第29章: エルフ王国の歴史
エルフの村では、清らかな小川が石を撫でながら流れていくように、穏やかな時が静かに流れていた。カー家に迎えられてからというもの、タツヤは少しずつ「何かの一部」であることを実感し始めていた。かつて不安げだった彼の足取りは、今ではこの温かく、優しい声で満ちた家の中を、自信を持って歩いていた。
白髪の小さなエルフ、シルナは相変わらずよそよそしかった。タツヤを侮辱したり避けたりはしなかったが、自分から関わってくることもなかった。それでもタツヤは、その微妙な距離感を理解しようとしていた。彼女が逃げないだけでも、きっと前進だったのだ。
ユリコとの関係はいつも穏やかで、彼女の微笑みはまるで静かな避難所のようだった。そしてアルバートは…まるでエネルギーの塊。燃えるような陽気さで、家の中に笑い声を絶やさなかった。
ある日の午後、空はうっすらと雲に覆われ、遠くで雨の匂いがしていた。そんな中、アルバートが窓際で本を読んでいたタツヤの元へやってきた。
「おい、坊主!」と腕を組みながら声をかける。「お前、最近頑張ってるみたいだな。どうだ、腕試ししてみないか?」
タツヤは驚いて顔を上げた。「えっ、今ですか?」
アルバートはにやりと笑って、ぽんと肩を叩いた。「本物の戦士は、いつだって“今”がその時さ!」
タツヤは本を静かに閉じ、ふっと笑った。「…わかりました。準備はできてます!」
二人は庭に出た。草の生えた小さな広場は、まるで即席の闘技場。風が葉を揺らし、空は一層静まり返っていた。
二人は木製の剣を手に取った。軽くてもしっかりとした感触。柄を握っただけで、心が高鳴る。
アルバートの目が鋭くなった。だがその中には、尊敬と信頼があった。
「手加減はしないぞ、タツヤ。お前の力、見せてみろ!」
「僕も…全力で行きます!」
先に動いたのはアルバートだった。重心の低い突進と、鋭い連続攻撃。剣の軌道は速く、そして正確。
タツヤは跳び退きながら、構えた剣で一撃、また一撃を受け止めた。
カン! カン! カンッ!
木剣がぶつかり合う音が空気を震わせた。腕に走る衝撃、脚に伝わる振動――だが彼は止まらなかった。
「すごいじゃないか、全部受け止めたな。でもな…ここからが本番だ!」
「えっ、まだ本気じゃなかったんですか?!」
その言葉に返事はなかった。
再びアルバートが突っ込んできた。さっきとは比べ物にならない速さ。視線で追うだけでも精一杯。タツヤは必死に落ち着こうとしたが、相手の動きに翻弄され、反撃の隙が見つからない。
「くっ…っ!」
次の瞬間、アルバートの一撃が決まった。軽い一発だったが、体勢を崩したタツヤは地面に倒れた。
「アハハハ! 勝ったぞ!」と豪快に笑うアルバートが、手を差し伸べる。「でも、いい勝負だったな! お前、まだまだ伸びるぞ!」
タツヤは息を整えながら、その手を掴んで立ち上がった。
「…本当に強いですね。もっと、もっと学ばないと…でも、僕…ちゃんと成長してますよね?」
アルバートは誇らしげにうなずいた。「その通りさ! 今のまま、まっすぐ進め!」
そして二人は汗まみれになりながらも、笑顔で家に戻った。この家に来てから、初めて感じた。
――ここが、僕の「居場所」なんだ。
その日、タツヤの心には確かな確信が芽生えた。毎日の一歩が、確かに彼を強くしている――と。
夕暮れが優しくエルフの村に降りてくる頃、銀色に輝く枝々はやわらかな黄金色に染まり、淡い灯りが白い石と香る木の家々に一つずつ灯されていった。カー家の家中には、焼き立ての肉、焼きたてのパン、グリルされた野菜の香ばしい匂いが満ちていた。
食卓についたタツヤは、目の前のごちそうを見つめて目を輝かせた。
「わあ…ママ、これ全部作ったの?」と心からの驚きの声をあげる。
ユリコはくすっと笑いながら、耳元の髪をそっとかき上げた。「ふふっ、ええ。今日の決闘を頑張ったあなたたちへのご褒美よ。たくさん食べて、力を取り戻してね」
アルバートは手を叩いて喜んだ。「ああ〜、なんて素晴らしい妻だ!」
しかしその微笑ましい瞬間を破ったのは、タツヤの隣に座るシルナの鋭い声だった。彼女は腕を組み、ほっぺたを膨らませていた。
「ふんっ…ズルい!ママは私のママなんだから!」
ユリコはその言葉に対して、優しくも真剣な眼差しを向けた。
「シルナ、お願いだから…。タツヤはこの家に馴染もうとしてるのよ。彼にとって簡単なことじゃないの。今この時間を台無しにしないで」
シルナはプイと顔を背けながらも、それ以上文句は言わなかった。怒りというより、少し寂しそうな表情だった。
アルバートが空気を変えるように声を上げた。「さあ、食べよう!いただきます!」
それからしばらくの間、食卓には皿の音と箸の音、柔らかい会話が交差していた。温かな食事が、まるで長い一日の疲れを癒すように皆を包み込んでいた。
だが、突然ユリコが箸を止めた。空気が変わった。真剣な表情が、その場に静けさをもたらした。
「…見た? 最近、衛兵たちがまた動き始めてるの」
アルバートが顔を上げた。「どういう意味だ?」
ユリコは唇を噛み、低い声で答えた。「人間が…見つかったの。三百人ほど。全員武装していて、地竜を連れてるって」
その言葉で、部屋は凍りついた。パンをかじっていたシルナも、手を止めた。
タツヤは身をこわばらせた。「人間が? この国を攻撃しようとしてるのか?」
詳細は分からなかったが、ユリコの声の重みがただ事ではないと感じさせた。
シルナが拳をテーブルに打ちつけた。その瞳は炎のように揺れていた。「もちろん攻撃するに決まってるでしょ!何も知らないの?じゃあ教えてあげる!」
アルバートが止めようとしたが、ユリコはそっと手で制した。シルナはタツヤに視線を向けた。その目にあったのは怒りではなく、痛みだった。
「少なくとも40年前…この国は人間に侵略されたの。ただの戦争じゃない。計画された、冷酷な作戦だった。スパイや偵察が先に送られて、一年もかけてこっそり国に入り込んでた。そして準備が整った時…彼らは2000人以上になっていたの」
タツヤは息をのんだ。
シルナは声を低く、でも確かに語り続けた。まるで魂に刻まれた記憶をなぞるように。
「彼らは全てを把握していた。警備の隙、城壁の弱点…そして火竜を使って、城門を一晩で焼き払った。炎は全てを呑み込んだ。家も、木も、人々も…」
彼女の拳が震えた。
「誰も逃げられなかった。…いや、一人だけ生き延びたって噂もある。でも、誰かは分からない。まるで嵐の後の風みたいに、消えてしまった」
ユリコはそっと箸を置き、虚空を見つめた。
「国は…消え去ったわ。灰のように。私たちが今住んでいるこの地は、遠くの地から来たエルフたちが再び築き上げてくれたの」
部屋に、重たい沈黙が流れた。
タツヤは言葉を失った。その話には、ただの歴史ではない…刻まれた痛みと怒り、そして願いが込められていた。
そっと目を伏せ、テーブルの下で拳を握る。
――これはただの物語じゃない。傷ついた王国の、今も生きる真実だ。
そしてその王国の中で、自分は「人間」として座っている。でも、誰も彼を責めなかった。
ユリコが静かに水差しを持ち上げた。シルナはじっと皿を見つめ、アルバートは真剣な表情のまま食事を再開した。
その夜の晩餐は、静かだった。でも、その静けさの中には、確かな想いがあった。
そしてタツヤは気づいた。
――この食事はただの団欒じゃない。過去を、そして痛みを分かち合う時間だったのだ。やがて、自分もそれを守る者になれるようにと、心に誓った。
夕食が終わってから、すでにしばらくの時間が経っていた。皿はすっかり空になり、家の白い石の壁にはランタンの黄金色の光がゆらゆらと揺れていた。だが、夜の湿気ではない別の重さが空気に満ちていた。それは、たった今発せられた言葉のせいだった。
ユリコはまだ席を立たず、まるで未来が刻まれているかのように、黙ってテーブルの木目を見つめていた。
「……あなたが連れて行かれるんじゃないかって、怖いの。」
その声はかすかで、まるで風のような囁きだった。だが、その場にいた全員が、その言葉の重さを感じ取っていた。
「もうすぐ……警備兵たちが家々を調べ始めるわ。エルフじゃない者……人間は、全員逮捕される。それから……」
彼女は言葉を止めた。目が震えた。
「……おそらく処刑される。」
誰も言葉を発せなかった。沈黙が部屋を包み込んだ。だが、その静寂の中で──何かが壊れた。
タツヤは、ついさっきまで皿のパンくずを見つめていたが、そのまま動かなくなった。まるで、彼だけが時の流れから外れてしまったかのように。顔から色が消え、目の焦点が合わなくなる。「逮捕」「処刑」──その言葉が、頭の中で終わりなく響き続けた。
—— ぼく……死ぬの?
冷たい汗がこめかみを伝って落ちた。
「タ、タツヤ……?」最初に声をかけたのはシルナだった。その声にはいつものとげとげしさはなく、代わりに、かすかな震えがあった。
返事はなかった。タツヤはゆっくりと目を閉じ、まるでこの重すぎる現実から逃れるかのように、力を失って体を横たえた。
「タツヤァ!」ユリコが椅子を引き、叫び声とともに立ち上がる。
すぐさまアルバートが駆け寄り、彼の体を支えた。心臓が胸を激しく打ち、息を確かめる。
「……息はしてる。でも、顔色が……真っ青だ。相当怯えたんだな。」
彼はそっと、まるで壊れてしまいそうなものを抱えるように、少年を腕に抱き上げた。タツヤの足はだらりと垂れ、顔は静かだった──ただ、あまりにも色がなかった。
「さっきまで、あんなに楽しそうだったのにな……」アルバートが呟く。「おれと訓練して、あんなに……無邪気だったのに。」
ユリコも近づき、両手を胸の前でぎゅっと握る。
「……この子は優しい。誰かを傷つけるような男じゃない。。」
二人はそのまま、静かに部屋を出ていった。その足取りには、重く長い影が落ちていた。
そして──しばらく立ち尽くしていたシルナが、そっと部屋の中へ入った。
顔をうつむかせたまま、迷うようにタツヤのベッドへ近づき、ゆっくりと膝をついた。
彼はまだ眠っていた。額には汗がにじみ、呼吸は浅く、静かだった。
シルナはしばらく躊躇したあと、恐る恐るその手に触れ、そっと握った。
「……ごめん。」彼女の声は震えていた。けれど、確かに本心だった。
「よそ者扱いなんて、したくなかった。ただ……」小さく息を吐く。まるで心の奥にあった何かをそっと解き放つかのように。
「同じ年頃の子と、家を分け合うのなんて初めてで……不安で、わからなくて……」
彼の手を、少しだけ強く握った。
「でもね、はっきり言っておく。私は……お姉ちゃんにはならないよ。絶対に。友達くらいなら……まぁ、考えてもいいけど。」
その声は、意地を張っているようで、その実どこか温かかった。まるで、窓から差し込む月の光のように、静かに心に届いた。
シルナは立ち上がり、振り返る。そして、ドアの前で──
「……早く元気になってよ。心配なんだから。言わなくても……私たち、ちゃんとあなたのこと……大切に思ってるから。」
そう言って、彼女は部屋を後にした。ドアが静かに閉じられ、部屋にはただ、タツヤのゆるやかな寝息だけが残された。
これから何が起きるか──まだ、誰にもわからない。
けれど、その夜の静けさの中で、小さやさしさが芽吹いていた。そしてたとえ不安があっても……希望だけは、確かにそこに息づいていた。




