旅籠街にて
その日、少女は旅籠街を歩いていた。
その街並みを一言で表現するならば、ちぐはぐさが一つの個性として発揮されている街で、木造の建築物とレンガ造りの建築物が街路の左右に入り乱れ、中には積層構造を採用している建築物もあり、実に奇天烈な風景を形作っている。
その旅籠街は、旅の途中における日用品や土産物の補充場所、休息場所、数日間の冒険拠点としての利用等々、宿屋や旅人向けの商店が多く、さらには行商人や隊商がよく立ち寄る立地条件を生かして発展した歴史ある街として、人々には知られている。加えて、それらの職業人以外にも、その街並みの奇天烈さ目当てに訪れる常連の客も多くいると言う。
少女もまた、この旅籠街の常連客の一人だった。
左右に広がる独特な軒並みを楽しみつつ、少女は、ある目的の為に旅籠街の一角にある建物を目指して歩いていた。
その行く先々で聞こえる、行商人達の売り込みや、飲食物の出店の客引きを笑顔で流しながら、どこからか聞こえた腹の虫をかき消すように、ひたすら集中して、真っ直ぐに歩いていく。途中で曲がる場所や、注目するべき目印、入るべき路地を間違えないようにしなければならないからだ。寄り道、よそ見は禁物である。
何せこの街は、奇天烈な家並みをしているために、一つ角を曲がった先の景色が、昔と全く別物になっている、などと言う事が珍しくないからだ。
少女自身も、過去に何度か酷い目に遭っているために、気が抜けない。
それから少女は、二回ほど入る路地を間違え、しかも覚えていた目印が跡形もなく消えてしまっていた事に軽い頭痛を覚えながらも、どうにかこうにか目的地の建物へと辿り着いた。
そこは、個人経営の飲食店だった。
看板には、酒瓶とカップの意匠を用いたカフェ&バーの表記があり、出入り口の扉の前には、本日のおすすめと見出しが打たれた、料理の名前が表記された立て看板が置かれている。
ちなみに、本日のおすすめは鶏肉料理と野菜スープのセットらしい。
少女は、看板に書かれていた料理について想像を膨らませつつ扉を開けた。
中の客足はそこそこ。カウンター席には旅人風の格好をした男女が一人ずつ。窓際席には商人と思われる男が二人座っている。皆が皆、談笑したり、卓に置いてあるカップに手を伸ばしたりしていた。
そのまま一歩店内に入ると、ここまで歩いてきた疲労感も即座に包んで霧消させてくれそうな、芳醇なコーヒーの薫りが感覚を刺激してきた。思わず顔がほころぶ。
「やあ、いらっしゃい。今日も早いな」
すると、カウンターの奥から姿を現した初老の男性から、少女に優しく声を掛ける。
「目印にしていた風見鶏が消えていたせいで、途中で軽く迷ったけどね。まあ、ともかく。またお邪魔させてもらうよ、マスター」
少女も、軽く手を挙げて微笑し、言葉少なに応じる。
「ああ。いつもの席が空いているけど、使うかい?」
「有り難く使わせてもらうよ。あ、コーヒーも頂戴」
「了解だ。砂糖とミルクは?」
「砂糖は角砂糖二つ分と、ミルクはありでお願い」
「ああ。すぐに用意しよう」
短いながらも、互いに事情を知っている様子のやり取りを交わし、初老のマスターは厨房へ。少女は店の奥にある広めの席へと向かった。
席に着いた少女は、腰に帯びている筒状の入れ物を取り出し、中から筒状に丸めた紙を三枚ほど抜いて、卓上に広げた。
そこには、様々な風景画が描かれている。
一枚には、白百合に囲まれた大樹の絵が。別の一枚には、山の頂に、厚い雲の中央から注ぐ光の柱の周りを回わる鳥達の絵が。また別の一枚には、広大な森の中央にそびえ立つ瑠璃色の塔の絵が。
何れの絵にも、その端々に、描き手が見た景色に対する印象が垣間見え、それぞれの絵に特色として表れていた。見る人によっては見方が違うのかもしれないが、絵のモデルとなっている風景から受ける印象は、そう違うものでもないだろう。
「おまちどおさま。それが、今回の展示品かい?」
少女が、卓上に広げた風景画を眺めていると、淹れたてのコーヒーを運んできた店のマスターが隣に立っていた。
立ち上る湯気が薫りを運び、鼻腔をくすぐる。
「そう。そんなところ。取り敢えず、色落ちも無いから、安心して展示も販売も出来るよ」
少女は、卓上の広げてある風景画三枚を脇に退け、コーヒーを置く隙間を作る。
如何に仕事のことを考えていたとしても、それで淹れたてのコーヒーを味わう幸福を逃しては元も子もない。
「そうかい。それなら客も安心だ。コーヒーはいつものブレンドで、砂糖とミルクは注文通りの量だけ持ってきた。まだ必要そうなら言ってくれ」
店のマスターは、盆に載せたカップと砂糖皿、ミルクの小瓶を卓上に並べた。
「了解だよ。それにしても、今日は割と早くから商人が来てるみたいだね」
「ああ。一応、お前さんが手紙を寄越してくれた時に、街の掲示板に連絡事項として書いといたからね。風景画家ビアンカの絵目当てで、早いうちに来たんだろう」
この「風景画家ビアンカ」と言うのは、少女の事である。彼女は冒険家でもあり、画家でもあった。
ただ、西方の言葉で白を意味する単語である「ビアンカ」は、彼女の本名ではなく、言わば芸名。響きの良さそうなペンネームとして彼女が作った呼び名だった。
しかし、店のマスターを含め、周囲の人間が本名を知らないために、彼女のことは常に、この名前で呼んでいた。
「まあ、そう言うわけだから、いつもより早めに準備することになるだろうし、出す絵は纏めておいてくれ」
「ん、分かったよ」
「それまでは、コーヒーでも飲んでゆっくりしていてくれ」
それだけ言うと、店のマスターは席から離れていった。
「では、お言葉に甘えて…。頂きます」
少女は、一口だけコーヒーを口に運ぶ。
一気に広がる苦みと、ブレンドされている豆特有の酸味。その後に鼻を抜けていく香りは、感覚器官に清々しさと爽やかさをもたらし、コーヒー自体の質の良さを同時に物語っている。まさに最高の一瞬だった
そして、そこで気が付く。
「あ…砂糖とミルク、入れ忘れてた…!」
道に迷った時とは別の意味で軽い頭痛を覚えた少女は、いそいそと砂糖皿とミルクの小瓶を空にしたのだった。