渋長優
芸術とは、明確に分類できるものではない。当初俺は、絵を描きたいのだと思っていた。ゆえに、美術学科を選択したのである。そして、この二年間は油絵に費やしてきたが……何か違う――日々、そんな思いに苛まれていた。
大学正門から第一講堂へとまっすぐ向かう中央通り――その道端のベンチに腰を掛け、俺はぼんやりと敷地内を眺めていた。キャンバスも立て、絵を描く準備はできている。あとは、自分を刺激する何かを探すだけだ。
ふと、目と鼻の先の緑の中にパッションピンクな塊を見かけて――まあ、そこまで目立つ色彩で固めていれば、一瞬は視線も誘導されるだろう。だが、芸大ともなれば奇抜なファッションを見ても驚くには値しない。ただ……今日はコミケでもハロウィンでもないんだがな。背中に垂らしたマントは普段着としての常識を逸脱している。
にも関わらず、俺の心に響くものがない。きっと、私服と言い張る奇抜な衣装も見慣れてしまったのだろう。
それで――俺は気がついた。異質な環境にも浸りすぎると、そこが標準であるかのように適応してしまうのではないかと。つまり、いまの俺に必要なのは原点回帰――大学という殻を打ち破り、本来標準的と呼ばれる日常生活の中から芸術を見出していくべきではなかろうか。このままでは、自分の中の感性のズレは大きくなる一方であり、いずれは心が死んでしまう。必要な技術や知識はすでに身につけた。これ以上こんなところに縛り付けられていても、きっと俺には未来などない。すぐにでも辞めるべきだろう。ここで学べることなどもう何もないのだから。
確かに、先程のマントの女は存在感があったかもしれない。だが、所詮悪目立ちだ。この特異な環境においてはむしろ平凡とさえいえる。誰もが平凡……平凡……! 自分の作品も……何もかも……!
人と違うことをしようとすること自体、ここでは人と同じなのだ。コスプレだろうと、ヒッピーだろうと、ゴスロリだろうと、全裸だろうと――
――って全裸!?
中途半端な時間のためか、敷地内を行き交う人間はまばらだ。ゆえに、目立つ。のどかなキャンパスを……何かの見間違いか? 正門の方からゆったりと――何に物怖じすることなく平然と――!
ベージュの上下を着ているのでは、と疑いたくもなる。しかし……何度見ても……全裸にしか見えない。ほのかに膨らんで丸みを帯びた両胸――その先端まで詳らかにしながら、決して焦ることなく堂々と――文字通り、胸を張って闊歩し――そのボリュームが控えめなこともあり、歩幅に合わせて派手に弾むことはない。その頂点で可愛らしい女のコの蕾がほのかな花びらを伴いしっかりと鎮座している。
肌色の全身タイツにつけ乳首、という可能性も考えた。しかし、股の間を覆う黒々とした暗がり――全身タイツであれば、そこに影など落ちようもない。そして、ふたりの距離が近づくにつれ確信する。それは紛れもなく、彼女の肌から生えている毛が密集しているのだと。成熟した股の間の割れ目を覆い隠すように、しっとりと。
俺は、観察するかのごとく彼女の身体を凝視している。だが、彼女は俺に一瞥さえしない。視線には気づいているはずなのに。彼女はそのまま通り過ぎてゆき――通学のためのバッグを肩に掛け、平然と――お尻を振りながら――
その後ろ姿を見送っていると――俺の中で何かが失われていくような気がしてくる。それが何かはわからない。だが。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
俺はつい……彼女を呼び止めていた。
「……何?」
彼女は足を止めて振り向く。その冷たい返事は怒っているようでもあるが……少なくとも、拒絶されているようには見えない。そして、恥ずかしながら――俺はこのときになって、初めて彼女が眼鏡をかけていることに気がついた。すっきりしたショートボブの髪も、まるでミニマリストのような印象を受ける。
「あぁ……その……」
ここで、俺はようやく自覚した。彼女は――美しい。もちろん、彼女の身体そのものの美しさもある。だが、これは美術的モチーフとして――かつて西洋絵画の常識として、神は人々の前でも裸である、という共通認識があった。それはつまり、こういうことなのかもしれない。俺はこの女性の中に神に似た何かを感じている――それと、乳房と乳首、それに下の毛まで湛えたありのままの姿――男としての純粋なところも刺激されていたことは否定しない。
もし、これが得も知れない繁華街であれば、悪い商売をしているのではなかろうか、と疑ったことだろう。この芸大という敷地内で出逢ったからこそ――彼女の中に芸術を見出すことができる。
「……少々お時間を、よろしいでしょうか」
俺には何を話せばいいのかわからない。だが、このまま彼女を行かせたくはなかった。
そして、俺はいまなおベンチに座っている。隣に全裸の女のコを携えて。
彼女の名は渋長優――写真科の三年とのことだ。彼女は大学に通う傍ら、ストリップ劇場の踊り娘として――しかも、ただのストリッパーではなく『TRK26』というストリップ・アイドル・ユニット――その一員であるという。
「というか、そういう施設ってまだあったんだな」
そもそもこの時代ともなればストリップ劇場など、昭和の娯楽として小耳に挟むくらいの存在感しかない。
「風前の灯だったところを、うちのプロデューサーが復興したみたいよ」
せっかく生きながらえたというのに――そのプロデューサーとやらはとんでもない企画を打ち出したのである。一ヶ月間全裸生活――それも、部屋に引きこもるのではなく、極力日常を過ごすこと――!
「……ロックというよりクレイジーだな、そのプロデューサーは」
せっかく復興した劇場の灯があっという間に吹き消されかねない。
「ま、プロデューサーが、というより、うちのアホたちが悪乗りしたってところは否めないけど」
「アホ?」
「メンバーよ。痴女揃いの」
こうして誰の目を憚ることなく素っ裸で雑談に興じている優さんも……いや、平気な顔をして内心は羞恥心が渦巻いている可能性もある。
「と、ところで……その全裸生活というのは……どこまでを全裸と定めているんだ?」
「靴とかは着用を許可されてるわよ。路上で硬いもの踏んだら痛いし」
そう言いながら、眼鏡のツルをクイと直す。おそらく、そちらも許可されているのだろう。全裸に眼鏡――不思議な組み合わせだ。必要なものだとはわかる。だからこその疑問だ。
「例えば、靴が許可されているのなら、そのままブーツと言い張って……」
「……あぁ、なるほど、そういうこと」
そのままオーバーオールまでブーツだということにはできないのだろうか。そもそもそれが通じるのなら、全身タイツの方が全裸よりはまだマシだろう。
「残念だけど、丈は膝下まで、と決められているわ。その他袖袋なんかも。いわゆる『蒼泉ライン』で」
「アオズミライン?」
「うちのセンター、蒼泉歩っていうんだけど、前世で何があったのか、全裸でないと唄えない性分らしくて」
「……本当に、前世で何があったんだろうな」
詳しい話は分からないが、その蒼泉歩というセンターが万全に唄える服装が基準になっているらしい。……ということは、いまの優さんのような……実質全裸でなくては唄えない、ということか。実に難儀なことである。
しかし、そんな難儀な女性でも、誤魔化すすべはあるかもしれない。
「なら……身体に直接服を描くのはどうだ?」
例えば、肌に直接水着を描けば――乳首は押さえられないが、下の毛まで剃れば、遠目には本物のように見えるだろう。いや、水着に限らず、タイトなデザインを追求すれば、様々な衣装を描くことができるに違いない。服だけでなく……動物の毛皮を描けばコスプレのような楽しみ方もできる。むしろ、既存の概念に囚われない、もっとオリジナルの――それこそ、先程のマントの女のようなパッションピンク――そんな派手な色彩で肌を塗り潰し――
「……もしかして、私の身体に描きたいの?」
どうやら俺は、彼女の身体に夢中になっていたようだ。夢中になって――それはもはや視姦ともいえる。それでも平然と話を続けられる女のコというのも、まさに職業柄というやつか。
ストリッパーだから受け入れてくれるかもしれない――などと甘いことは考えない。むしろ、相手はプロなのだ。
「金なら払う!」
俺はすぐさま財布を取り出し、中からひったくるように――万札三枚を優さんに突きつけた。金で身体を買うというのも失礼な話である。だが、同じ芸大の生徒ならば、この思いは伝わるかもしれない。
「ならいいわ」
「…………?」
あまりにあっさりと承諾を得られて、つい俺は聞き間違いを疑う。だが、優さんはすっと腰を上げ、俺の前に立つと胸を差し出してきた。しかも。
「あ、もしかしてお尻? ああ、背中やお腹の方が描きやすいかもね」
「いっ、いえ! できればそのまま……」
言葉には詰まりながらも慌てて絵の具を溶き、細い筆の先で、優さんの柔らかな身体の上を――
「……ん、ふ……」
毛先に素肌を撫でられ、優さんはくすぐったそうなため息をこぼす。それがとても――険しい口元から漏らされたものとは思えない艶っぽさ――そして可愛らしさ――それが俺の手元を突き動かす。
今回は完全に準備不足だった。このような柔らかいキャンバスに油絵の具は少なからず粘度が強すぎる。それでも、ぺたり、ぺたりと――
「ぁぅん……」
ぷくりとした優さんの突起を撫でると、女のコの熱が唇から溢れ出す。これまでに感じたことのなかった背徳性――それが自分の中のイメージを歪めていく。これまで、思いもよらなかった形に。
一先ず、左の胸だけ。少し離れて出来栄えを確認してみる。だが、ひと目見ただけで――
「ぅ、ぅ……ぅおおおおおおおお!?」
美しさだけではなく、魂に身を委ねることによって力強さを伴った生々しい花びら――これか!? 俺が求めていたものは……これだったのか!? 女体をキャンバスにして、色とりどりに……!
「……で、気は済んだ?」
俺の感動とは裏腹に、優さんの感想は素っ気ない。けれども、俺の思いは燃え上がるばかりだ。にも関わらず。
「い、いや……だが……この画材では……ッ!」
ボディペイント用の絵の具というのは別途存在する。一刻も早く揃えたい……!
だが一方の優さんも――俺とは異なる理由で落ち着かないようだ。
「……まいったわね。さすがに胸にワンポイントみたいなものじゃ、金額には見合わないわ。かといって、返金するのも癪だしね」
優さんは――ストリッパーである。だからこそ、まっすぐにその発想へと至り――そして、躊躇もない。
「……金額分はサービスしてあげるけど……貴方、ここでズボン下ろせる? わざわざ移動するは時間の無駄だから」
***
……実のところ、許可が下りているのは優さんだけだったので、俺まで全裸になっているのが大学側にバレたらマズイことになっていたらしい。だが、幸いなことに――いや、誰かにはバレていたかもな。膨れ上がった様々な感情と、そして――あまりにも堂々としていた優さんに触発されたところはあったが。
今回はこれで精算済み、ということらしい。それについて、こちらも依存はない。優さんは、その……とても素敵な女性だったから。けれども、俺は男であると同時に、芸術を志す人間でもある。
「くっ、今月いっぱいでどこまでできるか……!?」
彼女の全裸生活はわずか一ヶ月だ。俺のインスピレーションはそんな短期間には収まりそうもないというのに……! できればずっと……彼女の活躍を追い続けたい……! それは、劇場の踊り娘というより、この地に降り立った神の姿として……!
だが、優さんは何事もなさげにさらりと言った。
「来月以降でも構わないわよ。出すもの出してくれるならね」
そういって、親指と人差指で輪を作る。決して、出すものとは股間ではないのだろう。しかし、いくらであっても捻出するつもりだ。俺の中のインスピレーションがあふれ続ける限り。