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彼女は後輩と記念日を祝っていた。会社中が知っていたのに、俺だけが知らなかった

作者: 熾星
掲載日:2026/11/06


 秋の夜、水瀬真帆は山あいの温泉旅館で月を眺めたいと言った。仕事が忙しかったから、一晩くらい一人でゆっくりしたいのだという。


 出かける直前、真帆は玄関で私の顔を見て、少し眉を寄せた。


「航平も来るの?」


「送っていこうかと思って」


「いいよ。一人で行きたいから」


 そう言って真帆は出ていった。しばらくして、玄関に彼女の喘息用の吸入薬が置きっぱなしになっているのに気づいた。発作が起きたら困る。私は自分の車で後を追い、山あいの旅館まで薬を届けに行った。


 真帆は薬を受け取ると、早く帰るように促した。何か言おうとしたとき、背後から若い男の声が聞こえた。


「真帆さん、どうしたんですか? 今日は俺たちの記念日なんだから、主役が外にいたら駄目でしょう」


 桐谷拓海が旅館の中から出てきた。彼は私を見ると、以前から知っている相手にするように笑った。開いた戸の向こうには会社の同僚や友人たちが集まり、酒や料理を囲んでいた。


 五年間付き合ってきた真帆が、別の男と交際記念日を祝っている。しかも、周りの人たちはそのことを知っていたらしい。知らなかったのは私だけだった。


 真帆は気まずそうに目をそらした。


「航平、ずっと話そうとは思ってたの。でも、どう切り出せばいいかわからなくて。今日はみんなも来てるし、お願いだから帰ってくれない?」


 返事をする前に、拓海が親しげに口を挟んだ。


「せっかく来たんですから、久我さんもゆっくりしていけばいいのに。部屋は埋まってますけど、車の中なら一晩くらい大丈夫ですよね。サンルーフがあるなら、月も見えるでしょうし。終わったら毛布くらい持ってきますよ」


 私は二人を見比べた。言い返す気にもなれず、駐車場へ向かった。


 月は山の上に浮かんでいた。


 眺める相手くらい、自分で選んでもいい。



1



 帰り道、山の中腹で車が故障した。ロードサービスには連絡できたものの、山道ということもあり、到着までかなり時間がかかると言われた。私は運転席に座ったまま、スマートフォンを開いた。


 真帆がSNSを更新していた。旅館の庭で、何人もの男女がグラスを掲げている。真帆の隣には拓海が座り、二人は一枚のブランケットを肩に掛けていた。


 投稿には、短くこう書かれていた。


 ――十五夜。大切な人たちと、最高の夜。


 コメント欄には会社の同僚たちが並んでいた。


「拓海君、やっと本命になれたんだね!」


「真帆さんと拓海君、お似合いだと思ってた!」


 受付担当の三宅美咲も、ほかの同僚と楽しそうにやり取りしていた。


「航平さんって優しいけど、真帆さんには物足りなかったんじゃない? 一緒にいると、毎日が休日みたいになりそうだし。拓海君は話も面白いし、前に真帆さんをパラグライダーに連れていったんだって。ああいう人と付き合ったら楽しそう」


 真帆の親友、大庭奈緒まで口を挟んでいた。航平は料理ができるくらいで、拓海は有名大学の経営学部を出ていて仕事もできる。真帆には拓海のほうが合っている、という内容だった。


 先月、奈緒が引っ越したとき、私は半休を取って冷蔵庫を六階まで運ぶのを手伝った。引っ越し業者の見積もりが高すぎると聞き、頼まれるまま大きな荷物を何度も往復して運んだ。帰り際に「本当に助かった」と言われ、真帆の友人に頼られるのも悪くないと思っていた。


 営業部の佐藤も、拓海が大口顧客を次々に獲得していると褒めていた。私はそのコメントを見つめた。


 その顧客に提案書を出したのは私だ。何度も先方へ足を運び、要望を聞き、データを集めて、三か月以上かけて企画をまとめた。


 報告会の前日、真帆は私に登壇を辞退するよう言った。


「航平は人前で話すのが得意じゃないでしょう。説明は拓海に任せたほうがいいと思う」


 そう言われ、私は資料を渡した。報告会は成功し、社内表彰で最上位の評価を受けたのは拓海だった。私には通常の評価しかつかなかった。


 当時は、自分の成果をいちいち主張するのも大人げないと思っていた。真帆の会社がうまくいけば、それでいいと考えていたからだ。


 今、コメント欄を見ていると、あのとき黙っていた自分まで馬鹿にされているような気がした。


 そのとき、真帆から電話がかかってきた。


「航平、来週月曜の四半期報告の資料、できてる? 拓海がデータをいくつか確認したいって。明日の朝までに送っておいてくれる?」


 私は車が故障したことを伝えた。真帆は一瞬黙ったあと、苛立った声を出した。


「またなの? こういう大事なときに困るんだけど。月曜に間に合うように、自分のことは自分で何とかして。拓海の仕事に影響を出さないでね」


 電話はそこで切れた。


 翌日の昼過ぎ、ようやく車を修理工場へ運んでもらい、私は汐見野市のマンションに戻った。玄関の靴箱には、見覚えのない男物のスニーカーが置かれていた。


 リビングのテーブルにはワイングラスが二つ。寝室のサイドテーブルには、拓海が使っているのと同じブランドの香水があった。


 私は香水を元の場所へ戻し、クローゼットを開けた。自分の服や本、細々した荷物をスーツケースに詰めていく。三年間暮らした部屋なのに、私の持ち物はスーツケース一つに収まった。


 片づけを終え、リビングを見回した。壁には真帆と私の写真が一枚もない。玄関の小さな額に入っていたのは、真帆と友人たちの写真だった。


 同棲を始めたころ、私は二人で撮った写真を壁に飾ったことがある。真帆はそれを見るなり、あまり好きじゃないと言って外させた。彼女が写真を飾るのを好まないのだと思い、私は額を引き出しにしまった。


 スーツケースを玄関に置き、真帆にメッセージを送った。


「スーツはアイロンをかけてクローゼットに掛けておいた。俺の荷物はまとめたから、鍵は部屋に置いておく」


 すぐに返信が来た。


「どういうこと? 荷物を持ってどこへ行くの? 明日、迎えに来てくれないの? 月曜の資料はできてる?」


 私は返さなかった。続けて届いたメッセージには、四半期報告が迫っているのに、今さら仕事を放り出すなんて無責任だと書かれていた。


 タクシーを呼び、駅へ向かった。切符を買ったのは、五年前に離れた故郷の桜ヶ丘町までのものだった。いつか帰ろうと思いながら、ずっと先延ばしにしていた場所だ。


 出発前、真帆に最後のメッセージを送った。


「吸入薬は自分で管理してくれ。俺はもう、君の生活の世話を続けられない。別れよう。会社も辞める。月曜の資料は拓海に任せてくれ」


 メッセージは既読になったが、返事はなかった。


 列車に乗り、席に腰を下ろしたところで、真帆から電話がかかってきた。私は画面を見つめたあと、電源を切って鞄にしまった。


 列車がゆっくり動き始め、窓の外の街が後ろへ流れていった。


 汐見野市で過ごした五年間は、真帆がいたから続けてきた生活だった。


 もう、その理由はなくなった。



2



 桜ヶ丘町に着いたのは、深夜だった。両親には連絡していなかったので、玄関を開けた二人は驚いていたが、すぐに私を家へ招き入れた。母は食事を出そうと台所へ向かい、父は疲れていないかと何度も尋ねた。


 私は二人が落ち着くのを待ってから、真帆と別れたこと、会社も辞めるつもりでいることを話した。


 母の顔から笑みが消えた。父も黙り込み、しばらくして母が部屋の奥から小さな箱を持ってきた。中に入っていたのは、真珠のネックレスだった。


「いつか二人が結婚するときに渡そうと思って、少しずつ貯めていたの。真帆さんに似合うと思ってね」


 父も隣で頷いた。


「お母さん、先週も服を見に行っていたんだ。都会で暮らしている人だから、こっちの家に来たときに気まずい思いをさせたくないって」


 私は箱の中のネックレスを見つめた。母は真帆の好みを知ろうと、電話で何度も好きな食べ物や色を尋ねていた。帰省したら何を食べさせようかと、楽しそうに献立を考えていたこともある。


 そんな母の姿を思い出すと、胸が詰まった。


 翌日の昼、真帆から電話がかかってきた。開口一番、彼女は月曜の報告会で拓海が失敗したと告げた。データの数字が合わず、顧客から厳しく問い詰められ、契約まで危うくなったという。


「辞めるのは勝手だけど、どうして資料を整理しておかなかったの? 航平が急にいなくなったせいで、部署全体が迷惑してるのよ」


 私はしばらく黙ってから答えた。


「資料は俺が作っていた。拓海が内容を理解していなかったなら、本人が確認すべきだったんじゃないか」


 真帆の声が尖った。


「何が言いたいの? 拓海はプロジェクトの責任者よ。報告がうまくいかなかったのは、あなたがちゃんと引き継がなかったからでしょう。それに、拓海と私のことまで持ち出すのはやめて」


 私は昨夜見たSNSのスクリーンショットを送った。


「これも仕事の一環なのか?」


 真帆はすぐには答えなかった。


「同僚が冗談で書いただけよ。みんな大げさに騒いでいるだけ。あなたは本当に面倒くさいところがあるね」


「じゃあ、部屋にあった男物の靴は誰のものだ?」


 電話の向こうが静かになった。


 真帆は、拓海が仕事で遅くなった日に一晩泊めただけだと言った。香水も忘れていったものだと説明した。


「それから、勝手に私の部屋を調べたの? プライバシーってものがあるでしょう」


 そう言って、彼女は電話を切った。


 午後になると、奈緒からも連絡が来た。


「航平、もう少し大人になったら? 真帆がどんな立場の人か、わかってるでしょう。拓海とはちょっと仲がいいだけよ。あなたと結婚するつもりだったんだから、そんなことで意地を張らなくてもいいじゃない」


 奈緒は、拓海には仕事の能力もあり、人前で話すのも得意なのだから、真帆の会社では必要な人材なのだと続けた。


「あなたは裏方の仕事が得意なんだから、そこを頑張ればよかったんじゃない?」


 私は息を吐いた。


「アドバイスありがとう。奈緒も誰かの裏方を頑張ればいいんじゃないか」


 夜には真帆の母親からも電話があった。


「若い人同士の喧嘩でしょう。あまり意地を張らずに、また顔を見せてちょうだい。今度来たら、好きなものを作ってあげるから」


 私は思わず笑ってしまった。


「おばさん、俺が好きなのは酢豚じゃなくて、魚の煮付けですよ。拓海が好きなのは、たしか豚の角煮でしたよね。食事会のたびに、いつも用意されていたから」


 電話の向こうは静かになり、やがて短い挨拶だけで通話が終わった。


 私は縁側に座り、庭の木々を眺めた。夜風が葉を揺らし、遠くから虫の声が聞こえてくる。


 この家では、誰かに気を遣って自分を小さくする必要がなかった。



3



 帰省して五日目、私は汐見野市へ戻り、マンションの退去手続きと退職の準備を進めることにした。


 部屋の前まで行くと、暗証番号が変わっていた。大家に連絡すると、真帆が婚約者だと名乗り、鍵を交換してほしいと頼んできたらしい。私は自分が契約者であることを説明し、大家に立ち会ってもらって部屋に入った。


 中の様子も変わっていた。靴箱には真帆のパンプスと拓海のスニーカーが並び、ソファには男物の上着が掛けられている。冷蔵庫には真帆の字で、拓海に向けたメモが貼ってあった。


『牛乳は二段目。温めて飲んでね』


 私は部屋の写真を撮り、真帆と拓海の荷物を箱に詰めて廊下へ運び出した。


 ちょうどそのとき、二人が帰ってきた。拓海は飲み物の入った袋を持ち、真帆の腕に手を添えていた。私を見つけると、真帆はすぐに腕を離した。


「何をしてるの?」


「退去の準備だよ。俺が借りていた部屋だからね。二人の荷物はまとめておいた。これから住むところは、自分たちで探してくれ」


 真帆は顔を赤くした。


「ここは二人で暮らす家だって言ってたじゃない。私に相談もせず、勝手に出ていくの?」


 拓海が慌てて間に入った。


「久我さん、真帆さんが一人だと危ないと思って、俺がそばにいただけです。久我さんが戻ってきたなら、もう俺がいる必要もないでしょう」


 私は箱を床に置いた。


「そばにいるだけで、香水まで置いていくのか。これからは堂々と一緒にいればいい。隠す必要もないだろう」


 真帆は私の頬を平手で打った。乾いた音が廊下に響いた。自分でも驚いたのか、彼女は一瞬手を止めたが、すぐに私を睨みつけた。


「五年も付き合ってきたのに、あなたは簡単に全部捨てるのね!」


 私は頬に手を当て、真帆を見た。


「捨てたのはどっちだ? 俺が何をしてきたか、君は一度でも考えたことがあるのか」


 それ以上は言わず、大家と退去の手続きを済ませた。


 最後に確認したかったのは、馴染みのバーに預けていた高級ウイスキーだった。三か月分の給料を貯めて買ったもので、真帆にプロポーズするときに開けるつもりだった。


 ところが店長は、すでに真帆が持ち帰ったと教えてくれた。会計記録を確認すると、私が店に預けていた数万円も使われていた。


「水瀬さん、誕生日会を開いていたんですよ。会社の方も大勢来ていました」


 その日は拓海の誕生日だった。


 真帆は私に、会社で残業すると言っていた。


 私は店を出て、真帆にメッセージを送った。


「預けていたウイスキーは、プロポーズのときに開けるつもりだった。もう必要ない。これで連絡は終わりにする」


 その後、真帆から何度も電話がかかってきた。最初は私を責める内容だったが、やがて弁解に変わった。


「勝手に会計を調べるなんて、どうかしてる。お酒は、あなたがもういらないと思ったから持っていっただけよ。取っておくなら、そう言えばよかったでしょう」


 しばらくして、別のメッセージが届いた。


「お酒のことは謝るから、戻ってきて。拓海のことも私が何とかする。会社に戻ってくれたら、主任に昇進させるから」


 私は返信せず、真帆に関係する連絡先をブロックした。


 それから、御影修司に電話をかけた。


「御影さん、お話ししたいことがあります。以前いただいたお誘いについて、改めて相談させてください」



4



 御影修司は、業界でも知られた企業の副社長だった。三年前、業界交流会で私の企画書を見て、転職を勧めてくれたことがある。当時は真帆の会社を離れたくなくて、私はその申し出を断っていた。


 今回、御影が提示してくれたのは、プロジェクト全体を統括する役職だった。


 初出勤の日、御影は私をチームの責任者に紹介した。


「こちらが白石千尋さん。君と一緒にプロジェクトを進めてもらう」


 千尋は書類から顔を上げ、私を一瞥した。


「御影さんが話していたのって、あなた?」


 彼女は私より一歳年上で、現場から経験を積み、今の部署を任されるようになった人だった。回りくどい話を嫌い、仕事の判断も早い。


 千尋は初日から、進行中の案件資料を机に広げた。


「目を通して。実現できるものと、見直しが必要なものを分けてほしい」


 私は資料を読み込み、午後には優先順位をまとめた。千尋は一覧を確認すると、少し眉を上げた。


「前の会社、あなたの使い方を間違えてたんじゃない?」


 入社から二週間後、私は最初の大口顧客との契約をまとめた。以前の会社で二年間担当していた取引先だった。私が転職したことを知った先方から、新しい会社でも私に担当してほしいと連絡があったのだ。


 契約の打ち合わせで、顧客は御影に向かって言った。


「久我さんが担当だったころは、彼が責任者だと思っていました。ところが、後任の桐谷さんは基本的なデータの説明もできなかった。今回は久我さんがいると聞いて、御社にお願いすることにしたんです」


 その後も、私は以前から担当していた顧客との契約をいくつか成立させた。


 前の会社の同僚からは、真帆が私に顧客を奪われたと怒っている、と連絡が来た。拓海は何度か報告に失敗し、真帆から厳しく責められているらしい。真帆は法務担当に相談し、私が会社の情報を持ち出していないか確認しているという。


 だが、私は社内資料を持ち出していない。転職先にも前の会社の機密情報を渡していない。以前から自分で担当していた顧客が、私の新しい勤務先を知ったうえで、改めて取引を申し込んできただけだった。


 その話を千尋にすると、彼女は私のスマートフォンを見ずに言った。


「もう辞めた会社のことを、いつまでも気にしなくていい。午後三時から提案会議があるでしょう。資料のレイアウトを少し直しておいたから、確認しておいて」


「ありがとうございます」


「いちいち礼を言わなくていいから。昼もまだでしょう? 下に新しい麺の店ができたの。行くなら付き合うよ。もちろん、今日はあなたのおごりね」


 昼休みに二人でビルを出ると、入口に真帆が立っていた。


 私の社員証を見るなり、彼女の表情が変わった。


「航平、御影の会社に移ったの?」


「そうだよ」


「自分が何をしたかわかってる? あの顧客たちは、私が何年もかけて関係を築いてきたのよ」


「前は拓海の功績だと言っていたよね。だったら、これからは彼に任せればいい」


 真帆の視線が千尋に移った。


「その人は誰? 新しい同僚? それとも、もう新しい彼女ができたの?」


 千尋が先に名乗った。


「白石千尋です。久我さんの同僚ですが、あなたは?」


「私は五年間付き合っていた彼女よ」


 千尋は一度頷いた。


「そうなんですね。元恋人の方でしたか」


 真帆は私の腕をつかんだ。


「航平、私に仕返しするためにここへ来たんでしょう? 私の会社を潰すつもりなの?」


 私は彼女の手を見下ろした。以前は、私が真帆を引き止める側だった。嫌われたくなくて、彼女の機嫌をうかがい、何度も謝ってきた。


 私は真帆の手をそっと外した。


「どこで働くかは俺が決める。誰と付き合うかも同じだ。俺の人生は、俺が決める」



5



 新しい会社で働き始めて三か月、私は七件の顧客契約をまとめた。そのうち五件は、以前の会社で私が担当していた取引先だった。


 こちらから顧客を誘ったわけではない。転職を知った先方が連絡してきて、新しい会社の体制を確認したうえで、取引を希望してくれたのだ。


 四半期の会議で、御影は私を皆の前で評価してくれた。


「三年かけても契約に至らなかった顧客と、久我さんは三か月で五件も契約を成立させてくれた。今後も期待しています」


 拍手の中、千尋が隣から小声で言った。


「浮かれないで。明日も提案書を二本直すんだから」


 真帆の会社についても、以前の同僚から少しずつ話が届いた。


 私が辞めたあと、真帆は拓海に案件を任せることが増えたらしい。しかし、説明の不足や納期の遅れが重なり、顧客との関係が悪化した。ある打ち合わせでは、顧客から以前の資料との違いを指摘されたという。


「このデータモデルを作ったのは誰ですか? 以前の久我さんの資料とは、ずいぶん違いますね」


 拓海は質問にうまく答えられず、結局、その案件は失注した。真帆は彼に責任を問い、二人の関係もぎくしゃくし始めたらしい。


 その後、拓海は会社を辞めることになった。退職の日、彼が会社のロビーで真帆と口論していたという話も聞いた。


 その場にいた同僚によれば、拓海はこんなことを言っていたらしい。


「俺を頼りにしてるって言ったのは水瀬さんでしょう? 顧客が離れたら、全部俺の責任なのかよ。あの顧客だって、もともとは久我さんが担当してたんだぞ」


 拓海はその後、何社か面接を受けたものの、思うように仕事が決まらなかったらしい。ある日、私に電話をかけてきた。電話越しの声は、以前より弱々しかった。


「久我さん、俺、本当に困ってるんです。前のことは悪かったと思ってます。真帆さんに話してもらえませんか」


 私は、旅館の入口で彼が笑っていた姿を思い出した。


「拓海、あの夜、車の中で一晩過ごせばいいって言ってたよな。今は自分で寝る場所も仕事も探すしかない。俺にできることはないよ」


 そう伝えて電話を切った。


 千尋に話すと、彼女は苦笑した。


「言い方は少しきついけど、自分で招いたことだからね」


 その日の仕事が終わったあと、千尋が近所の焼き鳥屋に誘ってくれた。店先の小さなテーブルで串をつまみながら、彼女は私に尋ねた。


「真帆さんがあなたの成果を拓海に渡していたこと、いつから気づいてたの?」


「二年前かな。三か月かけて作った企画を、報告会の前日に拓海に渡すよう言われたんだ。人前で話すのが苦手だからって」


 私はグラスを置いた。


「契約が決まったら、みんな拓海の功績だと思ってた。年末の評価も、彼は一番上で、俺は普通だった」


 千尋は串を皿に置いた。


「それでも何も言わなかったの?」


「真帆は恋人だったから。いつか気づいてくれると思ってたんだ」


 千尋は少し考えたあと、まっすぐ私を見た。


「これからは自分で説明すればいいよ。自分が作った企画なんだから」


 その夜、残業を終えても、私は自席に残っていた。パソコンの画面には、真帆と二人で撮った古い写真が表示されていた。


 千尋は通りかかったとき、机の上に温かいココアを置いていった。何も尋ねず、そのまま自分の席へ戻っていく。


 翌朝、私は写真を削除した。


 真帆の会社は、その後も取引先を失っていった。彼女から連絡が来たのは、最後の大口顧客との契約が終わったと聞いたころだった。


 待ち合わせたカフェで、真帆は以前より痩せて見えた。目の下には濃い影があり、コーヒーをかき混ぜる指先も落ち着かなかった。


「航平、会社が危ないの」


 彼女はカップを見つめたまま続けた。


「拓海のことも、あなたの企画を任せたことも、私が悪かった。あのときは、拓海のほうが人前でうまく話せると思ってた。でも、あなたがどんな気持ちだったか、ちゃんと考えたことがなかった」


 真帆は顔を上げた。


「でも、あの会社は私が一から作ったものなの。あなたも最初のころは一緒に頑張ってくれたでしょう? このまま終わるのを見ていられる?」


 創業したばかりのころ、会社には三人しかいなかった。私たちはコンビニのおにぎりを食べながら企画を直し、夜遅くまで事務所に残った。真帆が疲れて肩にもたれかかり、そのまま眠ってしまったこともあった。


 あのころのことは、今も覚えている。


「俺もあの会社を支えてきた。でも、君は俺が何をしているか見ようとしなかった。拓海に任せると決めたのも君だ」


 私は一度言葉を切った。


「会社のことは、俺にはどうにもできない。ただ、顧客が離れた理由を考えるなら、誰が実際に仕事をしていたのか、誰の話を聞くべきだったのか、そこから考えたほうがいい」


 真帆は返事をしなかった。


 私は席を立ち、カフェを出た。スマートフォンには千尋からメッセージが届いていた。


『お腹すいてない? 下で焼き芋を買ったよ』


 私は『今、向かってる』と返し、駅へ向かった。



6



 半年が過ぎるころ、真帆の会社は規模を縮小し、いくつかの事業から撤退した。社員の数も減り、以前のような勢いはなくなっていった。


 前の同僚によると、真帆は夜遅くまで会社に残ることが増えたらしい。以前は退勤後も拓海や友人たちと出かけていたのに、今は一人で仕事を片づけているという。


 拓海も仕事探しに苦労していた。営業職では顧客とのトラブルが続き、不動産関係の仕事でも長続きしなかった。旅館で一緒に騒いでいた同僚たちに金を借りようとしたが、誰も応じなかったらしい。


 そのうち、拓海はSNSのアカウントを閉じ、故郷へ戻った。父親が営む小さな金物店を手伝っていると聞いた。


 一方、私は新しい会社でプロジェクト統括の責任者に昇進した。


 全体会議で御影が発表すると、千尋が真っ先に拍手してくれた。会議のあと、彼女は小さな箱を私に渡した。中には銀色のカフスボタンが入っていた。片方には、久我の頭文字である「K」が刻まれている。


「昇進祝い。花やケーキはありきたりだから」


 私はカフスボタンを手に取り、袖口に合わせてみた。


「ありがとう。大事にするよ」


「じゃあ、お礼に焼き鳥をごちそうして」


 その夜、私たちはいつもの店へ行った。千尋はビールを飲みながら、ふと思い出したように尋ねた。


「今でも真帆さんのことを考える?」


 私は空になったグラスを見た。


「たまにはね。でも、会いたいわけじゃない。あのころの自分を思い出すんだと思う」


 千尋は小さく頷き、串から肉を外した。


「今は、そんなに無理してないよね」


「うん」


「なら、いいんじゃない」


 彼女は少し照れたように目を伏せた。


「少なくとも、私から見たら、あなたはちゃんと仕事のできる人だよ」


 私が千尋に気持ちを伝えたのは、会社の忘年会の日だった。年末の報告を終えて席に戻ると、彼女が水を差し出してくれた。


「説明、よかったよ。ただ、最後のグラフは次から変えたほうがいいと思う」


 私は水を受け取ったものの、すぐには飲まず、彼女を見た。


「千尋、俺と付き合ってくれない? 仕事仲間としてじゃなくて」


 千尋の手が止まった。少しの間、私を見つめてから笑った。


「その言葉、待ってたんだけど」


「本当に?」


「最初にあなたの企画書を見たときから、仕事に対する姿勢は好きだった。でも、前のことを引きずってるんじゃないかって思ってた」


「もう大丈夫だよ」


 私はそう答えた。


 千尋は頷き、笑顔を見せた。


「じゃあ、これからは焼き鳥を二人分頼めるね」


 真帆から電話があったのは、私が昇進し、千尋と交際を始めたころだった。


「航平、昇進したんだってね。おめでとう」


「ありがとう」


「新しい会社はどう?」


「働きやすいよ」


 少し沈黙があった。


「千尋さんは、あなたに優しくしてくれる?」


 私は窓の外を見た。


「俺が何をしているか、ちゃんと見てくれる人だよ」


 真帆はしばらく何も言わなかった。やがて「そう。それならよかった」とだけ言い、電話を切った。


 その夜、千尋は白玉団子を作ってくれた。私が一口食べて驚くと、彼女は得意そうに笑った。


「この前の会社の集まりで、甘いもののところに来たとき、白玉団子を見てうれしそうにしてたでしょう。覚えてたんだよ」


 私は箸を置いた。


「千尋」


「何?」


「俺のことを見ていてくれて、ありがとう」


 千尋は箸で私の器を軽く叩いた。


「お礼はいいから、冷める前に食べて」



7



 一年後、私は新しい会社で部長職に就き、チームも五人から二十人に増えていた。


 年末の全体会議で、御影は皆の前で笑った。


「久我さんを迎えたのは、私がした判断の中でも特によかったことの一つです」


 会場から拍手が起きた。千尋は席から私を見上げ、スマートフォンで短いメッセージを送ってきた。


『浮かれないで。明日は提案が三本あるから』


 私たちは結婚の話を進めていた。派手な式にするつもりはなく、親しい人たちだけを招いて、落ち着いた披露宴を開くことにした。


 母からは、以前真帆に渡そうとしていた真珠のネックレスが送られてきた。電話で、母は千尋に気に入ってもらえるか心配していたが、千尋は箱を開けると、嬉しそうに首に当ててみせた。


「きれい。お義母さん、センスがいいね」


 婚姻届を出したあと、千尋は戸籍上、久我姓になった。仕事では以前からのつながりもあり、これまでどおり「白石千尋」の名前を使うことにした。


 結婚式の一週間前、以前の同僚から連絡があった。真帆の会社はとうとう閉鎖され、彼女は両親の住む町へ戻ったという。体調も崩しがちで、喘息の発作で入院したこともあったらしい。


 同僚は、真帆から伝言を頼まれたと言った。


「水瀬さん、航平に感謝してるって。五年間、そばにいてくれたことを。会社のことでも拓海のことでもなく、航平が隣にいたときに、ちゃんと向き合わなかったことが一番悔しいって」


 私はしばらく返事ができなかった。


 結婚式の日、私たちは千尋の実家に近い小さな会場で、親族と親しい友人を招いた披露宴を開いた。御影も新しい会社の同僚たちと出席してくれた。千尋は落ち着いた色のドレスを着て、私は濃紺のスーツに、彼女が贈ってくれたカフスボタンを合わせた。


 千尋の父親は、挨拶の最後に私の手を握った。


「娘をよろしく頼むよ。大切にしてやってくれ」


「はい。大切にします」


 指輪の交換では、千尋の手が少し震えていた。私は彼女の手を包み、ゆっくり指輪をはめた。招待客から「キスして」と声が上がり、私は千尋の額にそっと口づけた。会場が拍手と笑いに包まれた。


 食事の席で御影は少し酔い、私の肩を叩いた。


「三年前、久我さんの企画書を見たとき、こんな人を埋もれさせておく会社があるのかと思ったんですよ。ようやくうちに来てもらえてよかった」


 千尋が隣から小声でたしなめた。


「御影さん、飲みすぎです」


 披露宴が終わると、家族と親しい人たちで会場を片づけた。母と千尋の母親がテーブルの上を整え、父親たちは入口で話をしていた。私と千尋は、会場の外に並んだベンチに腰を下ろした。


「後悔してる?」と私は尋ねた。


「何を?」


「結婚したら、仕事の話ばかりになるかもしれない」


 千尋は私を見て、呆れたように笑った。


「それはあなたが仕事の話ばかりするからでしょう。私のせいにしないで」


 私たちはしばらく並んで座っていた。やがて千尋が、母から贈られたネックレスに触れた。


「これ、お義母さんが真帆さんのために用意していたものなんでしょう?」


「そう聞いたよ」


「私がもらってもいいのかなって、少し考えたんだ。でも、すごく気に入った」


 私は彼女の手を握った。


「母さんは、息子の結婚相手に贈るつもりで用意したんだ。今は君がその相手だから、気にしなくていいよ」


 千尋は笑って、私の手を握り返した。


「じゃあ、帰ろう。明日は旅行なんだから」


 私は彼女の手を引いて立ち上がった。千尋はドレスの裾を気にしながら、急かすように歩き出した。


「飛行機に遅れたら困るでしょう」


 私たちは並んで歩き、夜の街へ出た。



8



 結婚して半年ほど経ったころ、三宅美咲から電話があった。出張で真帆の住む町を訪れ、久しぶりに彼女に会ったという。


 真帆は両親の住む住宅街で、小さな惣菜店を手伝っていた。朝早くから店に立ち、夕方まで働いているらしい。以前より痩せていたが、客には丁寧に接していたと美咲は話した。


 店先には、手書きの献立と値段を記した小さなボードが置かれていた。美咲が声をかけると、真帆は驚いたあと、少し笑ったという。会社のことも、私のことも、自分からは話さなかったらしい。


 帰り際、美咲は店の横に貼られた古い社員証に気づいた。そこには、久我航平と書かれていた。


 どうしてそんなものを飾っているのか尋ねると、真帆はしばらく黙り、それから答えたそうだ。


「航平が私にくれたものの中で、いちばん大切なものだったから」


 その話を聞き、私はスマートフォンを持ったまま、しばらく動けなかった。


 オフィスの向こうから千尋が顔を出した。


「どうしたの? 今日の提案、まだ二か所直すところがあるんだけど」


「今行くよ」


 私はスマートフォンを伏せ、仕事に戻った。


 年末、千尋から妊娠したと聞かされた。私は一瞬言葉を失い、それから彼女を抱きしめた。嬉しくて思わず抱き上げると、千尋は慌てて私の肩を叩いた。


「ちょっと、降ろして! 目が回るでしょう」


 私は彼女を床に降ろし、そっとお腹に手を当てた。


「こんにちは」


 千尋は私の後頭部を軽く叩いた。


「挨拶はいいから。今日の提案書、まだ出してないでしょう」


 仕事を終えて帰る道すがら、街灯が私たちの影を長く伸ばしていた。千尋がふと尋ねた。


「この子、あなたに似るかな。それとも私に似るかな」


 私は少し考えてから答えた。


「君に似てほしいな。俺は五年も人を見る目がなかったから」


 千尋は私の足を軽く蹴った。


「それは、あのときあなたの味方がいなかったからでしょう。今は私がいるんだから、誰にも好き勝手させないよ」


 私は笑って、彼女の手を握った。


 信号が青に変わった。千尋は私の手を引き、先に歩き出した。


「早く帰ろう。お腹が空いた」


「はいはい」


 彼女の隣に並び、私は歩調を合わせた。




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