1節 荒れ地の小屋に住む少年と少女の朝
ーーこれは、いつの記憶なのか。
少年は寝起きが良いほうだ。世界が白み始めると同時に目を覚まし、軋む木の床上に足を滑らせ、玄関の扉を開ける。
滑り込む冬の寒風に僅かに身を強張らせ、少し俯き加減で一歩、足を外に出した。
まだ陽が顔を出していない時間は、世界が全体的に薄暗い。顔をあげた時、一羽のユーキ鳥が頭上を通りすぎて丘の向こうへ消えた。
「はぁ」
吐いた息では誤魔化す程度しか手を温められない。
白い息よりも白い髪色をした少年は家の裏手へ回り、昨晩のうちに井戸から汲み上げておいた水でばしゃりと顔を洗った。
赤く震える両手を払い、井戸の横に整然と並べられた薪を数本小脇に抱えて家の中に入る。
「きゃー!」
暖炉の中に薪を入れ、マッチで火を点けたタイミングを見計らうように少女の悲鳴が聞こえた。続いて何かが落下する重音が心臓に響く。しかし少年は動かないし、気にもしない。何故なら、それは日常茶飯事だから。
「やだ……コブが出来たわ確実に!」
静かで、寒い家の中が騒がしくなる。少年は首だけを後ろへ向け、溜め息混じりにお決まりの台詞を言う。
「いったい、何個目のコブなんだよ」
「えーと、ほぼ毎朝ベッドから落ちてるから……んーと……わかんないな!」
頭を強く打つことで半強制的に目を覚ます為か、少年と同じ白髪をした少女は寝起きの時からやたらとハキハキしている。いつか脳に支障をきたすのではないかという少年の不安をよそに、少女は綺麗に片付けられたテーブルの上を舐め回すように見ては唸り声をあげる。
「リーテ、朝ごはん」
「薪割りを終えたら町へパンを買いに行くよ」
「パン? 昨日もパンだったわ。卵やお魚、果物は無いの?」
「アリア……うちの経済状況を考えておくれよ。僕らみたいな子供だけで生きていくには、パンを買うだけで精一杯なんだ」
「…………」
切実な訴えも、少女ーーアリアにとっては小賢しい言い訳でしかないらしい。その不満げな表情が、わざわざ言葉に出さずとも納得の意を示していないことを暗に告げている。
「……。このまえセンフェロンの王都へ行ったら、私とおんなじくらいの歳の子がとても綺麗なドレスを着て歩いていたわ。そこは王宮への道だったから、きっと舞踏会の参加者ね」
「! このまえ? いつ? 僕に黙って、1人で王都へ行ったの?!」
まさに急ともいうべき速さで、リーテはアリアを責め立てる。信じられない、と何度も首を振りながら。
「エリナおばさんのダンス教室を覗いていたのよ。ほら、リグー地区の十字路の中央にあるでしょう?」
「つまり1人で行ったんだね?」
「ええ、行ったわよ。アンタに黙って、1人で30キロメートル離れた王都へ」
リーテは盛大に溜め息を吐き、好奇心と王都への憧れに満ちたアリアに対する叱りの言葉をグッと飲み込む。
「王都は……まだ安全だ。けど町へ一歩出たら、ゴロツキや傭兵崩れのロクでもないやつらでいっぱいだ。最近は奴隷商人も出没していると聞くし、治安は悪くなる一方」
「はん。そんなの、<やつ>に比べたら危険度は低いわ!」
部屋の隅に置かれた机。すぐ近くに意味無く積まれたわけではない学術書の数々は、人から譲り受けたものもあるし、廃墟となった町から拝借してきたものもある。後者の方が大半かもしれない。
「今年、王都にあるキイラ・ドゥリデの研究所に入る。そうしたら、僕ら二人分くらいの衣食の保証はしてもらえる」
「研究所はキライよ。そんなところに入るくらいなら、王の小間使いにでもなりなさいな。研究所とは違って、お給料というものがもらえるわよ。それに第一、センフェロン王は男色家だと聞くし、リーテは綺麗な顔をしているからもし気に入ってもらえでもしたら将来は安泰よ!」
「……君、僕に売春をさせる気か。王を相手に」
「ん。冗談よ。あら、悪ノリが過ぎたかしら。お腹が減っているから少しイライラしているの……」
それまで調子良く喋っていたアリアは突然に口をつぐみ、リーテと顔を見合せる。リーテもこのアリアの反応を不自然とは捉えず、同様なる表情で互いに互いの顔を見つめ合っている。
カタカタと小刻みに震える音を出すのは、棚に並べられた食器だ。床に張り付いた足に僅かな振動が伝わる。
1秒が経つ毎に振動は大きくなる。家全体が地震を示す揺れを計測する。でもこれは地震じゃない。
ドシ、ドシ、と振動を音として聴覚がとらえた時、リーテはアリアの手を引いてその身体を己の両の腕の中に閉じ込め、ベッド下に素早く滑り込んだ。
「リーテ……!」
「しっ。声を出しちゃいけないよ。息もなるべくしないで」
ーーやつが通りすぎるまでの我慢だ。
ドン、ドン。振動にあわせて身体が跳ねる。アリアはリーテの背中に回した手をギュッと握り、ベッドと床の隙間から僅かに見える窓の外へと揺らぐ視線を滑らせる。途端、悲鳴をあげそうな唇をリーテの胸に押しつけた。
目が、合いそうだった。
その後の数分は、数日にも感ぜられるほど長く、リーテが「もう大丈夫」と言ってもアリアはしばらくはそこから動けなかった。
「もう、しっかりしてよ。アリアは僕のお姉さんでしょ」
「……それはアンタが勝手に言ってるだけじゃない。たまたま、それはそれは偶然に、私たちの顔が酷似していたから……」
私とアンタは他人よーーと疲労しきった表情で、しかし念を押すようにアリアは低く呟いた。
静かになった辺境のこの土地で、静かな家の中のベッドの下で、しばらくを同じ態勢のまま過ごす。乱れた呼吸が正常状態に近くなった頃合いを計り、アリアはリーテの胸から顔を離した。
「……朝ごはん」
まれに姿を現す<やつ>に対し、2つも年下の少年に泣きすがっていた自分の恥ずかしさを誤魔化すように、ぶっきらぼうに要求する。リーテは「はいはい」と言うと、ベッドの下から這い出て上着を羽織った。