30:歯車エンゲージ
獲物を見つけて、武器を構えた指が震える。指だけじゃない。僕の身体が震えているんだ。
ああ、思い出す。やっぱりあの夜をどうしても。
自分が殺された日を連想してしまうのは何故だろう。時間泥棒は自らに問いかけてみた。
(僕は、知っているんだ)
これがいけないことだと知っている。怨みは確かにあるのに、怖がっている。いつだってそうだ。正しいことをしても良いことなんてなかったのに、悪いことをすればすぐに大きな報いがやって来る。そういう恐怖に取り憑かれているから、怖いのだ。
だけど今更何を恐れよう?僕はもう死んでいる。失うものなんて、何もない。今、この街を動かしているのは僕らじゃないか。時計の僕が、人間なんかを怖がるなんておかしな話。
さぁ、もう楽になろう。救いは無くても、癒えることは出来るから。壊れてしまった物は直せない。だから別の何かを壊すんだ。そうすることでしか救われない心があるから。もうどうすることも出来ないけれど、だからどうしようも無いことを僕はする。自分の内に留めていることが出来ない。怒りや憎しみ、醜い心。それをさらけ出して良いのだと、優しい声がする。優しい声で悪魔は言うんだ。
“どうして駒鳥は殺されたの?”
みんな、みんな……雀ばかりだ。僕らを殺した奴らばかりだ。知らないよ、そんなこと。どうして被害者が犯人の気持ちを理解できるんだ?そいつらが何を考えていたかなんて、思いやらなきゃならないんだ?そこに理由なんか無い。あったとしても理解できないような代物なんだ。仮に理解できる理由がそこにあっても、それは奴らを許す理由にはならない。
もっともらしい答えだったら、僕だって二つは用意できる。小難し言い方なら“時代が奴らにそうさせたのさ”で、端的に言うなら“目障りだから”。唯それだけ。
僕はもう人間じゃ無い。死んで時計になったんだ。時計は忠実に仕事をこなす。与えられた仕事をこなす。時計として僕に与えられた仕事は復讐だ。それ以外にあり得ない。
僕の手はまだ冷たいままだ。マキナとは違う。やらなくちゃ。僕には出来る!やらなくちゃ。
「トゥール=ルビヨンっ!親父の仇だっ!!思い知れっ!!」
狙いを定めて弓を射る。吹き出す赤い色が妬ましい。あいつはまだ、生きていたんだ。人を殺して、のうのうと!!嗚呼、こんなものじゃなかっただろう。父さんは、きっともっと痛かった!
どうしてあの日、僕は母さんに会いに行ってしまったのか。そんな気を起こさなければ、いつものように傍に居たならば。非力な自分に何か出来たとは思えないけど、それでも……今よりはマシな姿でいられたはずだ。こんなにも誰かを憎んで、煉獄へ落ちたりはしなかった!
怒りの所為か?嗚呼、頭が痛む。やっぱり何かを忘れている。僕は本当に、母さんだけに会いに行ったのか?
苛立ちのままに矢を番え、倒れた男を何度も射った。やがて冷静さを取り戻すまで、何本の矢を無駄にしただろう?我に返ったときには、もう男はぴくりとも動かない。壊れてしまっていた。
(あ……)
まだ手が震えている。歓喜か恐怖か解らない。それでも確かに僕が射た。親父の……父さんの仇を討った。それを確信すると急に力が抜けてしまい、時間泥棒はその場にへたり込む。
(一人で……この様か)
あと何人だって殺さなければならないのに、こんな調子でどうするんだ。まったく自分が情けない。射ったのは自分の方だと言うのに、こちらの胸にもぽっかり暗い穴が空いてしまったみたいに痛む。僕は鏡でも見ていたというのか?
「クロシェット」
「!」
時間泥棒は、誰かに名前を呼ばれて顔を上げた。けれどそれは鳩時計の声ではない。男の声だ。聞き覚えのあるその声に、我が目を疑う。
「……嘘」
時計の街が見せる幻だろうか。それとも何かの力が働いて?
「親父っ!!」
死なせてしまったはずの人が、今目の前に居る。いつもと変わらぬ笑顔で彼は笑ってくれている。復讐とか悪魔と契約だとか、そんなことをしてしまった僕を責めるでもなく、咎めるでもなく、あの日のままの優しい目。
鳩時計が人間の身体を取り戻したように、時間泥棒の心にも、熱い物が甦る。生きていた頃、人間だった頃のように熱い涙が頬を伝った。それを拭った手も熱い。上手く言葉を話せなくなる口から零れる息さえも、生きている人間となんら変わらない。
あのさ、父さん。話したいことがいっぱいあるんだ。聞きたいことも同じくらい沢山あったけど、もうどうでもいいか。ここには誰も居ない。恥ずかしいとか人目を気にすることもない。本当に小さな子供の頃に戻ったように、大げさに抱き締められたところで気にもならない。
「頑張ったねクロシェット。本当に、君はよく頑張った」
事情は全て理解している。そうとでも言いたげな父の口調に安堵した。絶望して死んだ。救ってくれたのは理解してくれたのはあの鳩時計だけだった。そんな彼女のことを一瞬、忘れてしまいそうになる程に、時間泥棒は懐かしい存在に安堵する。
「……父さん」
「本当に良い子だ。ここまで魂を完成に近づけさせたんだ」
「え?」
たった今温度を取り戻したばかりの胸。人間で言う心臓。そこから急速に冷えていく。力が抜けて、身体が段々動かなくなる。痛みはない。それでも……温度を失った涙が肌に不快なほど、冷たい。ぽっかりと空いた穴。自分の胸から何かを引きずり出された。
その男にとって、魂が抜けたガラクタの時計には何の用もないのだろうか?優しかったはずの目は、僅かの憐憫を向けるのみ。簡単に手など離し、壊れた時計をその場に捨てる。
「頑張ったね、クロシェット」
最後にそう告げた言葉に、先程までの温もりはない。その理由を知るよしもない時間泥棒は、唯々壊れ、戸惑うだけだ。
自分が地獄へ落ちたのは、偏に父のためだ。父のための復讐を考えなければ、自分の幸せだけを追い求めれば……殺されることも死ぬこともなかったのだから。それでも追いかけたはずの父に、こうして再び会えたのに、どうしてこんな扱いを受けるのか。理解できない現実に、悲しみに、時間泥棒は目を開けたまま固まった。僅かに残った力さえ、倒れた床の冷たさに盗られ吸い取られ消えていく。もう、動くことも出来ない。きっと、考えることだって……
*
「……」
懐かしくて落ち着く、けれどやっぱり落ち着かない。鳩時計はその部屋で、時間泥棒の帰りを待っている。
こうして部屋の中に閉じ込められるのは苦手。鳩時計の家を思い出す。今の私は鎖になんか繋がれていないけど、彼に言われたとおりちゃんとここで待っている。
(やっぱり、心配)
彼の傍にいたい。彼があの歌姫のことを思い出すようなこと、あってはならないのだ。だって私は故意に、彼女に関する記憶を彼に見せなかった。彼の記憶の中には、あの歌姫への想いがある。それを彼が思い出したなら、私は要らなくなってしまうもの。
(私は人を愛するために作られた。その相手を自分で選ぶために心を持って)
ようやく見つけたその人を、生きている女なんかには渡さない。
追いかけようか、追いかけまいか。うなり悩みながら、時間は過ぎる。やがて部屋の前までやってくる、誰かの足音。
「クロシェット?」
寝台から飛び上がり、鳩時計は喜ぶが……扉を開けたのは時間泥棒ではなく、時計。文字盤顔の女。彼女の服は修道女の物。
教会の人間が、どうしてこの屋敷に?そんな疑問ももう一人の訪問者によって吹き飛ばされた。
「お、……父様」
かつて自分を煉獄に落としたあの男!どの面下げて現れた!鳩時計は男を睨む。しかし相手は此方をそうとは認識していない。
「ああ、君は……また会えるとは思わなかった」
言葉の節々から、鳩時計は違和感を覚える。男は笑顔で近付いてくる。それなのに身体が震えてくるのは何故か。
「貴方、お父様じゃ……ないわ!!誰なの、貴方っ!!」
翼を広げ、鳩時計は威嚇する。よく分からないが、この男は危険だ。危険な目をしている。
人を物として、女を道具として見るような目ではないが、もっと不気味な男の目。彼は私を見ていない。存在しない物を見るかのように、まるで何も見えていないような目で私を見ている。
「君の時計の音、聞き覚えがあるよ。そう……あの雨の日に」
「雨の……日?」
永遠に終わらないはずの夕暮れ。その夕焼けを覆い隠すよう、突然広がる雨雲は何?
(クロシェットに、何かあったの!?)
やっぱり彼の傍を離れるのではなかった。すぐに追いかけたいけれど、扉は時計と男によって封じられている。窓から逃げるしかないのに、もうザーザーと大粒の雨が降り始めた。
雨の中、翼は使えない。人間に近付いたと言っても、私は機械。水に触れることは極力避けたい。
「君の時計は温かかった。素晴らしかったよ」
「何を、言っているの!?」
「だけど今は……もっと良い歌が聞こえる」
「くっ……!」
背を向けるのも危ない。だけど今すぐ窓から飛び降りなければもっと危ない。それ以外の選択肢、……ある、たったひとつだけ。
鳩時計は自力で頭の螺子を巻き、二人を過去の記憶の中へと誘った。これで時間稼ぎ、足止めにはなる。
(今のうちに……っ!)
男の横をすり抜けて、部屋の外へと急ぐ。そんな鳩時計の手を掴む者。
「きゃっ!」
ひやりとしたてに触れられて、思わず悲鳴を上げるも……手を掴んだのは男ではなく、文字盤顔の修道女。
「え?」
振り向けばすぐに手を放し、今度は鳩時計が首から提げた物へと触れる。
「返……して」
「えっと」
「大事な……物、なの」
二人でその星時計に触れたからだろう。修道女の記憶の景色が、鳩時計の前にも現れる。
*
この屋敷と全く同じ景色。文字盤の時計達に連れて行かれる少女が見えた。
「助けて、お父様ぁああ!!」
少女の顔は既に文字盤だった。けれど遠い街時計に送られて、彼女は再び目を開ける。
「何を魘されてたの、ステラ」
熱はすっかり下がったようね。そう言って笑う母。
「勝手に外に出たら駄目よ?雨に濡れて風邪を引いてしまうだなんて」
「で、でも……」
「父様と喧嘩したのは解るわ。でもあの人の気持ちも解ってあげて。貴女の手では時計工になるのは無理よ。こんなに白くて綺麗な手……あんな仕事は似合わないわ」
いつものように優しい母。見慣れた室内。だけどどうにも引っかかる。
(私、夢でも見ていたの?それとも今が、夢なのかしら?)
同じようで違う、違和感がある屋敷、街の姿。住まう人々。そうだ、私の記憶の中よりも、みんな少し若々しい。
(これはいったいどういうことなの?)
悩んだところで、誰も明確な答えなど寄越さない。今ある生活に適応するよりなかった。
「ねぇ父様、クロシェットが最近遊びに来ないの」
「ステラ、お前も年頃の娘だ。幼なじみとはいえ何時までも男友達と付き合うものでは
ない」
「それは……そうかもしれないけど」
昔のように、記憶のように。窓を覗いていたならば、そこから彼が現れないだろうか。少女は毎日窓を眺めていた。そうする内、どうしてそうしているのかも忘れてしまった。だけどのその向こうの世界に、何か答えがあるような気がして、そこから何かを見つけようと必死になった。
そうする内、透明な硝子に映る自分の姿が見えてきた。そうして少女は思うのだ。
(窓の外の世界は、どうしてあんなに)
*
目的の物を手に、鐘時計は上機嫌に立ち去った。それを見届け指輪時計は男の手を離れ、自らの姿を現す。赤いドレスの女の姿に。
(ああ、何てことだ)
指輪時計は苦悩する。時計の身に痛みなどない。撃たれたのは私であって私ではない。支配下に置いた男の方だ。けれどそんなものがあるとするなら、それは……きっと私の胸だろう。
(可哀想な、クロシェット)
捨てられてしまった、抜け殻の彼。街時計の数だけ、指輪時計があり、時間泥棒がいる。こうして捨てられた時間泥棒は、指輪時計の持ち主が……歌姫ソヌリが抱いた悲しみ。
(“貴方の愛が、わからない。貴方は私を愛していない”)
目的のために作られた存在。願いのために踏み捨てられる。たった一度の悲しみが、こうして無限に繰り返される。そんな物を作って貴方は何が楽しいの?貴方はそんなに何が欲しかったの?こんなに大勢苦しめて!
指輪時計は自分と時計工を責める。自分はあの男の一部でもある。その一部である自分ですら理解できないあの男。きっと誰にも理解は出来ない。唯一理解しようとしてくれた、時間泥棒さえ捨てるのだから!!
(……あ)
違う。そうじゃない。私はそんなことはしない。あの男もそんなことはしない。断言できる。だって私はこの子を愛している。それにあれが本当にあの男なら、私を作った男なら……私の仕組みを理解している。気付かず見過ごし立ち去るなんてあり得ない。鐘時計……あの男の正体は!
全てを理解した指輪時計は、心を決める。そうして壊された時間泥棒を膝に招いて頭を撫でる。
「……起きなさい、クロシェット。もう朝よ?」
ここは煉獄、永遠の夕暮れ。それでも指輪時計は呼びかける。
「お寝坊さんね、あの子と同じ。ソネットとそっくり」
歌姫ソヌリになりきって。彼女になって、我が子を呼んだ。
「ごめんね、クロシェット。私……貴方には、何もしてあげられなかった。お母さんなのに」
誰よりずっと、歌姫ソヌリの傍にいたから、彼女の未練もよく分かる。本当はこうして、母親らしいことをしてあげたかった。捨てたと思われても仕方がない。怨まれていてもしょうがない。どうして二人とも連れて逃げなかったの?どうしてあの男にソネットを預けてはならなかったの?時間泥棒を作る歯車として、結局彼女も動いてしまった。自分の手には負えない運命。そこから逃げても結果は何も変わらない。それを悔いたから、彼女は自ら死んだのだ。
「本当はね、私が貴方のために……みんなみんな、殺してあげるつもりだったの。そうすれば貴方もソネットも、手を汚さずに済む。……だけど」
それは愛しい我が子達のため。死なせてしまっては意味がないのだ。
もう時間泥棒は、クロシェットは死んでいるのだとしても……その時を止めてはならない。殺され続けたクロシェットには、全てを知る権利がきっとある。
時計として自分が持つ時間、それからあの男から奪った時間。それを時間泥棒に引き渡せば、この子を目覚めさせることが出来る。命を流し込むように、私は最後のキスをする。
「……だけど、可哀想なクロシェット」
結局この子は母の愛を知ることは出来ない。触れることが出来ない。歌姫から託された願いを、言葉を……私は伝えることが出来なかった。もう、間に合わない。
この子が目覚めるころに、私の姿はもう無いだろう。ソヌリの顔を、姿を……見せてあげることもできない。
(可哀想な、ソヌリ)
いいえ、本当に可哀想なのはそんな風に思った私なのかもしれないわ。指輪時計は美しい顔で、最後に笑った。その直後、時間を失った顔が文字盤へと戻り……とうとう人の姿も保てずに、小さな指輪の姿へ変わる。カチコチと、刻んだ針も重くなり……目を閉じるように消えていく。
だけど一番可哀想なのは誰だろう?考えるまでも無い。
(ごめんね、ソネット)