4話 因子の口づけ
朝の霧はまだ残り、森の木々が湿った空気を震わせていた。
エレナは一人、川沿いの獣道を歩いていた。
左手に小さな枝を持ち、右手を前に差し出して、指先を微かに動かす。
淡い緑の光が、細い糸のように指から伸び、近くの葉を優しく揺らす。
「セレス様。光が、すぐに消えてしまいます……」
頭の中の声は、いつも通り穏やかだった。
『焦るな。エーテルは意志そのものだ。お前の心が揺れれば、光も揺れる。深く息を吸い、イメージを明確にしろ。光を、糸ではなく、網のように広げてみろ』
エレナは立ち止まり、目を閉じて深呼吸した。
胸の奥から、静かな熱が広がる。
指先から再び光が漏れ、今度は細い糸ではなく、
薄い膜のように周囲を包んだ。
近くの草が、わずかに浮き上がり、エレナの周りをゆっくり回る。
「できた!」
小さな喜びの声が漏れる。
エレナは目を輝かせ、光の膜を操って、木の葉を一つ摘み取った。
葉は彼女の手のひらで静かに止まる。
「セレス様……ありがとうございます。少しずつ、掴めてきました」
声は優しく答える。
『そうだ。歩きながら、続けろ。世界は、お前の意志で変わる』
エレナは再び歩き出した。
川の音が近づき、水の匂いが強くなる。
その時、前方から、獣の唸り声と、人間の悲鳴が聞こえた。
エレナの足が止まる。
川辺の開けた場所で、影狼の群れが一人の少女を囲んでいた。
少女は赤みがかったショートヘア、
革の服を着て、左手で短剣を握っていた。
彼女はすでに右の肘から先が食いちぎられ、左足の足首あたりまでが噛み砕かれていた。
血が地面に広がり、少女??ルナは、川を背に、最後の抵抗を試みていた。
影狼が五匹。
一匹がルナにとどめを刺そうと、牙を剥いて飛びかかる。
エレナは叫んだ。
「止まって!」
彼女は走り出し、指先から光の糸を放つ。
糸は瞬時に増え、狼の体を絡め取った。
狼が驚いて振り向くが、エレナは止まらない。
もう片方の手で火の玉を呼び、狼の頭に叩きつける。
炎が爆ぜ、狼が燃える。
残りの四匹が一斉にエレナに向かうが、彼女は光の膜を広げ、体を包んだ。
牙が膜に弾かれ、狼たちは後退する。
エレナは一気に距離を詰め、火の玉を連発。
狼たちは次々と倒れ、最後の一体が逃げ去っり静寂が戻る。
エレナは息を荒げ、ルナの元へ駆け寄った。
ルナは地面に崩れ落ち、血だまりの中で震えていた。
右腕は肘から先がなく、左足は足首から下が無惨に噛み砕かれ、顔は青白く、目は虚ろだった。
ルナがかすれた声で呟く。
「……死にたく……ない……まだ……死にたくない……」
涙が、血に混じって?を伝う。
エレナはルナの体を抱き上げ、膝の上に載せた。
ルナの唇が震える。
「助けて……誰か……」
エレナはルナの顔を両手で包み、静かに囁いた。
「大丈夫……セレス様が、助けてくれる」
彼女はルナの唇に、そっと自分の唇を重ねた。
それは、口づけというより、命の移し入れだった。
エレナの唇から、微かな緑の光が流れ、ルナの口内に注がれる。
それは、セレスの因子??神格の欠片の、わずかな一片。
ルナの体が震え、目が見開かれた。
温かさが、胸の奥から広がっていく。
痛みが薄れ、失われた血が補われ、切断された部分に、淡い光が集まる。
再生は完全ではないが出血は止まり、命の危機は去った。
ルナの意識が薄れていく中、彼女はかすかに微笑んだ。
「……温かい」
ルナは気を失った。
エレナはルナを抱きしめ、首を垂れる。。
「セレス様……この子も、あなたの信徒に、私たちの仲間に」
頭の中の声は、優しく答える。
『信仰は無理強いするものではない』
「はい。彼女が信仰を拒むなら、その意思も尊重します」
エレナは、ルナの体を背負い、川辺を離れた。
陽光が二人の背中を照らす。
血の跡が、地面に残る。
少女と神の旅に、二番目の仲間が加わろうとしていた。




