ビリーヴィング エイミー
ヘザーは耳が聞こえなかった。たぶん、生まれつきだ。遊び盛りの子犬なのに、つまらなさそうに寝てばかりいたし、ピンポンと呼び鈴が鳴っても、掃除機をかけても反応することがなかった。あちこちの獣医に診てもらったけれど、診断はどこも同じだった。原因は不明です。奇跡でも起きない限り、ヘザーちゃんの聴力が戻ることはないでしょう。
だからと言って簡単にあきらめられるものではない。ヘザーは大事なひとり娘だ。いいお医者さんに巡り合えれば、ヘザーの耳はきっと治る。家事の合間やヘザーの昼寝中、暇さえあればわたしはネット検索し、名医をさがし続けた。
ある日、蓮と偶然見ていたテレビ番組で、エイミーのことを知った。心理学者だというエイミーは、触診しただけで動物の病気を治してしまう超人だった。実際、足腰が弱って立てなくなっていた猫がしっかりと立ち上がって歩く様子や、視力を失った犬が柱にぶつかることなく走る様子が映った。すごい、と思った。この人ならヘザーの耳を治せるかもしれない。
「わたし、この人にヘザーを診てもらいたい」
番組が終わると、わたしは立ち上がっていた。けれど、蓮は顔をしかめた。
「こういうのって、正直どうかと思うよ」
「どうして?」 と聞くと、
「ほら、テレビなんて編集でどうにでもできちゃうだろ」
こういうところだ。蓮が煮え切らないところがあるのは。
「何言ってるの。テレビだから信頼できるんじゃない。蓮も見ていたでしょう。ヘザーの病気が治るかもしれないのよ。それとも、蓮はヘザーが可愛くないの? もしかして、蓮はこの先ずっとヘザーの耳が聞こえないままでいいと思っているの?」
ごにょごにょと何か言いたそうにしている蓮を無視して、スマートフォンでエイミーの名前を検索した。放映直後だったからか一時的につながりにくくなったけれど、無事エイミーのページにアクセスできた。
1962年生まれ。子供の頃から動物が大好きだった。大学で獣医学を学んでいたが、動物の心に近づきたいという思いが強くなり、別の大学に入り直し、心理学を学ぶ。エイミーがはじめて奇跡を起こしたのは、七歳のとき。飼っていた犬のまぶたに手をあてて、目の病気を治している。その後も“神の手”で数々の難病の動物を治療している。
「動物と対話し、愛情を注ぐこと」
自身が大切にしていることをエイミーはそう語っている。
エイミーの言葉が胸に刺さる。同じだ、と思う。わたしが、ヘザーに対して思っていることとまったく同じだ。「エイミーの奇跡」のページに飛ぶと、テレビで紹介されていたよりもたくさんの事例が載っていて、飼い主さんたちの感謝の声があふれていた。エピソードの数々をスワイプしながら読む。感動して自然と涙が出た。
ヘザーだって、と思う。エイミーに診てもらえれば、耳が聞こえるようになるかもしれない。すり寄ってきたヘザーを膝に抱き、載っていたメールアドレスに連絡した。
土曜日、エイミーが家にやってきた。玄関に現れたエイミーを見るなり思わず泣きそうになった。ほんものだ、と思った。ネットで見たときは、遠い存在だと思っていたエイミーが、今わたしの目の前にいる。
「こんにちは」
エイミーが真っ先に腰をかがめてヘザーにあいさつしてくれたことに好感が持てた。思っていた通りの人だ。動物の気持ちがわかる人だ。
「有名人なのに車じゃないんだな」
エイミーが徒歩でやってきたことにそんなに驚いたのか、蓮が耳打ちしてきた。
「無駄遣いはしないのよ。治療費だって、一部を動物愛護基金に寄付しているのよ」
蓮を軽くあしらって、エイミーをリビングのソファに案内する。知らない人が来ているのに、ヘザーは大人しく自分用のベッド兼ソファに座ってくれた。わたしがキッチンでお茶をいれている間、エイミーが近づいてもヘザーはとても落ち着いていた。
「かわいい子。愛されて育っているのね」
そう言って、エイミーはヘザーの頭に手を伸ばした。自分が褒められているみたいで嬉しかった。ヘザーはかけがえのない宝物だ。蓮の知り合いから譲り受けてから、ずっと大切に育ててきた。耳が聞こえないとわかってからは、余計に愛情を注いできた。生活のあらゆる危険から、細心の注意をはらいヘザーを守ってきた。車の通る道は常に抱っこして歩き、ドッグランに着くまで決して地面におろさなかった。ひとりで留守番をさせたこともない。
エイミーがヘザーの頭を撫でている。ヘザーは気持ちよさそうに目を細めていた。耳を触られるのは大嫌いなはずなのに、少しも嫌がっていない。すっかり心を許しているようだった。神の手がヘザーに触れている。わたしは感動して、また泣きそうになった。
「まずは、ヘザーちゃんの生活空間を確認させてもらいますね」
エイミーはそう言って立ち上がり、リビングやキッチン、洗面所や寝室をていねいに見て行った。
「寝室まで見るのかよ」
エイミーに聞こえてしまいそうなボリュームで蓮がぼやいたので、あわてて追い払った。
リビングにもどると、エイミーが言った。
「とてもすてきなお家だわ。ヘザーちゃんものびのび暮らせている」
ヘザーのために、一切の家事に手をぬかず、努力していることをわかってもらえたことが嬉しかった。
「でもね、ひとつだけ気になった点があったわ」
エイミーが言った。
「ヘザーちゃんのお食事場所よ。プレートがキッチンにあったけれど、あれはリビングに置いたほうがいいわ」
それからヘザーの方を見て微笑んだ。
「ヘザーちゃんもママたちと一緒に食事がしたいって言ってる」
ああ、わたしったらそんな簡単なことにも気づかなかったなんて。ヘザーの食事もわたしたち夫婦と同じ食卓にするべきだった。よく考えればわかることだったのに、エイミーに言われるまで気づかなかったなんて。やっぱりエイミーはすごい。
それから、エイミーに導かれるままヘザーのプレートをリビングに移した。リビングの中でも素人のわたしたちではわからない最適な場所があるらしい。
「だいじょうぶ。時間はかかるかもしれないけれど、きっとよくなるわ」
ヘザーの耳について、エイミーはそう言ってくれた。
「一緒にがんばりましょう」 と。
その言葉にどれだけ勇気づけられたことか。わたしにとってエイミーは、長い旅路の末にやっとめぐりあえた運命のひとのように、心から安心できる存在になった。
相談料は四万円だった。
「ちょっと高くないか」
蓮がぼやいた。
「ヘザーのためよ。それに、そのうち一万円分は寄付にまわるんだし」
エイミーによると、世の中には多胎飼育や荒れた環境で飼育されている動物が五万といるらしい。治療を行う傍ら、エイミーはこうした動物たちを劣悪な環境から救い出す活動もしているのだと言った。
「世の中の飼い主さんがみんなヘザーちゃんのママみたいだったらいいのに」
エイミーが言った。世の中のみんながわたしみたいだったら。今までそんなふうに言われたことなんかない。誇らしいような、恥ずかしいような、なんとも言えないいい気分だった。気づくと財布から追加の一万円を出し、エイミーに託していた。
二回目の訪問で、エイミーは時間をかけてヘザーの触診をしてくれた。耳垂れの消毒までしてもらい、すっかり気持ちよくなったヘザーはすやすやと寝息をたてて眠っていた。
エイミーがヘザーの身体に覆いかぶさるように耳をあてていた。
「血液の流れを聞いているの」
エイミーが言った。
「こうすると一番よくわかるのよ」
すごい、と思った。ヘザーの身体を流れているものこそが、ヘザーが生きている証なのだ。しばらくして、じっと耳をすませていたエイミーが身体を起こし、
「お水」
とひとこと発した。
「ヘザーちゃんはどんなお水を飲んでいるかしら」
エイミーに聞かれて、わたしはキッチンの段ボールからペットボトルの天然水を出して見せた。
「ああ、やっぱり」
謎が解けたという風にエイミーがうなずいて
「だから、どこかつかえた感じがしていたんだわ」
と言った。
エイミーによると、普通の水だとヘザーはうまく消化できないと言う。ヘザーにはヘザー専用の水をあげなければならない。血液がさらさらになって、体調がよくなれば、耳にもよい影響があるはずだとエイミーは言った。
「いいものがあるのよ」
そう言って、エイミーが見せてくれたのは、犬用の飲料水のパンフレットだった。
「こんなにたくさん」
犬種や犬のサイズ、年齢によって様々な種類が載っていた。
「そうよ。これだけあれば、どの子にも合うものが見つかるから。ヘザーちゃんなら、そうねぇ」
そう言ってエイミーがすすめてくれたのは、ビタミンを含んだ軟水で、1本1500円もするものだった。さすがに高いと思ったが、
「最初の1ダースは三割引きになるわ」
エイミーの友人がやっている会社のものだから融通がきくという。
「治療してきたワンちゃんたちも、この水を飲んで調子がよくなったということがたくさんあったわ」
エイミーが薦めてくれているのだ。試してみる価値はあるのではないか。それに、断ったりしたらヘザーのことをまるで考えていないみたいに思われてしまう。
「買います。お願いします」
1ダースで12600円。一瞬、蓮の顔がよぎった。けれど、ここであきらめたら負けのような気がしていた。こういうことは勢いが大事なのだ。一気に申込書にサインした。
「ありがとう。友人に代わってお礼を言うわ」
「でもね、わたし、お水を売っても何にももらえないのよ」
エイミーが冗談を言って笑った。
「でも、本当にいいものだから使ってみて」
その日の相談料は触診の初診料込みで七万円だった。次からは五万円になるという。次の訪問日は一週間後だ。この先、どれくらい長くかかるのだろう。ヘザーは本当によくなるのだろうか。いつのまにか負の感情が湧いてきて、わたしは不安になりはじめていた。
「あらあらどうしたの。ママがそんな顔をしたらヘザーちゃんが悲しむわ。だいじょうぶ。治療は長くかかるかもしれないけれど、わたしがついている。安心して頼ってくれていいのよ」
このひとは本当にすごい人だと思った。わたしの考えていることまでわかってしまうのだから。エイミーのあたたかい手がそっとわたしの肩に置かれた。凝り固まった筋肉がじんわりとほぐれていく気がした。そうだ。わたしにはエイミーがいてくれる。それなのに、わたしったらなんて馬鹿なことを考えていたのだろう。
エイミーの三回目の訪問でヘザーの血液の流れに改善が見られ、四回目の訪問で食べさせるフードを変えた。エイミーが友人と共同で出資している会社が作っているフードは、鉄分やカルシウムなど不足しがちな栄養素を補えるものだった。一袋1万円もするフードを買って、ヘザーが嫌がって食べなかったらどうしようかと思っていたが、新しいフードをヘザーは気に入ったようだった。毎回おいしそうに食べ、痩せ気味だったヘザーの身体はまるまると太っていった。
「もう少しよ。もう少し頑張れば、ヘザーちゃんの耳は聞こえるようになる。わたしにはわかるの」
エイミーが言った。やっぱりすごい人だ。もうすぐヘザーは耳が聞こえるようになる。わたしは嬉しくてたまらない。ヘザーの耳が聞こえるようになったら、何て話しかけよう。一番にヘザーの名前を呼んでやりたい。わたしの声は、ヘザーの耳にどんなふうに聞こえるだろう。
治療費はかさみ、生活は節約を強いられるようになっていた。トイレットペーパーやシャンプーはノーブランドの安いものに変えた。メイクもお金がかかるので、すっぴんでいることにした。夕飯のおかずは豆腐やもやしばかりになり、蓮がぼやくこともあったが、ヘザーのためだと言えば文句は言わなかった。生活はぎりぎりだったが、耳が聞こえるようになったヘザーのことを想像するのはとても楽しいことだった。
「もうやめないか」
その日、めずらしく早く帰ってきた蓮が発泡酒を飲みながらぼそっと言った。一瞬何のことを言われているのかわからなかった。
「そのエイミーって人をうちに呼ぶの」
驚いた。どうして蓮はそんなことを言うのだろう。ヘザーの耳が治らなくてもいいとでも思っているのだろうか。
「ずいぶんかかっているよね」
治療費のことだとわかった。
「万里子はうちにそんな余裕があると思っているのか」
そんなこと、わたしだってわかっている。だからこうして節約をしているではないか。そんなこともわからずに、蓮はわたしを責めるのか。
「だったらわたしが働く。パートをさがせばいいんでしょう」
パートに出ることは前々から考えていた。エイミーには触診のレベルをあげたいと言われていた。ヘザーのために、より効果の高い治療を受けさせたかった。
「そういうことじゃないよ。あの人、どう考えたって変だよ。ヘザーを触って、得体のしれない水だか餌だかを売りつけてさ」
なんてことを言うのだろう。エイミーのことを悪く言うなんて許せない。蓮は会社に行っていて、実際の治療をみていないからそんなことが言えるのだ。この頃、エイミーが撫でるとヘザーの耳が立つようになってきた。耳垂れも少なくなってきたし、一定の周波数の音であればぴくぴくと反応することもある。すべてエイミーのおかげだ。あと何回かの治療でヘザーの耳は聞こえるようになるというのに、今治療をやめてしまったらそれこそ水の泡じゃないか。
「万里子はだまされているんだよ」
蓮の言葉にかっとなった。
「ひっ。何するんだよ」
蓮が叫んで、わたしは我にかえった。わたしは蓮にむかってコップの水を浴びせていたのだ。頭に血が上って、完全に無意識だった。あやまろうと思った時にはもう蓮はその場からいなくなっていた。やがて玄関の外側からカギがかかる音がして、蓮が出て行ったのだとわかった。すぐにもどってくると思っていたのに、蓮はそれから何日も家に戻らなかった。
ひとりになったわたしをエイミーは励ましてくれた。
「ひとりでがんばる必要はないのよ。わたしがついている」
あなたは頑張っているわとほめてくれ、どんな時もエイミーはわたしのそばにいてくれる。蓮とのことがあってから、エイミーこそが真のパートナーだと思えるようになった。それに比べ、蓮との関係はなんて薄っぺらいものだったのだろう。結局、お互い別々のことを考えていて、いざ人生の困難を乗り越えなければいけないときには脆く壊れた。
「残念だけれど、ヘザーちゃんに悪影響がある縁は切った方がいいわ。ヘザーちゃんもそう願っている」
ヘザーの全身マッサージをしながらエイミーが言った。ヘザーがそう思っているなら。わたしは離婚届を書いて蓮に送った。はんこを押してほしいとメモを添えたけれど、蓮からの返事はなかった。
ヘザーの耳は確実によくなっていった。最近では、ピンポンの音にも反応するようになって、エイミーがやって来るのを玄関で待っていることもあった。音楽に合わせて踊ることもある。エイミーに出会えて本当によかった。エイミーに出会えなかったら、ヘザーはずっと耳が聞こえないままで、今の幸せを手にすることができなかった。エイミーには感謝してもしきれない。
ピンポン。
呼び鈴が鳴って、小走りで迎えにいく。ヘザーはもう玄関の前にいて、しっぽをふってエイミーを待ち構えている。
「いらっしゃい」
勢いよく扉をあけておどろいた。立っていたのはスーツ姿の男性だった。しかも二人。ひとりは小柄の年配で、もうひとりはのっぽの若手だった。
「警察です」
「高山万里子さんでいらっしゃいますか」
いきなり手帳を見せられる。いったい何があったというのだろう。ヘザーがおびえてわたしの足にまとわりつき、あわててヘザーを抱きかかえた。
「桑田英美さんをご存じですか」
聞き覚えのない名前に首をかしげる。
「クワタヒデミ。通称エイミー」
「詐欺容疑で逮捕されました」
この人たちは何を言っているのだろうか。エイミー。詐欺容疑。家に来てくれているエイミーのことを言っているのだろうか。人違いだ。そうに決まっている。
「彼女は、動物の治療を名目に高額な治療費を請求したり、餌を仕込んで病気が治ったように見せかけて、詐欺行為を繰り返していました」
嘘だ。詐欺だなんて、そんなことあるわけないじゃないか。現にヘザーはエイミーの治療で聴力を取り戻している。ヘザーをぎゅっと抱きしめた。
「彼女はこちらのお宅にも来ていたようですが、詳しくお話をきかせていただけませんか」
何を話せというのだろう。話すことなど何もない。エイミーは詐欺なんかじゃない。わたしの恩人だ。いったい誰がエイミーを警察に突き出したのだろう。
まさか、蓮が。
蓮ならありえる。蓮はエイミーを嫌っていたから。ひどい。どうしてそんなことをするのだろう。
「被害者はほかにも数十人にのぼっています」
そんなこと言われてもちっとも納得がいかない。唯一わかったのは、今、エイミーが大変な目に遭っているということだった。エイミーを助けたいと思った。ヘザーのことで、エイミーはずっとわたしに寄り添っていてくれた。たったひとりで闘っていたわたしの唯一味方でいてくれた。
「お話を聞かせていただけませんか」
「署まで同行願います」
二人の警察官が交代で言った。
「わかりました」
覚悟を決めて、そう答えた。次は、わたしがエイミーに寄り添う番だ。力になってあげたい。そう心に決めた。
「少しお時間をいただいてもいいでしょうか」
身支度をし、ヘザーの荷物をひと通り用意した。ヘザーを抱いて、警察の車に乗り込む。
「待っていて、エイミー。今、助けにいくから」
わたしはエイミーの味方だ。たとえ世界を敵にまわしても。ぎゅっとまばたきをして流れていく景色を睨んだ。わたしの心の叫びが聞こえたのか、腕の中でヘザーがグルルルルと鳴いた。