8.名前のない少年
「知らないのか? 『嬉しい』って言葉?」
「あ……はい。不勉強で申し訳ありません。
僕はまだ修行中の身なので、そういう難しい言葉は教えられていないのです」
少年は、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
何だって?
こういう言葉を知らない?
嫌な予感がしてゾッとした。
「……じゃあ、『幸せ』とか、『楽しい』……とかは知ってるよな。なっ!!」
祈るような気持ちでそれを口にしたけれど、少年は首を可愛らしくかしげ、
「それも聞いたことがない言葉です。兄様は、とても物知りなのですね」
と、その身を恥じるようにつぶやいた。
この子は何も知らない……。
母の事をかわいそうだと思った。
こんな子供がいるから、美しく優しいこの世の至宝のような母上が苦しむのだと。
でもこの子は、苦しむことすら出来ない。
何も知らない。
王子の一人だというのに、こんな子供の喜びそうな物のない真っ白な部屋に閉じ込められて、誰が贈ったとも知れぬ心のこもらない誕生日プレゼントに想いを寄せて……。
気がついたら、その子を抱きしめていた。
強く。強く。
瞳からは涙があふれた。
こんなのって無い。
幸せの意味も知らず、嬉しいという言葉さえ知らない。
この子はそういう人生を歩んできたのだ。
「あの……兄様って……とても暖かいのですね……。
僕も兄様に、その……ぎゅっとしてもいいですか?」
うなずくと気配を感じたのか、少年は腕を伸ばし、恐る恐る俺に抱きついてきた。