3節 まるで別の人
見えないならば、視ればいい。
見えないならば、感じればいい。
見えないならば、耳をすませばいい。
それでも見えないならば……助けを求めたらいいじゃん!
私に<命>を戻してくれた男性は、私に<生きる勇気>を与えてくれた。
こんなどうしようもなくて、ちっぽけな命でも世界には必要なことを。
名前をベランジェ・ハズワールといって、敏腕の人体研究者だ。
「あ。やばい。カエルの干したやつを準備室に忘れた。悪いんだけどミシェルちゃん、取って来てくれなぁい?」
今まさに実験を始めるという直前に、ベランジェは慌てて両手をひろげて振り上げ、「中止」を意味する動作を繰り返す。
「目の見えない私に、急を要する用事を頼むんですか?」
「頼むヨー!」
それは私が目を見えないからといって特別扱いをするわけではなく、他の研究員の人と同等にみてくれていると誇らしく思うべきなのか、または何も考えていないと捉えるべきなのかーー釈然としないまま私は準備室へ向かった。
こう使いパシリのようなことを日々されていると、目が見えなくとも研究所の構造を熟知してしまうものだ。私は杖を使うことなく、慣れた足で廊下の角を器用に曲がり、準備室の扉に手を掛けた。
扉を開いた時、中に誰かがいることは気配でわかった。だが、それが誰であるかを判断する術はまだ身につけていない。
「あ、ビックリしたぁ……誰かと思っちゃったよ」
それはリーテの声だった。瞬間的に私は身を強張らせる。
手術が成功して目が覚めたあの日、友達のアリアは会いに来てくれなかった。きっと弟のリーテが何か仕組んだに違いない。だって、彼は私の存在がアリアにとって良くないとーーはっきり、断言したのだから。
リーテは研究所で働いている。元々の頭の良さと人体研究への熱心な姿勢、そして姉との生活の為に働く彼を気に入ったベランジェやその他の研究員による後押しにより、正式な職員として採用されることが決まった。
しかし、その日会ったリーテは、リーテなのにリーテではないような……いいや、姿を見たわけではないから何とも言えないけれど、でも、確かにその日のリーテは私が知る素っ気ない彼ではなかった。
そう、まるで別人。
「マリーじゃん。ここに何か用? またベランジェにパシられてんのぉ?」
リーテはケラケラと笑う。
「あの……私、ミシェルなんですけど」
ここまでハッキリと名前を間違えられたことはない。少し腹立たしくなる。
「……。そうだっけ。……ダメだなぁ、ここにいると現実と記憶の区別がつかなくて、頭が混乱を極めるよ。カラダはここにあるのに、魂が狭間でさまよってる感じ? 第一、ボクは組織に追われる身でさぁ、いつまでも同じ場所にとどまってるわけにはいかないんだよねぇ。早く<アイツ>の頼み事を終わらせて帰らなくちゃ」
リーテは酔ってでもいるのか、言ってる内容が支離滅裂だ。私はこんな人の相手になる必要は無いと判断し、さっさと用事をすませることにした。
「えー、干したカエルをわざわざ取りに来たのぉ? ベランジェはついに黒魔術でも始めるつもりかよ、あはは」
「…………」
「ねぇマリー。この世界はねぇ、キミが思っている以上に複雑且つ傲慢にできている。そこに住まう命のことなんて考えちゃいない。不要になったら、捨てるだけさぁ」
「少し、黙って」
「キミもさ、我が身に降りかかった不幸を呪うだろ? どうして自分が、ってさ。そういう時は遠慮なく呪えばいいんだよ? そして影へ落ちればいい!」
「黙って!」
「安心して。ボクが必ずキミを殺してあげるからさぁ……。裏切り者のボクでも、未だ正義のヒーローであり続けるなんて、なんて皮肉なんだ! あははははは!」
もはや人格が変わったと言ってしまっても過言ではないほど、リーテは口調も性格も思考も全てが歪みきっていた。
私は少しでも早くこの少年から離れたくて、干したカエルを詰めた瓶を手探りで探す。焦りは余計な動きを生む。私の腕に当たった瓶が棚から落ちた。そこは確か、小動物の脳味噌を並べている棚だ。
「しまっ……」
瓶が落ち、そして割れる音が聞こえない。私は、リーテが瓶を床に落ちる寸前で受け止めている様を気配で感じ取った。
「ーー危ないところだった。次からは気をつけるんだよ、ミシェルさん」
いつもの口調、雰囲気、そして性格に戻った彼から逃げるように、私は準備室から逃げ出していた。