島門佑衣
かれこれ三〇年ほど前に巻き起こった日本文化の大転換――『自己責任主義』――これは、『歌舞伎町クライシス』に端を発する『管理主義』の反動ともいわれているが――ともかく、『政治的正しさ』に抑圧され、どうにもならなくなった人間たちの防衛本能ともいわれており、ゆえに『人間主義』もしくは『快楽主義』『堕落主義』ともいわれている。
しかし――“コレ”は一体誰の堕落であり、誰の快楽なのだろうか――
相手との距離は少しあるため、その肉声は届かない。だが、そのバツの悪そうな表情から、誤魔化し笑いが聞こえてくるようだ。そんな、講義棟四階の廊下――俺はいま、試されているのかもしれない。全裸の女のコを目の前にして、理性を保つことができるのか、と。
さて、どこから情報を整理すべきか――先ず勘違いしてほしくないのだが、ここは大学の廊下であり、決して更衣室等の類ではなく――事故で全裸の女子を覗き見てしまうような場所ではない。
俺が受講しようと目論んでいた近代文化論は、いわゆるボーナス単位といわれている。期末の筆記試験の答えは授業中に堂々と散りばめられており――まさに卒業のための科目といえよう。学問を修めるというより、まるでパズルか宝探しか――これが全国規模の企画であればあっという間にネット上に答えがばら撒かれることだろうが、ここはいち大学のいち講義である。名声欲より講義に出ていない連中に甘い蜜を吸わせてなるものか――そんな感情が働き――せいぜい仲の良い友人からこっそり教えてもらうくらいが関の山である。……こんなことなら斜に構えずもっとフランクに人付き合いをしておくべきだったかもしれない。が、今年で卒業という年次で急に近づいたところで、下心以外の印象は与えないだろう。
そんなわけで――正直、あの時間に改札をくぐるようでは講義に間に合うか否かは五分五分といったところだったが――あの助教授が時間通りに講義を始めることはない。大抵、数分遅れる。それを見越して走ってきたものの――残念ながら、今日は比較的正確なスケジュールで動いていたようだ。様々なところで緩い分、締めると決めたところは厳しい。一旦講義が始まってしまえば、途中入場は認めないのが数少ないルールのひとつである。
よって、ここは諦めて踵を返すしかない。だが――目の前の異変に対して、俺は改めて状況を俯瞰してみることにした。女のコはリノリウムの床にペタリと直にお尻を着け、壁に寄りかかって太ももにノート端末を乗せている。何か音楽を聴いているようで――左右の耳たぶに引っ掛ける形のイヤホンは開放型。それもあって――おそらく大音量で流しているわけでもなく、俺の足音にもすぐに気づいたことだろう。
だが、立ち上がったり、逃げ出したりする様子はない。そして、両腕で身体を隠したりする仕草もない。ただ、恥ずかしがっているようには見える。もしくは、照れているのか。
いずれにせよ、こちらに対する敵意や警戒心はなさそうなので――俺は試しに、相手の方へと一歩近づいてみた。この程度では女のコに変化は見られない。なので、さらに一歩、もう一歩――どうやら、女のコは俺の接近について否定的な感情はなさそうだ。
なので――とにかく俺が気になるのは、そのノート端末で何をしているのか――このような場所で、そのような格好で。声をかけると怖がられるかもしれないし、何よりここは静かな講義中の廊下だ。小さな声でも意外と響く。
俺の接近しようとしている意思を察すると、女のコは慌ただしく視線を泳がせ始めた。それでも立ち上がる様子はない。なので、俺は俺の目的を完遂する。彼女の隣に座り、軽くモニタを覗き込んでみた。すると、そこには――
「……ッ!?」
これは――完全に予想外である。まさか、彼女が見ていたものは――近代文化論の講義そのものだったとは――
正直なところ――この講義は俺も聞いておきたい。一回分落としたからといって試験で大幅に不利になることはないとはいえ――この講義中に試験の際のヒントが含まれているかもしれない。
彼女もまたそんな事情を察したのだろう。自分の右耳に掛けていたスピーカーを俺の左耳に掛けて――
『ということで、これが有名な――』
本当に変哲もない講義である。裏技のような形で受講できて、こちらとしてもありがたい。
しかし、これは――さすがに内容なんて頭に入らないぞ……!? いや、一言一句覚える必要はない。だが、助教授の『ここ、試験に出るからなー』だけは押さえておきたい。けれど、授業に集中しようとしても、つい隣の肌色に意識を奪われてしまい――しかも、いくらひとつの画面を共有しているとはいえ、そんなふうに肩を預けられては――! 身体は細いが胸はあり――全裸というのは胸の先まで例外ではなく、ピンク色の突起が可愛らしく自己主張している。そこが気になればなるほど、その向こう側――上からでは女のコのその下が見えない。気になる。だが、それを遮っている胸そのものも気になってしまい――
そんな意識のせめぎ合いの中で――つい女のコの太ももに触れてしまった俺の指先に、彼女が嫌がる様子はない。それどころか――彼女の指先もまた、俺のズボンに上に――!
いつしか互いの手の平はより露骨に――より敏感なところに――快楽と理性の間で振り子が激しく行ったり来たりする中、モニタの向こう側では淡々と講義は進んでいき――だがしかし――
「……あっ、そろそろ講義が終わっちゃう……っ」
我に返った女のコはふたりの空気を断ち切るようにノート端末の蓋を閉じ、脇に置いてあったカバンにグイと詰め込むと勢いよく立ち上がった。そして、階段の方へと駆け出していく――俺にイヤホンの片割れを貸したままで――
***
階段を選んだのは――人目の多いエレベーターを避けてのことだろう。そのまま裏口から建物を出て――女のコのミディアムヘアがふわりと風に舞う。ここはいわゆる校舎裏だ。そこでようやく足を止めて――彼女はこちらへ振り返る。
「や、やっぱり……着いてきちゃいました……?」
結構全速力だったのか、女のコの息は荒い。
「そりゃあ……そうするだろ……」
「で、ですよね……私も……」
そう言って、彼女の方から歩み寄ってくれたので、俺は左耳のイヤホンを外した。
「これ、返しておかないと」
「あっ」
これには彼女も真っ赤になり――
「す、すいません。私、ちょっと勘違いしていて……」
「勘違い……?」
その可愛らしい表情から、それは男にとって嬉しい勘違い――だからこそ、俺の方も勘違いして先走らないよう、相手からの言葉を待つ。
「……私、実は――」
彼女――島門佑衣はストリップ・アイドル見習いだと名乗った。
「それで、ですね……今月、劇場からの指示で全裸生活というものに挑戦中でして……」
一ヶ月全裸で生活――それも、できる限り日常通りに――見習いに対する苛烈なトレーニングか、それと陰湿な嫌がらせか――いや、ただの悪意であれば、ここまで大学側と掛け合うことはないだろう。本来リモートを認めていない近代文化論の授業で、例外的に認めさせるなど――ただし、あの助教授は出席主義である。全裸のまま人前に出るのが恥ずかしいとしても、廊下までは来るように、と。電波の出力を絞っているのか、端末にGPSでも仕込んでいるのか――ともかく、こうして島門さんは講義を拝聴することができたらしい。
「そ、そうなんだ……」
俺は相槌を打ちながら考える。何故島門さんがそのようなことを俺に話してくれたのか――大学で全裸になっていた件に対する弁解――だけでもなかったのかもしれない。
「え、えーと……そういうわけで……そのー……普通の女のコより“こういうことに”も慣れている、と言いますか……」
そう口にして、さらに近づく。そして――ふわり、と女のコの指が俺の足に触れた。それは偶然や事故ではなく、確信的に――先程の講義中で交わしたやり取りのように――
「ここまで着いてきてもらえて私、嬉しかったんです。さっきまでの気持ちは……私の勘違いじゃなかったのかも……みたいな感じで」
この状況は、最初とは逆に――島門さんの方から、俺にどこまで近づいて良いのか確認するように。
「先輩方ならもっとはっきりと求められると思うんですけど、私はその……まだ……難しくて……」
ストリッパーの先輩が男に求めること――このような状況で――その時点で答えはほぼ出ていて、島門さんもまたはっきりと求めているに等しいのだが――
「けど……ちゃんと言えるようにはなりたくて……」
自身の意思は伝えた上で、なお。
「なので……その……」
それでも、明確に口にするのはやはり恥ずかしいのだろう。これが、いまの精一杯。
「……次のコマ……講義、入ってますか?」
その問いに対する答えは、イエスである。いまから向かえば少々の遅刻で大目に見てもらえるかもしれない。だが――この時代は『快楽主義』『堕落主義』――それを全面的に肯定することはできないが、行き過ぎた先の揺り返しを人類は学んでいるがゆえに、それを極端に否定するようなこともするべきではない。
この場においては、女のコの気持ちとか勇気とか、様々な複合要素を天秤にかけた上で――俺はあえて授業はサボることを決意した。あくまであえて、今回だけのこととして。
しかし、彼女はストリップ・アイドル――所属先も教えてもらった。ならば、これ以上俺が快楽に溺れることはない。今度会うのは、快楽の劇場で――節度を持って人生を楽しむバランス感覚のある人間になりたいものだ。




