35:名無しの少年
昔は大好きだったのに、どうしても思い出せない物語。もう一度読んでみたいと思うのに、どうしても彼と再会することが出来ない。
誰しもそんな忘れてしまった本が、何冊かはあるものでしょう? タイトルも内容も今となっては朧気で……大切だった気持ちと、感動だけが鮮やかに胸に残っている。そんな大事な物語が。
彼の正体を私はよぉく知っている。彼は名無しの少年。彼の名はジャック、或いは彼女の名はジルと言う。勿論これは仮初めの名前で、彼の本当の名前ではない。
*
魂の抜け出た金貸しは、元の腕時計の姿となって……時を留める。もうそこに、誰の魂も入っていない。しかし器としては優秀、このまま転がしておくのも厄介だ。大富豪は腕時計をしまい込む。
「…………アムニシア? 如何しました?」
時の砂時計は食われた。しかしこぼれた砂自体にはまだ魔力が残されている。時を巻き戻すことは出来なくとも、かき集めれば何度か小さな魔法は使えるはずだ。
「ソネット……この砂、もう色がくすんでしまっています」
時の砂を使って、私は兄に会いに行こうと考えた。しかし女悪魔は大した驚きもしない驚きを露わにする。
(……砂の輝きが消えた?)
供給源が絶たれたならば、あの娘が全て死んだと言うことか? いや、些細なことか。こうして若い肉体を手に入れたのだから。
「街の何処かにはいるはずだ。私の目を使えば……」
監視は鐘時計にさせている。あの時計を作ったのはこの私だ。あの男の欠片を惑わし壊し……傀儡とした。監視目的で内部には割った僅かな私の魂を預けてもいる。あれを回収し、完全な私となって……あの人に会いに行こう。場所はその時知れるはず。
「……なるほど、そういうことか」
鐘時計の目で時間泥棒を確認しようとするが、何も見えない。
「ソネット?」
「……鐘時計が壊された」
「まぁ! なかったことにしますか?」
「頼めますか? 出来ることなら此方に回収もしたい」
「ええ、お安いご用ですわ」
悪魔が骨格のみの翼を広げた姿……これが彼女の現の翼。夢を司るアムニシア……彼女が翼に血肉を得る時は、それこそが夢なのだ。美しい漆黒の翼を得たアムニシアは、翼を砕き……再び白い骨の翼を背に纏う。先程と違うのは、目の前に倒れた鐘時計がいると言うこと。腕時計を使い魂を回収したところで、鐘時計も姿を時計に変える。リィンと呼び鈴が床に音を響かせた。
「これ、ソネットが時間泥棒だった時の鐘ですか? あの子達も服に付けていましたね」
「いいえ……これは私の鐘ではない。私が使っていたのはベルだ」
「ソネット……良い名前だろう? それは歌であり、この鈴の名でもある」
「!?」
「呼ばれたから会いに来たよソネット。直接会うのは久しぶりだね。鐘時計を通しては最近会った気もするけれど」
鐘時計……ではない。鐘時計に模らせた姿のモデルがやって来た。こんなことを私は望んでいない。
「アムニシア、どういうことですか?」
女悪魔を軽く睨むも、彼女の機嫌も良くはない。彼女が狙ってやったことではない様子。
「例えこの世界の神であれ、次元がそもそも違います。我々悪魔に干渉することも、従えさせることも彼には出来ませんわ。ただし、私を阻めるとなると……それは私の同僚が彼に関与していると言うことです」
「先程の小僧が?」
「いいえ……私の領分で私を打ち負かせるのは、一人だけ。その彼の気配もありません。あるとするならば……忌々しいあの女!」
不本意な展開に、怒りを抑えきれていないのだろう。アムニシアの顔から余裕が消えている。
「…………イストリアっ」
*
あの時計工はまだ趣味が良い方だ。赤いルビーの指輪時計で求婚をしたのだから。
「永遠の牢獄、終わらない悲劇! 好きだろうイストリア? この悲鳴の旋律が心地良いだろう?」
かつて私に「喜んでくれるだろうか」とにやけ面で語った馬鹿がいた。確か私は思わずその場で頭突きを噛ましてやったはず。
悲しげな音色を奏でる自動琴。それを差し出した男は、我々の世界では一応最高権力者。階級では末席の私からすれば、そりゃ玉の輿みたいなものだけど、生憎全く趣味じゃない。私の角が顔へと突き刺さり、男は短い悲鳴を上げる。
「こんの悪趣味ド阿呆監禁魔変態ストーカーっ! 使い魔塩撒いときなさい塩!」
「何をするイストリア! ……それは照れ隠しで求婚を受けるという意味か?」
「んなわけあるか!! お生憎様、私がこの姿でいるのはこの姿が気に入ってるだけだって何度も言ってるでしょ! 成体の悪魔は基本両性だ馬鹿っ! 私を女扱いするな! 百歩譲ってお前が女悪魔になってから出直して来い!」
ああ、それどころじゃない。こいつの妹は恐ろしい悪魔なんだ。敵に回したら非常に厄介。最悪の場合、私の快適魔王ライフがその日の内に終わってしまう。だからこいつには関わりたくないのだ。
「……聞きましたわイストリア」
「だから誤解も誤解! 私はあんたの自慢の兄貴なんてなんとも思っちゃいないわ」
「でしたら協力して頂けますわよね?」
あの日私にアムニシアが差し出したのは、まだタイトルのない……白紙の本。
「タイトルは、エフィアルティス。綴る内容は、私とお兄様の素晴らしい恋物語でお願いします」
そのご機嫌取りが、更に面倒臭いことになるなど当時の私は思いもしなかった。魔王の末端が、最高権力者さえ意のままに操れるという事実が明るみに出てしまうこと。それ自体の懸念は頭を過ぎったが……アムニシアを敵に回す方がその数段面倒だったから。
「……出来ないとは言わないし協力したいのはやまやまだけど、万が一の時はあんたの能力でリセットしてくれるんでしょうね?」
「ええ、勿論そのつもりですわ」
約束事、契約は……きちっと文書で残さないと駄目ね。あのクソアマは確かにリセットはしたが“何処から何処まで”とは私に約束しなかった。私が同僚全てを敵に回すことも企んでいたとは恐れ入る。唯可愛いだけの近親恋愛病の思考停止女かと思っていたから油断した。
故に私は距離を置き、領地に閉じこもり本を観察するに留めた。各領主が好む世界があるのなら、場所を教えてやるような……好意的な姿勢も時には見せる。そういう有能無害をアピールしながら……同僚全てを一網打尽に封印する策を練る必要があった。
あれからどのくらい時間が流れただろう? 自動琴の悲鳴は止まない。閉じ込められた世界と魂は、その内に無い。楽器に音を接続して奏でているだけ。
悲劇は好き。でも、永遠に終わらない悲劇は嫌い。そんなものは逃げ。悲劇の美学に即していない。聞いていると気が滅入ると倉庫にぶち込んでいたが、ある時聞こえるメロディーが変わったのが気になった。
私の屋敷には膨大な本がある。私が書いた物の他、私が作った白紙の本……その一冊一冊が一つの世界。白紙の本は、他の世界と私と繋ぐ門である。一度私が筆を執れば、世界との縁が生まれ……私の意のままに動かせるようになる。
(まさかあの駄作が、餌場になっていたとは)
他の悪魔が関与したことに気がついて、私は自動琴と結ばれた世界を探して見ることにした。その最中、悪魔に弄ばれた哀れな男と私は出会う。
結論として、アムニシアとエングリマしか招けなかった『時間泥棒』は及第点以下。エフィアルも私が誘えば飛び込むだろうが、残りの漁夫の利争いをする輩は強欲すぎる。隙あらば私の魔力も手にすることを望むだろう。
(今此処で、再びアムニシアと対立するのは得策ではない)
それでも、“物語の悪魔”として……この世界はどうしても許せない。
「久しぶりねアムニシア」
私が筆を執り、通じた世界は私の領地。入り込んだら最後、如何にお前であれ私の掌の上。彼女の望む展開にも、やり直しにもならない。私が忌み嫌う世界に介入すると思わなかったのか。これも兄に似て、思い込んだら一直線。視野の狭さが時に失態を招く。
「私は、ソネットは……この世界を監視していた。そこに貴様はいなかった! なのに何故!?」
「そりゃそうよ。私はあんたが現に夢中になってる時に……全部あんたの領域……接触相手の夢に現れていたのだもの」
時間泥棒、創造主、第四公との会話も全ては夢だ。簡単なものよ、エングリマなんか「時計可哀想だよぉおおお」と泣き喚いて眠ってしまったんだから。
「夢に入り込めるのが第一~第三領主までと思い込んでいたんでしょ? 能ある鷹は爪を隠すもんなのよね。あーあ、嫌になるわ」
夢の領域であれば、脚本に支配されない安全地帯と思っていたのか。末席魔王がそこまで関与できるイレギュラーである事実、私も明るみには出したくなかった。直接的な戦闘能力、軍事力に乏しい“物語の悪魔”。どんな同僚も私を味方にすれば安泰、敵に回せば破滅の一途。
「あんたとエフィアルは、嗜好は違っても本質は変わらない。あいつをあんたに似ていて可愛いと思ったこともあったけど、今のあんたはあいつに似ていて吐き気がするわ。……だが」
言葉を句切り、意識を変える。普段の女悪魔の口調から、無であり全てである領主として私はそこに立つ。
「手を引けアムニシア。あいつが此処を手放した時点で、この永遠は不完全。お前にあいつの真似事は出来ない。嘘を幾ら積み重ねようと、お前に永遠は作れない」
「……絶対に嫌。私は愛するお兄様と同じになりたい! この世界でそれを証明してみせる! 兄様と同じになれば、兄様も私を愛してくれる! お前なんかではなくて、私のことを!!」
「…………言ってやれ時計工」
私はそういう物に疎いから説得には向かない。如何に人間離れした魂でも、まだこの男の方が愛という物の本質については詳しいはずだ。
「……ええと、第三領主様。こんにちは」
挨拶している場合か! この契約者にも頭突きを噛ましてやりたくなったが我慢する。これはこの男なりのペースなのだろう。
「私も数え切れない程時計は作りました。魂を砕き、私と同じ存在を作ったこともあります。けれど私はその鐘時計のように私そっくりの時計を作ろうと思ったことはないですし、僕は僕の分身を愛しいとは思えない。むしろ嫌いですよ、こんな大罪人の欠片なんて。殺せる物なら僕が僕を殺したい」
「……貴方は何を、言っているの? 私が言っているのは」
「同じ事です。例え外見が違っていても、僕は僕と同じ者をおそらく愛せない。違うから愛しいのです。妻のことも、我が子のことも。愛しいからこそ……彼らの時計を作れなかった」
狼狽えているのはアムニシアだけではない。時計工の言葉を聞いたピエスドールも肩を振るわせ怒りで動揺を押さえ込んでいる。
「貴女は貴女のままでいいじゃないですか。お兄さんが応えてくれるか解りませんが、そのままの貴女を愛する人は必ず居ます。変人の僕であっても、人の心を……愛を知ることが出来たように」
「……嫌っ、兄様以外なんて嫌っ! そんなことなら私と兄様以外の全てを滅ぼす! 生まれると言うならその都度殺す! 消去法ででも私が愛を勝ち取るわ!」
「……領主様。本当に愛しているのなら、近付いてはならない愛もあります。貴女のそれは…………貴女自身への愛ではありませんか?」
「人間風情が、この私に意見するかっ!? 今より酷い境遇になる覚悟はあるのだな!?」
怒り狂ったアムニシア。翼を広げて再び世界を裏返そうと試みる。ここが本だと言うのなら、本を燃やし滅ぼし私の支配を逃れよう。膨大な魔力を犠牲にしてでも彼女はそれを企んだ。彼女の行動を阻止するためには此方も本の強化防衛にそれ相応の魔力を注がなければならない。
(甘いなアムニシア)
能力こそ此方に並ぶものでも、所詮は成年になったばかりの年若い悪魔。本気のイストリア様の敵ではないわ。
「《名もない主人公 名もない喜 劇 名もない悲 劇 記憶の彼方》」
「気でも違ったか? こんな局面で歌なんか……」
「《名もない歌姫 名もない初恋 名もない絵本の 名もない貴方》」
歌姫でもない悪魔が何故歌う? アムニシアは私の企みには気付かない。歌姫に劣った歌声と、嘲笑を浮かべる程度の反応。異変に気付いたのはあれの契約者の方だ。
「時の砂が……!?」
私の歌を受け、再び輝きだした時の砂。砂はサラサラ辺りを舞って、広間を彩る。
「何ですって!? イストリアっ! 今すぐその下らない歌をやめろ! このアムニシア様を怒らせて無事で済むと思っているの!?」
「ふん、小娘が。暇潰しは大いに結構! 遊んでくれるんだろアムニシアちゃぁん? 何万年でも何億年でも付き合ってやるよ!! てめーが死ぬまでな!!」
「“追いかけても届かない 嗚呼、月日は流れる水面
記憶の底に沈みたい? 忘れたいこと……全部忘れるの?”」
「《忘れたいこと なんて何もない!》」
煽りの際は歌は時計工に継がせ……最後の詠唱を私が遂げる!
「ぐ、ぅあああああああああっ!!」
「ソネット! しっかりっ……! 負けてはなりません…………貴女は、この私のために!!」
詠唱を受け、苦しみ始める大富豪。召喚者が倒れれば、悪魔が行使出来る力は弱まる。そのソネットを失えば、アムニシアはいよいよ私の敵じゃない。
「そもそものところ、本当の愛が何かなんて、我々悪魔には正しくなんて解らない。それでもこの世界、物語において……お前達は間違っている。それだけははっきりしているんだ」
「ぁ、うぅぐ……」
「違っているというなら歌え。お前も歌姫だろう。悲鳴ではなく歌を奏でよ。死の間際まで。歌姫なら歌で勝ち取れ。歌いもせず勝ったというのは気に入らん。その身体を得るというのはそういうことだ」
「っ、甘いのは……そっちだ!」
召喚者が倒れる前に、一矢報いてやろうとアムニシアが狙うは時計工クワルツ・オリジナル。アムニシアが飛ばした羽を身体に受けて、消滅するかに思われたその男。
「面白いわよね、人間って。時に矛盾を内に抱える」
「な、何!?」
砕け散った男の肉体から、吹き出したのは無色の液体。死んだ男に血液などないから当然だ。しかしアムニシアの攻撃を受け、なかったことにされたはずの男が尚も在る。魂とは人の本質。全ての自分を取り戻したクワルツは、その本質を変化させていた。輝く宝石、石ころでもない。永きを生きた魂は、留まる形を失って……下へ下へと流れて積もる。
「太陽は既に落ちた。日時計は夜に何になる? いいや、日をなくしてそれは日時計とは呼べないだろう。永き時を悲しみ続けた魂に、新たな名前を授けよう――……第七眷属《水時計》!」
名付けられた水時計は、物語の眷属として……物語を紡ぎ始める。記憶の水に触れたピエスドールは押し流されて完全に気を失った。
「ソネット!!」
哀れにも、悪魔が契約者を頼る。悪魔の矜恃を忘れたか。我々は呼ばれ応える者、我々が呼ぶ側になってはならない。
アムニシアに呼ばれた“ソネット”は、簡単には目覚めない。彼女達の決着は、これから始まるのだから。
二人は煉獄のきょうだいになるのかとも思いましたがなりませんでした。
いろいろ考えた末、昔作った『名無しのジャック』という歌に結びつくこととなりました。