プロローグ
私のファーストキスは、ラズベリーとチョコレートの味だった。
それは、三年前。私、合田千子が小学六年生だった頃の記憶だ。
唇の温かく柔らかな感触、甘酸っぱいラズベリーと濃厚で大人な苦味を少し含んだチョコレートが絡みあったあの味は。今でも、妙に鮮明に憶えている。
けれど、なぜ私がファーストキスをするに至ったのか……それは、正直。あまり良く覚えていなければ、今考えても思い当たる節がなかった。
何故なら、私は奪われた方の立場であって。奪ったのは、初恋の男子でも何でもない。
同性である自分ですら見惚れてしまうような、美しい同級生の女子だったから。
そして、その彼女は。今現在、上級生の女子三人に。女子トイレ内にて取り囲まれていた。
(気まずい現場に居合わせてしまった……)
トイレの入口にて、私は扉を少しばかり開いて覗き込みながら。この後の行動をどうしようか……と、足りない知恵を振り絞る。
お取込み中だし、普通なら別のトイレを使えば良いのであろうが。中の様子を見ると、皆で楽しく歓談している雰囲気とは全く真逆な重い空気に包まれている。
これを見過ごすのは、どうにも寝付きも目覚めも悪そうだ。
タイミングを見計らって、何も知らない気付かない間抜けなフリをして中に入り。ファーストキスの君――百瀬川姫苺さんを、上手いこと連れ出そう。
……まあ、そう上手くことが運ぶ気は全然しないが。無視するよりは、自身の後悔が少なそうだし……。
「――あなたね、自分が可愛いからって。調子に乗るのも良い加減にしなさいよ!」
うわぁー……ドラマや漫画で良く聞くような常套句。実際に言う人いたんだ……と、私は思わず不謹慎な思考をしてしまう。
「鈴木君に色目使っておいて、いざ告白されたらフるとかナメてるの?」
鈴木君……ああ! 三年のサッカー部キャプテンだった鈴木先輩か!
イケメンでサッカーも上手いから、同級生下級生共に人気あったなぁ。
そういえば、鈴木先輩が百瀬川さんに告白してフラれたって話し。確かに聞いたことあった。まぁ、百瀬川さんがしょっちゅう色んな人に告られてるから、すっかり忘れてたけど。
百瀬川さんは小学校の頃は美少女で、高校一年生になった現在は物凄い美人へと成長を遂げていた。
お父さんがハーフで、外国の血が入っているからか。日本人より、少し目鼻立ちがくっきりと美しい形を象っているのだ。その相貌は、同性であっても見れば思わず感嘆の息が漏れてしまう輝きを放っている。
(そりゃあ……私だって、生まれ変わってイケメンになれたら。百瀬川さんみたいな美人と付き合ってみたいわ)
いや……容姿だけじゃなくて、高身長高収入も必須か……などと、全然関係無いことを考えていると。
「――別に、ナメてなんてませんけど」
と、凛とした声が聞こえてきた。
「私は、その“鈴木君”って方に全く興味が無く。交際する気が一切ないから断っただけです。色目を使ったって、私。その人の顔すら、今全然思い出せないんですけど」
はっきりと冷淡にその台詞を言い切ったのは、現在上級生女子達に囲まれてピンチであるはずの百瀬川さんで……そ、そんな事。そんな態度で言ったら……。
「何、その口の利き方!」
「あんた、他人を見下すのも大概にしなさいよ!」
「一年なんだから、もっと分をわきまえなさい!」
って、なりますよね!!
先輩方は案の定、烈火の如く怒りの言葉を百瀬川さんへとぶつけていく。しかし、当の百瀬川さんはというと。
「フフッ……」
と、突然笑い始めた。
「年上であることでしか、マウント取れないんですか?」
そして続けられた言葉に、先輩方だけでなく。私まで、思わず呆気にとられてしまう。
「今は学校で決められた階級で上下関係決まってますけど、それで偉ぶれるのなんて今だけですよ? 大体、来年卒業したら。今度はあなた達が一年生ですからね。まあ、大学行けるのかどうかは知りませんけど」
そう笑顔で添えて、さらに目の前の人達の怒りを煽る百瀬川さん。
この人の心臓、どうなってるんだ……。顔を赤くして、怒りを積もらせる先輩達が口を開く前に。百瀬川さんは続けて。
「“鈴木君”をフッた相手に牽制掛けに来るなんて不毛なことをするような頭の足りない方達でも、大学に行けるんですか? 今付き合ってる相手ならともかく、フった相手ですよ。現在進行形で何の関係性もないただの他人じゃないですか。そんな相手に構ってる暇があったら、ご自分の容姿や内面を磨いて失恋中の“鈴木君”にモーション掛ける方がよっぽど合理的だと思いますけどね」
た、確かに……その通りだけど……。
「あっ、もしかして。そんな単純で簡単なこと、今気づかれました?」
百瀬川さんんんんん!!!!
なんで、そんな、わざわざ怒らせるようなことを!!
「あんたっ、ホントにっ……良い加減にしなさいよっ!!」
ああ、ほら!
案の定、怒りに任せて百瀬川さんに掴み掛かってきてるじゃん!
「ちょっ、あの! 落ち着いて下さい!」
私は思わず、後先考えずに女子トイレの扉を開ける。
「ぼ、暴力は良くな――」
「関係無い奴は引っ込んでなさいよ!!」
百瀬川さんを庇おうと、彼女と先輩達の間に割り込もうとするが。私の身体は怒り狂った女子の先輩の一人に渾身の力で押され、思わず床に尻もちをついてしまう。
うぅ……トイレに倒れるなんて、今日は厄日だ……などと、私が考えを過らせていたその時。
――バチンッ!!
という小気味良い音が、トイレ内に響いた。
疑問府を浮かべながら顔を上げると、頬を赤く腫らしていたのは百瀬川さん……ではなく、私を押した先輩で。叩いたのが百瀬川さんであった。
「……無関係の人に」
静かに紡がれた百瀬川さんの言葉は、先程までの声よりも重低感が顕現しており。
「手、出してんじゃないわよ」
とても、彼女の可憐な容姿から放たれたとは思えないような威圧感を放ったのだ。
思わず私まで、その迫力に飲まれて内心ビビッてしまう。
「これ以上私に構うようなら……あ、そうだ」
百瀬川さんは、雰囲気を一変させ。満面の笑顔を浮かべて続けた。
「“鈴木君”先輩に、私からお願いしてあげますよ。『あなたを振った私のことが許せないとヤキを入れに来た、あなたを大好きな方達がいるので。是非、付き合ってあげて下さいませんか? きっと、私なんかよりも幸せにしてくれると思いますよ! だって、あなたの為になりふり構わない行動が出来る方達なんですから』ってね」
お、鬼だ……綺麗な顔した鬼がここに居る。
「なっ……!?」
「す、鈴木君に余計なことは言わないで!」
そう態度を一変させ始める先輩達。そこはやっぱ、鈴木先輩にはちゃんとバレたくないんだね……だったら、こんな事。最初からやらなきゃ良いのに。
「そうですか? まあ、良いですよ」
百瀬川さんは笑顔で了承すると。
「彼女に謝って、今後一切私と関わろうとしなければ。さっきの言葉と、今までの会話を録音したこの音源は“鈴木君”先輩にはお伝えしないでおきます」
録音してたんかィィィィィ!!!!
心の中で叫びながら、私はスマホを片手に掲げる百瀬川さんを見て目を剥いた。
勿論、数々の悪態を百瀬川さんに吐いた先輩方も驚きと共に顔を青褪めさせて。
「すっ……すみませんでしたっっっ!!」
と、三人同時に私へと頭を下げて。慌てて女子トイレを飛び出して行く。
……まあ、あれだけされたら。もう、百瀬川さんにちょっかい掛けたりしないだろうなあ……怖くて……。
「――大丈夫?」
先輩達が出て行った扉を何となく見ていると、百瀬川さんのさえずるような声が降り注ぐ。
その声は、先程の先輩達と対峙していた様子とは打って変わり。見た目通りの可憐な美しい少女のものであった。
「あっ、うん! 全然大丈夫大丈夫!」
言いながら、私に手を差し出す百瀬川さんの右手に。自身の手を伸ばしかけて、すぐさま手を引っ込めた。
さっき倒れた時に、両手もしっかりトイレの床に触れてしまったのだ。綺麗で尊い存在の百瀬川さんに、そんな手で触れては失礼である。
「……その、ごめんなさい……私の所為で……」
立ち上がり、洗面台で手を洗い始めた私に。百瀬川さんが言う。
「いや、そんな! 飛び出したのは私だし、百瀬川さん何も悪くないって!」
慌ててそう言うが、彼女はいまだに悲しそうな表情で私を見た。
「だって、ほら! 私も一応、小中一緒だったから百瀬川さんがモテるの知ってるし。モテる女の子が他の女子に妬まれるのなんか良くあることで、でもそれって百瀬川さんが悪いわけじゃないし!」
私は少しでも、百瀬川さんの罪悪感が軽減されるように……と、考えるよりも先に口を走らせる。
「百瀬川さんがモテるのは、しょうがないというか当たり前のことだって思うし! 私だって、高身長高収入イケメンに生まれ変わったら百瀬川さんとお付き合いしたいって思――」
「それ、本当?」
真面目なトーンの百瀬川さんの声に、私は思わず「えっ?」と固まった。
「私と……付き合いたいって、本当?」
「えっ……そりゃあ、男だったら是非とも……」
困惑しながら、私が言うと。
「それって……」
と、百瀬川さんは振り絞るように。
「今じゃ……ダメ、なの……?」
と、か細い声で紡ぐ。
えっ、今って……えっと、それって……?
「今の貴女とじゃ……恋人に、なれないの?」
潤んだ瞳を真っ直ぐに向け、学校一の美少女は私へとそう不安そうに尋ねてきた。
困惑していた頭を、私はさらに混乱させ始めながら。
“百瀬川姫苺……私は、彼女が解らない……”
そう、心の中だけで思うのだった。




