17:時計塔にて
「また、失敗か」
新しく作った人形が、また反抗の意を示す。壊してしまってから、この繰り返しも段々パターン化して馬鹿げてきたと男は呆れた。人形の山には様々な年齢、体型、髪色、顔の女がいる。振り返ってみると自分が節操なしのようで男は苦笑した。
永遠の伴侶を求めるならば、最も愛した女性の人形を作り続けるべきだろうか?そういう奴は永遠の牢獄に閉じ込められたことがないからそう言えるのだ。
壊した人形の山。その一番下にあった人形。赤いドレスがよく似合う、美しい女の人形。
愛した人の姿を模した人形は、やはり別物に仕上がった。時が流れる内に、慰みのため作る人形は、愛した女性からかけ離れた姿になった。見ていられなくなったのだ。彼女と同じ顔で彼女と違うことを言うそのがらくた共が。だから全くの別人。その場凌ぎの人形を作った。唯の気晴らしのため。人形作りに愛など無い。時計作りとは根本的にそれは異なる。
「……しかし、寂しいものだな。永遠なんてものは」
例え神と呼ばれていても、不可能事は幾らもある。自分で街時計に降り立つことは出来ない。間接的な手段ならば幾つかあるけれど。
こうして寂しさを覚えると、思い出すことがある。決して立派な住まいではない。それでもささやかな生活と、確かな理解者。素直ではないあの子が、それでも男が時計を作る時だけは、興奮した様子でその様子を見守っている。新しい時計があまりにも奇想天外だったなら、勿論駄目出しは出る。それでも時計が飾られた室内で、あの子は楽しそうに調子外れの鼻歌を歌う。
寂しかったんだろう。幼い頃に母から引き離されて。そんなあの子を笑わせたくて、随分と変な時計も作った気がする。
(そう言う時、あの子は僕を必ず馬鹿と言う)
それでもその言葉は本気で僕を馬鹿にはしない。「うちの親父は世界最高の時計工だ」と自慢するような自信さえ漂わせて、あの子は僕を馬鹿と呼ぶ。この時代の誰にも理解されることはない。それでも「解っているよ」とあの子は遠回しに、いつも僕を褒めてくれた。僕の元を去った彼女が昔そうしたように、笑って僕を馬鹿にした。そう言う時のあの子を見るのが僕は好きだった。顔はあんまり似ていないのに、そういう仕草に現れる……愛した人の面影を、懐かしいと男は思った。
しかし、そんなあの子も失ったとなれば……もうあの子に何も重ねない。あの子をあの子として懐かしいと、恋しいと思うのだ。孤独な煉獄の中、今日のように寂しいと思う時。この寂しさの中あの子が居てくれれば、僕はどんなに救われるだろう。昔のように毎日が楽しいだろう。ああ、いっそあの子の人形を作ろうかと思ってしまう。
そう思ったことは永遠の中、何度でも。それでもそれを実行に移したことはない。代わりなどいない。作れるはずがないと知っている。がらくたによって思い出まで汚されたくはない。
触れられる愛しさ。それは刹那的なもの。触れられないからこそ愛しい。永遠を飼い慣らすには、そんな苦痛もその男には必要だった。
「……さて、街時計の方はどうなっているかな」
下を見下ろせる場所に出て、男は街時計達を見下ろした。天から見下ろす街時計。その中の一つに、これまで見たこともない狂いが生じていている。それが誰の気紛れか、神を名乗るその男ならば簡単に理解できる事柄。
「悪魔、か」
本の向こう側に向かって、男は深々と息を吐く。この狂いが吉と出るか凶と出るかは解らないが、悪魔が関わる以上どうせろくなことにはならない。男はそれもよく理解していた。
「……“クロシェット”」
それはかつて失われた……一人の少年の名。しかし今は無数の少年を示す名前だ。そこが過去であろうと未来であろうと、街時計の中にはその名を持った少年が必ず一人は生まれる。彼らは時を盗む大泥棒となり、多くの人を救うだろう。それもまた変わらない。しかし彼らが神に見せる結末は、いつも決まって悲しい物語。
かつて死した少年と同じように、誰からも感謝もされず、人間共の欲望のため犠牲となる。違う結末があったはずだ。あの子が笑える未来を見てみたかった。確かにそれを願いはしたが……
(あの子は、僕なんかのために……)
不甲斐ない男のために、復讐さえ始めなければ……彼が命を落とすこともなかっただろう。愛しい人が何度も殺され続ける様を、無限に見せられるこの苦痛。救おうとして手を伸ばしても救えずにこれまで何度も取りこぼす。
「もう一度、君に会いたいな」
その日までこの煉獄から自分が解放されることはない。自分の身の上を知って、男は再び深々と息を吐いた。
*
晩鐘の音が響く。音が時計を震わせる。そうして眠った時計達が目を覚ます。まるでこれは目覚まし時計。懐かしさと共に生きていた頃を思い出し、時間泥棒は卑屈に笑った。
夕焼けを見ていると、なんだか寂しくなるのは何故だろう。とても切ない気持ちになる。家路につく人々、灯りの灯る家々。そう言った物がもう自分にはないからか。
(父さん……)
家は裕福とは言えなかったけれど、それでも愉快な父との日々は、毎日が楽しかったのだ。その魂は今どこにあるのだろう?自分と同じように何処かの煉獄を彷徨っているのか?それとも地獄の業火に焼かれているのか。いや、煉獄だって変わらない。少年はそう思う。
決して消えることがない憎悪が胸を焦がしている。その苦しみから解放されることのない永遠の停滞。例え復讐を遂げたところで、自身の魂が安息を得ることは無いのかも知れない。そうなれば、次はどうすればいい?今度は誰を怨み、誰を傷付ければ良いのだろうか?
「クロシェット……」
少年の孤独に気付いた鳩時計は、そっと隣に寄り添った。
「大丈夫よ、すぐに賑やかになるわ!時計達が次々と目を覚ましている。これからはずっと楽しくなれるわクロシェット!」
「そうか……うん、そうだといいな」
これからはずっと一緒に居てくれると笑う鳩時計。彼女だけがこの煉獄の救いかも知れない。自分の代わりに泣いて笑ってくれる鳩時計。
「マキナ、後はどうすれば良い?」
「後は自動で決まった時間に鐘が鳴るようになるわ」
もう時計塔を離れても良い。何処へ行こうかと少年が尋ねるも、鳩時計は首を横に振る。
「見て、綺麗な夕焼け」
もう少し二人で眺めていたいと言った鳩時計に、少年は小さく吹き出した。
「そんなのこれから幾らだって見られるじゃないか」
この街はもう二度と朝も夜も来ない。地平線は炎々と永遠に燃え続けるのだ。見飽きることになるだろうその景色を、それでも鳩時計はうっとり眺める。
「それはそうだけど、こんなに夕焼けを綺麗だと思ったのは初めてよ」
「そ、そうなんだ」
何でかしらねと半笑いで答えを求める鳩時計から、戸惑いがちに時間泥棒は距離を置く。そんな少年の姿に鳩時計は「本当に恥ずかしがり屋ね」と微笑んだ。
「出発はもう暫くしてからにしましょう?今街は騒がしいし……クロシェットも疲れたでしょ?少し休むと良いわ」
「歌ったのはマキナなんだから俺より疲れてるんじゃ……?」
「私は平気だから」
勧められるまま、壁に凭れるよう座り込んだ時間泥棒。鳩時計はその傍らで、歌を歌う。それは眠気を誘う優しい子守歌。拒む理由もなかったのか時間泥棒は目を瞑る。その寝息が確かな物であるのを確かめて、鳩時計は重たい息を吐く。
深い眠りを誘う歌を聞かせてやった。この歌ならしばらくは目を覚ますことはないだろう。
「危なかった……」
この時計塔に近付いてくる人間の音がする。あの不規則な鼓動は時計じゃない。真っ直ぐにここを目指してくるような相手。心当たりが鳩時計にはあった。時間泥棒に見せた巻き戻しの記憶から、排除していた少女がいる。おそらくは、それが相手だ。今の内に飛んで逃げても良いが、追いかけられるのも面倒。早めに始末出来たらそれに越したことはない。鳩時計はこの場で戦うことを選んだ。
「……人間なんかに、生きている人間なんかにこの人は渡せない」
喪主は私よ。伴侶は私。この人は私の駒鳥。私だけの駒鳥。鷦鷯には渡せないのだ。
鳩時計はぎゅっと、自分の機械の手を握りしめた。
*
歌姫は時計塔を駆け上がる。夕暮れに染まった時計塔の螺旋階段。登り切るまでに感じた疲労は、これが夢などではない何よりの証拠。夕日の差し込む塔の中、機械の回る音がする動力室へと踏み込めば、確かにそこに誰かが見える。
失われた目深帽子。そこから覗く、伏せられた目。彼が何を考えているかはまるで読めない。それが少し不気味なのは、ぞっとするほど生気を感じない白い肌の所為。
(お兄、ちゃん……)
信じたくない。信じられない。それでもそこに、失われたはずの人が座っている。
それでも生前の彼とは違う。あれは寝言なのだろうか?彼は歌っている。下手で音痴だった歌声が、今はとても綺麗な旋律に変わっている。そして彼は歌えば歌うほど、その肌は血の気を取り戻していく。
(あれは、きっと歌ってはいけない歌なんだ)
歌姫はすぐ様それを察した。すぐに止めさせなければ。街がおかしな事になったのは、彼の歌の所為。頭ではそう理解している。それでも歌姫は動けない。もう二度と会えないと思っていた兄に、時間泥棒に再び会えたのだ。言いたかったこと。色々あるのに何一つ言葉として出て来ない。
「時間泥棒……お兄ちゃん」
どうすれば良いのか解らない。それでも彼に近付きたい。駆け寄ろうと一歩踏み出したところで、頭上から何か舞い降りた。
「クロシェットの邪魔をしないで」
「な、何よ貴女!?」
それは白い翼を背に付けた、美しい白髪の少女。だけど綺麗すぎて温かみを感じない。そんな娘の瞳は怒りを含んだ赤い色。確かな敵意を宿し、娘はそこに立ちはだかった。その相手が言うに、呼ばれた名前は兄の物。ではやはりあれは時間泥棒なのか。
「お兄ちゃんっ!」
「人間が私達、時計の邪魔をしないで」
彼女は羽を広げて通さない。どうして、何の権利があって私と彼を阻むのか。歌姫は白髪の少女を睨む。
「人間がって……あんた一体なんなのよ!?」
「私は鳩時計。彼の喪主よ」
「も、喪主!?」
「そう、クロシェットは私の駒鳥なんだもの」
うっとりとした口ぶりの鳩時計に歌姫は絶句。作り物めいた娘が、なんというか……女の嫌な面を全面的に表してきた。前言を撤回したいくらいだわと歌姫は感嘆の息を吐く。この時計は気持ち悪いくらい人間らしい。
「彼はもう死んだ人間。復讐をするにも正攻法では行えない。これはそのためのこと。仮に貴女が彼の身内なら、彼の復讐相手は貴女にとっても同じ事。だからここからお帰りなさい」
「復讐……?あの人がそんなこと望むわけがないっ!」
「貴女に彼の何が解るの?死んだこともない癖に」
「そ、それは……」
同じ問いを返すことも出来ない。歌姫が知っている兄は……本当に幼かった頃の記憶なのだ。追い打ちを掛けるよう、鳩時計は言う。彼は死んでから後悔したのだと。歌い逃げるだけで世界は街は変わらない。その嘆きが街を飲み込んだのだと彼女は言った。
「貴女、ランタンのジャックは知ってる?」
「ハロウィンのあれ?」
そこまで言って、突然話題を変えた鳩時計。律儀にもそれに付き合ってしまった歌姫は、お化けカボチャをイメージし、それがこの場とどう関係あるのか解らず首を傾げた。
「彼は生前の行いが災いして天国にも地獄にも行けなかった。そして現世を彷徨う亡霊となった。クロシェットもそれに似ている。彼が幸せになるためには、復讐がどうしても必要なのよ。生前の未練を、憎しみを浄化させなければ彼の魂は救われない。永遠にね」
「そ、それにしたってこんな無差別なやり方酷いんじゃないの?無関係の人間まで時計にするなんて」
「人間なんてみんな雀よ。彼の亡骸を見れば解るでしょ?」
街のために人のために真実を歌った。そう思われていた彼の死に様は惨め。野晒しの亡骸を埋めたのは他ならぬ歌姫だ。歌姫以外、誰も彼の死を省みなかった。罪人と関わることで自分も罪に問われることを恐れた。
「誰かが助けてくれれば彼は死ななかった。逃げる途中で助けてくれたなら」
「だって真夜中でしょ?人も少なかっただろうし、時間が時間だし……そんな」
それでももし自分が出会っていたら助けたと言い張る歌姫に、鳩時計は目を釣り上げる。
「そもそも何故彼が殺されたか貴女は知っているの?貴女が何時までも稼げないから彼が金貨を盗もうとしてしまった!その所為で彼は殺された!お墓を作って自分は弔ったつもりかも知れない!だけど貴女だって雀であることに代わりはないのよ!これ以上彼を苦しめないで!」
「わ、私……そんな、そんなつもりじゃ」
「貴女ここに何しに来たの?彼を成仏させに?それともぐだぐだ未練を伝えたくて?それか街を他人を救いたいなんて馬鹿みたいな正義感でも出しちゃった?」
「私……私は唯っ!あの人に……ありがとうってっ!!そう言いたかっただけよ!!私がそう言えば、お兄ちゃんはこんなこと!絶対止めてくれる!!こんなのおかしい!間違ってるもの!!」
「彼と話がしたいなら、生きてる貴女が雀を殺していらっしゃい!!ピエスドールとその手下……お前の父を殺した時計工!時計ギルドの長をその手に掛けてくるのね!でなければお前に私達の復讐を阻む権利はない!」
「きゃああああっ!」
白い翼の羽ばたきに巻き起こる風。吹き飛ばされた歌姫は階段を転がり落ちる。何度も身体を石段に打ち付けながら、下へ下へと落下した。古い建物を思いっきり転げ落ちたのだ。その衝撃でヒビが入っていた床が崩れる!
「ぎゃあああああああああああああああああああっ!!!」
口から迸るのは気取らない、本心からの叫び声。底の抜けた床は、下の階まで何階分の高さがあるのか。見たくない!確かめたくないっ!だけどこのままでは死んでしまう。それで痛みが和らぐとは思えないが、最後の抵抗。ぎゅっと目を瞑ったところで、予想外に柔らかい床に抱き留められた。
「レーヌ!?」
こんな時自分を助けてくれるのは……いつもあの金貸しだった。無事だったのと嬉しくなって目を開くが、目に映ったのは文字盤の顔。
「まったく、そそっかしいわねソネットは」
「……母さん」
そそっかしいはどちらの意味か。どちらもか。歌姫は泣きそうに微笑んだ。
自分を取り巻く現実を、痛いほどに思いだして。そうだ、金貸しは時計になってしまったのだ。今自分を助けてくれたのは、母の姿を模した指輪時計。それを母と呼ぶことに、まだ抵抗はあるが他に何と呼べばいいのかわからない。
(助けてくれたし、悪い時計じゃなさそうだけど)
「あんた何したの?階段が崩れちゃったじゃない。あれじゃ上には行けないわ」
「え、えっと……長い梯子持ってくる!」
「そんな重いの運べるの?この高さの梯子なんて私にだって無理よ」
「そ、そんな!」
こんな訳の分からない場所になって、立ち塞がるのがやけに現実的な障害だなんてわけがわからない!歌姫は憤慨し、唇を噛む。
助けを呼ぶにも人を雇う金がない。そもそも人がどんどん時計にされているのだ。金があっても意味がない。
「もうどうすればいいのよ!!」
「落ち着きなさい、ソネット」
「気安く私を呼ばないでっ!!」
肩に手を置きじっと此方を見つめる指輪時計。文字盤がじっと此方を見ているが、そんなことで落ち着けるはずもない。取り乱した歌姫は心ない言葉を時計に浴びせてしまう。
「そうね。私はお前の母ではないわ」
「あ、……ご、ごめんなさい」
文字盤の顔が僅かに悲しんだ風に見えて、歌姫は謝罪の言葉を口にした。
(この時計は私を助けてくれたのに……私、酷いことを言ってしまった。レーヌのこともそうだ)
助けて貰ったのに、助けずに私は時計塔に来てしまった。ここに来れば全てを解決できると思って。その癖あの鳩時計に言い負かされて、私は何も守れなかった。こんな事ならレーヌを追って彼女を助けてから一緒に来れば良かった。
(駄目……それって私、あいつを利用しているだけじゃない)
金貸しの好意は本物だ。その好意に甘えて踏みにじるような真似……これ以上は続けられない。俯いた歌姫に向かい、指輪時計は静かにそれでも優しく語りかけて来る。
「……ソネット。私は貴女の母ではないけれど、貴女の母をすぐ傍で見ていた時計。いつも肌身離さず付けられて、だからこうして彼女の姿になった」
「でも、それならレーヌの時計だってレーヌになってたはずよ」
「時計の姿は時計の願望。そして、時計工の願い」
「なんなの……それ」
「あの時計を作った時計工は、時計を美しく貞淑な妻のようにと考えた。私を作った時計工は、私の姿である女の事を考えて私を作った」
時計の外見のイメージは、時計工のイメージに依るところが大きいと彼女は言った。しかしそれだけでもないと時計は続ける。
「ソヌリ=ムーンフェイズの形見として貴女の時計になった私は、貴女にとって母のような時計になりたいと思った」
「時計の心は、時計が決める。時計工じゃなくて……作られた存在でも、自分の心があるって言いたいの?」
「そうよ。私も……あの腕時計も、貴女が上で出会った時計もきっと」
「あの鳩時計も……あいつが、あいつ自身の気持ちでお兄ちゃんを……」
「街で目覚めた時計達も、これまで何らかの願いがあった。人に酷使され消費される中、声なき声は確かにあった。時計に搾取される人間達は、報いを受けることになる」
そんなのおかしい。狡いとは言えない。これまで私達人間がしてきたこと。それをされ返されるだけ。時計が残酷なのではない。残酷を教えたのは人間自身。
(お兄ちゃんが、復讐を願った……)
人間は汚い。人間は狡い。人間は醜い。時計はそれを知っている。死んで時計になったお兄ちゃんはそれを知っている。私も人間だ。時計じゃない。私も憎まれているんだ、きっと。
「私……」
どうすればいいのか解らない。うずくまりその場を動けない歌姫の手。それを指輪時計がそっと引く。
「ソネット。私の持ち主は、貴女の母親は。助けてくれた人を見捨てるような恩知らず?」
どうすれば解らないのなら、まずあの金貸しを助ける。その上で相談してどうすればいいか決めればいいと指輪時計が頷いた。自分の気持ちが解らなくなったのならばそれでも良い。それなら取り返しが付かなくなる前に、まだ間に合うことをすれば良いのだと教えられた歌姫は立ち上がる。それでいいのよとまた頷いて、指輪時計が手を放す。
「でも助ける方法なんかあるの?」
「ソネット。さっきのは見たわね」
「うん。時計からの口付けは、人間を時計にしてしまう」
「ええ。時間を奪われた人間は時計になる。なら、その奪われた時間をあの金貸しに戻してあげればいい。彼女の身体が本当に時計になってしまう前に、まだ生きている内に」
「時間制限があるの!?」
「一度身体が時計になれば、もう人には戻れない。時計になるって事は冷たい物になる、死体になるようなものでしょう?制限時間は二十四時間。段々あの人の顔が文字盤になっていく。回りきる前にそれを防がなければならない」
二十四時間以内にあの腕輪時計と金貸しを見つけ出し、救出しなければならない。それも時計の溢れるこの街の中、時計達に見つからないようにしながら。
「大丈夫よ。いい、ソネット。貴女が時計。私が元は人間で、時計にされた人間という風に振る舞って。そうすれば時計達は何もおかしいとは思わないわ」
「でも、私教会裁判で色んな人に見られてる!」
「それはその格好よね。女の子らしい格好をすればバレないわ。ほら、この服に着替えなさい」
指輪時計が遅れて来たのは、家に戻って服の調達をしていたからなのか。歌姫は少し呆れて苦笑してしまう。頼り甲斐はあるがなんとも暢気なことだ。
「まぁ、兎に角助かったわ。ありがとう。でもこの服は?」
家では見たことがない服。それでも自分にぴったりな服。調達は家からではなかったのかと問いかければ、指輪時計がにやりと笑った気配がした。
「これはね、ソヌリが貴女へのプレゼントにこっそり買ったものだったのよ。いつも働かせてばかりで申し訳ないって、貴女に隠れて内職なんかして。ちゃんとしたドレスで歌えば、立派な歌姫になれるって言ってね。親馬鹿よね」
「でも私の誕生日まだだわ」
「それはそうよ。貴女が働く必要が無くなってから渡すつもりだったんだもの」
「私が働く必要がない?どういうこと?」
「あら、知らなかった?貴女のお父さん、大きな仕事が来てね。そのお金が入ったら、また家族みんなで暮らせるって言ってたのに」
「あ……!」
お兄ちゃんが時間泥棒。それは知ってる。時間泥棒は大富豪に殺された父親の仇を取るべく時間泥棒に……それも知ってる。殺された父親っていうのは私にとってもお父さんだ。
解っていたはずのこと、それがすっぽり抜けていたと歌姫は冷や汗を掻く。
「それじゃあ……復讐って」
その仕事。父に持ち込んだ相手。どうして鳩時計が時計ギルドの人まで殺せと言ったのか解らなかった。それがようやく見えて来た。
「お父さんは、精巧すぎる時計を作ったから殺されたんじゃない。最初から殺させるつもりで、大富豪にお父さんのことを教えた奴がいたんだ……。……母さん、何か心当たりはない?その人、時計ギルドの長だって!!」
「ソネット。一度に色々考えるのは駄目よ。あんたそそっかしいんだから!さ、着替えた着替えた!」
「ぶはっ!何すんのよ!いきなり頭からドレス被せないでーっ!」
「ふふふ、薄汚れたお嬢さんも馬子にも衣装。可愛い可愛い」
「仕方ないじゃない!昨日牢屋入っててお風呂入ってないんだし!!ちょっと、そこで三歩くらい下がるの止めてくれない!?時計の癖に嗅覚あるの!?」
「稀代の時計工が私のマスターですもの、ふふふ。そのくらいは」
「嘘!その笑いは絶対嘘っ!もうっ!信じらんないっ!何よ何よ!そうやって私のこと馬鹿にしてっ!!」
からから笑う指輪時計は、やはり母に似ていた。それがこの状況下での唯一の救いで慰めで……僅かな悲しみだった。
久々に時間泥棒。
伝えたいことを表現するために、ヒロインを死なせるか生かすか。かなり悩んだけど、ここまで6曲作った時間泥棒の曲を聞き直してたらようやく答えが見えました。
絵本書きつつ、終わりに向かって仕上げていきたいです。