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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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忘れ手毬[わすれでまり]

作者: かわむぅ

ー①ー

 その少女、桜子は、手毬を一番の宝物にしていて、いつ何時でも手毬を肌身離さず持っていた。まるで、人形を大事に可愛がる乙女心、と同じであった。手毬の色は、鮮やかな桜色であり、少女の名前と同じく、穏やかな春の桜を想わせる色使いであった。

 ここは、とある山里の、小さな村である。昭和三十年代のお話であるから、もう随分、昔のことになってしまったのだが、この不思議なお話は、村の人々の間で、民話のように、今もしっかりと、語り継がれているのである。


 桜子の、その手毬の可愛がりかたは、普通ではなかった。

 まず、眠るときには、布団のなかで、手毬を抱きかかえるようにして眠った。桜子にとっては、手毬がないと安眠できなかったのである。朝起きると、手毬と一緒に食卓に向かい、手毬を、ひざの上に乗せて朝ごはんを食べた。学校に行く時間になると、本当は学校にも連れていきたかったのだが、学校で万が一、なくしてしまったり、汚してしまったりしたらいけないと思って、その手毬専用の宝箱に、しまってから、学校に出掛けたのである。学校が終わると、一目散に家に帰り、宝箱から手毬を取り出して、手毬に「ただいま」を言ったのである。

 手毬を使って遊ぶというより、ほとんど人形を大事にするような感覚であった。それならば、人形を親に買ってもらえば良いのにと思うのだが、桜子にとって、幼い日に買ってもらった手毬は、人形以上に人形のような存在になっていた。桜子は暇さえあれば、手毬を撫でていた。それは人形を撫でる仕草と同じであった。極端に引っ込み思案で、友達のいない桜子にとって、手毬だけが、心を許せる、唯一の友達だったのかもしれない。


 桜子の母は、少し心配になっていた。女の子だから、手毬を慈しむ心は、とても結構な事だと思うけれど、どうせなら、手毬ではなく、人形を可愛がる子になってくれないかしら、と思った。

 そこで、桜子の母は、ある日、隣の町の玩具店に、桜子を連れて行ったのである。

「桜子や、うちは貧乏であまりお金は無いんやけど、今日は特別に人形をひとつ買ってもええよ。これからは、人形を可愛がりなさいな」

 すると、桜子は、いろいろな人形を眺めた後で、言った。

「わたし、人形より手毬のほうが、かわいいよ。わたし、あの手毬と、ずっと一緒に居られたら、他に欲しいものなんて無いからね。人形は欲しくないからね」

 桜子の母は、困ってしまったが、欲しくないものを買うわけにもいかず、結局その日は、何も買わずに、家に帰ってきてしまった。

「変わった子だねぇ。手毬のほうがかわいいだなんて。最初に手毬ではなく、人形を買ってあげれば良かったのかもねぇ。これが原因で、あの子が他の子と違う人生にならなければ、良いけどねぇ」

 桜子の母は、思わず独り言を、呟いてしまったのであった。

 桜子は、手毬に名前を付けた。「マリコ」という名前である。

 それからの日々も、桜子は、相変わらず、手毬のマリコを大事にする生活が続いていた。桜子の母も、もう何も言わなくなり、娘のやりたいように、させていたのであった。


 それから、一年程過ぎた、ある年の秋、桜子は、風邪をこじらせて、寝込んでしまっていた。桜子の母は、必死で看病していたのだが、いっこうに高熱が下がらないでいたのである。桜子は、手毬を抱きしめながら、苦しさに喘いでいた。

「お母さん、苦しいよおぅ。わたしは、いつになれば、病気直るの? マリコちゃん、お願いだから、わたしを助けて。わたしを楽にして頂戴ね。お願いだからね」

 桜子の母は、そんな娘の姿が見ていられなくなり、遂に、遠くから医者を呼んだのであった。

 医者は、桜子を診察した後、桜子の母へ歩み寄り、桜子に聞こえないように、小さな声で、桜子の容体を告げた。

「注射も打って、出来る限りの事はしてみますが、今晩が峠になるでしょうな」

 桜子の母は、泣き崩れそうになりながら、桜子の父を呼びに行った。医者の言葉は、落ち着いた口調であったが、あまりにも冷たく聞こえた。桜子の母は、なんとか桜子を生かしてやりたかった。看病もしなくてはならないが、あの手毬が、娘の病気の原因のような気もしてくるのであった。桜子の母は、看病をしながら、桜子に語りかけた。

「その手毬、今晩だけ、宝箱の中に、しまっておいてもいいでしょう? 明日の朝には、また抱かせてあげるから。さあ、貸してごらんなさいな」

「嫌よっ。ダメよっ。ううう。体が、苦しいよおぅ・・・」

 いよいよ、峠が、近づいているようであった。

 桜子の父も、桜子の枕元へ歩み寄り、心配そうに桜子を覗き込んだ。医者も、桜子のそばに行き、桜子の腕に、注射を打った。

 注射を打ってからの桜子は、いくらか楽になったようで、眠り始めた。

 しかし、一時間もすると、また桜子は、苦しさに耐えかねて、悶え始めたのであった。

 桜子の父も母も、心配そうに桜子を覗き込んでいる。

 医者は、もう一本、注射を打とうとして、桜子の腕を、持ち上げた。

 と、その時・・・。

 桜子の、腕のチカラが、抜けた・・・。

 それとともに、桜子の手に持っていた、手毬が、まるで、スローモーションのように、ゆっくり、ポ・ト・リ・と、床へ、落ちた。

 手毬は、コロコロ、コロコロ、台所のほうへ、転がっていってしまった。

 医者は「ご臨終です」と言い、桜子の父も母も、泣き崩れてしまったため、誰も、手毬の行方を、気にする者は、いなかった。

 手毬は、台所から、玄関へ、そして外へと、コロコロ、コロコロ、転がっていってしまったのである。


 桜子、九才の秋であった。


 亡き少女の手毬は、コロコロ、コロコロ・・・。コロコロ、コロコロ・・・。どこまでも、転がってゆく・・・。


ー②ー

 手毬は、コロコロ、コロコロ、村の道を通り、竹林の中を抜け、ススキの野原を抜けて、寂しい、村のはずれまで、転がってきた。

 まるで、その手毬に、少女の魂が、入り込んでしまったかのように、コロコロ、コロコロ、転がってゆくのであった。

 そして、とある一軒の、今は誰も住んでいない、民家の中へと、コロコロ、コロコロ、転がりながら、入っていったのである。


 ある晩に、村人の男が、寂しく暗い夜道を歩きながら、家路を急いでいた時のことである。ふと一軒の民家に、明かりが灯っているのが、目に入った。

「おかしいなぁ。この家は、今は、誰も住んでねぇはずだけんどもなぁ」

 村人の男は、そう、呟いた。

 よくよく見ると、障子に映っている影と、声から察するに、四、五人が賑やかに話している様子で、笑い声も聞こえてくる。

 ここは小さな村である。村人の男は、村人全員と、顔見知りであった。村人の男は、誰がいるのか、確かめてみたくなったのである。

 村人の男は、家に近付いていき、障子に手をかけ、思い切り、開け放った。

「あああ。そんな馬鹿な。あああ。そんな事。信じられないよぉ」

 大声で叫んだ後、村人の男は、腰を抜かして、立てなくなってしまった。

 なんと、村人の男が見たものは、障子を開け放った時、そこには、誰も居なかったのである。障子を開ける寸前まで、障子に人々の影が映り、人々の笑い声も聞こえてきたというのに。部屋の中は、人が居た気配もなく、家具もない、ただのガランとした、空き部屋であった。

 しかし、部屋の中には、ただひとつ、手毬だけが、そこに、ころがっていた・・・。

 さらに不思議なことに、部屋の中は、明かりだけは灯っていた。

 だが、その明かりも、少しすると、消えてしまったのだ。

 村人の男は、明かりが消えると、背筋が凍りつくような恐怖でいっぱいになった。

 恐怖の声を「あああ」と叫びながら、村人の男は、腰が抜けて立てない腰を無理やり立たせようとして、転び、まさに地面を這うようにして、逃げ出した。地面を這って、真っ黒になりながら、かなりの時間をかけて、自分の家まで、逃げ帰ったのである。


 家に帰った村人の男は、まっさきに、自分の妻に、今、見てきたことを、全部話した。

 妻は、

「何、寝ぼけた事言ってんのさ。全くお前さんは、昔から気が小さいねぇ。幽霊の正体見たり枯れ尾花、という諺が、あるだろうがさ。嘘だと思ったら、もう一回、その家を見てきなよ」

「も、もう沢山だぁ。勘弁してくれぇ。お前が、おらの代わりに見てきてけろ」

「やだ。あたしはもう眠いんよ。もう寝るからね。おやすみだわ」

 妻は、さっさと寝てしまった。

 村人の男は、先程の恐怖の為に、なかなか寝付くことが出来ずにいて、何時間も、ブルブル、震えていたのであった。


ー③ー

 それから、何日か後の、ある日のこと。

 手毬は、コロコロ、コロコロ、村の道を転がり、とある一軒の民家の庭先へと、転がってきた。

 庭先では、その家の少女、梅子が、梅子の母の言いつけで、庭の落ち葉を掃いていた。

 そこへ、コロコロ、コロコロ、手毬が、転がってきたのである。

「あら、手毬だわ。おかあさぁん。手毬が庭に落ちてたよ。誰の手毬なのかな。なんか、この手毬、すごく懐かしい感じがするぅ。わたしが、これからは、この手毬を、使ってもいいでしょう?」

「梅子、その手毬、誰のだか分からんし、こんな所に落ちてた手毬というのも、なんか気持ち悪いけんど。 しかし、お前が気に入ったんならば、使ってみればええかもね」

 梅子は、その手毬が、すっかり気に入ってしまった。

「この手毬、汚れを拭いたら、とっても綺麗になったわ。わたしの宝物にしよっと。それにしても、きれいな桜色だわぁ」

 いつの間にか、梅子は、どこへ行くにも、その手毬を持ち歩くようになっていた。学校へ行く時も、友達の家に遊びに行く時も、夜眠る時も。

 桜子の場合は、外へ行く時は、宝箱に入れてから出掛けたものだが、梅子の場合は、まさに一日中いつでも、その手毬と一緒だったのである。


 季節は流れ、冬になった。

 梅子は、桜子とは違い、活発な性格だったので、冬だからといって、コタツに籠っているような子ではなかった。家のお手伝いで、買い物に出掛けたり、庭の掃き掃除をしたり、あるいは、友達の家に遊びに行ったりして、家の中に居るほうが珍しかった。

 そんな梅子を、家族は、あたたかく見守っていたのである。


 ある初雪が降った日の朝、梅子は、小躍りして喜んだ。

「わぁ。雪だ、雪だ、白い雪がきれいだな。白い雪の中で見る手毬は、桜色が、ほんとうに、きれいだわぁ」

 梅子は、手毬を持って、散歩に出掛けることにした。

 梅子は、手毬を持って、村のはずれまで歩いてきてしまった。こんな所まで来るつもりはなかったのだが、雪景色を見ながら歩いているうちに、つい、村のはずれの、高い崖の上まで、来てしまっていた。

 梅子は、せっかく、こんな所まで来たのだから、高い崖の上から、雪景色を眺めてみたいと思った。

 梅子は、高い崖から落ちるかもしれないし危ないかも、とは一瞬思ったが、雪景色のパノラマを見てみたい衝動が、抑えられなくなってきた。

 梅子は、おそるおそる、高い崖の上から、下の景色を覗き込もうとしていた。

 と、その時・・・。

 梅子は、雪に足を取られて、その場に転び、その拍子に、手に持っていた手毬を、手放してしまった。

 手毬は、雪の上を、コロコロ、コロコロ、転がっていった。

 梅子は「あああ」と声を上げ、手毬を、すぐさま、追いかけていったのだ。

 手毬は、高い崖の上から、下界へと、落下していった。


 そして、梅子も、下界へと・・・。


 梅子、九才の冬であった。


 梅子の遺体は、梅子が、夜になっても戻らないことを心配した家族が、村人の男たちに相談し、翌日、村人の男たちが、村を、くまなく捜しまわって、発見された。

 いっぽう、手毬は、崖の下に落ちてから、雪に埋もれたまま、長い長い冬を、過ごしていた。


ー④ー

 長かった冬も終わり、ようやく、村にも、雪解けの、春がやってきた。

 雪解け水が、せせらぎを作り、やがて、小川へと、注ぎ込む。

 春は、一年のうちで最も、新しい輝きに満ちた季節である。


 手毬も、雪の中から顔を出し、せせらぎに運ばれ、そして小川に運ばれながら、反対側の村のはずれへと、運ばれていったのである。

 手毬は、反対側の村のはずれに辿り着き、また、コロコロ、コロコロ、村の道を、転がり始めた。

 この小さな村では、今、桜の季節になっており、そこかしこに、桜の木が、見事な、桜の花を咲かせている。

 手毬は、コロコロ、コロコロ、転がりながら、ある一軒の、大きな桜の木がある民家の庭先に、コロコロ、コロコロ、転がってきた。

 その桜の木は、見事に満開に咲いていて、桜吹雪も舞っており、とても華やかである。

 庭先では、その家の少女、春子が、桜のお花見をしながら、お団子を食べていた。

 そこへ、桜色の手毬が、コロコロ、コロコロ、転がってきたのである。春子の目に止まらぬ訳はない。

「わぁ。きれいな手毬だわ。この桜の花を、手毬にしたような、そんな、きれいな桜色をしているわ。なんてかわいいんでしょう」

 春子は、そっと、手毬を、拾いあげてみる。

「かわいいな。わぁ良かった。今日から、この手毬、わたしの宝物よ。わたしの宝箱に、しまっておかなくっちゃ」

 そこへ、その家の婆さまが、通りかかった。

「春子、その手毬は、どうしたのかぇ? わしゃ、その手毬に、何か、重い影のようなものを感じるわ。春子、悪いこたぁ言わねぇから、その手毬は、捨ててしまったほうが、良いんじゃないかのぅ」

 春子は、ふくれっ面になりながら、婆さまに言った。

「何言ってるのよ。こんな、きれいな桜色の、かわいらしい手毬の、どこが重い影なのよ。迷信を言うのも、いい加減にしてよね。この手毬は、今日から、わたしの宝物だからね。婆さま、わたしの手毬、さわっちゃ駄目だよっ、捨てても駄目だからねっ」

 春子も、その手毬が、かなり気に入ったらしい。

 それからというもの、春子は、その手毬を、とても大事にしていた。春子は、毎朝、毎晩、宝箱から手毬を取り出しては、人形を抱くような仕草で手毬を抱き、人形の頭を撫でるような仕草で手毬を撫でていた。誰かから、そうしなさい、と言われた訳でもないのに、桜子や梅子と同じ事をしてしまう。

 まさに、その手毬の魔力に違いなかった。


 ある日の夜のことである。春子は、いつもなら、手毬を宝箱に、しまってから眠るのだが、その日は、手毬を抱いて眠ることにした。なんとなく寂しい気持ちだったからである。

 電気を消し、手毬を抱いて寝床に入ると、すぐに眠りに落ちた。

 しかし、真夜中、春子は、便所に行きたくなって目が覚めた。

 すると、かすかに、女の子の泣き声が聞こえてくるような感じがした。

 どこか遠くのほうで泣いているような。それとも近いような。

 不思議な感じだった。気味が悪かった。

 春子は、怖くて便所にも行けなくなり、震え出した。その拍子にお漏らしをしてしまい、春子は遂に、手毬を抱きしめながら、泣き出してしまったのである。春子の泣き声を聞きつけ、春子の母が飛んでくると、春子が聞いた泣き声は、もう止んでいた。春子は、手毬が、まるで水たまりに落としたように、濡れているのを感じた。

「おかあさぁん、こわいよぉ。今、女の子の泣き声が聞こえたよ。おかげでお漏らししちゃったよぉ。それに、この手毬、こんなに濡れているよぉ」

「いけないわ。着替えなさい。何か気味が悪いねぇ。今、着替えと手拭いを持ってくるから、待ってなさいね」

 春子は、着替えた後、手拭いで手毬を拭いた。そして手毬を宝箱の中に、しまったのである。春子は、その後、春子の母の寝床に行き、春子の母の布団に一緒にもぐり込んだのである。なぜなら、一人で寝るのが怖くなったからである。

 春子は、春子の母の布団に入った後、今の出来事を思い出してみる。

「手毬が濡れていたのは、どこかで泣いていた女の子の涙なのかな」

 と、ふと何気なく、春子は、そう思ったのであった。


 それからの日々も、春子は、相変わらず、手毬を大事にしていて、毎朝、毎晩、手毬を撫でていた・・・。


 手毬は、春子にとって、大切な人形、のようなものである。

 しかし、その手毬の中には、二つの霊魂が入っていて、春子によって、毎朝、毎晩、頭を撫でてもらっていたのである。

 霊魂にとっても、頭を撫でてもらうことで、寂しさが癒される毎日であり、できれば、この毎日が続いてくれれば・・・。霊魂はそう思いかけたが、霊魂はもう、会いたくても、父にも母にも会うことはできない。そう思うと、やはり、寂しさは、根底から癒されることは、無かったのである。


 桜子は、この世に未練を残して死んでしまい、成仏出来ずに、手毬の中に入った。

 そして、未練の怨念により、次に、梅子を、手毬の中に、引きずり込んだ。

 さらに、その次は、春子。 なのだろうか・・・。


 少女を、死へと誘う、悪魔と化した、その手毬・・・。


ー⑤ー

 何も知らない春子は、相変わらず、毎日の日課として、その手毬を、愛おしく撫でていたのであった。

 春子は、そうすることが、この上ない喜びとなっていたのである。

 春子は、今まで、物を、そこまで、大事にしたり、かわいがったりしたことは、無かった。

 春子は、そこまで、愛おしい気持ちになる、その手毬の存在が、とても不思議であった。それはまるで、母親が我が子を愛する、そんな気持ちにも似ていたのかもしれない。


 手毬も、すっかり、春子の手に馴じんできた、ある初夏の晴れた朝、春子の家では、毎年恒例の、一泊二日の家族旅行の日がやってきた。

 春子と、春子の父と母、そして婆さま、の四人で、今年は、汽車で二時間程行ったところにある、景色のきれいな湖に向けて出発した。

 春子は、毎年、家族旅行の日が来るのを楽しみにしている。

 春子にとって、家族旅行は、何か楽しいことが起こりそうで、とてもワクワクしてくるのであった。前の晩、うれしさのあまり、よく眠れなかったほどだ。

 春子は、家族旅行に、手毬も、一緒に持っていくことにした。

 村の小さな駅から汽車に乗ると、汽車の窓からは、今は端午の節句の頃なので、民家の庭先に、鯉のぼりが泳いでいるのが見える。そんな景色を眺めるだけで、春子は、旅行気分に浸ることができ、幸せな気持ちになるのであった。

 目的地の、湖に到着したのは、午後三時ぐらいになっていた。

 湖のほとりの食堂で、家族は、遅い昼食を食べ始めた。今日の晩は、湖のほとりの民宿に泊まることになっているが、それまでの間、どのようにして過ごすか、家族で話し合うことにした。春子の父は、

「母さんや、何か見たいものは、あるかや?」

「そうねぇ。あたしは別に、家族で楽しめるところなら、どこでも良いけんど、婆さまは、どんな感じだえ?」

「わしゃ、別にないんけんど、春子に聞いてみようかのぅ。春子や、何か見たいものは、あるかや?」

「せっかくだから、湖の遊覧船に乗りたいな。とっても良い景色が見られそうだよぉ。乗ろうよぉ。乗ろうよぉ」

「分がった。分がった。春子が言うように、遊覧船に乗るとするかな」

 遊覧船に乗ることに決まり、春子とその家族は、昼食の後、遊覧船乗り場へと、歩いて行った。春子は、もちろん、手毬を抱えながら。

 もうあと少しで、夕暮れ時になろうとしていた。

 遊覧船乗り場に着くと、婆さまが、突然、

「ううう。なにか息苦しいだよ。ううう。これは、何か嫌な予感がするだよ。わしゃ、今までも、嫌な予感がすると、息苦しくなっただよ。こりゃ、何だろか。ひょっとして、この遊覧船、乗らんほうがええんかもしれんのぅ」

「婆さま、せっかくだから、乗りましょうよぉ。せっかく湖まで来たんだよぉ。早くぅ。早くぅ。大丈夫だから」

 春子が、せかすので、婆さまは、家族と共に、仕方なく遊覧船に乗り込んだ。

 その遊覧船は、湖を一周する、今日最後の便であった。

 遊覧船が岸を離れてから間もなくすると、夕焼け空になり、夜が、近づいてきていた。春子は、きゃっきゃっ言いながら、景色を眺めている。しかし、周りは、徐々に、薄暗くなっていく感じであった。

 湖の真ん中ぐらいまで、遊覧船が来た時。

 その遊覧船は、なぜか、大きく揺れたのだ。

「きゃあ」春子がそう叫んだ瞬間、抱えていた手毬が、ポーンと、湖に放り出されてしまった。

「あああ」春子は咄嗟に、身を乗り出し、手毬を、掴もうとする。

 手毬は、プクプク、沈んでいく。

「あああ」春子は、大きく身を乗り出し、手毬を、掴もうとする。

 手毬は、もう少しのところなのに、掴めず、プクプク、沈んでいく。

「春子っ。バカッ。やめなさいっ」婆さまが、精一杯大きな声で、叫んだ。

 しかし、春子は、さらに、身を乗り出した。

 と、その時・・・。

 春子の体は、湖へと、投げ出された。

「あああ」春子の家族は、一斉に、叫んだ。

 春子の体が、プクプク、沈んでいこうとする。

 春子の父が咄嗟に、春子の手を、掴もうとする。

 春子が、苦しそうに、手を、ばたつかせている為に、なかなか、掴めない。

 手を、掴もうとする。

 掴めない。

 手を、掴もうとする。

 掴めない。

 手を、掴みたい。

 掴めない。

 手を、掴みたい。

 掴めない。

 手を、掴みたい。

 手を。

 プク。

 プクプク。

 プクプクプク。

 プクプクプクプク・・・。


 全ては、一瞬の出来事のように思われた。

 あたりは、もうすっかり、暗くなってしまっていた。

 春子の家族は、真っ青になり、茫然と、立ち尽くしていた。

 楽しい筈の家族旅行が、こんなことになるなんて・・・。


 しばらくしてから、救助隊の潜水士たちが、明かりを照らしながら、湖に潜っていった。

 しかし、かなりの時間が経っても、潜水士たちは、戻ってこない・・・。

 結局、潜水士たちは、春子も手毬も、発見できず、その日は、一旦、打ち切られた。


 次の日、太陽が昇ってから再び、潜水士たちが、湖に潜り、春子と手毬を、捜し始めた。

 しかし、一日中、捜した甲斐もなく、その日も、春子も手毬も、発見できない。


 その次の日も。

 さらに次の日も。


 遂に、春子も手毬も、発見することは、できなかった。


 春子、九才の初夏であった。


 春子も手毬も、忘れられてしまいそうな、遠いところへ、行ってしまった・・・。


 それ以来、村の人々は、その手毬を「忘れ手毬」と呼び、しかし、この悲しいお話は、忘れられることなく、村の人々の間で、民話のように、今もしっかりと、語り継がれているのである。

[無断転載禁止]

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