覗
結衣は最近、夜になるとネットで知り合った同年代の友人彩乃とビデオチャットをするのが日課になっていた。
特別な話題がなくても、くだらない雑談を交わすだけで心が和らぐ。
お互いの職場の上司の愚痴を言い合い、笑ってストレスを吐き出す。そんな気楽な関係が心地よかった。
彩乃とはネット掲示板で偶然知り合った。
結衣はファミレスで働いており、不規則なシフトのせいで深夜に帰宅する日も多い。
そんな時間に暇を持て余してネットを徘徊していた時、ある掲示板で同年代の彩乃と出会った。
共通の趣味──ファッションや映画──がきっかけで意気投合し、最初はテキストのやり取りだけだったものが、やがて通話アプリへと移行し、今では顔を見ながら毎晩のように語り合う仲になった。
最初はビデオチャットに抵抗もあったが、不思議と彩乃とは昔からの友人のように話せた。
その夜も、仕事からの帰宅が遅くなった。
家に着き、シャワーを浴びて軽く食事を済ませると、すでに午前1時を回っていた。
結衣がチャットアプリにログインすると、彩乃はすでにオンラインになっていた。
通話を繋げると、彩乃の顔が画面に映し出される。
だが、いつもの明るい笑顔がそこにはなかった。どこか沈んだ表情をしている。
「今日は元気ないね。何かあったの」
結衣がそう尋ねると、彩乃はしばらく沈黙したあと、ぽつりと語り始めた。
会社で上司に叱責され、かなり落ち込んでいるのだという。
最初は言葉少なだった彩乃も、話すうちに感情が昂ぶってきたのか、やがて怒りが口をついて出るようになった。
結衣は「全部吐き出しちゃえ」と、相槌を打ちながら彩乃の話を聞き続けた。
だが、結衣はその最中、ある“違和感”に気づいた。
彩乃の背後にある部屋のドア。いつもなら閉まっているはずのそれが、今夜はわずかに開いていた。
そしてそのわずかな隙間から、何かが部屋の中を覗いているように見えたのだ。
(気のせい? いや、でも......)
薄暗い隙間の奥、こちらを見ている何かは、影のように曖昧だったが、それでも“顔”だと直感的に思った。
言葉を選びながら、彩乃が話を一息ついたタイミングで、結衣は訊いた。
「ねえ、今日って、彩乃の家に他に誰かいる?」
「え? いないけど。どうして?」
彩乃の表情が少し硬くなったような気がした。
「うん、なんとなく......変なこと言ってたらごめん」
「え、何? 気になるんだけど」
「彩乃の後ろのドア、ちょっと開いてるよね」
彩乃がゆっくりと振り返り、ドアを確認する。
「あれ、ほんとだ。閉めたつもりだったんだけどな。でも、それがどうかしたの?」
「ほんとに違ったらごめん。さっきその隙間から、人の顔みたいなのが......見えた気がして」
その言葉を聞いた瞬間、彩乃の顔があきらかに強ばったのがわかる。
「やだ......やめてよ、そういうの......」
そう言いながら、彩乃は立ち上がり、ドアの方へゆっくりと歩いていく。
そして、そっとドアを開け、その向こうを確認するために部屋の外へ出ていった。
画面には、彩乃がいなくなった静まり返った部屋だけが残った。
しかしその直後、結衣は“それ”を見た。
ドアの向こうから、一つの影が音もなく部屋の中へ滑り込んできたのだ。
若い男のような顔。その表情は......言葉では言い表せないほどの、ねじくれた笑顔。
悪意や嘲笑ではなく、それは一言で言えば邪悪な歓喜の笑みに思えた。
“それ”は数秒間、部屋をうろついたあと、まっすぐに結衣の方を見つめた。
モニター越しに、こちらを見ている!
結衣は声も出せず、固まっていた。
やがて彩乃が部屋に戻ってきた。その瞬間、“それ”はふっと空気に溶けるように消えてしまった。
「......誰もいなかったよ。見間違いだったんじゃない」
彩乃は微笑みながらそう言ったが、その声はどこか震えていた。
その笑顔も、どこか作り物のように感じられた。
「......ごめんね、なんか変なこと言って。私の勘違いだったみたい」
「ううん、大丈夫。でも、今日はなんか疲れちゃった。もう寝てもいい」
「うん。私もそろそろ寝ようと思ってたし」
そう言葉を交わすと、チャットは終了した。
だが結衣は、椅子に座り込んだまま動けなかった。
さっき見た“あれ”はいったい何だったのだろうか。
今見たものを思い出すと、恐怖で身体が石になったように動けなかった。ただ、心臓の音だけが耳の奥でうるさく響いていた。
翌日、結衣は何度も彩乃に連絡を試みたが、チャットは一度も繋がることはなかった。
それ以降、彩乃のアカウントはログイン履歴すら消えたまま、まるで最初から存在しなかったかのように、ネットの海から消えてしまったのだ。
結衣には今でもわからない。
あの夜、自分が見たものが、何だったのか。
そして、“あれ”が、誰を見て笑っていたのかを。