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  作者: 彰弘
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雨傘

 雨の降る日曜日。私は自室の窓から、階下に見下ろす通りを見ていた。石畳の道を行く人たちは、色とりどりの傘をさしていた。それを通りの上から見ていると、まるで水玉模様が右へ左へ動いているようだった。子ども心に、そんな様子を見ているのが楽しかったのだ。

 そんなある時だった、私はある一つの水玉に気付いた。それは、他の水玉よりも、一回りも二回りも小さな、赤い水玉だった。私はしばらくの間、その水玉を見つめていたが、その水玉は同じ所から動こうとはしなかった。というより、まるで動けないようだった。私は胸の内が締め付けられるような、そんな思いがした。

『きっとあの子は、あそこから動けない理由があるのだろう』

 私は五分ほどその水玉を見つめていたが、だんだんと居ても立っても居られなくなっていた。

 私は駆け出していた。家の中は走るな、と親に再三言われていたが、この時ばかりはそんなことなど頭になかった。リビングを横切り、階段を駆け下りた。家に面した通りに出ると、そこは上から見るよりも人で混み合っていた。その中を縫うように進む。幸い、家の前の通りだけに、上から見えたところがどこかは分かる。しかし、あまりの人の多さに、私の足はなかなか前へ進まなかった。

 やっと通りの中ほどまで来た時、視線の高さに、赤い傘があることに気が付いた。間違いない。上から見えた傘だ。私は直感的に感じ取り、その傘を目指して、大人たちの間を進んだ。

 赤い傘をさしているのは、私よりも小さな女の子だった。その女の子は、突然人ごみの中から目の前に出てきた私を、驚きと共に恐れの目で見ていた。

「Qu'est-ce qui se passe ?」

 私が何とか最近覚えた言葉を言っても、女の子は顔を強張らせたまま、私の方をじっと見つめていた。私は何かないかと考え、ダメ元でもう一度声を掛けた。

「どうかしたの?」

 すると、彼女は周囲を見回すと、私の目をまっすぐに見つめた。

「お母さんがいないの……」

 僕は一瞬胸をなでおろしていた。アジア系の顔立ちだったために、もしかしたらと思ったのが正解だった。しかし、安心している暇はなかった。どうやら、この女の子は迷子らしく、母親がいなくなって、どうしたら良いか分からないようだった。

「どこで、お母さんとはぐれちゃったの?」

 私は出来る限り優しい声音で言おうと努めた。女の子は再び周囲へ視線を向けると、私の方へ向き直った。

「この辺……」

 か細い声で言う女の子は、今にも泣きそうだった。私が来た時には涙も浮かべずに、じっと緊張した面持ちだったが、誰かが近くに来たことで、少しでも安心できたのかもしれない。言葉の通じない中にあって、唯一言葉の解る人に出会った時の感動や安心感は、計り知れないものである。私は女の子の隣に立ち、周りを見回してみた。しかし、子どもの身長など高が知れている。結局、私も女の子の母親らしき人を見つけることは出来なかった。

「お母さん……お母さん……」

 隣で涙を堪えながらも呟く女の子の声が、私をソワソワさせた。何かその場しのぎでも話題を見つけなければと思い、私は必死になった。その時、私の視界を赤いものがかすめた。私は直感的に、そうだ、と思っていた。

「その傘、きれいだね」

 私は傘の端を指で摘まみながら、女の子に笑いかけた。女の子は服の袖で目を擦ると、右手に持った傘を見上げた。

「お母さんに買ってもらったの。ここに来た時に」

「遠くからだと、とってもきれいに見えるんだよ」

 私は女の子に言って、その時気付いた。そうだ、この傘を使えば、この子の母親が見つけてくれるかもしれない。きっと母親もこの子のことを捜しているはずだ。それなら、目立つところでこの傘を示せば、母親はきっと気付くだろう。そんな気がしたのだ。

「ねぇ、お母さんが見つかるかもしれないよ」

 私は女の子の視線に合わせるように、少しばかり屈んだ。

「どうするの?」

 少しばかり涙声になりながらも、女の子は私に方法を示すように聞いてきた。私は女の子の目を見た後、通りの反対側を指さした。

「あっちに、僕の住んでる家があるから、そこの玄関に行こ」

 私は女の子の手をひいて、通りの中へ歩き出そうとした。けれど、女の子は前へ進もうとはしなかった。その眼には、困惑の色が透けて見えた。

「家の玄関で、君の傘を見えるようにすれば、きっと君のお母さんは気付いてくれるよ」

 私は女の子に言い聞かせるように言った。すると、女の子は少しばかり考えて、黙って首を縦に振った。

「それじゃ、行こ」

 私は女の子の手をひきながら、人ごみを掻き分けていった。大人は、私にとってはまるで立ちはだかる壁だった。これが私よりも小さな女の子にはどう映るのか、そんなことを考えながら、何とか人の間を縫って玄関前まで辿り着いた。

「大丈夫?」

「うん……大丈夫……」

 女の子はまだ困惑した表情を浮かべていた。私はそんな女の子へ、出来るだけ明るく微笑んだ。

「大丈夫だよ。きっと君のお母さんが見つけてくれるよ」

 そう言って、私は玄関前の石段へ上った。女の子にも、石段を上るように目で合図をし、女の子が隣に立つまで通りを見ていた。私は思いついたことをしようと、女の子の傘の柄を持とうとした。すると女の子は手を引っ込め、私を驚いた眼で見た。

「ご、ごめん。一言言えばよかった。君の傘を少し貸してくれないかな? 大丈夫、少しの間だけだから」

 私は女の子の目の高さに自分の目の高さを合わせ、出来る限り優しく言った。私の言葉に、少しばかり私の顔と傘を交互に見ていた女の子は、静かに傘の柄をさしだしてきた。

「ちょっとだけ……なら……」

「ありがと」

 私は女の子から傘を丁寧に受け取ると、普段傘をさすように柄を持った。こうしていれば、捜しているであろうこの子の母親が見つけてくれると、そう信じていた。

「これで、お母さん見つかるの……?」

 不安げに私を見上げ、女の子は聞いてきたが、私ははっきりと女の子に言った。

「大丈夫。絶対に見つかるよ」

 何故か、私にはそう言い切れる気がした。

 ほどなくして、一人の女性が近寄ってくるのが分かった。

「お母さん!」

 その女性がすぐそこまで来た時に、女の子が声を上げた。

「ねぇ、ほらあそこ。お母さん来たよ! 来てくれたよ!」

 そう言って私のシャツの裾を引っ張る女の子へ、私は丁寧に傘を返した。

「ありがと! ありがと!」

 そう嬉しそうに言う女の子へ、私は笑顔を向けた。

「これからは、はぐれないように気を付けるんだよ」

「うん!」

 女の子は元気よく返事をすると、すぐそこまで来ていた女性の元へと走って行った。その女性に抱き付く女の子と、そんな女の子をしっかりと抱き留める母親の姿を認め、私は部屋へ戻った。

 あの鮮やかな赤い傘は、子と母を繋ぐものだったような気がした。そんな水玉も、いいものかもしれない。

 部屋へ戻った私は、通りを流れる小さな赤い水玉と、それより少し大きなワイン色の水玉を、見えなくなるまで見送っていた。


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