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影操師 ―誰かの記憶の物語―  作者: 伯灼ろこ
第一章 少女が生きた記憶
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 11節 少年が帰った場所

 少年は眠りから目覚めた。いや、<帰ってきた>と表現した方が正しいか。

 長く眠っていたせいで全身が怠く、そして重い。脳の使い方や、身体の動かし方を少し忘れている。

 これは長らく無重力空間を漂っていた宇宙飛行士が重力のある地球へ戻ってきた際の現象と似通っている。

 まず目を開け、視界に映るもの1つ1つの名称を頭の中で呟く。それは身体よりも先に脳の作動を確認する為だ。

(糸……白い……木……天井)

 暗くて至るところに蜘蛛の巣が張ってある為に判別に時間を要したが、少年が横たわっている頭上には、木造の天井が広がっているようだ。かなり古く、狭く、時代を感じさせる。

 次に首を視線と同時に動かす。すると、木造の天井しか存在しなかった視界に1人の少女の顔が写り込む。黒い外套に覆われたシスターのような少女は、ベッドに横たわる少年を見下ろしていた。

 少女は、少年が帰ってきたことに気が付くと、くしゃりと笑った。

「お帰りなさい、リーテ」

 名を呼ばれ、少年は少女をギロリと睨みつける。

「やめろよ。ボクはそんな名前じゃない。ちゃんと親からもらった名前があるし」

 上体を起こし、頭と首に繋がれた<管>を外す。ベッドを取り囲むように並ぶ<コンピュータ>が一昔前を思わせるほど古い。ピコピコとした電子音も相まって、笑ってしまうくらいにお粗末な代物だ。

「ーーボクの名前は亞也だよ。天羽亞也あもうあや。いい加減に覚えろよ馬鹿女」

「!! また言った! また馬鹿って言った!」

「事実だろ」

 白い髪をかきあげ、長いあくびを数回繰り返すと徐々に身体の動かし方を思い出してきた。

「じゃあちゃんと名前で呼んでやるよ。ーーミシェルさん」

「ちょっと! その名前で呼ばないでくれる? 今の私はマリー・アゾネットよ!」

 マリーというシスター風の少女は、亞也という少年に呼ばれた名前を強く否定する。

「はぁ……それより亞也、ちゃんと私とアリアを引き離してくれた?」

「もちろん」

「さすがね。どうせ汚い手でも使ったんでしょ?」

「別に? ボクはただ、嘘を吐いただけですよー」

「あはは、酷い弟ね!」

「……違うよ?」

 亞也はにこりと笑む。しかし表情に反して声は弾んでいない。

「ボクはアリアの弟じゃない。全くの他人どころかーー……住んでいる時代も国も違うんだから」

 しばらくの間を置いて「あはは」と亞也は無邪気に高笑いをする。いかにも可笑しくてたまらないというように。或いはずっと騙してきた相手に対し、ついに種明かしをする機会を得たように。

 しかしコンピューター画面に表示されている現在の日付と時間を目視するなり、亞也は再び無表情に戻ってマリーに訊ねる。

「今日は8月15日……終戦記念日か。なぁマリー、ボクは一体、どれくらいの間眠ってた?」

「んーと……あれ? いつだったかな……開始した日を覚えてないわ。亞也、<記憶の世界>でどれくらいの期間を過ごしたの?」

「約2年かな」

「じゃあ1ヶ月ね。<記憶の世界>の1日は<現在の世界>での1時間に相当するから、亞也が眠っていた期間は1ヶ月」

「1ヶ月……か。まだそんだけしか経ってなかったのか。かなり長く寝ていた気がしてたけど……とりあえずボクは組織からの逃亡に成功したままなんだね」

「まぁね」

「この場所、組織の連中に見つかると思う?」

「それは無いんじゃない? こんな記録にも残っていない<研究所跡>の地下室になんてーー誰も近付かないわよ」

「だといいんだけど」

 亞也はベッドから足を降ろし、リハビリも兼ねて部屋の中を歩く。

 外の光が届かず、またコンピューターの明かりしか無い地下室は不用意に不安を煽られる空間だ。だが仕方ない。亞也は首と腕を回して身体をならし、<現代の自分の身体>の感覚を取り戻そうとしている。

「ああっ、亞也、そっちは行ったらダメだからね! あの女の子が寝てるから」

 闇雲に動き回っていると、マリーの制止の声が飛ぶ。どうやら、この狭い空間にはまだもう1つベッドがあったらしい。

「……。ああ、そうか。忘れてた」

 暗闇に僅かに浮かぶベッドのシルエット。そこに横たわる少女を素っ気なく流し見て背を向け、地上への階段に足をかける。

「亞也、どこ行くの?」

「夏の日射しを浴びてくる。<あっち>は今、冬だからさーー寒いことに飽き飽きしちゃったんだよね」

「なるべく早く戻ってきてよね。何回も言うようだけど、こっちの世界と<記憶の世界>では、進む時間の速度が全然違うんだからーー」

 マリーの声に混じった焦りの色。亞也は片手だけを振って了解の意を伝える。

 重い鉄の扉を開けると、真っ先に降り注ぐのは太陽の光だ。あまりにも眩しく、亞也はしばらく片手で目を覆っていた。

 やがて目が太陽に慣れてきた頃、耳に届くのは蝉時雨。気持ちの良い陽光をいっぱいに浴び、額にじわりと汗をかく。

 眼前に広がる光景は、亞也に薄い息を吐き出させる。

 地下室から這い出たその場所にはーー天井が抜け落ち、壁も無い。木や草が思い思いの場所で育まれ、絡まり、独自の空間を形成する。この場所には自然以外のものはほとんど何も無い。それでも僅かに残っている建物の土台を頼りに、亞也は大地を踏み進む。

 見渡す限りの緑は、ここが森の中であることを示す。しかもかなり深く、近寄る人間などいないだろう。たまに見かけるロープは先っぽが輪になっており、木の枝にぶら下がっている。風も無いのにゆらゆらと揺れる様は不気味の一言。ロープの下へ視線を向けると、想像していたものがそこにある。

「こんな場所に来るやつは、世捨て人か、または……」

 こんな場所。

「キイラ・ドゥリデ」

 亞也は呟く。不思議な響きがするその単語は、どこの国の言葉でもない。でも少年はその単語の意味をよく知っていた。

「ったく、面倒くさいなぁーっ」

 そして嘆き、足元に広がる黒い影を蹴りつけた。


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