赤い絨毯と花びら3
☆
時間を少し遡ろう。
御者が馬車をわずかに離れたすきに、麻也は自分で馬車を駆ってハノウ山を目指した。
そして彼女は途中でルドルフ一行と出くわした。
「ちょうど良いわ。そこの人たち、ハノウ山へはこの道で良いのよね?」
と麻也が尋ねると、その若い男たちは顔を見合わせた。
「そうだが、あんた、王宮専属の馬車で何をやってるんだ?」
「失踪」
「はあ?」
「デルムントから言われたのよねー。次の『ゆらぎ』を起こすために、姉の前からしばらく姿を消してみてくれ、って」
「デルムント?何だそれは。うまいのか?」
「ああっ、変な人っ」
とルドルフを見た麻也が思わず言った。
「なにが?」
ルドルフはきょとんとして聞いた。
「だって、黒いマントなんかはおって…」
「その理由はヒ・ミ・ツだ!なぜならその方が格好良いから」
ルドルフは得意そうにふふん、と笑った。
「…とにかく、そうしたら私たち姉妹は家に帰れるの。だからそれまでハノウ山の手工芸の技術を習いにちょっと行ってこようと思って」
「山道は険しいぞ。その馬車じゃ無理だ。…どうも話がとんでいるような気もするけれど…さっき確か『失踪』とか言ったな。ごまかしとかそういうものなら自慢じゃないが、俺達は大得意だぞ」
どうもルドルフたちは麻也に親切にするつもりになったらしかった。
ひょいと馬車から麻也を抱き下ろしてくれると、馬具をはずした馬たちを町の方へ追いやって、残った馬車の高価そうな装飾を取り外し、からっぽの馬車を崖下に蹴落とした。
「こうすれば山賊に襲われたと思われるし、あんたの行方もわからなくなる」
ルドルフたちはほがらかに笑った。
「クレアを訪ねてみろ。ハノウ山一の知恵者だ。きっと親切に手工芸の技術を教えてくれる筈だ。場合によっちゃ、家族に加えてくれるかもしれん。ハノウ山ははぐれ者の集まる場所だから」
「ありがとう。ご親切に」
麻也はにっこり笑って、ルドルフたちに手をひらひら振って別れた。
「今の娘、かわいかったなぁー」
とルドルフたちは口々に言った。
☆
果たして麻也がハノウ山にたどりつき、クレアなる人物に会ってみると、中年のやさしそうな女性だった。
手工芸について話してみると、初めのうちは同じ物体について違う説明をしてある図鑑を持った人たちみたいに話が混乱していたが、徐々にお互いの知識内容がわかってきた。
二人は特にアクセサリーのことを話した。
「ここでは透明な結晶体が産出されます。それに特殊な光線を当てると色が変わったりするの。それを加工して装飾品を作ったりしています」
光線を当てると結晶体の分子配列が変わって反射する色が変わるためだとクレアは説明した。
麻也は鉱物に含まれているガラス成分を抽出して、トンボ玉や、ビーズをつくってアクセサリーにする話をしてみた。クレアは興味を示し、二人は話に熱中した。
「七宝焼きっていうのがあって、それは、銅または金、銀などを下地にして、金属の酸化物を着色材として用いたガラス質のうわぐすりを焼き付けて模様を描きだすんです」
「金属の酸化物で着色?」
クレアは目からうろこが落ちたような気で聞き返した。
「クレアさんの言っていた技術の方がずっと難しいと思うんだけどなぁ」
と麻也はつぶやいた。
「それから、発光素材を含んだガラス製品とか、暗いところで光るものも作れるんです」
クレアたちは目をみはって、この見かけよりも博識な娘を感心して見ていた。
ハノウ山はこうして、麻也のことを受け入れていった。
☆
いつまでも民家に居候しているわけにもいかなかったので、ケイチの手配で一軒の使われていない家をシンドレッドは使うことになった。
「シンドレッド様に家事をさせるなんてとんでもない。家政婦など使用人を雇いましょう」と言い張るケイチを制止して、シンドレッドは、
「いつここを出ていくかはわからない」
と言い出した。
困り顔のケイチは、
「いいですか、かりそめに不逞な輩がはびこっていますが、あなたこそが王座につくお方なんです。今は魔が差しているだけで…。放浪して果ててどうするんですかしっかりしてください」
と諭した。
そしてらちのあかない口論のあげく、ケイチは絵礼に向き直って、
「私は雑務に追われてなかなかシンドレッド様の事に手が回らないのです。ここはエレ様にすがるしかありません。どうか、くれぐれもシンドレッド様の身辺のことをよろしくお願いします」
と頭を下げた。
絵礼は元の世界では受験勉強一本だったので家事はあまり自信がなかった。しかも異性に免疫がないのでシンドレッドと二人きりで同じ家(といっても広くて部屋がいくつもある)に住むのにちょっと抵抗があって、さっさと宮殿へ戻って行くケイチをよっぽど呼び止めようかと悩みまくった。
結局、絵礼はシンドレッドと共同生活を送ることになってしまった。
眠れない夜を越えて朝日の差す時刻になった。
睡眠不足気味の絵礼を呼ぶシンドレッドの声がした。
「ああ、朝食の用意しなくちゃ…。(元)王様の口に合う料理なんてできるかしら…」
重い足取りで部屋に入ると、テーブル上にすでに料理が並べてあった。
「えっ?」
絵礼は硬直してその場に突っ立った。
「前々からこっそりやってみたかったことがいろいろあってな。こういうことにもあこがれたものだ」
とシンドレッドは嬉しそうに笑った。
絵礼は冷や汗をかきつつ食事をとった。
「どうだ、うまいか?」
満面の笑みを浮かべて問うシンドレッドに絵礼はこくこくとうなずいた。
「もっとこのてのひらが大きかったら、と思うんだ。自分にできることがもっとずっとたくさんありそうな気がしてな」
しみじみ言うシンドレッド。
「あなたは十分すぎる程なんでもできるわ…」
絵礼は苦笑した。
「見た目じゃ人はわからんだろう」
シンドレッドはにやりと笑った。
食事の後、絵礼が食器を洗っていると、なぜかシンドレッドが後ろを何をするでもなくうろうろしていた。
「どうかしたんですか?」
「いや。…エレは突然どこかへ行こうと思うことはあるか?」
「えっ?ありませんけど…」
「どこか遠くへ行く時は一声かけろ。いつか会いに行くぞ」
「………」
絵礼はシンドレッドにとって麻也がいなくなったことがよっぽどショックだったのだろう、と思って、つい、ぽろりと涙を流した。
「どうした?何か悪いことを言ったか?」
「いいえ。ちょっと目にごみが入っただけです」
ぐすっ、とはなをすすって絵礼は言った。
シンドレッドは無言で絵礼をじいっとみつめた。
できうるかぎり様子を見にケイチはやってきた。
「エレはアキーニのようだ」
何かの折にシンドレッドはぽつりとつぶやいた。
ケイチはそれを聞き咎めた。
「シンドレッド様。エレ様はアキーニでもマヤ様でもないんですよ」
シンドレッドが誕生した頃、乳母として宮殿に仕えていたアキーニはケイチの母でもあった。残念ながらアキーニは今はもうこの世にいない。ケイチとシンドレッドは同年代で、アキーニは二人を兄弟のように育ててくれた。
思い出の中のアキーニは、ふくよかな、丸っこい体つきの女で、あたたかくやさしい性格をしていた。何よりも子どもたちにおしみなく愛情を注ぎ、身分をわきまえた教育を施してくれた。
「マヤ様がいなくなっただけで身分も財産も全て捨てられるとは…。ケイチはなげかわしいです」
「すまないな、ケイチ」
ケイチは絵礼の方に向き直って言った。
「エレ様、ここは私たちのがんばり所です。ルドルフのような輩に王位を任せていては国家の危機です。贅沢三昧で、どこからか連れてきた仲間と放蕩してばかりなんですよ。やはりシンドレッド様にお戻り頂かないと…。ご協力お願いします」
「え…ええ、わかったわ。手伝います」
いつのまにか絵礼はシンドレッドのためならなんでもやってやろうとさえ思い始めていた。
「なんで王宮まで行かねばならんのだ?」
ケイチと絵礼は乗り気でないシンドレッドを連れて王宮へ出向いた。
「シンドレッド様がマヤ様やエレ様に依存されてしまうのはどうにかできないものか?ルドルフ程ではないにしろ女性に免疫をつけてもらわないといけないな…」
とケイチは考えていた。
「しかし今はエレ様に頼るしかない…」
ケイチはため息をついた。
☆
「なんだ?やっぱり俺のやり方が良いことがわかって仲間に加わりにきたのか?」
ルドルフが言った。酔っているようだった。
「金も食べ物も酒も最高の物ばかりだぞ」
機嫌良く言うルドルフにケイチが眉根を寄せた。
「町から若い女を何人も集めて、金をばらまき、酒を飲み、仲間と毎夜大騒ぎをする生活のどこが良いんだ」
ケイチの苦言にルドルフは聞く耳を持たなかった。
「そっちの娘もどうだ?ここで一緒に過ごさないか?」
言われて絵礼はきっ、とルドルフをにらんだ。
「私はあなたに言ってやりたいことがあって来たのよ」
「言ってやりたいこと?」
「お金や贅沢な暮らしで集まってくる楽しみは全てまがいものだわ。あなた自身に惹かれて来るはずの人たちはかえって敬遠してしまうことでしょう。もし今の贅沢がなくなったらあなたのそばに一体何人の人が残るかしらね」
絵礼はルドルフの今の取り巻きを見渡した。
「よくぞおっしゃったエレ様」
ケイチがうなずいた。
「ふん。…おいシンドレッド、贅沢じゃなくなったお前のそばには頭の固いやつらだけ残っているみたいだな」
ルドルフがそう言うと、シンドレッドはどうでも良いように肩をすくめてみせた。
「私は今の方が贅沢をしてるんだがな」
「シンドレッド様…」
ケイチが情けない声を出した。
「私はここで話すことなど何もない。先に帰るぞ」
シンドレッドはさっさときびすを返した。
ルドルフは酔いが覚めたような顔になって言った。
「しかし…シンドレッドのやつはどうかしたのか?あんな風になるなんてよっぽどの事でもあったんだろう?」
「麻也ー私の妹の事を凄く気に入っておられたのだけれど、事故で行方不明になってしまって、それがよほどショックだったのでしょうね」
絵礼はため息混じりに言った。
ルドルフは、はた、と思い当たった。多分、宮殿へ来る途中で出会った娘だ。しかしそれは今は黙っているにこしたことはないだろう。
「お前たちはどこから来たんだ?この国は大きな湖と砂漠と山岳地帯に阻まれて外の世界との交流はほとんどないんだぞ。それがある日突然現れて宮殿に滞在していたなんておかしすぎる。…実は魔女かなにかか?」
『魔女』という言葉に、ケイチと絵礼はぴくり、と反応した。
「私はシンドレッド様のご様子を…」
ケイチはそそくさと宮殿から立ち去った。
残った絵礼は迷いながらもデルムントの話や、元の世界の話をかいつまんで説明した。
「ふうんそうか。不思議な話だな。…で、いつかその世界へ妹と戻る予定なんだな」
ルドルフは姿勢を崩してのんびり寝そべり、酒をかっくらった。ケイチが見たら血相を変えただろう。威厳も何もない。
「だったら何もシンドレッドばかりに入れ込まずに俺の方に来たらどうだ?暮らしは今の俺と一緒の方がずっと良いだろう?」
ルドルフの言葉に絵礼は肩をすくめた。
「ケイチほどではないけれど、私も王の器におさまるのはあなたよりシンドレッドの方のような気がしてきたわ」
「何?」
「今のあなたの態度を見ていると一目瞭然ですもの」
そう言われてルドルフは怒ると思いきや、ふっ、と笑った。
「そうか、お前ーエレもそう思うのか。実は俺自身もわかっているんだがなぁ…」
「なんだ、それじゃあ早くシンドレッドに王位を返せば良いのに」
「ちょっと今はひっこみがつかんのでな。いろいろと。あいつが立場を取り返す気になってくれないと、どうしようもあるまい?」
ルドルフはふん、と酒臭い息をついた。
絵礼はあきれた。
「私も帰ります」
「そうか。…まあ、お前もいつかいなくなるのなら、ちょっとは寂しいかもな」
「どういう意味ですか全く」
絵礼はぶつぶつつぶやきながら帰っていった。
残ったルドルフは取り巻きたちのざわめきの中で酒をあおって物思いにふけった。
☆
普段のシンドレッドの言動から、シンドレッドが絵礼のことを『世話を焼いてくれる保護者』的に見ていることはわかっていたが、絵礼の方はどうしてもシンドレッドのそばにいると、思慕を抱いてしまうのだった。
絵礼の力の及ばないことがあると、すかさずシンドレッドが問題解決してしまう。元の世界で自分がしっかりしないといけないと思い続けた生活をしていた絵礼にとって今の状況は安心感でいっぱいだった。
なんだかだんだん、こちらの世界の、シンドレッドのそばにいる今の状態が一番幸せな気がしてくる。絵礼は自分で自分の変化が信じられない気分だった。
そんな絵礼を離れた所からデルムントが観察していた。
デルムントは、まさか絵礼がシンドレッドに夢中になるとは思ってもみなかった。単に妹と引き離せば心の『ゆらぎ』が現れるだろうと思って麻也にしばらく姿を消すように頼んだのだが…。
しかし別の形で心の『ゆらぎ』が出てくる条件がそろいつつあった。
これで麻也が戻れば最高の『ゆらぎ』が手に入ることだろう…。
「結果オーライだ」
とデルムントは思った。
☆
シンドレッドはのほほんと毎日を過ごしていた。
「何か困った出来事が起きても、誰かが助けてくれたり、なにかしらきりぬけるチャンスはあるものだな。私は民を束ねることが仕事だと教わってきたけれど、こういう『ふれあい』もあったのか…」
そんな事を思いながら、シンドレッドは近くにいる絵礼をじいーっとみつめることが度々あった。
絵礼の方は、みつめられる度にぼおっとなってしまう。いけないいけないと思いながらシンドレッドに惹かれていくのだった。
「ケイチの加勢に行かなくちゃ」
絵礼は宮殿に何度も足を運び、ルドルフに意見した。ルドルフの方は絵礼をかしましいと思っていた。
「いつか帰ると言っていたが、だが果たしてそのデルムントというやつの能力は確かなのか?よしんば姉妹が元の世界に戻れたとしても、時間の流れがこちらと違うかもしれないんだぞ。本当に大丈夫なのか?」
とルドルフは首をかしげた。
「まぁ、俺には直接関係はないんだがな…」
☆
「…私の世界にあったビーズっていうのは、例えば色のついた細いガラス管を切って、穴の開いた粒にしたものなの。形も色も様々で、大きさも色々あって、それだけを集めて糸やゴムを通してアクセサリーにしたり、布地に縫い付けて刺繍を施してきらきら輝く服を作ったりするの」
麻也の知識はハノウ山でもてはやされた。
「貝殻や骨、石、木でも造れるわね。さあ、忙しくなるわよ」
クレアは俄然はりきった。
麻也は細かい作業手順を教えたり、逆にハノウ山特有の知識を得たりして大満足だった。「そうね。そろそろ私、このくらいで帰ろうかな」
ある日麻也はそう言うと、ハノウ山の皆に別れを告げて、町へ下りて行った。
☆
何度かケイチと絵礼にひっぱられてシンドレッドは王宮へ出向いた。
「おい、お前、本当にあのシンドレッドなのか?別人みたいだぞ。大丈夫か?」
とルドルフが思わず問いただした。
シンドレッドはどうでもよさそうにのほほんとして、
「まだ帰れないのか?私はこやつとかけあい漫才をする気はないぞ」
と言った。
「何を言われるのです。このルドルフなどに王位がつとまらないことはこの頃の民の不満のつのりと訴えで明白なのですぞ。シンドレッド様、今こそお力を示されてください」
「具体的に何の訴えがあったんだ?」
「干ばつで農業がうまくいっていません。湖の水を引く事業が滞っています。他にも…」
「………」
シンドレッドは無言で窓の外を見やった。
絵礼はシンドレッドのために即興の詩をうたった。
「…白亜の宮殿
長い回廊に続く
赤い絨毯の上に
陽光と
色鮮やかな花びらの群れが
降り注ぐ
まるで未来を祝福するかのように
あなたは前へ歩いて行く
明るい日差しの中
沢山の人たちに囲まれて
それは
長い道程のほんの刹那の物語…」
「さあ、シンドレッド様。我が王」
ケイチがシンドレッドの背中を押した。
「ふん。王位なぞ、くそくらえだ。俺は大勢の人間にちやほやされなきゃ駄目なんだ」
とルドルフがやけくそで言った。玉座に座っていた間にかなり厳しい現実を思い知らされたらしかった。
「とっととハノウ山に帰るぞ」
仲間に呼びかけた。彼らも異議は無いようだった。
「王なんて仕事は寂しいものだな。お前がマヤとかいう娘に入れ込んでいた気持ちもわからなくはないぞ」
「私は集団で群れるのは性に合わないんでな。即位してからなんとかもってはいたんだがな…。また続けられるかは正直自信がないぞ」
シンドレッドは徐々に以前の威厳を取り戻しつつ言った。
「そこにいるエレとかいう娘もいつかいなくなるんだろう?いる時はいる時でうるさくてかなわんが、いつかいなくなるのかと思うと寂しい気がするのはなぜなんだろうな?」
とルドルフはぶつぶつ言った。
「寂しがりやめ。寂しいからハノウ山へ帰るのか?」
とシンドレッドはそっと笑った。ルドルフも笑った。
二人は立ち上がり、前へ進み、そのまますれちがうと立場を入れ替わった。
☆
「ただいまー。みんな元気だった?」
両手を振って麻也が宮殿に帰ってきた。
「麻也…」
絵礼は全身の力が抜けてしまう気がした。
妹が無事だった安心感と、そして交錯する奇妙な感情。
「マヤ。マヤ!本当にあなたなのか?」
シンドレッド王は走り寄ると、麻也の両手をにぎり、喜びにうちふるえた。
「ええ。正真正銘、まじりっけなしの麻也でぇす」
麻也はハノウ山で得た知識をもとになにか新しいことを始めたいという話をした。
シンドレッド王は麻也の目を一心にみつめながら話に耳を傾けた。
「この気持ちは…何?」
麻也たちから少し離れて突っ立ったまま、絵礼は身動きできずにいた。
確かに麻也が戻ってきたのは嬉しいのだ。だが相反する気持ちが彼女の心にわきあがってくる。
たった今まで絵礼のことを見て、絵礼の話を聞いていたシンドレッド王が、今、どうしている?
絵礼は文字通り凍りついてしまった。
ぽん。
絵礼の肩の上に誰かが手を置いた。
のろのろと振り向くと、デルムントが相変わらずの皮肉っぽい笑みを浮かべて立っていた。「元の世界へ帰るきっかけの『ゆらぎ』がもうすぐ現れるんだが、まだ帰る気はあるかい?」
「帰る…?元の世界へ…?」
「そう。ご両親や友達や、いろんなものが待っている元の世界へ」
絵礼はうなだれて、そしてこっくりうなずいた。
「ああ、でも、それなら麻也も一緒に連れて帰らなきゃ。…麻也も帰る?…そうしたらシンドレッドはどうするかしら?私たちがいなくなった後、どうなるかしら?麻也がいなくなったらシンドレッドはまた私を必要としてくれるかしら?…こんなこと考えちゃ駄目だ…」
ぐらぐらぐらぐら。
絵礼の心は大きく揺れ動いた。
「そうそうその調子だ。絵礼の心の『ゆらぎ』が最高潮に達したら時空の『ずれ』が発生する。そのエネルギーで、やっと約束通り彼女たちを元の世界へ戻してやることができるぞ」
デルムントはじっと絵礼をみつめた。
「…シンドレッドが私をまた必要としてくれるのならば、私はここに残りたい!本当に何もかもそのために無くしたってかまわないとさえ思える。…この気持ちは何?何なの?…でも、私がここに残ったら、麻也も帰れないかもしれない。…そうしたらまたシンドレッドは麻也だけを見て私なんて必要なくなる」
出口のない迷路のような試行錯誤。ひきさかれそうな二律背反。
帰りたい。帰りたくない。
麻也をみつめるシンドレッド。絵礼をみつめるシンドレッド。
デルムントは絵礼の感情の波のある一瞬を待ち構えていた。
『今だ!』
デルムントはそう叫び、…そして。
次の瞬間、デルムントは驚愕の表情を浮かべた。
「これは…なんだ?」
今までこんなことは一度もなかった。予測した『ゆらぎ』はいつもデルムントのものになったのに、なぜだろう、この時に限ってデルムントは『ゆらぎ』をつかみそこねた。
絵礼の心の『ゆらぎ』は確かに出現したのに、発生すると同時に消滅してしまったのだった。
「…どうしたんだ?あんた、元の世界に帰るつもりだったんじゃないのか?」
すると、悩みうつむいていた絵礼の表情に変化があった。
瞳に光が宿る。
「私…」
きらきらきら…。
この時、デルムントは信じられない思いだった。絵礼の瞳は本当に音をたてそうな程きらめいていた。
「私、思ったの。この先麻也がシンドレッドと一緒にいて、彼が二度と私の方をみてくれなくなったってかまわない。もう一度見てみたいものがここにはある。だから帰れない。帰らない。私はこの世界に残る」
「なにぃ?」
デルムントはぽかんと口を開けて絵礼を見た。
予想外の展開。未知の事態。
彼自身、自分の数奇な境遇に戸惑いこそすれ、こんな場合にどうすればいいのやら途方に暮れた。
「ごめんなさいデルムント。あなたの親切は忘れないわ。本当にありがとう」
「いや、あの、待て。あんたの気が変わった理由!それを聞かせてくれ。もう一度見てみたいもの、ってなんなんだ?」
「赤い絨毯と花びら」
「???」
絵礼は夢見るまなざしになった。
「もう一度見てみたいの。太陽の日差しを受けて人々に祝福されながら長い回廊を歩く王の姿。今の王でも、それこそその子孫の姿でも構わないわ。王の足元を導く赤い絨毯。頭上に降り注ぐ花びらたち。あの夢のように美しい現実を。だから私、ここに残りたいの」
にっこり。
最高の微笑みを残して絵礼はデルムントの前から立ち去った。
なんという誤算だろう?
デルムントはやがて、大事な帽子を地面に投げつけ、頭をかきむしり、その場にしゃがみこんだ。
「…だめだ、こりゃ」
☆終わり☆
漫画家の竹本泉さんの作品で、「さよりなパラレル」というのがあって、それに美人双子姉妹盗賊のイリリエレレとマヤヤメルルが出てくるんですが、入江姉妹の名前はそれから考えました。シンドレッドのテーマ曲はda pumpのnext exit収録のwhite moon lullabyです。大学卒業後にSF研究会の会誌に連載させて頂いたものです。