リオン編 壊れた国の少年4
崩れ落ちるように膝をつき、平伏して兄の言葉を待った。
冷や汗が流れ、心臓が破れそうなほどに波打つ。
そのとき僕の手に、温かいものが触れた。
僕の王である兄様の手だった。
「別にそんなにかしこまらなくてもいいよ。兄弟なんだから。
ほら、つかまって?」
兄様は、そのまま僕を引き起こして下さった。
本当に本当に『温かい手』だった。その手は僕の心まで温かくした。
「ありがとうございます。兄様!!」
気がついたら、笑っていた。嬉しくて、嬉しくて……。
クロスⅦの言うとおりだった。兄様はとても優しい、素晴らしい方だった。
「……俺の事、ちゃんと知っていたんだ……」
「はい! もちろんです!!
先日は誕生日『ぷれぜんと』をありがとうございました!!」
僕は少し興奮していたのかもしれない。
早口にまくし立てると、小走りに白い机のところに行き、引き出しから手のひらに収まるぐらいの小さな『クマ、ノ、ヌイグルミ』を取り出した。
まずは何を置いてもあの『ぷれぜんと』のお礼を言わねば。
いつも僕の心を温め続けてくれた、……あの『ぷれぜんと』の。
「エルシド兄様からいただいたこの『クマ、ノ、ヌイグルミ』、とても温かいのです!
いつも一緒に寝ているのです!!
このぬいぐるみをぎゅっと抱いているとその……あの……僕、うまく言葉が……」
僕はそこで言葉を詰まらしてしまった。
こういう時、どんな言葉で気持ちを表せばよいのだろう?
「……嬉しくなるって言いたいのかな?」
僕の王は、少し身をかがめてそうおっしゃった。
「え……うれ、し……?
……それは、どういう意味の言葉、ですか?」
僕は首をかしげた。
聞いたこともない言葉だったからだ。
でも賢き兄様が、意味のない音を発するとは思えない。
じゃあ何か、僕の知らない高度な単語なのだ。
「知らないのか? 『嬉しい』って言葉?」
戸惑うような、兄の声。
「あ……はい。不勉強で申し訳ありません。
僕はまだ修行中の身なので、そういう難しい言葉は教えられていないのです」
僕は恥ずかしくて死にそうだった。
こんなはずではなかった。
想像の中でだけだけど……僕は憧れの兄様に何度もお会いしていた。
その中での僕は、クロスⅦみたいに背がすっと高くて、偉大なるアースラ様には届かないまでも、強大な魔術を意のままに操る知性豊かな素晴らしい神官魔道士だった。
しかし、現実は厳しい。
僕は会うなり兄様を汚き侵入者と間違えて魔剣を突きつけた上に、己の無知無教養ぶりまでも兄に晒してしまったのだ。
この世の終りのような顔をしていた僕に、兄は畳み掛けるようにおっしゃった。
「……じゃあ、『幸せ』とか、『楽しい』……とかは知ってるよな。なっ!!」
その言葉は、どれも僕の知らないものばかりだった。
しかも口ぶりを聞くと、どうもそれらの言葉はけっして難しいものではなく『ごく当たり前の教養』として身につけておかねばならないレベルの語彙らしい。
もしかして……僕は……本当は……すごく馬鹿だったのだろうか…………。
ど、どどどうしようッ!!!
このままでは、兄様に軽蔑されてしまうっ!!
知っているフリをしてしまうか!?
いや、バレたときが恐ろしい。というかすぐバレる。
心の中はパニック状態だった。
早く答えきゃ!
早く! 早く!!
馬鹿な上に、愚図な弟と思われてしまう。
「……それも……聞いたことがない言葉です。
兄様は…………とても、……物知り、なのですね……」
消え入りそうな声でそう答えるのが、精一杯だった。
もはや恥ずかしさは、すぐそばの壁に頭をガンガン打ち付けて死にたいレベル。
僕の馬鹿馬鹿。本当になんて馬鹿なんだ。
こんなことなら、毎日6時間の睡眠時間を5時間にして勉強するべきだった。
せめて今学習している神書第1211巻目だけでも最後まで予習しておけば、その中のどこかにこれらの言葉が出てきたかもしれなかった。
後たった317ページで終わりだったというのに。
ああッ……もう終わりだ!!
きっと兄は、僕のことを『頭の弱い、使い物にならない子供』だと思ったに違いない。
……クロスⅦの馬鹿っ!!
どうして、兄様がいらっしゃることを前もって僕に教えて下さらなかったのだ。
ちゃんとわかっていたら、交わされる会話の想定問答集をクロスⅦに作っていただき徹夜で学習したのに。
違うんですっ!! 兄様っっ!!!
僕は本当~に、本当ぉぉぉぉに真面目に勉強してきたのです!!!
兄様のお役に立てるよう、頑張ってきたのです!!!
さぼった事など一度もありません。
優秀だってクロスⅦにも、時々だけど言われているのです。
それなのに……。




