公爵令嬢様、あなたの身代わりになって婚約破棄されたので、代わりに悪事を全部バラしてもいいですか?〜親友でしょ?って泣いて喚いてももう遅い! お金の力に頼った友情なんてなんの価値もないんですよ〜
広い室内の至るところに豪華絢爛な装飾が施された公爵令嬢の自室。私は公爵令嬢本人から急にそこへ招かれ、外国から仕入れたという高級茶葉で淹れた紅茶でもてなされていた。
「──でね、そのドミニクって奴ったらおかしいのよ。わざわざ自分から当主の座を降りて弟に爵位を譲るんですから。配下から信頼されてないと全てを失うのねー! 哀れだわ」
「そうですね。アンネローゼ様」
「その点あなたは恵まれているわマヤ。なんてったって公爵令嬢であるこのアンネローゼ・ヴァナーがついているもの」
「……ありがとうございます」
上機嫌で喋りまくる公爵令嬢──アンネローゼ。だが私はその言葉が全く頭に入ってこなかった。
嫌な予感がして紅茶の入ったカップを持つ手の震えが止まらない。精一杯堪えてアンネローゼに気取られないようにしているものの、この歓待の意味を理解している私としては内心が全く穏やかではなかった。
「──どうしたの? 顔色が悪いじゃない? お紅茶がお口に合わなかったかしら?」
「い、いえ……そういうわけでは……」
ピンク色のヒラヒラドレスを身につけたアンネローゼは、カチャッと小さな音を立てながら自分のカップを皿の上に置くと、ふかふかのソファから立ち上がり私の隣にやってくる。
「何か悩み事? あたしでよければ話聞いてあげるけど?」
なんと白々しい。こいつは──悪魔なのだ。でもその優しげな口調からはとても想像できないかもしれない。──私も昔はそうだった。
その上品で優しげなアンネローゼにまんまと騙されて。気づいたら彼女のおもちゃに成り下がっていた。
が、「あなたの存在そのものが悩み事なんですよ!」なんて口が裂けても言えない。
私は口元にぎこちない笑みを浮かべながら誤魔化すしかなかった。
「なんでも相談しなさいよ? あたしとあなたは『親友』なのだからね」
「……はい。ありがとうございます」
私がそう返事をした時、扉の前がなにやら騒がしくなり──勢いよく開かれた。入ってきたのは赤い制服で統一された公爵家の私兵が数名。彼らはアンネローゼに近距離で話しかけられている私にチラッと視線を向けて揃って怪訝な表情をした後、アンネローゼに向けて声をかけた。
「お嬢様大変です!」
「なにごと? あたしは今親友と大事な話をしているのだけど?」
対するアンネローゼは余裕の態度だ。
「いえ、それが……厩舎の馬が十頭ほど逃げ出しまして……」
「なんですって?」
「何者かが厩舎係の隙をついて厩舎の扉を開け、縄を解いて逃がしたものと……」
「──一体誰がそんなことを……!」
「公爵閣下がこのことを知ったらきっと激怒されますぞ! お帰りになるまでに犯人を特定しませんと」
「困ったわね……」
アンネローゼは険しい表情をしながら、指先で私の肩をトントンと叩いた。
(やっぱりかぁ……)
──また始まってしまった。
私は心の中で深いため息をついた。
「あら? マヤ? 何か言いたいことがあって?」
「あ、えっと……その……」
じっとアンネローゼがこちらを覗き込んでくる。その瞳が「早くしろ」と急かしてる。
私は腹を括った。
「──私がやりました」
◇◇◆◇◇
アンネローゼのイタズラ癖は幼い頃からあったものらしい。わりと奔放な彼女は公爵令嬢として淑やかに生きることにストレスを感じていたのか、よく公爵家のものを壊したり隠したり……それは歳を重ねるごとにエスカレートしていった。
幼い頃はまだ子供のやったことだからと大目に見てもらえたものの、ある日アンネローゼは父親であるヴァナー公爵が国王陛下より賜った立派な陶器の壺を割ってしまいこっぴどく叱られた。それに懲りたアンネローゼはイタズラを辞めた──わけではなく、身代わりを立てることを覚えた。そこで白羽の矢が立ったのが男爵家令嬢でアンネローゼには頭が上がらないこの私──マヤ・キルステンだったという話だ。
それにしても『灰かぶり娘』という表現は今の私をよく表している。
本来は「惨めな」とか「みすぼらしい」とかいう意味合いなのだが、私は文字通りアンネローゼに降りかかる『灰』を代わりに『かぶって』いるのだから。
あの後、私が名乗り出たことで公爵家の私兵たちは「またお前か」みたいな反応をして私を捕らえようとしたが、アンネローゼが私を庇った。曰く「マヤは繋がれている馬たちを見て可哀想だと思ったのよ! 優しくていい子だわ!」と。私兵たちは「優しいのはこんな罪人を庇うお嬢様の方です! いい加減縁を切ってください!」と血を吐くように怒鳴り、それに対してアンネローゼは「マヤは大切な親友だもの!」とのたまった。
まったく笑えてくる。
結局その場で捕えられることはなかったものの、アンネローゼと別れて屋敷を出ようとしたところで案の定私兵に捕まり、冷たい地下牢に放り込まれた。
公爵家の地下牢はアンネローゼの身代わりになった時に何度か入ったことがあるが、床はじめじめと濡れているので尻をつけて座るわけにもいかず、おまけに暗いし隙間風が寒いので環境は劣悪だった。しかも鉄と岩とカビの混じりあったような変な匂いもする。
(はぁ……いつまでここにいなきゃいけないんだろう……)
(帰ったらまたお父様に叱られるわ……)
悩みは尽きない。いっそのことアンネローゼとの縁を切ってしまえばいいのだが、物事はそんなに単純でもない。私の父親であるキルステン男爵はヴァナー公爵から多大の借金をしており、私とアンネローゼの決別がそれにどう影響を与えるのか想像に難くない。最悪私たち家族は国を追われ路頭に迷う可能性もあるのだ。それに比べれば私一人の犠牲で済むだけマシなのかもしれない。
と、考えを巡らせていると、階上がドタバタと騒がしくなってきた。なにやら話し声も聞こえてくる。
「お嬢様! おやめください!」
「いいから下がってなさい! なんで勝手にあたしの親友を牢屋に入れるわけ? そんなこと許可したかしら?」
「し、しかし……!」
「お父様にはあたしから話しておくから、マヤを出してあげなさい!」
「あっ、お嬢様!?」
「そこで待ってなさい! いい? 動かないで。動いたらクビよ!」
カツカツと石造りの階段を鳴らすヒールの音がする。足音は段々と大きくなってきて、やがて私の牢の前で止まった。アンネローゼは、手に持ったランプを床に置くとガシャガシャと音をさせながら鍵を開けて牢の扉を開けた。
「うちの私兵が悪かったわね。怪我はない? 手荒いことはされなかったかしら?」
「大丈夫です。ありがとうございますアンネローゼ様」
「いいのよ。あたしとあなたは『親友』でしょう? 困った時はお互い様よ」
やたらと『親友』という単語を強調してくる。自分の身代わりになった私に対して自分の行いを詫びるという気持ちはこれっぽっちもないらしい。私を牢から出したのだって、どうせ公爵が帰ってきて私が尋問された時に恐怖のあまり本当のことを話してしまうという事態を恐れたからに違いないのだから。
(……少し、言ってみようかな)
少しだけ勇気を出して、私はアンネローゼにこんな言葉をかけてみた。
「あの、アンネローゼ様……」
「なにかしら?」
「──もう、やめませんか? こういうこと」
「……」
アンネローゼからの返答はない。そっと彼女の顔を窺ってみると、彼女は無表情だった。何を考えているのか分からない。ただ、ランプの炎が彼女の顔を赤く染めているのみだった。
「──ねぇマヤ?」
その声にはほとんど感情がこもっていなかった。
「は、はい……」
「あたしたち、『親友』よね……?」
「はい……!」
私は力強く頷いた。何故だかそうせざるを得ないような、一種の強迫観念のようなものに突き動かされた結果だった。
私の返事を聞いたアンネローゼは先程までの無表情はどこへやら、満面の笑みを浮かべる。
「そうよね……よかったわ」
その後、アンネローゼは「さあ、ご家族が待っているでしょう? 門まで送るわ」と言って私を見送ってくれた。私は悶々とした気持ちを抱きながらも自分の屋敷に戻ったのだった。
◇◇◆◇◇
ヴァナー公爵の屋敷よりも大分と小さい自分の屋敷に戻った私は、案の定帰ってきた父親にこれでもかというほど叱られた。無理もない。公爵家の馬を十頭もなくしてしまったのだから。
これできっと父親の借金は増えるだろうが、父親は私がアンネローゼと付き合うのを辞めるようにとかそういったことは一切口にしなかった。むしろ「アンネローゼ様のおかげで今回もあまり大事にならずに済んだのだから感謝しなさい」とまで言われた。
もしかしたら、父親は私とアンネローゼの関係を知っているのかもしれない。だったらなんとかしてもらいたいものだが、元の原因が父親の借金である以上どうにもできないのだろう。
救いはない。諦めるしかないのだ。
そんな私が唯一の心の支えにしていた人物がいた。
婚約者のベンノ・シュトックバウアーだ。ゆくゆくは子爵家を継ぐ彼は病弱で少々気弱ではあるが、優しい。ただし単純でバカだ。
私がまた「やらかした」という噂を聞きつけたベンノはすぐさま私を訪れてきた。
「マヤがそんなことをするなんて、何かの間違いだと思いたいけど……」
彼は心配そうな表情でそんなことを口にする。
そう、何かの間違い。私はやっていない。……のだが、それをベンノに伝えるわけにはいかない。本当はこの優しく正義感の強い青年に全て打ち明けて楽になってしまいたくてもそれはできないのだ。下手をすると私たち家族だけでなく彼の家族も追放されかねない。それは私の望むところでもなかった。
「……ごめんなさい」
「謝ってるだけじゃ分からないよ」
「全部、私が悪いんです……私が……」
「そっか……ごめん……」
「なんでベンノさんが謝るんですか……」
テーブルを挟んで反対側の椅子に座るベンノは酷く悲しそうだった。
「ごめん……僕にはマヤが分からない……本当に分からないんだ……」
「……」
「これまで何度もこういうことがあったけど、君はなにもはなしてくれなかったじゃないか……僕はそんなに力不足なのかな?」
「いや、そういうわけじゃ……」
思い詰めた様子だった彼は、意を決したように口を開いた。
「──役に立てないのだったら、僕が君の側にいる意味ってないよね?」
「……あの、それってどういう……?」
「ごめん。もう会うこともないと思う」
引き止める隙すら与えず、彼は足早に去っていった。
その後父親から、ベンノから婚約破棄の申し入れがあったと伝えられた。優しげな様子を装っていても結局、気の弱い彼は私を見捨てた。そうに違いない。
──『婚約破棄』。
その言葉は私の心に重くのしかかってきており、たった一つの希望──支えが失われた私は呆気なく壊れ……誰も信じられなくなった。
その後も私はアンネローゼのイタズラの身代わりになり続けて、すっかり私の悪名は王国中に知れ渡ることとなった。父親も最早私を叱ることすらしなくなり、味をしめたアンネローゼは遂に王宮の宝物にまで手を出したため、私は王宮の牢獄に入れられることになった。
王宮の地下にある牢獄は、国家に刃向かった重罪人が入れられるということもあってか、公爵家の牢よりも幾分か劣悪な環境だったが、私は以前のように寒さや惨めさを感じることは無くなっていた。
服が濡れたり汚れたりするのにも構わず地べたに座り込んでぼーっと壁を見つめる。
こんな牢に貴族を入れるというのは大方反省を促すのが目的であり、しばらくすれば出されるとは思っていた。が、あと何回アンネローゼがイタズラをすれば私に正式な処分が下されるかわかったものではない。──でもどうでもよかった。
もう私には何もない。生きる希望すら失ってしまったのだから。
──ポタ……ポタ……ポタ……
地面を打つ水滴の音が一定のリズムを刻む。牢の前には看守や番人の姿は見えないが、きっと入口の警備は公爵家の牢よりも厳重だろう。これはアンネローゼも私を救出するのに手を焼くに違いない。
なんともなしに水滴の音色に耳を傾けていると、カンカンカンと耳障りな音がした。
隣の牢の囚人が鉄の檻を手で叩いている。
「もし、そこのお嬢さん?」
「……?」
ゆっくりと視線を向けると、そこには囚人にしてはしっかりとした身なりの男が一人、胡座をかいて座していた。
「お前さんが噂の『ヤンチャ令嬢』様かい?」
「……なんですかそれ?」
いつの間にそんな不名誉な異名がついたのだろうか。だが、今まで私が被ってきた罪を考えると致し方ないのかもしれない。もっとも、ヤンチャなのは私ではなくアンネローゼなのだが。
「聞いたぜー? 公爵家で度々騒ぎを引き起こしてきた男爵令嬢様が今度は王宮の秘宝に手を出して牢獄にぶち込まれたってよ。ほんと命知らずだよな」
「……そういうあなたは何の罪で捕まったんですか?」
言外に肯定の意を伝えると、男は無精髭を撫でながらニヤリと笑った。よく見ると端正な顔立ちをしている。──反逆して死刑を待っている元貴族とか、その辺だろうか?
「なんもしてねぇよ」
「は?」
「だから、なんもしてねぇ。俺はな。ただ、俺にうろちょろして欲しくないって思ってる奴らがいるんだろうよ」
「……そう、ですか」
何もしてないのに牢に入れられることがあるのだろうか? いや、考えてみれば……。
「そう、お前さんと一緒だよ」
「なっ!?」
私は驚愕した。私はアンネローゼとの秘密を誰にも漏らしたことはない。なのになぜこの男はそれを知っている? そして、もしそれが広まったら私は……父親は……男爵家は……。と色々な思考が瞬時に頭を駆け巡った。
「んなもん一目見たらお前さんが王宮の秘宝に手を出せるような命知らずじゃねぇってのは丸分かりだ。──多分他にも分かってるやつたくさんいるんじゃないか? ……『マヤ・キルステンは誰かを庇っている』ってね」
「知ってるなら何故……」
「言えないんだよ。権力には逆らえない。公爵家や王家がお前さんを罪人だと決めつけたら誰も異を唱えられない。──それがこの国さ」
ぼんやりとした光に照らされて彼の顔が青白く輝く。その瞳には妖しい光が宿っており、顔立ちの端正さやその荒っぽい言葉遣いやミステリアスな声のトーンも相まって妖艶さも感じさせる。
私は、こう問いかけるしかなかった。
「あなたは──何者ですか?」
男は少し間を置いてから檻の近くに身を寄せ、こう囁いた。
「俺の名前はドミニク・ゲラート。今はただのドミニクか。──ゆくゆくはこの腐った社会をぶっ壊す者だ」
◇◇◆◇◇
しばらくドミニクの身の上話に付き合うことになった。曰く、彼はゲラート伯爵家の長男として生まれたが、その粗暴な性格と鋭すぎる洞察力ゆえに配下の不満が高まり、密かにドミニクの弟を後継ぎにさせようという動きがあった。それを察知したドミニクは自ら爵位を弟に譲り王都で一人暮らしを始めたが、ドミニクの弟は兄とは対照的に無能で、一家の主を務められるような器ではなかった。そこでドミニクを呼び戻そうという伯爵配下と、いややはりドミニクは信頼できないという配下の間で争いが起きかけていたらしい。
そんな中で、反ドミニク派の配下によって彼は捕えられ、王家に反逆したという無実の罪を着せられてこの牢の中にいるという。
そういえば、アンネローゼもたまにこの話をしていた気がする。彼女曰くドミニクは『変人』で『愚か者』だというが、彼の口調や態度からはどうにもそのような印象は抱けなかった。
私は逡巡した挙句、ドミニクに全てを話すことにした。
アンネローゼのイタズラの責任を被るようになったいきさつ、そして婚約破棄に至るまで洗いざらい。
他人を信じられなくなった私だったが、何故かこのドミニクという男のことは信用に足るような気がした。自分と同じように無実の罪を被ることを良しとするような彼は、きっと私のことを悪いようにはしないだろうと、そういった漠然とした予感のようなものもあった。
「なるほど、優しいなお前は。……甘いと言った方がいいか」
「わかってますよ。私だって皆さんと同じ、アンネローゼ様に逆らうとどうなるのかが怖くて言いなりになってるだけですから」
「でもそれで彼女に全てを吸い尽くされたら仕方ないような気もするが」
「どうなんでしょうね……」
従って全てを失うか、逆らって全てを失うか。結果は変わらないような気がする。
ただ、この生かさず殺さずのような、真綿で首を絞められているような……そんな苦しみは気色が悪い。それは確かだった。
「なあお前さん。いっちょ俺の計画に乗らないか?」
「この国をぶっ壊すんでしたっけ? 謀反には加担しませんよ?」
「ちげーよ。俺がぶっ壊すのは国というよりもその腐りきった社会──つまりは王族や貴族どもの意識改革が目的だ」
「──へぇ」
難しいことはよく分からない。底辺貴族の男爵家令嬢である私は、幼い頃からひたすら他人に媚びることのみを教えこまれ、政治や軍事、宗教などについては疎かった。それが今日の体たらくを招いていると言われれば返す言葉もない。
しかし、ドミニクは私の無学を笑ったりはしなかった。
いいか? と前置きしてから説明口調で語り始める。
彼は看守が見回りに来るまでの間、これからの計画について話してくれた。
私は彼の計画に乗ることにした。
◇◇◆◇◇
やはりというか、しばらくして私は牢から出されることになった。ドミニクも無実であることが証明されたのか、程なくして解放されたらしい。そして彼は宣言どおり、ゲラート伯爵家を乗っ取り返し、実の弟を無罪としながらも刃向かった家臣たちを厳罰に処すことで当主の座を確固たるものとした。
キルステン男爵家内では私の評価は地に落ちており、帰宅した私に対する扱いは酷いものであったが、それでも今度こそめげなかった。今の私には後ろ盾ができたのだから。
そんな時、またしてもヴァナー公爵家から使いがやってきて、私にアンネローゼからの呼び出しがあったということを伝えてきた。
一瞬計画がバレたのかと思ったが、ドミニクが誰かに話さない限りそれはありえない。
案の定、公爵の屋敷を訪れた私を待っていたのは、上機嫌そうなアンネローゼだった。
「しばらく会えなかったから寂しかったわ……やっぱりあたしにはあなたが必要なのね」
そりゃそうだろう、私がいなかったら今ごろアンネローゼはどうなっているかわかったものではない。
ふかふかのソファに座らされ、いつものように紅茶を振る舞われた私だったが、今日は紅茶には一切手をつけなかった。するとアンネローゼは首を傾げる。
「どうかしたのマヤ? 気分が悪いのかしら? お医者様を呼ぶ?」
「いえ、すこぶる気分はいいです」
「そう、ならいいのだけど……」
どうせまたイタズラをやらかして私を身代わりにしようという魂胆なのだろう。だが、いつもと違う私の様子にアンネローゼは少し戸惑っているようだ。
「あなたが捕らえられた時ね、あたしもすぐに助けようとしたのよ? でも王宮相手じゃあいくら公爵家令嬢のあたしといえども簡単に手出しはできなくて……ごめんなさいね? もしかしてそれを怒っているのかしら?」
「いいえ、違います。そもそも私はアンネローゼ様に対して怒ってなどいませんよ」
「そう、よかった……そうよね。あたしたちは『親友』だものね? 特別な信頼関係があるもの」
借金で縛りつけていいように扱って……なにが『信頼関係』か!
その言葉で私の脳内のスイッチがカチッと音を立てて入った。
──もう頃合だろう。
「──アンネローゼ様」
「なあに?」
「私はあなたの『親友』です」
「そうね。わかっているわよマヤ」
うんうんと何度も頷くアンネローゼ。
「アンネローゼ様の道を正すのも『親友』の役目だと思いませんか?」
「えっ?」
「私は『親友』として、アンネローゼ様を救いたいのです」
「どういうこと?」
アンネローゼは意味を測りかねているらしい。しきりに首を捻っている。
と、その時、部屋の扉が開いて公爵家の私兵が駆け込んできた。
「大変ですお嬢様! 先程何者かによって裏の窓が割られているのを見つけまして……」
「まあ大変! 誰の仕業かしら?」
すかさずアンネローゼは私の背後に立って肩を軽く叩く。──身代わりの合図。
が、私は名乗り出ない。──だって、やっていないのだから。
「マヤ? どうしたの?」
「──ってません」
「ん?」
「アンネローゼ様。やってませんよ私」
振り向きざまにアンネローゼに向かってそう言ってやった。たちまち彼女の美しい表情が苛立ちで歪む。ギュッと彼女の指が肩に食いこんで痛い。でも耐える。今までの心の痛みに比べればこんなもの屁でもない。
「な、何を言っているのかしらマヤ。やったのはあなたでしょう? またいつものように……」
「今まで一回たりとも私はこの家のものを傷つけていません。全部身代わりになっていただけです」
「あ、あの……これはどういう……?」
「嘘よ! こいつは嘘を言っているの!」
困惑する私兵に必死の形相で訴えるアンネローゼ。
私が少し逆らっただけでこの慌てようである。もはや滑稽だ。今までこんなやつの言いなりになっていたのかと笑えてきてしまう。
「屋敷に案内されてからずっとこの部屋にいましたから。私がやっていないということは、案内してくださった門番の方に聞けば分かることです。そして以前のことも全て、私がやったという証拠は一切ないはずです」
「そんなの! 門番が話すと思う?」
「話しますよ。というかもう然るべき場所で証言してくれているはずですけど?」
アンネローゼは「そんな……」と呟いて呆然としてしまった。恐らく彼女は自分のイタズラを目撃してしまったり、私の無実を証明してくれそうな私兵や門番や、王宮の見張りたちにもある程度の金を握らせて口封じをしていたのだろう。だが金で買われた人間など本当の意味で信用できるわけではない。
それ以上の金を握らせれば呆気なく転ぶ。キルステン男爵家にそんな金はなくとも──例えば、ゲラート伯爵家だったら?
──と、これがドミニクの計画だった。
『どうやらうちの配下を扇動してお家騒動を引き起こしたのは、ライバルを蹴落とそうと目論むヴァナー公爵だったらしくてな。きっちりと礼がしたいのさ』
結局ドミニクの手のひらの上で踊ることになってしまったが、私としては悪くない。むしろこのままアンネローゼに踊らされるよりも百倍マシだった。
「マヤ……! この裏切り者! 今まであたしがどれだけあなたを可愛がってあげたと思ってるの!」
「ええ、たくさん『可愛がって』いただきましたね。これはそのお礼です」
「なっ……! 兵士たち、この無礼者をひっ捕らえなさい!」
命令された兵士たちは、この錯乱しているように見えるお嬢様の命令に素直に従うかどうか決めかねているようだ。が、その時背後から別の私兵の一団が姿を現した。
「お嬢様、公爵殿がお呼びです。──たいそうお怒りのご様子で……」
「まさか……お父様が?」
怒りで真っ赤だったアンネローゼの顔が一気に青ざめた。私兵たちは嘆息する。彼らも薄々アンネローゼのイタズラの数々に気づいていたようだ。それでもそれを指摘することはできなかった。──ドミニクの言うとおりだった。
「年貢の納め時ですよ。お嬢様」
「うるさいわね! あたしはこんな……こんなところで終わるような人間ではないのよ!」
諦めの悪いアンネローゼは今度は私に縋りついてきた。
「ねぇマヤ? あたしたち『親友』よね? お父様に、『イタズラは全て私がやりました』って言ってくれないかしら? あなたの無礼はそれで許してあげるから。ね? そうしましょ?」
「……」
「ね? お願い! 『親友』ならあたしの頼みをきいてちょうだい?」
今更どの口が……。
私は小さく息を吐いた。ため息と嘲笑と、その中間のような感じだったと思う。それでも彼女には私が微笑んだように見えたのだろうか。少しだけ表情が和らいだ。
「……私はアンネローゼ様の『親友』です」
「よね! よかったわ!」
「さっき言ったはずですよね? アンネローゼ様の過ちを正すのも『親友』の務めです。しっかりと叱られて、私が今まで味わってきた惨めさを味わってきてください」
「えっ……?」
再び絶望の表情になったアンネローゼは、両脇から私兵に抱えられるようにして部屋から連れ出されていく。
「い、いや、いやぁぁぁぁっ! 放して! 放しなさい! 命令よ! ──無礼者! マヤ! 助けてマヤぁぁぁっ!」
この期に及んで私の名前を叫び続けるアンネローゼは、あっという間に姿を消し、部屋には私と数人の私兵が残された。
「今までの数々の無礼、お許しください。マヤ・キルステン嬢」
「いえ、大丈夫です。お金の力には逆らえませんもんね」
頭を下げた兵士たちは、苦笑した。
「今回は、ゲラート伯爵からたくさんお金もらったのでしょう? いくらくらいですか?」
「はっ、あはは……それは……その」
バツが悪そうな兵士たちに向けて、私は口の前に人差し指を立ててみせた。「誰にも言わないよ」という意思表示。私が──多分人生で初めてやったイタズラ心というやつだ。
一瞬ドキッとしたような表情をした兵士たちを残して、私は家路についた。
◇◇◆◇◇
公爵家令嬢のヤンチャっぷりが公になったことで、ヴァナー公爵は以前のように大きな顔はできなくなった。そして──ゲラート伯爵家とキルステン男爵家は親密な関係となった。他にも公爵に不満を持つ貴族たちが与するようになり、密かに『ヴァナー公爵包囲網』が形成されつつあった。それは王宮ですらも無視できないほどの勢力にまでなっていた。
ドミニクの計画はまだ道半ばだったが、着実にこの国は変わりつつある。王族と一部の貴族が牛耳る国から、多くの貴族が政治に参加できる国へ。
──そして私自身も。
「……やあ。久しぶりだね」
私が街中を歩いていると、少し居心地悪そうに話しかけてきた青年がいた。
「あら、ベンノ様。もう会わないんじゃなかったでしたっけ?」
元婚約者のベンノは「えへへ……」と苦笑しながら頭を掻いた。
「そう思ってたんだけど気が変わってさ。よかったね、無実の罪が晴れて」
「ええ、とてもいい気分です。祝福しに来てくださったんですか? わざわざ?」
そんなことはないのは分かっていた。一見優しそうな青年を装ってはいるが、この男はまず第一に自分のことを考えている。──というのは以前痛感したことではないか。
「それもあるんだけどさ、どうかな? 過去のことは水に流して心機一転僕と──」
「──嫌です」
「は?」
まさか私がこう答えるとは思っていなかったのだろう。ベンノはポカンとし始めた。
「だから、嫌です。一度捨てた相手に、さすがに虫がよすぎませんか?」
「いや、でもあれは勘違いだったんだ! それに僕は君がやってないと信じてたし!」
「あー、そういえば言うのを忘れてましたね。私、今気になる人がいるんです。だからもうあなたのことはなんとも思ってませんよ」
「……」
何が勘違いなのか。どちらにせよ、彼が私の存在と天秤にかけた上で自らの保身を選んだことは疑いようのない事実なわけだし、今更弁解しても私の気持ちはこれっぽっちも動かない。アンネローゼに対してもそうだが、このベンノに対しても少しだけ、ほんの少しだけ「哀れだな」って感情が浮かんだだけだった。
「あなたもいい加減権力にしっぽを振るのをやめたらどうですか? そしたら私なんかよりももっと素晴らしい相手が見つかるかもしれないですよ」
そう言い残し、魂の抜けたような顔をしているベンノを残して目的の屋敷に向かった。
そこは貴族の屋敷が集まる一角の外れに位置する──古くも立派な屋敷。
ヴァナー公爵家のものとはまた別の趣のある屋敷には、ゲラート伯爵──つまりはドミニクが暮らしていた。
私は使用人に案内されて屋敷の奥へ進む。すると、特に大きくもなく地味な部屋にドミニクはいた。
牢でのみすぼらしい姿はどこへやら、身だしなみを整え、髭や髪もしっかりと手入れされたその姿はちゃんと一人前の貴族に見える。私の姿を確認したドミニクは軽く手を上げて挨拶した。
「よお、マヤ。──キルステン男爵令嬢殿とお呼びした方がいいかな?」
「マヤでいいですよ。ドミニクさん」
私の答えに、ドミニクは深く頷くと、早速机の上に乗せた紙に筆を走らせ始めた。
「すまんな。やることが多くて」
「手紙ですか?」
「あぁ、最近は一日中どこかの貴族やら家臣やらとやり取りしている。正直面倒だが、まあ計画のためだしな」
「計画は順調なんですか?」
すると彼はフフッといたずらっぽく笑った。同じイタズラっ子でもアンネローゼとは随分と違う雰囲気だ。彼の笑いには邪気がないと言うべきだろうか。
「この国を牛耳っているのはヴァナー公爵だけじゃないさ。まだまだ、叩けば叩くほど埃が出てきやがる。──掃除のしがいがあるってものだがな」
「……そうですね」
彼の言葉を聞いて私はこれからも彼を陰ながら支えていこうと思った。
そして──初めて心の底から笑うことができたのだった。