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  作者: 彰弘
2/6

雨宿り

 降り出し


 家を出る時には晴れていた空も、昼頃には分厚い雲に(おお)われていた。

 そんな空を見上げながら、私は家路を歩いていた。低く垂れ込める雲に、降り出しが近くなっているのを感じる。そのためか、いくらか足をくり出す速さも、速くなっていた。

 しかし、私が急いだところで、雨脚から逃れることも出来ない。じきに、ポツリポツリと雨粒が私の服を濡らし始めた。追いかけてきた雨脚は、私を確実に捕まえ、だんだんと私を濡らしていった。

 いつの間にか、私は走っていた。自分が気付かないうちに、私の脚は先程の倍近い速さで前へ送り出されていた。だんだんと粒を大きくし、多く落ちてくる雨は、まるで私の歩の速さに比例しているようだった。いや、その逆なのかもしれない。

 私は三分程走った。すっかり上着は水を含み、重くなっている。その時、不意に目の前にバス停が見えた。まるで小屋のようなオンボロのバス停。それでも、少しの間雨宿りをするのにはちょうど良かった。空を流れる雨雲の足は、思ったよりも速い。少しの間雨宿りをすれば、じきに雨も止むだろう。そう思った私は、バス停へ飛び込んだ。

 それまで耳元で響いていた雨音も、少しばかり遠くなった気がした。私は自然と、バス停に入った時後ろを振り返っていた。まるで、自分を後ろから追いかけてきているものがいないかを、確認するように。じっと、今まで自分が走って来た道を見れば、いたる所に水溜りができていた。その先には、人影もない。私は一息つくと、ベンチへ鞄を抛った。一息ついいたためか、緊張感が切れたのか、私はどっと疲れた気分になっていた。そのままベンチへ座りこみ、背もたれへもたれ掛かった。自然と(まぶた)が重くなってくる。響き渡る雨の音が、私には心地良い子守唄のように聞こえてきた。

 私は服が濡れていることも忘れて、眠りに落ちていった。



 弱く


 私は寒さに目を覚ました。とても寒い。しかも、背中が痛い。私は何故こんなに体が痛むのか、寒く感じるのかを考えた。そこでようやく、自分が古ぼけたバス停のベンチで眠っていたことに気付いた。

 私は痛む背中に気を付けながら、ゆっくりと立ち上がり、空を眺めた。

 依然として雨は降っていたが、私がここへ逃げ込んだ時よりは、雨は弱くなっていた。

 私は今なら家へ帰ることも出来るだろうと考え、鞄を持とうとベンチの方を振り返った。その時になって(ようや)く、私はこのバス停にもう一人の人がいることに気付いた。その人は、私が座っていたところとは反対の、ベンチの端に腰を下ろしていた。顔を伏せているため、表情までは分からないが、ブレザーを着ていることから、女性であることは分かった。歳はおそらく同じくらいか、それ前後だろうと推察したが、私にとってはそんなことどうでも良かった。問題は、このまま何もなかったかのようにここを出るのか、という点だ。何故そんなことが問題かと言えば、素性知れない女性ではあるが、明らかに彼女は眠っていたからだ。一刻前の私のように、眠っていたのだ。さすがに、ここでこのまま眠らせておくのは、私としても複雑な気分だった。人の眠りを妨害するつもりもないが、かと言ってこのままここで眠っていれば、十中八九風邪をひく。それならば、起こしておくのが情というものか。普段であれば、見ず知らずの人に声は掛けない。それが女性であれば尚のことだ。しかし、状況が微妙すぎた。先の見えるものをこのまま放置することも、私には(はばか)られる。そんなことをつい考え、首を捻っていた。

 結局、私は女性に声を掛けていた。しかし、いくら言っても、彼女から聞こえてくるのは一定の呼吸音のみで、返事をする気配を見せない。私は三分程彼女へ声を掛け続けたが、うんでもなければすんでもない。聞こえてくるのは、息を吸って吐く音だけ。それも微かな音だ。雨音が少しでも煩ければ、その音も聞こえてこなかっただろう。それだけ、今降っている雨は、弱く、細かかった。

 起きる気配を微塵も見せない彼女に、私は吐息を漏らした。何やら先程と同じように、どっと疲れがきた。私は崩れ落ちるようにベンチへ腰を下ろしたが、その時に微かにベンチが揺れた。バス停の待合のように古ぼけているベンチは、少し乱暴に扱えばすぐにでも壊れてしまいそうな見た目だ。私はそんな揺れにはお構いなしに、自分の鞄の中を確認していた。

「起きたんですか……」

 唐突にした声に、私は顔を声のした方向へ向けた。そこには、眠そうに目を擦りながらもこちらを見ている女学生がいた。あれ程声を掛けても起きなかった女学生が、ベンチの微かな揺れに反応して起きたのだ。

「ナマズか何かかよ……」

 私は咄嗟にぼそりと呟いた。しかし、その声は彼女には聞こえていなかったらしく、それに関しては何も言ってこなかった。

「こんなところで寝ていると、風邪ひきますよ」

 少し口を尖らせ言う彼女に、私は冷めた目を向けた。

「あんた人のこと言えるのか……?」

 言われた彼女は何やらポカンとしている。どうやら、意味が通じていない様子だった。そのため、私は分かるように、寝起きの頭にも分かるように言葉を足した。

「ここで今まで寝ていたあんたに、人のことをとやかく言う資格はないんじゃないですか?」

 私の言葉を聞いて、何事か考え、ブツブツ言っていた女学生だったが、不意に顔を上げると、私を正面から捉えた。

「私寝ていましたか!?」

「寝てたから、こうやって言ってんだろうが……」

 私はついブツブツと口を動かしていた。しかしそんな私にお構いなく、女学生は唸っていた。

「私寝ちゃってたんだー……。あー……」

 私に言わせれば、何故そこまで言うのか分からなかったが、眠っていたことに関し、彼女は問題があるようだった。

 女学生も起きたことで、私のバス停に留まる理由はなくなった。さあ帰ろう。そう思って外を見れば、いつの間にか雨は先程と打って変わり、力一杯地面を叩きつけていた。



 強く


 強くなった雨に、私は肩を落とした。それと同時に、腰はベンチへ落ちていた。そんな私の様子を見てか、女学生も外へ注意を向けていた。

「雨、強いですね……」

「さっきまでは弱くなってた……」

 私は消え入りそうな声で呟いていた。その声が女学生に聞こえていたかどうかは分からない。しかし、女学生は空模様を見ながら口を開いた。

「でも、雲は結構速いですから、こうしてればじきに雨も止みますよ」

 私は強く叩きつける雨を呆然と見つめた。時間潰しになるようなものも無い。かと言って、この雨の中を走って家に帰る気にはなれなかった。

 雨は待合の屋根を強く叩いた。中にいると、その音が余計に大きく感じられた。そのうちに待合自体が雨に潰されるのではないか、そんなありもしないことを考えてしまった。

「あのー……」

 不意にした声に、私は首を曲げた。

「何?」

「あ、いや……」

 女学生は私の顔を窺いながら言葉を探しているようだった。私は黙って次の言葉を待つ。既に自分でも分かるほど、私は無愛想だった。しかしそれを直す気にもなれない。

「えーと……。三年生……ですよね……?」

 散々引っ張って何を言うかと思えば、そんなことか。私はそうは思いながらも、素直に答えていた。

「そうだけど。あんたは?」

「私は二年です……」

 答える声はどこか細々としている。あまりに不愛想に言ったかと考えてしまうほど、彼女の声は小さく細かった。

「で、三年だったら何かあんの?」

 私の声に、彼女は視線を泳がせた。

「いえ……。そう言うわけでも……ないですが……」

 話し始めると歯切れの悪くなったことに、私は少しばかり苛立ち始めていた。それではいけないだろ、とは思っているのだが。

「あの……、柏原(かしわばら)先輩……、ですよね……?」

 私としても、まさかここで自分の名前が出るとは思っていなかった。

「そう……だけど……」

 私の返事もぎこちなく、どう反応すればよいか分からない。しかし、私の返事に、彼女は少しばかり顔を綻ばせた。

「良かった。間違ってなくて」

 そう言って笑う彼女は、それまで見ていたただの女学生とは違って見えた。しかし、疑問も残る。

「何で俺のこと知ってんの……?」

 私は部活動には参加していない。そういったことから、学年を越えた繋がりはない。更に言えば、クラスを越えた繋がりもない。そんな私を、下級生である彼女が知っているのが不思議でならなかった。

「あー……、それはですね……」

 少しばかり顔を上方へ反らせて考え始めた彼女に、私はただ首を傾げるしかなかった。

「あれですよ。部活の先輩が話してるのを聞いて、それで……」

 まるで当て付けのようなことを言う彼女へ、私は訝しむような視線を向けていたことだろう。そんな視線のためか、彼女は更に何か言おうと言葉を探し始めた。

「え、えーと……」

 本人は聞こえていないと思っているのか、ブツブツ言うのが聞こえてきて、それがおかしかった。そして唐突に手を打つと、私の方を真っ直ぐに、自信に満ちた目で見た。

「何回か校内で見かけましたから」

 そう自信満々に言う彼女に、私は目を丸くした。よくもそんなものを、知っている理由に挙げられたものだ。ついそう思ってしまう。しかし、これ以上言っても無駄だろう。

「そうかよ……。で、お前は何でここで寝てたんだ?」

 私は話題を変えたが、問いに対して問いが返された。

「先輩こそ、何でこんなところで寝てたんですか」

「今聞いてるのは俺だぞ。質問は自分が答えてからにしろ」

 私は彼女の方を特に気にするでもなく言った。

「何か先輩……、先生みたいなことを言いますね……。聞いてた通りです……」

 何やらブツブツ言う彼女は、口を尖らせながらも、それでもどこか楽しそうだった。

「大方、そいつは俺がいちいち煩いって言ってんだろ?」

 私は肩を竦めながら言ったが、彼女の反応は私の予想したものとは少しばかり違った。

「そんなことないですよ。面白い人だって言ってましたし、私もそう思います!」

「あっそ……」

 私は足を組んで背もたれにもたれた。首を左右に曲げれば、コキコキと歯切れのいい音がした。

「どうでも良いけど、お前座ったら?」

 私は自分の首を押さえながら、視線を彼女へ向けた。ベンチに座る私に対し、彼女は立っている。彼女の顔を見るために顔を上げていることに疲れた。何とも自分中心の考えに笑えてきた。しかし、このことを彼女がどう取ったかは分からないが、彼女はベンチへ腰を下ろした。

「それで、何の話でしたっけ?」

 ケロリと言う彼女に、私は溜息を吐いた。私は彼女のことは一切知らないが、きっとコロコロケロケロした奴なのだろうと、勝手に想像していた。

「もういい……」

 ぼそりと呟いた私に対し、彼女は実に楽しそうに口を開いた。

「それじゃ、私の方から良いですか?」

「ああ……、もう好きにしてくれ……」

 私は理由の解らない疲れを感じながらも、彼女の方へ顔を向けた。

「それじゃあ、先輩は何でここで寝てたんですか?」

「疲れたから」

 私は隙を見せずに即答した。その速さにか、答えにか、彼女は少し引いていた。

「それが理由ですか……」

「それじゃ、眠かったから」

 私はつくづく愛想の無い返事をくり出した。

「まあ、いいです……。私も寝てたみたいですから……」

 彼女が何事か言うのを無視して、私は視線を外へと向けた。

 依然として雨は降っている。しかも強さも先ほどと変化が無い。まだ当分は、彼女とおしゃべりをしている必要性に迫られるのか、そう考えると、何となく気分が沈んだ。

「そういえば、先輩って彼女いるんですか?」

 唐突に飛び出した問いに、私はものすごい勢いで彼女の方を振り返った。彼女の方はと言えば、鞄の中をゴソゴソやっていた。

「そんなもんいねぇーよ」

 私はベンチに座り直しながら、答えた。その答えに、彼女が少しばかり笑う声が聞こえる。

「何だよ?」

「いえ……」

 否定しながらも、彼女は笑っていた。そんなものでは否定しても、否定にはならない。

「何が言いたいんだよ」

 私は言葉少しばかり棘を入れていた。何となくイラついたのかもしれない。

「すみません……。聞いた通りの返事だったので……」

 彼女は含み笑いのまま、私の方を振り返った。その顔をどうしてやろうかとも考えたが、私は視線を逸らせるにとどめた。

「いないんですか。そうですか。付き合う気はないんですか?」

 少しばかり楽しそうな顔をした彼女は、私へ次なる言葉を向けた。

「そんなもん、まず付き合う奴もいねぇのに考えられるか」

 私は少しばかり吐き捨てるように言ったが、彼女はそんなことを気にもせず言葉を続けた。

「いたらの話ですよ。好きな人とかいないんですか?」

「恋愛なんてこりごりだね」

 私は溜息混じりに呟いた。それをあざとく聞いていたのか、彼女は少しばかり考えるように上を見た。

「でも、皆がみんなそんな人ばっかりじゃないですよ」

 私は彼女へ白い目を向けた。彼女の言う「そんな人」はどこにかかるものなのか。私の過去に関わるものなのか、それとも私のような人間にかかるものなのか。しかし、彼女の言い方と、それまでの私自身が言ったことを考えると、前者であると考えた方が妥当だった。

「お前に何が言えるってんだよ……」

 私の呟きは雨音に掻き消されていった。



 雨上がり


 しばしの沈黙のうちに、空を流れていた雲も切れはじめ、光が漏れ出していた。雨も目に見えて弱くなっている。

 私は立ち上がって空を仰いだ。雲の切れ間から射す日が、今までにないくらい眩しかった。

「雨、上がりましたね」

 ぽつりとつぶやく彼女へ、私は自然と視線を向けていた。どこか残念そうな顔。そう形容するのが最もしっくりきそうな横顔を、私は見つめた。

「先輩は、今の雨のこと、どう思いましたか?」

 不意に向けられた質問は、今までにないくらい真剣な響きを持っていた。

「そうだな。怖い思いをしたな」

 私の答えに、彼女は怪訝な顔をした。その顔へ、私は微笑を向けた。

「素性も知らない女と話をして、その女は俺のことを知ってるんだからな。俺の方は知らないのに、女の方は俺を知っている。こんなに怖いものはないね」

 私の微笑も、いつしか皮肉な笑みになっていただろう。彼女は唸っていた。

「そんなこと言われましてもー……」

「そういうお前はどうだったんだよ」

 今度は逆に私の方から、彼女へ問うた。

「私ですかー? 私は、ちょっと楽しかったです。それに、嬉しくもありました」

 そう言って笑う彼女の思うところを、私は理解することは出来ない。想像することは出来ても、それはあくまで想像であり、都合の良い解釈でしかない。だから、私は溜息を一つ吐いた。

「そうかよ……」

「そうですよ」

 笑う彼女の顔に、私もつられて笑みがこぼれた。

 すっかり雨の止んだ空は、とても青く透き通っていた。水溜りに反射する光は、それだけでも十分絵になる風景に思えた。私は彼女と並んで歩いていた。別に特別そうしたかったわけでも何でもないのに、何故かそうなっていることに気付いた時には、彼女は実に楽しそうに肩を並べていた。私の肩ほどの高さにくる頭。そんな頭が私の横でヒョコヒョコしていると、何となく小突きたくなった。

 試に左人差し指で突いてみると、彼女はもの凄い勢いで私の方を振り返った。

「な、何すんですか!?」

「いや、何となく」

「何となくで人の頭弄るんですか!?」

 思いの他彼女の反応は私を楽しませた。彼女はわざとらしくプンプン言いながら、元のように私の左隣りに並んだ。私はそんな彼女の頭を撫でてみた。それも面白さを狙ってのことだったが、反応は少しばかり先程とは違った。

「な、何すんですか……」

 言葉単体で聞けば、先程と変わらないが、行動はまったく違った。何かと言いながらも、撫でられることを拒む様子はない。私はしばらくの間、彼女の頭を撫ででいた。

「あ、あの……、先輩……」

「あ?」

「ちょっと……、恥ずかしいんですが……」

 頬を紅潮させて私の方を見上げる彼女は、年下の女子というより、一人の女性として、私の目に映った。そんな考えと、彼女のその表情に、私は慌てて手を引っ込めた。

「わ、わるい……」

 つい視線を明後日の方向へ飛ばしていた。彼女の顔を碌に見ることも出来ない。

「い、いえ……。その……、私は別に……、嬉しいですし……」

 小さな声で言う彼女は、視線を足元へ向け、恥ずかしそうに体をくねらせた。

「わるいな……。俺も遊び過ぎた……」

 彼女とは反対の、右側へ顔を向け、私は何とか平静を装って言った。

 しかし、この後はお互いに変な意識の仕方をしたせいか、話はパタリと止んでしまった。視線だけで彼女の方を見れば、足元から数メートル先に視線は固定され、そこから視線を外そうとはしなかった。しかし、その赤く紅潮した頬が、私を余計に意識させていた。

 一本だった道も、いつしか分かれ道に来ていた。

「それじゃ、俺こっちだから」

 私は彼女の方へ顔を向け言ったが、彼女は拳を握りしめたまま何も言わなかった。

「おーい。聞いてるかー?」

 私は間延びした声で彼女へ言ったが、それでも彼女は何も言わない。仕方なく、私はそれまでポケットに突っ込んでいた左手を彼女の頭の上へのせた。一瞬ビクッと肩を震わせた彼女は、ゆっくりと私を見上げた。

「そういえば、お前の名前聞いてないんだけど」

 顔を上げた彼女へ、私は出来る限り優しい声音で言った。

「私ですか……? 私は……」

 そこまで言って、彼女は何事か考え始めた。まさか自分の名前が分からないなどと言いだすのか、私は少しばかり不安になったが、彼女はそんなことは言わなかった。

「私は(あずま)です」

 そう言って笑う彼女に、私の顔は一瞬笑いかけて、そこで固まった。その名前、正確には苗字だろう。だが、その苗字に聞き覚えがあった。

「東……あずま……あずま……」

 そう呟く私を、何故か彼女は楽しそうに見ていた。そして、私は思い出した。同じクラスにそんな苗字の者がいたことを。しかも聞いた話では、一つ下の妹がいるということも。

「お前まさか……!」

 言いかけた時、彼女は私の前を走って横切った。

「それじゃ、私こっちなんで」

 分かれ道で立ち止まった彼女は、私の方を振り返ると笑顔を私へ向けた。そのまま行こうとする彼女へ、私は再び声を掛けていた。

「下の名前! 聞いてねぇぞ!」

 私の声に、前へ出しかけた足を引っ込め、彼女はその場でターンするように回ると、満面の笑みを浮かべた。

()()。東美夜ですよ、先輩」

 笑いながら言う彼女は、先程とは逆に回り、帰り道を見上げた。

「今日は雨が降って良かったです。楽しかったですよ」

 その言葉がはたして私へ向けられたものかは分からなかったが、それでも、私はその言葉へ返事をしたい衝動に駆られた。

「俺も楽しかったよ」

 私は彼女の背に、一言掛けた。それで十分だった。言葉が多ければ伝わるものでもない。少ないからこそ、伝わるものもあるのだろう。

「それじゃ、今日はありがとうございました」

 彼女は顔こそ見せないものの、大きく明るい声でそう言うと、振り返ることなく走っていった。

「こちらこそ」

 私は届くわけでもないのに、ぽつりと呟いていた。

 空をふり仰げば、そこには美しい虹が架かっていた。青いキャンバスの上の虹は、とても美しく、幻想的に映った。私は雨の運んできた小さな幸せを感じつつ、家へと続く道をしっかりと踏みしめていった。


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