表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3



 プロローグ



 世界は平等だ。


 生まれながらに才能を持ち、同じ心臓を与えられる。

 優劣の差はない。

 呆れるくらいに平等な世界で、人は生命を燃やす。


 世界は不平等だ。


 才能を持つものと持たざるもの、心臓に価値がつけられる。

 生きるべき者と死ぬべき者。

 晴れ晴れとした不平等な世界で、人は生命を削る。



 どちらが本当で、どちらが嘘。


 どちらかが本当で、どちらかが嘘。


 世界はいつまでも明るく、どこまでも暗い。


 真実の世界を、見るために。


 今日も晴天、明日も、明後日も。


   第一章


 世界のどこか、まだ誰も知らない場所。

水の都は、そこにある。

 清らかなる国である水の都には、燦々と太陽が降り注ぐ。目の前を流れる小川に耳を傾けると、せせらぎが全身に沁み渡る。見上げれば、ため息の出る青天。生い茂った緑のなかを動物たちが跳ねまわっている。

 なんてことは、まるでない。

どんよりと重たい雲が国を覆い、止むことのない雨が忙しなく地面を叩く。雨音を聞き飽きた人々は耳を塞ぐ。すべてが薄い膜に覆われているように、はっきりとしない。

光の届かない国に、希望は欠片もなかった。

 生命は絶望した。

 だって、この国は太陽に見捨てられてるじゃないか。

国中に不満が満ち溢れた日、誰かが言った。

「この雨がやむことはない。しかし嘆くな、我が子たちよ。水はすべての母である。そして、ここ水の都は、すべての根源となるべき土地。みな、太陽を諦めるのだ。それが、この国に生まれた者の最初の使命である」

 いつ生まれたのかも分からないこの言葉は、不安で満ちた人々の心の拠り所となった。

自分たちは選ばれた民であり、生まれながらに生きる意味を与えられた存在である。そうして、人々はあらゆる理不尽を正当化してきた。

疑問を持つはずもなかった。

 だって、世界は不平等なのだから。


 そんな中、太陽を諦めようとしない者がいた。

 都の隅で生まれ、平凡に育ったはずの青年、提中霞。

 カスミは、もうじき目を覚まそうとしている。

 じめじめした家。至る所で鮮やかな色のキノコが顔を出す。天井に溜まった雨粒がカスミの頬に落ちて、カスミに覚醒を促す。

 毎朝こうして、カスミの一日は始まるのだ。

「……うぅ……おはよう」

 起こしてくれてありがとう。起こしに来てくれた幼馴染に感謝するように、カスミは雨水に感謝していた。

 一日の始まりには身体を伸ばす。身体がポキポキと音を鳴らす。

「い~い天気だ」

 あくびをしてから、ふと、窓の外に目をやる。

 カスミは大きく息をついた。

「なんだ、今日も雨か……」

 明日は晴れているかもしれない。そう思って昨日はベッドについたのだが。どうやら、世界はカスミの期待通りに働かないらしい。

「でも、今日もぼくは散歩に行くのさ」

 独り言は癖になっていた。

「とおっ!」

 カスミはベットから飛び起きた。

「さぁて、着替えちゃうよぉ」

 床に落ちているびしょ濡れの服を拾い上げ、袖を通す。

「続いては朝ご飯さ!」

カビだらけの服に袖を通して、カビの生えたパンを食べる。

「いただきます!」

 一口かじると、湿ったパンは、口の中にこびりつくように柔らかく、ぐちゃりと気味の悪い音をたてた。

「……不味い」

 カスミは、ぶすっと呟いた。

食べたくてゴミを食べているわけではない。それしか食べる物がないのだ。貧民街に住むカスミは、漏れることなく貧乏だった。

「もっと美味しいものを食べたい」

 カスミは、当たり前のことを呟いた。

 どんなに貧乏な人間であっても、欲望だけは平等に持っている。そこで、カスミは考えた。どうすれば、もっと美味しい物を食べられるのか。

 顎に手を添えて唸る。

「……そうだ。シズクに会いに行こう!」

 カスミの辞書に労働という文字はない。

 シズクに頼めば美味しいものを食べさせてくれるかもしれない。カスミは、そんな無謀な希望を抱いていた。

「そうと決まれば!」

 カスミは、さっそく家を飛び出した。

 外は雨。でも、カスミは傘を持っていない。

「うん。いい天気だ」

 カスミは雨を気にせず歩きだした。

 舗装されていない道を、泥を跳ね飛ばしながら歩く。あっちでケンカしている。その向こうでは平民の子供たちが、貧民の家を焼いている。そのどれもが、カスミの住む貧民街の日常風景だった。

 カスミは気にせず歩き続けた。少し鼻歌交じりにもなってきた。

だって、あの角を曲がれば、きっと会えるから。

ほら、悲鳴が聞こえてきた。

「やあ、シズク」

「あら、カスミ」

 角を曲がったそこに立っている女性。彼女がシズクだった。

 目を丸くするその女性は、綺麗なブロンドの髪を傘で隠している。足を覆い隠すほど長いスカートは、裾が濡れて色が変わっていた。シズクは、その真珠のような美貌だけでご飯を食べていたこともあるほど、容姿に恵まれていた。まさか、そんな美しい彼女の腕に血まみれの男が握られていると、誰が思うだろうか。

少なくとも、カスミは思わない。

「やあ、シズク。今日もいい天気だね」

 雫石雫。貧民街に住む人間の中でも、最悪に近い人間。金に困っている人に近付き、もっと金に困らせる魔女。つまり、悪徳金貸し。

 シズクは、にこりと笑った。

「そうね。貸してたお金を徴収するのにはうってつけの日ね」

 シズクは、血まみれの男を投げ捨てた。雨で流れてくる巨体の血が、赤い帯となって、カスミの足元まで伸びてくる。

「……死んでるの?」

「ええ、過労死ね」

「へえ、過労死って、身体から血が出ちゃうんだ」

「そうよ。働きすぎって怖いわね」

シズクは、巨体から受け取った金貨をポケットに押し込んだ。

「そんなことより、わざわざ会いに来てくれたってことは、返済の目途が立ったということかしら? それとも両親の形見を渡す気にでもなった?」

「ごめん、お金はないんだ。形見も渡せない。でも、美味しいものが食べたいんだ」

「あらそう。相変わらず人生舐めてるわね」

 はなから返済を期待していないシズクは、別段驚くこともなかった。

 取り立てるシズクを前にして、笑顔を崩さないのはカスミだけだ。シズクは、そんなカスミを気に入っていた。だからこそ、返済日を延ばしに延ばし、今日までカスミに危害を加えずにおいた。

「カスミは、お金もないのに美味しいものが食べたいの?」

「うん。だからシズクに会いに来たんだ」

「わたしにたかる気?」

「違うよ。美味しいものが食べたいだけだよ」

 シズクは、右手を腰にあてて、顔をしかめた。

「あなた、本当にお金を返す気あるの?」

 カスミは胸を張った。

「もちろんさ。いつだって返す気持ちだけは持ち続けているよ」

「そう。それは立派な心がけね。でもカスミ、あなた、仕事はなにしてるの?」

 とんでもない、とカスミは飛び上がった。

「雨が降ってるのに仕事なんて。馬鹿じゃないんだから」

 返済の気持ちを持ち続けているカスミは、返済に向けての努力をまったくしようとしなかった。

「あんたねぇ……」

 シズクは、深いため息を吐いた。

「そろそろ、本気で殺すことを考えないといけないね」

「そんな!」と、カスミは目を剥いた。

「ぼく、まだ死にたくないよ」

「わたしだって、カスミを殺したくないわ」

「じゃあ許して!」

「でも、人は誰だって死にたがらないものなのよ」

 シズクは、大きな死体に視線を落とした。

 人は死にたくない。だから、シズクの商売は成り立っている。水と格差が支配する国で、何も持たない貧民は、視界に靄が掛かったまま、この腐りきった街を歩く。やがて力尽きると、あとはじっくりと染み込んで行く死を感じるだけ。

その瞬間をねらって、シズクは手を差し伸べた。

 半分死んだ人間は、迷わず差し伸べられた手を握りしめる。

「ありがとう。あなたは命の恩人だ」

 シズクは、ほくそ笑む。

「気にすることないわ」

感謝なんて、わたしがしたいくらいよ。

 腹を満たした先に待っているのは、法外な金利と近すぎる返済期限だけだった。

返せる訳ないわよ。それでも、人は死にたがらない。必死になって働く。プライドはドブに投げ捨てて、社会の奴隷になって働く。

「でも、結局死んじゃうのよね」

 そうして、最後に残るのは大量の金貨とカラスの餌。

「ぼくを殺すの?」

 カスミの目に溜まる涙が、シズクの加虐心をくすぐる。

「そうね。返済期限を越えれば殺すわ」

「やだよ。まだ死にたくない」

「我儘を言わないで、これはビジネスなの」

「そんなぁ……」

 カスミは、空に浮かぶ巨大な雨雲を仰いだ。

「雨なら、たくさんあるんだけど」

 カスミが大口を開けると、雨水が喉を通り、カスミの身体に沁み渡った。

「雨、美味しい?」

 シズクが尋ねると、カスミは怪訝な顔になった。

「ただの水だよ?」

 多くの人間は、カスミと五分以上会話を続けると、頭痛を覚える。

 シズクは、身体ごと傘を傾けた。

「そうね。わたしが欲しいのはお金。雨なんて、一銭の価値にもならないわ」

「シズクは、雨が嫌い?」

 聞かれるまでもない。シズクは地面に唾を吐いた。その痕跡すら残らない。水はすべてを洗い流す。

「大嫌いよ」

 シズクは、すべての貧民がそうであるように、漏れることなく雨を憎んでいた。

 曇り空。カスミの顔が晴れ渡った。

「だったら、ぼくがこの雨をなくしてあげるよ」

「はぁ?」

シズクは、苛立ちに顔を歪めた。

 いくらカスミでも、度を超えた冗談だ。夢を見るのは自由だが、それがあまりに無謀だと人を狂わせてしまう。

「あんた、それ、本気で言ってるの?」

 カスミは、びしょ濡れだった。

「この雨をなくせば、シズクの機嫌も良くなるはずさ。そうしたら、きっとお金のことなんて忘れちゃうよ」

 まるで万能薬でも発明したかのように、カスミの彼は晴れ晴れとしていた。

 なんと無邪気な笑顔だろう。汚れ切ったシズクには眩しすぎた。

 雨は降りやまず、シズクの傘を叩いた。

「馬鹿なことを言わないで」

「どうして?」

 カスミの透き通った目に、汚れた自分が映っている。

 まったく、そらしたくなるわ。

「この雨は止まない。百年、もっと前から降り続けているのよ?」

「でも、明日には止むかもしれない」

 この国で、晴れを期待しているのはカスミだけだ。貧民は雨を憎み、それ以外の人間は雨を崇拝している。共通しているのは、雨は止まないものという認識。

「この雨は、止まないわ」

 シズクは言い聞かせるように繰り返した。

自分に言っているようにも聞こえる。ちょっとの期待もバカバカしい。人が天気を操れないなんてこと、シズクは生後三日で習った。

「そんなことないよ!」

 シズクがいくら言っても、カスミは聞こうとしなかった。雨は止むもの。そう信じて疑わなかった。

「シズクに太陽を見せてあげるよ」

 カスミがすごく嬉しそうだったので、シズクは頭に手を当てた。

 呆れて物も言えない。低気圧のせいなのか、頭痛がひどくなってきた。これ以上カスミと話していると、こっちまで頭がおかしくなりそう。

「もういいわ……」

シズクは傘を持ち直した。

「そろそろ、寒くなってきたわね」

取り立ても終わった事だし、家に帰ろう。温かいシチューを作るの。お金なら沢山あるわ。お肉だって買える。もう、カビの生えたパンは食べなくていい。お金があるだけで、幸せになれるの。

「寒いなんて。シズク、もしかして身体悪いの?」。

こんなにいじめてあげたのに、まだ心配してくれるのね。

木枯らしがシズクのスカートを揺らした。季節は冬を迎えようとしていた。

シズクは額に手を当てたまま、わずかに頬を緩めた。

「まあいいわ。カスミが本当にこの雨を止めることができたら、借金はなかったことにしてあげる」

「本当?」

 きらきらの視線にうんざりする。

どうして、期待なんてできるのよ。

「ええ、嘘はつかないわ。約束よ」

「美味しい物も食べさせてくれる?」

「たらふく」

「よし。そうと決まれば行動開始だ。太陽はいつだってそこにあるんだから」

 スキップで去っていくカスミの背中を見送る。

スキップなんて、無駄なことなのに。雨音が、楽しそうな足音も掻き消してしまうもの。

 バイバイ、カスミ。


            *


 シズクと話しこんでしまったせいか、まだ散歩は途中なのに、辺りは真っ暗になっていた。

あばら家から漏れてくる蝋燭の淡い光。貧民たちはその光に身を寄せ合い、会話もなく息をころす。

 静寂の貧民街で、カスミは雨と踊っていた。

 一緒にステップを踏んで、カスミと雨は仲良し。浮かれ気分のカスミは、すっかり道に迷っていた。

 もうすぐ、その事実に気付く。

 カスミの足は止められた。

「あれ?」

 目の前にそびえるコンクリート造りの壁。

 見たことのない壁に突き当たり、カスミは、ようやく自分が迷っていることに気付いた。辺りを見回しても、四方を黒い幕に覆われている。

「ここ、どこ?」

 カスミは辺りを見回した。

「こんな壁、知らないよ」

 立ちふさがる壁に手を触れてみると、なにか文字が刻まれていることに気付いた。目をこらして、書かれている文字を睨みつける。

「うん、駄目だ。読めない」

 暗いからではない、カスミに学がないのだ。

 辺りが見えない。字も読めない。八方ふさがりのカスミは、途方に暮れた。

「どうしよう……」

 カスミは、不安と同時に、言いようのない興奮も覚えていた。まだこの辺りにも未開の地があったなんて。どうやら世界は広いらしい。カスミの知らないことは、まだまだ一杯ある。もっと探索したいけど、やっぱり家に帰りたかった。

 とにかく、帰り道を探そう。

 カスミは首を回した。

「お家は、どっち?」

 どうやら正面と左右を壁に囲まれているらしい。行ける方向は、ひとつだけだった。

 カスミは、来た道を引き返すことにした。

「――? やあ、こんばんは」

 振り返ったそこには、見知らぬ老婆が立っていた。何もせず、まるで最初からそこにいたかのように、老婆はカスミの行く手を塞いでいた。

 カスミは老婆に話しかけた。

「お婆さん、こんなところで何してるの?」

 老婆は何も言わない。

老婆の銀色の髪は、雨で濡れ、だらしなく地面に向かって垂れている。全身が黒いローブで覆われているので、髪の毛以外で、老婆の特徴を表せるものはなかった。

 腰の曲がった老婆を、カスミは当たり前のように気遣った。

「お婆さん、迷子?」

 老婆は何も言わず、雨に打たれていた。

「ねえ、風邪ひくよ?」

 それでも、老婆は喋らない。

カスミは、ようやく気味悪くなってきた。こんな時間にひとりで貧民街をうろつくなんて、よっぽど頭のおかしなやつでもない限りしない。

晴れを信じるカスミが、幽霊を信じないはずがなかった。

いよいよ、カスミの心は恐怖で満たされた。

「やっぱり、風邪、引かないかも……」

カスミは、ゆっくりと後退して、老婆から距離を取った。それでも老婆に動く様子はない。カスミの様子を窺うわけでもなく、さながら人形のようにそこに立っていた。

「それじゃあ、お婆ちゃん。気をつけて帰りなねぇ」

 カスミは、逃げるように、老婆の横を通り過ぎようとした。その時――

「お待ちよ」

 しわがれた声が地を這い、カスミの足にからみついた。

「そんなに急いでどこへ行く?」

 カスミは振り返った。老婆はカスミに背を向けたままだった。

「今喋ったの、お婆ちゃん?」

「ええ、そうだよぉ。この婆が、あんたに話かけたのさ」

老婆は振り返ろうとしない。仕方がないので、カスミは、老婆の背中と会話することした。

「ぼく、お家へ帰りたいんだ」

「びしょ濡れの婆を置いてかい? これだから最近の若者は嫌だよぉ」

 老婆は卑屈に笑った。

まるで絵本に出てくる魔女みたいだ。カスミはそう思った。

「だったら、ぼくの家にくるかい?」

「いいえぇ、あんたの家は、ぼろっちいから嫌だよぉ」

「でも、ここにいたら濡れちゃうよ?」

 老婆は、また卑屈そうに笑った。

「そうだ、その通りさ」

 老婆の首は、錆ついているかのように、ぎこちなく上を向いた。

「この雨じゃあ、ずぶ濡れになっちまう」

「だからぼくの家に来ていいよ。何も無いけど、ベッドならあるから」

「この婆を、あんなカビだらけの布団に寝かせる気かい?」

 カスミは、しゅんと肩をすぼめた。

 何かを提案すれば、もれなく否定されてしまう。

カスミは、自分の無力を悔やんだ。

「お婆ちゃん、ごめんね。ぼく、お婆ちゃんに何をしたらいいのか分からないよ」

 老婆は、卑屈そうに笑った。

「気にしなくていいよぉ」

「でも、」

「えぇ、あんたは何もしなくていいさ。あたしが、あんたに何かしにきたんだからねぇ」

「ぼくに?」

 老婆はカスミの目の前にいた。カスミを見上げる皺だらけの顔。何よりも特徴的なのは、銀色の髪ではなく、老婆の目だった。白目がない。本来目のあるべき場所に穴があいているように、そこには黒目だけがぎっしりとつまっていた。

「お、お婆ちゃん?」

「雨を止ませるのかい?」

 老婆は、素早い動きでカスミの額に手を当てた。眩い閃光が走る。

「うわ!」

 思わず、カスミは目を瞑ってしまった。

どれくらいの間、そうしていたのだろうか。カスミが目を開けると、すでに老婆の姿はそこになかった。

「お婆ちゃん?」

 カスミは、左右に首を動かした。

 辺りには誰もいない。それどころか、さっきまで目の前にあったはずの行き止まりが、跡形もなくなっている。

「ここは……」

カスミの足元には、見覚えのある道が延びていた。

「なんだ。ラッキーじゃないか」

 カスミは歩き出した。

 足音を雨音にまぎれさせて、少し明るくなった夜道を、スキップで。


      *


 数日が経ち、今日も雨。

散歩を楽しむカスミがいつもの角を曲がると、左手に傘を持ち、右手で金貨をじゃらじゃらいわせるシズクと出会った。

「やあ、シズク」

「あら、カスミじゃない。どう、雨はやみそう?」

 金貨に血がついているのは、きっと一仕事終えた帰りなのだろう。シズクが傘を傾けると、雨粒が雪崩となって地面に垂れた。

「それどころじゃないんだ」

「あら、もう諦めたの?」

「そうじゃなくて、お婆ちゃんが消えたんだよ」

「なによ、それくらい。わたしだって、お婆さん何人も消してるわよ」

 シズクが血の付いた金貨をちらつかせると、カスミは激しく首をふった。

「もう、そうじゃないんだよ」

 カスミは、少し強めの口調で言った。

 シズクは、ポケットに金貨を押し込んで、腰に手を当てた。

「今日のカスミは、何時にも増してトンチンカンね」

「とんちんかん?」

「馬鹿野郎って意味よ」

「シズクの言葉はいちいち難しい」

 カスミは眉をひそめた。

「シズクになら伝わると思ったのに」

「期待に添えず、申し訳ないと思ってるわ」

 カスミはじれったい気持ちを抱えて、地団駄を踏んだ。自分の身に起きた奇想天外、そのありのままを伝えられないジレンマに苦しむ。

 シズクは、少しだけ首を傾けた。

「何にしても、そのお婆さんがお金にならないのなら、探したって意味ないじゃない」

「それは、そうなんだけど……」

カスミは肩を萎めた。

「でも、気になるんだよ」

「別にいいけど、あんた、このままだと、わたしに殺されるわよ?」

「そんなの嫌だよ」

 カスミは、さらに身体を縮めて、俯いてしまった。

 あの夜にあったことは夢じゃない。おでこには、お婆ちゃんの感触がまだ残っている。お婆ちゃんはいた。それなのに、いくら探しても、お婆ちゃんどころか行き止まりすら見当たらない。

 でも、本当なんだ。

「シズクは知らない?」

「なにを?」

「この街にある、行き止まり」

 また馬鹿なことを。シズクは顔をしかめた。

 平民街を囲む貧民街。なんの規則性もなく、好き放題に建てられたあばら家だが、決して人の道を阻むことはしていない。そんなことをして、もし、怖いものみたさに侵入してきた平民や貴族の進行を阻害してしまえば、その家は家主ごと潰されてしまうだろう。だから、貧民街に行き止まりはない。そんなものがあれば、近くの住人がすぐさま取り壊している。

 シズクは、首を振った。

「わたしには分からないわ」

「そっか……」

 カスミは、すっかり肩を落としてしまった。

「やっぱり、あれは夢だったのかなぁ」

 いつでも能天気なカスミが落ち込むなんて珍しい。シズクは貴重なものを見ている気分だった。もしかしたら本当に消える老婆がいたのかもしれない。いえ、カスミがこれだけ真剣に言うのだから、きっと実在する。本当に消えるかどうかは別として、老婆はいる。

 老婆はいる。カスミは嘘をつかない。

 シズクは、目線をカスミから外した。

「でも、わたしだってこの町をすべて知っているわけではないわ」

「シズク?」

「もしかしたらいるかもしれないわね、その、あなたの言う、消える老婆ってやつ?」

 シズクが少しだけ歩み寄ると、カスミはいつもの晴れやかな表情に戻った。

「シズクもそう思う?」

「ええ、思うわ」

 シズクは、冷笑をうかべた。

 やっぱり、カスミは単純ね。

 カスミは、泥をまき散らしながら飛び跳ねた。

「シズクは優しいよ!」

「ありがとう。人を殺してもそう言われるなんて、思いもしなかったわ」

「もっと探してみるよ」

「ええ、応援してみる」

「バイバイ、シズク!」

 カスミは、大きく手を振って大雨の中をスキップで歩き出した。

 去っていく背中を見つめながら、シズクはポケットに手を突っ込み、すっかり冷えてしまった金貨の存在を指先で確かめた。

 うん、ちゃんとある。


 一日中貧民街を歩き回ったが、カスミは、行き止まりどころか、コンクリート製の壁すらも見つけられなかった。

 カスミは、重たいがっかり感を肩に乗せて歩いた。

「すっごく、疲れました……」

 カスミは、とぼとぼ、当てもなく貧民街を彷徨っていた。

カスミは気付いていなかった、自分が着実に貧民街の出口へ向かっていることを。そして、その行いが自分の人生に終わりを告げることを。

 水の都を支配する階級差別。

 貧民、平民、貴族、皇室からなるピラミッド。虐げる事はあっても逆らう事はない。自分たちを選ばれた民であると信じて疑わない平民は、自分たちの上にたつ貴族を神の使いと崇め、皇室の人間を神のように崇めた。反対に、自分たちよりも愚かな存在である貧民たちに対しては、執拗なまでに冷酷に接した。そうして、人々は、命に価値をつけた。死んでもいい命と、生きるべき命。階級に差があれば、絶対服従。それが例え、母に刃突き立てることになろうとも。この国では、階級がすべてだった。

 これほど理不尽なルールを、人々は当たり前だと思っていた。

 何も考えていないカスミですら、この国を支配するルールは、誰に教わるでもなく知っていた。この国を支配する階級差別は、それだけ根強く、歴史ある戒律であり、破ることは許されない。

要するに、ただのゴミ掃除と同じ。塵紙が落ちていたので、ゴミ箱に捨てました。

 よくできました。

 ゴミがゴミ箱から勝手に飛び出すことなどあってはならない。

 カスミは、今日、その禁忌を犯そうとしていた。

「ここ、どこ」

 カスミは暗闇に目をこらすが、綿毛のような黒が漂うだけで、道が見えない。行き止まりを探すために、いつもの散歩コースから大きく外れたのは失敗だった。

「暗いなぁ」

周辺に建つあばら家から蝋燭の明かりがもれてこない。それは、この辺りは人が住めない場所、つまり、平民街付近であることの証だ。

「どうしよう、シズク……」

 明りの一切ないここでは、一歩先も見えない。もしかしたら、すでに平民街に足を踏み入れてしまっているのかもしれない。

積もっていく不安が、カスミの思考を鈍らせた。

 とにかく前に進もう。昨日はそうやって、お婆ちゃんに会った。

 カスミは、暴漢に襲われないよう、あたりに注意を配りながら歩いた。しばらくすると、ぼんやりとした明りが見えてきた。それが貧民街の淡い光なのか、平民街から漏れる夥しい光なのか。カスミのいる位置からでは判別できない。

 とにかく、その光に向かって進むことしか考えられなかった。

 前に、前に――

 そうして、カスミは開けた場所にでた。

 鮮やかな色の傘が街を彩る。活気のある街中、雨で消えてしまわないよう籠で覆われた明りがいくつも吊るされ、その下で人々は酒を飲み交わし、愛を求めて街を歩き回っている。

 あまりに華やかな光景に、カスミは目を奪われた。

「こんなに騒がしい夜は初めてだ」

 カスミの顔がみるみる晴れて行く。

 いつ襲われるか分からない貧民街で、夜道を歩くものはない。

そう。ここは平民街。もっとも居心地のいい場所。

白い建物が立ち並び、カーテンの奥で影が躍っている。人々は雨など気にも留めず、肩を組み乾杯をする。まだ誰も、カスミに気付いた様子はない。今なら引き返せる。カスミが一般的な貧民であったら、そうしていただろう。

しかし、カスミは足を前に出した。

楽しそう。カスミの頭に浮かんだものは、危険を告げるものではなかった。

平民たちは、雨を楽しんでいるように見えた。だから、きっと分かり合える。カスミはそう思った。

平民街を照らす明りは、カスミの足元まで伸びていた。

「ちょっといいですか?」

 不意に、カスミの肩が何者かに掴まれた。振り返ると、そこにはわざとらしい笑顔で、威厳を形にしたような、真っ赤な制服を身にまとう男が立っていた。

 警備兵だ。

「身分証の確認をよろしいでしょうか」

「みぶんしょー?」

 カスミが首を傾げると、警備兵は、笑顔のまま、眉だけを申し訳なさそうに曲げた。

「すみませんね。最近この辺も物騒なものですから。身分を証明できるものでしたら何でも構いませんので」

 カスミのポケットには、何も入っていない。

 不安で顔をゆがめ、慌ててポケットを探るカスミを不審に思い、次第に警備兵の顔が険しくなっていく。

「どうなさいました?」

もう、どうすることもできない。観念したカスミは、胸の高さで手を組んだ。

「ごめんなさい。ぼく、何も持っていません」

「お持ちでない?」

 警備兵は腰にさげる刀剣に手をかけた。

「失礼ですが、階級はどちらに」

 カスミは息を飲んだ。

 正直に言ってみよう。謝れば許してくれる。だって、ぼくたちは、雨が好きな者同士じゃないか。

「貧民街から来ました」

 刃がカスミの頬をかすめる。

「侵入者だ、殺せ!」

 警備兵が笛を吹くと、暗闇の中から、警備兵がぞくぞくと湧いた。

 逃げなきゃ。

頭でそう分かっていても、足がすくんで動かない。

「ご、ごめんさない。でも、ぼくも、雨が好きだから」

 頬から生温かいものが垂れてくる。手の甲で拭うと、それが血であることが分かった。

 殺される!

 ようやく事態を理解したカスミは、華やかな街に飛び込んだ。

「貧民を殺せ!」

 平民街で、カスミと警備兵の鬼ごっこが始まった。

「ごめんなさい! 許して下さい!」

 カスミは逃げながら謝った。しかし、警備兵が剣を収めることはない。

「戒律を破った者は死刑だ!」

 捕まれば殺される。カスミは必死の思いで走った。息が切れても、転んでも、平民を突き飛ばしながらカスミは走り続けた。

「殺せ! 殺せ!」

 囃したてる平民たち。迷い込んで来た貧民を狩るのは、この街の小さなイベントになっていた。誰かが酒の瓶を投げつければ、反対からは石が飛んでくる。カスミの身体は、あっという間に血だらけになった。

それでも、カスミは足を止めない。

次第に、警備兵とカスミとの距離が開いてきた。

 逃げ切れるかもしれない。

 カスミの淡い期待は、立ちはだかる壁を前に砕け散った。 

 でも、この壁は。

「いたぞ!」

 背後から足音が迫ってくる。逃げ道はない。

 カスミは、壁にぴったりと背中をつけた。

「殺せ!」

 カスミは息をのむ。

「飛ぶんだ!」

 頭上から降ってきたのは、知らない声。

「はやく!」

 若い、青年の声。

「飛べ!」

 迷っている暇はない。

 カスミは両足に力を込め、雨雲にむけて一気に解放した。

 警備兵の刀剣が宙を切った。

 貧民がいなくなった。狐に化かされたかのように、警備兵は立ちつくした。

「上だ!」

 大勢の顔が、宙高く舞うカスミを見上げた。

 カスミは、警備兵の頭上遥か高く、そびえ立つ壁を飛び越えていた。

 着地した。その壁の奥は、暗闇だった。

「ここは、どこ?」

 辺りを見回す。なんだかほっとするのは気のせいではないだろう。

 ここは貧民街だ。それも、カスミの家のすぐ近く。見慣れたあばら家が立ち並んでいるから間違いない。 

 雨音は、遠くの喧騒を消していた。

 自分の身に何が起きたのか分からない。しかし、カスミは腹の底から湧いて来る高揚感に鼻を膨らませた。

 胸に手を当てて、気持ちを静める。

「ぼく、空を飛んだ」

 

     *


 平民街から命辛々逃げ出してきたカスミは、泥のように寝入った。

雨音が奏でる心地良いリズムに身を委ねると、いつまでも寝ていられる気がする。

夢のなかで、カスミは川辺で太陽を浴びていた。なでるよう風が吹き抜ける、吹きぬける風に青々とした草木が奏でられる。さんさんと照らす太陽がカスミの身体を包み込む。

気持ちいい、ずっとこうしていた。

しかしどうしたことだろう、次第に空が曇り、ついに雨が降り始めた。雷まで落ちてくる始末。轟音が鳴り響く。

「ん?」

 せっかくの睡眠は、猛烈なノックに阻害された。

「カスミ、起きて!」

 目を擦りながら身体を起こす。外は相変わらずの雨。ドア越しのくぐもった声は、どうやらシズクだ。

 カスミは身体を起こし、パジャマから生乾きの服に着替えた。

シズクから訪ねてくるなんて珍しい。カスミは、うきうきした気分でドアを開けた。

「カスミ、急いで」

 ドアを開けるなり、シズクはカスミの腕を掴んだ。

「どうしたの、そんなに急いで」

「皇帝陛下が貧民街を遊覧なさるそうだよ」

 シズクは吐き捨てるように言った。

「皇帝が?」

 カスミは嫌な予感がした。

「そう。だから急いで」

 カスミとシズクは、傘もささずに雨の中を駆け出した。

 普段は絶対にお目にかかれない皇帝が、わざわざ薄汚れた貧民街に降りてくるのには訳がある。もちろん、荒れきった貧民街の改善でもなければ、新作お召し物のお披露目会でもない。宮殿にお仕えする、新たな従者を探すためだ。今まで使えていた従者が、何らかの理由で使えなくなったため、代用品を見つけにきた。

「ほら、ここに座って!」

 押しつけられるように、カスミは地べたに座らされた。

 シズクとカスミは、水たまりの上でひれ伏した。遠くから太鼓の音が近付いて来る。

地が鳴り、空気が震える。

 次第に覚めて行く頭で、カスミは昨晩のことを思い出し、震えた。

「もしかしたら、ぼく、持って行かれちゃうかもしれない」

「大丈夫よ」

 シズクは、カスミの手を握った。

「わたしの傍にいれば、あんたが取られることはない」

 決して、気休めでシズクは言っているのではない。

 シズクの根回しは完璧だった。

 皇帝が遊覧すると言っても、皇帝が貧民と同じ目線で歩き回っている訳ではない。皇帝は、巨大な神輿の上で、さらにその中心に置いてある籠に閉じこもり、その姿を見せることなく、置物のように座っているだけ。実際に従者を選ぶのは、皇帝の側近である貴族たちだ。そのため、屈強であること、スタイルに恵まれていることなど、下衆な判断基準で従者は選ばれる。

 カスミはともかくとして、容姿に恵まれたシズクが狙われるのは明白だった。そこで、シズクは、あらかじめ貴族のひとりを金で買収し、シズクとカスミには危害が及ばないようにしておいた。

「あんたはわたしが守る」

「シズク……」

 カスミは、シズクの頼りがある横顔をじっと見つめた。

 太鼓の音が近くなる。

 カスミは頭を下げたまま、目線だけを音の方へ送った。

 どんよりと暗い雨の中、まばゆい光をまとう巨大な神輿が、ゆっくりとこちらに向かって来る。それは、朝日の到来を思わせる神々しさだった。

「カスミ、顔あげて」

シズクが顔をあげたので、カスミもそれに合わせて顔をあげた。顔の良し悪しが、第一の判断基準であるからだ。

すでに、神輿の先頭を歩く警備兵が、カスミたちの目の前を歩いていた。

昨日追われた、あの制服だ。

カスミは無意識に目を伏せていた。

 泥だらけのブーツが、ゆっくりと目の前を通り過ぎて行く。

「大丈夫。大丈夫だから」

 シズクは、カスミにそう言いながら、自分に言い聞かせた。

 心臓を打つ行進は、ついに神輿をカスミたちの目の前まで運んだ。

 カスミとシズクは、同時に唾を飲み込んだ。

 神輿は見上げるほど高く、何百人もの屈強な戦士たちが縄を引くと、ゆっくり四つの車輪が回る。その轍すらも、輝いて見えた。いや、道路が舗装されていないおかげで、車輪の黄金が所々欠け、実際に輝いているのだ。

煌びやかな神輿は、国中の黄金を集めて作られ、雨雲を映しても、その輝きが曇ることはなかった。

「すごい……」

 カスミには、そんな子供みたいな感想しか思いつかなかった。

シズクも、言葉にするまでもなく、カスミと同じ感想を抱いていた。

神輿の上では、その周囲を警備兵が守りを固め、その後ろから側近の貴族たちが、貧民を品定めしている。神輿の中心には皇帝陛下が鎮座なさっているが、その姿は、簾のかかる箱の中に収められ、貧民たちの目に映ることはない。

カスミは、荘厳な神輿の目を奪われた。こんなにいい物が見られたのだから、今日死んだって悔いはない。そんな気分にすらなってくる。

「太陽だ……」

 カスミが呟くと、シズクは苦々しげな顔で神輿を見上げた。

 神輿の上では、上等そうな服を着た貴族たちが、こちらを見ながら耳打ちし合っている。シズクの存在に気付いたのだろう。貴族は、顔をしかめると、シズクから視線を外した。

 賄賂の効果はあったようだ。

 シズクは胸をなでおろした。

「とりあえずは、安心ね」

「うん……」

「なによ。もっと喜びなさいよ」

「うん……」

 カスミは、一点を見つめていた。

「シズク、あれは」

 カスミの視線の先には、すでに神輿に乗せられた数人の貧民がいた。誰も顔をあげず、焼印を押される順番を待つ。逃げよとすればムチを打たれ、じっとしていれば身体を弄られる。貴族たちにされるがままだ。

 神輿は、人々を圧倒しながら進む。

 シズクは拳を握った。

 どうしてこんな理不尽にさらされなければいけないのか。行き場のない怒りをなんとか心に押しとどめる。

「シズク?」

「大丈夫、動かないで」

カスミは、ばれないようにそっと、シズクの拳に手を合わせた。

 そんなふたりの様子を、先ほどからじっと眺めているひとりの騎士がいた。重量感のある鎧に身を包み、並みの人には扱えないであろう巨大な刀剣を腰にさげている。

 水の都での軍事をすべて司る大将軍、その名を、相冥霆という。

イカズチの目は、ふたりを捕えて離さなかった。

理不尽に対して素直に怒れる者。その怒りを鎮められる者。皇帝陛下を倒し、この国が潰されるとしたら、きっとあのような者たちによってだろう。

イカズチは、神輿の中心に置かれた籠に目をやった。

そんな日が来る前に、もっと屈強な兵士を育てねばならないな。

「イカズチ殿、やつは諦めなされ」

 ひとりの老いた貴族が、珠のように美しい貧民の女をイカズチの前に連れてきた。

「ほれ、イカズチ殿に御挨拶せぬか」

乾いた手で女の顎に手を添え、顔をあげさせる。

 美しい女は、透き通るような涙を湛えていた。

「彼女は、特別なのですか?」

「あそこにいる女、たしか、シズクとか。強かな女でね、金の力で自分の身を守っておるのですよ。いやいや、実に賢しいわい」

 なるほど、怒りに見合うだけの強さを兼ね備えていたか。

 イカズチは、改めてシズクに目をやった。まだこちらを見ている。遠くからでも、びしびしと激しい怒りが伝わってくる。

「ほっほ、そんなにがっかりなさるな。御覧なさい、こんな上物がまだ残っていた」

 助けを求めるように、女はイカズチを見続けていた。老人の慰み物になるくらいなら、イカズチの物になるほうがまだマシだ。

女は、請うような目線で、イカズチを求めた。

「ほう、確かに上物ですな」

 イカズチは、ぐっと女に顔を近付けた。ふんわりと、果物の香りが鼻をなでる。この女の匂いなのか、貴族の匂いなのか、イカズチには分からない。

「これは良い買い物をなされた」

 老人は、ほくほくと笑い、また品定めを始めた。

 イカズチは、ようやく顔をしかめた。

 やれやれ。老いた人間とは、どうしてこうも若さを求めるのだろうか。

 イカズチの目的は、女ではなかった。自分の背中を任せられる、屈強な戦士を求めていたのだ。シズクの隣にいた男、やつは戦士になれずとも見所はあったのだが、惜しいものだ。

 イカズチが意識を護衛に戻すと、ひとりの貴族が、子供のように、嬉しそうな声をあげた。

「あれだ、あいつが欲しい!」

 貧民たちは目を剥いた。

 貴族の指さした先には、まだ成熟しきっていない少女が、母の胸の中で抱かれていた。年齢は十にも満たないだろう。幼子が持って行かれるのはよくあることだが、まさか平民がその対象になるなんて。

自分たちを虐げる平民が虐げられている。その光景は、貧民にどうしようもない絶望を与えた。

 怯える母親は、娘を胸の中でぎゅっと抱いた。

 恐らく、母親は、皇帝陛下の神輿を子供に見せてやりたかったのだろう。母親のそんな浅はかな優しさが、我が子の人生を狂わせてしまった。

 可哀想に、あの若さで人生のすべてが決まってしまうなんて。

 貴族は神輿の上で飛び跳ねていた。

「ほれ、お前たち、さっさとあの子をお迎えにいかんか」

「やめて下さい!」

 母親は、警備兵に背を向け、我が子を隠すように抵抗した。

「この子だけは、この子だけは許して下さい!」

「貴様、逆らう気か!」

 警備兵が蹴りつけると、母親は苦しそうな声でうめいた。

「お許し下さい! お許し下さい!」

「戒律に従わねば死刑ぞ!」

それでも、母親は娘を離そうとはしなかった。

「わたしがなんでもしますから!」

「黙れ!」

 苛立つ警備兵が、母親の腕を切りつけた。母親は怯み、一瞬だけ手を離した。しかし、飛びつくようにして娘の腕を掴んだ。

「連れて行かないで!」

「ええい、離せ! この子の人生はもう決まったのだ!」

「いや! イズミ!」

 母親は、殴られ、蹴られ、口の中が鉄の味で一杯になろうとも離そうとしなかった。親の愛とはかくも深いものなのか。人々は、目の前で繰り広げられる人間ドラマに心打たれた。しかし、誰も助けようとはしない。

 だって、怖いじゃん。

「何をやっている!」

 貴族は苛立ち、神輿を踏みつけた。

「平民のくせに逆らった。犯罪者は死刑じゃ!」

 どよめきは一瞬だけだった。

少女の頬に、母の鮮血が飛び散る。

一太刀で、母親の愛は切り捨てられた。

「お母さん! お母さん! いやあ!」

 少女は、警備兵の腕のなかで泣き叫んだ。

 これが、貴族以外にうまれた者の運命。

「諦めなきゃいけないの」

 シズクは、飛び出そうとするカスミを押しとどめていた。

カスミは鼻息荒く、シズクの腕の中で暴れた。

「今ここでカスミが暴れれば、わたしにも迷惑がかかる」

 鎮静の効果を狙って言ってみたが、カスミの耳には届いていなかった。

カスミは身をよじらせてもがいた。

「シズク、止めないで」

「分かって。あなたを殺したくないの」

 神輿の上では、貴族が嬉しそうに飛び跳ねている。

「ほほ、幼いのぉ。柔らかそうだのぉ」

「いやだ! お母さん! 死んじゃやだ!」

 少女の泣き叫ぶ声は、雨音すら消し去った。

「泣いてるのにっ!」

「あの子も、このまま親がいない状態で暮らすより、あの爺の慰み物になったほうがマシなのよ」

「そんな筈ない」

「ここで見送った方が、将来的にはあの子のためなの」

「あの子の人生は、あの子が決めるべきなんだ」

「いいえ、わたしたちの命は貴族たちのものよ」

「いつまで騙し続けるんだ!」

 カスミは声を張り上げた。

「あの子を助ければ、雨がやむんだ!」

 雨が、やむ? 

カスミの言葉に、シズクは一瞬だけ隙をみせた。

「離して!」

カスミはシズクを突き飛ばして走りだした。少女を抱く警備兵に向かって、一直線。

「やつを捕えろ!」

 飛び出したカスミに気付き、イカズチが叫んだ。

警備兵は、剣を抜き、単身向かって来るカスミへ群がった。

貧民たちは立ちあがり、その動向を見守った。

「カスミ……」

 シズクも立ち上がり、泥だらけの服を払った。

「あの、馬鹿……」

もはや、金で解決できる状況ではなくなった。カスミが助かるには、奇跡を祈るしか方法がない。

はずだった。

「あら?」

 シズクは目を凝らした。

 飛び出した筈のカスミが、目の前から消えたのだ。

「空だ!」

 大勢の顔が上を向いた。

 雨雲のなかを、カスミは飛んでいた。と思えば、少女を抱く警備兵の前に降り立った。

突然目の前に現れたカスミに、驚き戸惑う警備兵。

カスミは手を伸ばした。

「返して」

「へ?」

「その子を返して」

「あ、あぁ……」

 カスミは、奪い取るように、警備兵から少女を受け取った。少女はカスミの首にしがみついた。

 貧民たちの顔が晴れる。

「な、何をやっている。警備兵、そいつを殺せ!」

 神輿の上から降り注いだ貴族の怒鳴り声に、警備兵たちは我に返った。剣を振り上げ、カスミを探す。

「どこだ! どこにいる!」

だが、時すでに遅し。

 もう一度、カスミは空を飛んでいた。あばら家の屋根に降り立ち、飛び石を渡る様に屋根から屋根へと飛び移った。カスミが雨の中へ消えるのに、そう時間は掛からなかった。

「……カスミ?」

 シズクは目を擦った。

 何が起こったのか理解できなかった。分かっているのは、貧民の目の前で、貴族が大恥をかかされたという事だ。

 ロリコン貴族は、何も言わずに、神輿の奥へと引っ込んでしまった。

 貧民が貴族に逆らった。声に出さずとも、貧民たちは歓喜に沸いていた。

「なるほど、ああいう奴か」

 貴族たちが苦々しく顔をしかめるなか、イカズチだけは、カスミの鮮やかな犯行に見惚れていた。空高く舞う跳躍力は空に虹を描き、警備兵の手をすり抜けた身のこなしは、散り行く花びらのごとし。

「まことに見事としか言いようがない」

 イカズチは、久しく忘れていた高揚感を取り戻していた。

だが、なにより恐ろしきはあの決断力だ。強大な力を前にまったく迷いがない。純粋無垢な力。俺の背中を任せるのにふさわしい。

欲しい。欲しいぞ。

イカズチが刀に手をかけると、皇帝の簾が、内側から小さな手に持ち上げられた。

「何かあったのか」

 透き通る声に、イカズチは我を取り戻した。

今の俺は皇帝陛下の護衛だ。あやうく自分の本分を忘れるところだった。

イカズチの肩が降りると、鎧が小さく音をたてた。

「いえ、何も」

「ならいい」

 手が引っ込むと、簾も下りた。

 あの者に背中は任せられない。あの動きは、そういう物ではない。

 奴は戦士では無い。

 暗殺者だ。


 第二章


 騒動から数日たった今も、カスミと少女は行方を眩ませている。国中の警備兵が総出で捜索を続けているが、尻尾すらつかめないのが現状だ。あまりに手掛かりが出て来ないので、貧民街には国外逃亡との噂も流れたが、そんなはずない。 

「あの子は、絶対に逃げないわ」

シズクは信じていた。

 だって、まだ借金を返してもらっていないもの。

シズクは、無機質な手帳をスカートのポケットから取り出した。そこには、カスミの返済日がはっきりと書かれている。

「まだ、この日は来てない」

シズクは信じていた。

カスミは、借金を踏み倒して逃げるような人間ではない。きっとどこかで、雨を止ませる方法を探しているはずだ。

シズクは、知っていた。

カスミは傍にいる。

 シズクは、貴族の怒りがひと段落した頃に、こっそりとカスミの捜索を開始した。

 カスミの家は、すでに跡形もなく焼き払われていた。一応、焼き跡から借金の返済の役立ちそうな物を探してみたけれど、焼き跡からは、炭以外の物は何も見つからなかった。

 だから、カスミは生きている。

シズクは確信していた。

雨が傘を叩くので、シズクは手帳を閉じて歩きだした。

 聞き耳をたれば、あちらこちらからカスミの情報が雨水にのってくる。カスミは、貴族に逆らった初の貧民として、小さな英雄になっていた。

 誰かが言った。

「カスミは、伝説の勇者の末裔だった」

「カスミは、太陽神の使いである」

他にも、数えればきりがないくらいカスミに関する噂が街中を流れ回った。もちろん、全部嘘だ。カスミは勇者でなければ神でもない。しかし、こういったカスミに関する情報をすべて除外すると、不思議とそこからカスミが見えてくる。

誰かが言っていた。

「空を飛んでいる人を見た」

「雨水を飲むお化けがいた」

「雨の中、傘もささずにぶらつく頭のおかしな奴がいた」

 シズクは知っていた。

 これらすべて、カスミの目撃情報だ。カスミは英雄ではない。頭のおかしな、見下されるべき存在だ。だから、鼻で笑いたくなる情報のなかに、カスミは隠れているのだ。

 シズクは身体を伸ばした。

「さぁて、今日はどこへ探しに行こうかしら」

 シズクは自分の台詞に違和感を覚えた。手を伸ばしたまま止める。

 そういえば、ここ最近、本業をおろそかにしていた気がする。もう何日、人を殺していないだろう。このままでは、カスミを見つけるより先に、生活資金が底をつきてしまう。

 シズクは、ポケットから手帳を取り出し、そっと微笑んだ。

 カスミは生きている。それも、ものすごく近い所で。

 シズクは傘を肩にかけ、耳との間に挟んだ。手帳を開いて、今日の仕事を確認する。

「えっと……あら、返済日が過ぎている人がこんなにいるじゃない」

 自分がどれだけカスミに熱中していたのか思い知らされたような気がして、シズクはすこし嫌な気分になった。

「……まあいいわ」

 今日のターゲットは、貧民街の隅に住む一人暮らしの老人だ。すでに返済日を一週間も過ぎている。死にたくないのなら、きっとたんまり溜めてくれているはずだ。

 人はだれも死にたくない。そういうもの。

ちなみに、その辺りでのカスミの目撃情報は数件。探してみる価値はある。

……また、カスミのことを気にしてる。

 シズクは頭を振った。今は忘れよう。カスミとの約束を守るために。

「よし、今日もひと稼ぎ」

 気合一発、手帳を閉じる。

 貧民街では、忙しなく警備兵が走りまわっていた。

「いたか!」

「いません!」

 昼夜問わず騒がしい警備兵たちに、シズクはうんざりしていた。

 すでに、シズクは何度か警備兵によって事情聴取を受けている。恐らく、カスミとシズクが懇意であったことがばれているのだろう。その時は「知らぬ、存ぜぬ」で通した。でも、いつまでもその手段が通用する保証はない。

 正面から警備兵が走ってくると、シズクは無意識に道の端に身体をよせていた。目立たないに越したことはない。

 警備兵は、シズクに気付いたそぶりもなく、横を通り過ぎようとしていた。

 よかった。

シズクの肩から力が抜ける。しかし、横を通り過ぎる間際、警備兵は勢いよく水たまりに足を踏み入れ、シズクのスカートに泥をはねさせた。

「ちょっと!」

 警備兵は何も言わず走り去った。

 振り返って睨みつけてやったが、その警備兵が転ぶことはなかった。

「もう、失礼しちゃうわ」

 スカートには、泥の斑点模様がついていた。

「こんなに汚れちゃって、もしカスミを見つけたらどうすればいいのかしら」

 シズクは、しばらくスカートと睨めっこをしていた。しかし、今から家に戻って着替える手間を考えると、汚れは諦めたほうがいい気がしてきた。

「いいわ。カスミは馬鹿だもの、きっと気付かない」

「オシャレだね~」と、笑うカスミが思い浮かぶ。

 気を取り直して、シズクは足を進めた。

 雨音に混じって、カスミの噂と、警備兵による詰問が聞こえてくる。貧民も警備兵も、いつまで経ってもカスミが姿を現さないので焦っている。

 英雄の登場と犯罪者の確保。

 シズクは手帳を握りしめた。

 わたしにとっては、債務者だけどね。

 雨が降りしきる中を、傘もささずに立っている男がいたとしたら、シズクはそれをカスミと思っただろうか。

「もし、そちらの綺麗なお嬢さん」

 シズクは、不意に後ろから声を掛けられた。

「わたしのことかしら?」と、シズクは顔だけで振り返った。

「他に誰が?」

振り返ると、そこには、細身の男が傘もささずに立っていた。豪華なみなりから察するに貴族階級の人間だ。女性のような線の細い顔立ちで、腰には護身用のためなのかナイフを携えている。

シズクは天使のごとく微笑んだ。

「なにかしら?」

「カスミのお友達だよね?」

 シズクの顔がわずかに反応する。

 こいつは、調べている。誤魔化せない。もし、わたしの予想が当たっているのなら、こいつはもっともカスミの事を知っている人間だ。だとしたら、何としてでも逃げなきゃならない。

 シズクは、髪を掻き上げている間に頭を巡らせた。

「お友達というのは、ふたりで会った日数の長さのことを言うのかしら」

 男は肩を持ちあげた。

「ぼくの知る限り、友情に有効期限はないようですが」

「なら、わたしはカスミのお友達ね」

シズクは、いつでも逃げ出せるように左足を引いて置いた。貴族につかまれば、きっと拷問にかけられる。そうなる前に、さっさと話を切り上げて、この場から離れよう。

シズクは、じりじり後ろに下がった。

男は首を傾げた。

「きみとカスミは仲良し?」

「ええ。でも、嫌われちゃったのかしら」

 シズクは、できるだけ上品に笑ったつもりだった。

「そうか、残念だな」

 男は目線を上に向けた。

「あまり、こういう手は好かないのだけど」

 男の手がナイフに伸びて行く。

 まずい! 

立ち去ろうとしたシズクの足は、地面に張り付いてしまったかのように動かない。

「どうかしました?」

 男の目が鋭く光る。シズクの全身から冷や汗が噴き出した。理屈じゃない。勘でもない。生物としての本能がこう告げているのだ。

 殺される!

 シズクは食いしばった。なんとか足をはがし、シズクは駆け出そうとした。

「どこへ行くのかな」

 すでにシズクの肩は掴まれていた。優しく、置くように、しかし、振り払えば間違いなく殺される。有無を言わせない左手は、ゆっくりと、這うようにシズクの腰に回った。

男は、シズクの身体を抱き寄せた。

「うん。細くていい身体だね。乱暴に扱ったら壊してしまいそうだ」

 シズクの息が荒くなる。

 ナイフが腰に当たっている。じんわりとだけど、血が滲んでいるのが分かる。

 怖い。初めてそう思えた。

「大丈夫、怯えなくていいよ」

男は、シズクをぎゅっと抱きしめた。すると、ナイフが、さらに深く、シズクの肉に沈む。

「ついて来て、くれるよね?」

 拒否できるはずもなかった。

 逃げられない。

 シズクは、小さく頷いた。

「うん。いい子だ。やっぱり女の子は従順が一番だね」

 男はシズクから腕を解いた。それでも、シズクは、固まったようにその場に立ちすくみ、おずおずと、恐怖に震える自分の身体を抱きしめた。

温かい。わたしはまだ、生きている。

「ぼくはツル。よろしくね」

 シズクは、差し出された手を震えながら握った。

「じゃあ、遅れずについて来てね。シズク」

 男は、さっさと歩き出した。

 ついて行かなきゃ。あの人とは、離れたくない。

 シズクは小走りでついて行った。逃げようなんて思えない。これからの自分の運命を考える余裕すらない。

何よりも、今が怖くて仕方なかった。


         *


 シズクは、雨宮鶴に連れられ、生まれて初めて貴族街へと足を踏み入れていた。

「どうです、貴族街は」

「落ち着かないわ」

 シズクは俯いていた。

 貴族街は、平民街のような騒がしさとは縁遠く、達観したような静けさが漂っていた。

「こんなに静かなのに、落ち着かないのですか?」

「……そうね」

 シズクは、思わず身体を隠した。

貴族たちの物珍しそうな視線がシズクに突き刺さる。

 いくらシズクが貧民の中では裕福といっても、本物の裕福にはかなわない。みすぼらしいシズクの姿は、普段から価値のあるものしか目にしない貴族たちにとって、新鮮なものだった。

シズクより高価な服をきた犬が、シズクの横を通り過ぎた。聞こえてくる嘲笑は、シズクの心を羞恥で満たした。

もういや、帰りたい。

「なんだろう……」

 ツルは足を止めた。

「まさか、つまらないとか、思ってないよね?」

振り返ると、シズクは泥だらけの着物を隠すように自分を抱いていた。

「ああ、なるほど。この街では、あなたのような貧民は珍しい」

 シズクは、歯を食いしばった。

 どうして、こうもわざとらしいのかしら。

 貧民街にいた時に比べて、ツルの歩調が緩くなったのは気のせいではない。ツルは、わざとゆっくり歩いて、シズクを見世物にしている。そうして、シズクに改めて思い知らせている。

 わたし、やっぱり貧民なんだ。

 そう思うと、偉そうに貧民街を歩いていた自分が恥ずかしくなった。

シズクはぎゅっと唇を噛みしめた。

「あと少しで宮殿です。もう少しの辛抱ですよ」

「ええ、今から楽しみでしかたないわ」

 シズクは嫌みをいったつもりだった。

 ツルは嬉しそうに微笑んだ。

「宮殿は立派ですよ。きっとシズクさんにも気に入って頂けるはずです」

「わたしなんかに似合うかしら」

「素晴らしいところです」

「わたしみたいな貧民には想像もできないわ」

「鬱陶しいなぁ」

 突然、ツルは低い声で呟いた。

じわじわと、ツルの身体の奥底から殺気が滲みでてくる。シズクは焦った。ほんのちょっとだけ大きな態度に出たことを悔やんだ。

「ごめんなさい。ちょっとふざけちゃったの」

 謝っても返事はない。

ツルは恨めしそうに呟いた。

「せっかくの貴族街観光なのに、あいつらのせいで台無しじゃないか」

「『観光』?」

シズクは目を剥いた。どうやら、殺気の矛先はシズクではないようだ。

「ぼくのデートを邪魔するやつは、馬に蹴られて死ねばいいんだ」

 ツルは、首だけでシズクに振り返った。

「シズクさんも、そう思うよね?」

「え?」

ツルはナイフを抜いた。構えた。たまたま近くにいた貴族にナイフを投げつけた。ナイフは的確に貴族の脳に突き刺さった。

 雨が、血を流す。死体は、そのまま地面に倒れた。

 シズクは口を押さえた。死体は見慣れているはずなのに、吐き気がこみ上げてくる。

シズクは声を振り絞った。

「なにも、そこまでしなくても」

 シズクの足元に、赤い帯が掛かる。

 貴族街の静寂はやぶられた。貴族たちは喚きながら逃げ出す。その光景を、ツルは満足するでも後悔するでもなく、無表情で見ていた。

 そうか。ツルって、こういう人なんだ。

辺りから人がいなくなると、ようやくツルは殺気を引っ込めた。

「さぁ、観光の続きを始めましょうか」

「……はい」

 ツルが歩くと、続いてシズクも歩き出す。

「楽しいですね」

「……はい」

 息が詰まる。こんなに楽しくない散歩は生まれて初めてだ。なにがツルの機嫌を損ねるのか分からない。一秒先の命すら、保障されていない。

 シズクは黙った。心の中で自分を奮い立たせた。

 頑張れ、わたし。負けるな、わたし。

 シズクは、何度も自分に言い聞かせた。


もう、どれくらいの距離を歩いただろうか。貴族街を訪れたばかりのときは、まだ日が出ていたのに、今では辺りがすっかり暗くなっていた。同じ場所をぐるぐる周らされていたことに気付いたのは、頭にナイフを刺した死体を見つけた時だった。

ようやく貴族街の出口についた頃には、心身ともに疲れ果て、シズクは立つのがやっとになっていた。

ツルは、シズクの顔を覗き込んだ。

「おや、まさか疲れてないよね?」

「あ、当たり前でしょ」

 シズクは、力を振り絞った。

「ふむ。まだ余裕そうですね」

ツルは満足気に頷いて、シズクの肩を叩いた。

「では、宮殿に入りましょうか」

 歩きだそうとしたツルは、二、三歩、歩いてからぴたりと足をとめた。

「ぼくとの散歩、楽しかったよね?」

「ええ、最高だったわ」

「それはなにより。明日から楽しみですよ」

 ツルが入口の門に近付くと、轟音をたてながら、ひとりでに開いた。

「自動ドアなんて、すごいわ」

「見ての通り、宮殿ですから」

 シズクの目の前に広がった光景は、まさに夢の世界だった。

 飛び込んで来たのは、夜でも光り輝く黄金の宮殿だった。

「これって、どうして?」

「見事でしょう。まさしく、神の場所だ」

それから、庭に木々が生い茂っている事に気付いた。久しく見てない緑たち。その中を、威厳を形にしたような赤い鎧をまとう衛兵たちが巡回している。

シズクは、惚けたまま、立ちつくした。

「如何ですか?」

 ツルは自慢気だった。

 あまりに浮世離れした光景に、シズクは、さっきまでの疲れなどすっかり忘れてしまった。

 シズクの頬は紅潮していた。

「何と言うか、その、すごいわね」

「しばらくの間、シズクさんには、ここに住んでもらうことになると思います」

 願ってもない。と言いたいところだけど、要するにただの監禁だ。

 シズクは、ようやく自分が宮殿に連れて来られた意味を理解した。どうやら、シズクは、カスミをおびき出すための人質になったようだ。

 でも、ここに住めるのなら、悪い気はしない。

 シズクは、じっと宮殿を見上げていた。

「さ、部屋まで案内するから。こっちにおいで」

 ツルは、カスミの手を引いて、巨大な噴水の横を周って庭を抜け、黄金の装飾がなされた扉を通り、宮殿の中に入った。

 シズクは、いい加減うんざりしてきた。

「もう、何なのよ」

宮殿の中は、シズクの想像をはるかに超えていた。

 天井から巨大なシャンデリアがぶら下がり、爛々と宮殿内を照らしている。黄金の壁がその光を反射する。シズクは産まれて初めて、目の前に手をかざした。

「ま、眩しいわね……あら?」

 シズクが一歩踏み出すと、慣れない感触が足元を優しく包みこんだ。視線を落とすと、床一面に敷かれた赤い絨毯が、歩き疲れて泥だらけになった足を優しく包み込んでいた。

「ちょっと、歩きにくいかしら」

 ツルは、驚きっぱなしのシズクを笑った。

「気に入って、くれたよね?」

「ええ。落ち着かないわ」

「ここなら、シズクさんも不便なく暮らせるでしょ?」

「……そうね」

 たしかに宮殿は立派だった。しかし、自分は人質として連れて来られている。好待遇なわけがない。きっと、とんでもない部屋に連れて行かれる。

 シズクは覚悟していた。

「さぁ、シズクさんの部屋はこっちだよ」

 さて、どれくらい寒い部屋に連れて行かれるのかしら。血の滴る拷問部屋? それとも、飢えた男たち群がる兵舎かしら。

「こっち」

 ツルは階段をのぼった。

地下ではないようだ。ということは、やっぱり男たちの相手ね。屈強な兵士たち? それとも、性欲を持てあます貴族たちかしら。

階段を昇り終えると、ずらりと二方向に廊下が伸びていた。

「ずいぶん長い廊下ね」

「それから、こっち」

 ツルは、右側の廊下へ向かった。

「長いわね」

 ツルは目尻を下げた。

「そうですね。こんなに長い廊下、不便なだけですが」

「金持ちの道楽ってやつね」

 ツルは肩をすくめた。

「これは手厳しい」

 ふたりが廊下を歩いていると、メイドらしき人が前から歩いて来た。シズクは、初めて見るメイドというものに、若干の感動を覚えた。そのメイドの後ろから、どこかで見覚えのある貴族が、髭を撫でながら、こちらに向かって来る。

 まずい。シズクは顔を伏せたが、わずかに遅かった。

「おや?」

 ツルの前まで来ると、貴族は足を止めた。

「これはこれは皇太子殿。御機嫌麗しゅう。そして、その隣にいるのは、」

貴族の皺だらけの指が、シズクの顎に添えられる。

「誰かと思えば、貧民街の魔女ではないか」

 貴族の顔がいやらしく歪んだ。

その顔を忘れるわけもない。カスミの暴れたあのイベントの時、シズクが買収した貴族は、目の前にいるこの男だった。

「また、わしに会いたくなったのかね?」

 しわがれた声が、シズクの鼓膜に張り付く。

 シズクは、思わず眉間にしわを寄せた。心の中で、思いつく限りの悪態をつく。

「それとも、ようやく、宮殿にその身を捧げる気になったのかな?」

 シズクは、何も言わずに睨みつけた。

 買収した時もそうだった。

舐めまわすような視線が、シズクの身体を這いまわり、触れられてもいないのに強姦された気分になる。こいつの目は、貧民の女を性欲処理の道具としか思っていない奴の目だ。

シズクは、ぐっと身体に力を込めた。

 わたしは誰にも屈しない。どんな屈辱にだって、耐えて見せる。

「この者は客人です」

 ツルは、貴族の視線を遮るように、シズクの前に立ちはだかった。

すると、貴族は高い声で笑った。

「さすが皇太子殿。よいお買い物をなされた」

「わたしの物ではない」

 ツルが突き放すように言うと、貴族はいやらしく高い声で笑った。

「この女、なかなかの曲者でしてね。きっと皇太子殿のお手を煩わせることになるでしょう」

 貴族のしわだらけの手が、ふんわりとシズクの尻を撫でた。

 シズクの肌が一斉に起きあがる。

「どれ、経験豊富なわしが、手とり足とり手解きをしてやろうかの」

 貴族は、シズクの尻を、しぼるように握りしめた。

「ほっほ、若いのぉ」

 シズクが拳を握った。その刹那、しわがれた悲鳴とともに、シズクの尻を撫でる手がなくなった。

「い、痛い!」

 ツルが、貴族の腕をねじりあげていた。

 シズクは、目を見開いて、揉み合うふたりを眺めていた。

「は、離せぇ!」

「シズクは、わたしの物ではない」

貴族は、痛みから逃れようともがくが、逃れようとすればするほど、関節がさらに悲鳴をあげる。

「折れる、折れるぞぉ!」

「もう一度だけ言う」

ツルは、貴族の耳もとに顔を寄せた。

「シズクは、客人だ」

 さらに絞られたのか、貴族は「ぎゃあ」と喚いた。

「わ、分かった。分かったから、離してくれぇ~」

「客人に無礼は許さない」

 ツルがすごむと、貴族は、怯えた表情でなんども頷いた。

「は、はい。分かりました、分かりましたからぁ!」

 貴族の顔は、脂汗でギトギトだった。

 ツルは、押すように貴族から手を離した。

「行け」

「し、失礼いたします!」

 解放された貴族は、一心不乱、痛めつけられた子犬のように逃げて行った。

ツルは、険しい表情で、去っていく貴族のその背中を見送っている。

こいつ、わたしを守ってくれたの?

 シズクは、こっそり顔をしかめた。

 お礼とか、言った方がいいのかしら。

シズクがツルの様子を窺っていると、ツルは緊張を解き、シズクに向かってふんわりと微笑んだ。

「お怪我は?」

 あるわけない。

「ちょっとお尻を撫でられただけよ」

「なんと、お怪我があったら大変だ」

 シズクは右の眉を持ち上げた。

「じゃあ、あとで確認してもらおうかしら。隅々まで、しっかりと」

 もぐりこむように、シズクはツルの手を握った。すると、シズクの手のなかで、ツルの指がぴくりと反応する。細くて長い、乙女みたいな手だった。なんだか、汚れた自分が触ってはいけない気がして、シズクは、さっと手を離した。

「シズクさん?」

「な、なんでもないわよ」

 シズクは顔をそむけた。

 忘れてはならない。ツルは敵だ。


「さあ、ここがシズクさんの部屋です」

 ツルがドアをあけると、そこは暖炉の暖めるやわらかい部屋だった。広々として、シズクの家と同じくらいか、それ以上の広さだった。

「ここ?」

 何かの間違いじゃないの? シズクがそう言う前に、ツルは軽く笑った。

「どうやら、勘違いしていたようですね」

「勘違い?」

 ツルは頷いた。

「ぼくは、シズクを保護しに来たんだよ」

「保護って。なによ、それ」

「貴族たちは、カスミと知り合いというだけで、君を拷問にかけようとしていたからね。だから、危ないと思って、カスミと繋がりのある君を保護したってわけさ」

 どれだけ言葉を取り繕われても、シズクが人質であることには変わりない。それでも、好待遇を受けるのは、どんな時だって悪い気がしないものだ。

「どうにも、貴族というのは、綺麗なものを壊すのが好きな人たちみたいです」

「そう、なんだ」

 シズクは、ゆっくりと、部屋の中へ足を踏み入れた。

 白くて大きなベッド、大理石の浴槽、あの大きな窓から見ると、外の景色は風流な絵画になってしまう。シズクは、いますぐにでもあのベッドに飛び込みたい気分だった。

「満足、いったよね?」

 シズクは、初めてツルに歯をみせた。

「大満足よ」

「それは良かった」

 ツルはドアノブに手をかけた。

「それじゃあ、ぼくとはまた明日。すぐにご飯が運ばれてくると思うから、ゆっくり身体を休めるといいよ」

 そう言い残して、ツルは、音をたてないように扉を閉めた。

 シズクは、疼きだした身体を押さえることができなかった。

 ベッド、ロックオン。

「きゃっほー!」


     *


 シズクは、貴族街を歩いていた。

 雨は、舗装された道路に当たると、シズクの足元で跳ねた。

 ツルはなぜ、シズクという貧民街の人間を好待遇で宮殿に迎えたのだろうか。シズクは、すでにその理由に気付いていた。

「まさか、疲れてないよね?」

 突然、ツルが振り返ったので、シズクは慌てて汗を拭った。以前、汗をかいている事がばれて、一日中折檻を受けたことを身体が覚えていた。

「疲れないわよ」

「汗かいてない?」

「雨よ」

「ならいいけど」

 ツルは、また歩き始めた。

 これで一週間。シズクは、毎日のように外へ連れ出されていた。会話もなく、ツルと貴族街をぐるぐる周回するだけの強行軍。シズクの脹脛から筋肉痛が消えることはなくなり、身体のだるさはいくら休んでも重たく肩にのしかかった。

 シズクは気付いていた。ツルは、シズクを苦しめてカスミをおびき出そうとしている。

 さすがのシズクも、そろそろ限界だった。

 身体も壊れかけているが、心のダメージも大きかった。ちょっとでもシズクが疲れを見せれば、ツルは冷酷な暴力でシズクを奮い立たせる。わずか一週間で、シズクの美貌は見る影もなくなり、頬は痩せこけ、目は痣に縁どられ、殴られ過ぎた頬は赤くはれ上がっていた。

 カスミ、はやく出て来てよ。

 シズクがそう願うと、急にツルが足を止めた。

「どうしたの?」

 危うくツルの背中にぶつかりそうになるが、なんとか踏みとどまる。

 ツルは、振り返らないまま、口を開いた。

「そろそろ、貴族街にも慣れたよね?」

「あんたねぇ……これだけ同じ所をぐるぐる回っていれば、嫌でも覚えるわよ」

「だったら、今日でぼくとシズクはお別れだ」

 振り返ったツルは、シズクの頭を抱き、自分の胸の中に押し込めた。

ふたりの傘が落ちて、地面を転がる。

「ちょ、ちょっと」

 シズクは、急な抱擁に初めは抵抗していたが、ツルの身体から漂ってくる熟れた桃のような香りに、次第に落ち着いてしまった。

「シズク……」

 ツルは、シズクの湿った髪を、愛おしそうになでた。

「今日から、シズクはひとりでここを散歩しなきゃいけないんだ」

 そう言って、ツルはぎゅっとシズクを抱きしめた。

抱擁を解かれると、シズクの頬に冷たい風が吹いた。

「どういうこと?」

「サボっちゃ駄目だ。誰だって、死にたくないだろう?」

 シズクのおでこに軽く口づけたか思うと、ツルは、屋根に飛びあがり、あっという間に目の前からいなくなってしまった。

「ひとりって……」

 熱くなるおでこを両手で押さえて、シズクは茫然とした。

 ひとりで、散歩……?

 毎日。同じ道を。ひとりで。終わりもわからず。行く先もなく。貴族たちに笑われながら?

「そんな……」

 シズクはツルを探した。けれど、どこにもいない。

「どうすればいいの?」

 胸に迫って来た孤独に、シズクは初めて泣きたくなった。ひとりがこんなに寂しいものだとは知らなかった。

 シズクは折れかけの心でなんとか踏みとどまった。

 泣くものか。耐えるって、決めたんだから。

 シズクは一歩を踏み出した。

 終わらなくたっていい。このまま死んでもいい。貴族街で死ねるなら、本望だ。

 そう自分に言い聞かせながら、シズクは確実に一歩ずつ進んだ。


 ようやく散歩が終わったのは、光のなくなった頃だった。


 それからというもの、シズクの一人散歩は続いた。

 傘をさして、貴族街を優雅に歩く。

 シズクは、忠実にツルの命令をこなした。

 誰だって死にたくはない。シズクがいちばん良く知っている事だった。シズクが逃げようとすれば、ツルはきっとなんの躊躇いもなく殺しにくるだろう。

 死にたくない。

 恐怖がシズクの心を揺らした。

 傘が、シズクの手から逃れ落ちる。しかし、シズクには、屈んで傘を拾う元気も残されていなかった。

 転がっていく傘を横目に、シズクは棒になった足を必死に動かした。

 昨日から頭がぼーっとするのは、気のせいではない。きっと風邪を引いた。雨が火照った身体を濡らしてくれる。それは、ありがたい事なのだろうか。

 朦朧とする頭を持ち上げて、シズクは歩き続けた。

 弱みなんて見せられない。付け込まれたらそこまでだ。わたしが絶対に屈しないことを、ツルに思い知らせてやる。

 しかし、シズクの決意を風邪が蝕む。

 もはやまっすぐ歩くことすら叶わない。壁伝いになんとか前に進む。

「御嬢さん、大丈夫ですか?」

「触らないで」

心優しい貴族の手を跳ねのけて、シズクは前に進む。

 進まなきゃいけないんだ。

 進むんだ。

 前に。

 前――

 ついに、シズクの意識が途切れた。頬を激しく地面に打ち付けると、その痛みが意識を呼び戻す。

 立たなきゃ、殺される。

踏ん張るけれど、身体が言う事を聞いてくれない。

 雨水が服に沁みていく。高すぎる体温と混ざって温く感じる。

 高そうな靴をはいた足が、倒れたシズクの元に集まってくる。しかし、手を差し伸べてくれる人はいない。

それでいい。わたしに巻き込まれないで。

 どれくらいの時間、そのまま放置されていたのだろう。気付けば貴族街は寝静まり、散歩の終わりを告げるために現れた靴が、シズクの前に降り立った。

「シズク、何をしているんだい?」

 ツルの声は驚くほど冷ややかだった。

 見ればわかるでしょ、死にかけてんのよ。

「きみの仕事は、歩くことだよね?」

 シズクはぴくりと指を動かした。ずっと横たわっていたので、身体を起こすくらいの元気は出てきたようだ。地面に手をついて、振り絞るようにして身体を持ち上げる。やっぱり、立ち上がることはできなかったので、地面にお尻をつける。

シズクは、止まらない眩暈のなかで、恨めしそうにツルを見上げた。

ツルの瞳が、暗闇の中で怪しく目が光る。

「サボった罰を与えなきゃいけないね」

 朦朧とする頭が、ツルに対するあらゆる悪態で満ち満ちる。

「ご主人様に返事もしないなんて、躾がなってないなぁ」

 ツルはしゃがみ、シズクの髪の毛を掴んで、立ち上がらせようと上に引っ張り上げた。ぶちぶち髪の抜ける音がする。それでも、シズクは立てなかった。

「なんだい、その目は」

「た、楽しくて……」

「そうか、それは良かった」

 ツルは微笑んだ。

「簡単には殺さないよ」

 ツルは、暗闇の中にシズクを引きずって行った。ふたりの姿が見えなくなるのに、それほど時間はいらなかった。


 次の日、シズクは元気に貴族街を駆けまわっていた。昨日の熱などまるで感じさせない、無邪気な子供のように元気よく走っていた。

 その表情に余裕はない。

 付きまとう殺気は、シズクの行く先々で待ちかまえていた。

 あの屋根から、あの曲がり角から、一枚壁越しに。

 これが、ツルの言っていた罰だ。

「ほら、鬼に捕まったら負けだよ!」

 ツルの声が、何処からか降ってきた。

 鬼ごっことは名ばかり。この罰にゲームのような娯楽性はない。鬼に捕まればそこでおしまい。シズクは殺される。

 ツルは、逃げまどうシズクを追いかけた。追って、追って、あと一歩のところまで追い詰めると、わざと隙を見せて逃げさせる。時にはナイフを投げつけ、シズクの顔に恐怖を塗りつけてやる。

 ツルの背中に、ぞくぞくと喜びが湧いていた。

「可愛いなぁ。もっと恥ずかしく、もっと下品に怯えておくれよ」

 ツルはにやける顔を押さえることができなかった。

 屋根を飛び移りながら、シズクを追跡する。殺気を放つと、シズクはちらちらと視線を上に向ける。そうするとぶつかるんだよ。壁に、人に、建物に。

「ほら、危ないよ」

 シズクは、貴族にぶつかって転んだ。

 謝ってるシズクも、可愛いなぁ。

貴族は、倒れたシズクに手を差し伸べようとしていた。

「ぼくのシズクに気易く触るな」

 狙いを定めて、貴族に向かってナイフを投げつける。ナイフを頭に受けた貴族は、崩れるように、シズクの上に圧し掛かった。

シズクは、その死体を跳ねのけ、また走りだす。

顔に血が付いてるよ。

「まったく、女の子は身だしなみをきにしなくちゃ」

もっと逃げて。そっちじゃないよ。ほら。そうだよ、そっちさ。

ツルがナイフを投げると、シズクは、ナイフから逃げるように方向を変えた。そうして人気のない場所に誘われていることには気付く余裕がない。シズクは、生きるために、とにかく走った。熱のせいで頭がぼんやりする。怖い、頭のなかは『怖い』で一杯だった。

「やだ、やだよ」

シズクは涙を拭った。

泣いちゃった。我慢してたのに、ついに泣いちゃった。わたし、弱い子だ。人を踏みにじって、強くなったと思ってたのに。やっぱりわたしは弱いんだ。

涙をぬぐったシズクの手に血が付いていた。それは、さっき目の前で殺された貴族のものだったが、シズクは忘れていた。

血の涙? わたし、そんなに怯えているの?

 勘違いが、益々身体が震えさせた。

視界が濁る。

 なんでよ。なんでなのよ。もう、駄目なの? 誰か、助けてよ……。

 角を曲がると、そこは行き止まりだった。高くそびえる壁、人の力では到底越えられない高さ。

「いや! 助けて!」

 シズクは壁に手を突いて、あるはずのない逃げ道を探した。

「試合、しゅ~りょ~」

 ツルの声は興奮で裏返っていた。

 振り返ると、ツルは両手を広げ、全身で雨を浴びていた。

「もう逃げられないよ」

「来ないで!」

 壁に背をつけて、シズクは息を止めた。

 逃げ道はない。立ち向かう気力もない。

これが、今まで人を虐げてきたことに対する、罰なの?

 ツルはナイフを抜いた。

「じゃあ、殺すね」

 ツルが風を切る。その瞬間、シズクは、走馬灯を見ていた。見覚えのあるシーンが、早送りのように脳裏を通り過ぎて行く。ある場面で止まった。それは、シズクが現在の職業を選ぶきっかけとなったシーンだった。あれは、まだシズクが汚れていないとき。幼い頃は、両親に愛されていたと思う。なぜか自分だけご飯を食べる、というシーンが何度かあった。今思えば、貧民には、子供ひとりを養うだけの財力がなかっただけのことだった。おかげで、シズクの両親は、はやくにこの世を去った。弱った人間は、暴漢にとって絶好の的だった。ご飯を取ってくる、そう言って出て行った両親を、シズクは今でも待ち続けていた。お金を蓄えて。親孝行がしたいから。

 わたし、まだ死にたくない。

「ちょ~っと待った!」

 シズクの顔がにやける。絶望は消え去った。

心が晴れた。

「カスミ!」

 シズクの目の前には、あのカスミが立っていた。どこから現れたのかなんて、このさい気にしない。だって、カスミはツルと同じ。どこからでも現れる。やっぱりそうだったんだ。

 シズクは慌てて涙を拭った。

「ばか、遅いのよ」

「やあ、シズク。相変わらず元気そうだね。それに、すごくオシャレだ」

 シズクは、泥だらけになった服をカスミに見せつけるように引っ張った。

「ええ、そうね。わたしは元気よ」

「それはすごく嬉しいなぁ。もっと話したいけど、ちょっと待っててね」

 カスミは、ツルに意識を向けた。

「きみが、ツルだね」

「カスミで、間違いないよね」

ツルは、カスミの乱入にも動揺することなく、落ち着いてナイフを構えた。

カスミもナイフを左手に持ち、腰を落とす。

「そうだよ。ぼくが、きみたちの探していた、カスミだよ」

「じゃあ殺しちゃうけど、いいよね?」

 ツルが消えた。目にもとまらぬ速さでカスミの懐に飛び込んだ。カスミは、ナイフをナイフで受け止めた。鋭利な金属が重なり合い、お互いの力がぶつかり合う。

 ツルは、目線だけでカスミを見上げた。

「やるじゃん」

「きみこそ」

 ツルは一旦距離を取った。身を沈める。足を踏み切る。ツルのナイフは、虚しく空振りすることになる。カスミはナイフを振り上げた。ナイフが振り下ろされる。ツルは無理に身をよじらせ、カスミの一撃を避けた。

 ツルは、カスミから距離をとった。

「これで二発、カスミはぼくの攻撃を防いだわけだ」

 カスミはナイフをくるくる回した。

「もう、やめた方がいいと思うよ。ツルはカスミに勝てない」

 ふたりは、一定の距離を保ったまま、円を描くように動いた。

「ぼくはカスミを殺す」

「きみに勝利はありえない」

 ツルが足を止めると、カスミも足を止めた。

「何事も、やってみなきゃ分からないものさ」

 ツルは天を仰いだ。

 その気になれば、雨だって止むはず。

「ぼくは、この国の皇太子なんだからね」

「良く分からないけど、きみは偉い人なんだね」

「この国で二番目にね」

 カスミは顎を引いた。

「なら、きみは殺さないといけない」

「お互いの目的は同じみたいだね」

「うん。奇遇だ」

 カスミは、腰を落とした。右足に体重をかける。その反動を使って、一気にツルの懐に飛び込もうとしている。

ツルも構えた。身体を地面すれすれまで低く落とし、するどい眼光で敵の急所に狙いをつける。ナイフをぎらりと光らせ、呼吸のリズムを相手に合わせる。

ふたりは同時に飛び出した。

右足が跳ねる。身体が伸びる。カスミの左手と、ツルの右手が交錯する。ナイフとナイフのぶつかり合う音が響く。ふたりの力は拮抗していた。

 もう一度、ふたりは衝突した。

 雨が弾ける。

 旋毛風が吹いて、赤い帯が道に敷かれる。

「なる、ほどね」

 崩れたのはツルだった。わき腹を押さえ、片膝をつく。

「これは……勝てない」

 ツルは、消えかけの蝋燭のように弱々しくなっていた。

「ぼくの勝ちだ」

 ナイフを腰に戻し、カスミは雨雲に目をやった。

「これで、またひとつ太陽に近付いた」

「……ぼくを殺せば晴れるとでも?」

 ツルは、食いしばった。

「思わないけど、きみは殺さないといけないんだ」

 ツルは、流れ出る自分の血を見つめた。

 まさかこんな事になるなんて。勝てると思っていた。カスミを侮っていた。イカズチの言った通りだった。この男は、ぼくの手に負える相手じゃない。

 ツルは、自分の手をみつめた。

奇襲された時点で、ぼくの負けは決まっていたという訳か。

「でも、これで終わりにはしないぞ」

 ツルはよろめきながら立ちあがった。

「逃がすと思う?」

「ぼくは殺されない。もう、余裕は見せない」

 流れ出たはずの殺気が、ツルの身体から噴き出す。シズクは重くなった空気のなかで、呼吸が苦しくなるのを感じた。

「全力で、きみを恨んでやるからな」

 そう言い残して、ツルは屋根に飛び移った。

 カスミは、じっと、雨雲を見つめている。

「……カスミ」

 シズクはそっと手を伸ばした。

 カスミは微笑んだ。

「やあ、シズク。元気そうでなによりだよ」

 なに、勝手なこと言ってんのよ。

 言いたい事は一杯あったけど、なんでかしら、すごく、眠たいわ。

 シズクは、カスミの腕の中で目を閉じた。

 そのまま、夢の世界へ……。


 *


 シズクが目を覚ますと、そこは見慣れない天井だった。

 昨日まで寝泊りしていた宮殿ほど豪勢ではなく、貧民街ほど汚らしくもない。誰が見上げてもどんな感想も持てないような、有り触れすぎた天井だった。

 シズクは、ぼんやりと靄のかかる目を擦った。

「ここは……?」

 靄の中に、ぬっとカスミの顔が現れる。

「やあ、シズク。ようやくお目覚めかい?」

 シズクは、重たい瞼で瞬きをした。

「あら、カスミ。今までどこにいたのかしら」

「ぼくは、ずっとここにいたよ」

「そう……」

 シズクは、身体を起こして、家の様子を探った。

 普通のテーブルに普通の椅子。普通の食べ物と普通の水。普通の壁と普通の窓。やっぱり外は雨が降っている。そして、わたしが寝ているのは、普通のベッド。

 シズクは、頭を掻いた。

「わたし、どれくらい寝ていたの?」

「分かんない位長いよ」

「ここ、平民街?」

「正解。さすがシズクだね」

「どうして――あら?」

 ふと部屋の出口に目をやると、見覚えのある少女が、こっそり顔を半分だけだして、カスミと親しげに話すシズクの様子を窺っていた。

「あの子……」

「ん? ああ。そうか。イズミ、おいで」

 カスミは少女を手招いた。すると、少女はちょこちょこ小股でカスミに近付き、今度はカスミの陰に隠れた。どうやらシズクに警戒している。

シズクは、覗き込むように、少女に顔を寄せた。

「こんな魅力的なお姉さまに怯えるなんて、失礼な子ね」

 シズクが棘をさすと、少女はすっかり身体を隠してしまった。

 カスミは、少女の頭に手を置いた。

「イズミ、シズクは思ったほど怖い人じゃないよ」

「なによ。失礼ね」

 少女は右目だけ覗かせた。やっぱりシズクに怯えている。

いったいわたしの何がそんなに怖いのかしら。

 シズクは、やれやれと鼻から息を噴き出した。

「カスミとその子は、すっかり仲良しってわけね」

「ぼくは命の恩人だからね」

 カスミは得意げだった。

 命の恩人。シズクはカスミの言葉を反芻していた。

皇帝陛下の従者探し、側近の暴挙、飛び散る鮮血、母を求め、泣き叫ぶ少女は、カスミの腕の中にいた。

シズクは手を打った。

「あの時の!」

 シズクは、はっきりと思い出した。どうりで見覚えがあるわけだ。

「じゃあ、この家は」

「イズミの家だよ」

 カスミはイズミの頭を撫でた。

 一人暮らしには、広すぎるものね。

 シズクはベッドから起き上がり、部屋の中を歩きながら、頭の中を整理しようとした。分からないことが多すぎる。

シズクは額に手を当てた。

「カスミ、あなたは今まで何をしていたの?」

「おもに暗殺。たまに育児、かな」

「暗殺って」

 シズクは、思わず笑ってしまった。

呑気なカスミしか知らなければ、冗談にしか聞こえない。ツルを撃退したあの場にいなければ、シズクも信じなかっただろう。でも、わたしはカスミの暗殺に助けられた。

「どうして、そんなことをしてるの?」

「そうしないと、雨が止まないからさ」

「まだ、そんなこと言ってるのね」

 カスミは窓の外に目をやった。屋根から雨が滴り落ち、街ゆく人々は傘をさしてあくせく歩き回っている。人を殺せば雨が止むなんて、どこのファンタジーから引用したのだろうか。

「そんなの嘘よ」

 シズクは、カスミの夢物語を一蹴した。

「カスミ、あんた誰かに騙されてる。あなたにそんな出鱈目を吹きこんだのは誰?」

「嘘じゃないんだ。シズク、信じて欲しい」

 カスミは一歩近付いた。

 シズクは二歩下がった。

「いいえ。嘘よ。あなたは騙されてる」

「シズクは賢い。だから気付いている。まずは、ぼくの話を聞いて欲しい」

「絶対に聞かない!」

 シズクは耳を塞いだ。これ以上カスミの話を聞けば信じてしまいそうな自分が怖かった。

「ぼくは知ってるんだ」

 シズクは、カスミから顔をそむけた。

「知らない、あんたは何も分かってない!」

 カスミは、シズクの正面に回り込む。

「この雨は、ぼくたちを助けてくれるんだよ」

「意味分かんない! なにそれ、どうしてそんな事になるの!」

 カスミは、耳を塞ぐシズクの手を掴んで握りしめた。

カスミの瞳に、驚きに顔をゆがめた自分が映る。

 カスミの手は、とても温かかった。

「平民たちは、憎んでない」

「それは、伝統が」

「本当にそう思っているのかい?」

 シズクは口を噤んだ。

 カスミは握る手に力を込めた。

「ぼくたちは、伝統に縛られたかい?」

 動揺する心と同調するように、外では雨が激しくなった。

 凛と自信に満ち溢れたカスミの目を、正面から見ることができない。そらしたいのに、逃げたいのに、目をそらせないのはどうして。

「この国は、騙されている」

 シズクはわざとらしく嘲笑してみせた。

「今どき魔法なんて、ファンタジー過ぎて誰もついてこれないわ」

「違う。魔法じゃない」

「だったらなに? ファンタジー要素抜きで、どうやってこんな大きな国の人たちを操れるっていうの? 催眠術でも――」

「薬だよ」

 カスミは、あっさりとそう言い放った。まるで、運命の台本を終わりまで読んでいるかのように、なんの迷いもなく、カスミはネタばれをした。しかし、シズクはまだ結末を見ていない。

 シズクは顔をしかめた。

「くすり?」

「そうさ。いつの時代だって、薬は人を狂わせてきた」

 雨を好きにさせる薬。なんと馬鹿げたオチだろうか。

 シズクはため息をついた。

「なにそれ、それこそファンタジーの世界だわ」

 シズクは、カスミの説得を戯言と切り捨てようとしていた。

 カスミは顔を困らせた。

「ぼくにも詳しいことは分からないけど、そういう事なんだ。ぼくは、知ってるんだ」

「なによ、急に自分だけ特別になっちゃって」

シズクは、カスミの手を振り払ってそっぽを向いた。少しだけ痛かった。

「絶対に信じないから」

「シズク……」

「触らないで」

 カスミは、すがるようにシズクの肩に手を伸ばしたが、素っ気なくあしらわれてしまった。

「シズク、分かって欲しいんだ」

「知らない」

 シズクは目を瞑った。

 分かっているの。カスミは嘘を言わない。あなたがわたしを騙そうとしていないことは知っているの。でも、あなたにその事実を吹きこんだのはだれ? その人はどれだけ信用に足る人物なの? わたしなんかに懐けるカスミだから、今日はあなたを信じることができない。

 シズクは、カスミを突き放した。

「一人にして」

 カスミは、肩から力を抜いた。

 今は諦めよう。シズクは、ぼくが守ればいい。今日は駄目でも、明日信じてもらえばいいじゃないか。

 そろそろ、外が暗闇に落ちてきた。

「ここにいれば安全だから。シズクはここに隠れていて」

 そう言い残して、カスミはイズミを連れて部屋を出て行こうとした。

「待って。どこへ行くの?」

「イズミを寝かしつけて、」

 カスミは続く言葉を飲みこんだ。人には言えない。

カスミは、ずっとこんな生活を続けていた。育児と暗殺の両立。朝は子育て、夜は仕事。バランスのとれた生活だった。

カスミは、無邪気に手を振った。

「ばいばい、シズク」

 カスミを飲みこんで閉じて行く扉。

「なによ、自分だけ……」

 一瞬だけ差し伸べた手を引っ込め、シズクは胸のなかで両手を抱きしめた。

「だから、雨は嫌いなのよ……」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ