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22:赤い約束

(最低っ!最低っ!最低っ!最低っ!!母さんが見限るのも当然だ。あんな男。私達を、一体何だと思っているの!)


 通された部屋、その寝台に俯せに……歌姫は涙をシーツに押し付ける。王とも神とも呼ばれるあの男が、どうしても許せなかった。


 「まずは落ち着こうかソネット」

 「何よ!落ち着いてですって!?」


 そんなこと無理よ。歌姫は傍らに立つ金貸し女王を睨む。


 「まぁ、そう言わないで。こういう事は本人に聞くのが一番じゃないか」

 「本人?」

 「ああ」


 頷く金貸しの手には、赤い指輪時計。歌姫の手から離れた時計と、寸分違わず同じ物。


 「指輪時計……これも、貴女の?」

 「うん。これは私の母さんの形見だよ」

 「……デザインから形状、重さまでそっくり。あ、これもオルゴールなの?」

 「ゼンマイを回してごらん?」

 「……ええ」


 流れ出す旋律。それさえ、そっくり同じ物。偶然にしては出来すぎている。不気味な奇跡。これは仕組まれた偶然なのだ。そこに気付いて、歌姫は再び涙を落とし泣く。


 「嫌よ、こんなのっ……」


 気持ち悪い。何から何まで、何処かの誰かにあったこと。それをなぞり繰り返すだけの人生。多少の誤差があったとしても逃げられない。


 「気持ち悪いと君は思う?」

 「ええ!」

 「私はね、そうは思わなかった」

 「……レーヌ」


 金貸しは、何度もそんなことを口にする。その真意は何だろう。歌姫は疑問に思う。そんな心を見透かすように、金貸しは優しく笑っていた。その女の、何と優しい目。

 出会った頃のことを思い出して歌姫は、今の自分たちの関係がどうにも奇妙だと感じてしまう程だった。


(どうしてそんなに、私に優しくしてくれるの?)


 この人は私を好きだと言うけれど、信じられない。だってレーヌは私と同じ。元は愛した時間泥棒がいたはずなのに……今は私を好きという。


(私は兄さん以外の誰かをなんて……)


 今は信じられない。それでも金貸し女王の存在は、歌姫の一途な思いを根本的に否定する。遠い未来の自分の姿を思い描いて、歌姫は俯いた。


 「私も……何時か、貴女みたいになるの?」

 「私みたいに、とは?」

 「こんな言い方、したくないけど……気に障るかもしれないから先に謝るわ。ごめんなさい」

 「いいよ、言ってみて」


 言い辛いことの了承を得て、ようやく歌姫は唇を震わせる。


 「……貴女は私の街に来た。だけど父さんを見捨てた。兄さんを見捨てた。母さんも見捨てた。これから起こることを知っていて、それでも貴女は助けなかった。その意味は何?」

 「私は幾つもの街を見て来た。何度も挫折を味わった。だから無意味なことはしないんだ。私は生まれ変わった。だから私の人生を有意義に真っ当しようと思っただけだよ」

 「嘘よ。それならどうして私を助けたの?」

 「知ってる癖に」

 「そ……そ、それは……」

 「その顔だと、思い当たったようだね。その通り。私が君を助けたのは、私が君を愛しているからさ!」


 大げさなポーズを決めてを差し出してくる金貸し相手に歌姫は、距離を置きつつ視線を送った。思えば涙も……いつの間にか引いていた。癒されているのだろうか、私はこの人に。そう思った歌姫は、複雑な思いに囚われ小さく唸る。


 「ねぇ、レーヌ。貴女が男の人の振りをしたのって……兄さん以外の男の人を、もう愛したくなかったからじゃないの?」


 金貸し女王が生まれる理由に、心当たりがある。自分だってもう、他の男を好きになんてなれない。それなら嘘を吐いて男の振りをする。そうすれば女としての責任から解放され、男としての自由を得られる。この人も最初はそんな気持ちでソネットからレーヌになったのではないか、そう歌姫は問いかけた。


 「君がそう思うならそうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない」

 「答えになっていないわ」

 「君は私の考えていることが解らないんだね。私は君が解るのに」


 それは関心の違い。優先度の違い。愛している者と、愛していない者の間に生じる温度差なのだと金貸しは言う。


 「つまりさソネット。こんな些細なことでも私と君とは違うんだ。それはどうして?私と君が別人だからと言う理由以外の答えを頼むよ」

 「……育った街が違う。文明度……時代が違うから?」

 「うん、環境も大事だね」

 「……育てた親が違うから。教育も違うから?」

 「ああ、それも大きいな。そこまで来ればもう解るだろソネット?私達が違うのは、全く違う両親の存在だ。だから王を前にして、私と君の心はこうも違う。これは彼と会った回数とかそういう話とは違うよ。私はね、そこまで父さんを憎んではいないんだ」

 「どうして!?だってあいつはっ……私達とか、母さんのことなんかどうでも良かったんだ!!時間泥棒がっ……兄さんが欲しかっただけの最低な奴なのにっ!!」

 「ああ、そうだね。酷い人だと思うよ。でも私の嫌いは無関心であってね、君みたいに情熱的に憎んだりはしないんだ」

 「こっちのソネットは騒がしいわね」

 「ぎゃあああああ!!」

 「そこが可愛いんだよ、私と違って」


 会話に割り込んできた指輪時計を前に、歌姫は叫び声を上げ寝台から飛び退いた。すかさずそこを抱き留めながら金貸しは笑う。人型を模した指輪時計に向かって……


 「び、吃驚させないでよ」

 「でもこうしなきゃ、本人から話が聞けないじゃないか」

 「そう言う問題?」

 「母さん、ソネットが話を聞きたがってるよ。彼との事を……母さん達のことは概要だけならあまり大差がないだろ?そうでなければ時間泥棒が生まれないんだから」

 「うーん、そうね。立ち話も何だし、そろそろ寝ないと肌に悪いわよ」


 眠たそうに指輪時計は寝台に寝転んで、娘二人を軽く手招き。


 「流石に三人は狭いんじゃ……」

 「文句言わない」

 「レーヌ……これ、私の家のベッドより十分広いんだけど」

 「考えようによってはソネットと同衾か。よし、ご一緒しよう」

 「やっぱあんたはソファー行け!」

 「こら!喧嘩しないの!」


 歌姫と金貸しの頭を掴んで額をぶつけさせる指輪時計。手慣れた母親っぷりに、歌姫にとっても既視感はある。しかしあっと言う間に、こうやって共に叱られる兄はいなくなってしまったのだ。共に暮らしたのは、本当に短く僅か数年だ。


 「惜しい!母さんもうちょっと下で頭突きさせて欲しかったよ!そうしたらソネットともう一回キス出来たのに!!」

 「あんた、どうしてそんなのになっちゃったのかしらねぇ……」


 他の街の自分の娘だとしても他人とは思えないわ。そうぼやいた指輪時計は、歌姫を守るよう金貸しとの間に陣取って横になる。背中向こうで騒いでいる金貸しを無視して、文字盤の顔が歌姫を見つめて笑う。


 「それでソネット、私に聞きたいことは何?具体的には……?」

 「貴女は、あの男をどう思っているの……?酷い奴だと思っている?」


 歌姫の問いかけに、指輪時計は考え込むよう暫しの沈黙。やがて時計が溢したのは、頼りなくか細い声だった。


 「そうね……私は、良く解らないわ」


 *


 あんな男は他には居ない。高嶺の花を崇めず、夜の女と馬鹿にせず、同じ高さで熱い視線を注いでくれた。その純粋な好意に彼女は胸を打たれた。幾度も歌って来たけれど、恋とはこういうものだったのかと顔を赤らめた。


(それが運命だと、彼女は信じた)


 街を進む、文字盤顔の女。赤いドレスの指輪時計。沈まない夕日の街……向かった先はギルド街。前方からは職人達の悲鳴が聞こえる。彼処は時計が山ほどある。裏返った街時計の中……人にとっては最も危険な場所だ。


 「クロシェット……」


 指輪時計が小さく呼ぶは、自分の生みの親と主であった人の子供の名。彼を見ていた時間は少ない。それでもこの胸の中には彼への愛情もある。それは歌姫ソヌリが遺した心だと、指輪時計はそう思う。


(あの時、私は見ていた)


 見ていることしかできなかった。時計に過ぎない自分は、こうして時が裏返るまで唯の指輪。何も話せないし意思も心もないも同然。それでも指輪時計は見ていたのだ。愛し合ったはずの二人が涙ながらに別れた、その日をこの文字盤の顔で。


 *


 最近夫が余所余所しい。いつも不安そうにビクビクしている。何かに脅えているような……そんな顔。


(どういうことよ!)


 あんなに熱烈に求婚して来た癖に!

 美しい指輪時計を差し出して、その男はこう言った。「何時でも壊れて構わないんだ、永久保証で直すから」……と。

 それは死が二人を分かつまで、ずっと一緒にいる。美しいルビーの価値は変わらない。変わらない愛と情熱を誓って、捧げられた婚約指輪。それはまだ、自分の指にあるというのに……あの態度は何なのか。

 歌姫……だった女、ソヌリは不満そうにふくれっ面になる。

 大恋愛の末の結婚。貧しいけれど毎日が夢で彩られた生活は、とても幸せだった。そうして可愛い我が子が二人も生まれた。幸せとはこのことじゃない。

 多くの人に愛を求められた花が、求婚者達を振りに振って、たった一人に愛される。それも悪くはないと微笑むような日々だったのに……これはどういうことなのだと彼女は怒る。


(女としての魅力が無くなった、とか!?まさかあのへたれ!!何処かで浮気をするような甲斐性があったの!?いや、それとも……)


 心当たりは、彼女にもあった。だから子供達が寝た後に、夫に声をかけたのだ。


 「ねぇ貴方……もしかして、私を疑ってる?」


 気まずい空気の後、ソヌリはとうとう彼に切り出した。それに時計工は、おっかなびっくり答えてみせる。


 「な、なんだいソヌリ!?き、今日も綺麗だね!!」

 「見え透いた嘘は止めて。何か私に言いたいことあるんでしょ?言ってみなさいよ」


 彼がこんな風になったのは、子供が生まれてからだ。それまでだって確かに変人だったけど、こんな風ではなかった。


 「クロシェットのことよ。貴方、あの子を見るとき……いつも変な目をしているわ。錆びて壊れた刃物みたいな目」

 「……」

 「金髪、だなんて。私を疑っている?私も貴方も金髪じゃない。なのにあの子が生まれたのは……私が別の男と寝たとか思ってるんでしょ」

 「ち、違う!そうじゃない!そうじゃないんだ!!確かにあの子は僕の子だ!僕には解る!!可愛いと思うよ!!僕だって嬉しいよ!!でもっ……」


 取り乱した様子の夫を前に、ソヌリも不安になる。何なのこの男は。私が信用できないの?だからこんなに不安そうなの?


 「じゃあ、何なのよ」

 「……それは、ソヌリ。こんなこと言ったら、また馬鹿な奴って思われるかも知れないんだけど、聞いて貰えるかい?」

 「今に始まった事じゃないわよ、そんなの」


 これまで幾度も、あり得ない話を聞いてきた。それでも自分はそれを馬鹿にしたことは無い。この人なら、そんなこともあり得ると……夢か空想か解らぬ世界の与太話に共に浸ってきたのだ。そうして理解を示すこと。突飛な行動を取る人を許し、受け入れ愛することが、愛しているという事なのだと思ったから。


 「時間、泥棒……」

 「時間……泥棒?」

 「それは救い主だ。嘘の時間に縛られた……人間に真の自由を与える存在。彼はやがて、神の手から時間を盗む。言うなれば時のプロメテウスだ」

 「ふぅん……面白そうな話ね」

 「面白いだって!?」


 相づちを打つソヌリに、夫は鋭い眼差しを向けた。そこには憎しみさえ感じられる。何時もと違う夫の様子に彼女は驚き、萎縮する。それでも言葉だけは強がったまま、男を睨み返していた。


 「な、何よ!急に声を荒げて……」

 「ご、ごめん。僕が悪かった……」


 強気な妻の発言に、謝罪の言葉を口にする時計工……それでも彼は心ここにあらずと言う様子。どこか遠くを見つめながら、良く解らぬ話を続ける。


 「時間泥棒は、人を救うはずだった。だけど人は愚かで盲目で残酷だから……未来を恐れ今を欲しがる。新しい時代が怖いんだ。だから変革を受け入れられない。そうして彼らは時のプロメテウスを自らの手で殺めてしまう」


 これはいつもの与太話ではない。明るく楽しみながら語る夫の声とは違う。重い責任を背負わされた真剣なその声色に、ソヌリは固唾を呑んで聞き入るばかり。


 「それが……時間泥棒。あの子の未来だ」

 「……クロシェットが、時間泥棒?それって貴方の後を継ぐってこと?」

 「僕の後を継げば、あの子は稀代の時計工になる。それも時間泥棒の一種だ」

 「じゃあ、継がなければいいの?」

 「……ああ、そうだと思う。でも、そうとも限らない。時計に興味を持たせては駄目だ。……命取りになる。いや、どちらにしても……」


 可愛い我が子の未来を汚す、不吉な予言。これにはソヌリも怒り、椅子を蹴飛ばし夫に詰め寄った。


 「あの子が殺されるですって!?馬鹿なこと言わないでよ!!」

 「落ち着いてくれ、ソヌリ」

 「なんであんたがそんなこと、知ってるの!?」

 「それは……僕が神だからだ」

 「あんた、本当におかしくなったの?」

 「うん……今回ばかりは、言われると思った」


 苦笑し笑う夫の姿は、いつもの夫に重なって……彼が何も変わっていないことをソヌリは知った。彼はおかしくなどなってはいない。そう思うと同時に、彼の言葉は真実なのだと頭が肌が感じ取る。

 再び彼女は椅子へと座して、真正面から夫を見つめる。彼ももう、視線をそらしはしなかった。


 「……どういう、ことなの」

 「前に言ったよね。僕は昔の記憶がないって。自分の両親が誰かも解らない。気付いたときにはこの街にいた。それは全部、神様がやらかしたことなんだ」

 「……」

 「自分が何かも解らない僕は、君に出会って……君に恋をした。既視感のような物を運命だと思い込んだ。でも……クロシェットを見て解ったよ。あの子は僕のオリジナル……神が失った時間泥棒にそっくりなんだ」

 「……」

 「僕は時間泥棒を作るために、この街に送り込まれた彼の分身なんだと思い出した。この街に真の時間を取り戻させるために……」

 「ねぇ、クワルツ」

 「何?」


 黙って話を聞いていたソヌリが、ようやく唇を開く。どうしても、彼に聞きたいことがあったのだ。


 「ソヌリ……」


 彼女をまじまじと見た時計工は顔を赤らめながら青ざめる。愛した女性が泣いている。悲しみに暮れて泣く様が綺麗だと、抱き締めたいと思ってか、男の手は震えるのだが、一向に伸ばされない。

 それが自分の気持ちか、誰かの焼き直しなのかが解らないから。その行動一つにしても、ソヌリにとっては許せなかった。


 「馬鹿っ!!最低っ!大っ嫌いっ!!貴方は、かつてあったことを繰り返したいだけなの!?だから私を選んだの!?街を救う時間泥棒を作りたかっただけなの!?答えなさいよ!!」

 「違う!僕はちゃんと、君のことを愛していた!!」

 「なら、今は!?」


 全てを思い出しても、抱き締めて欲しかった。それは洗脳なんかじゃない。本物の恋だったのだと幻影に打ち勝って欲しかった。それなのにこの男は諦めて、ソヌリへの愛を放棄したのだ!


 「私は貴方が好きだったのに……っ!貴方は私を、時間泥棒を作るための道具だとしか思っていないのね!!馬鹿みたいっ……ふふ、ほんと……わたし、ばか……みたいじゃない」

 「ソヌリ……」


 報い、なのだろうか。女を道具と呼ぶような男は嫌い。幾ら金を積まれても、歌以外は売ってあげない。私は高嶺の花、歌姫よ。笑って、多くの人の心を踏みにじってきた。

 報い、なのだろう。だからこうして……愛した人に、愛されず、道具扱いされている。憧れた普通の幸せは、ここにはない。


(私、馬鹿みたい……可哀想、でも本当に可哀想なのはあの子達の方)


 母になった歌姫は、我が身よりも我が子を哀れみ涙を零す。


 「ソヌリ……」


 申し訳なさそうに此方を見つめる愛しい人。その顔に、ソヌリは思い出す。我が子を見た時の、この男の表情を。それはこの世の終わりを目にしたような、絶望だった。


(ああ、そうか)


 ソヌリは笑う。まだ一つ……信じられる物があった。


 「ねぇ、貴方」

 「……何?」


 これから別れを切り出されること。それもこの男は知っているのだ。諦めたような、深い悲しみを宿した目でこちらを見ている。縋り付くような未練こそ、愛だとどうして解らないのか。馬鹿な人。自分の心も解らないなんて。ソヌリは涙を拭って苦笑する。


 「あの子が、大事?」

 「……勿論」

 「だと、思った」


 この人はショックを受けていた。あの子が時間泥棒になるということを知って、絶望に打ち拉がれた。それはつまり、クロシェットを死なせたくないと言うこと。本体の影響かどうかは解らないけれど、あの子への愛情についてはこの男……理解できているのだ。


 「それなら、クロシェットは置いていくわ。その代わりソネットは私が連れて行く。あの子にとっても、その方が良い」


 この男はソネットへの愛情も理解できないだろう。平等に愛し育てるなんて事は出来ない。そうなればあの子が可哀想。


 「私はもう、貴方への愛が解らない。それでもあの子達は愛しているわ。貴方だってそうでしょ。だから約束して……あの子は、クロシェットは絶対に、死なせないって!!街なんか、世界なんか救わなくて良い!!だから時間泥棒になんかさせないで!!」

 「……うん、約束する。僕の命に代えても……僕は、あの子を守ってみせる!!」


 泣きながら、男が強く頷いた。その言葉を聞いたソヌリは涙を飲み込み微笑んでいる。

 指輪を外した男の指を捕まえて、おもむろに口に放り込む。左手の薬指に思い切り噛み付いて、赤い歯形を付けてやる。それこそ、血が出るくらい思い切り。


 「痛っ!!な、なんだい急に」

 「痛くて結構!!これくらいすれば馬鹿のあんたでも忘れないでしょ」

 「だけど、こんな痣……」

 「馬鹿ね、これで隠せばいいじゃない」


 ソヌリは男が外した指輪を再び男の指に付け……「これで隠れた」と茶化して笑う。


 「え、これって……」

 「さて。どういう意味かしら?自分の心も解らないような貴方には、百年掛かっても解らないでしょうね」


 いつか貴方がこの子達にとって……本当の父親になれたら。その時は戻ってきてあげる。そんな思いもどこまで伝わっているのだろうな。ソヌリは盛大に溜息を吐いた。

 まだ愛しているけど、傍には居られない。ここにいればソネットにも危険が及ぶかもしれない。この男がもっとしっかりして、家族を守れるようになれるまで……さよならをしなければならない。

 もし、その日が来るならば。二度目のプロポーズはどんな言葉だろう。叶うかどうかも解らない夢を見て、ソヌリはもう一度だけ泣いた。男はまた、愛しい人を抱き締められない。その事実に痛む心に……ソヌリは思うのだ。やはりここには、いられないのだと。


 「時間泥棒……それが英雄なんだとしても、あの子にそんなことは望まない。あの子は普通の子よ。普通に生きて、普通に恋をして、普通に死ぬの。私に出来なかったこと。せめて叶えて欲しいじゃない」

 「ソヌリ……」

 「だから……“そんな役目は遠ざけて、守ってあげてね”」


 抱き付くのは自分から。最後の抱擁とキスをして、ソヌリは男に背を向ける。何も解っていない我が子を一人、抱き上げて……夜の中へと飛び出した。


 *


(彼女はずっと、待っていた)


 それでも迎えは来なかった。

 女手一つで子供を育てるのはとても辛いこと。昔の名声が邪魔をする。落ちぶれた我が身には、普通の仕事もままならない。それでも家の中に不満は持ち込まない。

 時に優しく時に叱ってそれでも愛情一杯、娘を育てたつもり。


(嗚呼、惨めだわ)


 運命の恋だと思った。信じた相手は本当の意味で、自分を愛していなかった。愛していてもそれが解らなくなるような相手なのだ。此方が思うほど、相手は愛してくれてはいない。それだけでもがっかりなのに。


(それでも彼女は頑張った)


 ソネットのために。それにクロシェットの事もいつも案じていた。彼女が不安を吐露する相手は、私しかいなかった。それが私だ。指輪時計は、主のか細い声を思い出す。


 「違うわよね。そんなの違うわ。あの子じゃない。あの子のはずがない。だってあの時間泥棒音痴じゃない」


 私の子ならもっと上手いわよ。強がり笑う主の声に、指輪時計は同意してやることも出来ない。だって唯の時計だから。唯の時計は……「私を売れば、借金を返せますよ」と輝くことくらいしかできない。何度煌めいても、彼女は指輪時計を手放さなかった。生涯答えを見つけられなかった男への、愛をまだそこに引き摺るように……

曲作ったら書きたくなりました。

元々曲から構想膨らんで始まった物語なので、やっぱりモチベーションは歌作りだったりします。


もしかしたら、時間泥棒のお母さんが一番可哀想な立ち位置かもしれません。

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