3:時計工と時間泥棒
「ただいま……父さん」
少年が家の扉を開いても、今は誰の声も聞こえない。明るく出迎えてくれる人は、もうここにはいないのだ。いや……どこにもいないのだ。
*
それが途切れたのは、少年が少女に会った翌日のこと。
今度の仕事が上手くいったら、一生遊んで暮らせるような大金が手に入る。職人としてのプライドをねじ曲げ、時を支配しようとしている権力者に時計を捧げる。
そうすることで人々から時間が奪われてしまうことになってしまうのだとしても……妻と娘を連れ戻せる。
「クロシェット、はいこれ」
父親から手渡された紙切れに記されていたのはある番地のある建物。それが二人の居場所を記したものなのだと知って、少年はすぐに家を飛び出した。母に、妹に会いたい。……でもそれは父の仕事が成功してから。それならせめて二人の暮らす場所を一目見たい。そこから聞こえるだろう二人の声を、一時でも聞いてみたかった。
もう何年も会っていない。母の顔も思い出せない。少年は自分が男だから時計工の跡継ぎとして置いて行かれたのだと知っている。だからこそ、絶対に時計工なんかなるものかと臍をねじ曲げていた。
言い訳をするなら手一杯だったとも言う。父親は時計作り以外に何も出来ない男だったから、家事全般は全部少年がやらなければならなかった。非効率すぎる父の家事を見ていられなかったのだ。その傍ら時計作りの勉強なんて、とてもじゃないが時間が足りない。一日は24時間しかないのだから。
そんな忙しない日々の中、母と妹の顔も声も薄れてしまったが、それでも恋しさまで薄れることはなかった。
妹はどんな娘に成長しているだろう。まったく想像がつかない。紙の場所に至る道すがら、二人の姿を想像しては打ち消して……少年は街を歩いた。
古ぼけた建物。その一つの階を借りているらしい母と妹。その階から聞こえてくる声は鼻歌交じりの歌声だ。綺麗な声。決して大きな声ではないけれど、空気を震わせ……響く、凛とした歌声。
(……あれ?この歌、どこかで……)
その歌に歌詞はない。それでもその旋律には聞き覚えがあった。
「………!?」
少年が思い出したのは、広場であった少女の顔。少女が歌っていたそれと、今聞こえてくるものは同じもの。
「ソネット?そろそろ時間じゃないかしら?ソネット……?……もう!あんたって子は鼻歌歌いながら二度寝なんて器用なことして……、遅れるでしょう?」
「あと~五分~♪……」
「ソネットっ!」
「……え?あ、母さん!嘘っ!もうこんな時間!?工場遅れるっ!行ってきます!」
ドタバタと勢いよく扉から飛び出した、寝癖混じりの髪の少女。咄嗟に物陰に身を潜めた少年に気付くことなく、大急ぎで階段を飛び降り走り出す。
「嘘……だろ……?」
昼間の少女は黒いドレス姿でこそなかったが、広場で出会った少女だと確信するには十分。来た道を引き返すだけなのに、少年の足取りは重かった。
「あの子が……ソネットだったなんて…………」
自分の妹だとも知らず、うっかり一瞬でもときめいてしまった自分を恥じる少年。その後襲ってきた虚脱感と罪悪感には深い溜息を吐かざるを得ない。
「あそこの……そうそう。あの家の奥さん。娘さんと一緒に暮らしてる……」
「流行病に伏せったんでしょう?女手一つで子供育てるなんて大変よねぇ。無理して働いてたのが祟ったんでしょうねぇ」
何度目かの溜息の後、噂話をする女達の声が少年の耳に届いた。それが母と妹を指していることはすぐにわかった。
「最近じゃ、奥さんの薬のために娘さんが働きに出ているんでしょ?工場だけのお金じゃ足りないから夜も広場で歌っているらしいわ」
「広場?あんな所娼婦の溜まり場じゃない。あんな小さな子までそんなことをしなきゃいけないなんて、嫌な世の中ねぇ」
「あ、あの子はそんなことはしてない!」
あまりの物言いに、黙っていられなくなった少年はつい女達の会話に割り込んだ。
「彼女はただ、歌っているだけだ。歌姫だって立派な仕事だ」
別にそういう仕事を責めるわけではない。生きていくためには確かに金は必要だと少年も理解している。それでも少女は本当に、歌を売っているだけなのだ。少女は金のために生きてはいない。生きるために歌っている。身体でも売れば歌より楽に金は稼げるかもしれない。でも、それは使い捨ての商品。代わりの女は幾らでもいる。だから無理して病で死んでも構わないと客の誰もが思っているのだ。どうせ人間なんて放っておいてもすぐに増えていくのだから。そんな風に考えている。
だから少女は歌うのだ。歌は見えないし、形にも残らない不確かな商品だけれど、そこには確かな意思がある。彼女の代わりは居ない。誰かが同じ歌を歌ったって、彼女とそっくりそのままという風にはいかない。歌は生きた商品。彼女の歌を生産できるのは彼女だけ。彼女が生きている間しか販売されない期間限定の……有限な商品。死の溢れているこの街で、生きるために歌うからこそ、彼女の歌は人の足を止める力があるのだと少年は考えた。
だからこそ、その事実を下世話な世間話に変えて、事実をねじ曲げるその会話が、聞いていてとても嫌だった。女達の会話には同情ではなく嘲りの色しかないのだ。他人の不幸を本心から哀れんでいるのではなく、それを見下して馬鹿にして……そして汚らわしい者を見るように語るのだ。言葉だけなら立派な台詞を並べ立てながら。
「まぁ!何あなた突然……」
「行きましょ、どうせろくな子じゃないわ。人に向かっていきなり大声を上げるなんて教育が行き届いていない証拠よ。親の顔でも見てみたいわ」
女達はそんな捨て台詞を残し消えていく。その見送りもそこそこに、少年は家へと走る。
馬みたいに父の尻引っぱたいてでも今度の仕事早く終わらせないといけない。そんな風に考えるほど、追い詰められていた。
(母さん……)
金が足りない。金が必要。金さえあれば、母の病気も治せるし、妹が働きに行くこともない。金、金、金……。父の今度の仕事が終われば何もかもが上手くいく。元通り。
「ただいま……!親父っ……」
駆け込むように開けたドア。その先に転がっていたのは…………父親である時計工。
「……父さん!?」
揺すっても彼は起きない。それどころか、揺すった両手にべったりと張り付く色がある。休息に血の気が引いていく。何故?どうして?そればかりが何度も脳裏を駆けめぐる。
「そうだ………時計……」
荒らしたような形跡はない。ただ……家中の時計が壊されている。
物取りということはなさそうだが……もし仮に物取りの犯行だったなら、父が作っていた時計はどうなったのだろう。金時計には高価な部品ばかり使われている。例えまだ完成していなかったとしても溶かして売れば金になる。ふらつく足で、父の仕事を守らなければと……作業場へ。
作業場の中は他の部屋同様、滅茶苦茶に荒らしたような形跡はない。しかし時計を収めていた箱は空。箱の鍵も開けられている。これは父親自身が開けたのだ。そうするということは……その時計を渡すべき相手がここを訪れたからに違いない。
「くそっ………馬鹿親父っ!」
目先の金のため。飛びついた仕事。父がそれを引き受けたのは母のことを知っていたからに違いない。金が欲しかった。咽から手が出るほど欲しかった。だから客を選べなかった。だからロクでもない客に引っかかって、騙されたのだ。
*
ゼンマイを回す。流れるメロディ。それに合わせて歌ってみても、歌い方を知らない自分では調子外れの似ても似つかない何かを発するだけ。それに溜息を吐き、少年は旋律だけに耳を傾ける。
正確に時を刻む時計。これはゼンマイを回さなくとも半永久的に時を刻む機械時計。どういう仕組みで動いているかは時計について学んでこなかった少年には分からない。それでも絶対に狂わない時計は貴重。この時計を手にした貴族はあちこちの時計を狂わせて……この街の時を支配した。
父が殺されたのは、あまりに正確な時計を作ってしまったから。同じような時計を他の者に作られては堪らないと、……そう思ったのだろう。
それを逃げ足の早さだけが取り柄の少年が、盗み返して今に至る。時間泥棒とはそこから名付けられた呼び名。元々金も払わず材料費も払わず時計だけ奪った相手だ。取り戻しに行っても此方に非はない。
「金……金、金………か」
今自分は父親と同じ決断に迫られている。
人々を取るか、家族を取るか。
貧しい人々のために時を贈る。搾取された時間を人々の手に返す。それが時計を生み出すことが出来ない自分が、父の後を継ぐということ。それが時間泥棒。
時計工と時間泥棒ではやっていることは全く違う。それでも人に与えたいものはきっと同じだ。だから自分はこの街を走り回っている。父の姿を追っている。
それは後悔だ。自分が時計について学んでいれば、跡を継いでもいいと父に告げられていたなら。彼はどんな顔をしただろう。きっと喜んだ。いつものように優しく笑いながら、一つ一つ丁寧に教えてくれたはず。それでも時計作りに関しては妥協をしない人間だったから、叱られることもあったんだろう。そんなことこれまで一度もなかったけれど……
(父さん……)
言いたいこと、言えなかったこと。それでも伝えたかったこと。言えなかった言葉が自分の中をグルグルと回っている。回り続けている。その針が責め立てる。
父の遺志を継ぎ、時間泥棒を続けるにはこの時計が必要。それでも、これをバラして溶かして売れば金になる。
(母さん……ソネット……)
金さえあれば母の病気も治る。妹が朝から晩まで働く必要もない。高利貸しから脅しを受けることもなくなる。また言いがかりを付けられて、期限に間に合わなくなれば、歌姫なんか止めて娼婦になれと無理矢理連れて行かれるかもしれない。いつも傍で守ってやることなんか出来ない。時間泥棒の血縁だと周りに知れれば、あの二人がどうなるか。自分を誘き寄せるための餌として酷い目に合わせられるかもしれない。最悪、殺される可能性さえある。
(金さえ、あれば……)
それでも金があれば……二人を救うことが出来る。
職人としての父の思いを継ぐか、父親としての父の気持ちを継ぐか。心の天秤が左右に揺れ動く。どちらも大切なこと。できることならその両方を果たさなければならない。
「いや、違う。どちらか一つを選ぶ必要なんかないじゃないか!俺はどっちも守るんだ……」
それはひとつの思い付き。
「……そうだ、あんな奴………」
大切な父を奪った貴族。約束も守らなかった人間。報酬も此方は受け取っていない。それならその分の対価を、金を奴から奪ってもいいはずだ。金時計は失わず、金も手に入る。時間泥棒は続けられるし、母と妹も幸せになることが出来る。
(父さん……俺が守るよ)
父が守ろうとした人々の時間も、大事な家族も。
*
二度目の屋敷。忍び込むのは簡単だった。
少年は決して目立つ顔立ちではない。何処にでもいるような……それでもそんな人間は何処にもいない、一つの才能。三秒後には誰もが忘れてしまうような、空気に溶け込む平凡な顔立ち。
(金貨って重いんだな……)
速く走るに、その荷物は重すぎる。走ればジャラジャラと音が鳴る。忍込むには容易な場所も、逃げ出すには厄介な場所。この身一つなら兎も角、金貨という重荷が一緒なら話は別だ。
息を殺し、足音を忍ばせ……そっと一歩一歩歩みを進める。
「…………ん?」
その時暗がりの廊下で警備兵に出会して……少年は一気に走り出す。ジャラジャラと鳴る音に兵士は首を傾げる。もう顔も思い出せないしよく見えなかったけれど、子供がこんな時間に、この屋敷を訪れるなんておかしな話。この屋敷に幼い子供などいないのだから。
その疑問に、兵士は思い出す。そんな話前も聞いたことがあるような……と。
「時間泥棒だっ!!」
兵士の声に、他の見張り見回りをしていた兵士達も目を見開いた。
一度取り逃がした獲物。今度逃がしたら、今度こそ首が飛ぶ。二重の意味で。
「逃がすな!」
「そっちへ行ったぞ!」
滅茶苦茶に引き金を引く。今は自分の命が惜しい。そして金も惜しい。この不況のご時世、職を失うわけにはいかない。例え同僚を誤って撃ち殺したとしても、あの獲物を捕らえれば咎められることもなければ褒美が出る。
金貨の音が聞こえる方へ、兵士達は銃口を向け、発砲。転がる金貨の音。それを追いかけ、追いかけて…………