5節 黄金の天秤
ここキイラ・ドゥリデの研究所の敷地はかなり広大だ。1周をするだけで20キロメートルは歩かねばならない。敷地の中央に主となる研究施設が有り、その周りを取り囲むように小規模の研究室が連なる。宿舎は、更に離れた外壁に近い場所に位置する。この形状は、研究施設で実験による如何なる事象が発生した場合でも、敷地の外へは影響が出ないように設計されているのだ。
「さぁ、ここだよ」
案内された部屋は、さすが研究所ともいうべきか、ただ休むことだけを目的としたつまらない内装であった。部屋の両の隅には机とシングルベッド。娯楽品は無し。代わりに分厚い研究書が山のように積まれている。研究書に関しては以前、この部屋を誰かが使用していた際の名残だろう。
リーテは部屋の中にアリアが入ったことを確認すると、廊下へ出て扉を閉めた。
「え?」
すぐに開かれた扉から顔を出したアリアは、さっさと立ち去るリーテの背中へ向けて素っ頓狂な声を投げかける。
「ちょ、ちょっと」
意図に反して止まってくれないリーテをついに追いかけ、アリアは自分の中で当然の疑問を口にする。
「どこ行くの?」
「どこって……他の空部屋だよ」
「え? え? なにそれ意味わからないんだけど」
「なにが?」
「なにがって……どうして私とアンタが違う部屋なの?」
さも同じ部屋で泊まることが当たり前であると、アリアはそう訴えていた。
「研究所は、男女同室は禁止なんだよ。それがたとえ家族でも」
リーテは立ち止まって振り返り、自分のことを小走りで追いかけてくる姉の姿を見て思わず笑む。
「何故かっていうとね、その昔ーー恋仲に落ちた研究者の若い男女が初めての夜を同じ部屋で過ごした翌朝、男の方が部屋から忽然と姿を消すという事件が起きたんだ。研究所のどこを探してもいない。おかしいなと思った当時の所長が女に男の行方に心当たりはないかと訊ねた。すると女は、低い男の声でこう言ったんだ。ーー彼女と俺は一緒になった、とね」
間抜けにも口を開いたままリーテの顔を見つめるアリアは、望んでもいないのに研究所にまつわる狂事件を知ることとなる。
「その女はね、女じゃなかったんだ。正確には<女の皮を被った男>かな。部屋のクローゼットを開けると、そこには皮をまるごと剥がされた女の死体があった。そう、文字通り男は女の皮を被ったわけさ」
「な、なんの話よ……」
「女を愛し過ぎたゆえの、男の狂った犯罪だよ。しかも科学者らしい狂い方だ」
「なに感心してんの」
「その事件があったから、男女同室は禁止になったんだ」
「そう……それなら、仕方ないわね」
「残念だった?」
「え?」
「僕と同じ部屋で、つまりは僕と同じベッドで寝たかったんでしょう? ごめんね、今晩は淋しい思いをさせてしまうね」
「むっ……勘違いしないで! 私がアンタと一緒に寝るのは、淋しいとかじゃなくて1人が怖いからっ……」
「はいはい。でも、<やつ>はここには現れないから大丈夫。たとえ現れたとしても国の外だからーー」
「わかってる!!」
アリアは宿舎内に響き渡る声で返事をし、踵を返した。扉をバタンと閉めてベッドに寝転がり、強く目を瞑る。しかし視界が閉ざされると、我先にと引っ張り出される記憶映像はカーデル夫妻の亡骸と、ミシェルの痛々しい姿だ。見てもいないのに、処刑シーンがリアルに再生される。
たまらず目蓋をこじ開ける。記憶映像は途切れた。
「……はぁ」
研究所はキライだ。理由は、人体実験や動物を利用した研究がどうも人の道を外れているような気がしてならないから。事実、リーテからは研究所にまつわる狂った犯罪の話を聞いた。
でも、その研究のおかげでミシェルは助かるかもしれない。どこも受け入れてくれなかったミシェルを、実験も兼ねているとはいえ受け入れてくれた。これは事実。
そして研究所へ導いてくれたのはリーテだ。
(あ……お礼、言ってない)
アリアは上体を起こし、両足をベッドの下へ降ろした。
別に明日でもいいじゃないか、とは頭のどこかで考えている。でも言いたいと思ってしまった気持ちは止められず、アリアは再び部屋を抜け出した。
廊下は暗かった。等間隔で設置されているランプの火が全て消えていたのだ。どうやら消灯時間らしい。しかしアリアは部屋に戻ることはしなかった。
窓から僅かに射し込む月光だけを頼りにゆっくりと廊下を進む。暗い上にリーテの部屋の場所を聞いておらず、更に振り返ってみても自分の部屋すら闇に見失い、前に進むことだけを強要される。しかし、それを仕組んだ張本人は他ならぬ、アリア自身である。
闇の中に足を沈めて数分、僅かに光が漏れる扉を見つける。そこがリーテの部屋であるという期待を抱き、手を置いた。
「……なに、ここ」
開いた場所を一言で言えば、そう表現せざるを得ない奇妙な部屋であった。研究室だと言われても首を傾げてしまうような、そう、奇妙な部屋に名称を与えるとするならばーー<観測室>が相応しいだろう。どうしてそんな名称が浮かんだのか、アリアは自分でもわかっていないし、宿舎に個人部屋を目的としない場所があるのはおかしい。
当然ながらリーテの部屋ではない。
部屋の中央には、高さ1メートルで幅が2メートルはあるであろうY字型の<黄金の天秤>が置かれていた。それ以外、余計なものは一切無い。輝くばかりのそれは誰の作品なのか。名工かそれとも名も知れぬ彫刻家か。
「凄いわ……なぁに、これ。両方の皿には蒼くて綺麗な球体が乗ってる……」
アリアは吸い込まれるように部屋の中央へ寄り、天秤に顔を近づける。天秤とその皿に乗る球体の輝きが眩しいが、それらから視線を外せない。
皿の上に乗る蒼色の球体は、よく観察すると宙に浮かんでいた。どういった力が作用しているのかわからないが、この場所が研究所であることを加味すると、浮力やバランスなどの実験中の代物なのかもしれない。
「あら? よく見るとこの天秤、左側に傾いているわね」
傾きはほんの僅かだ。しかし双方の蒼い球体は大きさも質量も全く同じに見える。だから、たとえ僅かであっても重さが変わる理由がわからない。
ーー違いは何だ。この2つの球体の一体、どこに違いがあるという?
少しの傾きなど、普通なら誰も気にしないだろう。気づくことすら無いかもしれない。しかし傾きを敏感に感じ取ったアリアは、不安という不安に全身を支配されていた。
天秤のバランスは、保たれなければならないーーそんな強迫観念が、アリアのナカに渦を巻くのだ。
「傾きは……修正しなくちゃ……」
アリアは何かに取り憑かれたようにーーあるいは本当に取り憑かれていたのか、僅かに傾いた天秤へとおもむろに手を伸ばしていた。
指先が天秤に触れたとき、それは起きた。