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   第三章


 宮中は前代未聞の事件で騒然としていた。

 しばらく行方を眩ませていた皇太子が、致命傷を抱えて戻ってきたのだ。

皇太子を殺そうとするなんて、一体だれがこんな不敬を企んだのか。宮殿の兵士たちは、暗殺を企てた犯人探しのために、国中を奔走している。国中の医者が集められ、最先端の技術をもって治療が行われたが、皇太子は未だにベッドの上で目を閉じている。

「まったく、賑やかなことだ。どこかで祭りでもやっているのか」

 巨体な身体で周りを威圧しながら、男はひとりごちった。

 宮殿の中は、騒音と騒音が重なり合って、あらたに生み出される騒音で満ちていた。不安の充満する宮殿には、ひとりだけ、皇太子の身を案じていない不届き者がいた。

 その名を、大将軍イカズチといった。

 イカズチが歩くと、鎧が音を立てた。

「みな、心配しすぎなのだ」

 あの程度の傷で、人は死なない。

百戦錬磨のイカズチだからこそ、はっきりとそう確信できた。

「しかし、あの傷は面白い」

 ひとりの女中が、イカズチの横を通り過ぎる際、ちらりと目線をあげた。イカズチの顔をみた女中は恐怖で目を見開いた。

「おっと、いかんな」

 イカズチは、慌てて口を押さえた。

 ツルの傷口を見て以来、気を抜くと、つい笑顔が出てしまう。願わくば、自分が護衛している時に犯人が現れてくれないものか。考えただけでにやけてしまう。

「いかんなぁ。これから護衛だというに」

 イカズチは、無意識に刀剣の柄を握っていた。

 いったい誰がこんな不敬を。考えなくても分かる。平民は洗脳の中にいる。貴族を神使いと信じ切っているようなやつらが、皇太子に歯向かうとは考えられない。その貴族も、今さら皇太子を殺す理由が見当たらない。

 犯行は、貧民によるものだ。もう、悩むべくもなし。犯人は、あの時、あの青年だ。

 イカズチは、深く息をはいた。

「まったく、ツルは余計なことをしてくれた」

 イカズチは、廊下にずらりと飾られている歴代皇帝陛下の自画像に目をやった。

「この国は、分岐点に立っているのだよ」

 部屋の前で足を止め、身なりを正す。寝ていると言っても、部下たちの手前、皇太子の護衛で下手なことはできない。

 鼻から息を吸いこむ。扉を開けると、そこは小さなシャンデリアの照らす赤い部屋だった。

イカズチが入ってくると、所々に散らばっている護衛兵たちは同時に敬礼してみせた。イカズチも、敬礼で応える。

「みな、御苦労」

張りつめていた空気が一瞬緩む。頼りがいのある上司。イカズチの傍にあれば、たとえ負け戦であっても命を落とすことはない。兵士たちの間では、そんなおとぎ話のような伝説がふらふらと浮いていた。

イカズチは、ツルの顔を覗き込んだ。

「ご容体は」

 ベッドのそばにいた若い兵士が立ち上がり、綺麗な敬礼で始めた。

「以前、お変わりなく」

「そうか……」

 ツルは、安らかに寝息をたてていた。

 イカズチは、ベッドの脇に置いてある椅子に腰かけた。

「御苦労。各自、順番に休憩をとれ」

「はっ!」

 若い兵士を含むふたりの護衛兵が、一礼してから、部屋を出て行った。

 イカズチは改めてツルの顔を覗き込んだ。

「まったく、呑気なものだ」

 安らかな顔で眠ってらっしゃる。

 イカズチは、じっとツルの顔を見つめた。

 相も変わらず美しい御顔。皇太子さま、何卒、はやくお目覚め下さい。イカズチは心配でなりませぬ。はやく、その晴れやかなお顔で、みなを安心させてやって下さいませ。はやく、はやく、はやく、このイカズチに、その御身に何があったのかお知らせください。どのような得物で、どのような手段で、どのような痛みで、どのような絶望を抱いたのか。

そして、死ぬ間際とはどのような物か。

その美しい御顔で、このイカズチにお知らせ下さい。

「将軍、どうかしましたか?」

「む?」

 顔をあげると、八人の部下たちは、唖然とした顔でイカズチを見ていた。

 まったく、いかんな。

 イカズチは自分を戒めた。

 偉くなった今でも、興奮の上には仮面が被れんものだ。

 イカズチは、咳払いをひとつしてから、椅子に座りなおした。

「なんでもない。警戒を怠るな」

「しかし、さっきの御顔は――」

「この大将軍イカズチを犯人と疑うか」

 イカズチがすごむと、八人の兵士たちは一斉に背筋を伸ばした。

「し、失礼いたしました!」

「よい。警戒を怠るな」

 緩んでいた空気が張り詰める。

 自分は、もはや武にのみ生きるものではない。皇帝陛下に忠を誓いった身であり、己の欲望のままに生きることは許されぬ。邪念を捨て、今はただ、皇帝陛下のために。

 イカズチは、気をそらすために、窓の外を眺めた。

 すっかりと闇に包まれ、音がなければ、雨が降っていることにも気付かない。やつが侵入してくるのなら、きっと、このような闇に紛れて――

 イカズチの意識が外に向いたその刹那、微かなうめき声と共に、ツルの瞼がわずかに動きをみせた。

「皇太子さま」

 イカズチは、すかさずツルの手を握った。わずかにだが力の返りを感じる。

「おい、医者を呼べ」

「ただちに」

 兵士は慌てて部屋を飛び出した。

 イカズチは、視線をツルに戻した。

「お目覚めですか」

意識を取り戻したツルは、しっかりと目を開けていた。しかし、イカズチの問いに対する返事はない。ツルは、ぼんやりと天井を見つめていた。

「皇太子さま。イカズチでございます。お分かりになりますか」

「いか……づち……」

「ここにおります。イカズチは、ここにおりますぞ」

 ツルの黒目だけが、イカズチを映した。

「ぼくは……生きているのか……」

「わたしの手の温もりが伝わりませんか?」

 大きくて分厚いものが、ツルの冷えた指先を温めている。

 ツルは弱々しくだが微笑んだ。

「ああ……命の温度だ」

 イカズチは、ほっと肩を降ろした。

「こうして看病するのも、二度目でありますな」

 ツルはじっと天井を見上げた。なぜ、自分はイカズチを心配させてしまったのか。頭がぼうっとして、何が起こったのか覚えていない。

「イカズチ、ぼくは――っつ!」

寝がえりを打とうとすると、わき腹が痛んだ。そうして、ようやく自分の身に起こったことを思い出していた。

「……ぼくは、彼と戦ったよ」

 イカズチの手が強張る。イカズチは、腹から湧いてくる興奮を押さえながら、部下たちに命じた。

「悪いが、部屋の外で護衛を頼む」

 兵士たちは、急な命令に少し戸惑ったが、イカズチの険しい表情で事態の深刻さだけは察した。兵士たちは、ぞろぞろと部屋を後にした。

 部屋の中はふたりだけになった。暖炉の中で薪が弾けた。ざあっと降る雨が、音だけ部屋の中に入ってきた。イカズチとツルは、お互いの出方を窺った。

 口火をきったのは、イカズチだった。

「やつは、如何でしたか」

 ツルは、イカズチが止めるのも聞かず、傷の痛みに顔をしかめながら身体を持ち上げた。鋭い痛みが、さらにツルの頭を叩き起こす。

 そうだ、思い出してきたぞ。ぼくは、シズクを殺そうとして、それから、

「カスミは強かったよ」

「皇太子さまが、なにも出来ずに?」

 ツルは、イカズチを睨みつけた。

「『武』を語り合う時は、ぼくを皇太子と呼ぶな」

「そう、でしたな」

 ツルがあまりに相変わらずだったので、イカズチは、つい嬉しくなってしまった。

思えば、幼少のころからイカズチは、ツルに武芸を教えてきた。他の皇太子たちが教養として武芸を学んでいる中、ツルだけは本気だった。本気で、イカズチを越えようとしていた。しかし、ツルの前に立ちはだかるのは、圧倒的な体格差だった。力ではイカズチに勝てない。そこで、ツルはスピードを身につけた。もっと速く、もっと軽やかに。

血反吐を吐きながらの練習の結果、気付けば、ツルは、宮中一の素早さを武器に、数々の戦で戦功をあげるようになっていた。

 独学のアサシンは、執拗にイカズチを越えようとしていた。しかし、宮中一のスピードをもってしても、イカズチには勝てなかった。

 正面からの勝負は相変わらずパワーでねじふせられる。アサシンの特性を最大限に生かそうと、部屋に忍びこみ、喉元にナイフを突き立てようとするが、その直前に組み伏せられてしまう。ツルが巧妙になればなるほど、イカズチの気配察知も敏感になっていった。

 イカズチ曰く、ツルは、ここぞという時に殺気が漏れているらしい。

ふたりは、そうして絆を深めて行った。友情でもない、愛情でもない、ふたりの奇妙な関係は、いつか、階級すらも越えるようになる。武を語るうえで、ふたりを遮るものは何もなかった。

「何を笑っている」

 ツルは眉をしかめて、ますますイカズチを睨みつけていた。こんな風に黒い感情をむき出しにしたツルは、イカズチしか知らない。

「失礼。ツルの無事が嬉しくて、つい」

「無事、か……」

 ツルは、一変して、弱気な顔で手を見つめた。

「ぼくは生かされた。そうだろ?」

 ツルは自分の手を握りしめた。あの戦いを思い出すだけで、手が汗で湿った。

イカズチは口を結んだ。そうして、一拍おいた。

「気付いておりましたか」

 ツルは、そっとわき腹の傷を撫でた。包帯が血で湿っている。

「ぼくとカスミの力の差は歴然としていた。ぼくにはカスミの動きがまったく見えなかった」

「やつには、ツルを越える能力があると?」

「ぼくは敗因もなしに負けたりしない」

「ツルの手には負えない、と?」

 イカズチがそう言うと、ツルはすぐに首を振った。

「ぼくとカスミに力の差があるわけない」

「しかし、実際に負けている」

 はっきりそう言われると、これ以上ツルは何も言えなくなった。悔しそうに口を結ぶ。

「やはり、カスミは我が手で、」

「ぼくがあいつを殺す。だから、イカズチは手を出すな」

イカヅチがすべてを言い終えるより先に、ツルはイカズチに噛みついた。

イカズチは腕を組んだ。

「約束はできませんな。向こうから現れた時には、わたしも戦わないといけない」

「なんだと!」

 ツルは鋭くイカズチを睨みつけた。が、イカズチの表情を見て諦めた。

隠そうとして、隠そうとして、それでも隙間から洩れた興奮が、充血して真っ赤になった目を見開き、口を裂くように吊り上げ、イカズチから笑顔を引きだしていた。

 ツルは苦々しげな顔をうかべた。

「イカズチ、ぼくを殺すつもりかい?」

「なんと!」

 イカズチは慌てて顔を隠した。

「また、あの顔になっていましたか」

「女子供であれば、その表情だけで殺せる」

 御冗談を、イカズチが目尻を下げると、殺気に満ちた空気が和らぎ、暖炉から漏れる空気が天井にのぼった。

 薪が火花をあげる。

 イカズチは、雨音に耳を傾け、漏れた興奮を心の底にしまい込んだ。

「この顔になるのが、ツルの前で良かった」

「皇帝陛下の前であれば、きっと不敬罪で死刑だ」

「その時は、介錯人を務めて頂けますかな」

「もちろん。カスミだけでなく、イカズチを殺すのもぼくの役目だ」

 ふたりは笑い声を重ねた。

 部屋のドアがノックされる。どうやら護衛兵が医者を連れてきたようだ。

「この続きは、また後日」

 イカズチは、椅子から立ち上がった。

「どこへ行くの」

「治安の維持に、ちょっとそこまで」

「そう、気をつけて」

 ツルは寂しげに微笑んだ。

 イカズチを飲みこんだ扉は、満足したようにゆっくりと閉じる。

「バイバイ、イカズチ」



「これで五人目か」

 気だるそうなイカズチの前には、喉を切り裂かれた死体が転がっていた。数日前まで、宮殿のなかで偉そうにしていたやつだ。

「今日のやつは、ずいぶんと暴れたらしいな」

 イカズチは、しっちゃかめっちゃかになった部屋を見渡した。

殺されてからいくらか時間が経っているのだろう、血は固まっていた。

「どう見ても、プロの仕事だよなぁ」

 イカズチは、被害者の傷に触れた。ナイフをひと振り、鮮やかな一閃。

「まったく、無駄のないことだ」

 被害報告が、イカズチの元まで届いたのは数時間前。最近姿を見せない被害者の身を案じた部下が、家まで様子を見に行った際に発見された。

「仲間から恨みとか?」

 イカズチが尋ねると、通報にきた兵士は首を振った。

「いえ、身内にはとても親切でいらっしゃいました」

「身内には、ねぇ……」

 イカズチは、微動だにすることない兵士をじっと見つめた。

 どうやら、身内への躾は厳しかったようだな。

「まあ、なんでもいいけどさ」

 イカズチは、被害者の顔を覗き込んだ。

 死への恐怖が輪郭を歪ませ、だらりと舌が垂れている。

「死んでしまえば、いい奴でも悪い奴でも、誰も何もできないんだよ」

 今回の被害者は、多くの人に死を喜ばれるタイプの人間であった。つまり、人を人と思わないやつら。要するに、奴隷主義者。差別大好き。自分を高い位置に置いておかないと安心しないタイプのクズ野郎。掘れば掘るほどゴミが出てくる。死んで当然。今日死んでなければ、明日イカズチが殺していたかもしれない。

「まったく、煩わしい」

 イカズチは、被害者のおでこを軽く叩いた。

 貴族の殺人は、被害者がどれだけクズ野郎でも、そのまま死刑台に直結する重大な犯罪だ。犯人を見つけないわけにはいかない。

 イカズチは、重たい腰をあげた。

「さて、それではさっそく、現場検証でもしますか」

 イカズチは、ぐるりと部屋を見渡した。

 この部屋を見ただけでも、被害者が、どんな人間だったのか分かる。

 ムチ。股裂き。ギザギザの岩。尖った木馬。棍棒。のこぎり……やめておこう、気分が悪くなってきた。

 現場は、いわゆる拷問部屋というやつだった。一面を無機質な壁に囲まれ、見覚えのある器具から、説明書なしには使い方の分からないものまで。揃えられた拷問器具は圧巻としか言いようがない。

「どうして、こんなのに興味を持つかねぇ」

 イカズチは血の付いた拘束具を拾い上げた。すると、ひとりの若い兵士が口を開いた。

「こんな部屋があるなんて、ぞっとしますね」

「そうか?」

 若い兵士は、未知の空間に興味深々といった感じだった。

 イカズチは、指先で血の付いた拘束具を持ち、鈴を鳴らす様に振って見せた。

「おまえ、こういうのは初めてか?」

「もちろんです」

 若い兵士の顔は、恐怖で引きつっていた。

 見た目からして、まだ、兵士になって三年にも満たないだろう。その若さでイカズチ直属の部下になるということは、群を抜いて優秀であることの証明だ。おそらく、将来はイカズチの跡を継ぐべき逸材だ。しかし、今はどうしても経験が足りない。

 若い兵士は、苦笑いを浮かべた。

「自分は、こういう世界を物語でしか読んだことがありません」

「物語の住人になった気分はどうだ?」

「今なら、怒り狂った彼らの気持ちがよく分かります」

 イカズチは笑った。

 そう、その通りだ。拷問部屋なんて、ただそこにいるだけで気分が悪くならないとおかしいんだ。

 若い兵士は顔をしかめた。

「将軍は、こういった経験をお持ちで?」

「拷問から処刑まで、一通りのことはやってきたさ」

 若い兵士は言葉を失った。理想の上司そのものであったイカズチが、常識のように汚れ仕事をしていたなんて。

若者が現実を知る瞬間であった。

 綺麗なことばかりしていられない。

 若い兵士の心に、苦くて重たいものが圧し掛かった。

いずれ自分も、そういった汚れ仕事をしなければならない時が来るのだろうか。

 肩を落とす若い兵士を、イカズチは悪戯っぽく笑った。

「兵士をやっていく自信がなくなったか?」

「自分は、命令には絶対服従。兵士という肩書を背負った時に、覚悟を決めたはずでした」

「大事なことだ」

「世界を変えたかったのです」

「夢が大きいな」

「将軍、人は汚れなければ偉くなれないのでしょうか」

 若い兵士の描いた世界に、汚れた自分はいなかった。

 イカズチは、血まみれの拷問具を撫でた。宮中の拷問部屋ですら、こんなに血で汚れていない。

「拷問ってものは、確かに汚れ仕事だ。しかし、それも目的があってやるものなんだが……」

 この血の量は、異常だ。

「痛みつけるだけの拷問は、違うよなぁ」

 奴隷は秘密なんか持っていない。貴族は、奴隷の悲鳴に心を躍らし、命乞いを笑う。それだけの行為を拷問と呼ぶのであれば、俺がやってきたことは、拷問とは別のものだったのかもしれない。

 イカズチの右手で、ぐしゃりと何かがつぶれた。

「……将軍?」

 若い兵士の声に、イカズチは粗ぶる心を静めた。

 すでに死んだ人間を憎むなど、あってはならないことだ。

「ま、そういう事をさせないために、俺たち大人がしっかりしないといけないんだよな」

 イカズチが笑顔を向けると、若い兵士も引きつりながら笑った。

「安心しろ。拷問なんてしなくても、俺を越えることは簡単にできる」

「……頑張ります」

 イカズチは、すっかり萎んでしまった若い兵士の肩を力いっぱい叩いて、大声で笑った。

「この部屋は埋めておいてくれ。報告は俺がしておくから」

 若い兵士に命じると、イカズチは拷問部屋を後にした。

 部屋を出てから、イカズチは考えを巡らせた。

 拷問部屋は地下、入口はここだけ。完全な密室だったということだ。侵入経路などあるはずもない。だとしたら、犯人はいったいどこから。

 イカズチは顎に手をそえた。

まさか、身内による犯行でもあるまいし。

「皇帝陛下の護衛を、もっと増やす必要があるな」

 

   *


 それからも暗殺の被害は続いた。狙われるのは貴族ばかりだった。貴族たちは、今までの自分たちの行いを悔いて、奴隷たちを丁寧に扱うようになったのだった。おしまい。

 なんてことはまるでない。

貴族たちは、一向に犯人を捕まえようとしない宮中の軍隊に不信感を抱き始めていた。

「何のために貴様ら軍隊に高い金を払っていると思っているのだ!」

 イカズチの頬に、飛沫のような唾液が掛かった。

「貴様のような剣しか能のないやつらに居場所を与えてやっているのは、我々の命を守るためであることを忘れたか!」

「重々承知しております」

 イカズチは、腰に負担の掛からないお辞儀を身に着けていた。

「もし、このまま犯人が見つからず、我々の被害が増えるようなら、こちらもそれなりの対応をさせて頂く。よいな!」

「全力で、この国の治安を取り戻して見せます」

「口だけならなんとでも言えよう!」

 貴族たちは、毎日のように、軍隊に対する嫌みをもってイカズチを訪れた。貴族たちは、自分がいつ被害に会うのか不安であるのに加え、もともと貴族の生まれでもないのに権力をもった、イカズチという人間が大嫌いだった。

「いいな。結果も残せぬ無能集団に、この宮中の居場所はないと思え!」

「かならずや、あなた様をお守りいたします」

 イカズチが深々と頭を下げると、それに満足したのか、貴族は声の調子を和らげた。

「勘違いしないで欲しいのはね。わたしは君に期待しているからあえて厳しいことを言っているのだ。きみたちが不抜けていると、皇帝陛下の御身に何かあるのではないかと、わたしは不安なのだよ」

 まるで、期待という言葉を使えば、どんなに心無い事を言っても許される。そう信じ切っているような口ぶりだった。

「それでは、そろそろ失礼させてもらうよ」

 貴族は、すっきりとした顔で、イカズチの仕事部屋をあとにした。

イカズチは、閉まる扉に悪態をつくこともできず、温くなった紅茶で口を湿らせた。

「どうしてもこうも貴族ってやつは」

 いや、言うまい。言えば惨めになるだけだ。

事件が何の進展もないのは事実だった。犯人はわずかな証拠も残して行かない。もともとイカズチが捜査能力に優れていないというのが原因というのもあるが、それにしても死体以外はなにも残さない、鮮やかな犯行現場だった。

このままだと、本当に軍隊を解散させられかねない。

イカズチは、一抹の不安を覚えていた。

どうすればいいのか。イカズチが雨で濡れる宮殿の庭を眺めていると、ドアが四回ノックされた。

「どうぞぉ」

「失礼します」

 扉を開いた人物を確認して、イカズチは背もたれに体重を預けた。

「なんだ、きみか」

「どうか、しましたか?」

 若い兵士は目を丸めた。

「いや、なんでもない」

 大将軍イカズチが貴族の嫌みに恐れていた。なんて、言えるはずがない。

「きみを見ると安心するんだ」

「はぁ……」

 若い兵士は、不思議そうな顔をしながら、ゆっくりと扉をしめた。

「それにしても、すごい部屋ですね」

 若い兵士は、天井高く積まれた本の山々を見上げた。

「意外か?」

「ええ、正直」

 イカズチは若い兵士の素直さに笑った。

「俺だって本くらいは読むさ。剣だけでは人の上に立てないからな」

「はぁ……なるほど……」

 兵士は、あんぐりと口をあけたまま、しげしげとうず高く積まれた本を眺めていた。

 あまりじっと見られるのも、恥ずかしいものだな。

「それより、なにか用か?」

 イカズチの声にはっとして、兵士は背筋を伸ばした。

「あ、はい。そうでした。皇帝陛下がお呼びです。至急、部屋まで来てほしいと」

「皇帝陛下が?」

「はい。皇帝陛下が」

イカズチは眉をひそめた。

いったい何の用があって。まさか愚痴ではないだろう……悩んでいても仕方あるまい。

「分かった。すぐに行く」

「失礼します」

 若い兵士は、一礼して部屋を後にした。

 ひとりなったイカズチは、椅子にもたれて、大きく息を吐き出した。

「しかし、面倒だな」

 貴族のやからが良からぬことを企んでいそうだ……しかし、そうも言っていられないか。

 イカズチは、椅子から立ち上がった。マントを肩にかぶせ、埃を払う。

身なりを整えなければ、貴族たちに馬鹿にされる。皇帝陛下の前でなら尚更だ。大将軍として、部下たちの規範となる行動をとらなければならないのだが、やはり面倒だ。

イカズチは、剣に触れようとした手を引っ込めた。

 戦に行くわけでもあるまいし。

イカズチは、頬を叩いて気持ちを切り替えた。皇帝陛下に曇った顔は見せられない。両頬がじんわりとヒリヒリする。

「さて、行くか」

 宮殿のなかは、兵士の足音と報告の声で満ちていた。

「ふむ。さすがに慌ただしいな」

イカズチは、絨毯にびっしりとついた泥の足跡と自分の足を重ねた。警備に捜査、数に限りのある兵士たちは、自分の仕事の枠を超えて駆り出されている。いま戦争でも起こされたら水の都が瓦解するのは明白だ。

「だからといって、捜査の手を緩めるわけにもいかん」

せめて貴族が、自らの力で自分の身を守ってくれればいいのだが。そうすれば、兵士たちの負担も少しは軽減される。しかし、こんな時でも貴族たちは呑気だった。日がな一日チェスを楽しみ、飽きたら兵士やイカズチに嫌みを言う。明日は我が身という焦りはあるのだが、緊張感がないのだ。

「いや、そうでもないか」

 なんて事を考えていると、絨毯に足跡のない階段の前に来ていた。この先で、貴族が待ち受けていると思うと、気が重くなる。

「しかし、そうも言っていられないか」

 覚悟を決めて階段をのぼる。のぼり終わると、巨大な扉の前に立つ門番が、イカズチに向かって軽くお辞儀をした。

「ご苦労様です」

「皇帝陛下に御目通り願いたい」

「はっ、ただちに」

 ふたりはイカズチに背を向け、両側の門を開いた。

 ふむ。意外とすんなり入れたな。

厳重な警備がないのは、面倒がなくて嬉しい。だがしかし、いくら俺の顔を知っているとはいえ、しっかりと素姓の確認をしないのは皇帝陛下を守る最後の鍵としてどうなのだろう。しかし、厳格な警備にすれば、貴族たちが何と言うか。

「将軍?」

「あ。ああ、御苦労」

 イカズチは、門番の肩に手を置いて、中に入って行った。

「大将軍イカズチ、皇帝陛下の命に応じ、参上いたしました」

 玉座の間に、イカズチの声が響いた。

 薄暗い部屋の中で、ずらりと並ぶ貴族たちが、一斉にイカズチを睨みつけた。

 イカズチは、胸を張り、マントをなびかせながら歩いた。

 高すぎる天井には、鮮やかなステンドグラスが張られている。そこから降り注ぐ光だけが、皇帝陛下を照らしている。

 ひそひそと、良からぬ企みが、聞こえるようで聞こえない。

 イカズチは、耳をそばだてながら、皇帝陛下のお傍まで歩いて行く。なんてことない、貴族たちはイカズチの悪口を言っている。イカズチは平然としていた。大将軍になるずっと前から貴族たちに煙たがられていたイカズチは、嫌みには耐性ができていた。

 皇帝陛下の前まで来たところで、イカズチは、片膝をついて頭を下げた。

「およびでしょうか、皇帝陛下」

「面をあげなさい」

 イカズチはゆっくりと顔をあげた。

皇帝陛下は、金と絹でつくられた大きすぎる椅子に腰かけていた。というより、埋もれていた。

「久しぶりだな、イカズチ」

 皇帝が口を開くと、貴族たちは黙った。

 大きすぎる椅子と小さすぎる少女。皇帝の金色の髪は、流れるように腰まで伸び、ひじ掛けまで届かない小さな両手は、律儀に並んだ膝の上に乗せられていた。身につけている煌びやかな装飾品の数々は、すべてを確認していたらきりがない。

 少女が皇帝陛下。しかし、イカズチは皇帝陛下に絶対の忠誠を誓っていた。

 皇帝の鋭い視線が、イカズチに命令する。

「報告なさい」

 幼い声には、しっかりと威厳が混じっている。

 イカズチは、言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。

「大将軍相冥霆が御報告いたします。この国の治安はいたって良好。皇帝陛下に報告するべきことはございません」

 イカズチは嘘の報告をした。もちろん騙せるとは思っていない。すでに、貴族たちが、暗殺の事実とイカズチの不抜け様は伝えているだろう。それでも、イカズチにとって、この程度の問題は一大事でない。という姿勢は貫いていたかった。イカズチに嘘の報告をさせた原因は、そんな惨めなプライドだった。

なんてことはまるでない。

「嘘はいらぬ。ありのままを申せ」

「恐れながら」

 イカズチは、僅かに身体を前に倒した。

「宮中に不穏な空気が漂っております」

 貴族たちはざわついた。イカズチが、いかにして皇帝に弄られるか期待していた彼らにとって、イカズチの報告は寝耳に水だった。

「イカズチ、貴様!」

「黙れ」

 皇帝の一喝で、貴族たちはぴたりと黙った。

 皇帝は、イカズチに視線を戻した。

「不穏な空気とは何だ」

「裏切りの気配に相違なく」

「余の部下に、裏切り者がおると」

「間違いなく」

 堪え切れず、貴族たちが騒ぎだした。

「イ、イカズチ殿。皇帝陛下の前で、無礼ではないか!」

「この国に裏切り者などおらん!」

焦れば焦るほど、自らを裏切り者と白状しているようなものではないか。

イカズチは心の中で笑い、表では真面目な顔をさげた。

「調査の御許可を」

「許す。好きにするがいい」

「御意のままに」

 イカズチは一礼をその場に残すと、マントを翻し、出口へと向かった。背後では側近たちがあれやこれやと皇帝陛下に言っているが、気にすることもない。

 皇帝陛下は、聡明なお方だ。

 大きな扉を開くと、正面に半円型の大きな窓が広がった。外は相変わらず雨が降っているようだ。

この一件が終われば晴れる気がする。

イカズチは、なぜかそんな気がしてならなかった。

 

 


 第四章


 カスミは、誰も後をつけていないことを確認してから、玄関のドアを開けた。

「ただいま」

キッチンでは、エプロン姿のシズクがむすっとした顔で鍋をかき回していた。その後ろを、何か手伝いたいらしいイズミが、うろちょろしている。

「やあ、シズクとイズミ」

「あら、カスミ。おかえりなさい」

 シズクは、帰って来たばかりのカスミに、呆れ笑いを浮かべた。

「今日もお仕事、お疲れ様。もうすぐで夕飯が出来るから、そのびっしょり濡れた服を着替えてきて」

 カスミの足元には、小さな水たまりができていた。

「着替えはいいよ。濡れているだけさ」

「風邪ひくわよ?」

「大丈夫さ。それより、今日の夕飯は、またスープかい?」

「貧民街と違って順番待ちしなくても水が使えるのよ? ちょっとした贅沢じゃない」

「水なら沢山降ってるじゃないか」

 カスミは外を指さした。

 雨を飲み水と呼んでいるのは、カスミくらいのものだ。シズクは、カスミを追い払うように手を振った。

「着替えないなら、さっさと椅子に座ってよ」

「うん。そうさせてもらうよ」

シズクは、底の深い皿にスープを流し込んで、それをイズミに手渡した。

「熱いから、気をつけてね」

「うん。イズミに任せて」

 イズミは、すっかりシズクに懐いていた。シズクが、カスミよりずっと頼りがいのある大人であることに気付いたからだ。

 イズミは、受け取ったスープを見て、にっこり笑った。

「お姉ちゃんのスープ、イズミは大好きだよ」

「そう? ありがとう。嬉しいわ」

 イズミの笑顔を見るたびに、シズクは感心してしまう。目の前で親が殺され、悪徳金融の女とアサシンと一緒に住んでいるのに、笑顔を作れる。そのぶっとい根性は、とんでもない鈍感か、もしくは馬鹿か。

「お姉ちゃん?」

 イズミが、不安そうな顔でシズクを見上げていた。

「ああ、ごめんね。それを置いたら、これも運んでね」

「イズミ、もうお腹ぺこぺこなの」

「ぼくだって」

 カスミは、なぜかそわそわしていた。

「なに子供と張り合ってるのよ」

「だって、お腹が空いてるんだよ」

 シズクとイズミが席に着くと「いただきます」も言わずに、カスミはパンにかぶりついた。固くて冷たいパンでも、貧民街にいたときには考えられない豪華な食べ物だ。

「カスミ、もっと行儀よく食べて。イズミの教育に悪いわ」

「大丈夫さ。イズミはぼくより賢いから」

「またそんなこと言って……」

カスミの周りは、食べカスで散らかし放題になっていた。

「お姉ちゃん。イズミなら大丈夫だよ」

 イズミは、一口大にパンをちぎった。

 カスミとは対象的に、イズミは歳のわりに行儀がいい。パンをスープに浸して、柔らかくしてから食べている。こういった些細な日常風景で、平民と貧民の格差を思い知らされる。

「ほら、こうすればカスミみたいにならない」

 イズミは、パンを口に放り込んだ。

「イズミは、カスミをお手本にしないから」

 ばっさりと切り捨てられ、カスミは肩をすくめた。

 反面教師っていうのも、時には必要なのかしらね。

「それがいいわ。カスミに人は育てられないもの」

「ひどいよ、シズク」

 三人は談笑で食卓を温めた。お互いに、仕事の話はできないけれど、話すことなら沢山あった。いつか話した内容でも、笑う事ができた。三人は他人同士。でも、他人と呼ぶには近すぎる存在になっていた。

 でも、こんな日がずっと続くとは、どうしても思えなかった。



 幸せな日々が数日だけ続いたある日、いつも通りシズクが夕飯の準備をしていると、ふと背後に誰かの気配を感じた。

 シズクは鋭い動きで振り返った。

「あら、カスミ。いつのまに帰っていたの?」

 シズクは、お玉を握りしめる手から力を抜いた。

カスミは、びしょ濡れのまま椅子に腰かけていた。しかし、カスミにいつも通りの元気がない。シズクがいくら呼びかけても、間抜けな顔で空気を眺めている。

「どうしたのかな」

 手伝いの手を止め、イズミはカスミの顔を覗き込みに行った。

「カスミ、どうしたの? お腹痛いの?」

 今さらイズミに気付いたようだ。カスミは、力のない笑顔を浮かべて、イズミの小さな頭を撫でてやった。

「触らないで!」

子供扱いされたことが不満だったのか、イズミは、カスミの手を払った。カスミは、払われた手をぎゅっと握った。

「カスミ、やっぱり変だった」

 イズミが、むくれたまま、シズクに報告する。

「あら、何時も通りってことかしら」

イズミは笑った。

 スープが机の上に並び、「いただきます」を合図に手を動かし始める。しかし、カスミは手をつけようとしない。雨音を除けば、食器の奏でる音しか聞こえない。大人のだす嫌な雰囲気を察してか、普段は騒がしいイズミですら喋ろうとしない。

どんよりと、重たい空気が三人の身体を縛り付けていた。

「イズミちゃん、美味しい?」

険悪な雰囲気に耐えきれず、シズクが口を開いた。

 イズミは、口にいれたばかりのパンを慌てて飲み込み、にっこりと笑った。

「うん。毎日同じ味で美味しいよ」

「そう、それは良かったわ」

 その日の夕飯は、ふたりで薄ら盛り上がった。


 イズミを寝かしつけてから、カスミは枕に頭をしずめた。

 忘れよう。寝てしまおう。

カスミは目を閉じた。しかし、部屋の入り口に何者か気配を感じて、一気に目が覚めた。

 まさか、すでにここまで。

腰に手を添えると、ナイフがないことに気がついた。失念のあまり、居間に置いて来てしまったか。

カスミは、自分の不甲斐無さを悔いて、下唇を噛みしめた。

それでも、イズミを守るためにはやらなくてならない。

カスミは、覚悟を決めた。息を吸う。布団をはね飛ばす。飛び出す。ターゲットとの距離を一気につめる。拳を振り上げる。振り上げた拳は、そのまま、カスミの顔のそばで止まった。

「なんだ、シズクじゃないか」

 カスミは、肩の力を抜いた。部屋の入り口には、蝋燭を片手に、シズクが立っていた。

 シズクは肩を持ちあげた。

「あら、なんだとは御挨拶ね。これでも心配しているのよ」

「心配?」

「あんた、今日なにかあったんじゃない」

「何もないさ」

「本当に?」

「ほんと、

 カスミは、びくりと固まった。

 シズクは、カスミの頬に手を添えた。シズクの手は、絹のようになめらかで、氷のように冷たかった。

カスミの顔がこわばったので、シズクは笑った。

「そんな顔、初めてみるわね」

「……ぼくだって、緊張するんだ」

「あら、立派に男の子になっているのね」

 カスミは、頬に添えられた手を握りしめた。もっと強く握れば壊れてしまいそうな、優しい手だった。

 シズクは目を細めた。

「カスミ、嘘をつかないで」

「ぼくがシズクに嘘なんて」

「あなたは、嘘が下手糞よ」

 見抜かれてしまうのなら、シズクにこれ以上の隠し事はできない。しかし、カスミは迷っていた。今日の出来事をありのまま話せば、きっとシズクは不安になる。そして、その不安はイズミにも伝染する。そうなれば、カスミのやってきたことが、そのまま、自分たちに振りかかることになってしまう。不安を煽ることがどれだけ効果的なのか、その効果を知らないカスミではなかった。

でも、疑い始めたシズクには隠せないな。

 カスミはついに観念した。

「今日、ターゲットが死んでいた」

 カスミの手の中で、細い手がわずかに反応した。

「それは、カスミがする前に?」

 カスミは口を固く結んで頷いた。

 ターゲットの家に忍びこんだカスミの目には、一族もろとも大虐殺、というあまりに悲惨な光景がとびこんできた。

「ぼくの他に、アサシンがいる」

「別のアサシン……」

 シズクは、カスミの言葉を繰り返した。

 シズクが思い当たるだけで、もう一人、カスミよりずっと残忍なアサシンがいる。しかし、カスミのターゲットは、あくまで貴族。皇太子であるツルが、カスミと同じターゲットを狙うとは思えない。

 シズクの心が、僅かにざわついた。こんなことなら聞かなければよかったと、後悔しているのかもしれない。

 それでも、シズクは平然としているよう努めた。

「どうするの?」

「分からないよ。ぼくは、暗殺しか知らない」

「そいつは、あなたにとって敵なの?」

 分からない。カスミは首を振った。

「あいつの目的が分からない」

「だったら――」

「分からないから不安なんだ!」

 突然、カスミが声を張り上げた。

 シズクは、イズミが起きてないか確認してから、カスミに視線を戻した。

「そいつは、カスミより強いの?」

 カスミは首を振った。

「きっと弱い」

「だったら、何も心配いらないじゃない」

 しかし、カスミは首を振った。

「ぼくにとって心配なのは、シズクとイズミだ。相手がぼくと同じアサシンなら、きみたちを守ることは、とても大変だ」

 アサシンの恐ろしさはアサシンが一番良く分かっている。鈍感なカスミであるからこそ、事態が深刻であることは、痛いほどに理解できた。

 カスミは、潤んだ瞳にシズクを映した。

「きみたちが、危ない」

 シズクの心臓が重たく脈を打った。

 アサシンに狙われている。そう思うと安心して夜も眠れない。昼間だって、どこかでアサシンの目はシズクを狙っているかもしれない。

すべてを疑い、陰に怯える生活。考えただけでもぞっとする。

 シズクは、荒れる心を落ち着けるように、こう言った。

「でも、そいつは貴族を狙っているんでしょ」

 カスミも、一時はその可能性に縋っていた。

カスミは首を振った。

「分からない。ぼくにも敵が見えないから」

 貴族だけが狙いかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 カスミは、すっかり意気消沈してしまった。

「あんた、アサシンなんでしょ? それなのに、さっきから、分からないばかりじゃない」

「だって、分からないんだよ」

「もういいわ」

 やっぱりカスミは頼りにならない。分かっていたことだけれど、いざ目の前にすると腹が立ってしまうものだ。

文句は腹の底に飲み込んで、シズクは身体に力をこめた。

「イズミだけはわたしが守る。だから安心して」

いざという時に頼れるのは、やっぱり自分なんだ。

 カスミは、イズミの手を強く握り、顔をぐっと近付けた。

「ぼくはシズクにも死んで欲しくない」

「勝手な事言わないで」

 シズクは、カスミの身体をそっと押し返して、握られていた手も解いた。

「気持ちは嬉しい。でも、もう我儘を言っていられる状況じゃないの」

「命に我儘じゃないよ」

「子供も守れないのに、どうしてお金を稼げるのよ」

カスミは言葉を詰まらせた。

雨が屋根を打つ。雨音に紛れて、アサシンが暗躍しているかもしれない。不安が不安に連鎖して、もうまともに寝ることもできない。

 カスミは、寝息をたてるイズミに顔を向けて、ほっと息をついた。

「もう、寝ようか」

「そうね。また明日悩みましょう」

「そうだね。また明日」

 カスミは部屋を出て行こうとした。

「どこへ行くの?」

 シズクが引き留めると、カスミは腰を数回叩いた。

「ナイフをとってくる。今日からシズクも一緒の部屋で寝よう」カスミは、シズクが何か言う前に言葉を繋げた。「ぼくが起きているから、シズクは寝ていて」

「でも――」

 イズミが起きちゃう。カスミは、人差し指を口に当てた。

「ぼくはアサシン。仕事は闇に紛れてやるものさ」

 カスミが出て行って、扉がしまると、そこは全くの暗闇だった。

「カスミは、こういう所で仕事をしているのね」

シズクは、自分の身体を抱きしめた。不安で心が締め付けられる。この部屋にはだれもいないはずなのに、誰かがいる気がしてならない。

「そんなはず、ないじゃない」

 シズクは、自分に言い聞かせるように呟いた。

ツルと出会ってから、わたしはおかしくなってしまった。

シズクは、冷たくなったカスミのベッドにもぐりこんだ。目を瞑っても、不安はもっと近くにある。ようやく眠りに落ちる頃には、朝はそこまで来ていた。


 *


「おかしい」

 イズミはひとりで険しい顔をしていた。

「絶対に何か隠してる」

カスミたちの異変を察知したのは、ある日の晩のことだった。

イズミが安らかに寝ていると、いきなり寝ぼけたシズクに蹴飛ばされた。もちろん、悪気があってそうしたのではない、とにかく殺人的に寝相が悪いのだ。

ベッドから蹴り落とされ、イズミは床を転がった。初めは、何が起きたのか分からなかったが、じんじん痛むわき腹が、自分の身に起こった事件を教えてくれた。

イズミは身体を縮めた。

「うぅ、ひどいよぉ……」

「ふふ、編み出したわ、必殺ダイナマイトシズクキック」

 シズクは、幸せそうに笑っていた。

身の危険を感じたイズミは、わき腹をさすりながら立ち上がった。床では、カスミがすやすやと寝ている。イズミは、その安らかな寝顔をみて、無性に苛立った。そもそも、イズミとシズクが一緒に寝ることになったのは、カスミが提案したせいだ。

 イズミは、むすっと頬を膨らませた。足を振り上げる。

「くらえ、イズミクラッシュ!」

「ぎゃあ!」

 イズミは、カスミの股間を踏み潰した。そして、逃げるように部屋をあとにする。イズミのいなくなった部屋では、どたばたカスミが暴れ回っているようだ。

「ふん。いい気味よ」

 部屋を振り返って呟く。

 復讐を終えて、イズミはすっかり目が覚めてしまった。さすがに、部屋に戻るわけにもいかないので、とりあえず一階に下りた。しかし、暗闇の中ではする事がない。

 イズミは、暗闇の中で目をこらした。なにか、暇をつぶせるものはないだろうか。もちろん平民の家にそんなものがあるわけもない。イズミは諦めて肩を落とした。

「……お水でも、飲もうかな」

「駄目だよ」

 暗闇の中から、白い顔がぬっと現れた。イズミは、毛を逆立てて飛び跳ねた。

「ぎゃあ!」

「落ち着いて、ぼくだよ」

 目を凝らすと、暗闇のなかに浮かぶ顔はカスミとよく似ていた。

「カスミ?」

「井戸水は飲んじゃいけない」

「なんでカスミにそんなこと言われないといけないのさ」

イズミは歯を剥いて威嚇した。しかし、そんなことなど意に止めず、カスミは別の容器に溜めてあった水を汲んで、一口ふくんでからイズミに手渡した。

「明日からは、ここから飲んでよ」

 イズミは手渡された水をしげしげと観察した。

「なに、この水」

「別に、ただの水さ」

 それ以上のことは、イズミがいくら尋ねても教えてくれなかった。きっと、いじわるしているんだ。イズミが、カスミの大事な所に必殺技を決めたから。

 その時、イズミはその程度にしか思わなかった。

次の日、イズミはチクった。シズクなら、イズミの味方してくれるものと思っていた。ところが、シズクは、カスミの言う事が正しいと言ったきり、逃げるように仕事へ出てしまった。

「おかしい」

 イズミは顔をしかめていた。

「カスミだけならともかく、お姉ちゃんまで」

絶対に何かある。イズミは、そう踏んでいた。

「ふたりが隠し事なんて、絶対におかしいもん」

 原因はなんだろうか。

 考え出すと、子供の無限の想像力は、どこまでも広がった。秘密、それは隠し事。隠し事、それは、ばれたら不味い事。ばれたら不味い事、それは、やましい事。そうして導きだされた答えは、カスミがとんでもなく悪い事をしてしまったのではないか、という結論だった。

「うん、カスミならやりかねない」

 イズミは腕を組んで頷いた。

 問題は何をしたのか、だ。

イズミは、カスミのやりそうな悪い事を考えた。最初に思い浮かんできたのは、自分が助けられたあの事件だった。カスミは、大衆の面前で貴族に恥を掻かせてしまった

イズミは目を閉じた。

まだ、あの一件が?

イズミは親から嫌というほど教えられていた。貴族は神の使いであるということを。

その貴族に、カスミは盾突いた。死罪を免れないことくらい、子供でも分かる。でも、なんで今になって。という感じもするけど、ずっと逃げ続けていたカスミが、ついに尻尾を掴まれてしまった。ということなら納得がいく。

イズミは鼻の頭を掻いた。

「もしかしてイズミ、すごく悪い事しちゃったのかな?」

 カスミは、命の恩人であり、憎むべき敵ではない。

「いや、でも、違うかも」

あの事件と、井戸水を飲んじゃいけないのは関係なさそう。

イズミは、カスミがそこから汲んでくれた容器を眺めた。

あの水には、なにか特別な秘密があるのかも。

イズミは、腕を組んで目を閉じた。

またしても、子供の無限の想像力が働き始める。飲んだ方がいい水、それは、特別な水。特別な水、それは、伝説の水。伝説の水、それは、物語に出て来そうだなぁ。やがて導きだされた答えは、あの水を飲み続けていれば不思議な能力に目覚める。という、いかにも子供らしい発想だった。

イズミは確信していた。

そうだ。きっとそうに違いない。

イズミは、まだまだ夢見る少女だった。

じゃあ、飲み続けよう。明日も、明後日も、カスミたちの言う事を信じてみようかな。

イズミは目を開けて、窓の外に広がる、どんよりした空を眺めた。子供の目には、灰色の雨雲すらも美しく輝いて見えた。

「わたしが、悪い奴をみんなやっつけちゃうんだから」

 カスミたちの意図しないところで、イズミが勝手に都合の良い解釈をしてくれたのは、天がカスミたちに味方したとしか言いようがなかった。


    *


「やっぱりおかしい」

 雷が、カスミの顔を一瞬だけ照らした。

 カスミは、またしても、姿の見えないアサシンに先を越されたのだ。

 なぜこんなことを、どうしてこんなことに。

 カスミは、犯人の証拠が残っていないか、あたりを隈なく調べ始めた。

 まずは、被害者の様子から。

カスミのターゲットだった貴族は、ワイングラスを片手に、机に突っ伏して死んでいる。争った形成もないし、どうやら外傷もない。きっと毒殺だ。

「ぼくには、できない殺し方だ」

 カスミは、被害者の目を閉じさせた。

自らの手を汚さない巧妙な手口、背後から喉を切り裂くことしかできないカスミは、しげしげと、死体の様子を観察した。

 きっと苦しむ間もなく死んだのだろう。安らかな顔で、まるで眠っているようだ。毒殺が、自分の手を汚すことなく、被害者を苦しめることもない殺し方だとしたら、アサシンにとっては理想の殺し方なのかもしれない。

 カスミは、ぐるりと部屋を見渡した。

「でも、こんなのは違う」

こうなるのなら、毒殺は人として最悪の手段だ。

テーブルには、ずらりと死体が並んでいた。

 きっと食事中だったのだろう。一家団欒、幸せそうな風景だ。まさか目の前に並んだ料理が地獄への切符になっていたとは思いもしなかっただろう。

「もっと早く、ぼくが来ていれば」

 カスミは、悔しさに顔を歪ませた。

 そうは言っても、カスミが先に仕事をこなしたところで、ターゲットの貴族が殺されることには変わりない。家の主が死に、残された家族はどうなるだろうか。立場を失い、生きるより辛い人生が待ち受けていたかもしれない。

 アサシンに正義はない。カスミは、未だそのことに気付いていなかった。

「家族が一緒に死ねたら、それは幸せなのかな」

ふと、カスミは考えてみた。しかし、家族をもってから間もないカスミには、家族を失う悲しみを詳細に考えることができなかった。

「そんなことない。命は、血なんかで縛られたりしない」

 生きてこその命だ。

 きっとそうさ。カスミは、自分に言い聞かせた。気を取り直して、生存者の捜索を始めた。しかし、人の気配はどこにもない。

「こんなの、アサシンの仕事じゃない」

 必要以上に殺さない。最小限の被害で最大の幸福を得る。それがアサシン。カスミはそうして殺しを正当化してきた。そんな自分の信念が、目の前で崩されている。

「どうして、こんなことに」

 これが、均等に命を扱った結果だとでもいうのだろうか。よほど恨みでもない限り、こんなことはできない。

「やつは、いったい……」

 カスミは考えを巡らせた。しかし、いくら考えても自分を納得させることはできなかった。やがて、カスミは考えることを諦めた。

「長居はできない」

結果オーライと諦めるしかない。

脱出しようと、カスミが屋根にある侵入口を見上げた瞬間だった。玄関の方でなにかを破壊するような轟音。続いて、大勢の足音がこちらに向かって近付いて来た。

 いきなりの事態に、カスミの足は竦んで動かなくなった。

 逃げなきゃ。逃げなきゃ。

 足音はすぐそこまで来ていた。

 ドアが蹴破られた。

「いたか!」

「いません!」

豪勢な鎧をまとった大きな男を先頭に、大勢の兵士が、死体の並ぶ部屋に侵入して来た。

 死体などかまわず、しっちゃかめっちゃかに家のものをひっくり返す兵士たち。カスミは間一髪のところで天井の脱出口に逃げ伸びていた。

「これは……どういうこと?」

 カスミは、天井から様子を探った。焦ったせいで息が乱れている。

「くそ、逃げられたか」

 巨大な男は、悔しそうに、掌に拳をぶつけた。その姿からは、わずかな痕跡すらも見逃さない執念深さを感じる。

 カスミは、巨大な男の姿を確認しようと目を凝らした。暗闇のなか、部下らしき人に檄を飛ばすその姿から察するに、きっと偉い人なのだろう。もしかしたら、次のターゲットになり得るかもしれない。

「あと一歩、遅かったか」

 巨大な男は、悔しそうに地面を踏みつけた。

「生存者は」

「いません!」

「くそ、どこまでも残忍なやつめ」

 カスミは確信した。

これは罠だった。毒殺アサシンは、仕事を終えた後、わざわざ警備隊へ通報して、カスミに罪をなすりつけようとしていた。つまり、毒殺アサシンは、カスミに対して明確な敵意を持っているということだ。

「なんでもいい、やつの痕跡を探せ」

 巨大な男が怒鳴ると、兵士たちの動きが機敏になった。

 長居は無用。屋根裏を調べられる前に退散しよう。カスミは、音をたてないよう慎重に、その場を離れた。


    *


「ほら、泣かないの。男の子でしょ?」

 シズクから伸びる赤い帯。

「ゆ、許してくれ」

「どうして泣いてるの?」

 雨の中、貧民街、人目のつかない路地裏で、シズクは返済の滞った巨大な男を血祭りにあげていた。必死に命乞いしてくるけど、そんなもの意味ない。一児の母は強いのだ。お腹をすかせた子供のためなら、血でも泥でも汚名でも、いろんなものを被ってやる。

「なんでもいいからお金出しなさいよ」

 シズクは、襟を掴んで巨大な男を持ち上げた。この怪力も、母の偉大な力のひとつだ。

「か、金がないんだ。頼む、命だけは――」

「お金を返せないのは、自分の責任じゃなくて?」

 この巨大な男が、返済金を集めるために必死で働いてくれたのは、一目見れば分かる。豆だらけの手、目の下にはくまが引いてある。きっと、死にたくないから沢山稼いでくれたのだろう。

「命だけは……」

「命だけって、お金も返せない命にどれだけの価値があるのよ」

 シズクは、命乞いをあざ笑った。シズクは、何時も通りのつもりだった。しかし、あざ笑ったシズクの心は、なぜか痛んだ。はっとして胸を押さえる。

「お願いします……命だけは……」

 男は、涙を流している。

 もしかして、わたし、こいつに同情しているの?

 男は、顔をぐしゃぐしゃにして、何度も命乞いを繰り返している。

 華奢な美女に脅されて、命乞いする男。こんな情けない奴にも、愛してくれた親がいただろう。生まれてくれてありがとう、そんなことを言われたかもしれない。わたしにその尊い命を奪う権利、あるのかしら。

 ふとした自問自答に答えはなく、シズクがふっと笑うと、自然と肩から力も抜けた。

 わたしも、甘くなったものね。イズミのせいかしら。

 シズクは、男を掴んでいた手を解いた。

男は地面に膝をついて、むせび泣いた。

「頼む、もう少しだけまってくれ……必ず、必ず借金は返すから」

 嗚咽交じりに懇願してくる。よっぽど死にたくないのには、それなりの訳があるものだ。

 シズクは膝をまげ、男に目線を合わせた。

「もう待てないわ」

「そんな!」

 男の潤んだ瞳、優しそうな女の人が映った。この人とは、初対面ね。

 シズクは微笑んだ。

「全財産渡せば、命くらいは助けてあげてもいいわよ」

 男の目が、ぱちくりした。耳を疑っているのだ。噂に聞いていたシズクは、返済できなければ命を奪う冷徹な女だった。それがいま、どうしたことか命を助けると言っている。

男は事態が飲み込めず、じっとシズクを見つめた。

「なによ、文句あるの?」

「ない、ないよ! ありがとう、ありがとう!」

 男は持っているだけの金貨をシズクに手渡した。なんと嬉しそうに財産を投げだすことだろう。平凡な家庭だったら、一ヶ月は豪勢に過ごせるだけの量はあるのに。こんなにくれて、感謝までされる。

 まったく、いい商売だ。

 シズクは、金貨をポケットにしまった。

「はい、確かに。もう行っていいわよ」

「ああ、助かった。神様!」

 大袈裟ねえ、そう笑ったシズクの顔に、鮮血が飛ぶ。

 一瞬の出来事だった。男が天を仰いだ瞬間、口からナイフが飛び出してきた。男は噴き出す様に血を湧かしている。

「あ、あ、だま、だま、した、な」

男は、すがる様に手を差し出し、どさりと地面に倒れた。

「気安く、ぼくのシズクに触るな」

 男の背後には、ツルが立っていた。

 相変わらず綺麗な顔で、こんな状況でなければ見惚れていただろう。白くて長い腕に、夥しい量の血をつけて。

「やあ、シズク」

 ツルは、血のついた手をあげた。

「あ、あんた。どうして……」

 シズクは、顔に血をつけたまま、目を見開いた。この最悪の状況で、自分は何をするべきなのか。

「何をいまさら。ぼくは、シズクの傍にずっといたじゃないか」

ツルに、いつもの残忍な殺気はなかった。

それなのに、どうして足が竦むの? 逃げなきゃいけないのに、なんで。

「元気そうで嬉しいよ」

 ツルが一歩前にでると、シズクはやっと一歩後退できた。

「逃げないよね?」

 シズクは、ツルの言葉に縛られた。逃げたいのに、逃げたくない。

「どうして泣いてるんだい?」

 シズクの頬を雫が伝った。それが涙であると分かったのは、雨と違って温かみがあったからだ。

「……雨よ」

 震える声で、なんとか振り絞ってやった。泣いていることを認めたら、すべてが崩れてしまいそうな気がした。

 わたしは命乞いをしない。強い女だから。

 ツルは目を細めた。

「いいや、涙だ」

 ツルの血のついた手が伸びて、シズクの雫を掬った。シズクの頬には、涙の代わりに血の跡がついた。

「さ、触らないで」

「そう言うなよ。傷つくじゃないか」

ツルは、涙を拭った指をまじまじと眺め、やがて口の中にいれた。ツルは、シズクの涙を味わうよう人差し指をしゃぶった。その指を口から出した時には、そこだけ涙も血も綺麗になくなっていた。

「やっぱり涙だ」

「あんた、おかしい。狂ってる」

 シズクは、ツルから自分の身を守るように、自分の身体を抱きしめた。

「そうだよ。ぼくはクレイジーだ」

 ツルが近付いてくる。シズクは、震える身体を抱くことしかできなかった。ツルの顔が、鼻と鼻が触れる距離まで近づいて来る。

「でも、きみを愛している」

「なっ!」

 シズクは、頭痛を覚えた。

 頭が真っ白になるって、こういうことなんだ。すべてが、予想を超えたところから飛んで来る。情報が情報の上に重なって、意味を成さない言葉が頭の中で飛び回っている。シズクは叫びたい気分だった。

「この愛を受け取ってくれるかい?」

 ツルの顔は、すぐそこにあった。

 言葉は出て来ない。しかし、無意識に右手がツルを拒絶していた。

右手がツルの頬を打つ。

乾いた音があたりに響いたその時だけ、雨が止んだ気がした。

「触らないで!」

 シズクは叫んだ。

 頬を打たれ、ツルは三歩後ろに下がった。何が起こったのか分からなかった。突然死角から目の覚めるような痛みが飛んできた。

「これは、どういうことだ?」

ツルは、じんわりと痛みが広がっていく頬に触れた。右手には、血がべっとりついている。少しぎょっとしたけれど、良く考えれば、これはぼくの血ではない。

「シズク、痛いよ」

 悲しげな顔だった。人殺しとは思えない、どこまでもピュアな顔。

「わたしは、あなたが嫌い」

 改めて言葉にして、シズクの心は震えた。恐怖や、勇気や、シズクはどうすればいいのか分からなくなっていた。その一方で、嫌いと言われたツルは、心に、ナイフで切りつけられたような深いダメージを受けていた。

「シズク」

 ツルは、シズクの手を握ろうとした。けれど、シズクは素早く手を引いた。

「シズク、だよね?」

 ツルは、悲しげな顔だった。

「ぼくが、嫌いなの?」

「さっきも言ったでしょ」

 ツルはシズクが好き。それは、シズクを混乱させるためでも、他になにか効果を狙ったわけでもなく、ただ本当に、純粋な気持ちだった。人を好きになるのが初めてだったツルは、その表現の仕方が少し特殊だっただけだった。

それだけで、あっさりと、拒絶されてしまった。

 ツルの心に、ぽっかりと穴があいた。まだ、現実を受け入れられない。

「ぼく、シズクが好きなんだ」

「わたしは、あなたが嫌いよ」

 雨がふたりを包み込む。血を洗い流して、シズクの顔も、ツルの右手も、元通り綺麗になった。

「ぼくは、きみを守りたい」

 ツルは一歩踏み出した。

「人殺しに守られるほど落ちぶれてない。自分の身は自分で守るわ」

「無理だ。シズクは弱い」

「わたしは、ひとりじゃない」

 カスミがいる。イズミがいる。ふたりの顔を思い浮かべると、ようやく勇気が湧いて来た。そうよ、わたしはひとりじゃないの。

「そうじゃない」

ツルは両手を広げた。

「シズクは、ひとりになるんだ」

「どういうことよ」

 顔をしかめたシズクに、ツルはもう一歩踏み出した。

「カスミは殺される」

 シズクは限界を超えた。

「馬鹿言わないで!」

 溜めこんでいた感情を噴火させ、雨音を掻き消さんばかりの声で叫んだ。湧いてくる不安を振り払うためでもあった。とにかくもう、これ以上、ツルと喋りたくなかった。

「カスミが死ぬなんてあり得ない。死ぬのはあんたよ!」

「そうだ。ぼくも死ぬ」

 ツルは、シズクに触れようと手を伸ばした。しかし、シズクはその手を振り払った。

「触らないで!」

「シズク……」

 ツルは弾かれた手を握った。シズクを死なせたくない、その一心だった。

「シズク、落ち着いて聞いて欲しい」

「聞きたくない!」

 シズクは、目を閉じて、耳を塞いだ。

「だったら、ここでわたしを殺せばいいじゃない。もういいから、殺してよ!」

「殺せる訳、ないじゃないか」

「殺して!」

「ぼくは、シズクが好きなんだ」

「うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! うるさい!」

 取り乱したシズクに、これ以上ツルの言葉は届かなかった。

「シズク……」

ツルは諦めた。もう、ぼくにはどうすることもできない。自分の無力を呪った。自分の手で救えないのなら、手段はひとつじゃないか。

「今日は帰る。また、いつか」

 別れの言葉も届かない。シズクは怯え竦んで、震えたまま。

誰がこうした。ぼくがこうしてしまった。ごめん。心でそう呟いて、ツルは飛び立った。屋根を飛び回り、貴族街へと戻って行った。

 誰もいなくなったことに、シズクが気付くのには、もうしばらくの時間が必要だった。



 カスミが家に帰ると、すでに夕食が用意されていた。放心状態のシズクと、なぜか機嫌のいいイズミが、湯気立つスープの前でカスミを待っていた。

「ただいま」

 カスミがそう言うと、ふたりはカスミに視線を向けた。

「おかえり」

 声が重なる。

 今日は色々な事がありました。

 さて、誰から話し始めようか。



イカズチはひとり、貧民街を歩いていた。

捜査ではない。今日の目的は、気分転換だ。あまり煮詰り過ぎるのも良くないだろうという独断と偏見で、宮殿をこっそり抜け出してきたのだ。

こっそり、まるでアサシンだな。

イカズチは、どんよりとした空を見上げた。

「これが貧民街か」

 巨大な神輿の上でなく、地べたに降りて同じ目線で見る貧民街は、それとはまったく違って見えた。並び立つあばら家、命を取り合わんばかりのケンカ、盗み、強姦、物乞い。あげればきりないほどの闇で覆われている。本当にこんなところで人が暮らしているのかと、疑いたくなる。

 イカズチの横を、みすぼらしい姿の少年が通り過ぎた。

「しかし、傘はあるのだな」

 イカズチは、ずぶ濡れだった。

できるだけ貧民街に溶け込めるよう、あえて傘を持って来なかったのだが、失敗だったな。

貧民たちは、ずぶ濡れの巨漢に、好奇の目を向けていた。

「まったく、すっかり浮いてしまったな」

 傘を取りに引き返そうかイカズチが迷っていると、ふんわりと、足元を何かが通り過ぎた。

「なんだぁ!」

イカズチが驚き足をあげた。すると、小さなふわふわも驚き、一目散に駆け出した。

小さな身体に、ふわふわの尻尾。

「なんだ、ネコか」

 さすがのイカズチでも、殺気もなにも出さない動物の存在には、気付けなかった。

「しかし、野生の動物は久しぶりに見た」

 宮殿にいるのは、人間に慣れ過ぎたペットばかりだった。

 走っていくネコを目で追っていると、ひとりの青年の足元へと行きついた。青年は、ネコに気付くと、駆け寄ってきたびしょ濡れのネコを、撫でまわした。

 イカズチは首を傾けた。

 なぜ、彼は傘をさしていないのだろうか。

 青年に興味を持ったイカズチは、声をかけた。

「もし、そこのきみよ」

「はい?」

 ネコを撫でる手を止め、青年はイカズチを見上げた。すっきりとした顔立ちだが、どうにも頼りないやつだ。

「なんでしょうか」

「傘は持ってないのかい?」

「かさ?」

 青年は、まるで初めてその単語を聞いたかのような反応だった。

「きみは傘を知らないのかい?」

「かさは、知りませんねぇ」

 イカズチは、ちょうど横を通り過ぎた、傘をさす娼婦を指さした。

「ほら、彼女が持ってる、あれだぞ?」

 娼婦は、強姦を警戒しているのか、ちらりとこちらに目線をやった。

「ああ、あれか」

 青年は、にっこりと娼婦に笑いかけた。しかし、彼女は不快そうな顔をするだけで、そっぽを向いてしまった。

 それを見て、イカズチは数回頷いた。

やはり、雨なのに傘をささないなんて、頭おかしいよな。

「ぼくは、傘を持ってません」

「ああ、そうか。みんな持っているようだが、きみには必要ないみたいだね」

「はい。ぼくは雨が好きですから」

 雨が好き、だと?

 青年の笑顔は、嘘をついているようには見えなかった。しかし、本音でそう言っているとは思えない。

イカズチは、さらに青年の中に踏み込んでみることにした。

「どうして、雨が好きなんだい?」

 イカズチの質問に対して、青年は顔を空に向けて答えた。雨水を口に含み、ある程度溜まったところで、それを飲みこむ。

 なるほど、雨が好きというのは、食べ物として、ということか。

「雨は、美味いのか?」

「何言ってるんですか?」

青年は少しむっとした。

「美味しい筈ないじゃないですか。雨水ですよ?」

 ふむ。青年の言う通りだ。しかし、なぜだろう。納得いかない。

「だったら、どうして雨水を?」

「井戸水が不味いからですよ」

 青年は、はっきりとそう言った。

 なるほど、そういうことか。そういう仕組か。ようやく俺にも分かってきたぞ。

イカズチは、にやける口を押さえた。

しかし、そうなるとやっかいだな。

「井戸水も、ただの水だろ?」

 青年は、何度も首を振った。

「違います。まったく違います」

「みんなだって、普通に飲んでるじゃないか」

「みんな頭がおかしいんです」

 イカズチは思わず吹き出してしまった。貧民たちも、この青年にだけは頭がおかしいと言われたくないだろうに。

「なにがおかしいんです?」

 むっとする青年。

「いや、すまない。つい、ちょっとな」

 一向に笑いの収まらないイカズチに、青年は下唇を突き出し、不機嫌になった。

 青年は立ち上がった。

「ぼく、帰ります」

「ちょっと待ってくれ」

 笑いながら、イカズチは、青年の腕を掴んだ。

「もうひとつだけ聞かせて欲しい」

「……なんですか?」

 青年は、じとっとした目でイカズチを見ていた。

「どうして、みんなは傘をさしているのだと思う?」

「決まってるじゃないですか」

 青年の綺麗な瞳に、イカズチの姿が映った。

「濡れたくないからですよ」

 そう、その通りだ。

「じゃあ、ぼく、帰ります」

「俺を殺さなくてもいいのか」

「また今度にします。今日は機嫌が悪いから」

 イカズチは、雨のなか消えて行く青年を見送った。やがてひとりになると、イカズチは黙って空を見上げた。



 第五章


すでに、犠牲者を数えることは諦めた。

一向に解決へ向かおうとしない問題に打ちのめされ、机に伏せるイカズチの姿は、宮殿の日常風景となっていた。

「いったい、どうしたらいいんだ」

イカズチの心はすっかり折られていた。もともと、人並み外れた腕っ節だけで大将軍の地位まで昇りつめたイカズチには、頭を使う作業が向いていなかった。

イカズチは、いよいよ逃げ出したくなった。

「せめて、頭のいいやつが部下にいれば」

 今更ながら、自分の部下を選ぶ基準が、いかに偏っていたのか思い知らされる。周りにいるのは、腕っ節ばかりで、字もろくに読めないやつもいる始末だ。

イカズチは、天井を仰いだ。

さて、どうしたものか。

 積み上げられた報告書の山をちらりと睨み、すぐに視線を天井へ戻した。

「せめて、資料の整理をしてくれる美人秘書は必要だよなぁ」

 いつだったか、貴族に見せびらかされた貧民の女を思い出していた。あの時のあいつは、どうなっただろうか。

「……まぁ、悩んでいても仕方あるまいて」

 報告書の山から一枚とりあげ、目の前に広げた。

 ひとりでやる。皇帝陛下の前で頭を下げた時、そう決めたのだ。

「しかし、やる気がおきん」

 さてやるぞ。そんな決意は、すぐにへし折れた。

 イカズチは、頭を机にぶつけた。その衝撃で、積まれていた報告書の山が雪崩落ちた。舞い落ちる花びらのように地面に広がる報告書。

「ふむ。終わらん」

「だったら、ぼくが手伝うよ」

 イカズチは顔をあげた。

「なんだい、そんな顔して。ぼくが美人秘書にでも見えたのかい?」

部屋の入り口には、ツルが立っていた。

「いつからそこに?」

「五分。それとも何年も前からかも」

 イカズチは、ツルの全身に視線を塗った。

 いつだったか、ずぶ濡れのまま夜遅くに帰って来たツルは、頬を赤くはらしていた。その原因をイカズチがいくら尋ねても、ツルは答えようとしなかった。

 どうやら、立ち直れたようだな。

 イカズチは口角を吊り上げた。

「これは皇太子、あの時以来ですね」

「あの時って、ぼくが殺されそうになった時? それとも、ぼくが雨に打たれていた時のことを言っているのかな?」

「どちらも違って、どちらでもありますな」

「あっそ」

 ツルは、来客用の豪華な椅子に、どかりと腰を落とした。

「なんでもいいけど、敬語はやめてくれないかな。さっきから、鳥肌がとまらないよ」

 イカズチは「これは失礼」と両手を広げ、姿勢を正した。

「それより、今日はなんの御用で」

「決まってるじゃないか」

ツルは、意志の籠った力強い目でイカズチを見つめた。

「イカズチ、ぼくはこの雨を止めるよ」

 雨を、止める?

 ツルの口から飛び出してきた王族らしからぬ発言に、イカズチは目を剥いた。言うべき言葉が見つからず、ぎょろりとした目でツルを見つめる。やがて、イカズチは、薄い笑みを浮かべながら肩を持ちあげた。

「いきなり、どうしたんです?」

「馬鹿にしないでもらいたい」

 ツルは眉をひそめた。

「ぼくは本気だ」

 何年ぶりに見るだろう、ツルの決心した表情。恐らく、これで二度目だ。こうなってしまえば、イカズチが何を言おうとツルが意見を曲げることはない。

 ツルに合わせるように、イカズチも顔を整えた。

「覚悟を、決めたんだな」

 ツルは、緊張で濡れる自分の手を見つめていた。

「ぼくは、ぼくの中のカスミを、殺す」

「そうか……」

 カスミとツル。ふたりは、ひとつの身体を分け合って存在している。いつからそうだったのか分からないが。ツルがそう自覚し始めたのは、随分前のことだった。

「こういうの、二重人格っていうのかな」

 部屋の空気が引き締まる。

 イカズチは、ツルの一挙手一投足に気を配った。

「いまは、どっちだ?」

 ツルは、右手を握った。左手を握る時よりも反応がいい。

「たぶん、ツルのほうだ。皇太子としての自覚がある」

 わずかに空気が緩む。しかし、イカズチの視線は以前として鋭い。

「カスミも気付いたのか?」

 ツルは、ちらりと目線をあげた。

「そうだねぇ……」

 シズクを追い詰めたあの日、ふたりは共存していた。カスミもツルの存在に気付いていることは、間違いない。しかし、ツルは、イカズチの質問に対して「分からない」と首を振った。ツルは、イカズチに嘘をついた。

「カスミが表に出ている時、ぼくはこの世に存在していないから」

「気付いている可能性も?」

「否定はできないだろうね」

「そうか……」

 イカズチは数回頷いた。

「ついに、この時が来たのだな」

 イカズチは感慨深いものを感じていた。

ツルは、イカズチの顔を指さして笑った。

「イカズチ、どうした? すごく変な顔をしているぞ」

「生まれつきだ」

 ツルが嘲笑う。イカズチは、咳払いで自分を一喝し、気持ちを整えた。

 あれから、どれくらいの日数が経ったのだろうか。

 イカズチは、記憶の旅にでた。

 ツルが行方不明になったのは、大きな戦のあとだった。隣国との激しい戦闘の中、水の軍は敗走を重ね、いよいよ敗戦が濃厚になって来た。そんな時、ツルが敵大将の暗殺を申し出たのだ。

「ぼくが、敵大将の首を持ってくる」

「馬鹿を言うな!」

 当然、イカズチは猛反対した。いくらスピードがあっても、百万の監視からは、逃れられない。しかし、ツルは折れなかった。やがて、皇帝陛下は許可を出した。それが、ツルへの死刑宣告になるとも知らずに。後に、この決断は、ツルが皇帝になることで、イカズチがこれ以上余計な力を持つことを嫌った貴族たちによる陰謀と分かったのだが、時すでに遅し。

 ツルは、そのまま行方不明となった。その後、イカズチの必死の捜索により、ツルは発見されたが、すでに、ツルはツルではなかった。ベッドの上で目を覚ましたツルは、喜びに震えるイカズチにこう言った。

「きみ、怖い顔だね」

 イカズチは愕然とした。

自分のことをカスミと名乗ったその男は、隙を見て宮殿を抜けだし、貧民としての人生を歩むようになった。

 しかし、ようやくツルが帰ってきた。

 記憶の旅から戻ってきたイカズチは、ずっと疑問に思っていたことを尋ねた。

「お前に、何があった?」

「何がって?」

「敵の陣地に潜り込んでから、その後だ」

「えっと、そうだねぇ……」

 ツルは黒目を持ち上げて、自分の中の記憶を探った。

 敵大将の暗殺を申し出るまでは、イカズチの記憶と同じ。

 ツルは、敵の本陣に身を潜ませていた。敵兵士たちの会話から、自分がおびき出されたことはすぐに分かった。水の都の貴族たちと敵国とで、すでに和睦は成立している。

 まさか。そのまさかだった。

ツルは、平和のために命を売られた。

 引き返そうとも思った。しかし、ここで引き返したら国はどうなる。敵は、約束を反故にされた怒りを国全体にぶつけ、水の都は滅びるだろう。

 そんなの、駄目だ。

 ツルは、わざと見つかる様に暗殺を計った。これ見よがしに警備が手薄な本陣に飛び込み、影武者の首にナイフを突き立てた。すると、物陰からぞろぞろと敵兵が湧いた。嬉しそうに種明かしをしてくれるので、ツルは合わせるように驚いてやった。調子に乗った敵の大将が、貴族たちとの和睦を反故にすることを打ち明けた。

「どうして勝ち戦をわざわざ捨てねばならんのだ」

 ツルの周りで、噴き出すような笑いが巻き起こった。

 悔しくて、でも、どうしようもない。しかし、このまま死んでなるものか。絶対に呪い殺してやる。この恨み張らせるのであれば、ぼくは進んでこの命を差し出そう。

ツルの中で、何かが弾けた。それは、奇跡だったのかもしれない。

気付いた時には、ツルの周りには、敵大将を含む、何人もの死体の山が築かれていた。いったい、誰がこんなことを。

そこで、ツルの意識は途切れた。

「ぼくは罠にはめられた」

「知っている。だが、一体どうやって生き延びた」

 ツルは「分からない」と、申し訳なさそうに首を振った。

「とにかく必死で戦ったんじゃないかな」

 必死で、百人斬り。

「その時、ツルの中にカスミが生まれたのか」

「ごめん、それも分からない」

 嘘だ。一騎当千の活躍を果たしたのは、間違いなくカスミだった。ただし、それは、ツルがカスミを自覚した瞬間であって、カスミの生まれた時期に関しての明確な時期は、以前として不明のままだった。

「難しい話はやめにしよう」と、ツルは顔の前で手を振った。

「とにかく、イカズチの探している裏切り者っていうのは、ぼくを殺そうとした貴族たちのことだろう?」

 イカズチは頷いた。

「やつらは皇室の人間を罠にはめた。それは、死罪に値する」

「だったら、十分休憩後にでもイカズチが貴族たちを皆殺しにしちゃえばいいのに」

「駄目だ」

たしかに、解決だけを目的とするなら簡単だ。しかし、問題は、この件を告発した時に起こるであろう弊害だ。どれだけの人たちが、クーデターを起こすイカズチの味方をしてくれるだろうか。

「その件で、ひとつ聞きたいことがある」

 イカズチは、人差し指を立てた。

 これが分かれば、また別の問題が解決する。

 イカズチは、机に立てかけておいた刀剣に触れた。万が一のことがあれば、この場で切り捨てることも辞さない。

「貴族たちを暗殺しているのは、ツル、お前か?」

 イカズチの思い切った質問に、部屋の空気が重くなる。話を逸らそうものなら、それも返答とみなされる。ツルは、厳しいイカズチの視線に耐えながら、頭の中で言葉を選んだ。

交錯するふたりの視線。

 雷が、そんなふたりの間に割り込んだ。

「ぼくじゃない」

「カスミか?」

 ツルは首を振った。

「分からない。さっきも言ったけど、カスミが表の時に、ぼくはいない」

 イカズチが剣を抜こうと手に力を込める。しかし、ツルは遠くを見ながら話続けた。

「でも、きっと違うと思うよ」

「なぜ、そう思う」

「シズクが、カスミのことを信頼しているから」

 あのシズクが、人殺しを好きになるわけがない。ツルは、そう確信していた。そうでなければ、ふられた自分を納得させることができなかった。

 イカズチは、剣から手を離した。

「ツルがそう言うのなら、信じよう」

ツルが、イカズチの探しているアサシンでないことが分かり、イカズチは、内心ほっとしていた。それがばれることは癪なので、イカズチは聞き慣れない名前に眉をしかめた。

「しかし、シズクとは誰だ?」

「さぁ? ぼくにも分からないよ」

「分からないだと?」

「うん。でも、天使とか女神とか、きっとそのへんの生き物だよ」

イカズチの怪訝な顔を、ツルは悪戯っぽく笑った。

「どうしたんだい、イカズチ。顔が怖すぎるぜ?」

 イカズチは、説明にならないツルのキザな言い回しが癪だった。しかし、それ以上は何も聞かなかった。どうせ、自分には理解出来ないことだ。

「そのシズクとかいう謎の生物は、この事件と関係があるのか?」

「ないと言えばないし、あると言えばある」

 ツルのぼかすような言い方に、イカズチは苛立ちを積もらせた。明らかに、ツルはシズクをかばっている。イカズチがシズクと接触しないよう、一定の距離をとらせている。

 ならば、シズクを斬ろう。

 イカズチは、出そうとした言葉を飲み込んだ。

 話す気がないのなら、これ以上問い詰めても仕方あるまい。シズクの問題は、ツルに任せることにしよう。お前しかないのだ、おれが信頼できるのは。

「カスミを殺すのはいつだ」

 ツルは、難しい顔でしばらく唸ってから、口を開いた。

「まずは宮殿の雨雲を払おうじゃないか」

 ツルは立ち上がった。

「そうだな」

 イカズチも立ち上がり、刀剣を腰にさげた。

「敵の正体を掴めているほうが動きやすいというものだ」

「久しぶりに、イカズチの武芸が見れるのかな」

 ふたりは並んで部屋を出た。

 まずは準備、それからだ。


 *


「カスミ、帰って来ないねぇ」

 イズミは机の上に顎をのせた。さっきから、お腹が鳴って止まらない。おかげで不機嫌になってしょうがない。

こんな小さな子を空腹のまま放置するなんて、やっぱりカスミは駄目な奴だ。

 シズクは、むくれるイズミの頭を撫でた。

「もうすぐだから」

 シズクはそう言った。さっきもそう言った。しかし、内心は不安だった。机の上に肘を乗せて手を組み合わせると、手が汗で湿っているのが分かる。あの時、あの雨の日、ツルは何かを決心したようだった。もし、それが、カスミも巻き込むような良からぬことだったら。

 シズクの背筋に悪寒が走った。

一度嫌な想像をしてしまうと、いくら払拭しようとしても頭について離れない。

「イズミ、もうお腹ぺこぺこなんだけど」

「大丈夫よ。カスミは、もうすぐ帰ってくるから」

 すでに、同じ台詞を五回は言っている。

 進まない台本。続きは、カスミの台詞だ。

 ふたりの前で、出来たてのスープがもうもうと湯気を立てていた。

イズミは、雨音に耳を傾けていた。しかし、いよいよ退屈になってきた。そもそも、じっとしている事が苦手だ。「イズミは落ち着きがない」と、何度お母さんに怒られたことだろう。いくら怒られても、落ち着けないものは、落ち着けない。

イズミは、目線だけをシズクによこした。

「ねえ、お姉ちゃん」

「なあに?」

「お姉ちゃんは、カスミのどこがそんなに好きなの?」

 シズクの頭にこびりついていた嫌な想像は、イズミの無垢な質問によって、一瞬にして吹き飛ばされた。頭の中は「すき」で一杯になった。

「な、な、な」

「だって、お姉ちゃんはカスミが好きでしょ?」

 追い打ちをかけるように、イズミは詰め寄って来た。改めてそう言われると、なんと言い返したらいいのか分からない。頭ごなしに否定するのも、なんか違う気がする。

「わ、わた、わたしは、か、カ、カスミのことなんて」

「イズミはねえ、カスミの馬鹿な所とか、結構好きだよ」

 イズミは、無邪気に笑った。

 その笑顔を見て、シズクは、とんでもない勘違いをしていたことを悟り、顔を隠さずにはいられなくなった。

「シズク、どうしたの?」

「……そういうことね」

「へぇ? なにが?」

シズクは、自分の早とちりを恥じた。段々と頬が熱を帯びていく。シズクは、照れ笑いを浮かべながら、イズミの無垢な質問にこう答えた。

「わたしも、カスミの馬鹿なところが好きよ」

「やっぱり!」

 大声と共に身体を起こしたイズミは、顔を咲かせた。

「カスミって、すごく馬鹿だよね!」

「ふふ、そうね。カスミは馬鹿」

 カスミは、馬鹿みたいに、ひとつの約束を守ろうとしている。お金を返せない代わりに、シズクに太陽を見せてあげる。そんな夢みたいな約束を守るために、カスミは闇雲に太陽を追い求めている。昨日も、今日も、あいつは、わたしのために、自分の手を汚し続けている。

 シズクは、机の上で組んだ手に、おでこを乗せた。

「ほんと、ばかで、バカで、馬鹿すぎて、好きになってしまいそうよ」

 幼いイズミには、うわ言のように呟いたシズクの台詞を、理解することができなかった。でも、声が震えているのは分かる。

「お姉ちゃん、泣いてるの?」

「泣いてないわ」

「でも」

「泣いてないの」

 イズミは、どうしたらいいのか分からず、シズクの頭を撫でてやった。

「お姉ちゃん、どこか痛いの?」

 どこも痛くないのに泣くのは、わたしが弱いから?

 シズクは口元を緩めた。

「イズミは、いい子ね」

シズクは、イズミの手を握りしめた。小さくて、温かい。まったく汚れを知らない手だ。

「お姉ちゃん、痛いよ」

 イズミの中で、小さな手がぴくりと抵抗した。

「ごめんね。ごめんね」

 小さな手を握りしめたまま、シズクは何度も「ごめんね」を繰り返した。誰に謝っているのか、それは、シズクにも分からない。イズミ? カスミ? ツル? 今まで搾取して来た人たち? 分からないけど、なぜか謝りたくて仕方なかった。

「お姉ちゃん……」

 握られている手は痛いけど、もっと痛いところがある。

「いいよ。もっと痛くしてもいいよ」

「ごめんね。ごめんね」

 シズクは何度も繰り返した。

 もう、カスミは帰って来ない。気付いていた、カスミとツルが、同一人物であることに。気付いていた、日に日にカスミは消滅に向かっている。元の人格であるツルが、その存在を取り戻しつつあることに。

 気付いてしまった。カスミは、もう、いないんだ。

「お姉ちゃん、大丈夫だよ。カスミ、もうすぐ帰ってくるから」

 イズミは、カスミの帰りを心から願った。自分だけでは、シズクを慰めるのに力不足だ。

「カスミが帰ってくるまでは、イズミがお姉ちゃんを守ってあげるから。だから、もう泣かないで?」

 シズクは泣きながら微笑んだ。

 イズミにまでそんなことを言われるなんて、わたしも弱くなったなぁ。

シズクは、しみじみとした想いを噛みしめた。

「お姉ちゃん、もう、スープ食べようよ。カスミの分は、イズミが食べるよ」

「そうね。冷めちゃうものね」

 シズクは、握っていた手を解いて、改めてイズミの顔を見た。

この子、こんなに頼もしい顔してたかしら。

「お姉ちゃん?」

 しげしげと自分の顔を覗き込んでくるシズクに、イズミは首を傾げた。

「そうね。あなたは強いわ」

親を殺されても、泣きごと一切言わない。そんなことが、出来る訳ないものね。

「イズミは、すごく強い子になったのね」

「お姉ちゃん、どうしたの? イズミ、お姉ちゃんもつおいと思うよ?」

 そう。わたしはもっと強かった。誰よりも強かった。なんでだろう。いつだって、わたしはひとりでお金を稼いで、男に力で負けることもなくて、貴族すら上手に扱っていたのに。どうして、今さらわたしは弱くなってしまったのだろう。

「お姉ちゃん?」

 イズミの声が、遠くで聞こえた。


『やあ、シズク』


 ああ、そうか。

「そういうことだったのね」

 シズクは、ようやく涙を拭った。

わたしは、ひとりじゃなかった。気付けばカスミがいて、だから、わたしは、孤独に怯えることがなかったんだ。

 分かってしまえば、大したことではない。

「なによ、あいつのせいじゃない」

「お姉ちゃん? ――わっぷ!」

 シズクは、イズミを抱きしめた。小さな頭を抱きかかえ、繰り返し何度も撫でてやる。

「む~、苦しいよぉ」

 シズクの腕の中で、イズミはもがもがしていた。

 なにを言われようと、絶対に離してやるものか。この命は、カスミが繋いでくれたものだ。ツルじゃない。イズミは、カスミが存在していた、証なんだ。

「あなたに見せてあげるから」

 腕の中で、イズミの頭が動いた。

「なにを?」

 決まってるじゃない。

「太陽よ」


 *


 その晩、ツルは夢を見ていた。

「ここは……」

 見渡す限り真っ白な空間に、ひとりで立たされるという夢。建造物も、人も、音も、何もない、無の世界。そこがあまりに現実離れした世界だったので、ここは夢の中だとツルが気付くまで、そう時間は掛からなかった。

「ぼくの頭の中か……」

 しばらくその場で待ってみたが、一向にイベントの起こる気配がない。

 ツルは、ぐるりと辺りを見回した。

「仕方ない」

ツルは、正面に向かって歩くことにした。そうすれば、何かが変わる気がした。しかし、いくら歩いても景色が変わることはなかった。唯一、身体の異常には気付いた。

どれだけ歩いても、身体が疲労を訴えてくることがない。試しに全力で走ってみたが、わずかにでも息が乱れることはなかった。

夢の世界って、こういうものなのか。

「何も無いなら、目が覚めてくれればいいのに」

「やあ、きみがツルだね」

 振り返ったそこには、もうひとりの自分が、ツルがしたこともないような穏やかな顔で立っていた。

 自分の姿と瓜二つ。

「おまえは、カスミか?」

「そうだよ。ぼくがカスミだ」

 ツルは腰に手をあて、身体を傾けた。

「こうして会うのは、二度目になるのかな」

「そうだね」

 カスミは微笑んだ。

 自分の目の前で自分が喋っているというのは、なんとも奇妙なものだな。ふたりは同時にそう思った。

 無音の世界で、お互いに出方を探り合う。最初に口火をきったのは、カスミだった。

「ツルは、ぼくを殺そうとしているのかい?」

「ああ、そうだけど」

 真っ白な空間で向かい合うふたりは、雨音すらない、真の静寂を感じていた。ふたりは、これから起こることを予期している。

 カスミは、全身を見せつけるように両手を広げた。

「前の時は、ぼくが勝った」

「そうだな」

 以前行われた自分対自分との戦いは、カスミのほうが優れていた。ツルには、殺す気のない殺しをすることができない。勝利を確信した瞬間、殺気が身体の動きをわずかに鈍らせる。しかし、カスミは無垢に人を殺せる。偶然うっかり人を殺せる。最初から最後まで、一連の動作で人の命を奪える。

「たぶん、今回もぼくが勝つ」

 カスミの左手には、何時の間にかナイフが握られていた。

なるほど、夢の中ではそういうことができるのか。

 しかし、ツルはナイフを握らなかった。

 カスミは、戦おうとしないツルを、不思議そうな目で見つめた。

「どうして?」

 ツルは気付いていた。

「戦わなければ、ぼくが勝つ。そうだろ?」

 好戦的でないカスミが、わざわざ戦いを挑んで来たのには理由があるはず。少し考えれば分かりそうなものだ。

ツルは、自分の心臓を指さした。

「カスミ、きみは消えかかっている」

 わずかに、カスミの顔が歪んだ。ツルの抱いていた可能性が確信に変わる。

ツルの言う通り、カスミという人格には、霞が掛かり始めている。表に出ている時も、暗闇に引っ張れる感覚が離れてくれない。それだけではない。表に出ていられる時間そのものが短くなっている。それは、カスミが偽物であることの証明に、他ならなかった。

「カスミ、きみは焦っているな」

 ツルが勝ち誇り両手を広げると、カスミはナイフを握りなおした。

「だから、ぼくは、ここに来た」

 腰を落とし、身をかがめ、後ろに引いた右足に力を込める。

「本当のカスミになるために」

「カスミは偽物だ」

 そんなの、知ってるさ。

 カスミがそう自覚し始めたのは、老婆に触れられた時だった。頭の中を閃光のように駆け巡るツルの記憶。幼少のころから武道に励み、戦で目覚ましい戦功をたてるツルを思い出し、カスミとツルは混じり合った。いや、カスミがツルに浸食され始めたと言った方が正しい。

 その対価として、無力なカスミはツルの力を手に入れた。

「例え今は偽物でも、ぼくは本物になれる」

 それは、カスミの見せた初めての野心だった。

「だから、きみを殺す」

 当然、ツルにはそんな欲望を受け入れることはできない。逃げ回るべきか、カスミを越えるべきか、ツルは選択を迫られていた。

「ぼくは死なない」

 ようやくツルは答えを出した。

 ツルの右手に、ナイフが現れる。

「カスミを越えて、ツルは、大空高く羽ばたくのさ」

 ツルも構えた。一度は負けた相手を前に、ツルは初めて戦いを怖いと思った。身体能力はまったく同じ。だとしたら、勝敗を分けるものはいったい何だろうか。

「まさか、命の恩人を殺すはめになるとはね」

「気にしなくていいよ。ぼくも命を助けてもらった」

 カスミは、深く、息を吐いた。軽く、身体を、軽く。

 どんなに強い気持ちも、運も、才能も、性格も、より優れた武器だって、ふたりに優劣の差はつけられなかった。ふたりは、鏡映しのようにまったく同じ。平等すぎるほどに平等。そんなふたりに、決着がつくはずもなかった。

「じゃあ、始めようか」

「いや、終わろう」

 右足を踏み切ると、身体が軋んだ。急所に狙いを定めると、頬をナイフが掠めた。右足を踏み切る。ナイフを振る。受け止めて、また狙う。

 何度も重なり合う鋭い金属音。お互いに致命傷をつくることはできず、相手の身体に細かな傷をつけることが精一杯だった。その程度でお互いの技が鈍ることもなく、戦いは永遠に続くと思われた。

 ふたりは同時に足を止めた。

「どうした、カスミ。あの時の力はどこへいった」

「まだまだ、本気じゃないんだよ」

 カスミは、鈍い身体の動きに苛立っていた。

かつてツルを一蹴したカスミであったが、野心で目の曇ってしまったカスミは、ツルの急所を一連の動きでつくことが困難になっていた。もはや、ふたりに優劣の差をつけるものは何もなかった。カスミが自分を取り戻せば勝機はあったが、時間に追われている以上、それはほぼ不可能だった。

「大人しく、消えてくれないか」

「それは、こっちの台詞さ。ぼくには、守らないといけない約束がある」

 このまま朝を迎えれば、きっとツルは目覚める。恐らく、カスミにとって、これが最後のチャンスだった。ここでツルを殺し、身体を奪えなければカスミは消滅する。ツルは、有利な状況で勝負を進めていた。

 しかし、カスミは諦めなかった。

「ぼくは消えられない。待っている人がいるから」

「シズクのことか」

 カスミは首を振った。

「シズクだけじゃない。イズミだって、ぼくがいなくなったらきっと泣いちゃうんだよ。太陽を見せるって、ぼくは約束したんだよ」

「太陽は、ぼくが見せる」

「ぼくじゃなきゃ駄目なんだ!」

 カスミの声が、白の空間にこだまする。

「きみはカスミじゃない。カスミが朝日を昇らせるんだ」

カスミはもう一度構えた。これで決める。それが、どんな結果を生み出そうとも。

「ぼくは諦めない。やってみなきゃ分からないんだから」

「そういう考えは、嫌いじゃない」

 身を低くする。狙いを定める。あとは、呼吸。

 ふたりは、同時に踏み込んだ。

 一陣の風が吹いた。

 互いに背を向け合い、振り抜いたナイフからは、一滴の雫が垂れた。

「なるほど……ね」

 崩れたのは、カスミだった。

 ナイフを落とし、わき腹を押さえたまま片膝をつく。

「これは……勝てないや」

 ツルは、ナイフについたカスミの血を眺めた。ついに勝った。実感はわかないが、ツルには傷一つついていない。

「もっと……喜んだらどうだい?」

 カスミは、痛みに顔をしかめていた。いよいよ、消滅の時が近付いて来た。

「きみは……きみを越えたんだ」

 ぼくが、ぼくを?

 ツルは、改めて自分の姿とカスミとを見比べた。同じ背格好、同じ目的、同じ暗殺術。ツルとカスミは一心同体。

「それは違う」

 ツルは、首を振った。

「ぼくは、カスミを越えたんだ」

 カスミは、力無く笑った。血を流し過ぎた。これ以上意識を保つことは難しくなっていた。どうやら、約束は守れない。でも、大丈夫か。

 太陽はいつだって、そこにあるんだから。

 

 

 ツルは目を覚ました。

「……カスミ?」

 すぐに布団から飛び出して、身体の節々まで調べる。寝汗はびっしょりだが、傷はどこにもない。

 ツルは、落ちるようにベッドに座った。

「あれは、夢だったんだ」

 ツルは、軽くなった心を、優しく握りしめた。

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