10節 好き。それは誰のことを?
夕刻。
昼と夜の境目の時間は、1人でいることが寂しくなる。誰かに会いたい、誰かの温もりを感じたい。そんな人恋しくなる時間は、愛する人が待つ場所へと足早に帰宅する方がいい。
ギギ、と、木造特有の音を立てて扉が開く。外側から扉を開けた主は、胸と腹に不意打ちを食らって派手に倒れた。その衝動で抱えていたものを家の中や外、あらゆるところへ散らばらせてしまう。
「痛った……」
いま我が家へ帰宅したばかりの少年は、仰向けに倒れた状態から解放されようと上体を起こす。しかし重い。視線を下方へ滑らせると、自分と同じ髪色と顔をした少女が少年の身体の上に覆い被さっていた。
悩むように宙をさまよっていた少年の手は、少女の頭上にて一定のリズムを刻むことを選ぶ。
「急にどうしたのさ……アリア」
少女ーーアリアの頭を撫でながら、少年ーーリーテは視界の端にて林檎や葡萄といった高級な食材が泥にまみれている様を確認して、溜め息を吐く。
「もう、せっかくアリアの為に買ってきたのに」
「おかえりなさい」
「え? ああ、うん。今帰ったよ」
「<ただいま>でしょ!」
埋めていたリーテの胸から顔をあげたアリアは、膨らんだ頬を更に膨らませて言葉の訂正を求めた。
「……ただいま」
今朝、家を出る時とまるで違うアリアの様子に不審を抱きつつも、リーテはそろそろ言わねばならない内容を告げる。
「何があったかは知らないけどさ……アリア、報告があるんだ」
「……なによ」
上体を起こしたリーテとは視線を合わせず、しかしぶっきらぼうに応えるアリア。リーテは苦笑し、なるべく自然体を装い、しかし慎重に言葉を選ぶ。
「僕、明日からしばらく家に帰れないから」
「……? 理由は?」
存外、アリアは冷静だ。リーテは肩透かしを食らう。
「出張。研究所関連の仕事でさ、センフェロンから離れたバルバラン帝国まで実験に使うサンプルを受け取りに行かなくちゃならないんだ」
「どれくらい時間がかかるの」
「わからない。でもなるべく早く帰るから」
僕がいない間の食糧ーーと称し、リーテは散乱した果物や食材をかき集めてテーブルの上に置いた。アリアはそれらを気怠そうに見回しながら、
「だから研究所は嫌いなのよ」
と口を尖らせた。そして、
「約束よ、絶対に帰ってきて。あと、バルバランの地で変な女と仲良くなったら許さないからね」
とも念を押す。期待していたアリアの反応をやっと見ることができて、リーテはニコリと笑む。
「もちろんだよ。アリアもさ、僕がいない間に他の男を連れ込んだりしないでよ?」
「……アンタの帰りが遅かったら、腹いせに連れ込むかも」
「はは、勘弁しておくれよ」
冗談めかした会話もほどほどに、リーテは夕食の準備にとりかかる。バケツいっぱいに井戸水を汲んで家の扉を開いた時、アリアは悲鳴に近いを声をあげた。
「どうして?!」
その第一声に面食らい、リーテはバケツを抱えたままアリアの詰問を受け止める。
「え……なにが?」
「その水よ! どこから汲んできたの?!」
「そこの井戸だけど?」
「嘘!」
「嘘じゃないよ」
アリアはリーテを押し退け、暗い荒れ地へ飛び出す。そして井戸を覗き込み、目を凝らした。
暗く、深い井戸の底。そこに映り込む月が揺れる様を見て、アリアはほう、と息を吐く。
「アリア、急にどうしたのさ」
薄いワンピース一枚で井戸を覗くアリアに上着をかけ、リーテは困惑したように訊ねる。
「花」
「花?」
「飲まれちゃったわ……」
「??」
アリアはしばらく垂れていた頭をあげ、リーテの手を掴んで家へ戻った。
「ねぇ、リーテ」
「なあに」
蝋燭に灯った火を打ち消すリーテの後ろ姿を、アリアはベッドに頭を押しつけながら眺める。
「私も、働いた方がいいわよね」
「なんで?」
ぼんわりと仄暗かった家の中から蝋燭の明かりが消失し、闇に浸る。リーテは大体の感覚で闇の中を移動し、アリアが待つベッドに腰を降ろした。
「だって、その方がもっとゆとりのある暮らしが可能でしょ?」
「王都へ行きたいが故の口実じゃないだろうね」
「失礼ね! 私は純粋に、2人の生活の為にっ……」
「要らないよ。君は今、君自身がすべきことに専念すべきだ」
「私がすべきこと? この怠惰な日常の中で? わからないわ。具体的に教えて」
「自分で考えて。僕の為を思うならさ」
少し冷たい返し方だったかもしれないと、リーテは言った後に少し反省をする。アリアを見ると、不貞腐れたようにそっぽを向いている。
「ごめんよ、アリア。僕はただ、君に危ないことをしてほしくないだけなんだ」
リーテは許しを得る為、もそもそとベッドの上を移動してアリアを後ろから抱き締める。アリアは少し抵抗を見せるが、そのまま抱き締め続けると、諦めたのか大人しくなった。
「王都へ行くのは……そんなに危ないこと?」
相変わらずそっぽを向きながら、アリアは膨れた声を出す。
「治安が悪くなってるんだよ。王が新しくなってから入国審査が甘くなってさ、奴隷商人などの悪徳商人やガラの悪い傭兵崩れが増え、そして他国から<娯楽>としての<処刑>が輸入された。罪人をどう処刑するか、は今やショーの1つでさ。処刑が盛り上がるか否かで、王への支持率が左右される時代になった」
「……でも王都には<やつ>は現れないでしょ。やつはいつも、この荒れ地を徘徊しているもの」
「確かにやつは危険だね。でもやつにはこちらの姿を見せないか、または背中さえ向けなければ襲われることはない。僕は、生きた人間の方が怖いと感じるタイプかな」
「リーテにも……怖いものがあるのね」
「なにそれ。僕だって人間だよ? あるに決まってる」
「ーー私が怖いものは」
リーテの腕の中で、アリアがぐるりとこちらを振り向く。そしてリーテの首筋に頬を擦り寄せ、甘えた声を出すのだ。
「リーテ、貴男がいなくなることよ」
「…………」
アリアが恐れているもの。リーテは、それに対して返事をすることが出来ないでいた。ただ簡単な言葉を与えてあげれば良いものを、それが何故か、躊躇われた。
「リーテ……」
甘い声だ。こんな風に名前を呼ばれたことは無い。いや、一度だけ寝言で聞いたことがあるか。
(でも、あれは僕を呼んでいるわけではない)
リーテはアリアの白い髪を撫で、尚も自分の名前を呼び続ける声に奇妙な心地の良さを覚える。そして僅かな違和感を拭い去れない。
「リーテ……好きよ」
これはいつもリーテのことを本当の弟ではないと、ことあるごとに言い聞かせていたアリアの本心というところか。
「…………」
名を呼ぶ声は途切れ、規則正しい呼吸音に変わる。アリアは眠りに落ちていた。
「……好き、か。ねぇアリア、それは誰のことを?」
わからない。
ではリーテは?
リーテはアリアのことをどう思っているのか。
(考えたって、仕方ない)
だって、僕は。
*
陽が昇り、アリアが目を覚ます時間。
ぼやけた視界には、やけに広くなったベッドがある。
2人で寝ると狭くて、ベッドから落ちるのはいつもアリアの役目だった。弟に言わせると、アリアは寝相が悪いらしい。だから1年くらい前からは、寝る時は必ず両手でしっかりと固定してもらうようになった。それが心地よく、今では弟無しでは眠ることすら難しくなってしまっていた。
「…………」
広くなったベッドに、広くなった家。そう感じるだけだ。1人暮らしと2人暮らしには、どうやら大きな違いがあるようだ。
居間のテーブルには、朝にしては手の込んだご飯が並べられている。ついこの間まではパンばっかりであったのに、ベーコンや玉子焼き、果物までが追加されている。
「…………」
玄関の扉を押し開け、隙間から侵入する寒風に身を強張らせる。ーー春はまだ遠い。
家の裏に整然と並べられた薪の数が、増えている。いつも出しっぱなしのオノは家の壁に寄せられ、寝ぼけ眼で歩くアリアが怪我をしないように配慮されている。
井戸を覗き込む。やはり暗くて見えないから、ロープで繋げたバケツを放り投げた。
ばしゃん。
水に投げ込まれ、ゆらゆらと揺れる音。
アリアは寂しげに笑った。