8.暗転
アリシアは、宿の通路を迷いなく進んだ。
売られたという数年前と、この宿の造りはそう変わってないのだろう。
ミランダの部屋のドアの前に落ちているケープを見て、アリシアはかがんで拾った。
血の跡を一時的に隠すために放り投げた、例のやつだ。
夜目にも安っぽいソレから重力に従ってポタリ……と黒い何かが滴る。
廊下の照明は夜間最大限に絞ってあるので彼女にはよくは見えなかったろうが、液体の正体については、十分予想がついたことと思う。
それでもアリシアは騒がなかった。
落ち着いた様子で、ケープを片手にドアを押し開ける。
部屋の中の明かりは灯ったままだった。
母親の凄惨な死に様は、ハッキリと見えたはずだ。
だが、彼女は動揺することなく死体をちらりと見た。
そして母親の首から、服に隠れるようにしてつけてあったネックレスを乱暴に奪い取る。
「死んじゃった人には、もういらないものね。
まあ父さんの形見だし、売値もつかないような安物だけど、もらっておいてあげる。
ね、いいでしょ? 私がもらっても……」
ニッコリと笑う彼女を見て、俺はビックリした。
彼女が奴隷となったのは、母が孤児に情けをかけたから。
もしかしたら、それを恨みに思っているのかもしれない。
でも、それだって、ミランダおばさんの『悪意』から始まった出来事ではない。
実の母親が死んだというのに、ここまで冷たいセリフが吐けるなんて……。
見つめる先の彼女――――アリシアは、奪ったネックレスを素早く身につけた。
その時、さっきのセリフとはそぐわない『切ない瞳』が一瞬だけ揺れた。
俺の胸がズキリと痛んだ。
違う。彼女は母親を憎んでなどいない。
ミランダは悪党だった。
それは間違いない。
娘の代価と引き換えに、どれほどの子供を地獄に落としただろう。
でも今思えば、自分の命より、アリシアを買い戻すためのお金を必死で守っていたような気がする。
きっとアリシアだって、そのことには気がついたに違いない。
おばさんは、アリシアにとっては『優しい母』のままだった。
そんな母親を『言葉通り』憎んでいるはずはなかったのに。
「……なんて顔してるのよ」
アリシアが、俺の顔をちらりと見て言う。
久方ぶりに流した涙が、俺の頬を伝っていた。
まだ泣けるなんて、思ってもいなかった。
エドガーを死なせてしまった時からもう、泣く資格など無いと思っていた。
でも、殺してしまったミランダが哀れだった。
彼女は娘を一日でも早く買い戻すため、通常の手段を選んではいられなかったのだろう。
早く。早く。一刻も早く。
こんな夜中に娘を届けさせるほどに急いでいた。
ミランダは悪党だった。
けれど俺だって、悪党とはいえ武器を持たない女性まで当然のように殺してしまった。
そうして、正義を気取っていた。
「馬鹿ねぇ」
ふっと頭に優しい感触を感じた。
「いいのよ、泣かなくても。だって金貨45枚分なんて、あんなボロ宿じゃ稼げないもの。
非合法なことしてるんじゃないかって、内心思ってた。
あんな女殺されて当然よ。
よりによって、子供を非合法に奴隷商に売り渡していたなんてねぇ。はは……」
アリシアの強気な瞳からも、涙が落ちる。
でもその涙の意味はきっと違う。
母をののしる振りをして、俺たちのために泣いてる振りをして、きっとアリシアは死んでしまった母のために泣いている。
ミランダに売られ……ミランダを恨んで殺した俺たちの前で、母のために泣くわけにはいかないから。
きっとそう……これは彼女が奴隷生活の中で身につけた処世術。
こうやって4年もの間、生きてきたんだ。
アリシアは、お屋敷で同僚たちが殺された時もこうしてきたのだろう。
公爵の前で同僚の死を悼んで泣くわけにはいかないから、公爵が罪もない女官を殺すのを微笑んでただ見てた。
そしてその後誰にも気づかれないよう、影でこっそりと泣いていたに違いない。
いつかお母さんが買い戻してくれることを信じて。
お母さんに会う日まで、生き延びるために。
「ごめんなさいっ!!
アリシアのお母さんを殺してしまって、ごめんなさい!!」
涙を止める事は出来なかった。
子供たちを奴隷に堕とした、悪魔のような女を『正義』に従って倒したと思っていた。
人間の心などない、死んで当然な女だと思っていた。
でも違った。
彼女を悪魔に仕立て上げたのは、心無い誰かの悪意。
自分の一人娘を慰謝料として取り上げられ、売られたミランダおばさんは壊れてしまった。
でもどんなに壊れても、娘を救うはずのお金だけは離さなかった。
そのために、たとえ自分が命を落とそうと。
彼女は元々、とても善良な人だったのだ。
血にまみれた浅ましい自分が嫌だった。
ひとしきり泣いた後、俺たちは宿の庭を掘ってミランダおばさんを埋めた。
冥福のための祈りは『元神官』であるリオンが引き受けてくれた。
おかげでひっそりとではあったが、きちんとした葬儀の形を整える事ができたように思う。
酷い人ではあったけど、それでもおばさんが天国に行く事が出来たなら……俺も嬉しい。
リオンも埋まっていくおばさんを見て、静かに涙を流していた。
エドガーのときは悲しむそぶりすら見せなかったのに、今回は他人とはいえ、共に暮らした人の死であったから、少しは悲しかったのかもしれない。
でもその娘アリシアに対しては、相変わらず警戒している様子が窺える。
無理も無い。リオンは何度も裏切られてきた。
エドガーの時も、おばさんの時も。
最初はリオンに優しかったのに、敵に回った。
もちろん、それなりのわけはあった。
でも人の世に出たばかりのリオンには、かなりの衝撃であった事だろう。
死者を悼む事は出来ても、生きている人間はまだ怖いものとして映っているに違いない。
祈りを捧げたあと、俺たちは旅の支度を整えた。
アリシアを連れてきた質素な黒い馬車は、持ち主を失ってずっと門の前につながれたままだ。
その綱を取って、俺たちは宿を後にした。




