6:駒鳥と鳩時計
夕暮れに感じるのは寂しさだ。
今日の終わり。最後の鐘。晩鐘を鳴らせば……人々は家へと帰っていく。
僕もそう。帰るんだ。家に。誰もいないあの家に。父さんももういないその場所に。
時間泥棒なんて金にならない仕事。割に合わない仕事。それでも僕がそれを続けたのは、僕が時計を作れないから。父さんがやり残したことをやろうと思ったからだ。
辺りは暗くなってきた。それでもまだ暮れていない。昼でもなく夜でもない。中途半端なその時間。夕闇の中に僕はいる。
いつもの癖でつい、利き手を見ようとする。そこに握られているはずの金時計。それはいま何時を指しているだろう?
(あれ……?)
ない。時計がない。
ない。時計がない。時計を掴んでいる物がない。
ない。時計がない。時計を掴んでいる物がない。僕の手がない。
ない。時計がない。時計を掴んでいる物がない。僕の手がない。何処にもない。見あたらない。
僕は思い出す。思い出す。僕に何が起きたのか。
そうだ。できるはずがないのに。僕はもう、死んでいるのだ。鐘なんか、鳴らせない。それなのに僕は確かに鐘の音を聞いていた。
*
時間泥棒と呼ばれた少年。彼は感じていた。どこかへと自分の身体が落下していくことを。
どん底は何処だ?何時叩き付けられる?押しつぶされる?それはどれ程痛いのか。いや、そもそもそれは死よりも痛いのか?
うっすらと目を開ける。目に映るのは空の色。昼間の明るい青空の色。そこから遠離るように落ちている。視線を今ある辺りに移せば夕焼け色の空。更に下を見れば夜の暗闇。ぽっかりと空いた穴のように夜がこの小さな来客を呑み込もうと大きな口を開けている。
これが死というものなのだと漠然と彼は知る。深い眠りに誘われるよう次第に意識が遠のいていく。そうしてあの夜に包まれる。
瞼がだんだん重くなる。落ち行く空は、凍えるような冷たさで……もう指先一本動かない。
終わりの時は近い。もうすぐだ。
そんな消し飛びそうな意識の中で、思うことがある。ゆらゆらと、蠢く物がある。それはとても熱い。あの夕焼け色の空と同じ、炎のようにこの胸を、心を焦がし苛む思い。
その焼けるような痛みが眠りを遠ざけて、もう少しで眠れそうなのに、彼はまだ眠れずにいた。眠りは全てを終わらせる。痛みさえ眠らせる。
それでもまだ眠れないから、痛みが精神を苛む。身体なんてもうあってないようなものなのに、それを模るような精神がその痛みを忘れられずに引き摺り続ける。痛い痛いと泣いている。そんな痛みの中で、少年は考える。どうしてこんなことになったのだろうと。
気に入らない仕事を完璧にやり遂げた父親に与えられたのは、望みの報酬ではなく死という対価。
金さえあれば、すべてが元通りになる。家族みんなでまた、暮らせるようになる。
金さえあれば、母親の病気だって治せる。妹を働かせることもない。何もかもが上手くいく。その、はずだった。
(……その、結果がこれだ)
父親をあの大富豪に殺された。それでもその復讐として、あの屋敷に忍び込んだのは殺すためじゃない。
上手くいけば寝首をかくことくらいは出来ただろう。この足があれば、まんまと逃げおおせることも出来ただろう。それでもそれが出来なかったのは……母と妹の存在があったから。だから自分は全てを失って尚、境界を踏み越えずにいられた。人として踏みとどまれた。
自分が人を殺したと知れば、二人はどんな顔をするだろう。人殺しがあの家の扉を叩いて……二人は笑顔で迎えてくれるだろうか?そう思うと怖かったのだ。
自分がそうすることで、何もしていない二人まで追われるようなことになってはいけない。
だから時間泥棒になった後もあの家を訪ねることは出来なかった。
それでもいつか時代が変わったら。時間が誰もが手にする当たり前の者になったら、この職も失って、もう時を告げることが罪ではなくなる。そんな日が来たら……
走り、通り過ぎる窓……何時の日かその中に自分の姿が映ること、それを夢見て。
いつか彼女の名前を昔のように当たり前のように、呼べる日が来る。それを信じて走り続けた。
どうせ人間なんか数十年の命。放っておいてもいつか必ず死ぬものだ。いずれ時が全てを裁いてくれる。憎たらしい奴らをそう思うことで復讐心を飼い慣らした。慣らそうとした。
(…………そして、この様だ)
自分が何をしただろう。少年は振り返る。
歌うこと。走ること。そのどちらも罪ではないはずだ。
問題はその内容。それは数字。時報。時間。
歌なんて歌詞なんて自由であっていいはずのもの。それが誤った時刻ならば、追われることもなかったはずだ。
(嗚呼……下らないな)
真実を歌っても、金に支配された街に自由を取り戻すことは出来なかった。
(ごめん……父さん)
時計は再び奪われた。父が守ろうとしたものも守れなかった。街は再び嘘の時間に囚われる。それが悔しくて堪らない。憎くて堪らない。
精巧な時計を作ること。正確な時間を歌うこと。それの何が罪だというのか。それは殺されなければならないほどの罪だったのか?
顔も知らない名前も知らない多くの人の自由のために祈りを捧げても、誰も感謝などしない。それはまだ良い。自分のことはそれで構わない。それでも父のことは諦められない。
父が死んだことをこの街の一体何人が知っているだろう?その死を悼んでくれただろう?自分の幸せも家族の幸せも犠牲に、命まで捨てて正しい時を知らしめようとした男のことを。誰も知らないのだ。誰も感謝しないのだ。
語る口がもう開かないと言うのに、それでも恨み言は尽きない。
憎むべきは他にも大勢。父を殺した者。それを誘発した者。自分を殺した者。母や妹を苦しめる者。
(く……、くくっ……あははははっ、はははははははははははははは!)
焼け付くような痛み。腕が、足が腹が、胸が。雀の矢羽根によって空けられた穴。身体の痛み、苦しみが報い。この心が流す血の涙が報い。それが時間泥棒への報い。報いだというのか?
それなら自分の欲のために生き、嘘を重ね、人を傷付け蹴落として生きてきた人間達。彼らはどんな報いを受けるのだろう?これ以上の痛みを、苦しみを存分に味わうものなんだろう?それが報いというものだ。そうだ。そうであるべきだ。そうでなければ……これ以上何を呪えば良いというのか。
もしも世界がそういう絡繰りならば、自分は死んでも死にきれない。必死に耐えてきた。誰かを傷付けることも、殺すこともしてこなかった。それなのに……今更殺してしまいたくて堪らなくなる。もう……首を絞める手も、刺し殺す手も、突き落とす腕もないのに?この恨み言も誰の耳にも届かない。声なき恨みを抱えるこの胸が、どんどん黒く染まっていく。あふれ出した血が黒く淀んで固まって……今度こそ息の根を止めようと襲い来る。信じていたもの、希望とか……そういう気持ちを全て黒へと塗り替える。
*
さて、ここまでの話は実は私が実際見ていたわけではないの。あれは彼と契約した際に、交換した彼の目を通して見せて貰ったあらすじのようなもの。
言うなれば、彼の物語の本当の始まりはここ。彼の目のお陰で私としてもこの世界の観察の幅も広がったというものよ。契約者を得ることで、私は物語の世界の登場人物達の心の底まで文字に曝くことが出来るようになる。主観が別の人間に変わった方が、見えてくる物も多いから、群衆劇には持ってこいってわけね。
ええと、そんな彼はなんて名前だったかしら。く、く……く……そうだ、クロシェット?いや、どうでもいいわねそんなことは。興味はないわ。敬語口調も飽きてきたからざっくばらんにフランクにいきましょうか。
私にとって必要なのは二つだけ。その過程が如何に愉しめるか。その結末が如何に悲劇的か。この二つね。
え?何故そんなことが必要ですって?そんなの決まっているわ。だって私は物語の悪魔。書き手にして読み手にして語り手にして最高の傍観者。以後お見知りおきを。
それはさておき、観客の皆様方は天国と地獄についてどのような認識を持っていらして?時代やお国柄、宗派によっても様々な見解があるけれど、それは私が見てきた多くの世界の中でも同じ。
それではここで一つ、不思議な話は如何かしら?
他人を殺せば地獄に落ちる。
自分を殺しても地獄に落ちる。
ある時代のある世界には、そう教える組織があった。だからそこに属する人間は、どんなに辛くても苦しくても憎むべき相手を殺すことは許されなかったし、そこから逃げることも許されなかった。それは究極の二択。どちらにしても地獄に落ちるのなら、選ばなければならない。だってもうこれ以上生きることは出来ない。それくらい、その子は追い詰められていたの。
自分を殺せば、世界が叩くのは自分だけね。なんだかんだ理由を付けられて逃げ出したことを彼らは責めるでしょう。始まりも過程も異なる場所の人間が、誹謗中傷。何も知らない奴らの心ない言葉が世界に響く。まぁ、いつか忘れられるんだけどね。そう、すぐに。一人の人間の死なんて、世界という概念には大した意味などないのだし。
それならば、他人を殺すべきかしら?
復讐相手をその子は誰にするんでしょうね。自分を不幸に陥れた張本人?それとも、もう何もかもが憎くて、どうしようもなくなってしまうのかしら。全てが許せない。目に映る全ての色が。或いは復讐の対象が多すぎて絶望してしまったのかも。
この時、考えるべきは残される相手。
自分の行く場所は決まっている。地獄とね。だから彼らが考えるのは別のこと。
彼や彼女にとって、両親、兄弟……そんな相手が大切だったなら、彼らは自分を殺めるでしょう。罪人の身内として、何の罪も犯していない彼らが世界から虐げられるのには耐えかねて。
彼や彼女が、肉親さえも怨むなら。彼らは殺すべき相手を殺してしまうでしょうね。罪人の身内として迫害されて生きるの。その子が罪を犯したのは彼らのせいだ。そういう風に育て上げたのはお前達なのだと。実際誰かを殺めたわけでもないのに、そうやって一生何かを言われ続けるのよ。
それでも彼らが本当に罪など無かったのかはどうなのかしら。人を殺めずとも、世界には多くの罪が、憎しみが散らばっている。人の恨みを買うのは何も難しい事じゃない。何かをしても、或いはしなくても。その人がその人だと言うことが、既に怨みの対象になることだってよくあること。問題は罪を犯したかどうかじゃない。逆恨みでもいい、怨まれていたかどうか。それが肝心なの。
憎しみに囚われた人間は、罪を産む。自分か他人か。結局はその二択へ迷い込む。そして世界は怨みによって回り続ける。そういう仕組み。怨みこそが人に物語を作らせる。そうやって劇が生まれる。そうして私の蔵書が増えていく。ああ、それはとっても素敵な感情ね。
ああ、或いは肉親。彼らこそ復讐の相手ならどうするかしら。
彼ら自身を殺す?それとも無関係の人間を巻き込んでしまうのかしら。直接手を下すよりももっと残酷な方法を考える?本当、人間って面白い生き物だわ。
私だったらこうするのに。その世界ごと破壊する。全部ね。一匹残らず消してあげるの。あとは本を閉じてそれでお終い。ピリオドを打ってあげればいい。それでお終い。
だけど人間は小さな生き物。そんなことは出来ないものね。
だから彼らは悩むのでしょう。そしてそれは私達悪魔を、大いに喜ばせてくれる、最高の暇つぶし。
まぁ、仮に彼や彼女が自分を犠牲に選んだとしても、残された人間が憎しみに支配されてしまうこともある。復讐なんてざらにあるものだもの。
続く罪を誘発するという意味においては確かに自殺という物はあってはならないものかもしれない。でもそれは本当にそういう主旨の物だったのかしら?
まずは国、或いはもっと小規模で街。そういうくくりで世界は分けられている。あっちでもこっちでも自殺者なんかが続けばそういうのを維持していくのって難しい。税収もままならないもの。そういうものの維持のために自殺というのは許してはいけないものだったのね、その世界では。だから宗教の名を借りて、あるかどうかもわからない罰を恐れさせそれを禁じた。
人間って本当駄目ね。ツメが甘いわ。騙してあげるのならもっと上手く騙してやらなくちゃ。その点私は悪魔。抜かりはないわ。生きている契約者には自殺の禁止を契約条件に盛り込んで、勝手に逃げられないようにはしてあげている。今回はもう死んでいる人間が相手だからそこは問題ないわ。彼はもうどこにも逃げられない人間だもの。
わたしは彼に彼の片目と交換で、人を世界を書き換える脚本の力を貸してあげた。勿論それは未来方向に限定した力。彼は自分や家族の死をなかったことには絶対出来ない。
そして彼はどうして自分がそんな力を持っているのか覚えていない。そんな限られた範囲での力を得た彼がどう歪み、傲っていくのかは興味深いものがある。人の形をした時計が作り出す理想の世界はどんな景色が広がっているのか。私に観察されていることも覚えていない無邪気な彼のピリオドまで、じっくり傍観してあげましょう。
*
暗い、暗い……闇の中で…………鐘の音がどこか遠くから聞こえる。あれは晩鐘?
鐘は時を示すけれど、時計のように正確な時を刻むことは出来ない。なぜなら鐘を鳴らすのは人間だからだ。時計を持った人間以外、鐘を鳴らす意味はない。
鐘とは信頼の証。鐘を鳴らすその場所。鳴らす人間が、正しい時を刻むと信じられなければその鐘に意味はない。唯の騒音だ。
今の僕はその鐘を鳴らしているのが誰で、何処から聞こえてくるのかが解らない。だから僕はそれを信じて良いのか解らない。
鐘が鳴るほど僕は不安に駆られる。これはまるで警鐘だ。何度も何度も打ち付けられる。頭が痛い。耳が痛い。……体中が痛い。あちこちが痛いんだ。音の響きってこんな痛みをもたらすものだっただろうか?
どうしてだろう。一番痛いのは僕の利き手。焼けるように熱い。その痛みを自覚すると泣き出し叫び出したくなる程だ。おそらく僕は叫んでしまった。
その絶叫。それが僕を我に返らせる。もう鐘は聞こえない。辺りを見回せばここは街中。
気付けば僕は立っていた。どうしてそこにいるのかなんてわからない。唯何となく立っていた。ずっとそうしていてもわからないことだらけ。だから僕は歩いてみることにした。
沈み欠けた太陽が、家々の影を作る。とても寂しい夕暮れだ。誰ともすれ違わない寂しい街だ。
この場所には音がない。生きている音がしない。こんな場所を僕はとてもよく知っているような気がする。
耳を澄ませながら僕は歩いた。音が聞こえれば、そこに何かが誰かが居るはず。誰でもいい。何故だか無性に誰かに会いたくなったのだ。そうやって歩いてどれくらいだろう。僕の耳に微かに聞こえる歌がある。それは同じ言葉を繰り返すだけ。それはまるで鳩時計。
夕暮れの街の中、カッコウ、カッコウ……鳩が鳴く。声の先には一軒家。その扉の中から出てきた少女が僕に歌いかけるのだ。
少女の顔には見覚えがある。
何処かで出会ったような気がする。遠い遠い昔、何処かの街で街の何処かで。
彼女は人形のように端正な顔立ち。彼女は可愛らしく、愛らしく……それでも僕と違うものがその背にはある。歌う彼女は雪のように真っ白な鳩の翼を背に持っていた。だけど鳩はそんな風に鳴くものだっただろうか?
「君はどうしてこんな所にいるんだい?」僕は聞く。
「それは私が鳩だから」少女が答える。
「だけどそれはおかしいよ。鳩時計には鳩を入れるものではないし、ましてや女の子を入れるものでもない」僕は言う。
話の最中……鎖に引き摺られ、家の中へ引き戻されていく少女。その鎖を僕は掴んで止める。けれど鎖の力はとても強くて、2人一緒に家の中へと引っ張られて行き……背後で扉の閉まる音。
「女の子は鳩になってはいけないの?」
「なってはいけないって……言い方がよくわからないけど、君はそうなりたくてこうしているわけ?」
「それじゃあ貴方はそうなりたくて貴方なの?」
「……違う」
「私もそう。私は鳩時計だから鳩時計をやっているだけ。どうして私が鳩だとか、そんなことは私は知らないし誰にも教えて貰えない。世界ってそういうものだわ」
少女はそれが望みではなく役目なのだと口にした。
こんな寂しい街に閉じこめられているなんて可哀想だ。なんとか鎖を解けないものか、試行錯誤してみるも、その鍵を開くことは出来ない。
「ありがとう。貴方のその気持ちだけ受け取っておく。もうすぐ夜が貴方を迎えに来る。さよならだわ。そうだ貴方、転んだ時に何か落としていたわ。部屋の向こうに………」
少女は床に落ちたそれを僕へと差し出し……掌に載せられたそれに目を見開いた。
「…………これ、鍵だわ」
「え?」
「私の父様の持っていた鍵。どうして、貴方が……?」
「よくわからないけど、これで君を助けられるの?」
「助けてくれるの?」
「これで開くのなら」
「どうして?」
「どうしてって?」
「だって私のことは貴方には何も関係ないはずでしょう?損得勘定なしにそういう相手を助ける人間なんかいないわ。人ってそういうものよ。貴方が私を助けてくれても私が貴方にしてあげられることなんてほとんど無いわ。それは貴方にとってとても不利益なことだからやめた方がいいと思うわ」
「確かにそうだ。君の言う通りだ」
そうだ僕は知っている。人はそういう生き物だ。
「だけど僕は……そういう者の考え方をする人間が嫌いだ。大嫌いだ。僕はそういう人間になりたくない。だから君を助ける。助けたい。これは僕の自己満足だ。だから君に何かしてもらいたいってことは別にない」
「…………そうか。貴方も時計なのね」
鍵を回すと少女が小さく微笑んだ。懐かしいものを見るように。
「僕が、時計?」
「そうよ。正しい時を刻むのが好き。嘘が嫌い。嘘を吐く人は時計にはなれないわ。愚かな機械にはなれるけど」
「……時計って何?」
「時計は時計よ。時計は人のために生きるもの。自分のためではなく人のために生きるもの。貴方はそんな風に生きたのね。誇って良いわ。そんなことなかなか出来る事じゃない。貴方はとても優しい人だったのね。だからこんな所にやって来てしまった」
「こんなところ……?」
言われてみればそうだ。ここは何処だろう?街には看板もなかった。文字がない。あるのは精々数字だけ。
「助けてくれてありがとう、初めまして……私は鳩時計ウェスペル。ウェスペル=マキナ」
微笑みながら差し出された少女の手は……氷のように冷たいものだった。
*
人の作る死の概念というのはとても興味深いもの。
人は死を悩み、考え、そこから多くを想像し創造していく。私達悪魔や神が正しき死の概念を彼らに教えないのは、その方が面白いからであり、真実を伝えることで人間というものは進化を忘れてしまうとても怠惰な生き物だからだ。
だから私がその概念を教えるとするならば、それはもう死んだ人間に対してのみ。死んだ人間は死を悩まないし恐れない。彼らは世界の理不尽と生を憎むだけ。そんな死人を成長させ、面白くさせるのは世界が敢えて教えなかった真実だ。
私が生きた人間ではなく死んだ人間と契約することが多いのは、その方が面白いことになる確約が得られるから。
死人は生人とは違って私と契約したこともすぐに忘れてしまうから、行動に生人のような迷いが出ないし清々しくて見ていて面白い。これ以上失うものがない人間の、思い切った行動は実に観察し甲斐がある。
人は生きている限り希望を忘れない生き物なら、死んでいる人間は絶対に絶望を忘れられない生き物であり、どんなピリオドを打とうともそこに幸せな結末などあり得ない。
人との契約は料理に似ている。契約者の最期までを綴る本こそ、永劫を生きる私の糧。退屈という飢えを癒すのは悲劇と喜劇。この胸の渇きを潤してくれるのは悲鳴と血の雨。
好きな料理は何度だって食べたいけれど、味付けには拘りたい。毎回少しずつスパイスを変えるのだ。そうすることによって、過去の料理よりもっと私好みの一冊が出来上がるかもしれない。
それでも今回の主人公たる少年には、多少の同情をしないわけでもない。私は夕暮れというのが一番嫌いな時間帯。そういうどっちつかずの中途半端な物が大嫌い。そんなものに魅入られてしまった彼はなんてなんて可哀想。
白か黒かなんて決めなくてもいいけれど、赤か黒か位はきっちり決めなきゃ気分が悪い。永遠の停滞なんて、終わらない物語なんて意味がない。価値がない。つまらない。それは書き手も読み手も同じ。万物は始まった以上、何らかの決着を付けて幕を閉じるべき。物語もまた然り。
一番分かり易いものだとそれは恋。
恋というものが一番輝く瞬間は、それはそれが砕け落ちる刹那。恋っていうのはその一瞬のために存在している。どこの世界にも永遠の愛などあり得ない。始まった恋は終わってしまう運命にある。その痛みを避けたいなら、誰にも恋なんかしなければいいの。そうすればずっと幸せでいられるわ。少なくとも悪魔は貴方に近寄らないでしょう。不感症の人間いたぶっても全然こっちは面白くないもの。
恋はいいわ。本当に。見ている分には最高に最高の娯楽で暇つぶし。生き別れでも死に別れでも、その痛みの記憶が人の人生を飾り立て演出してくれる最っ高のスパイス。
その感情の引き金が人に通常なら起こすはずもないアクションを引き起こす。それが喜劇や悲劇に繋がる引き金になることも多いもの。
言うなれば彼は、その時に間違えてしまったんでしょう。彼はそんな余計な荷物抱え込んではいけなかったの。
彼を死に至らしめた不幸の引き金こそが恋。その盲目が招いたもの。
罪を金で贖えるというような世界に、本当の善悪なんてあるはずもない。
神が作った世界が理不尽ならば、どうして神の作った彼岸が平等だと言い切れるのかしら?どうしてそんなことを信じられるのかしら?死ねば救われると思った?大間違いよ。
生きていても救われないのに、救ってもらえやしないのに、どうして死ねば救われるなんて勘違いが出来るのかしら人間は。
神様っていうのは意外と面倒くさがりなものでね、そこまで人間を救ってやろう何て気もないの。1人1人を裁判に掛けて時間も手間もコストもかかるようなやり方取りたくないわけ。だから死後の世界に選別の仕掛けを作ってしまった。
人の心の嘘と本当を見分けるだけの機械。
自分が本当に素晴らしい人間で、正しい人間で、自分は天国へ行けると心の底から思っている者は天国行き。ちょっとでも罪悪感を持っている人間はみんな地獄行き。
面の皮が厚い人間ばかり天界送りになってしまって、今じゃ天国って世界も本当腐りきってしまったらしいわ。そこを管理することになった天国行きの人間の性根が腐りきっているんだもの、そうなって当然ね。今じゃ地獄の方が暮らしやすいって意見があるくらい。世の中本当どうなっているんだか。
そんな選別機械でも、選別に困る人間っていうのが稀にいる。
自分の犯した罪を自覚しながらそれに対する罪悪感はなく、生き様に後悔はしていない。それでも強く怨みながら堕ちていく。強い憎しみを捨てきれないそんな自分が天国に行けるはずもない。そういう人間。クロシェットというあの少年は正にそれ。そういう死に方をしてしまった。
だから彼は天国にも地獄にも居場所はない。門は決して開かない。
代わりに行き着くのは煉獄と呼ばれる場所。ここで言う煉獄って言うのはとても面白い場所で、それはもう数え切れない星の海ほどの煉獄がある。その爪弾き者はそれぞれ自分に見合った煉獄へと引き付けられて堕ちていく。勿論そこに救いはない。簡単に言うなら隔離された牢獄のようなもの。
彼は時計と縁の深い人生を生きてきたから、あの煉獄に堕ちてしまったんでしょう。
それにしても鳩時計とは面白いものが出てきたものだわ。駒鳥の伴侶は鷦鷯とよく言うけれど、ある歌では恋人役が鳩なの。でも鳩時計の鳩って鳩じゃないってご存知?本当の鳩は鳩ってあんな風に鳴かない。あんな風に鳴くのは郭公。恋人とは時に親子のようなもの。それなら蹴落とされて殺されてしまう卵は誰なのかしら。
嗚呼、可哀想にね。恋になる前に割られて砕けて殺されてしまった彼女の恋は。
*
雪のように真っ白な髪を蓄えた少女が小さく微笑んで、開口一番は自身の名前を恩人へと告げた。
「ウェスペル?変わった名前だな」
少年はその名に不思議な響きを感じた。少なくともこれまで出会った人の中で、そんな名前の女の子はいなかった。
「そう?それなら貴方はとてもありふれた名前なのかしら?」
「どうだろう……僕は……」
少年は自分の名前を教えようとする。するのだが、どうしてもそれが思い出せない。
「く……く、……く…くくく………」
「どうしたの?」
「いや、笑っているわけじゃなくて……思い出せないんだ。辛うじて……最初にクの付く名前だったような気はするんだけど」
少年は考える。僕は一体どうしたんだろう。そんな突然忘れてしまうようなことだろうか?名前なんて当たり前で大事なモノを。
考えれば考えるほどわからないことが増えていく。そもそもここは何処?見慣れているようで知らない街。窓の外は夕暮れ。今にも沈みそうな夕暮れ。その夕暮れはやけに長く続いていやしないか?
この街に来てから。しばらく迷って歩いて……この家を見つけて、鎖に繋がれ閉じこめられている少女を助け出すまで……それなりの時を要したと思うのに、窓の外はまだ夕暮れ。薄気味悪さを感じさせるような夕暮れが続いている。
「ここはクレプスクルムの街」
「クレプスクルム……?」
「それは夕暮れという意味よ」
少年はその言葉に何故か納得してしまう。だからここは夕方なのか。いつまで経っても夕暮れが終わらないのかと。
「貴方は夕方が嫌い?」
少女にそう尋ねられ、少年は今一度窓の外のその色を見つめる。夕暮れは青と赤が混ざり合い、とても美しい色合いをそこに映しているけれど……それをじっと見つめていると妙な物悲しさが身を襲う。
「別にそういうわけじゃないけど……夕方ってこんなに寂しいものだったんだな」
「そうよ。夕方はとても寂しい場所。朝でもなく夜でもない。とても孤独な時間」
少年の呟きに、少女は淡々とした言葉を返す。窓の外には誰もいない。この街がとても寂しいのは誰もそこにいないから。少年はここに至るまで、他の誰にも出会わなかった。
家々は明かりが灯っているのに、覗き込んだ窓の中には誰もいない……それなのに食事の仕度が調っている、妙な家々。
「ここは君の他には誰もいないの?」
「ここは夕暮れだから」
「意味が分からない」
「人はね、2つに分けられる。生きているか、死んでいるか」
分かり易く説明してあげる。そう言わんばかりに少女はゆっくり言葉を選ぶ。
「ここは生きてもいないし死んでもいない人間の街。或いは生きてもいるのに死んでもいる人間の街。貴方は死んでいるのに死んでいないから、ここに来ることが出来た人」
「それってどういう……?」
「ねぇ駒鳥さん」
「駒鳥……?」
「きっと貴方の名前は駒鳥だわ。クックロビン。ほら、ね?クの付く名前でしょ?」
「どうだろう……?」
「ずっと貴方呼びは疲れるから、しばらくそう呼んでいい?」
「別に構わないけど……しばらくって?」
それじゃあ思い出す手がかりがあるみたい。そう言いかければ少女は頷く。
「メディアノクスの街に行けば、貴方はたぶん本当の名前を思い出すわ。私を助けてくれたお礼に、その街まで貴方を案内してあげる」
「ありがとう、ええと……ウェスペル」
「マキナでいいわ。こっちの方が貴方には呼びやすいかもしれないから」
さぁ、こっちこっちと手を引く少女に連れられて、少女が家の扉を開ける。
「うわぁ!こんな風になっていたんだ家の外って……!!」
誰もいない夕暮れを、少女は興味深そうに見回した。
「そんなに面白い?君はずっと窓から外が見えていたんだろう?」
「窓なんて私の家にはないわよ?」
「え……?でもさっき……」
振り返れば、家には窓など一つも存在しない。あるのはたった一つの扉だけ。
白い髪を風に靡かせて、少女がおかしな人ねとくすくす笑う。
「私は家の外に出たことがなかったの。せいぜい一日48回眺めるだけよ」
その言葉に少年は思い出す。あの家の扉に鍵はかけられていなかった。かけられていたのは少女の自由を奪う鎖の方。その鎖はギリギリ扉から顔を出すことが出来るくらいの長さがあった。
「でも、外に出たことがないって……それなのに、メディアノクスの場所は解るんだ?」
「それでも街の場所は知っているわ。鶏が夜明けを知っているように、貴方達が日が暮れることを知っているように」
「どういうこと?」
「世界は文字盤なの」
「文字盤?」
「そう。だから回ればいいの」
「回る?」
「そう。ここは夕暮れ。だからね……右手に行けば朝。左手に行けば夜。そういう街へとたどり着けるの。メディアノクスは左手よ」
「それじゃあメディアノクスは夜の街?」
「いいえ違うわ、真夜中よ」
「それなら文字盤なら右手側から回った方が早く12時に辿り着けるんじゃない?」
「それじゃあまだ昼じゃない。おかしなロビン」
少女がくすくす笑う。少年の物言いは日が西から昇ると言っているようなものだと言わんばかりに。
「あのね、駒鳥さん。確かにずっと右手側に進めばディールクルムの門はあるわ。そこを越えればディエースの街には行くことが出来る。それでもそれはね、時計には不可能。だって時計は決まった数字を歩いていくものでしょう?」
「それなら僕は……」
「貴方は無理よ。人ではなくて時計だもの」
「……僕が……時計?」
少女が少年の心臓を指さし触れる。そうされて少年はようやく気付く。呼吸は出来ても自身の心臓が動いていないことに。
「それに貴方は止まっている、つまりは死んでいるのに生きている時計なのよ?生きているのに死んでいる時計の私が一緒じゃなきゃ、この街を出ることも出来ないわ」
「それじゃあ……まさか、この夕焼けが変わらないのは」
「そうよ。貴方がもう止まってしまった時計だからよ」
少女は無慈悲に時を伝える。もう貴方は死んでいるのよと少年へ。
「朝焼けと夕焼けって少し似ていると思わない?24時間を12の数字で表す以上仕方のないことだけれど。……つまり本当はね、クレプスクルムの門から入ってくればここはクレプスクルムの街。ディールクルムの門から入って来ればここはディールクルムの街」
世界は出来うる限り簡略させるべきものだと少女は語る。
複雑なものを作っても意味はない。それを理解できるものがいないのならば。それなら世界は単純であるべきだ。それはより多くの理解と賛同を得るだろうと。
「貴方はディールクルムの門を潜った。だけどクレプスクルムの街へ来てしまった。それがどういうことか解る?」
「解らない」
「それは貴方が夜だということ」
「僕が、夜?」
「貴方の本質と貴方の時間を足されて潜った門は揺らいだ。だから朝焼けに行くべき貴方はこの夕暮れにやって来てしまった」
「でもそれは同じようなものなんだろう?それなら別にどっちでもいいんじゃない?」
「朝焼けは再生。新たな光に生まれ変わる。でも夕暮れは違う」
少年を見つめる少女の瞳は哀れみと歓喜に濡れている。そんな目で、少女はとても嬉しそうに言葉を紡ぐのだ。
「夕暮れは永遠。そして停滞」
「夕暮れってやがて夜になるものなんじゃないの?」
「本当はね。だけど貴方はもう止まっているから。人は二度も死ねないでしょう?」
「それはそうだ」
「……だから貴方は二度と殺されることはない。脅かされない安寧の眠りの中にいる。だけど他の赤子の瞳を借りて、目覚めることも二度と無い。駒鳥さん、貴方はね……死んでしまったけれど二度と生まれ変わることが出来ない魂。天国も地獄も貴方を迎えることはない……貴方は肉体の苦痛と社会という苦しみから解放される代わりに、生と死から拒絶されて停滞の永遠を彷徨うことになる」
「何だよ……それ」
二度と生まれ変われない。許しも得られず永遠の罰を背負う。そこまでのものを背負わされているということは、自分はそれだけのことをしてしまったということ。
それでも少年はそれを思い出せない。罪悪感というものが、胸に浮かんでこないのだ。代わりにそこに現れるのは、理不尽への怒りの感情。
「僕が一体……何をしたって言うんだ。どうして……そんな」
「全てはメディアノクスが知っている。夢は夜に現れる」
さぁ、行きましょう。白く細い少女冷たいに手に引かれ、少年は西へと足を向けるのだった。