幽する恐怖か、船頭か
「どうしてミラーハウスに鏡なんか置いてあるわけ?!」
裏野ドリームランドに忍び込んだ佑衣子
薄暗いミラーハウスの中で、彼女はあるものを失ってしまう
出てきた佑衣子が、人が変わったように上機嫌な理由とは
『前髪』『靴下』『空き缶』の短編あり
夏のホラー2017投稿作品
佑衣子が6年ぶりに故郷の地を踏んだ日の天気は雨だった。
電車の扉が開くなり、しとしとなんて生易しくはない雨の滴が、佑衣子の顔に降りかかる。
田舎らしい無人駅には、人もいなければ屋根も無い。木が生い茂り、雑草が伸び伸びと成長する環境の中に、突如として駅のホームがテレポートされてきた。そんなような場所に、天橋駅はあった。
駅から実家までは、歩いて10分ほどの距離。
佑衣子は、駅前にある果物屋の庇で雨宿りしながら、灰色の分厚い雲がたちこめる空を見上げた。止みそうな気配はこれっぽっちもない。キャリーバッグの中には、念のため入れておいた折り畳み傘があったが、詰め込むだけで何時間もかかった苦労を思い出すと、オマケ程度の雨よけスペースで荷物を広げる気にはなれず、濡れながら歩いて帰る決意を固めたのだった。
学生時代のほとんどを、佑衣子この辺鄙な山奥で過ごした。
草木に囲まれ、空気が澄んでおり、水が綺麗な、典型的と言えば典型的な片田舎。新聞よりも回覧板の方が情報源として重要視され、『三歩進むと野生動物に出くわすが、散歩しても村人には出会わない』というのが強ち言い過ぎではないくらい。
・・・おっと、そういえばもうここは村じゃないんだっけ。平成の大合併とかで、現在はいっちょまえに『市』を名乗っているらしい。
天橋駅。
多くの若者が夢や希望に胸を膨らませ、この駅から都会へと旅立っていった。
佑衣子も御多分に漏れず、高校を卒業後、就職のために村を出たのが6年前。見送りには家族や友達、高校三年生の時に担任だった先生も駆け付けてくれて、それはそれは感動的なお別れだった。
「あなたは私が教えてきた中で一番出来の良かった生徒。きっと別の町でもやっていけるわ。自分に自信を持って」先生に背中を押されたこの一言は今でもよく覚えている。
電車の中で、当時一番仲の良かった友達から貰った手紙を読みながら、「どんなに辛いことがあっても、都会で絶対に幸せになってやるんだ」なんて青臭い誓いも立てたっけ。
けれど実際の現実、学校では決して教わらない大人の世界ってやつの前には、そんな淡い青春の決意なんて何の意味もなさない。
自然の中でのびのびと育った佑衣子にとって、都会とはまさに地獄のような場所。何もかもが受け入れ難く、何もかもが歪んで見えた。
周りに対してドライな都会人も、浄水器をつけたって飲めない水道水も、そら寒いビル風も。
路地裏でコソコソ何かを売買する外国人も、通勤ラッシュ時の粘っこい痴漢も、平気で我が子のお尻を蹴とばす母親も。
何もかもが佑衣子には合わなかった。
それでも仕事だけは、なんとなくだがこなせていた。
もとより小器用であったし、少なくとも都会育ちで同い年の女子たちに比べればやる気だけはある。付け加えるなら、村では当たり前の事だった、目上の者に対し敬意を払う応対がおじさん連中に高評価で、男性社会と呼ばれる職場でも思ったより苦労は少なかった。
そうなると怖いのは同性からのイビリだが、とりあえず就職、そこいらで良い出会いを探しつつ、あわよくば玉の輿に乗るが最終目標の彼女たちにとって、佑衣子のような田舎娘は関わるだけ時間の無駄というのが共通認識らしく、遠巻きに彼女たちの影なる頑張り、またの名を『足の引っ張り合い』を見守るばかりだった。
平日は職場とアパートの往復。休日は、ほとんどが家の中で一人ぼっち。
そんなつまらない生活を送る中で、彼と出会えたのはまさに奇跡の一言だった。
名前が、茅島恭平。
佑衣子と同じく田舎町からのお上り組で、二年遅れで東北から出てきて入社した。入社当初は彼も都会の風習にかなり面食らったらしく、日に日に新入社員らしい輝きと元気を失っていき、一時は出社するのも困難な状況に。
それを佑衣子なりにサポートするという形から、気づけば二人は付き合う事になり、お互いのアパートを言ったり来たりという半同棲的な関係が2年ほど続いた。
静かで話を聞くのが上手、車を運転するのが好きな恭平。
明るくてお喋り、運転は得意じゃないがドライブは好きな佑衣子。
二人は自他ともに認める好相性で、俗にいうラブラブカップルとは少し違ったが、まるで年季の入ったおしどり夫婦のような感じ。それまで退屈、かつ繰り返し繰り返しだった毎日が、佑衣子にはバラ色に染まって見えた。
ただ恭平は、実のところ佑衣子にない物を持っていた。
それが順応性。
スタートこそ都会独特の空気に飲まれかけた恭平だったが、佑衣子と過ごす2年もの間に少しずつ慣れ、すっかり都会人の流儀を身につけていた。それは佑衣子がどれだけ努力しようとも手が届かなかったもの。恭平より2年も多く都会で暮らしているというのに、だ。
佑衣子が、恭平との間にギャップを感じ始めたのは、ちょうどその頃。
どんどんと二人の距離が開いてきて、溝ができ、遂にはそこに川が流れた。その川の水はひどく濁っており、覗き込むと都会の何とも言えない、佑衣子がどうしても好きになれないあれやそれが次々に浮かんできて、どんなに頑張っても向こう岸に渡る事ができない。たとえそれが一年に一度、7月7日だったとしても。
その結果、恭平は佑衣子の前を去った。
付き合い始めて三年目、つまり最後の一年などはプライベートで一度も会う事はなく、会社で顔を見かけるのみ。二人の最後のやり取りさえ、一通の電子メールだった。
恭平との事が原因ですごく落ち込んでいた佑衣子。そんな折、実家の母から電話があった。「元気にやってる?たまには戻ってきたらどうね」久方ぶりに聞いた郷里の言葉は、佑衣子の心を激しく揺さぶり、気分転換になればとこうして地元に帰って来たのだった。
「へぇー、こんな場所にコンビニが出来たんだ・・・」
佑衣子は赤と緑とオレンジが配色された看板を見上げる。それは都会でもよく目にするコンビニのフランチャイズ店舗で、仕事に疲れ、夕食の準備もままならない時に幾度となくお世話になってきたコンビニのものだった。
当然、佑衣子の学生時代には、村にこんな洒落たものは存在しなかった。当時は物を買うとなれば、個人経営の商店か、せいぜいローカルブランドのスーパーに買い物に行くくらい。学生が足しげく通うのは、もっぱら駄菓子屋さんだ。あの頃はそれで満足していたし、自分の思い出にケチをつけるつもりはないが、・・・今にして思えば微笑ましいと言うか、何と言うか。
ふと、その看板から視線を横にずらすと、もう一つ大きな看板を見つけた。
それはこの片田舎にある唯一の娯楽施設と言っていい、遊園地の看板。現在地からその場所までの道のりが、分かりやすいような分かりにくいような地図で記されている。
裏野ドリームランド。
佑衣子が都会に出る少し前に開園した、大きな大きなテーマパークだ。
その頃は、家族で休日を過ごすにしても、カップルで遊びに行くにしても、みんなここ。佑衣子自身も一度、友達と連れ立って遊びに行ったことがある。
観覧車、ジェットコースター、メリーゴーランド・・・。
一日で全てのアトラクションを回り切る事は出来なかったが、それはそれは楽しい一日だった。
「ちょっと寄ってみようかな・・・」
こみ上げてきた懐かしさに負け、そんな言葉が口をついて出た。
どうせすでに服も髪もずぶ濡れだ。これ以上雨に濡れたところで、佑衣子が風邪を引く確率が数パーセントか増えるくらい。もし仮に風邪をひいてしまったら、母に思う存分看病して貰おう。そうすれば、また少しは元気が出るかもしれないから。
佑衣子はキャリーバックのタイヤに小石が詰まらないよう注意しつつ、行き場を失った雨で出来上がった小川の中を、ゴロゴロと大きな音を立てながら歩く。
着いてみて驚いた。
いや、今のは間違い。本当は驚いてなどいない。
なぜならそうかもしれないな、という予想が頭の片隅にあったからだ。
コンビニの傍にある道案内の看板が示す通り、遊園地はまだその場所にでん、と存在していた。だが、敷地や建物自体がそこにあっても、肝心の人影はない。それは何もこの雨のせいで客足が鈍っているとかそういう話ではなく、単純に佑衣子を除いて、誰もいなかった。少し言い方を変えるなら、人っ子一人見当たらない。
今日は全国民が仕事を休むことが許され、家の中でまったりすることを義務付けた、新たな祝日か? ―――否。
園内で、戦時中の不発弾が発見され、現在は警察機関によって立ち入りが固く禁じられている?―――否。
実は江戸時代、天保の改革にて発布された倹約令が、未だにこの地域だけ取り消されていなかった?―――否。
つまりどういうことかと言えば、裏野ドリームランドはすでに閉園している。それはそれは見る影もなく、見事な寂れっぷりだ。
当時から、裏野ドリームランドが村に建設されると決まった頃から、どうしてこんな山奥に遊園地を?というような疑問の声は、方々から腐るほど上がっていた。それに合わせて根も葉もない噂が多く流れ、一部では政府による公共事業費の量増しじゃないか、なんて滅茶苦茶な説も。学生だった佑衣子には、その辺の事情について一切与り知るところではなかったが、大人たちが学校の体育館に集められ、何やら説明を受けていた事をなんとなくだが記憶として持っている。
「そっか。そりゃそうだよね」
開園当初こそ物珍しさに惹かれ、村人や近隣住民が殺到し、たいそう繁盛しただろう。けど、それこそ娯楽は『遊園地』なんて時代じゃなくなって、新しい客も増えないようなこの土地では、かなり苦戦を強いられたはず。その結果が、年間観光客3桁に満たない山裾に残った、この広大な土地と鉄くず達である。
「馬鹿らしい・・・。こんな事なら真っ直ぐ家に向かっておけば―――」
佑衣子が回れ右で立ち去ろうとした時、どこからともなくキキー、キキーという錆びついた自転車のブレーキ音のような音が聞こえてきた。
一瞬、誰か人が来たのかと身構えた佑衣子だったが、よくよく目を凝らしてみれば、向こうの方で何かが揺れ動いている。それは入場ゲート脇にある従業員用の通用口の扉で、風に吹かれて開いたり閉じたりを繰り返しているところだった。
荒れ放題の花壇、引きちぎられた順番待ちの列を仕切るロープ、落書きだらけの身長制限を伝える看板。
軽く辺りを見回しただけでも、ここがかつて多くの人々を笑顔にした遊園地とは到底信じられない有様だった。
フードコート跡地で発見したビニール袋には、空の弁当箱やビールの空き缶が複数入っていた。恐らく佑衣子が忍び込む以前に、他の侵入者が置いて行ったものだろう。これだけ広く、また遊園地としての原型が残されていれば、肝試しだの何だのと、悪さを企む若者がいるのは必然。そんな彼らが若さに任せ、色々と頑張ってくれちゃった成果が、遊園地という言葉がまるでしっくりこない、現在の状態なのかもしれない。
その園内をすいすいと、佑衣子はある方向へ向けて歩いていく。それはまるで蝶々が甘い花の蜜に吸い寄せられるかのように、あるいは首元に巻き付けられたロープを誰かに手繰り寄せられるかのように。なぜだか、そこへ行かなきゃいけないような気がした。
ミラーハウスの中は薄暗く、青色のネオンが天井をほのかに照らしていた。
どうやらまだ電気は届いているらしく、しかしどうして照明がついたままになっているのかは佑衣子にも分からない。かろうじで足元を見通せる程度の明かりで、慎重に前へと進んでいく。
学生時代に友達と訪れた時には、ミラーハウスの列に並ぶことは叶わなかった。子供らしく、ジェットコースターや観覧車、そういったメジャーなアトラクションにばかり目が行き、イマイチ地味な印象のあるこういった類のアトラクションは後回し。その結果、ミラーハウスは最後まで行けずじまいだった。
まるで体を乗っ取られるようにしてここに辿り着いたのも、つまりそういう理由が関係していたのかもしれない。過去に入ることが出来なかった経験が、知らず佑衣子の中で心残りになってしまっていた、・・・とか。
どこまでも続く鏡の世界。そこには、すっかり女学生とは呼べない自分が何人もいた。あの頃から6歳も歳を取った自分。都会に憧れて出て行ったものの、都会に染まる事を拒否した自分。最愛の人と別れ、傷心した自分。母からきっかけを貰わなければ、故郷にも帰って来れない自分。自分。自分。自分。
ミラーハウス中を漂う生暖かい空気のせいか、服が肌にべったりとくっついてきて気持ち悪い。濡れた下着が肩に食い込んできて、痛い。
キャリーバックを引く右腕も、いい加減疲れて痺れてきた。そうなると、体だけでなく精神も弱ってしまうのか、頭の中に次々と悪いイメージばかり浮かび上がって来る。
『何だか一生、外へ出られないような気がする』
佑衣子はこの遊園地に、ミラーハウスに無断で忍び込んでいる身だ。だから、言うまでもなく迷えば最後。誰も助けには来てくれない。
「・・・お母さんにだけ電話しとこうかな」
誰に告げるでもなくそう宣言すると、佑衣子は不安を吹き飛ばすべく一度大きく首を振り、ナイロン袋にいれてポケットにしまっておいた携帯電話に手を伸ばす。
「キャッ!!!」
必死に家の番号を押していた最中の佑衣子を、凄まじい光と雷鳴が襲った。窓のないミラーハウスがこんなに明るくなるものなのか、もしかすると真上に落ちたんじゃないのかと疑ったくらいだ。
佑衣子は両手で抱み込むように持つ携帯電話を胸に抱き、両方の目蓋を固く閉じた。外の状況はよく分からないが、音が届いていないだけで、豪雨になっているのかもしれない。
それから数分、佑衣子は自らの暗闇の中で過ごした。幸いなことに、あれ以降雷の音はしていない。そろそろ目を開けても大丈夫そう―――。
「嘘よ、何これ・・・。さっきまで、こんな物なかったでしょ?ていうか、どうしてミラーハウスに鏡なんか置いてあるわけ?!」
その不自然さと恐怖のあまり、ヒステリック気味に叫ぶ佑衣子の目の前には、四台の鏡台がきちんと等間隔に並べて置かれていた。
「ちょっと、やめてよ。やめてったら」
佑衣子の意思をよそに、体がその鏡の一つを覗き込もうと動く。絶対に覗いては駄目。覗いたらきっと恐ろしい事が起きる。恐ろしい事っていうのは、きっと・・・。
「やめてえええええええ゛え゛え゛え゛ぇ」
そう思えば思うほど、佑衣子の目は、一枚目の鏡に釘付けとなる―――。
『 前髪 』
「ちょ、先輩。それ本気で言ってるんですか?」
夕焼けに染まる河川敷を、二台の自転車がトロトロと走っていく。その二台の自転車の内、後方を走る自転車に乗った少年が、前を走る自転車に乗った少年に向けて叫んだ。
「俺だって言いたくないですけど!その髪型、イイって思ってんの先輩だけですよ!」
少年は叫び終わった後で、片方の手をハンドルから離すと後頭部を掻いた。『ほんと損な役回りだよ』というような感がありありと、その表情から伝わってくる。
すると前を走っていた方の少年が、何の合図もなしに急ブレーキをかけた。当然、自転車はゴムの焼ける臭いと共に急停止。後ろの少年も遅れてブレーキをかけたが、ギリギリ間に合わない。アリさんとアリさんがごっつんこ状態で、二人の少年の後輪と前輪がぶつかった。
「はあ?何言ってんだ、佐野。ふざけんなって。これ以上ないくらいにイカしてんじゃねえか。山崎まさよしそっくりだろ?」
「いやいや、だから。そもそもその山崎まさよしを周りは誰も知らないんですってば」
「うそつけ。お前知ってんじゃん」
「俺は鈴谷先輩から無理やり・・・もとい、熱心にCDを勧められて、曲を聞いたことがあるからじゃないですか」
佐野と呼ばれる少年は、一点で重なるタイヤ同士を引きはがすと、車線を変えて鈴谷先輩と呼ばれる少年の隣に並んだ。そして自転車のかごに入っていたカバンから愛用のタオル(気持ちで負けるな、という勇ましい文言がプリントされている)を取り出して、わずかに汗ばんだ額をぬぐう。
「だったらお前が周りに広めればいいだろ。草の根運動、草の根運動」
そう言うと、鈴谷は何でもないような顔で、また自転車をゆっくりと走らせ始めた。両手を頭の後ろで組み、俗にいう手放し走行で、河川敷をヨロヨロと蛇行しながら進んでいく。
その後ろを佐野が絶望の色を浮かべて、こりずに追いかける。
「ここだけの話、鈴谷先輩がいないところで何て呼ばれてるか知ってます?『テンパの鬼太郎』って呼ばれてるんですよ?」
「はあ?なんだそれ」
「鬼太郎ですよ、鬼太郎。黄色いちゃんちゃんこ着て、頭に目玉飼ってる。ねずみ男とか、ぬりかべとか、その辺の仲間の。あの鬼太郎って、前髪で片目が隠れてるでしょ?鈴谷先輩の場合は両目ですけど、あれみたいだって俺らの学年では―――」
そこまで口を滑らせた佐野は、途端に喋るのをやめた。たとえ先輩のためを思った進言だったとしても、流石に今のは言い過ぎだったかもしれない。鈴谷優という男が、どれほど周りからの評価を気にする男か定かではないが、もしかすると凄くナイーブな可能性だって、万に一つもないわけじゃない。かくなる上は顔をまっ赤にしてキレられるか、またぞろ急ブレーキをかけられるんじゃないかと佐野は心配になってくる。
佐野の考えた通り、鈴谷はその右手でブレーキをかけた。乾いたブレーキ音が、辺りに響く。
だが、今度は急ブレーキではない。ゆっくりと、ある程度の余裕を持って自転車が停止する。
「待て待て。鬼太郎はみんな知ってて、どうして山崎まさよしは誰も知らないんだ?」
振り返った鈴谷は、至極真面目な顔をしていた。
真面目に、とても馬鹿な質問をしていた。
一学年下ながら、佐野は呆れ果て、かけるべき言葉が見つからない。現在、佐野が問題にしようとしているのは、その長い前髪のせいで大多数の後輩から陰口を叩かれているという事で、決してシンガーと漫画キャラの知名度の差ではない。重要度が、まるで違う。
しかしこの馬鹿みたいな先輩にとっては、そうじゃないらしい。本来であれば、佐野もここで諦めて、『ああ、そうですよね。山崎まさよしを知らないなんて、みんなどうかしてますよね』と適当に話を合わせておけばいいものを、どうしてもそれが出来ないでいる。ドがつくほどのお人好しは、相手が馬鹿馬鹿しく、マヌケであるほど、どうにかしてあげなくてはという気分になってしまうものなのだ。
「さあ、何故でしょうね。っていうか、そこが問題じゃないんですってば」
「そこじゃないって、じゃあどこだよ。そもそも元から問題なんてあったのか?」
「・・・・・・とにかく。明日、俺がいつも髪切ってるところ紹介しますから、その長い髪、バッサリ切っちゃいませんか?」
「阿呆。俺は小学生か。なんでお前に言われたからって髪を切らなきゃならんのだ。俺は切られたい時に、切られたい場所で切られる。佐野、お前の指図なんか受けんぞ」
「指図って・・・。見てらんないんすよ。暑苦しいっていうか。何ですっけ、あのモップみたいな犬」
「プーリーか?」
「あぁ、そうです、それです。・・・先輩、詳しいですね」
『当たり前だ。俺を誰だと思ってる。俺は犬を愛し、犬に愛された男だぞ』と、威張ってみせる鈴谷だったが、実はそれにはあるタネが存在した。
遡ること、数か月。コンビニでジャンプを立ち読みした帰り道、何の気なしに通った公園で、鈴谷は女子バスケ部マネージャー、坂下真帆が飼い犬を散歩させている場面に偶然出くわした。
同じバスケ部とはいえ、男・女という違いもあれば、選手・マネージャーという違いもあり、二人はこれまで一度も言葉を交わしたことがない。話しかけるべきか否か、鉄棒の横の茂みで10分ほど考えに考え抜いたすえに、少し汗臭いから今日はやめておこうという結論に至った鈴谷は、家まで全力疾走で帰ると、すぐさま坂下真帆が連れていた毛むくじゃらで巨大なホコリ玉のような犬についてパソコンで調べた。
そう、全ては坂下真帆と会話する機会に恵まれた時のために。
下心に塗れた、邪ま度合100%の情報収集。この事は、たとえ相手が佐野であってもバラす気はさらさらなく、鈴谷が坂下真帆に一目ぼれしている事、並びにこの長い前髪が彼女の飼い犬に雰囲気を似せようという意識の表れだということと合わせてトップシークレットだ。
「先輩、午後練で俺がリバウンド拾って出した速攻のパス、見失いましたよね」
「うっ」
「それ、絶対前髪のせいですよね?前髪が邪魔で、ボールが見えなかったんじゃないんですか?」
佐野は責めるような目を向ける。
「ふっ、そんなわけ」鈴谷はすぐに反論を試みたが、成就せず。「・・・うーぬ」と渋い顔で低いうなり声を上げた。
「やっぱりそうなんじゃないですか。もう決まりです。明日行きますからね。予約したらメールするんで、時間開けといてくださいよ」
―――その日の夜。鈴谷家の風呂場にて。
「この髪の毛とも、今夜でお別れか」
風呂場の椅子に腰かけた鈴谷は、伸びに伸びた前髪を触りながら、感慨深そうに呟く。いつもなら風呂桶一杯に汲んだお湯を、四の五の言わず頭上から思いっきりぶっかけるところだが、今日という日は風呂桶の半分辺りまでお湯を汲んで、何度も何度も優しくかけた。
実のところ、鈴谷は後輩から諭されるまでもなく、早くこの前髪を何とかしないといけないなと考えていた。濡らすためのお湯が普通より多くいる、乾かすのに時間がかかる、朝起きたら頭が爆発していて手がつけられない(それは単に鈴谷の天然パーマな髪質が影響している)。はっきり言って、鬱陶しいことこの上ない。たとえこれが愛しの少女、坂下麻帆とお近づきになるためだとしても、鈴谷にだっていい加減我慢の限界というものがあるのだ。
それではここで、誰に頼まれた訳でもないが、鈴谷がこだわるシャンプーの仕方をご紹介しよう。
先ほど述べた方法で、髪全体が濡れ髪の乙女が如くしっとり感を纏ってきたら、シャンプーボトルをワンプッシュ、ツープッシュ。それを手のひらで入念に泡立ててから、泡だけを髪の毛につける。頭皮は爪をたてないように注意しながら、前髪は両手をおがむようにくっつけ、その間に前髪を滑りこませてからこすりあわせるようにして洗う。
洗い終えたら、シャワーヘッドに手を伸ばす。仕上げは必ずシャワーで。これは決まり事であり、鈴谷にとって、洗髪のルーティーンと言ってもいい。
そして、シャワーで丁寧に泡を落としたら、はい、完成。そこには、いつもにまして凛々しい男前が座っていることだろう。
鈴谷がいつもと同じ手順でお別れシャンプーに取り組んでいると、走馬灯のようにこの長い髪の毛との思い出が、頭の中を駆け巡った。中には、今風の髪型ねと母親に煽てられるシーンがいくつもあったのだが、実際は彼の母親が単に散髪代を出し渋っていただけの事で、しかし鈴谷がそれに気づく気配は微塵もない。
「もしもし。先輩、どうしたんですか、こんな時間に」
「いやな、スーッ、お前に礼を言おうと思って」
「・・・?ああ、髪の件ですか?」
「そうだ。俺はこれまでお前を可愛げがない、冴えない、使えない、ないない尽くしの後輩だと思っていた」
「そんな事思ってたんすか・・・。それ、誰よりも先輩に言われんのが一番ショックですよ」
「だがな、それは俺の間違いだった。お前は何もなくなんてない。それどころか最高だ。どうか浅はかだった俺を許してくれ。すまない、そしてありがとう」
「・・・なんか気味悪いんですけど。絶対、なにかありましたよね?」
「フフン。まあまあ。・・・聞きたいか?聞きたいだろ?そうだろう。いや、それがな」
球技大会の準備で本日の部活は全校休み。そのため話せなかったことを、鈴谷は一つ後輩の佐野に対して、嬉しそうに語り始める。
鈴谷の話によると、長い髪をばっさりと切り落とした後の髪形は、クラス内ですごぶる好評。笑いの種にされるどころか、どこの美容院で切ったのかと、クラスきってのイケメンに訊ねられてしまうほどだったとか。さらに、廊下でばったりすれ違った坂下真帆がそのあまりの変貌ぶりに話しかけてきたのだという。
「いや、っていうか先輩、坂下さんと話すの初めてだったんですか?」
「あぁん?文句あんのかよ」
「いえ、別に」
坂下真帆といえば、その無邪気さと屈託のなさで、だれ彼構わず話しかけてくることで有名。佐野自身、バスケの新人戦の時に初めて話しかけられてから、度々練習の合間に言葉を交わしている。気さくで、大らかで、何より先輩風を吹かさない、すげーいい人。・・・鈴谷先輩とは真反対。
ただ、そのことはここでは伝えなかった。何故なら伝えたところで得など一つもなく、十中八九鈴谷の機嫌を損ねると判断したからだ。
「でな、――――――が、――――――で」
「すいません、何ですか?声が反響して、よく聞き取れなくて。先輩、トンネルの中にでもいるんですか?」
「トンネルじゃない。風呂の中にいる」
「えっ、銭湯に携帯持ち込んだんですか?」
「何でそうなんだよ。家だよ家。ああ、心配しなくていいぞ。俺の携帯は防水だから」
「誰も心配してませんよ。・・・まあいいか。先輩、今たぶん裸ですよね?なんつーか、相手が女なら大歓迎なんですけど、見えないにしろ、なんか嫌っていうか」
「んだと?なんなら今からでもテレビ電話に切り替えてやろうか?」
「マジでやめてください。そんな事したら俺、即切りますからね」
「嘘に決まってんだろ。俺だってヤだよ」
少しだけ語気を荒げた鈴谷は、しかし次に佐野の口から出た言葉にはっとさせられる。
「先輩って、もしかして坂下さんのこと好きなんですか?」
「・・・・・・佐野。お前って、エスパー?」
「いやいや。だって普段ジュース買ってきてもお礼一つ言わない先輩が、電話までかけてくるなんて尋常じゃないですからね。あれ、でもそういえば。坂下さんって、有吉先輩と付き合ってたんじゃなかったっけ」
「はあ!?それ本当かよ。詳しく教えろ」
鈴谷は電話越しに『まずったな・・・』という声を聞いたが、そんなのお構いなしに問い詰める。佐野が言うには、二人が付き合い始めたのはごく最近で、坂下真帆の方から告白したらしい。
その後も、嘘か誠か分からぬ噂話をつらつらと聞かされた鈴谷。『もういい、やめてくれ』と自らギブアップを宣言し、最後の力を振り絞るように佐野との電話を切った。
「はぁ、もう最悪」
携帯電話を脱衣所に放り投げ、鈴谷は鼻の下までお湯につかる。気持ち的には、一対一の真剣勝負で不意打ちを食らったような感じ。つばぜり合いの最中、懐から取り出した拳銃でズドン。恨み節の一つも浮かんでこない。
鈴谷は先ほどまでの浮かれようを思い出し、急に額と頬が熱くなるのを感じた。これじゃまるでマリオネットじゃないかと、拳で激しく水面を叩く(それを言うならピエロである)。
有吉といえば、一年生の時から上級生に割って入り、試合でレギュラーを掴んでいる、バスケ部のエース中のエース。さらに頭も良く、さらにさらに顔もイケメンと非の打ち所がない。一方で、同学年の鈴谷と言えば、スモールフォワードの四番手。頭はそこそこ、顔はまあ・・・・。そんな彼を慕ってくれるのは佐野くらいなもので、他の後輩はだいたい有吉の事を尊敬している。
「理不尽だ・・・」
とはいえ、このまま落ち込んでいても仕方がない。
鈴谷は産卵期のウミガメが陸に上がるみたいにゆっくりと湯船から這い出ると、いつも通りまずは体を洗った。
そして体を洗い終わると、風呂桶一杯にお湯を汲み、頭上から勢いよくぶっかける。
一杯、二杯、三杯。
髪全体が濡れ髪の乙女が如くしっとり感を纏ってきたら、シャンプーボトルをワンプッシュ、ツープッシュ。それを手のひらで入念に泡立ててから、泡だけを髪の毛につける。頭皮は爪をたてないように注意しながら、前髪は両手をおがむようにくっつけ、その間に前髪をすべり込ませてからこすりあわせ―――
そこでふと、ある違和感を感じた。
あれ、そういえば俺って髪は切ったんだよな。
だとすればお湯の量も、シャンプーの量だっておかしい。髪の長さに対して、両方とも明らかに多すぎるじゃないか。どうして気づかなかったんだろう。
それになにより、じゃあ今俺が両手で挟むように洗ってるこの長い前髪、一体誰のだ?
『 靴下 』
浜崎佑奈、二十歳。赤穂大学2回生、ただし現在休学中。
「お父さん、新しい靴下出しといたから、いつもの所に入れとくね」
「おう、ありがとさん」
休学の理由は、佑奈が体調を崩したため。
大学に入学したての頃は、初めての一人暮らしに右往左往し、量が増えた勉強にわき目もふらず取り組んでいた。言ってしまえば、その当時は四六時中、気を張り詰めて生活していたようなもの。
けれど2回生になり、一人暮らしも勉強も勝手が分かり始めたのか、多少の心の余裕が生まれた。あるいは、その余裕こそが逆に良くなかったのかもしれない。佑奈はまるで緊張の糸が切れてしまったかのように病気を患った。本人はただの風邪くらいに思っていたのだが、結果的にそれが悪くなり入院までするはめに。
ついには心配した父に、強制的に実家へと連れ戻されてしまった。
「ごめんね、家事を任せちゃって。どう?今日は体調は平気?」
お風呂から上がってきたばかりの母が、タオルで髪を乾かしながら訊ねる。父も母も平日は働きに出ているため、家事のほとんどを行っているのは佑奈だ。炊事洗濯、何でもござれ。ただし買い物だけは、週末に家族で近所のスーパーまで行き、まとめ買いすることになっている。
「うん、まあまあかな」
「そう。早く学校に戻れるといいわね」
その何てことない母の一言に、むっとする佑奈。今の言い方だと、何だか邪魔者扱いされているみたいで、気分は良くない。
「大丈夫だよ。佑奈は昔から強い子だったから、すぐに戻れるさ。それにもし戻れなかったとしても、佑奈は可愛いから。どこかでいい男を見つけてきて、お嫁さんになるって手もあるしな。案外、すでに候補はいたりして・・・?」
「いない、いない」
ソファーに寝そべりながら、ビール片手に大好きな野球を観戦しつつ言う父に反論する。佑奈はソファーの傍まで行くと、思い切り油断している父の上にダイブした。そこには佑奈が小学生だった頃にはなかった、だらしないお腹の脂肪が。「おぉう、痛い痛い」父は嫌がりながらも笑い、それにつられて佑奈も笑顔になる。
子供の頃から佑奈は大のお父さんっ子。いつでもどこでも、べったりとくっついていた記憶がある。
お世辞にもイケてるとは言えないルックスだが、佑奈はいつも優しく大らかな父が大好きだった。ベタではあるが、小学校低学年生の頃の夢はお父さんのお嫁さん。その事を言うと、父はいつも照れた様子で佑奈の頭を撫でてくれたっけ。
皆が一日着た衣類を洗濯して綺麗にするのが佑奈の役目であり、さらにそれを畳んだり、アイロンをかけたりするのも佑奈の役目だ。
今日も今日とて、太陽の下に半日晒され完璧に乾いた洗濯物を慣れた手つきで畳むと、決まった引き出しへ納めていく。その作業を続けるうち、脱衣所にある下着や靴下を入れておく父の棚に一組だけ、奇妙なしまい方をされた靴下を発見した。
その靴下は黒色の無地の物で、一枚の靴下の腹辺りがもう一枚の靴下できつく結ばれていた。大雑把に表現すると、トレンチコートの腰紐をきつく縛ったような感じ。けれど佑奈にはそれがどうにも首を絞められている人間のように見えて仕方がない。
「お父さん、これ何?」
実物を指でつまんだまま(何だか気味が悪かったので、親指と人差し指で汚い物でも運ぶみたいにして持って行った)父に見せてみるが、「何って、靴下だろ?」と至極当たり前と言えば当たり前、しかし的外れな回答が戻ってくる。
「じゃなくて。どうして結んでるの?」
「え?」父は口をポカンと開け、驚いた表情で言う。「知らないなあ。俺じゃないぞ」
嘘をついている様子はない。
「そうなの?」
「ああ。もちのろ・・・打った!打った!いけ!伸びろ!伸びろ!入ったー!!」
どうやら父の贔屓チームが点を取ったらしく、それどころではなくなってしまった。
佑奈は靴下をつまんだまま、首を傾げる。
(まとめておくって意味ではきちんと出来てるけど、畳んだって感じじゃないよね・・・)
現在、洗濯物全てを取り仕切っている者として、こんな中途半端な仕事をした覚えはない。だとすれば、残るは母の仕業という線のみ。だって泥棒が入ってきて、物をとらずに靴下を結んで逃げて行ったなんて話は聞いたことがない。でも、どうしてこんな事したんだろう?
「ま、いっか」佑奈は靴下を解くと、改めて畳み直した。
「おっ、佑奈も野球見るか?今な、父さんが応援してる若手の選手がホームラン打ったんだよ」
「へぇ、そうなんだ。って、ちょっとお父さん、お酒臭いよー」
「でへへ。そう言えば、佑奈ももうお酒飲んでいい歳だよな。一杯やるか?」
「いいよ、あたしは。お酒、そんなに好きじゃないし」
「なにぃ?父さんの酒が飲めねえって言うのかい?」
「酔っぱらい過ぎだって。ちょっと、どうしてそこで泣くのよ!」
その事はそれっきり気にも留めていなかったのだが、しかし三日後、事件は起こった。
父が、佑奈の最愛の父親が酒気帯び運転のトラックに撥ねられて死んでしまったのだ。
佑奈は泣いた。
泣いて泣いて、散々泣いて。親戚や葬式に出席した大勢の大人の目なんか気にもせず、泣きじゃくった。
それでも父は帰って来ない。どれだけ泣きわめこうとも、どれだけ悲しみを叫ぼうとも、どれだけ応援していた若手選手がホームランを打とうとも。
事態はさらに悪い方向へ、佑奈を追い詰めていく。
父の葬儀から一ヶ月、なんと今度は母が佑奈の傍から離れようとしていた。どうやら父が生きている頃から、外で男を作っていたらしく、遺産は全て置いて行くから、どうか出て行かせて欲しいと言う。
泣きっ面に蜂とはまさにこの事。
佑奈は全身のあらゆる血が頭に上ったのではないかと思うくらい激昂し、「どこにでも行け!この糞ババア!」と母を家から追い出した。これでついに若干二十歳にして、天涯孤独の身である。
母は家を出る間際、「体に気をつけてね」と佑奈の身を案じる言葉をかけたが、そんな上辺だけの言葉では佑奈の気は収まらない。
コップ、お皿、茶碗、母親が触ったと思われる物は、全て投げ割った。
「あの女、絶対に許さない・・・。いつか復讐してやる」
そこで失敗だったのが、何も考えずに全部のコップを割ってしまったため、いざ喉が渇いてもペットボトルから水を注ぐことが出来なかった。仕方がないので、佑奈はペットボトルに直接口をつけて、いわゆるラッパ飲みと呼ばれる方法で喉を潤すが、途中、水が気管に入り大きく咳き込んでしまう。
おかげで服や下着がびしょびしょ。
「もう!」
ついてない時には、とことんついてない。佑奈は部屋に戻り、自分の服が納められた引き出しを荒々しく開けた。
そして、開けなければよかったと後悔した。
そこには、長方形の引き出し一杯に靴下が入っていた。隅から隅まで、結ばれた靴下だらけ。父が生きていた頃に見つけた、黒くて無地の靴下。あの結ばれた一組の靴下と同じ状態の『佑奈の』靴下が、所狭しとびっちり詰まっていた。
当然、今所有している靴下の数だけでは引き出しの一面を埋める事は出来ない。そう、だから引き出しには、それまでの佑奈の靴下、もうとっくに捨てたと思われた、赤ちゃんの頃からの靴下が、全て結ばれて入れてあったのだ。
一組の靴下を手に取り、呆然と見つめる。その後、いくら力をこめて解こうとしても解けず、ついに佑奈は泣き崩れた。
『 空き缶 』
「もしもし、おばあちゃんです。健也、元気にやっとるかい?実は少し頼みごとがあって電話しました―――」
久しぶりにかかってきたばあちゃんからの電話。その時俺はちょうど母さんと口喧嘩している真っ最中で、内容は全て留守番電話に記録されていた。
「―――突然だけど、おばあちゃん来週からお隣の清水さんとハワイへ旅行に行くことになりました。つきましては、ピーッ」
どうやら一回の録音時間では足りなかったらしく、電話は合計で三回かかってきていた。
「―――そういう事だから、お留守番お願いね。それじゃあね」
約一週間の疑似一人暮らし。勉強しなくても、誰にも文句を言われない。ラッキー、俺ってついてるぜ!
「はぁー、天国だ」
縁側でアイスに噛り付きながら呟く。風呂から上がったばかりの火照った体には、この安いだけが取り柄のアイスの味がよく染みて、時折吹く涼やかな風と相まって非常に心地が良い。
「ばあちゃん。ありがとう」
俺は庭の方に向いていた体を反転させると、飾ってあったばあちゃんの写真に手を合わせた。人によっては不謹慎って思われるかもしれないけど、要するにそれくらい感謝しているよということ。するとその写真がいきなり前方に倒れてきたので、思わず俺の体がびくんと跳ねた。
「うぉ!?・・・って何だよ、テルマか。脅かすなっての」
「ニャー」
「青山はどこ行った?飯やるから、呼んで来い」
あいにく猫語は話せないので、猫に対して日本語で語り掛ける。だからって猫が日本語を理解できるかといえば、そうではない。要するに堂々巡りなのだが、しかしどうやら俺のジェスチャーから本能で意味を察したらしく、テルマは回れ右で姿を消したかと思えば、もう一匹の猫を連れて戻って来た。
猫の餌やりが完了し、ばあちゃんが残していったメモに書いてあった『やって欲しいことリスト』をあらかたこなし終えたので、寝床についた。俺が布団を敷いたのは、ばあちゃんご自慢の仏壇が置いてある部屋。先祖代々の肖像画や写真が飾られ、いつも線香の臭いがしている。
ガキの頃はこの部屋が怖くて怖くて仕方がなく、部屋で寝るなんて以ての外。しかし、今や高校生の自分がそんな可愛らしい事を言ったところで誰が笑ってくれようか。第一、布団を敷くならばここでなければならない理由がある。それは文明の利器であり、夏は絶対に手放せないアイテムのクーラーが、キッチンを除くとこの部屋にしかないからだ。
慣れない家事で意外と疲労が溜まっていたのか、俺は布団に寝転がるなりすぐに意識が遠のいていった。
身体がふわふわし、思考が速度を緩める。現実と夢の狭間を行ったり来たり。
コン、・・・カン、カン、カン、カン、カン、カン
そんな状況で、ふいにある音が耳に届いた。それは高く澄んだ音で、金属が何かとぶつかって跳ね返るような音だった。
俺は目は開けないままで、連続して聞こえるその音に耳を傾ける。
コン、・・・カン、カン、カン、カン、カン、カン
(何の音だろう・・・)
朦朧とする意識で、少しばかり聞いていると、思い当たる節に辿り着いた。それはなんてことはない、道で空き缶を蹴っている音によく似ていた。
コン、・・・カン、カン、カン、カン、カン、カン
(こんな夜中に、空き缶を・・・)
そこで俺の意識は完全に途切れた。知らぬ間に眠りこけていた。
早いもので、俺がばあちゃんの家に来てから5日が経とうとしている。
予定では、ばあちゃんとの約束は明日まで。明日になれば、お隣の清水さんと共にハワイから帰って来て、俺は御駄賃を受け取る。その後、勉強しろ勉強しろとうるさい鬼のいる家に逆戻りだ。
「さてと」
そう言って俺が鞄から取り出したのは、山と積まれるくらいに出された夏休みの宿題、・・・ではない。そういった物の対極にある存在、家庭用ゲーム機だ。
今日は疑似一人暮らし、最後の夜。俺はその特別な夜を一秒も無駄にしない決意を固めていた。つまり貫徹である。そのためのお菓子やジュースをコンビニで買い込んだ。今朝は少し遅めに起きた。風呂はぬるめに入れた。そんな俺を止める事は、もう誰にも出来ない。
「あー、畜生。また手術に失敗しやがった!俺が作った選手を何人駄目にすりゃ気がすむんだ、このヤブ博士が!!」
俺はテレビ画面に映る、白髪で眼鏡をかけたキャラクターを罵る。
「・・・ひっくしゅん!」
と、同時にくしゃみがでた。
風邪か?と思ったが、どうやら違いそうだ。今日は何だか肌寒い。俺はクーラーのリモコンを手探りで探したが、見つからない。
「ああ、そっか」
見つからないのは当然だった。だって、この部屋にクーラーはないのだから。クーラーがあるのは、キッチンと仏壇が置いてある部屋だけ。テレビのあるこの部屋には残念ながらクーラーがなく、テレビを仏壇の部屋まで移動させようかとも考えたくらいだ。だが、罰が当たりそうな気がしてそれはやめておいた。
なのにどうして、こんなに寒さを感じるのだろう?夏だからって、毎日が毎日熱帯夜にならなくてはいけないかと問われれば、そうではないと答えるが、しかし今日の気温はどうだ。流石に8月なのが信じられないくらいだぞ。
その時、またしてもあの音が聞こえてきた。
コン、・・・カン、カン、カン、カン、カン、カン
それは初日の夜に寝床で耳にした音。空き缶を誰かが道で蹴る音だ。時計に目をやると、針はちょうど深夜三時を回ったところ。どうやらゲームに夢中になりすぎていたらしい。
こんな時間に空き缶を蹴りながら歩いている人がいるのか。それはどんな人だろう。そもそも真っ暗闇で、蹴った空き缶の行き先を追えるのだろうか。
怖いもの知らずなお年頃を自負する俺は好奇心に駆られ、扉を開けて外の様子を見ようとした。だが中々、戸が開かない。引き戸のレールに何かひっかかっているようだ。これならば、ばあちゃんも俺に留守番など頼む必要はなかっただろうに。泥棒だって、中から開けられない扉をそう簡単に突破できるはずないのだから。
コン、・・・カン、カン、カン、カン、カン、カン
音は相変わらず聞こえ続けている。
と、ようやく戸が開いた。そして俺は、目の前の光景に息を飲む。
「い、一体これは」
戸の外は、昼間のように明るかった。それくらい、いたる所に火の手があがっていた。
もはや火事とかそういうレベルではない。これじゃまるで、近所に爆弾でも落ちたかのような有様だ。
誰か向こうから走って来る。俺はその人から事情を聞こうと声をかけるが、その人は今までにお目にかかったことのない顔、まさに死に物狂いの形相で走り去っていった。よく見れば足元は何も履いておらず裸足だった。
次は逆の角から人が走って来た。だが今度は話しかけようとすら思わなかった。その女性は着ているものが焼け焦げ、両の乳房を放り出したまま逃げるように走って来る。
俺はそこでようやく空へと目を向けた。そこには川底を泳ぐ魚の影みたいなのが、隊列を成して飛んでいるのが見えた。
「嘘だ。うそだ、うそだ、うそだ、うそだ」
驚きすぎると人は同じ言葉を何度も連呼するらしい。
夢か、夢なのか?夢なら今すぐに覚めてくれ。俺は必死にお願いするが(誰に?)、効果はない。
ヒュー・・・・
今度は先ほど来鳴り続けている金属音とは別の音を聞いた。それはとても懐かしい音のような気がして、俺は慌てて音の出所を探る。
そうだ、あれは打ち上げ花火の音。二週間前にあった夏祭り、そのグランドフィナーレで上がった特大の打ち上げ花火の音によく似ていた。俺はそれを友達と見上げながら、「宿題終わんねー。あーあ、地球滅びねえかなぁ」と呟いたんだった。
打ち上げ花火は地上から上空へと打ち上げるものだ。だが、これは違う。逆も逆、真逆。これは空から地上へと『降ってくる』。
5軒隣の家にそれが降ってきた。屋根瓦が吹き飛び、いっきに火が外壁にまわる。俺は激しい爆風で、その場から吹き飛ばされないようにするのが精一杯だった。
「どうなってる?ここは本当に日本か!?」
床にこぼした水が、少しずつ少しずつ周りに広がるように、最初に5軒隣から上がった火が、一軒一軒家屋を飲み込みながら近づいてくる。
「このままじゃ、ばあちゃんの家にまで火が燃え移っちまう。どうすりゃいいんだ」
冷静に考えれば、本来家の事など二の次で自分の命を優先すべき状況なのに、それが出来ない。パニックとは恐ろしいもので、人が常識的に知っている優先順位をぐちゃぐちゃにしてしまうのだ。
その時、隣の家の外壁が熱に耐えきれなくなり崩れてしまった。それが一直線に俺の方に向けて落ちてくる。
「マジかよ。まじかよ、まじかよ、まじかよ!」
それと同時に、あの音が聞こえてきた。
コン、・・・カン、カン、カン、カン、カン、カン
「―――はっ・・・・」
気づくと俺は、手にコントローラーを握りしめたまま机につっぷしていた。画面の中の博士が手術の失敗を悪びれもせず告げている。「冷たっ」餌を催促する青山が、俺の寝起きの顔を舐めた。
「健也、ありがとねぇ。はいこれ、お駄賃」
そう言って渡されたのは、俺が欲しかった現金ではなく、ハワイのお土産だった(腰みのをつけた女性がモチーフのボールペンで、頭の部分を押すと震えながらフラダンスを踊る)。
その後は、ばあちゃんのハワイ話が散々続き、いい加減うんざりしてきたころで、俺は昨夜の夢の話をばあちゃんにした。すると、驚いた顔でこう言う。
「あれま。そりゃぁ焼夷弾だがね」
ばあちゃんの話によると、太平洋戦争中、この辺りの地域は空襲で焼け野原になったのだそうだ。その時に使用されたのが、アメリカ軍が開発したF47という焼夷弾。燃料と発火装置の入った金属の筒で、普通の爆弾と一緒に投下することで広範囲に火災を起こし、被害を増やすのだと言う。
俺が耳にした音。コン、・・・カン、カン、カン、カン、カン、カンという音は、焼夷弾の燃料や発火装置が落下の衝撃で抜け落ちたあとの残った金属筒が地面に跳ね返って転がる音だそうだ。それが、俺が勘違いした空き缶を蹴る時の音によく似ていたらしい。
つまり昨夜俺が見た夢は、産まれる何十年も前にあった戦争の映像だったのだろうか。そう言われてみれば、駆けてきた人の服装や隣の家の様子も何だか違和感があったような・・・。
「その空襲で何軒もの家が焼かれたけんど、うちは隣の家が崩れたけぇ、燃え移らんですんだんよ」
ばあちゃんの話を聞いて、俺はあれが本当に夢だったのかさらに分からなくなってしまった。
兎にも角にも、不思議な夏の体験だった。
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「ふっふふ~ん♪」
ミラーハウスの出口から姿を現した佑衣子は、まるで別人のような晴れ晴れしい顔をしていた。
天橋駅に降り立った時の、言葉にし難い陰鬱な気分はすっかり消え、今や何一つ迷いのない心持ち。今の自分であれば何だって出来そうな、佑衣子の前を去って行った恭平にさえもう一度追いつけるような気がしていた。
その佑衣子の、明日を夢見る少年のような気分に引きずられるかのように、空もにわかに晴れ間がのぞきはじめる。あれだけの轟音を響き渡らせた雷が、まるで嘘のよう。世間一般に言うゲリラ豪雨というやつが、まさにあの雷だったのかもしれない。
佑衣子はミラーハウスの中で起きた出来事を思い出せないでいた。何かとてつもなく嫌な体験をした気がするが、しかし一切の内容が記憶にない。そもそもそんな嫌な体験があったというに、どうして現在の自分はこんなにも陽気な気分なのか。その答えは、未来永劫見つかることはない。
何故なら佑衣子はミラーハウスの中に、『それ』を置いてきたからだ。
人っ子一人いない遊園地、無人遊園地。その地に無断で忍び込んでから薄暗いミラーハウスを出るまでの記憶を、佑衣子が持つ恐怖体験と一緒に置き去りにしてきたのだ。
ある国では、鏡には邪悪を封じ込める力があると信じられている。もしかすると佑衣子が見つけた三枚の鏡には(その記憶は失われているが)、それぞれ誰かしらの恐怖が封じ込められていたのかもしれない。
ミラーハウスという鏡に囲まれた建物の中にある鏡なのだから、それは例えるなら錠のかかったパンドラの箱を、さらに鉄壁の金庫の中におさめるようなもの。それだけ忌々しい恐怖が、その鏡に閉じ込められていたのかもしれない。
ここで一つ、思い出して欲しい。佑衣子が目にした鏡台は、本来は三台でなく四台だったという事を。さて、それでは四枚目の鏡には一体何が封じられているのか。・・・そう、四枚目には佑衣子の恐怖が封じ込められている。
それは佑衣子にとって、忘れようにも忘れられない恐怖譚。
七月七日。世間が七夕に浮かれているその日、唐突に佑衣子の携帯電話に恭平からメールが届いた。それは実に一年ぶりとなるメール。内容は『今から来てほしい』という簡素なもの。いきなり呼びつけて置いて、挨拶もなければ、どうして来てほしいのかという理由も書いていない。
佑衣子は戸惑いを感じた。と、同時に怒りが込み上げてきた。これだけほったらかしにしておいて、急になんだ。会わなくなった当初は寂しさで何度も枕を濡らしたが、一年も経てばそれも薄れ、残ったのは取るに足らない意地だけ。吹けば飛ぶような、水で薄めれば消えてしまう程度の。
少し考えてから、佑衣子は行かないことに決めた。返事も出さなかった。
だがそのメールは佑衣子の心に棘となって刺さり、じくじくと傷口を刺激し続ける。夕飯を食べても、歯を磨いても、眠っても、どうしても頭から離れない。佑衣子は翌日の早朝、何も告げずに恭平のマンションを訪ねた。
けれど彦星に会えるはずがなかった。何故なら七夕を過ぎれば川は水を増し、渡れなくなってしまうのだから。
自宅を訪れた佑衣子を、恭平は立ったまま出迎えた。ただし立ったままとは体勢だけの話で、両足は地面についていない。より正確にその状況を表現しようとすれば、立ったままではなく、恭平はぶら下がったまま佑衣子の事を出迎えた。
彼の体を支えているのは、ハンガーみたくYシャツの首元から伸びたロープ一本。そのロープで成人男性一人分の体重を支えている。
傍の机には恭平を駄目にした植物と、予備のロープ、それに遺書が置いてあった。
遺書はまるで落書きのような汚い字で書かれており、どんな状態で書いたものかが嫌でも窺い知れた。それを読んだ佑衣子は、感情に任せて自らも後を追おうとしたのだが、どうしても出来なかった。
恭平が首を吊った姿をもろに見てしまい、それが恐ろしくて出来なかったのだ。
安らかに、なんて冗談。苦悶に満ちた、激痛に歪んだ、憎悪に塗れた、恐怖に慄いた顔。足元は尿や様々な体液が滴り落ち、顔色はまさに土の色、収まり切らない舌が口から半分以上はみ出し垂れていた。
もし、あの時に佑衣子が恭平からのメールに応じていれば。午後からの仕事を放り出し、何を差し置いても駆けつけていれば。果たして自分は恭平を止められただろうか?その疑問に対し、佑衣子は冷静に自答する。恐らくは無理だっただろう。すでに壊れかけていた恭平の傍を離れた佑衣子に出来たのは、せいぜい一緒に壊れてあげることくらい。そうなれば、隣にもう一つ同じような首吊り死体が並んでいたはずだ。もう一つの、佑衣子が。
以来、恭平の事考えるだけで、佑衣子の眼前には当時の様子があのままフラッシュバックするようになった。
考えたくないのに、無意識に考えてしまう。忘れたいのに、絶対に忘れられない。それはまさに無間地獄。
そんな彼女が今、スキップ交じりで遊園地を去ろうとしている。
「今行くから。待っててね、恭平」
佑衣子の記憶から、根こそぎその恐怖が取り除かれていた。今の彼女の中にあるのは、恭平との素晴らしい思い出。それらが膨らんで、失った部分を綺麗に埋めている。
四枚の鏡がどうして存在し、何故恐怖を封じ込めているのか、誰が用意したのか、それは分からない。
だが佑衣子の前に、長い木の棒を携えた船頭がゆっくりと近づいてきているのは確かだ。昨年の七月七日、七夕の日。あの日渡れなかった川を、今一度渡るために。
さあ、もうすぐ船が岸に着く。笠を被った船頭が、ニタリと笑った。
このお話は夏のホラー2017のテーマにそって書かれています
夏のホラー2016投稿作品「穴倉の実験場」
連載中「僕の嫁はポンコツレベル神官 ~でもその嫁と別れるために大陸の王を目指します~」
よかったらそっちも読んでみてください