Lica
『気持ちは分かる、でも、あまり思い詰めてはいかんよ?』『大丈夫?寝てないんじゃない?食事もしてないでしょ?』煩い。一人にしてくれ。
「ありがとう、大丈夫だよ。」
心とは裏腹の言葉を吐いた。僕は恋人を失った。事故だ、事故だったが、僕は一緒に居たのに。僕だけが生き残ってしまった。
深夜、彼女を隣に乗せ、国道を車で走っていた
「もうすぐ付き合って3年か…、」
彼女は笑ったような溜息のような声でそう言った。僕は後部座席の指輪の事を思い浮べ、さも何もないように
「そうだね。」
とだけ言った。
「なにそれ。…ねぇ。」
彼女は声を曇らせ、多少の怒りを含んだ言葉を僕に投げた。僕は焦らしすぎかとも思ったが、どうしても初めてドライブした時に行った夜景と海が見える場所でプロポーズしたかった。僕は彼女と結婚するつもりだった。「そういえば、二人でドライブするの久しぶりだね。」
とはぐらかしながら目的の展望台まで時間を稼ごうとした次の瞬間―――僕は眩しい対向車輛のライトの光を目にして轟音を聞いた。―――
サイレンが聞こえる。頭が痛い。
「君、君、聞こえるか?自分の名前が言えるか?」
白衣にヘルメットをつけた男が僕の耳元で喋っている。
「僕は…斎藤一馬です…。」
体を起こそうとしたが動かない。
「君!斎藤くん、動かないほうがいい、頭部に出血がある。動かしちゃいけないよ?いいね?」
男はまくしたてたあと
「男性の方は無事です!」
と叫んだ。…男性の方は?まさか、…そんな。嫌だ、嫌だ、おいていかないでくれ、僕はダメなんだ、君が居ないと。あぁ。暗い。意識が…。
目が覚めるとそこは病室だった。母親と、叔母と、姉夫妻がいた。
「カズ?大丈夫?頭、痛くない?」
母が僕の顔を覗き込んでいる。
「一馬。もう少し寝てな?」
姉も心配そうにしている。二人の顔を見ていると、わかった。二人の顔には、心配ではない、哀れみが見て取れた。
「うん、まだ少し眠い。おみまい、ありがとね、母さん、姉ちゃん。ちょっと、席を、外してくれ。」
もう涙が、これ以上はないってくらい溢れそうで、泣くのなんて5年、いや、6年ぐらいぶりか、誰も居なくなった病室で久しぶりに僕は泣いた。
1ヵ月たった。彼女の葬儀には出れなかった。僕は古い単車で、遠くまで遠くまで走った。車が廃車になってしまってたからなんだけど。風が涙を乾かしてくれて、単車で来て正解だったな、と思っていた。彼女の両親は、怒りの欠片も見せず、僕の怪我を心配してくれた。あとから母が
「もう、二度と顔を見せないであげて。思い出しちゃうだろうから。」
と言った。
「わかってる。」
彼女の両親にそう言われたんだろ。僕は心のなかでそう付け足した。
僕は静岡と山梨の県境に来ていた。富士山がそびえたっている。ここには彼女とも一緒にきたことがあった。僕は富士山より樹海のほうに興味があったから、樹海の(もちろん旅行者用の)道路を歩いた。僕は紅葉が綺麗だったその道にもう一度行きたくなった。だってもう、ロープは持ってきてるから。
深く深く。このまま、足から腐って崩れて、土になりたかった。僕は夕日が完全に落ちた樹海の中をペンライト1本で彷徨った。
「もういいかなぁ。この辺で。」
僕は彼女との思い出の品を一切合切詰め込んだプラスチックの箱を埋めるため、穴を掘った。深く深く。爪に土が入る。まだまだ深く深く。…そしてふと、箱の中から彼女と禁煙を約束した時から1本も減ってないセブンスターを取り出した。ソフトパックだが形は綺麗に整っている。まだ12本残っていた。そのうちの1本に火を点け、心の中で
「禁煙破っちゃったなぁ。ごめんなぁ。」
と唱えた。ジジ…と音がするほど力一杯吸い込むと、思いっきりむせた。
「ごほっ!げほっ!ぅあ・・・。」
くらくらする。2年も吸ってなかったからなぁ。そんなことを考え、しばらくしてからロープを手に取った。
「今から、行くからね。僕達いつも一緒だろ?」
――その時。ガサガサ。草を掻き分ける音と人の声が聞こえた。
「だ、誰か!いませ、んか!?」
オイオイ、いるわけ無いだろ。樹海だよ、ココ。僕はペンライトで辺りを照らした。声の主は明らかに女だ、しかもかなり若い。助けを求めてる。自殺しにきたけど、怖くなったってやつか?ペンライトを振りながら
「こっちだ、ここに居る。」
と合図した。
「あぁぁぁぁぁぁ!良かった。助かった!すいません。なんか飲ませてくださいませんか?すいません。GPS壊しちゃって。本当に困ってて。喉カラカラで。」
ゼィゼィと息を肩でしながら女の子は喋る。水なら持ってる。何気なく持ってきたバッグにはあの事故の日以来ずっと入れっぱなしだった未開封のミネラルウォーターが。この女の子、物凄い強運、いや、物凄い不幸中の強運の持ち主なのかもしれない。
「全部飲んでいいよ。」
僕は歩きながらせめてこの女の子が寝そべるスペースを探した。しばらく行くと洞穴みたいな場所を見つけた。中は暗いが(外も暗いけど)外より暖かい気がした。女の子はミネラルウォーターを口から離した。
「ありがとうございますぅ。ふぅ〜。私は第三舶来大学考古学部考古学専攻科2年登山および一部採掘研究部会所属2年、三舟理佳です!」
2年って二回言った…。て言うか研究部会の名前イギリスの正式名称みたいだ…。そう思いながら、自己紹介を返す。
「僕は斎藤一馬。君より1才年上。今年で二十歳でしょ?」簡潔至極に言い放つと、女の子は…理佳は突然ぐずりだし、最後は大声で泣きだした。
「あ、あたじ、どうやってか、帰ればいいのがなぁ。」
切れ切れにそう言って、僕に抱きついてきた。困った。犬のおまわりさんの気持ちがわかる。これは参ったなぁ。僕は自分が自殺しにきた事を伝える事はできなかった。さらに、僕もこの広い樹海から脱出する方法を知らなかった。
泣き疲れたのか、理佳は僕にしがみついたまま眠ってしまった。明日は理佳に色々と聞き出さなければならない。
――僕は一度全てを捨てて死んだ身だ。――
だからこそ、この娘を無事にこの樹海から脱出させなくてはならない気がする。これはきっと、彼女を死なせた僕にできる最後の償いだという気がする。
そんなことをウトウトしながら考えていた。僕は理佳が風邪をひかぬように――一つしか違わないこの女の子を自分の娘のように――ギュッと抱き締めて眠った。冷たい空気が洞窟にそっと入ってきた。上着を理佳にかぶせていた僕は寒さに目を覚ました。昨日と風向きが変わったせいか、やたら寒い。僕は理佳をそっと起こした。
「理佳さん、朝だよ。」
理佳の頭をぽんぽんと二回たたいた。
「もう少し…。兄ちゃん…。」
僕はすっかり呆れてしまった。「理佳さん!朝!朝だよ!」
理佳はビクッとして目を覚ました。そして目が合った瞬間、僕はゾクリとした。
「りか…。」
僕は取り乱した。僕の死んだ彼女、八代里香にそっくりだったから。リカなんて名前は日本中ありふれている。しかし、顔までそっくりだとは。
「おはようです。どうかしました?私の顔になにか…。ひゃ、す、砂だらけ…。」
理佳は顔に付いた砂を手で払っている。見れば見るほどそっくりだ。僕はみんなが僕を騙して、大がかりで悪趣味なドッキリをしているのではないかと思うほど動揺した。
「ねぇ、一馬さんは、どう思う?」
僕は余りに動揺したため、理佳の話しを聞いていなかった。
「ごめん、聞いてなかった。」
僕はすまなそうに、苦笑いを浮かべた。
「なにそれ、もう。」
ダメだ、似ている、仕草も、口癖も、
「だから、こういう時って余り動かないほうがいいのかなぁ?って言ったの。」今度はなんとか聞き取った。
「あ、そ、そうだね。余計に迷うかも?あ、いや、どうだろう。もう樹海の入り口から大分離れてたはずだ、僕は4、5時間は歩いたからね。」
理佳はなるほどといった、感じで頷いた。
「ところで一馬さんはどうして、迷ったの?」
うっ、しまった。墓穴掘ったか。
「いや、その、僕は趣味で、僕もJPSイカれちゃって。」
理佳は怪訝な顔をして
「GPSね。」
と言った。
結局僕の親類か理佳の仲間が捜索願いを出してくれるのを待つことになった。こうと決めればやることはたくさんある。
「まず飲み水の確保。ここ一週間は晴れのはずだ長期戦も覚悟しなきゃね。次に生木、枯れ木、枯葉も集めよう。」
理佳が神妙な顔をして復唱する。何となく、里香よりも幼い感じがする。ダメだ、なんで里香と比べんだ?二人に失礼だ、死者と生者どちらをも冒涜する行為だ。
「じゃ、一馬さん、行きましょ。もうすぐきっとお昼だし…。」
こうしてすぐに僕達は行動に移ることにした。
「ねぇ〜!一馬さん、このぐらいでいいかな?」
理佳はもう、ピクニック気分だ。しかし、会話もなく陰気にこんな作業は精神的に参る。こんな時でも明るいのは理佳の長所と言えるかもしれない。
「あぁ、生木はそれ位で後は枯れ木を集めてくれ。枯れ木が無いと寒い中寝ることになるからね。」
僕は軽く脅したつもりだった。
「え〜でも、昨日は寒くなかったよ?ありがとね!一馬さん。」
ボッと火が点いたように熱くなるのがわかった。年下の女にからかわれるなんて、まだまだ青いな、僕は。
ずいぶんと集めた。
これなら2、3日は狼煙と焚き火の心配はない。理佳の話では最低3日は粘らないと捜索願いは出ないだろうとのことだが。富士の樹海に行くとは言ってきたから、捜索願いが出てから狼煙をあげればヘリかなんかで助けてもらえると僕等はふんだ。しかし普通、女の子が2日もいなかったら捜索願いぐらいでるはずだと思うが…。今はそんなでもないのか?
洞窟のまわりはもうほとんど落ち葉はなかった、そこに生木を集め、燃やした。もうもうと煙があがる。風もなく煙は高くあがる。しかし問題は水だ。余り遠くに行けば迷ってしまう。似たような洞窟を見つける自信は無かった。水はもう1リットルボトルに3分の1程しかない。長期戦になれば水は必需品。なんにしても、もう日が暮れる、今日は無理だ。そんなことを考えていた。僕が思い悩んでるのが解ったのか、理佳は
「あたしが昨日飲み過ぎちゃったからだよね…。ごめんなさい。」
と言った。僕は理佳を不安にさせないよう笑顔を作った。
「いいんだよ。きっと見つかる。」
僕は焚き火にあたりながらそう言った。ヒヤリと風が背中をなでる。僕は出口と反対側にいるのに。もしかして、僕等が最初洞穴かと思っていた洞窟はもっと実は長いトンネルなんじゃないか?僕は振り返りペンライトで奥を照らす。洞窟はほぼ直角に曲がっていた。今まさにできたように洞窟の続きがあらわれた。
「理佳。行ってみようか?」
理佳はいつのまにか僕のシャツを掴んで、何度か頷いていた。
中は入り口より細く、中腰でいないと頭をぶつけてしまう。二人は奥へと向かっていった。「このまま一本道だといいんだけど。」
ペンライトを細かに動かし、すこしづつ進む。だんだんと天井が高くなり(というより道が下り坂なのだ。)、今は理佳が普通に立っていられる程だ。
「おかしい。」
突然理佳は立ち止まった。
「なんでこんなに人が通るために作ったような形になってるの?」
…確かに。この洞窟は人工的に作られたような、歩きやすい形になってる。
「…確かに。でも、岩でできてるし、削るにはかなりの大型建機が必要だな。自然の産物だと思うよ?」
それからしばらく、僕と理佳の会話は途切れた。冷たい空気が背筋を凍らせる。喉が渇いた。水が欲しい。
「一馬。どうしてここへ来たの?」
後ろを振り向く。…理佳?泣いてるのか?
「あたし、一馬には来てほしくなかった。どうして?」
理佳は涙を流している。
「あたしは死んだのよ?あなたは生きてる。こんなのおかしいでしょ?あたしとあなたは一緒に居ちゃいけないの。わかる?あなたは生きてるの。」
君は…里香なのか?声が出ない。もし、里香なら、僕はここで死んだっていい。里香が望むなら死んだっていいんだよ?
「ずっと、一緒に居よう?ここで。あたしたち、結婚しよう?」
ああ、いいよ、もちろんだよ。このままさ、ここに居よう。指輪だって持ってるんだ。誰も居ないけど式を挙げて、一緒に暮そう。
「ああ、一馬。あなた、生きてる。死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで、死んで。愛しいあたしのために。」
声が出ないんだ。応えてあげたい。君のために死ねると。しかし、ここへ来て僕にはやることができた。
「一馬さん!だめ。死なないで。あなたが死ねば本当は里香さんは報われないって、あたし解るの。死なないで。」
頭の中で声がする。理佳だ。目の前にいるはずの理佳の声。でも理佳。意味が解んないよ。本当の里香は目の前にいる。
「死んでよ一馬。あなたそのためにここに来たのよね?」
違う。――里香はこんなこと言わない。里香はこんなに甘くない、いつでもひとりでも、何でもできて、僕には厳しく、でも深く愛してくれた。いつからか背景は消え、光のなかに僕と里香は居た。里香はじっとこちらを睨んでいる。そうか、これは僕の心の中の―――
「里香…。」
気が付くとそこには理佳が涙を拭きながら僕に膝枕をしていた。
「理佳さん?」
理佳は僕に抱きつき、
「一馬さん…良かった。良かったよぉ。」
そこには白い花が妙に懐かしい匂いを漂わせて咲いていた。洞窟の真上には穴が開いていた。ここは枯れた井戸だったのか、すっぽりと開いた穴から月がのぞいていた。そして奥には、小さな湧き水が湧いていた。
こうして僕の自殺は未遂に終わり、それから2日後、僕と理佳は樹海から救出された。僕は樹海の洞窟で、僕を縛っていた里香の幻影を殺した。しかし、僕はあの洞窟の奥で、本当の里香の声を聞いた気がした。
「ありがとうね。あたしの分まで幸せになってね。愛してたよ。」
僕が里香の幸せを奪ったことには代わりはない。
その十字架は一生重く、それこそ、僕が押し潰されそうな程重くのしかかってくるだろう。理佳とはあれ以来よく一緒にいる。でも、僕が里香を忘れるにはまだ時間が足りない。いや、忘れられないだろう。とにかく、僕が彼女を受け入れ、彼女が僕と里香を受け入れるまで少し時間がかかるだろう。でも、もう、死のうとは考えないと思う。どんなに辛くても。どんなに苦しくても。
ある日の土曜の午後、理佳と食事をした時、不意に理佳が話を切り出した。
「一馬さん。あたし、あの洞窟で、死んだ兄に会ったんです。兄さんはあたしに『元気にしてるか?』『ちゃんと学校行ってるか?』『男ぐらいできたか?男は選べよ。』とか、ホントもうくだらないことばっかり聞くんですよ。あたし、うんうんって何回も頷いて、兄さんこそって、でも死んでるから、そんなこと、関係ないかなぁって。変なことを言い合ってたら、兄さんは急に真面目な顔で、『今、お前と一緒にいられるのは俺じゃない。隣にいるその人のことを、考えてやりなさい。今、とても苦しんでるから。』って言うんです。そういえば兄さんは一馬さんに少し似てるかな?」
理佳の話を聞いて、あの白い花を思い出した。あの白い花の香は死者の幻影を、しかも、その人のイメージによって創られた幻影を見せるのかもしれない。……そしてあの洞窟は、きっと、ヨモツヒラサカで、かつてイザナギノミコトがイザナミノミコトに会いに、あの道を通ったのではないかと、少し考えてしまった。
了