10:二人の時計工
その青年は苦悩の中にいた。圧倒的な理不尽の前に彼は屈しかけていた。
それは何故か。それは彼が優秀な人間だったから。
普通の人間ならば気付かないだろうことを彼は知ってしまえる程度には彼は有能だった。
そう。彼は気付いてしまった。幾ら今の時代が自分を認めようと、時間はいずれ自分を葬り去ると知ってしまった。
今は誰も認めない。変人扱いされているあの男こそが、時に認められた人間なのだと知ってしまった。
彼は大いに苦しんでいる。他の誰もが理解できない未来への苦悩。他の誰もがそれには気付かない。気付けるまでの才能がないのだ。その才ある彼ですら、それに気付き認めるまで多くの時を要したのだ。生きている内にそれに気付ける人間が、果たしてこの時代にあと何人いるだろう?
20年前の彼は、そう……それに気付きながら、まだそれを認めるに至らない。それはそんな時代だったのだ。
「トゥール、お前の作る時計は本当に素晴らしい!」
「ありがとうございます」
街の中で一番大きな時計ギルド。そこには1人……有能な時計工がいた。
彼はまだ若い男だ。しかしその腕からギルドの中でも高い地位に就いていた。彼の時計はよく売れる。シンプルな中にも洗練された美しさが感じられるその時計は、金を持て余した紳士達によく売れた。中流階級から上流階級まで。彼の時計を所持することが一種のステータスだと言わんばかりの風潮を巻き起こしたその腕は確かなものだ。
元々このギルドをここまで押し上げたのは彼の功績によるもの。それまではドングリの背比べのようだったギルドの中から他のギルドが追いつけないほどの差を見せつけたのはこの若い時計工。
その傍らで、怒声を浴びせられているもう1人の青年が居た。
「まったく!だというのにクワルツ!!お前は一体何をやっているんだ!?」
「え、ええと」
「今月もお前の営業成績がダントツで最下位!お前達は同期だというのに何故こうも違うのだろうな!トゥールの爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだ!!」
「す、すみません……」
へらへらと苦笑する落ち溢れ職人に親方は再び唾をまき散らして怒鳴り散らした。
怒鳴られて売り上げが伸びるなら僕も喜んで怒鳴られるんですけどねとその職人が小さく漏らす。それに有能な時計工が小さく吹き出す。正にその通りだと二人で笑う。
落ち溢れのその態度にまたもや当たり散らそうとした親方も、目にかけている有能時計工に落ち溢れの肩をもたれてしまった以上、それ以上は言えなくなった。唯、理解しがたいと肩をすくめて言い放つ。
「全く信じられんな。どうしてお前達のような奴らの馬が合うのか私には全くもって理解しがたい」
付き合う友人は選べよと吐き捨てる親方に、落ち溢れ時計工はまたも苦笑い。
「親方ぁ、それはあんまりですよ。僕には人権ないんですかね」
一応僕にも心はあってですねと笑う彼に、親方は……
「人権なんて言葉よく言えた物だな!そんな口を利きたければ月に最低30台は売ってみろ!」
「一日一つですか。あはは。無理ですよー、そんなに早く時計作れませんよ」
へらへらと笑う友人に、有能時計工は吹き出した。彼は礼儀がないわけではないのだ。唯親方に対してこの恐れ知らずというか空気の読めないところが気に入っている。同じ世界を生きているのに、それを感じさせない風変わりというか自分の世界を生きているような所が面白いのだが、周りはどうもそうは思わないようで、二人揃ってある意味変人同士気が合うのだと思われている節もある。
有能時計工は変人と呼ばれることを気に留めていない。それは平凡な他人と区別されることであり、自分というものを認めさせることであると考えたからだ。天才と変人は紙一重とも言われる。そう呼ばれることは自分にとって、褒められているも同然と彼は考える。
しかしそんな自分もこの風変わりな友人には敵うまい。変人という一点において、この友人は自分を遙かに凌駕している。
「お前の場合作ってもそもそも売れないだろうしな」
嫌味とも取れる言葉を素直に受け取る友人は、やはりへらへらとした笑みで応える。彼は事実は事実として受け止めてはいるのだ。だからそれを気にすることもない。どんなに罵られても自分らしさを失わない彼の明るさを好んでいるのかもしれない。業績を争う、ライバルばかりの殺伐とした職場に彼が居ると、ふっとこうして吹き出して息抜きが出来るような気がする。この職場において彼は絶対に敵に成り得ない。そこまでの才がない。だからこそこうして安心して友人をやっていられる。彼もその力量のさを妬んだり僻んだりはしない。そういうところも気に入っている。
「そう!そうなんだよなぁ!どうしてだろう、今回の良い線行ってると思うんだけどさ」
落ち溢れの友人はへらへらと、これまた風変わりな時計を取り出した。
「…………お前は時計を一体何だと思って居るんだ?」
「そりゃ便利で、素敵で、職人の知識の結晶だよ!」
「まぁ、そうだな。それは認める。だがお前のは相変わらず多機能過ぎはしないか?」
シンプルイズベスト。時計は時計であるに限る。それが有能時計工のモットー。時計は純粋に時を刻むことに専念していればいい。尻尾を振る必要も媚びを売る必要もない。時計は娼婦ではない。時計は淑女だ。慎ましやかで出しゃばらず物静かで、それでいて清らかな乙女だ。生涯を共にしたいと思えるような理想の女。それが時計だ。
だというのにこの友人の時計。これは何だ?
大きさは鳩時計よりも小さい。それは箱。音が鳴り、絡繰りが周り……何か小さな劇を見せられているような、そんなものを時計と呼べるのか?肝心の文字盤は何処だ?ああ、これか。しかし肝心の文字がない。これは扉じゃないか。そこから人形が出てきて演奏を始める。時間事に曲が変わる?だからなんだ?意味が分からない。
「お前のはまるでオルゴールじゃないか。いや、いい音だけども」
「ああ、ありがとう!これは俺も気に入ってる曲なんだよ」
「もうお前いっそのことオルゴール職人にでもなったらどうだ?こんな小型のオルゴール……向こうのギルドでだって作られていないぞ?」
なんという才能の無駄遣い。
「嫌だよ。俺は時計工なんだから」
けらけらと笑う友人。ぐにゃぐにゃしている癖に意思だけは硬い。頑固な所だけは職人気質と呼べるだろうか?
「しかしこんな時計じゃ持ち運びなんか出来ないだろう?これからの時代に求められるのはやはり利便性。何時でも好きなときにより正確な時間を知ることが最重要課題となるはずだ」
「そうかな。俺はそうは思わないな。確かに正確な時間っていう点では同意するけど」
「何故そう思う?」
「俺は時計の音って好きだけど、そうじゃない人もいるだろ?時計の音に圧迫感を感じるっていう話を聞いてね」
言われてみればそうだ。この時計には針がない。秒針がない。それが表に出ていない。耳を澄ませれば微かにその箱の中から時を打つ脈が聞こえる。その音を押さえるためにわざわざこれを箱で覆った。曲でそれを掻き消した。
「時計って言うのは人を追い詰めるものであってはいけないんだよ。だから時計が人の心を和らげて安らげてくれるものであってほしいと俺は思うんだ」
「だから音楽か?」
「そういこと。音楽は良いよ、うん」
「まったく。今度は誰の入れ知恵だ?」
「街で素敵な歌姫に出会ってね。彼女の歌を聞いてヒントを貰ったんだ」
「歌姫だと?」
友人は女の趣味まで最悪だったのかと、有能時計工は頭を押さえる。
歌姫とは歌を売る女。それは建前だ。花が香りをまき散らすよう、女達が歌を売り捌くのは別のものを売るためだ。歌だけで生活費を賄える歌姫などそうそういない。すぐに別の職の世話になることになる。
「あんな低俗で下劣な女達……いいかお前も時計工なら、少しはプライドを持て!時計工は知能集団の集まりなんだ。いわば知識層!それがあんな娼婦の真似事をしているような下賤と関わり合いになるなんてお前のためにもならん。そんなことばかりしていて変な評判がついて余計時計が売れなくなったらどうするんだ!」
それまで何度酷いことを言ってもへらへらしていた友人が、ここで初めて異論を唱えるように此方を向いた。そんな表情で彼は「ありがとう」と小さく告げる。
「お前が俺の心配をしてくれるのは有り難いよ。何時も本当に」
手の掛かる奴だと目をかけていてくれる。それは本当に感謝してもしきれない。それでも踏み込んではならない領域が人にはある。それが今の話題なのだとその目は暗に告げていた。
「人が歌を歌うのは、何もお金のためじゃない。俺が時計を作るのも同じことだよ。彼女は歌が好きだから。俺は時計作りが好きだから。好きなことをやって生きている。それがとても幸せなんだ。だから俺はそんな幸せそうに歌う彼女と彼女の歌が好きなんだ」
それは彼女がどんな人間であっても、これまでどんな風に生きてきたかも関係ない話さと彼は言う。
「お前は馬鹿か?どう考えたって女はあれだ。遊び以外は基本的に生娘に限る。何処の馬の骨とも知れない相手に抱かれたような女、娶ろう何て酔狂何処にもいないぞ?時計だって同じだ。幾ら安くても誰の手垢が付いてるか解らないような中古品、誰が買うものか」
時計と女はステータスだと言って聞かせるも、友人は納得しない。
この友人のことだ。どうせ遊ばれているだけだ。稼ぎが少ないとはいえ、一流ギルドの職人。最低限の給料はある。それを目当てに鴨にされているだけ。
だというのにこの馬鹿はすっかり入れ込んで、もう結婚でもすると言わんばかりの顔つきだ。
「お前だって普通にしていればそこまで見れない顔じゃないんだ。そこにいい女を侍らせたなら男としての風格も上がるだろう。そうなれば時計作りにも精が出る。きっと今よりもっと良い仕事が出来るようになる」
「あ、定時だ。それじゃあお疲れー!」
「こら、人の話は最後まで聞け、だからお前は……」
今まで言い争っていたことも忘れたようにへらへらと友人はギルドを去っていく。
残業も時間外労働もしないからあんな風な仕事しかできないんだ、きっと。そう呆れて息を吐く。
「しかし……」
まじまじとその時計を見る。とても職場だけで仕上げたとは思えない。意外と繊細なその作り。陰では努力をしているのかも知れない。それでも正しい方向へ向かない努力を社会はそうとは認めてくれないのだと、何度言って聞かせてやればあいつは理解するのだろう?
「何?トゥール、機嫌悪いわよ」
行きつけの酒場に行けば常連の女達が寄ってくる。稼ぎの良いこの時計工、華やかな顔立ちではないが端正ではある。となればそれなりに女も集まる。
「そう言えば最近あんたあのちょっとおかしなお友達全然連れて来ないわねー」
「あいつも女が出来たとかで俺なんかと飲んでる暇がないんだ」
「あはははは!振られちゃったの?可哀想ー!」
「馬鹿か」
「ごめんごめん。そんな可哀想なトゥールには私が付いててあげるしぃー、いいじゃん!いいじゃん!朝までだって余裕で傍にいてあげるからさー」
腕に絡みついてくる女の腕。その言葉に流されるのも悪くはない。
遊びは大歓迎。責任なんか俺は取らない。女を泣かせた数と振った数こそ男の甲斐性。
その身体を抱き寄せて適当な場所に移動しようか。そう思い窓の外を見た時だ。
「……あいつ」
窓の外を通り過ぎる二人の男女。一人には見覚えがある。それはあの冴えない友人。
もう一人があいつの言っていた女か。どれどの程度のものか見せて貰うか。そう思い視線を移した先、目に飛び込んできたのは赤。
華やかなその色。鮮やかに焼き付くような、瞳を焦がす鮮烈なまでの美しさに息を呑む。脳天から雷でも食らったような衝撃に目を見開いた。
深紅のドレスに、赤い花の髪飾り。その華やかな色は人目を引く。それが何を表す職業の女かを一目で表す色だ。だから自分はその色があまり好きではなかった。常に見下していた。汚らわしいと。そのはずなのに、今はその色から目を離すことも許されない。
「ありゃ、ソヌリだな」
「ソヌリ?」
近寄ってきた他の馴染み客が彼女の名を口にする。それがあの綺麗な女の名なのかとぼんやり頭の中で繰り返す。
他の酒場の客達も皆窓に釘付けになったように彼女を見ている。中には歓声を上げて騒ぎ出す馬鹿まで居る。女達ははっと我に返ったように、相方の男の腕やら頬を抓り出す。
「振られた男は数知れずっていう高嶺の花さ。この街きっての高級娼婦。会うだけでも馬鹿高い金が要るってのに、そこから幾ら金を積んでも振られる男ばっかりっていう話でね。どういう基準で男を選んで居るんだか」
胸を張って誇れるような職ではないのに、凛と佇む様はあまりに美しい。少しも自分に恥じることなく夜の街を歩く彼女はこの夜さえも従えている。
こうして唯で見ることが出来るのはそれだけで凄い幸運なことだと酒場の客達は頷き合った。その僥倖に縋って今日こそはとギャンブルに手を出す輩まで現れた。
「……高嶺の花」
そんな女がどうしてあんな冴えない男と腕を組んで歩いているのか。
急に突然自分がみすぼらしくて惨めな気分になる。稼ぎはある。地位も俺の方が上だ。確かにいい女を侍らせればあいつも格が上がるとは言った。それでもその女が幾ら美人だからと言って、唯それだけであいつに何もかも勝っているこの俺が、どうしてここまで惨めな気分を味わわなければならないのか。
そもそもどうしてそんなこの街で一番の最高の女が、あんな男の手を取った?それは何かの間違いだ。あんな男より、余程俺の方が相応しいはずだ。だって、そうだろう?
理不尽という言葉が服を着て歩いている。それを今見せつけられている。有能な男はそんな風にその二人の背中を凝視していた。
*
「あれ…………父さんだ」
随分と若い。自分に何歳か足したような数。それでもその中に亡き父の面影を見た少年は、小さくそう呟いた。
それを聞いた鳩時計は、店の中と外を交互に見やり首を傾げる。
「あの時計工?どっち?」
「冴えない方」
「やっぱり」
答えは分かっていたけど聞いてみたらしい鳩時計。二人は顔を見合わせ笑い合う。
「やっぱり?」
「ちょっとクロシェットに似てる」
「似てないよ、全然」
「クロシェット、照れてるんだ?」
「照れてない!」
自分と父が似てないと思っていた少年は、鳩時計にそう言われたことに内心嬉しさを感じたていたが、やはりそれを素直に認められはしなかった。
「あ、あんな甲斐性無しに似てても全然嬉しくないし」
「はいはい」
ぶつぶつとふて腐れたように言葉を紡ぐ少年を、鳩時計はくすくす愛おしげに微笑んだ。
「……でも、嬉しいでしょ」
「……まぁね、ありがとう」
話題が変わったことに気付いた少年はそれを認める。
「母さん……あんな顔してたんだな。随分と会ってなかったから忘れてた」
不思議とその姿からは妙な懐かしさと温かみを感じる。それでもわからないことがある。
「なんか考えられないな。あんな人がどうしてあんな男を選んだのか」
あんな美人から自分が生まれたとか、考えられない。信じられない。となるとやっぱり自分はあの冴えない父親に似ているのか。ああ、それなら似ているのかも知れないと息を吐く。
「いや、でもそうか。それならあの親父に愛想尽かして逃げ出すのもわかるか」
あんな高そうで綺麗なドレス。綺麗な化粧。着飾っていたあの女が少ない稼ぎの男に養えるはずがない。それにそこに子供なんかが生まれたら……
「……って、子供?」
場面は変わっていく。綺麗なドレスを着ていた女は簡素な服へと姿を変えて。冴えない男はギルドではなく小さな工房へと身を置くように。
男の作り出す時計に、女は楽しそうに微笑んで。その完成を二人で本当に嬉しそうに笑い合う。
そんな二人が一番幸せそうに笑っていたのは、子供が生まれたその日のこと。
どんなに腕の良い職人でもこの子を越える宝物を作り出すことは出来ないし、高価すぎて値段を付けることが出来ないと、男が笑う。何もこの子まで時計に例えることはないでしょうと女がそれを窘めながらも微笑んだ。
「クロシェット?」
二人を見つめる少年が言葉を失った。それに気付いた鳩時計。
少年はとても悲しげな表情なのに、両目は依然として乾ききっている。死んでいる人間が泣けるはずもない。吐き出すことが出来ない悲しみはやがて咽から漏れる嗚咽に変わる。
「母さんが、親父に俺に……愛想尽かして出て行ったんだとしても、こんな風に……この時だけでもこんな風に喜んでくれたんだなって思って」
それだけで十分幸せだ。だからこそ、こんなにも辛い。
これは壊れてしまった幸せだ。もう今は何処にもない。それがわかるから、苦しくて堪らない。両目が熱い。燃え上がるような憎しみが胸を焦がす。
父親も自分ももう欠けてしまった。この二人がやり直すことはもう絶対にあり得ない話。赤ん坊を見つめる二人が、自分を……ここにいる自分の方を振り向いてくれることはない。絶対に。
「クロシェット……」
「父さんは、何処に行ったのかな……」
父も死んだ。自分も死んだ。それなのに未だ会えない。それは何故?
「天国か、地獄だと思うわ」
先に天国と付け加えたのは鳩時計の優しさだろう。少年は煉獄にいる。そこで出会えないなら父は確かにそのどちらかにいるはず。それでも答えは分かっている。二人とも。
戻れたかも知れない。この幸せの中に。そのためにあの父親は時計を作った。夢を捨てて、幸せを買い戻す。そのための金時計。
その全てを注いだ時計を奪われ、命も奪われ……幸せも帰らない。そんな死を遂げた非業の魂が、怨みの心もなく天に昇ることが叶うだろうか?父はきっと憎んだはずだ。罪悪感など消し飛ぶほどの憎しみ。煉獄などに彷徨い込むこともない。深すぎる業。憎しみに囚われて堕ちたはずだ、地獄まで。
それはとても悲しいこと。殺された。被害者だ。それなのにその死の先にさえ幸福はない。救いはない。そんな場所に父が囚われているのだと思うと、余計に憎い。父をそんな不幸のどん底に叩き落とした男が憎い。
「クロシェット……クロシェットは、どうしたい?」
「マキナ……?」
「あの男を、ピエスドールを殺したいのよね?」
「殺す、だって?」
そんなものじゃ足りない。生温い。
「俺は後悔させてやりたい。あいつが今までしてきたこと。自分自身を嫌悪し呪うほどの後悔を」
そのまま自分で苦しんだ挙げ句に首を吊らせてでもやりたい。そうすればあいつも地獄堕ちさ。自殺者は地獄に落ちるって教会は言っている。誰もが一度はそれを耳にしたことがある。だから心の何処かでそれが引っかかっている。だから必ずそうなるだろう。
「あいつも煉獄に堕ちてしまえば良いんだ。永遠に救われることはない。そこで俺が毎日毎日復讐してやるんだ……そうなれば、どんなに気分が良いだろう」
少なくともこの苦しみからは解放されるだろうと少年が哄笑。
「それなら……私は」
鳩時計が少年に向き合った時。彼女は気付く。少年の目が赤い光を宿していること。その目が暗く光り輝いていること。
「クロシェット……?」
その目の光に目を伏せて……もう一度彼女が目を開けばそこは、また場面が変わる。鳩時計は驚いた。巻き戻したのは時計としての自分の力。少年にそんな力はないはずだ。
視界の中の子供は成長している。巻き戻ったというわけでは無さそう。
唯変わったことはと言えば、声が聞こえる。誰の声?全ての声だ。その場にいる人間達の声。心の声。それが辺り一面に響いて反響。
少年の目がそれを曝き起こすように、暗く暗く人の心を照らしているようだった。
《俺はあいつが許せなかった》
「この声……何処かで」
「……トゥール=ルビヨン。時計工。若くして時計ギルトの親方まで上り詰めたクロノメーカー。……親父の友人で……親父を売った下衆野郎だ」
多くの声の中でもとりわけ大きく響く声。それに聞き覚えがあると感じた鳩時計に、少年は淡々とした口調で答える。こいつはあの大富豪に擦り寄っていた時計工だと。
*
俺はあいつが許せなかった。
あの女と出会ってからのあいつは目まぐるしくその才能を開花させた。それに気付いたのは俺だけだった。相も変わらず変な方向を向いているあいつの時計。それでも俺はそれに惹き付けられている自分にいつしか気がついた。
今までこいつは馬鹿だ変人だの見下す心が全くなかったと言えば嘘になる。俺はこいつを見下していた。そうすることで俺が如何に優れた人間かということを知ることが出来た。その物差しとして、俺はこいつを気に入っていたのだと自覚すると共に……俺は知る。物差しはこいつではなく、俺の方だったのだということを。
俺は自身を飾り立てるための時計を作っていたが、こいつは違う。ステータスとしての時計ではなく如何に人を楽しませるか。如何に人の役に立たせるか。何時でもそれを第一に考えていた。
時計は裕福層の必需品。それが今の時代の在り方。
時計は高価。だからこそ時計工を目指す人間が増える。時計も増える。需要に対しやがては供給が上回る。競争が進めば進むほど、その価格は低下する。将来的には時計というものは多くの人々の手に渡るものになる。今それを告げても誰も信じない。
貴族の使い捨て経済。それに組み込ませるのが時計。そう、長持ちする時計はあってはならない。季節の変わり目、あるいは一年。ファッション感覚で様々なデザインを売りつける。そうやって名を挙げる時計工も多い。
だが俺は違う。俺は何時の季節も違和感なく身にまとえるよう、シンプルを貫いた。その潔さと、耐久性。常に出来る限り以上の力で精巧さを求めた。一度の客は一生の客。修理を請負い、俺の作った時計と共に生涯を送って貰えるように努めてきた。
時計は女だ。時計は嫁だ。時計は妻だ。だからこそ、理想の女を時計に求めた。あんな女はまやかしだ。派手な時計なんて、ずっと一緒にいられない。どんなに美しい女もどうせ何十年かすればみんな婆だ。どんなに素晴らしい肉体だってその内垂れ下がるだろうよ。その落差に人は幻滅するものだ。それなら適度にいい女と程ほどに良い生涯を共にするのが一番だ。そうだろう?第一あんな女、見た目だけだ。見た目の良い女は性格だって歪んでいる。高飛車で出しゃばりで。女の癖に男と同等以上の扱いを求める。そんな時計はだれもいらない。俺は要らない。そうだ。それでいい。
そう思った。
それでも最後にあいつの家を覗いた時に、あいつの傍にいた女は……やはり美しかった。もうドレスなんか着ていない。化粧もそこそこに。それでもあいつの作る時計を夢見るように見つめるその目は、この街のどの女よりも綺麗に透き通っていた。
どうしても納得することが出来なくて、金を積んであの女に会いに行った。そしてどうしてあんな男に振り向いたのかと尋ねたことがある。
いっそ奪い取ってやろうかとも思った。身の程を知れとあの馬鹿男を嗤ってやろうと。それでもあの女は俺の金に見向きもせずに、笑って言った。「貴方の時計を見せて下さらない?」と。
比べものにならないだろう。俺は俺の作り出した最高の女を見せてやった。しかしそれをあの女は鼻で笑った。確かにそれは男は喜ぶかも知れないけど、女の私じゃ吐き気がするわと言わんばかりに。
そして女が俺に片手を見せる。そこには小さな指輪があった。今日で仕事を止めるのよと笑って言った。安物の宝石の付いたその指輪。それよりもっと高い指輪をくれてやると言ったが女は見向きもしない。「これは唯の指輪じゃないの」とくすくす笑いながら俺を馬鹿にした笑み。
耳を澄ませろと女は言う。俺は渋々それに従い、それに気付いた。微かに聞こえる秒針の音。それはどこから?女の薬指からだ。
その指輪が時計なのだとようやく気付き、絶句した。その基盤はあまりに小さい。俺の作る腕時計などとは比べものにならない緻密で精巧なその作り。その中にあの男はどれだけの機能を詰め込んでいるというのか?女の指から聞こえるオルゴールの音を聞いた時、俺はあいつの才能を認めざるを得なかった。俺の時計では、あの女にこんな顔をさせることは出来なかった。
そもそも贈る相手のことを考えるという意識が俺にはなかった。女なんて此方の趣味の物を贈って着飾らせるだけのものだろう?高価な物を贈ればそれが趣味でなくとも奴らは着るし身につける。それがステータスという物だ。
そもそもそれが間違っているとあいつは言わんばかりにその時計を俺に突きつける。安っぽい宝石かも知れない。それでもそれはあいつに買える精一杯。そしてあいてを驚かせよう、楽しませようという思いがそこには目一杯に詰められている。その直向きな心にこの女は打ち落とされたのだろう。あの男だけはこの女を真っ直ぐに見つめたのだ。その上で贈るべき物は何かを考えたのだ。
高価な宝石ならいくらでも贈られた。それでもそのどんな宝石よりも価値のある宝物だと女は微笑む。
去り際に見た女は、俺を振った日よりも柔らかく……優しい瞳で笑っていた。それがあまりに美しすぎて、俺はより惨めな気分になった。
俺は負けたのだ。時計工としての才能でも、あの女を巡る戦いからも。
その鬱憤。プライドを傷付けられた怒り。それに俺は支配されるようになる。幸い、あの男の才能にはまだ誰も気付いていない。俺が感じていたのは怒りだけではない。恐怖だ。今ある俺の地位も名誉も、あの男にいずれ奪われてしまうのではないか。それが怖くて堪らなかった。
それならどうするべきか?今の俺には地位がある。言いがかりを付けてあいつをどうにかすることくらい容易い話。そうだ。ギルドから追い出してしまえ。噂が尾鰭が広まれば、あいつを雇うギルドなんて何処にもなくなる。
あの女共々路頭に迷え。そして苦しい生活をすればいい。それだけが、傷ついた俺の心を癒すこと。
それから数年後、とうとうあの女が家を出て行ったと聞き、俺は大笑い。いい気味だと清々したと心から笑った。
あの馬鹿男はどんな顔で凹んでいるか見てきてやろう。そうして数年ぶりに足を運んだあいつの家には見慣れぬ1人の子供がいた。
親父よりぱっとしないガキだ。いるのかいないのかよくわからない程影が薄い。
茶を運んできたその指はまだ時計作りを知らない綺麗な指だ。俺たちの積もる話に暇そうにしていたので試しにと修理用に持ち運んでいた時計を弄らせてやる。
それに俺はまたしても言葉を失った。
このガキはとんでもない。何の知識もない癖に、時計を動かしやがった。あり得ない。俺だって、この馬鹿男だってそんなことが出来るはずがない。時計って言うのは本当に繊細な生き物だ。知識も経験もない子供がどうこうできるはずがない。そんなことがあるとするなら奇跡か魔法か……こいつをも越える天才が生まれたと言うことか。
「なぁ、お前の所も大変だろう?」
俺はそう切り出した。
「俺の所も落ち着いてきたところだとは思ったんだがうちの娘が遊び相手が欲しいと我が儘を言い出すような年頃で……お前さえ良ければしばらくこの子をうちで預かっても良い。男で一つで子育ては大変だろう。金もかかるし、お前の職が安定するまで俺が面倒見てやっても良いぞ?」
こんな環境じゃろくに時計作りを教えることも出来ないだろうから、代わりに俺が教えてやると囁くが、あの馬鹿は何処までも馬鹿で俺の申し出を拒絶した。
「お前が俺のために言ってくれてるのはありがたいよ」
以前と同じだ。ありがとうと言いつつ俺をきっぱりはね除ける。
「養育費は全部俺が持ってやるって」
「そういう話じゃないんだ」
あいつは弱々しく首を振る。
「俺はそこまで強い人間じゃないから、誰かが居てくれないと困るんだ。あいつも居なくなって、この子まで居なくなったら俺は……何のために時計を作ればいいのかを思い出せなくなってしまいそうで」
この子が居るから頑張ろうと思えるんだよとあいつは小さく呟いた。
「本当はこの子もあいつに預けようかと思ったんだ。この年で母親から引き離すのは可哀想だろ?」
「ああ、だからな……うちには俺の妻もいるしあいつ意外と面倒見が……」
「だから母さんの所に行っても良いんだよって言ったんだ。そしたらうちの子何て言ったと思う?それじゃあ父さんが1人になっちゃうし可哀想って言って残ってくれたんだよ!!もう可愛いだろうちの子!もう本当に俺頑張らないとって思って」
工房には沢山の時計が並んでいる。以前より作業のスピードも遙かに上がった。相変わらず丁寧な作りだ。装飾も美しい。だというのに価格が安い。相変わらず儲からない仕事をしている。
以前はわけのわからないものが安くてもそりゃあ売れない。売れなかった。
それでも今度は良い物が安い。そりゃあ売れる。売れるけど、売れない。こいつが作れる数には限りがある。材料費もある。生活費もある。この安さなら商売として成り立っているかも怪しい。頑張っても無駄な頑張りだと何故気付かないのか。
家族と他人。その両方を同時に幸福にすることなど出来ない。仕事と家庭は成り立たない。仕事を選べば家族が離れ、家族を選べば仕事を失う。両立などあり得ない。だというのにこの馬鹿男は。
「いいか。これはお前のためじゃない。お前がそこまで可愛いというこの子のためだ。お前だって解るだろう?お前の傍にいてこの子が幸せになれるとは到底思えない」
「………そうだね。そうかもしれない」
「なら……」
なら寄越せ。今すぐ寄越せ。
この恐ろしい才能の子供を手中に収める。幼い内からうちの娘と仲良くさせればその内勝手によろしくなるだろう。そうすればしめたものだ。
俺には跡継ぎの息子が生まれていないが、1人娘がいる。うちの娘はお世辞抜きで可愛い。冗談抜きで可愛い。妻も俺も顔は悪くないから当然だが。その上性格だって悪くないし気品もある。男だったら誰もが惚れる。間違いなく惚れる。
そうなればこの才能を俺の家が手にすることが出来る。婿養子だってつまりは俺の子供。俺を継ぐ。俺の名を継ぐ。この天才の師は俺になる。こいつが偉大な時計工になれば俺の名も語り継がれる物となる。
この数年でもほんの少しだが俺の時計の値段が下がってきた。品質は変わらない。むしろ向上している。それなのに、だ。俺は焦りを感じている。俺の時計を時代が不要になる日が、その足音が……次第に大きくなっていくのを感じている。
俺の時計が永遠を刻むことなどあり得ない。そう言われているようで怖いのだ。この街では有名な俺の名前も、その内誰も知らない物となる。お前なんかちっぽけな人間だ。掃いて捨てるほど代わりはいる。歴史が俺にそう語りかけてくるようだ。
俺は時計を売ることで自分を売ってきた人間だ。俺は常に自分のために時計を生み出してきた。それは売名行為であり、俺の自己顕示欲の表れでもある。そうやって培われてきたプライドが、俺の名が埋もれることを許さない。俺の時計が永遠を刻めないのなら、俺の名だけでも語り継がせたい。偉大な男だと永久に崇められ続けたいのだ。
俺は俺とこの馬鹿との勝負はもう負けを認めてやった。だから自分の限界を、この才能に託したいと思ってはいけないのか?
そう。これはチャンスだ。どんな手を使ってでも俺はこの子供を手に入れなければならない。そう、どんな手段を用いても。だというのにこの馬鹿男、幾ら言っても折れやしない。
「それでもそれはこの子が決めることなんじゃないか?俺はこの子がそう言うなら止めないし、この子がやりたいことがあるって言うなら無理に時計作りをさせようとも思わない。俺みたいになってもこの子が幸せになれるかどうかはわからないしね」
そう言い切った馬鹿男に俺は返す言葉を見失い、二度目の屈辱を味わわされた。
*
「何この男……最低だわ!」
男の独白に、鳩時計は頬を紅潮させて激昂。対する少年は冷たい眼差しで男を見やる。
かつての母のように惨めな男だと、それを鼻で笑うように。
そしてこの男はどうしてくれようか。その処遇を考えるよう顎に手を当てた時、またもや辺りの景色が変わる。
それには少年も目を見開いた。見覚えがありすぎるその場所は、今に限りなく近い自身の我が家。場面が現在に近づいてきているのを強く実感する。
「ありがとう……っ!本当にっ」
「いや、安いご用だ。最近は疎遠になっていたがお前と俺は友人だろう?」
「ああ、ありがとう!!何て言ったらいいのかわからないけど本当に感謝してる」
「元々お前を追い出したのは俺みたいなものだしな……ずっと俺はそれに負い目を感じていたんだ」
「そんなことはない。あれは俺が業績を伸ばせなかったのが悪いんだ。お前のせいじゃないよ。それでもいいのか?俺なんかにこんな大仕事任せてくれたりなんかして……」
二人の時計工が話をしている。見慣れた父の工房で。
「うちのギルドも名前の上に胡座をかいて精進を怠る輩が増えてきてな、最近じゃろくな職人がいなくなった。それでこの仕事を任せられそうな奴がいなかった。……お前は確かにぶっ飛んでるが、腕は確かだ。俺が今まで認めた職人はお前だけだ」
「トゥール?」
「いずれ時代がお前に追いつく。俺はそれを知っていた。だからお前に負けたようで悔しかったんだ」
諦めたような表情で微笑む父の友人。その表情の裏に隠されたのは別の表情。
「それでもお前と競って時計を作った頃が一番楽しかったような気がしてな。若い奴への刺激にもなる。良い機会だ。……この仕事が上手く行ったら、うちのギルドに戻ってきてくれないか?」
表の顔。差し出された手を疑うことなく握り返す父はやはり愚かだ。少年は悲しい気持ちになった。
友人の声は全く違う物だった。それが彼には見えていたから。
男は悪魔の囁きに耳を貸してしまった。それに魂を売り渡したのだ。名声のために友の命さえ売る外道に成り下がった。
「俺のせいで……父さんは」
景色はやがて、父の最期を映し出す。時計を受け取る大富豪。その時計の完成度に感嘆の声を上げた大富豪は、次の瞬間手下達に天才時計工の殺害を命じた。こうなることを理解した上で、父の友人はあの商談を持ちかけに来た。そうすることで身寄りのなくなった少年を、父の友人という面で迎えるために。
幼い自分が間違って完成させてしまった時計。そこから回り始めた歯車が全ての引き金。父が殺されたのは、この友人の差し金だった。
完全に今に戻ってきた二人の時計。怒りと悲しみに肩を振るわせている少年を後ろから思い切り少女が抱きしめる。彼の怒りを抑え込むためではない。その悲しみを共有しようとするように。
「クロシェット……違う。時計は、違う」
「…………マキナ」
「時計は人を不幸にするための物じゃない。時計は人を幸せにするために生まれてきた物。だから違う。悪いのは人間よ!」
時計を完成させた貴方は悪くない。悪いのは、それを悪用しようと企んだ人間なのだと鳩時計は泣き叫ぶ。
「私は時計。私は貴方の鳩時計。必ず私は貴方を幸せにしてみせる!だから貴方は何も悪くない!クロシェットっ……!ねぇ……そうでしょ!?」
「この男も!あの大富豪も!そうよみんな苦しめてやりましょう!?楽に何てしてあげない!!私達二人で、ずっといたぶって苦しめて何度だって殺してあげましょうよ!」
「でも、生きている人間を殺すのは難しいことなんじゃ……」
「簡単な話だわ!時計にしてしまえばいいのよ!貴方は最高の時計工だもの!そうしてしまえば何度だって時計を直せる。動かせる。何回でも飽きるまで壊して、直して、壊してあげるの!飽きたらそのまま忘れて捨て置いてあげればいいわ!思い出したらまた壊していたぶってあげまあしょう!?ずっと、ずっとそうやって貴方の心が癒えるまで!それを繰り返せば良いんだわ!それが貴方の幸せ!貴方が幸せになるための方法なんだわ!!」