乙比野杏佳
あれは二学期が始まって一週間くらい経ったあたりの週明けのことだったと思う。教室は涼しいが登下校の道のりは暑い。だったら、涼しくなるまで授業を先延ばしにするか、せめてリモートにしてほしいところなのだが。
七月の頃はこの暑さに耐えきれば夏休み、という希望もあったが――その休みが終わってしまえば絶望しかない。学校のない一ヶ月間は基本的に家に籠もりきり、友人らと集まる場所もネット上。なんと快適なことか。そもそも、わざわざこうして炎天下の中を移動してくるメリットがない。
非効率な学校教育に対して不満を募らせながら――校門のあたりでスマホがブルったので取り出してみる。それはいつものソシャゲのエネルギーが切れました、という通知で――このタイミングなら授業が始まる前に補充しておけばいいことだ。が、時刻がマズイ。あと三分で始業のチャイムである。ここまで定刻どおり来ておきながら僅差で遅刻はもったいない。なので、少し小走りで僕は教室へ向かう。
昇降口で靴を履き替え廊下に上がると人は少ない。この季節、こんな蒸した通路に残っているのは自分のような遅刻寸前の者だけだ。なので熱気に背中を押されるように、歩速は緩めず教室へ。似たような生徒が他にもいるが、きっと同じ心境なのだろう。
到着して扉を開くとひんやりした空気が漏れ出てくる。生き返る思いだ。が、逆に教室からすれば、僕が熱気が流し込んでいるに等しい。入り口間近の席の坂本から嫌な顔で見上げられて――案ずるな。僕とて同じ気持ちだ――すぐさま扉を閉める。
だが、すぐに再び開かれた。この時間帯なので駆け込みの登校者が相次いでいるのだろう。そりゃ、入り口間近の席を充てがわれた者として嫌な顔をするはずだ。
が、しかし――坂本は真っ赤になって固まっている。僕の方を向いたまま。いや、正確には僕の後ろなのだろう。釣られて、僕も振り向いた。それで――坂本が何に驚いていたのかを知る。
「……邪魔よ、退いてくれる?」
後から来た女子に毒づかれて――僕は何も言い返せずに従っていた。まさに、僕の背に触れるか触れないか――そんな間近にあったのは――おっぱい。
いや、女子高生なのだから胸くらいあるだろう。だが、彼女は――乙比野――下の名前は忘れた――の胸は――その膨らみは、制服の中に収まっていなかった。その肌が軽く火照っているのは、晩夏の日差しに当てられたからだろうか。しかし、その先が特に朱く染まっているのは日差しのためではない。それは生まれ持ってのもの――ふたつの膨らみ――その頂点の乳首と乳輪――それらを大きく揺らしながら、乙比野は俺の目の前を横切っていき――
さすがにクラス中が異変に気づく。そんな乙比野の背中を――お尻を、僕は目で追っていた。きっと、背後にいる者はみんなそうだろう。逆に、正面にいる者は――さっき僕が見たふたつの胸に釘付けになっているに違いない。
そして、乙比野がボスンと――いや、ぽよんと椅子にお尻を落としたところで、始業のチャイムが鳴った。
僕は女子の交友関係には詳しくないが、どうやら乙比野と親しい間柄の友人はクラス内にはいないらしい。チャイムの後、すぐに担任が来たので全裸のことは不問となり――教師が触れず、かといって自ら教師に問い質そうという者も現れず――少しの休み時間を挟んで、一時限目のチャイムと共に矢島――英語の担当教師がやってきた。時間きっちりに。普段はもう少し猶予がある。まるで、乙比野に関して僕たちが触れる時間を最小限とするように。
英語の授業は、淡々と進んでいく。誰もが気になって仕方がない。いつになく静かな授業風景に、矢島はさぞご満悦――とはいかず、やはりどことなくぎこちない。
「じゃあ、ひとり一行ずつ和訳を。今日は――」
と言いかけて固まる。前回は僕のいる列だった。そのひとつ右隣となると、その三番目に座っているのは――
「――五列目で」
それでも矢島は果敢に自分の進め方を固持する。もちろん、読み手が立って発音するのも変えることはない。先頭の田川、二番目の吉本が読み終え――教室の空気が変わったのを誰もが感じたことだろう。その中心で、乙比野が――立ち上がった。
全裸の、乙比野が。
裸の胸をふわりと湛えて。
席を立ったことで足の付け根辺りもよく見えるようになり――立体的に積み重なった縮れ毛まではっきりと視認できてしまう。
乙比野が卓上に目を落としているのは手に持った教科書と机のノートを確認するためだろう。だが、真っ赤になって俯く様は羞恥に耐えかねているようにしか見えない。
そして、実際そうだった。
「S、S……She has――」
その二語を発したところで、ぐにゃりと膝を折り――ガタガタ、と机と椅子をひっくり返す。
「乙比野さんっ」
と、慌てふためく矢島。
「早くっ、誰か保健室に!」
とはいえ、相手は全裸の女子である。誰が連れて行くべきか――女子のうちの誰かだとは思うのだが――
「保健委員ッ!」
そう大声を上げたのは――他ならぬ乙比野だった。
「こここっ、こういうとき連れて行くのは……保健委員でしょっ!?」
保健委員って……まさか……僕か……!?
僕に注目が集まったことで、担任でない矢島も僕が保健委員であることを察したのだろう。
「け、けど、岸田君は……」
男子が連れて行くのはさすがにマズイ――だが、乙比野は頑なだ。
「とっ、特別扱いすんなって言ったでしょ!? はっ、早く連れていきなさいよっ! ……腰に力入らなくて……立てないから……」
本人が有無を言わさず怒鳴り散らしているのだから仕方がない。だが、ということは、つまり、僕は……裸の女子の身体を支えて……保健室まで……!?
***
保健室に着いた頃には――女のコの腰は細く、柔らかな胸が僕の脇をぽよぽよとずっと撫でていて――乙比野が教室で倒れた理由がよくわかった。僕もまた、彼女をベッドで寝かせたところで、横にあった丸椅子に力尽きるようドッカと座り込む。き、緊張って……こんなに体力を削り取るものなんだな……!
乙比野をベッドで寝かせた、というか……僕の方も限界だったのだから仕方ない。乙比野をベッドにただ座らせただけで――そのまま背後に倒れ込んだので、掛け布団さえお尻に――背中に敷き込んでいる。ここからだと裸の女のコを下から見上げるような塩梅になっているが、それでも乙比野の胸はたゆんと肋骨の上に乗っており、ツンと立つ乳首まではっきりとわかる。
乙比野はぐったりして見えるのに、語気だけはいつもどおり無駄に強い。
「ふ……不甲斐ないわ……。私ならできると思ってたのに……」
「な、何を……?」
僕は――僕らクラスの人間は何も知らない。乙比野が何故こんなことを――何のためにこんなことをしようとしていたのか。
それを裸の女のコに問い詰めるほど、僕の肝は座っていない。だがこれに、乙比野はポツリと小さく答えてくれた。
「……全裸生活」
「は……?」
何を言っているのかと聞き返すと、乙比野は驚くべきことを口にした。
「私……アイドルなのよ。ストリップ・アイドル」
何のことだかわからなかったが――乙比野がダンス部を“潰した”という噂は聞いたことがある。だがその後、彼女はひとりストリッパーとしてデビューしていたらしい。
その劇場の企画で、『全裸生活』に挑戦することになり――
「私なら通学謹慎なんてしなくても通えると思ってたのに……ッ!」
どうやら学校側にも許可を取っており――通学時間をずらして別室で授業を受ける通学謹慎という形を打診されていたが、教室でも叫んでいた通り、特別扱いを嫌った乙比野はそれを拒否。他の生徒と同じように授業を受けたい、と言って聞かなかったのだろう。だが、こうして倒れてしまってはそれ以上意地を張ることもできない。
「く、くぅ……けど、これで終わりじゃないわよ……もう大丈夫だって証明して、今度こそ……っ」
乙比野は未だ教室に復帰する腹積もりのようだ。男子もいる、あの教室へ。女のコの考えることはよくわからない。……いや、コイツが特別なのだろう。何しろ、ストリップ・アイドル――普通に生活していたら交わることのない世界だ。
だからこそ、僕も自分の世界に帰ろう。これ以上彼女と触れていては頭がおかしくなってしまう。
「そ、それじゃ……僕は教室に戻るから」
立ち上がる僕の視線は壁の方を凝視したままで。乙比野の視線は天井へ。それでも。
「待ちなさいっ!」
乙比野は僕を呼び止める。
「こんな形で世話だけかけて、そのまま帰すなんて……私が納得できない」
あぁ、乙比野ってのはこういうヤツだった。それが面倒くさくて……クラスでは孤立しがちだったのだろう。なので、僕もまた淡々と。
「これも保健委員の仕事だから」
などと、ギザなセリフで誤魔化そうとしてみるも、乙比野は――一度言い出したら聞かないキャラらしい。
「だったら!」
少し言い淀んで――それでも時間はかけずに。
「……私たちストリップ・アイドルの仕事が、踊って脱ぐことだけだと思った……?」
その言葉に――僕は何かを期待していたのだろう。つい惹きつけられてしまった視線の先で、乙比野は――ゆっくりと両腿を――布団の上に滑らせていく。
「こここっ、こういうのも、私たちの仕事なのよっ! もう、ステージの上で何人もの男に跨ってきたんだからっ!」
これが、ダンス部の股関節か――ベッドの縁と女のコの太腿が一直線に――その中心には女のコの――ぷくっとしたところが僕の目に飛び込んでくる。このような角度でなければ決して見えないところが。どうやら、毛は向かって正面にしか生えておらず――二枚の唇は綺麗で、ちょろりと中から舌のようなものがはみ出ている。
「にっ、逃げたら……絶対許さないからっ! 教室まで追っていって、クラスのみんなの前ででもひん剥いて……ッ!」
――言い出したら、乙比野は決して止まらないのだろう。何より、ここまで女子から求められては――というか、女ってこんな求め方するものなのか――?
僕にはもう、何も考えられそうにない。すべては、登校中の直射日光にヤられたから――そういうことにしておいてほしい。
***
TRK26――それが乙比野が所属する劇場の名前だった。『ストリップ・アイドル』で検索してみて、見つかったのがそこだけで、そのメンバーとしてその名もあったから。乙比野杏佳――ステージパフォーマンスのアーカイブもあった。これをクラスの連中が観たら驚くことだろう。顔見知りが、きらびやかな舞台で、あんなことや、こんなことを――
だが、乙比野の“温かさ”まで知っているのは――おそらく、このクラスでは僕だけだ。姿や声は画面越しでも伝わってくる。けれど、それは乙比野のいち部分でしかない。
これまで僕は、ネットさえあれば十分だと思っていた。けれど――僕はもう、乙比野に触れてしまっている――あちらの世界に引きずり込まれてしまっては、もうスマホを通じた乙比野だけでは満たされそうにない。視覚と聴覚――それ以上のものを得るためには、現地に足を運ぶ必要もあるのだろう。僕らはこの現実に足をつけて生きている。ネット上だけでは完結しないこともあるということか。
とはいえ――この暑さは如何ともしがたい。少しでも外が涼しくなる日を心待ちにしつつ――しばらくは、別教室で通学謹慎となっている乙比野に想いを馳せよう。