9節 枯れ井戸の花
あれから何日が経過したのだろう。王都へ行く用事を失えば、日がな1日をぼんやりと過ごすしか術は無い。ぼんやりと過ごしていると、今日が何月何日なのかわからなくなる。寒いから、まだ冬だろう。
朝、起きたら顔を洗って朝食をとって、研究所への仕事に行くリーテを見送る。昼までの時間をぼんやりと過ごす。
昼はリーテが用意しておいてくれる昼食をとり、夜までの時間をぼんやりと過ごす。
夜はリーテの帰りを待ち、夕食を一緒にとる。そして一緒に寝る。
これの繰り返し。
「なんだろ……私、これじゃあ本当に弟の妻じゃないの」
しかも、家事全般と仕事を夫に押し付けているタイプの最悪なやつ。
「近頃は<やつ>も現れないし、平和そのものね」
ミシェルは元気にやっているだろうか。あんな大手術を受けたあとで、しかも義眼の状態で研究所のお手伝いなど、務まっているのだろうか。
「うう……気になる」
でも当のミシェルには会いたくないと言われてしまった。理由をリーテは教えてくれないけど、きっとアリアに配慮して黙ってくれているに違いない。
「はぁ……水でも汲みましょう」
家を出て裏手へまわり、アリアは木製のバケツを掴む。それをロープで吊るして井戸の中へ放り投げた。
「えっ?」
聞こえたのは、カラン、という乾いた音だ。水に投げ込まれる音ではない。アリアは井戸の中を覗き込んだ。しかし暗くて、井戸の底がどうなっているのかわからない。
井戸の水はここで生活するにあたって必要不可欠のものだ。アリアは絶望を感じながら、しかし僅かな希望を抱いて井戸の下へ降りてみることにした。スコップで井戸水を掘りあげようと考えたのだ。
アリアはロープを握り、井戸の底へと慎重に降りる。タン、とやはり乾いた音を立てて足が底に着く。
「やだ……本当に枯れてしまっているのね」
頭上を見上げる。外の明るい世界が円い窓となり、陽の光を取り込む。しかし底までは届かない。
アリアは腰に巻き付けていたロープと、そしてランプを外す。マッチで火を灯すと、井戸底に僅かだが明かりが広がった。
「あ!」
足元を見下ろした時、アリアは反射的に片手で口元を覆った。靴と靴の間に、一輪だけの花が井戸底から顔を出していたのだ。
「あっ、危ないところだった……じゃなくて、こんなところに花なんて咲くのね」
しかしこんな花は見たことがない。山や森へ木の実を探す為によく出掛け、大体の草や木、花に詳しくなったアリアですら、知らない種類だ。
腰を折り、ランプを近づけて花を観察する。淡い紫色をしている。特別綺麗というわけではないが、妙に引かれるものがある。
「枯れ井戸に咲く一輪の花……かぁ。逞しく、そしてちょっぴり寂しいわね。まるで……。…………。……よし、誰も知らないなら、私が名前を付けちゃいましょう」
アリアは井戸へ降りた当初の目的を忘れ、頭を捻る。
「……スイレン、かな」
意味はそのまま、枯れ井戸に咲く花のこと。誰も寄りつかない暗い闇底で、たくましく生きる花に相応しい。ーー我ながらその命名に太鼓判を押す。
「うー、でも私、水をなんとかしなくちゃいけないのよ……ごめんなさいね、スイレン」
スコップを持ち、頭を垂れた時、肩に小石がぶつかった。落下してきたようだ。アリアは頭上を見上げる。そこには複数の人間の顔があった。
「!!!!」
顔の横に顔。顔の下に顔。顔の上に顔。あらゆる方向に顔という顔がある。全ての視線がアリアを目掛けて降り注ぐ。
「やつ……だ!」
間違いない。井戸の外には今、やつがいる。そして井戸の底を見下ろしている。ここまでは入って来られないとたかをくくりながらも、震える身体を止められない。
暗く、静かな井戸底に聞こえるものがある。ブツブツブツという人の喋り声。まさか、とアリアはやつの複数ある顔を見上げた。
ーーたすけて、たすけて。
やつは、いや、やつらはそう言っていた。
ーーたすけて、たすけて。
何から? 助けてほしいのはこっちだ。
ーーたすけて、たすけて。
井戸底で怯える少女に助けを求められ、アリアは沸き立つ心を止められない。
「助けて? はは……何言ってんのよ。マジで……何? 私のお父さんを、お母さんを……弟を殺したやつが何言ってんの?! 笑わせるな!!
声を張り上げた。心の底からの怒鳴り声だった。怒りを、悲しみを、寂しさを、全てぶつけた。
笑わせるんじゃない。可笑しくてたまらない。
どいつもこいつも自分から離れていくから。
(ーー違う)
アリアは見た。やつの中にいる、家族3人の顔を。
「違うよ……リーテだけは……戻ってきてくれた……」
ーー本当に?
やつらの言葉に、変化が生じる。
ーー戻ってきた人は本当に、お前の弟か?
ーーわかってるんだろ?
ーーわからないフリをしているだけなんだろ?
「ーーーーっっ!!!!」
声にならない声。悲鳴にならない悲鳴。
認めたくない、認められない。
帰ってきてくれたのだ、あの人は。アリアの元へ。
あの人はリーテだ。双子の弟だ。
それは誰にも、否定させない!
「消えろ! 邪魔をするな!」
取り戻した幸せを邪魔するやつは、決して容赦しないーー。