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4:兄と妹

 もしももう一度君に会えるなら、まずは何から話そうか。

 言いたいことは沢山ある。けれど、最初に何を話そうか。

 いや違う。

 たった一つしか話せないのなら。一言しか言葉を交わす時間が許されていないのなら、僕は何を伝えよう。

 そうだ。せめて一言。

 僕の名前を伝えたい。彼女にたった一度で構わない。その名を呼んで貰えたら……いや、それは無理だな。僕は犯罪者だから。

 それならせめて……一度だけで良い。彼女の名前を僕に呼ばせてもらえないだろうか。僕はそれだけで救われるような気がする。

 君の歌が好きだとか、君の声が好きだとか。歌っている君が………君が好きだなんてとてもじゃないけれど言えるはずがない。

 そうだ。だから彼女の名前を呼ばせて欲しい。それで僕はもう振り切ることが出来る。僕の心は彼女の兄に戻れるんだ。それならもう会えなくても構わない。僕は時間泥棒として時間を盗み続ける。彼女の他人として生きていく。

 だけど、他人の振りをして通り過ぎる窓。気恥ずかしさと自分の身の上。それが僕の言葉を枯らしてしまう。


 咽からヒューヒューと掠れた息が出る。声を出そうと腹に力を入れれば、撃たれた場所から血が噴き出す。

 逃げなければ。もっと早く走らなければ。

 今を逃げ切れば、何もかもが上手くいく。ただ逃げるだけ。戦う必要なんて無い。どうせ勝てるはずがないんだ。

 いつもなら簡単にできること。それがどうして今日は上手くいかないのだろう。

 引きずる足じゃ上手く走れない。後ろから足音が近づいてくる。負けるものか。今日さえ逃げ切れればそれでいい。もう走れなくなってもいい。せめてこの金を渡さなければ。

 そう思うのに、この足はどうして言うことを聞かないんだ。これは僕の足なのに。僕のものなのに、そうじゃなくなってしまったみたい。

 走れって言っているのに勝手に転んで躓いて……大事な金貨をぶちまける。両手でそれを拾い集める。足音はもう間近に迫ってきている。全部拾う時間はない。適当に掴んだ分をポケットに詰めて立ち上がろう……そう思い力を入れた掌に走るは痛み。大きな靴で思いきり指を踏まれているのだ。

 ああ、時間がない。時間がない。僕にはもう時間がないのだ。彼女と、たった一言の言葉を交わす時間さえ……彼らは許してくれないだろう。


 *


「ぎゃあああああああああああああああやっちまったぁあああああああああああああああ!!!何で何で何でもうこんな時間なの!?」


 少女は絶叫。窓の外の日は高く……はない。低い場所にある。ただし方角が正しくない。あの陽はこれから昇るのではなく、沈むのだ。時刻は夕暮れ。

 少女は走る。しかし、次第に足は遅くなる。

 工場になんて言い訳をすればいいのか。解雇されたら新しい職を……?他に雇ってくれる場所なんて本当にあるのだろうか?

 寝坊をしたせいで高利貸しへの返済が出来ていない。これから自分たちはどうなってしまうのだろう。不安で仕方がない。このまま走って、何処へ行けというのか。何処へ行ってもそこに希望などありはしないのに。

 とうとう少女の足が止まってしまう。行く宛もなく、かといって家にも帰れず……街の中をふらふら彷徨う。朝と夜の狭間……夕暮れという不思議な時間帯。昼の人々が家へと帰宅し、夜の人々が街へと繰り出すその時間。誰もが自分のことで手一杯。他人に感心などないはずの街。そんな街中が騒がしい。いつもと違う騒がしさ。会話など交わすはずのない別の世界を生きている昼の人間も夜の人間も……顔を見合わせあっちこっちでひそひそひそと立ち話。


「あの……何かあったんですか?」


 これはただ事ではない。それに気付いた少女は近場の人間に理由を尋ねる。


「ああ、君まだ知らないの?」

「ほんと、大ニュースよ!あの時間泥棒が捕まったの!」

「時間泥棒が……捕まった!?」


 不意に少女の全身を寒気が襲ったのは、夕暮れの風のせいではなかった。


「あんな普通の少年が時間泥棒だったなんてなぁ……」

「そうねぇ……流石にちょっと可哀想だったわあんな子供だとは思わなかったもの」

「おいおい、それは言い過ぎだろ。あいつは泥棒だぜ。悪人だ。必死に働きもせずに人の物を盗むような奴は罰が当たって当然だ。俺たちは死に物狂いで働いてるんだ」

「あのっ……それっ!どこですか!?」

「え、あっちの通りの方だけど……」


 通行人に一礼して少女は聞き出した通りへと駆けだした。

 聞き出したその場所は少女の家の付近の路地裏だ。その路地に辿る道に、点々と転がる金貨。それが彼への道しるべ。でもそれは金色以外の色もある。薄汚れた暗い色。血濡れた金貨に導かれ、少女はそこに辿り着く。そしてようやく理解する。通行人達の言葉の意味を。


「…………っ!?」


 確かにそこに、彼はいた。小柄な少年だ。それが転がっている。身動き一つ取れないまま……ぴくりとも動かない。

 別に彼は縛られてもいない。彼は自由だ。それなのに彼は動かない。

 少年はもう、走れないのだ。

 野ざらしの彼の足には無数の傷跡。ぽっかりと空いた穴がある。体中傷だらけ。私刑にでも遭ったのだろう。

 少年には片手がない。すぐ傍に切り落とされたそれが落ちている。折り曲げられたバラバラの指も転がっている。彼は最期まで何かを掴んでいたのだ。それを死んでも放さなかったのだ。だから無理矢理それを略奪者は奪っていった。おそらくそれは、彼がいつも大事にしていた金時計だろう。

 もう片方の手は身体にこそついてはいるが……おかしな方向に拉げている。その下には大事そうに守られている血まみれ金貨。時間泥棒が今回盗んだのは時間ではなく、金貨だった。どうして彼はそんなものを盗んだのだろう。彼も人間である以上、生きるためには食べるためには金が必要だったのだろうか?少女は漠然とした心でそう考える。

 憧れていた存在が、唯の泥棒に成り下がった姿。理想と現実の相違がそこにある。

 少女は時間泥棒がとても凄い存在だと勝手に思い込んでいた。それでもそこに転がっている死体は普通の子供。自分とそう年も変わらぬ少年の姿。あっけなく殺されてしまう、死んでしまう……唯の普通の……人間だった。

 ずっと彼には伝えたい言葉があった。けれどそれはもう彼の耳には届かないのだと知って……何とも言えない思いが芽生える。

 とても空虚なその気分。心の中が空っぽになってしまったような感覚。引き寄せられるようにふらふらと遺体に近づいて、少女はあることに気がついた。


「……あ!?」


 その少年には見覚えがある。正確にはその帽子に。真深く被ったその帽子に素顔を隠している少年。二度も歌を聞きに来てくれた相手だ。暗がりの中で出会った彼の顔はよくわからない。それでもその帽子のことは覚えている。


(あの人が……時間泥棒だったの!?)


 確かに思い当たる節はある。あれは昨日の話だ。少年に会ってすぐ高利貸しが現れて……いつの間にか少年は消えていて、代わりに時間泥棒が現れた。高利貸しは彼を追って消えていき、少女は理不尽な請求から助けられたのだ。

 毎朝起こしに来てくれるだけじゃない。工場主とのトラブルも、高利貸しとの揉め事も……いつも助けてくれたのは時間泥棒。

 たった一言、ありがとうと伝えることももう出来ない。それが悔しくて仕方がない。それを認識した途端、少女の両目からあふれ出す涙。

 何も言えないまま彼の何もかもが奪われていく。失われてしまう。忘れられる。消えてしまう。

 時間はまた奪われた。彼が街を歌い走ることはない。この街はまた嘘の時間に騙される。金は金のあるところに集められ、人々は時間に繋がれた奴隷のように酷使されて死んでいく。そのことに気付いている人が一体どれほどこの街にいるのだろう。

 通り過ぎる人々は、少年のために涙など流さない。悪人が悪人らしい最期を遂げたのだと鼻で笑っている。皆が自分のことで手一杯。

 彼の行動を有り難く思いながらも金のために彼を捕らえて売ろうとしていた人間達だ。懸賞金の消えた時間泥棒にはもう何の興味もない。あるのは未練。ああ、もっと早く捕まえられていれば今頃こいつを殺した人間が手にした金は自分の者だったのにと悔しがる声ばかり。

 街が嘘に飲み込まれていく。誰も真実なんて見えていない。目先のことで精一杯。この少年が何を目指していたのかなんて誰も知ろうとはしない。いや、少女自身わかっていないのだ。何故この少年が最後の最後で金貨なんてものを盗もうと思ったのか。

 今はもう何も語らない彼にそれを尋ねたかった。彼をもっと深く知りたかった。


(そうだ。私は……この人の名前さえ知らないんだ)


 何か彼に繋がるものを求めて、そっと彼の帽子へ手を伸ばす。そこに名前くらい記されていないだろうか。

 もし少年が素顔を晒していたなら、少女は彼を忘れてしまっていたかもしれない。それでもそれが隠されていたから……それがどこか印象的で、記憶に留められていた。そっと、彼の帽子を外し……少女は今度こそ、絶句した。


(クロシェット…………?)


 その名前はどこかで聞いたことがある。いや聞いたと言うより……口にしたことが何度もあったはずの名前。


(…………お兄ちゃん!?)


 視線を手にした帽子から少年へと戻し、その顔を少女は凝視する。名前一つ。それでそれまで見えていなかったものがそこから見いだせる。

 忘れかけていた兄の顔。その面影。何年も会っていない。それでもそれが自分の兄なのだと知ってしまった。


(お兄ちゃんが……、時間泥棒…………)


 時間泥棒。彼の噂は何だった?

 時計工の息子。貴族に父を殺されて、父親の最高傑作……金時計を奪われた。そして時計と時を盗み返した大泥棒。

 少年の死は、父の死だ。家族の二人がもうこの世の何処にも居ないのだと無惨に少女に死体は語る。

 少女は路地に座り込む。他にもう、何をすればいいのかわからない。何もしたくなかった。何も聞きたくない。見たくない。何故彼が金貨を盗もうとしたか、わかってしまったのだ。

 街の喧噪。心ない言葉が右の耳から左の耳へ……飛び込んでくる。何も知らない人間達が、時間泥棒の死をせせら笑っている。根も葉もない噂。自身の優位を確認するのが目的の……口先だけの同情。

 人々の悪意の言葉を打ち消すように、自分と彼を守るために少女は口を開いた。大声で歌えば何も聞こえなくなる。だから泣きながら歌った。

 やがて何も聞こえなくなる。打ち消したのではなく、少女の歌は人々から言葉を奪ったのだ。少女があまりに悔しそうに悲しそうに歌うものだから、誰も何も言えなくなった。聞く者の耳から少女の感情が響き渡り、伝染する沈んだ心。

 夕暮れを告げる鐘は鳴らない。代わりに街には少女の歌が響き渡った。

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