5:金貸し女王と小夜啼鳥
私にとって金は全知全能。神が如き存在。
金さえあれば全ての願いは叶えられる。
幼き日、黄金色の輝きに魅入られた私は、取り憑かれたように金を集めた。
とりあえす手に入る物は何でも買ってみた。地位の椅子も権力も。それでも何処か虚ろな日々。
そんな退屈なある日のこと……通りかかった街角で、出会った一人の愛らしい少女。
赤いドレスの夜の蝶達に紛れて霞む、古ぼけた黒いドレスは喪服だろうか。夜の闇に紛れて歌う彼女は凛とした声で鳴く小夜啼鳥。そんな彼女の歌を聞き、歌う彼女の姿を認めたあの日の私は思ったのだ。彼女を墓場鳥にしておくのは勿体ない。
もっと彼女に似合うドレスをあしらえて、美しい鳥籠を用意しよう。そこで彼女を歌わせたなら、どれだけの黄金の雨が降るだろう?想像しただけでぞくと肌が震える。
少女はなかなか折れないが、手に入らなければ入らないほど取引は燃えるもの。その過程こそが商売の神髄。
抵抗する獲物を屈服させ手中に収めた時の達成感。それは黄金とはまた違う強い力だ。それは商いというものが内に秘めた魅力だろう。
嗚呼、だからこそ止められない。これだから、金を集めるのは病みつきになる。
さぁ、今宵も彼女を捜しに出かけよう。今日こそ私の鳥籠に、彼女を捕らえてあげるんだ。そうすればそれは宝石箱より価値ある百両箱。彼女は私の金の鳥。誰が渡してなるものか。
*
少女は郊外まで歩く。野ざらしの少年を抱えて、引き摺って。
そうやって辿り着いた頃にはもう辺りは闇に包まれていたが、少女は気にすることなく穴を掘る。少年を……兄を埋めるための墓穴だ。
少女にはささやかな夢があった。物心つく頃にはもう傍から消えていた父と兄。
母は少女を育ててくれた。だから少女が父を見限った母を恨むことはなかった。
父は誇りを持った職人だった。だから母が別れて尚、誇らしげに語る男を憎むこともなかった。
夢か現かわからない、朧気な記憶の中。聞こえる声がある。視覚情報の薄れたそれが、現実の物だったかどうかは分からない。それでもその中には少女自身の声もある。笑っているのだ。誰かと一緒に。時折その声が途切れるのは、それが食事風景だからだろう。その見えない記憶の中では母と誰かも笑っている。
両親と兄と少女。四人でもう一度食卓を囲むこと。この不確かな記憶を現実へと戻したい。それが一日でも二日でも構わない。それが、少女の夢だった。
歌姫には歌があった。それでもそこに心はなかった。空っぽの歌。
唯歌が好きで歌っていた。それでもそこに意味はなかった。だから街ゆく人の足を止めることなど出来なかった。精々闇に融け込む黒いドレスを一瞬闇から切り離し、好事家に一晩の誘いを口にさせる程度の歌だった。
思い詰めてもいた。望むような大金が手にはいるのならそれはそれで構わないとも思い始めていた。それでも女なんて星の数。壊れたら捨てられる。捨てられたらそれでお終い。使い捨ての道具。ミイラ取りがミイラになっては駄目なのだ。だから金は要るが、健康な身体も必要だった。
それでも母のためには金が要る。最後までちゃんと真摯に歌を聞いてくれた人。そんな人ならその手を取ってもいいかもしれない。そんな賭を少女は自分に科した。
そんな賭を初めた夜に、現れた少年が一人。彼は暖かな陽色の髪。夜の闇でもその輪郭を明確に表していた。それでもその顔を、はっきりとは思い出せない。すぐに帽子を目深く被ってしまったから。
彼が歌の対価として置いていった沢山の金貨。それがあったから、思い詰めていた心もしばらくの家計も救われた。言葉少なに消えていったその少年に、もう一度会いたくて……少女は同じ時間に同じ場所で……同じ歌を歌うようになった。言いたかった言葉はありがとうと、もう一つ。少女は少年に、そのどちらも伝えることは出来なかった。後者に至っては伝えることさえ許されないのだ。
「……っ、クロシェ…兄さん」
兄は冷たい土の下。少年も冷たい土の下。噂が真実なら父も同様。夢は夢のまま消える。それが叶うことは永遠にあり得ない。
盛り上がった土の上、ポタポタとこぼれ落ちていく涙に少女は嘆く。嗚呼、むしろ此方が夢ならばどんなに良いかものか。
目を開けて、目覚めれば消えてしまう夢。その向こう側には父も兄もいる。母も病気になんてかかっていない、そんな場所がそこにあるのなら……こんな夢など捨ててしまって構わない。
早く目覚めないものか。瞳を閉じたり開いたり……それを繰り返す度に涙がこぼれる。それでもこの夢は覚めない。
それでも諦めきれずに繰り返せば繰り返すほど、こここそが現実なのだと痛いほどわかってしまう。それでも逃げ出してしまいたい。どこかへ。何処へ?
そんな少女の背中に迫る一つの足音。
「やぁ、お嬢さん」
「金貸しレーヌ……あなたが私に何の用?」
「何の用とは相変わらず君はつれないな、今日が何の日か忘れたとでも言うのかな?」
にこやかに少女の前に現れたのは、紳士服に身を包んだ一人の青年。顔立ちは美しいのに人を突き放すような笑みを浮かべた不思議な男。
「どんな事情であれ、約束を破るのはよくないことだ。君は返済期限を守れなかった。そうだね?」
その金貸しは、街中の高利貸しをまとめる頭。街の裏側の支配者のような男。少女に金を貸したのがその下っ端であれ、元を正せばそれはこの金貸しも同然。
返済できなかった場合、少女の処遇を決める権限を持つのもこの男。
「…………と、本来なら君のその後を決めたい所だったんだけれど、君の代わりに支払いに来てくれた人がいてね、残念ながら返済されてしまった。おまけに君が私から金を借りる必然性も消えてしまって私も困っているところだ」
「どういう……こと?」
「いや、保険というのは偉大だなと言ったまで」
「母さんに何をしたの!?」
そこまで言われて少女は気付く。そう言えば、寝坊をして急いで家を飛び出した。母がいたかいなかったか、確認するよりも早く。
「私は何もしてはいないよ。唯、彼女が自ら自決しただけさ。君の家を昼頃訪れたときにはこの手紙があってね……夕暮れには近場の水辺に浮いているところを発見された」
「……そんな」
「あの大泥棒が自分の息子と知って余程ショックだったのか。或いはこれ以上君に迷惑を掛けるのも辛かったのか」
金貸しは何処で手に入れたか少女が見当もつかないような事柄を、金を使って仕入れたのか多くを知っていた。そんな怪しげな金貸しから手渡された手紙は、母の遺書。そこには金貸しが今まとめたような言葉がもっと長い文章で記されていた。
兄と母。一日の内に二人も大切な家族を失った。世界にたった一人取り越されてしまった我が身を知って、少女は冷たい土に膝をつく。そうなることが全て計算の内だったとでも言わんばかりの洗練された優雅な仕草で、天涯孤独となった少女へ金貸しは手を差し伸べる。しかし少女は顔を背けた。
「今の職場も首になったんだろう?いい加減私の申し出を受け入れる気には?」
ある夜に……歌っているところに客として現れた金貸しは、その時から度々少女の元を訪れ歌姫を辞めるように少女に言った。しかし少女がそれに頷くことは一度もない。
「…………私を娼婦にでもするつもり?」
「下僕共の口の悪さは勘弁願いたい。私はそんなつもりではないのだけれど……下まで上手く伝わらなかったことは素直に詫びよう。それでも君は私の所へ来るべきだ。もう足枷もなくなっただろう?君は自由なんだよお嬢さん」
「母さんをそんな風に言うのは止めてっ!足枷なんかじゃない!私の大切な母さんよ!」
「君はおかしな事を言う。母親なんて唯の他人だろう。唯、君をそんな場所に落としただけの。君のような才能溢れる人を社会の底辺に産み落としたというだけでなく、君の大切な時間を、つまりは金を彼女は貪った。どうして君が彼女を憎まないのか私には不思議でならないよお嬢さん」
「私にはあなたこそわからないわ。どうしてそんな言葉が言えるの?そんなの当たり前でしょう?世界にたった一人の私の母さん、家族だったのよ!それを他人だなんて口が裂けても言えないわ」
怒りの力で少女は冷たい土を蹴り上げ立ち上がる。少女は金貸しを睨み付け、凛と言葉を響かせた。
「貴方はこの街の、この世界の全てをお金で言い表せるとでも思っているの?」
「ああ、勿論」
至極当然と頷く金貸しに、少女は首を振ってその答えを拒絶する。
「そんなの絶対おかしいわ!」
「そんなことはないさ。金さえあればこの世の全ては手に入る。豪邸もご馳走も薬も、地位も権力も、そして金があれば人間だって買えるだろう?」
「…………そんなの、身体だけだわ」
「さて、それはどうだろう。なんなら試してみるかいお嬢さん?」
「お断りだわ。私には…………仕事があるもの」
「まだあんな暗がりで歌うのかい?君が聞かせたい相手ももういないのに」
軽い溜息で金貸しは肩をすくめる。
「君の歌は確かに一つの才能だ。一度君の歌に耳を傾け君をじっと見つめれば、誰もが痲薬のようにその虜になる。それでも君の顔がよく見えなければ意味はない。君は君の兄さんと違って、印象的な子だから」
普通すぎる少年……誰の記憶にも残らない顔を持つ兄。その妹ははっきりとした顔立ちで、空気の中に明確な輪郭をそこに残す。顔の造形がそこまで異なるわけでもないのに、相手に与える印象が二人はまるで異なった。
そんな少女の才能に酷く入れ込んでいる金貸しは、無駄に装飾された長ったらしい言葉で必死に掻き口説こうとするも少女の視線は冷たくなるばかり。
「ねぇ、小夜啼鳥のお嬢さん。いくら君の声が綺麗でも止まり木の上まで夜の獣は足を運ばない。近場の肉に噛み付いて、嬌声を上げることで空腹を満たす。その声は君の歌はその低俗な声に掻き消されてしまうんだ。だから私は思うんだよ。君があんな所で歌っているのは実に惜しい。君はもっと金を稼げる。私がそのための舞台を用意しよう!君はもっと広く明るい、太陽の下で歌うべき人間だ!」
「……そんなの嫌よ。……確かに生きていくにはお金は要るわ。だけど私は歌にそんな価値を付けたくない。だからあなたのようにお金集めのための道具にしたくないの。歌は無価値だからこそ意味がある。無意味ではないのよ」
「商品価値の他に利用価値が歌にあるとは思えないが……」
「……言葉はきっと空気なんだわ。そこにあって見えないし触れられない。それでもそこにあって人を生かしてくれるもの」
「それでもお嬢さん、歌では腹は膨れない。それだけでは生きてはいけない。そうだろう?」
「それならお金だってそれだけではお腹いっぱいにならないわ。貴方は金貨を焼いてソースでもかけて食べているのかしら?」
「いくらグルメな私でもそれは流石にやったことはないな。君はそんな風にお金を使っているのかい?」
「嫌味な人ね、そんなはずないでしょう?大体……もう私がお金を借りることはないのだからあなたとこうして話をする必要もないはずだわ。私のことは放っておいて。歌えるのは別に私だけではないのだから、私に構う必要はないはずだわ。私より上手く歌える人なんか探せば何人だって見つかるわよ」
「……言われてみればそれもそうだ。君の笑顔や声は確かに愛らしいが、君以上の歌姫は幾らだっているにはいるね」
問答の末少女にそう指摘され、金貸しは我に返る。少女の言葉はもっともだ。それなら何故自分は彼女を手に入れようとしているのか。
仕事の過程を楽しめそうな物件だから。金儲けに繋がるから。
それでもより多くの金を生むためなら、もっと迅速な仕事。時は金なり。それは確かな言葉だ。時間を費やす意味がそこにないなら、費やした以上の金が返ってくることが保証されていなければこうしていることはまるで無意味だ。それならば今自分がしていることは何だろう。金貸しは首を捻る。
「ソネット?」
意見を尋ねようと金貸しが視線を向けた先、少女の姿は既になかった。
*
家の場所は金貸しに知られてしまっている。帰りを待つ母ももういない。そんな家に帰る気も起きず、少女は夜の街を一人歩いた。
行く宛などない。それでも立ち止まるわけにはいかない。
下心丸出しの笑みを浮かべる男達、それをあしらうように愛想笑いを浮かべる女達。それが夜の街。金が行き交い、金が飛び、偽りの愛に彩られていく街。足を止めればその中に引き込まれてしまいそうで怖かった。時折呼び止められる声を振り払い、声から遠離るように足を進めて……体力の限界というところまで来た時には、見知らぬ路地に迷い込んでいた。
困ったことになった。そんな風に少女は考えたが、すぐに思い直す。
残された時間。何のために、誰のために?それがどうして自分の中にあるのかわからない。だからそれを無駄に消費しても何も困らない。夜の闇は一寸先は闇。まるで自身の未来のよう。そう思えば引き返すのは癪。見知らぬ場所でも構うものかと前へ前へと足を進める少女の前に、一軒の店が目に入る。
そう言えば今日は何も口にしていなかった。ポケットを探れば僅かの金もある。背に腹は代えられない。いくら悲しくても腹は減る物だ。現金な自分の身体に溜息を吐き、少女は店の扉を潜る。
「はいはい、いらっしゃい……悪いんだけどもう今閉店するところでね……」
出迎えてくれたのは一人の老婆。彼女が顔を上げると同時に鳥の声。何やらリアルすぎる造形のハトが飛び出す奇妙な鳩時計が、もう9時になったと教えてくれる。
鳩が豆鉄砲を食ったようという言葉があるが、老婆が少女を見つめる表情は正にそれ。
「あんた……無事だったのかい!?まったく年寄りにいらん心配かけるんじゃないよ!寿命が三日縮んだよっ!この年での三日が如何に貴重かってのをお前さんはわかってないね」
「あ、あの……何の、お話ですか?」
「ん……?」
少女の声を聞いた老婆はしわくちゃの眉間と目元に更なるしわを寄せながら、少女の顔をじっと覗き込む。
「おや、人違いかい?すまなかったね……うちの常連によく似ていたもんでね」
老婆が寂しげに苦笑。
「……間違えたお詫びだよ。店終いだけど一食あんたに食わせてやることにしようかね」
店の戸締まりを始めた老婆。それを唯待っていることが出来なかった少女はその作業を手伝うことにした。先程の話の続きを尋ねてみたかったという理由もある。
「いや、ありがとね娘さん。助かったよ」
老婆は愛想良く笑い、厨房へと戻って食器を乗せた盆を運んでくる。そして盆をテーブルへと置き一息吐いた後、少女が尋ねたいことを老婆は知ってか知らずか語り出す。
「時間泥棒って知ってるかい?」
「時間泥棒……?」
知っている。こくんと頷く少女に老婆は微笑んだ。少女の表情がその名前に否定的な色を浮かべなかったからだろう。
「あいつはうちの常連だったんだけどね、いっつも閉店間際に客が捌けたころにやって来て、残りの飯をたかりに来る悪ガキさ」
嬉しそうに、少しだけ誇らしげに、けれど呆れた風な言葉を装う。……それでも語る口は愛情に満ちていた。
「犬でも三日飼えばって言うだろ?……いつの間にか孫みたいに可愛くってね。お互い減らず口ばかりだけども、それなりに楽しくやってたもんだ」
この店に、兄が来ていた。そう思うと差し出されたスープのように店の空気が優しく温かいもののように思えて泣きそうになる。目に見えない空気の中に、その息吹が……感じられないかと、少女は瞳を閉ざしてじっと老婆の言葉に耳を傾ける。
「…………でも神さんってのは酷いもんだ。あの子が一体何を盗んだって言うんだか。父親の次はあの子の命まで盗みなすった。殺されるようなことをあの子は何にもしていないっていうのに……」
父親を殺された少年。彼が選んだ復讐は、逃げること。
父を殺した人間を殺すのではなく、奪われた時計を盗み返した。そして自身が時計となった。日が昇り沈むまで、太陽のように人々の生活を見守った。下手くそな歌で歌い街を駆け抜け、真実の時を刻んだ。それでも神が彼にしたことはと言えば、そんな彼を刻むことだ。
真実を騙ることが許されて……真実を語ることが許されない。それが世界という物なのかと少女は酷く悔しい気持ちになった。
「娘さんや、どうしてあの子が親父さんの後を継がなかったかわかるかい?」
時間泥棒の父親は時計工。そんな噂話が街では囁かれていた。そしてそれは真実だと少女は知っている。けれど時間泥棒が時計工ではなく時間泥棒になった理由は知らない。少女が首を振れば、老婆は苦笑して口を開く。
「あの子の父親は人柄も良いし職人としての腕も良かったんだけども金を稼ぐっていう頭のない御仁でね。そこの時計も売れば金になるだろうに、引っ越しそばのノリで作った時計を近所に無料で配ってまわったんだよ。材料費だってあるだろうにねぇ、気の良い馬鹿な男だよ」
ああ、確かに甲斐性無し。少女は思わず吹き出した。少女が父について尋ねる度に、母はいつも苦笑しながらそう言っていた。生活がかかっている身からすれば冗談じゃない話だが、死んだことのことを悪く言う気はしない。今では笑い話。そんな風にも聞くことが出来た。
顔も思い出せない父のこと、それを他人から聞かせられるというのも妙な話。それでもそれはほんの少し少女の心を浮上させた。
「クロシェットの坊やはそんな親父さんの背中ばかり見て育ったもんで、女房代わりにそんな親父さんを叱り飛ばしていたものさ。うちまであの子の怒った声がよく聞こえてきてたね。親父さんがそんなもんだから、あの子は自分がしっかりしないといけないってんで、……たまにうちに料理を習いに来たりしてたね。親父さんが死んでからは自分で作るってことをすっかり忘れちまったみたいだったけどね」
老婆はとうとう兄の名前を口にする。いつもそう呼んでいたのだろう。癖のように自然にその単語が口から零れた。少女にはそれが少し羨ましかった。
昔は何度も口にしていたはずの名前が、今呟いても耳に馴染まない、遠くへ行ってしまった言葉のように感じられる。
「まぁ、そんなんだから……時計工なんて親父さんの後を継いでも金にならない。生活していけないって思ってたんだろう。子供の癖に可愛くないというか、リアリストというか夢のない子でねぇ……その分親父さんがいくら年を取っても子供みたいに夢ばかり語る人だったんだけどね。まぁ、何だかんだで仲は良かったよ。釣り合いが取れていたんだろうね」
老婆の語る二人の生活は、とても裕福とは呼べない代物。最初に歌を聞きに来たとき、少年が置いていった金は彼にとってなけなしのものだったのだろうか。今更ながら悪いことをしてしまった。そんな風に少女は思う。
こちらも困っていたから本当に助かったけれど、無理を言ってでも返すべきだったのかもしれない。二度目の邂逅も満足に歌えなかった。対価分の歌を彼に届けることはもう叶わないのに。少女の顔が沈むのを見た老婆もそれに続き、少年の苦悩を語る。
「でも親父さんを亡くしてから、あの子はいつも悔いていた。もし時計工の仕事をちゃんと学んでいたなら親父さんの後を、思いを継げたんだって。あの子があんなことを始めたのは……あの子なりに親父さんの跡を継ぐ方法を見出したからなんだろう」
「跡を……継ぐ……」
何気なく呟かれたその言葉が、少女にはとても印象的だった。父が目指したもの。兄が目指したもの。そのヒントがこの場所に、その言葉に眠っているような気がしてならない。
「立派なもんだろ?もう貰ってから何年も経つのに、この時計は一分だって遅れない。壊れたこともこれまでないよ」
老婆が指さす鳩時計。少年の……そして少女の父が作った時計。
父の形見で兄の形見……金時計はまた奪われた。取り戻したいとは思う。それでも兄と同じように首尾良く盗み返せる自信はまだ無い。
「……あ!」
時計、時計、時計。少女は思い出す。
(そうだ、私の家にも時計はあった)
母が身につけていた時計。父から求婚の際に貰った時計。指輪を模したその時計を母は肌身離さず持っていた。
(あの時計も……まだ壊れていなかった)
父は腕の良い時計工。一分一秒も遅れない精巧な時計を作る。まだあの時計がちゃんと動くなら、少女も正確な時を刻むことが出来る。
生きていくには金は必要。家族を支え、家庭を守るためには金が必要。それでもたった一人で生きて行くにはそこまで必要ではない。いざとなったら山に入って草を摘んでもいい。水辺に赴き釣りをしてもいい。
なりふり構わず生きるなら、人はそれなりに生きていけるものだ。金などなくなって……その気になれば人は生きられる。
仕事か家族か。それは父も兄も母も遭遇した問い。それが今少女の前にも横たわる。失うもはもう何もない。家族など、もう一人もいないのだ。
(それなら私は……仕事を選べる。そうよね……兄さん)
父の思いを継いだ兄。その兄の思いを自分は継ぐことが出来るかもしれない。
無念の内に散った兄。彼がやりたかったこと。その思いを継ぐことで、兄にしてやれることがまだ残されている。
(私は家族を作らない。誰かを好きになんてならない。それでいいんだわ)
この街の全ての人のために、真実を歌う。それはきっと兄のため。兄が守ろうとした物を、自分が守るのだ。
いつか自分の中の時計が止まるその日まで、歌い続ける。
天上が或いは地獄がどれ程遠くにあるかはわからない。兄がどちらにいるのかもわからない。それでも歌い続ければ、いつかは彼に届くだろうか?
(こんな私の歌をクロシェ兄さんは喜んでくれた……)
言いたいこと。言えなかったこと。伝えたいこと。伝えられなかったこと。沢山ある。後悔も、感謝も一杯。
いつかもう一度会える時まで、胸を張って生きよう。
「お婆さん、兄さんは死んでませんよ」
少女は顔を上げて老婆に笑みかける。目の端には涙が浮かんでいたけれど、少女は毅然とした態度でそう言い放った。
「今日から私が兄さんになります。時間泥棒は……まだ死んでいません」
*
朝焼けと共に鐘を鳴らす小さな影。
さぁ新しい一日の始まりだと、少女は思いきり紐を引く。軽やかに響く鐘の音。その音に飛び起きる人々は口々に、言い慣れた言葉を交わし合う。
「時間泥棒が出たぞ!!」
「時間泥棒が出た……ぞ?ってえ!?」
「時間泥棒っ!?」
「時間泥棒だって!?」
街はちょっとした大混乱。それを眺めながら少女は笑う。
「見てよ兄さん。みんなあんなハトみたいな顔しているわ」
指輪時計に語りかける姿は、かつて懐中時計に語りかける少年によく似ている。勿論少女がそんなことを知るよしもなく、愛おしげに時計を見つめる。
「それじゃあ今日も時間を盗み返しに行きましょう?」
時計塔を駆け下りる少女は少年と見紛うような短い髪。
兄を真似て髪を切り、老婆に教えられた家から兄の服を持ち出した。兄の形見として埋めずにとっていた帽子を目深く被れば、誰もそれが少女だなんて気付かない。
時間泥棒はすぅと息を吸い、大声を張り上げる。足の速さには兄ほどではなくともそれなりに自信があった。少女は遅刻ギリギリまで寝過ごして毎朝職場に走って行っていたのだから。
唯、これからは一日たりとも寝坊が出来ないというのは厳しいなぁと思いながら、歌姫を辞めたのだから寝坊癖も治るだろうと思い直した。
月の下で歌うことはもうない。太陽の下、革靴で石畳を蹴る。蹴り続けるのだ。今日も明日も、時間が続いていく限り。
「なんだって!?それじゃ昨日のは偽物か?」
「それにしても……時間泥棒、歌が上手くなっていないか?」
「一体どういうことなんだ!?」
(兄さんの歌をそこまで言うことないじゃない。私は結構好きだったんだけど。でも、やっぱり上手ではなかったかな)
昔からそうだった。泣いてる自分のために歌ってくれる兄……けれどそれがあんまりにも下手くそで、いつの間にか笑ってしまっていて……
通り過ぎる雑踏の声を聞きながら、少女は兄の歌を思い出し……少し笑った。