら言う祖父母はいいが、兄だけは困るのだ。兄も嫌がって必死に絶対外せない用事を作るだろうか。否、その兄も母には逆らえない。

「央理は忙しいのよ」

「そう……」

 ほっとしたなどとは言えない。母に自分の気持ちはわからない。わからなくていい。

「じゃあ、ご馳走作って待ってるからね」

 母の声は本当に楽しそうで、理央の心は反対に重くなる。


 レインに話すのも気乗りがしなかったが、近くにいた彼女は既に察しているだろう。

「あのさ、親父がお前を連れて遊びにこいって言っているんだ」

 疑問は残るが、言うしかなかった。隠すことはできない。

「いいだろう。行ってやろうじゃないか」

「……お前、チャンスとか思ってないよな?」

 父と会うことはレインにとって好機、理央にとっては最悪の事態だが、彼女は何も言わない。

「……母さんの前では殺すなよ」

「何だ、ママの前じゃなければ殺していいのか?」

 父の暗殺が避けられないものでも母には傷付いてほしくない。父が死ねば傷付くのは当然のことで、あってはならないことだが、それでも……と思わずにはいられないのである。

「死ぬ時は皆一緒かも知れないだろ?」

 悪役めいた笑みをレインが見せる。だから、理央も真似してみる。

「一家心中か?」

 この前の言葉の真意を確かめたいのもあった。本当に自分を守ってくれるのだろうか、と。

「巽央理がいないのが、残念だがな」

 一家心中には役者が足りないが、兄がいるなら自分は必要ない。どちらか一人でいいと理央は思い込んでいる。初めから自分がいなければ全てが上手くいったに違いないのだから。



 心変わりの電話を待っても無駄で、約束の日はすぐにきてしまった。

 レインは「かの有名な巽央に会うのに小汚い格好はできないだろう」と言って以前理央に買わせた服を着ていた。彼女がそれを着るのは初めてのことだった。

 母好みの清楚な美少女が今隣にいるわけだ。理央としては複雑な気分である。

「よく来てくれたね。理央の父の央だ」

 実際に会ってみても何を考えているかわからない父がレインに笑顔を見せるのを理央は隣で見ていた。嫌いな笑顔だ。けれど、仕方がないのだろう。それが貼り付いてしまっているのだ。

「母の理子(あやこ)です」

 満面の笑みで迎える母の存在が救いだったのかも知れない。

真田(さなだ)レインです」

 レインも応えるように恐ろしいほどに可憐な笑みを見せた。

 そもそも、名字があったとは聞いていない。あるとも思っていなかった。まさか、昨夜夢中だった戦国物のゲームからか。真田幸村の真田なのか、聞いてみたいが、機会は得られない。

「可愛らしいお嬢さんじゃないの、理央。いつからお付き合いしていたの?」

 ずいっと詰め寄ってくる母に理央は思わず一歩退いた。

 マイペースで、四十を過ぎても少女でいるかのようで、これにはレインも困っているようだ。

「だから、違うって!」

「リオは本当に照れ屋さんで……でも、いい子なのよ」

 理子はレインの手をがっちりと掴んでいる。それが理央に複雑な思いを抱かせているとも気付かずに。

 理子の手は慈愛に満ちた母親の手、対するレインの手は人殺しの手だ。理央も実際に彼女が人を殺したところを見たわけでも、武勇伝を聞いたわけでもないが、本当だと信じている。

「理子、お客様が困っているぞ」

 ようやく央が助け船を出した。

「あら、私ったら、うちには女の子がいないものだから嬉しくって……! 今日はゆっくりして行ってね! 理央と一緒にお泊まりしていくのはどうかしら?」

 すぐには帰してもらえそうにないと理央は思い知る。長い一日になりそうだ。


 用意された料理は度を超えていた。誰が食べるのだろう。理央は周囲を見回す。父と母、それから自分とレイン、四人しかいない。

 とにかく母は浮かれているのだが、父はたまに一言二言喋るくらいで変わった様子はない。

 だが、平穏は長く続かなかった。

 食事中、急にレインが立ち上がり、カーテンを引く。そして、央の腕を掴んで窓側から引き離し、扉の方へと突き飛ばすようにして追いやる。

「地下の部屋に隠れろ」

 レインの低く鋭い声、央に腕を掴まれ、理央の混乱はひどくなる。何も起きていないのに何かが起きている。

「早くしろ! 本当に一家心中する気か!?」

 レインが声を荒らげる。その手には何か黒い物が握られているようだが、わからなかった。母と共に腕を掴まれ、引きずられるようにして部屋を出れば扉の閉まる音と同時に窓が割れる音と銃声を聞いた気がした。


 地下室にいる間、理央は震えていた。父は「大丈夫だ」と繰り返すばかりで何も言ってくれない。母に抱き締められると涙が出そうになる。

 早めの反抗期としてその温もりを拒むようになったのも兄のためだった。

 どれくらい経ったかもわからなくなった頃、地下室に入ってきたのはレインだけではなく、レオも一緒だったが、何の説明もない。

 レインは央と理子に暫くホテルに滞在するように促し、護衛としてレオを付けるとも言った。

 理央はレインと帰ることになったが、帰り道もずっと混乱していた。

 帰り際見た時、ダイニングの窓は割れ、母のお気に入りのカーテンは裂かれて、御馳走は無残な姿になっているのがわかった。

 何があったのか、レインは言わなかった。なぜ、地下室を知っていたのかもわからない。


 家に帰ってからも小さな震えが治まらず、理央は頭を掻き毟る。

「何だよ、何なんだよ……」

「言っただろう? お前は私が守る」

「わけわかんねぇよ! お前は俺を殺しにきたんじゃねぇのかよ!?」

 レインは『お前を殺す』と言った。なのに、守ると言ったり、わけがわからない。

 今こそ、はっきりさせなければならない。理央は思ったが、レインに抱き締められて何も言えなくなった。

「大丈夫だ、リオ。私がいる」

 レインは理央の額に口付ける。そうすることで恐怖を拭い去ろうとするかのように。

 そうして、理央は泣いた。わけもわからずに泣いた。

 怖かったのだ。自分の知らないところで何かが変わり始めているからと知ってしまったから。



 レオは毎日理央に連絡をくれた。ショックはあるものの、両親の無事を聞けばほっとする。

 理央はレインと一緒で、特にそれまでと変わらない日々を送っていた。

 そのレインはいつになく険しい表情で銃の手入れをし、腰のホルスターに収める。こんなに物々しいのは初めてで、この前撃ったのか、聞ける雰囲気ではない。

 それから、レインはどこからともなくナイフを取り出す。まるで鏡のような刀身に映る自分を見詰めるかのように。手慣れているのがよくわかる。その目もまた刃に似ている気がした。

「レイン」

 動かないレインに理央は声をかけてみた。彼女が迷っているように見えたからだ。

「……妙なんだ」

「え?」

「何かがおかしい」

 やはり彼女は困惑しているようだった。

「……お前の他に親父を殺したい奴がいるってことか?」

 理央は必死にレインの言葉の意味を考えてみた。レインはターゲットであるはずの央を守ったことになる。自分の獲物だから他人にはやらせないのか、真実はわからない。けれど、今もレインのパートナーのレオが二人を守っている。それもビジネスなのか理央にはわからない。

「私は調べたいことがある。少し離れるが、必ず戻ってくるからな」

 理央の心など見透かしているだろうに彼女はナイフをどこかにしまって立ち上がる。

「お前は安全だ。誰にも殺させない。この私がついているんだ」

 聞きたいのはそんなことじゃない。そう思うのに彼女は出て行ってしまう。理央の頭上に疑問の雨を降らせたまま容易に追及を逃れる。

 彼女はやはり夕立に似ている。急に降り注いで、去っていく。頭上に暗雲をもたらし、ゴロゴロと雷を鳴らす。これはゲリラ豪雨だ。



 マンションを出たレインは周辺に張っていた仲間からの目配せにうんざりした。

 頼むのは不本意だったが、借りを返してもらう時期でもあった。きっと、今でなければ一生返してもらうことはない。

 自分でも危険がないか慎重に探りながらレインは情報が得られそうな場所を目指した。

 街は忙しない。一人の少年が翻弄されていることなど知りもしない。

 喧噪はレインには平和だ。堕落の臭いに紛れて自分の闇の臭いに気付かれることはない。

 だが、腐敗臭の中の微かな獣の臭いに気付く獣がいる。同じ匂いの染み付いた獰猛な者が。


「よお、〈雨女〉」

 友にでも接するような気安さでその男は声を掛けてくる。

 年上はレインよりも上、セミロングの漆黒の髪を跳ねさせ、ファーのついたレザージャケットを纏ったワイルドな印象の男だ。レインに言わせれば獣の皮を被った獣なのだが。

「そう呼ぶのは止めろ、不愉快だ。〈黒豹(ブラック・パンサー)〉」

 レインは彼を睨む。殺気を見せないが、この男がいつでも自分を殺せることを知っていた。自分にとっても同じことだからだ。

「じゃあ、今度から〈アメフラシ〉にしてやろうか」

 彼は笑う。余裕と確信があるからこそ、こうして自ら絡んでくるのだ。

「言い間違えた。お前の存在が不愉快だ。消えろ、クロサキ」

「ヒョーゴでいいって言ったのに、相変わらずお堅いね」

 〈黒豹〉ことクロサキ――黒崎兵吾はレインと同じく暗殺者だが、属する組織が違う。協力関係にあるわけでもなく、殺し合いも有り得る。そういう危うい関係を彼は楽しんでいる。


「お前は今回の件、どう見てるんだ?」

 路地裏に移動して兵吾は問いかけてくる。彼が知っていることには驚かない。先日、巽邸を襲撃したのが彼と同じ組織の人間だということはわかっているからだ。

「私は任務を遂行するだけだ」

「いいことを教えてやるよ」

「必要ない」

 レインは即座に返す。誘惑に乗るつもりはない。答える義務も情報共有の必要もない。

「そう言うなよ」

 兵吾は大仰に肩を竦めて笑う。この男の全てはわざとらしい。

「お前の利益はどうなる?」

「心配ありがとよ」

 自分の組織の情報を漏らせば不利益があるはずだが、彼は尚も笑い続ける。

「俺はこんな不毛なことでお前と殺し合いはしたくねぇんだ」

 友を失いたくないとでも言いたげだが、心を痛めているような口振りに惑わされはしない。

「やっとお前を殺す理由ができるということか」

 今度こそ殺し合わざるを得ないということになるのだろう。面倒臭い人間は少ない方がいい。

「ったく、殺し合いが好きなんて、どうかしてるぜ。こんないい男を前に裏切りの一つや二つ、考えてみたらどうだ?」

「言っただろ? クロサキ、お前は不愉快だ。非常にな」

 彼は軽薄な男だ。それでいて底が見えないからこそ不愉快なのだ。

「お前の護衛対象だが……幸せにはなれねぇぜ。どの道、誰かは死ぬ」

 物事の裏の裏まで嗅ぎ付けるのはやはり獣のようだ。兵吾のそういうところをレインは苦手としていた。単なる冗談ではないと自身も感じるからこそ嫌になる。

「お前のところと私のところで動いているんだから仕方ないだろ」

 二つの組織が動いている現状で物事が平和に解決することはまずありえない。

「まさか、偶然だなんて思っちゃいねぇだろうな?」

 巽央は悪人ではないにしても、人間はどこで恨みを買うかわからないものである。だが、この状況はおかしいとレインは感じている。

「不愉快極まりねぇ話だ。お前と被るなんてよ」

 不満げに兵吾は言うが、両雄とは並び立たないものである。このまま裏社会のトップに君臨する二つの組織が共に存在し続けることはまずありえないだろう。

「お前を殺せば済むだけだ」

 遅かれ早かれ殺さなければならなくなるとレインは感じている。潰し合いに応じる気配が組織にあるからだ。

「なぁ、本当の依頼はどっちだろうな?」

「本当の依頼、か。どちらかがダミーで、私達を衝突させたいとでも?」

「わかってんだろ? お前の依頼主」

「知るべきではない」

 この男は本当に面倒だ。誘惑に負ければ何もかも失ってしまう。抗うことだけが最良のコミュニケーションであり、護身術だと気付いたのはいつだっただろうか。

「お前ならわかってると思ってたよ。わかってて、踊ってるって」

「買いかぶり過ぎだ」

「お前のことならわかる。だから、何かあったら言え。協力してやる」

 ニッと笑う兵吾にレインは溜息を吐きたくなった。協力などありえない間柄だ。

「お前がそんなに死にたがりだとは知らなかった」

 レインは呆れてみせた。ちょっかいがエスカレートしていることはわかっていたが、気に入られて嬉しいタイプではない。しかし、今日は何かが違う。それも作戦なのか。

「気に食わねぇんだよ。お前もそうだろ? こっちだって本気で動いちゃいねぇし」

 よく喋る男だが、不用意ではない。それでも今日は自棄になって情報を垂れ流しているようにも見える。

「まったく、お喋りな男だな。そんなに喋りたければ、ダム決壊のきっかけを作ってやろうか?」

 レインはホルスターから何度となく彼に向けてきた愛銃を抜き、銃口を膝に向ける。

 これ以上、付き合うつもりはないという意思を表していたが、無駄だった。

「俺はゲロしねぇよ。愛の言葉なら声が嗄れるまで叫んでやってもいいが……お望みなら、案外純情なお前が耐え切れないほど卑猥な言葉を吐き続けてやろうか?」

 この男は素人ではない。どんな拷問にも屈しないだろう。それこそ、有言実行しかねない。

「巽理央、あいつに惚れてるんだろ?」

「そんなんじゃない」

「まあ、いいんじゃねぇの? あの猛獣が許してくれねぇと思うけど」

「お前は本当にむかつく男だ」

 本当は最初から何もかも知っているから不愉快なのだ。

「お前がいつまでも強がってくれちゃうから、つい可愛がりたくなるんだよ」

「殺し合いが好きなのはお前の方じゃないのか?」

 こうして話すのはこれが最後なのかもしれないと思いながらレインは問いかけてみた。無駄なことだとはわかっていたが、気の利いた別れの言葉が浮かぶはずもない。

「まだまだお前とは遊びの関係でいたいんだよ。お前がいるって思うだけで俺はかなり興奮できるからな」

 勢いに任せて危険な遊びに身を投じる若者のような無謀さがまだ彼の中にもあるかもしれない。麻痺する感覚の中で、それだけが鋭い痛みを与えてくれるのだろう。



 レインが理央のマンションに帰ってきたのは夕方だった。

 その手には食欲をそそる臭いを部屋に充満させるビニール袋、駅前のタコ焼き屋のものだ。シュークリーム屋の紙袋もある。

「土産だ、食え」

「あ、ああ……さんきゅ」

 頼んでもいない、そんなことを聞きたいわけでもないが、理央は誘惑に勝てなかった。

「調べものは済んだのか?」

 話題を探そうとしても見付からず、聞くべきではないことを聞いてしまった。

「……本当にこんなのは初めてだ」

 レインは顔を顰める。一体、何があったのかと理央は思うが、教えてくれないだろう。

「まさか、御家騒動……いや、ただの親子喧嘩に巻き込まれるなんてな」

 何のことか理央にはわからない。わかるように話してくれないのだから。

「飯時にする話じゃなかったな。だが、安心しろ。もうすぐ終わるさ、何もかも平和にな」

 これ以上この話題は止めた方がいい。理央は判断する。流されるしかない蚊帳の外の当事者は終わりが不穏なものにしか思えなくても、それを受け入れるしかないのだ。


 その夜、理央は夢を見た。

 レインがいなくなる夢、否、レインが現れる前に戻る夢だ。レインがいなかったことになるのが怖くて仕方がなかった。いつから、これほど臆病になったのか。今はレイン以上に価値のあるものを知らないと言える。安定剤のようなものであって、それを失ってしまうのはとてつもなく怖い。そうなるくらいならレインの手で殺された方がずっといいと思うのだ。

 跳び起きて、リビングに駆け込めばレインが笑う。

「何だ、リオ。怖い夢でも見ておねしょでもしたか?」

 いつもと同じだと思ったが、違う。テーブルの上には朝食、彼女は身支度が済んだ様子で足元には荷物、ソファーの上には折り畳まれたワンピース、出て行こうとしているようだ。

「レイン」

 何のつもりなのか。聞きたいのに言葉が出てこない。唇が震える。

「もう戻れない。これで、サヨナラだ」

「何だよ……それ。わけわかんねぇよ!」

「だろうな」

「許さねぇ、絶対に許さねぇ……こんな終わり方があってたまるかよ!」

 理央は頭に血が上るのを感じた。守ると言ったのは嘘だったのか。

 レインがゆっくり近付いてくる。始まりのあの日のように理央は動けなくなる。

「許さなくていいさ。とっくに私は許されない存在だ」

 背中がカーペットに押し付けられ、押し倒されたことに遅れて気付いた。

 見慣れたはずなのに人形のような顔にドキッとしてキスが降ってくる。触れたか触れないかわからないような口付けだが、魂を抜かれた気分だった。

 気付いた時にはレインは部屋を出ていて、起き上がれなくて、呼び止められない。

 それから理央は暫く泣いた。何も考えずに泣いた。誰も見てない、誰も聞いていない。苦しくて、悲しくて、悔しくて、自分が男だと忘れるほど子供のように泣いた。

 けれど、レインは戻ってこない。慰めてはくれない。正夢になってしまったのだ。しかしながら、なかったことにはできない。

 彼女は卑怯だ。理央は痛感する。確実に自分殺していった。心を殺して、置き去りにした。

 サヨナラのキスが止めを刺した。



 レインがいなくなって三日、戻って来る気配はない。戻ってこないとわかっていた。理央の生活は夢のように元に戻るはずだった。

 夕立が止んだ。それだけのことなのに、ぽっかりと心に穴が開いている。戻るものなどない。

 自棄になっても昔のように適当な女と遊ぼうとは思わないが、それほど古いことではないのだ。本当に数日前のことが今は遠かった。

 期待を胸に街を彷徨っても会えるはずがない。彼女は闇に生きるのだから。

「リオ」

 地面ばかり眺めていた理央はその声にパッと顔を上げて、それからがっかりした。

「よお、しけたツラだな」

「……レオ?」

 猛獣のようなレインのパートナー――レオ。初めてあった時と同じように彼は自然にその景色の中にいた。すれ違う女達がちらちらと振り返るほど目立っているが、違和感はない。

「何だよ、忘れたのかと思ったぜ」

 レオが肩を竦める。そんな仕草さえ自然で格好いいと思ってしまう。同性ながら抱かれてもいいと思ってしまうような魔力を持っているようだ。

「ちょっとびっくりしただけだ」

「殺し屋に見えねぇって?」

「俺の心を読むなよ」

「テメェが単純なんだよ、バーカ」

「うるせぇ」

 まるで普通の男友達のようなやりとりだが、違うのだ。彼は友達ではない。

「つーか、何でそんなにお洒落なんだよ?」

「偏見だ。俺だって人間なんだぜ? 浮いててどうする?」

「溶け込み過ぎだ」

 肩を震わせて「プロだからな」と笑うレオはあまりに普通だ。

「まあ、ちょっと話そうぜ」

 彼ならレインのことを知っている。そんな期待があり、理央は素直に頷いた。


 レオに連れて行かれたのは公園だった。二人並んでベンチに座る。妙な気分だった。

「レインはどうしてる?」

「そんなの俺が聞きたいぐらいだ」

「んだと?」

「出てったよ。突然」

 レオの表情が険しくなり、怖くなるが、嘘を吐く必要はない。彼さえ知らないのが事実だ。

「……レインはテメェの親父のヒットの依頼を受けていた」

「だから、俺に近付いたんだろ?」

「何だ、知ってたのか」

「親父を探って、脅しをかけてたんだろ?」

 レインが曖昧にした答えも彼ならばはっきり答えると思っていた。

「だが、拒否した」

「何でだよ?」

「テメェに情が移ったんだろうよ。引退するとまで言い出したんだからな」

 レオは淡々と言うが、理央は勝ったとは思えなかった。レインは自分からも離れたのだから。

「わけわかんねぇ」

「本当にわけがわかんねぇよな――だが、安心した」

「え?」

「テメェがいるってことは、まだ奴は現れる」

 不穏な空気に理央は動けなくなる。彼が味方でないことを思い知らされる。

「裏切り者には死を、だ。組織のトップだろうと、パートナーだろうと例外はねぇ」

 レオは仮面のように冷たい表情をしている。その瞳の奥は暗い。荒んだ目をしている。

「そんな! 何で……」

「任務を放棄して逃亡中、庇う理由もねぇ」

 言葉が出なくなる。自分が殺されると思った時よりもずっと苦しい。

「俺達に光はない。闇の中を這いずって地獄行きだ――テメェはまだ、生かしておいてやるよ」

 レオが自分の命を握っているということだと理央は理解する。

「だが、王子様を攫ったらお姫様はくるかもしれねぇな」

 思い付いたように言うレオは楽しげだ。獲物をいたぶるかのようでもある。

「レインがやらなきゃ、俺がやる。テメェは俺のオルタナティヴにはなれない」

 レオが嘲笑する。それは誰に向けたものなのか。自分か、レインか、その両方か。

「何だよ、それ?」

「俺はずっと一緒にいた。それをテメェなんかに壊されるなら自分で壊しちまった方がいい」

 眼力だけで殺されそうだ。胸倉を掴まれ、本格的に危険を感じる。

「テメェはRIO(リオ)LEO(リオ)じゃない」

 彼は何を言っているのだろうか。どっちも一緒だと理央は思う。

 けれど、レオは突き飛ばすように手を離して、いなくなってしまった。



 何も起きない日が続いたこの日、理央が起きるとリビングに知らない男がいた。

 レオとはまた違う獣っぽさを持つ男だ。ワイルドでナンパな印象の彼は更に年上だろう。

 混乱する理央に気付き、悠々とソファーに座っていた彼は手を上げる。

「よお、少年。猛獣に睨まれた気分はどうだ?」

 スウェットのまま立ち尽くす理央にその男はニカッと笑った。

「俺は黒崎兵吾、略してクロヒョウ、故にコードネームはブラック・パンサー。ヒョーゴさんでいいぜ」

「あ、あの……兵吾さん?」

 軽々しく呼べる様子ではないが、従わなければ怒られると理央は思った。

「最初にはっきりさせておくが、俺はレインとは違う組織に属してる。敵だ。意味はわかるな?」

 理央は黙って頷く。まずい状況のようだ。レインの敵ということはレオと同じだと思うのだ。自分を人質にして父を殺すか最終的に一家心中か、レインをおびき寄せる餌にされるかだ。

「ちなみに好敵手って書いてライバルと読んでもらえるとしっくりくる。俺のこだわり」

 武器を見せるわけでもなく、脅すわけでもない彼は体裁を気にするようだ。

「つまり俺達はグッドな仲なんだよ」

 兵吾は笑うが、言葉通りに受け取って良いのかはわからなかった。

「まあ、座れよ。俺は殺しのデリバリーに来たわけじゃねぇし――一杯やって楽しく話そうぜ」

 渋々理央が座れば兵吾は缶ビールとつまみをテーブルの上に置いた。朝から未成年相手に何を考えているのだろうか。

「……兵吾さんはレインが戻って来ると思ってるんですか?」

「しけた顔はよくないぜ、酒は楽しく飲んだ方がいい」

 恐る恐る聞いてみれば兵吾は缶を掲げて豪快に笑う。もう酔っているのかと不安になる。

「レインが出て行った原因は俺だ」

「え?」

「俺は殺しのデリバリーはしねぇけど、真相のデリバリーはするんだよ。まあ、それが親切じゃねぇことはわかってるから絶望のデリバリーかもしれねぇけどな」

 兵吾はサディスティックな笑みを浮かべ、ぞっとする理央を楽しんでいるようだ。

「レインはお前の親父さんを殺す依頼を受けた。でも、俺のところも同じ依頼を受けた。この前、お家にお邪魔したのはこっちの先走りやがった下っ端の人達。俺は関与してねぇよ?」

 淡々と兵吾は言う。彼がやったことではなくとも理央は彼が怖かった。

「どうにもレインの行動が解せねぇ。様子見てたら驚愕の事実が明らかになっちまったわけだ」

 彼が話すのは映画のことのようだ。自分に関わることでありながら理央は現実味を感じない。

「おいおい、何か相槌打ってくれよ。一人で喋ってるって酔っ払いみたいじゃねぇかよ」

 実際、理央は酔っ払いに絡まれている気分だった。

「俺は真相知ってちょーガッカリしたぜ。レインもそうだっただろうよ。ある意味、神聖な仕事が親子喧嘩に利用されるなんてあっちゃいけねぇ」

 それほど気にした風でもなく、彼はビーフジャーキーを銜えた。

「お前、親父さん好きか?」

「好きとははっきり言えないです」

「おふくろさんは?」

「母さんは何も悪くないですから」

「じゃあ、兄貴は? 巽央理」

 聞かれて、理央は心臓が止まるような気がした。

「……俺にはあの人を嫌いになる権利なんてないですから」

「でも、兄貴はお前のこと、大嫌いだろ?」

 兵吾は遠慮なく聞いてくるが、事実だ。憎まれていることを理央はよく知っている。

 親の愛を独占して、それがずっと続くと思っていただろう。その時に理央は生まれた。病弱で、母を独り占めして、父に心配され、何も知らずにぬくぬくと育った。

 母を取り返そうとテストで満点を取って、何かで賞を貰って、褒められたくて必死だったのだろう。父にとっては当然のことでしかなかった。

 兄が父の敷いたレールの上を走り、理央は余計に甘やかされた。それでも、気付いてからは兄の影になろうと努めた。

「男のジェラシーって手に負えねぇよな。醜いっていうか、面倒臭ぇっていうか」

「はっきり言ってくれませんか?」

「えー、これからが感動の物語なのに?」

 兵吾は不満げだったが、理央は待てなかった。兄の名を出されれば落ち着いていられない。

「じゃあ、言ってやるよ。うちに巽央の殺しを依頼したのは巽央理だ」

 理央は驚倒した。言葉が出なかった。

 央理は父に縛られ、今の道に進んだが、そこまで憎んでいるとは思わなかった。

「驚くのはまだ待てよ。何せ、レインに依頼したのは巽央ご本人様なんだからよ」

 兵吾の言葉は嘘ではないと感じる。

 レインは知っていたのだろうか。知っていて自分の前に現れたのだろうか。

「息子が闇に手を染めるくらいなら……と思ったのか、希望を持ってたのかは知らねぇけどよ」

 父のことも兄のことも理央にはわからない。いっそ自分を殺してくれればいいと思うのに、自分を殺しても何にもならないことがわかっている。

「まあ、何もなかったことになりそうだぜ。レインが手を引いたからって悠々と狩るのも癪だし、兄貴の方はうちのボスが上手くやってくれるよ。俺が我慢してババアと寝ればだけど」

 兵吾は不安にさせたいのか、安心させたいのかわからない。一つわかることは、兵吾達にもレイン達にもこの問題を本当の意味で解決することはできないということだ。

「だが、気を付けろよ、〈百獣の王〉はお前を許してくれねぇぜ。何せ、レインはもう組織に戻るつもりはないみてぇだからな」

 〈百獣の王〉――遠回しながら誰を指すのか、理央にはピンときた。

 人食いライオンのようだったからレオ、彼は本気でレインを殺す。全てを裏切りだと思って。

「兵吾さんは……」。

「俺? 俺は、懐が深い男だからな」

「レインのことが好きなんですか?」

「はっ、違ぇし、ありえねぇし、ロリコンじゃねぇし、ペド野郎は人間じゃねぇし」

「いや、ロリってほどじゃないと思いますけど……」

「貧乳は興味ねぇし、今後の成長に期待してねぇし、年上好きだし、あんなガキじゃあな……俺を満足させられるのは戦いにおいてだけだ」

 兵吾は早口に答えた。嫌いではないのだろうが、理央が邪推するような感情ではないようだ。

 尤も、暗殺者にとって愛と殺し、どちらが重要なのかはわかりかねるのだが。

「でも、暫くは後輩いじめて楽しむさ。あいつの劣化版みたいのがちょー生意気だし、その連れが役に立たねぇし、そろそろ手ぇ出しても良さげだしな」

 くつくつと笑う兵吾は本当に楽しげで、絶対にこの男には狙われたくないと理央に思わせた。

「まあ、もうちょっとでフィナーレだ。頑張れよ。俺も頑張るから――じゃあな」

 飲み終わった缶をぐしゃっと潰して、兵吾は立ち上がる。

 どんな終わり方が待ってるか、聞いてみたかったが、その背を引き留めて、機嫌を損ねると頑張ってくれなくなるのだろう。今は味方だとしても、きっと簡単に変わってしまうだろう。



 理央は失意のまま街を彷徨った。色のない空、生気のない雑踏、耳を抜けていく雑音、何もかもが褪せていて意味がない。

 気付けば好きだったアーティストの新譜が出ていて、そこら中で話題になっているのに欲しいとは思わなかった。上辺だけの仲間との話題作りも虚しい暇潰しも必要だとは思えない。必要なのはただ一人、彼女が側にいてくれるだけ、それだけでいいのだ。

 そうやって彼女のことばかりを考えていたから、ついに幻覚を見たのかもしれない。

 通りの反対側、鮮明に見えた。艶やかな黒髪、カーキのジャケットを纏い、どこかを目指して歩いている。見失わないように必死にその姿を追う。

 空を閉ざそうとするかのようにそびえ立つビル、どこを目指しているのか。息が切れてきた頃、距離が近付く。階段に差しかかった時、彼女は既に上りきろうとしていて、慌てて呼びかけた。

「レイン!」

 声は確実に届いたはずだった。ずっと追いかけて来たのがレインだと理央は確信していた。

 彼女はゆっくりと振り返る。レイン、間違いなく彼女だった。

「   」

 レインの唇が動く。理央にはわからない。

 急いで近付こうとして、けれど、彼女も待っていてはくれなかった。階段を上がりきった時、レインは広場の中央にいた。

「レイン!」

 もう一度、呼びかけた声は掻き消えた。

 銃声、レインの体が崩れ落ちて、赤が広がる。スローモーションのようだ。駆け寄ろうとしてできない。ぐいっと肩を捕まれ、建物の影にまで引きずり込まれる。

「今、出たら死ぬぞ」

 そう言ったのは兵吾だった。手には銃が握られている。

 人が少ないとは言っても壁の向こうからは悲鳴が聞こえる。非現実的だ。

「屋上から奴がライフルで狙ってんだよ。撃たれたら洒落になんねぇ。とにかく、離れるぞ」

 レオ、彼が本当にレインを殺したのだ。理央の胸の内に絶望が広がる。

「あそこな、レインの組織の本社があるところなんだよ。ボスに呼び出されて、あいつは応じた。罠だってことをわかっていてな」

 歩きながら兵吾は説明したが、それだけだ。路地で急に足を止め、じっと理央を見る。

「もうすぐ、決着がつく。だから、暫く寝ててくれ」

 衝撃を感じた時にはもう地面が近くに見えた。そこで理央の意識は途切れた。



 あの後、理央は自分の部屋のベッドの上で目を覚ました。誰もいない、何の痕跡もないが、夢を見ていたわけではないことはわかった。

 あの銃撃は無差別の射殺事件としてニュースになっていた。メディアに取り上げられる写真はレインだったが、全く別の名前で報道され、暫く騒がれたものの、すぐに人々は忘れた。事件は絶えず、毎日どこかで起きている。

 兵吾はあの時何も教えてくれなかった。あれから会っていないし、もう会うこともないのだろうが、理央は今でもまた夕立が突然来るような気がしている。

 彼女は絶対に生きている。今ならば冷静に考えられる。不自然なことが多すぎるのだ。

 あの時、兵吾からは火薬の匂いがした。レインはライフルに撃たれたという様子でもなく、理央は近くで確認していない。

 おそらくは、死を偽装して暗殺業から引退したのだろう。


『退屈なんだろ? リオ・タツミ』

 目を閉じればその声が胸の内に響く。

 全てはほんの一月に満たない出来事、何よりも非現実的でどうしようもなく現実であった。

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