崎乃平花子
新歌舞伎町の裏路地にひっそりと佇む居酒屋『ゆるり』――俺は以前、その店で大失態をやらかしたことがある。閉店間際で酔い潰れて……気づいたら店の前で眠っていたらしい。警官に声をかけられて目を覚ましたが、もう少し遅れていたら良からぬ連中に身ぐるみを剥がされていたことだろう。
ただ――失態ばかりでなく、ほのかな幸福感の欠片も俺の中に残されている。その店で働いている――崎乃平、という名前だったか――落ち着いた雰囲気のわりに肌艶が良く、愛想もあり、空いているときは隣に座って話を聞いてくれることもあった。キャバクラのような露骨さがないからこそ過ごせる穏やかな時間――俺は崎乃平さん目当てでその店に通っていると言っても過言ではない。
その崎乃平さんがあの日、俺の前で――両胸を――? 酷く酩酊していたこともあり、もしかすると自分の妄想だったのかもしれない。けれど――その柔らかさ、それに――舌先の感触――それらはあまりにもはっきりと残されている。恥ずかしさと共に、安らぎを伴って。
決して真実を確かめたいわけではない。ただ、いつもの癒やしを求めて――今夜も俺は『ゆるり』へと足を向けている。上司の采配は極めて雑で、今日も二十二時まで残されてしまった。到着はラストオーダーギリギリになるだろう。けれど、悪いことばかりではない。遅ければ遅いほど終電の都合で帰路に就く者から減っていく。つまり、崎乃平さんと話せるチャンスも増えるということだ。
実際、街を往く俺の目に映るのは店から出てきたり駅へと向かうべくすれ違う人ばかり。俺だってこのくらいの時間に帰れるくらいの仕事をしていたいものだが――すでに出来上がっているほろ酔いの帰宅者たちを尻目に、俺は暗い脇道へと入っていく。
そんな小さな雑踏の中腹にその店はあった。随分構えの古い建物で、自動ドアさえない。ガヤガヤと漏れ聞こえる喧騒に温もりを感じつつ、俺はいつもの引き戸を開いた。そこにあるのはいつもの賑やかさ――だと思っていたのだが――
「あンらあら、いらっしゃい。今日も遅くまでお仕事お疲れそん」
出迎えてくれたのは朗らかな笑顔の崎乃平さん――地方から出てきたばかりらしく、朴訥とした訛り口調――そののんびりした笑顔は都会のアスファルトに咲いたタンポポのような穏やかさを感じさせてくれる。
だが、今日は――いつもと違った。その装いは古風な店内によく馴染む割烹和装ではなく――すべてが肌色で――どうやら着痩せするタイプなのか、普段はそこまで意識しなかった両胸は、自分が思っていた以上に豊満だったらしい。それが、俺の目の前に、ふたつとも、その頂きまで隠すことなく――そのぷっくりとしたところを染める色合いには少し年季を感じる。だが、そのふた房を支えるお腹はすっきりしており、さらにその下――ふわっとした毛の塊もまた、整えられているのか綺麗な楕円の形をしている。
俺の前には、生まれたままの崎乃平さんが――だが、彼女が立っているのはいつもの居酒屋――崎乃平さんの様子も――笑顔も――何も変わらない。まるで、自分の目がおかしくなってしまったような。彼女は本当に崎乃平さんなのか……? だが、紛れもなく彼女である。左胸に付けられた名札には、紛れもなく『崎乃平』――安全ピンではなく、洗濯バサミのようなクリップで――右の乳首にぶら下がって――!
「ほんじゃあ、こちらへどぉぞぉ」
崎乃平さんの一声で俺は我に返る。彼女は本当に何も変わらず、カウンター席の椅子を引いてくれた。ゆえに俺はそこに座る。挙動不審に目を泳がせながら、訊きたいことは何も訊けずに。何故そんな恰好なのか――いや、一体何が起きているのか――そんな疑問を押し殺し、ビールに焼き鳥、天ぷらに枝豆――まるで現実逃避するかのようにつまみを食らい、酒を煽る。
女将さんもいつも通りだし、店内は元々騒がしいということを差し引いても――誰も動揺している様子はない。いつもなら崎乃平さんに声をかけて注文したいところだが、ふわりふわりと踊る胸を視界に差し出されては、つい厨房の女将さんの方に頼んでしまう。
確認する勇気もなく、勢いよく飲み食いした所為で腹も満たされてしまった。改めて思えば、不思議なひと時であったとはいえ、決して悪いものではない。酔いの中で見た幸せな幻想――それでいいんだ――そう自分を納得させようとしていたのに――やはり、俺が見ていたものは現実だったようだ。
「おばちゃーん、歳のわりにいいカラダしてんじゃん」
酔ったオヤジが崎乃平さんにまとわりついて……! 従業員として笑顔でいなそうとはしているが、酔っ払いというのはタチが悪い。さすがに女性の胸に向けて伸ばされていく男の手を見逃すことはできず――俺は見かねて席を立つ。店の誰もが止めないのなら俺が――!
しかし――
「あンらあらァ? お客そんもしかして――」
――あたすと子作りしたいべか?
崎乃平さんの甘い言葉が俺の両足を硬直させる。立ち上がったばかりの椅子の前で、俺はふたりの光景を呆然と眺めることしかできなかった。男を拒むどころか自らスラックスに指を這わせ、ファスナーを下ろしていく崎乃平さん――それで、俺は本能的に察したのだろう。ここから先は、見たくもないものを見ることになる、と。
癒やしを求めて来てみれば、逆に絶望を味わわされることになるとは。俺だって、崎乃平さんに純情を期待していたわけではない。酸いも甘いもすべてを受け入れるような包容力――ならば、俺の厭らしい視線程度、動じることはなかっただろう。
この気持ちは――一体何なんだろうな……。少なくとも、他の男に犯されている崎乃平さんの姿は見たくない。だが――
思わず脱力して、上げたばかりの腰をそのまま下ろす。もうとっとと会計を済ませて帰りたいところだが、疲労に加えて酔いもあるため再び立ち上がる気力さえ湧かない。
俺は、なるべく何も考えないようにしてぐったりと項垂れている。しかし、店内で痴れごとが始まる様子はない。ただ――ゴトゴト、と隣の椅子が動く音が聞こえてきた。それで俺は横を向く。そこにはいつもの崎乃平さんの微笑みがあった。そう、微笑みはいつもの崎乃平さんと変わらない。けれど――やはり何も着ていなくて――裸の胸の膨らみがそこにあり――見たい――だが、見て良いものか――迷った末に、俺はついグラスに目を落とす。
そこに再び――ゴトゴト、ゴトゴト――崎乃平さんが俺の愚痴を聞いてくれるとき、いつもこうやって席を寄せてくれていた。けれども今日は――まるで椅子を連結するかのようにピッタリと。スーツ越しでも女性の腕の柔らかさが感じられるようだ。そんな俺たちの後ろを、さっき崎乃平さんに絡んでいたオヤジの一団が通り過ぎていく。
「勘弁してくださいよぉ? 仮にも部長なんですからねぇ?」
「わーってるって、冗談だよ冗談」
うぉ……背中に感じるジトっとした視線……! やっぱ未練アリアリじゃねーか。部下に窘められてこの場は思い留まったようだけど。しかし、俺には思い留まらせるような関係性の相手はいない。
「つれないべなぁ。せっかく子種もらえると思ったんに」
その露骨な言葉遣いに、俺は身を固くする。それは、さっきの様子を見ているから。崎乃平さんは同じように、俺のスラックスの――どうしようもなく山なりになったところに指先を滑らせてくる。
「遠慮はいらんよぉ? あたす、適齢期だべからなぁ」
――思えば――どこから夢だったのだろう。先程、崎乃平さんが他の男に抱かれそうになったときはにわかに現実へと引き戻された心持ちだった。けれど、いまは再び夢の中にいる。
だから、俺は……俺は……!
***
結局俺は、崎乃平さんが他の男とまぐわうのを阻止することはできなかった。俺が不甲斐ないばかりに、いまはお座敷席の方で艶めかしい歓びの声を上げている。だが――彼女はすごすぎた……! すべてを包み込む柔らかさと、すべてを吸い尽くす力強さで――不安も、悲しみも、すべて洗われてしまったらしい。
さっき、俺の胸の中で崎乃平さんが唇を触れ合わせながら教えてくれた。この街で様々な仕事を掛け持ちしている彼女だが、その本職はストリッパー――それも、サービスの一環として“このようなこと”まで行うという――彼女が所属する劇場の企画で、崎乃平さんは一ヶ月全裸で生活しなくてはならないらしい。信じられないような話だが、実際ここの女将さんから咎められることもなかったので本気なのだろう。
サービスの一環として“そのようなこと”――もちろん、崎乃平さんの勤めるこの居酒屋に来れば、特別な料金を払うことなく再びチャンスはあるかもしれない。だとしても、本来の姿はストリッパーであり――だから、これからは劇場の客席から崎乃平さんを応援したい。これまで、この店で俺を励ましてくれた崎乃平さんを。
ぐったりしている俺の脇を、最後の団体客が帰っていく。そろそろ終電も近いのだろう。かくいう俺の終電はとっくに発ってしまった。しかし……まぁ、この街には漫喫でも何でもあるだろう。前回と違って意識ははっきりしているから寝潰れることはなさそうだ。しかし、この疲労感は如何ともしがたい。
だが、崎乃平さんは――いまなおハツラツとしているようだ。
「ふふ、お疲れそん♪」
ふたりきりとなったカウンター席――先程と同じく崎乃平さんが椅子を寄せる。元々艶っぽかった肌にはなお精気が漲り、いつにも増して美しい。
酒の勢いゆえの無礼講というか――仕舞われることなくしなびていたモノが――もう、すべてやりきったと思っていたのに――崎乃平さんに寄り添われたことで、新たな力が吹き込まれてゆく。
「……あンら?」
俺の変化を目の当たりにして嬉しそうに微笑む崎乃平さん。そして、遠慮なく差し伸ばされる指先を受け入れるべく俺は胸を高鳴らせるが――
「……んッ!?」
ふ、袋の方だと……? 少し意表を突かれて変な声が出てしまったが……崎乃平さんは探るように、ふたつの玉をコリコリと握り回している。そして、俺に顔を近づけて。
「まだ、出るべか?」
そんなことを言われたら……俺は……俺は……ッ!
「は……はいっ!」
実のところ、ご希望に応えられるかはわからない。けれど……応えずにはいられない……ッ!
だが、俺の熱意よりも花子さんの熱の方が遥かに強く――息を弾ませながら席を立つと、俺の膝にゆっくりと跨る。股の下で、男女を向き合わせたまま。
「んじゃあ……最後まで頼むべよ♡」
これはもう、ホテルを探す気力が残されるかどうかもわからない。それでも俺は――崎乃平さんを抱きしめずにはいられなかった。