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赤い絨毯と花びら2

       ☆


 宮殿から北に離れた位置にあるハノウ山は手工芸の産業で有名な地域だ。常に新しい技術を取り入れ、才能のある若者を育成している。


 そんな中の一人の若者、ルドルフに焦点を当てよう。


ルドルフは両親や兄弟の顔を知らない。物心ついた頃にはハノウ山の他の子どもたちと一緒に野山を駈け回っていた。


ハノウ山の大人たちは交代で仕事と家事と育児を分担作業していた。ハノウ山は血族ではないものの大家族なのだ。


しかしそんな中で育ったゆえか、幼い頃のルドルフは人に甘えるのが怖くて、いつも他の子どもが大人に甘えるのをちょっと離れた所から指をくわえて見ているほうだった。


いつも寂しい気持ちをおしこめて、同年代や年下の面倒を見てやっていた。自分を律することに重きを置くのが彼の信条だった。


成長してからは、交易の仕事を率先してやるようになり、宮殿にもちょくちょく顔を出すようになった。


ハノウ山の手工芸品はちょっとした贅沢品であったので、町では食糧、宮殿では金品と交換ができた。運んでいったものは瞬く間に売り切れてしまう。人手があればかなりのもうけになるはずだったが、いかんせん山道の険しさで体力のある若者でないと運ぶのに無理があった。


ルドルフは若い衆を率先して仕事に励む毎日だった。


 前国王が亡くなってその息子のシンドレッドが即位した経緯もルドルフは知っていた。


ルドルフと同年代のその若い王は、人を惹きつける力があり、常に誰からも慕われていた。


ルドルフは一度、新王の即位式の祝賀の儀に立ち会ったことがあったが、その時、生まれて初めて他人をうらやましいと思ったのだった。


新王はきらきら光る太陽の光を受けて歩き、手を振れば、人々が祝福の花びらを惜しげもなく投げかける。


花は雨のようにはらはらと王の頭上に降り注ぎ、とてもきれいだった。


新王シンドレッドには、乳母の息子のケイチという側近がいつもつき従っていて、何やかやと主の世話をやいていた。王が何も言わずともその意を察して何でもやってくれる従者だった。


「俺がもし、新王シンドレッドになり替わって王座についたならどうだろう?あれらが全部俺の物になるのか?ただ生まれが違うだけでこの差はなんなんだ」


とルドルフは思った。


「俺があの地位についたなら、もっと楽しい生活を送るだろうに」


そうして、王に幾度か謁見したおりにそんなことを言ってみた。しかしシンドレッド王は時間の許す限りルドルフの話に耳を傾けて、結局、時間がくればルドルフはハノウ山へ帰るしかないのだった。


 山壁に吹きつける強風の中、荷物を積んだロバのような動物をつれて仲間たちと険しい山道を歩きながら、ルドルフは自分が王になることをいつも想像してみるのだった。


そうして楽しげに笑うと、黒いマントを風よけにはおり直すのだった。


       ☆


「何度来ても、お前が王位につくのは無理だと思うぞ」


とシンドレッド王は言った。


ルドルフはくやしそうに、いつか王のすました顔を踏んづけてやる、とじだんだを踏んだ。


ルドルフが帰ると、王は入れ替わりに来た麻也にルドルフのことを話した。


「あの男はいろんなものを欲しがって、努力して何でも手にいれてきた。しかし『満足』というものを知らなくてな…。いつも何かを欲しがっている」


「まぁ。なんだか誰かさんに似てるかもしれない。自分も含めて」


麻也は正直そう思った。


「…私だって誰かに王位を譲って他にやってみたいことも沢山あるのだよ。だが、ルドルフはなぁ…。きっと長続きしないだろう。確かに人をまとめるのには長けているが、そのうち元の仲間との生活を懐かしがって政治なんかそっちのけになるのがおちだ。この仕事は孤独だからね。だが、あいつが時々ああやって会いに来るのは気分転換になって私は嬉しいんだ」


「そうなの…」


麻也は以前、シンドレッド王のことを『子どもみたいな人だ』と姉の絵礼に言ったけれど、実は悟りきった大人の一面も持ち合わせているのだな、とこの時思った。


「マヤ。あなたのような若くてきれいな女性がいてくれて、私はとても幸せな気持ちなんだよ」


「私…いつかは姉と元の世界ホームワールドに帰っちゃうわよ」


「そうかい?それはとても残念だ。…しかしここに滞在する間はなるべく私とこうやって話をしていてくれるかい?あなたの顔や姿を見て、その声を聞いていると、なんだか夢心地になれる…」


王はなんともいえない表情でため息をついた。


「ええわかったわ。…『なるべく』ね」


麻也はちょっとお茶をにごした。


「私は自分の性格にコンプレックスを感じているけれど、他の人にもそれぞれ悩みがあるのよね…。でも何から何まで相手の言うことを聞いてあげることはできないし、私にはとても無理なことだわ。これまでいつもお姉ちゃんが一緒にいてくれたから何も考えなくてもなんとかなってきたけれど、いつか独りになったらその時ちゃんと一人でやれるかしら?」


麻也は長いまつ毛をふせて思った。


そのうれいをたたえた姿に王は見とれた。


「ルドルフも欲しい物が手に入る時はこんな風にうっとりするものだろうか?しかし、どんな欲も満たされた後の満足が長続きしないのは幸か不幸か…」


と王は思った。


「王様、マヤ様。お食事の支度がととのいました」


王の第一の側近ケイチが二人を呼びに来た。


「では食事の間へまいろうか…」


「ええ」


二人はそっと手をつないで歩いて行った。


       ☆


「元の世界ホームワールドへはいつ帰れるの?」


絵礼がいらいらしながらデルムントを問いただした。


この世界に来てから半月程が過ぎようとしていた。


「『ゆらぎ』が現われた時に」


「だからそれっていつになったら現われるの?」


絵礼は半分泣き出しそうな声で聞いた。


「時が来れば自然に帰れるよ。それはエレが落ち着いてこちらの世界に慣れ始めた頃かもしれない。俺が心配なのは、その時にエレがもう元の世界ホームワールドへ帰らないと言い出すことの方だ」


デルムントは思ったまま正直に言った。


「そんなことありえないわ!」


絵礼はそう叫んで、きっとデルムントは口からでまかせを言っているのだろうと思った。絵礼は知らなかったが、絵礼の感情の起伏はデルムントには手にとるようにわかっているのだった。


デルムントは前の世界でバイオリニストのホルスト・シュテンプケと会っていた時もホルストの生み出す『ゆらぎ』に魅かれていた。


彼は誠心誠意を尽くしてホルストの活躍に精神的な面で貢献していた。


せっかく友人が出来ても、年をとらない彼はいつか異次元の別の世界へ移動しなければ、異端者としてはぐれてしまう。


友人との別れはつらいものであると同時に新しい出会いのきっかけでもあるのだった。


 今回は『ゆらぎ』の元となる入江姉妹ごと跳んでしまったという異例の事態だ。デルムントは戸惑いつつも、


「いつもと同じ。大丈夫だ」


と自分に言い聞かせた。


「あのう、ちょっとお邪魔していいかしら?」


部屋の外で絵礼とデルムントのやりとりを聞いていた麻也がおずおずと声をかけた。


麻也にしてみると、自分がどうなるかわからない境遇にありながら他人を気遣えるデルムントを尊敬のまなざしで見ていた。


「邪魔なんかじゃないわ。麻也、どうしたの?ちょっと元気がないみたいね」


絵礼は自分は姉なのだから取り乱すのをやめて、妹の麻也のことを気にかけなくては、と気持ちをがらりと切り替えた。


その絵礼の心の変化の過程を知ったデルムントは、かなり感心していた。


「絵礼こそがやはり次の世界ネクストワールドへ移動するための『ゆらぎ』の発生源になる!」


デルムントは確信した。


「そして妹の麻也がその『ゆらぎ』に一役買うことだろう。この姉妹は…、なんてすばらしい存在なのだろうか」


とデルムントは思った。


ホルストと過ごした時もあんなすばらしい芸術家はいないと思っていたし、今でもそう思っている。


『ゆらぎ』の力を借りて時空を移動するのは、とても嬉しくて、同時に寂しいものだった。『一期一会』とでもいうのだろうか。人間は不思議な生物だ、とデルムントは思っている。 時空移動の始まりはいつだったかもう覚えていない。終わりもいつになることだろう?気がつけばこんなに遠くまで来てしまった。


 そんなデルムントの横顔を盗み見しながら、麻也は姉の絵礼にいつものように甘えてわがままを言ってみた。


絵礼はいつものように精一杯の事をしてくれた。自分の持っているものは分けてくれるし、期待した言葉を言ってほめてくれたり助言してくれたりする。


麻也はいつも姉の事を大好きだと思っているけれどうまく伝えられない。ただ甘えてみせるだけ。今日はなぜかそれがもどかしかった。


「麻也。いつか私といっしょにいられなくなったらどうするの?あんまり頼っては駄目よ」ちょっと疲れてよれよれの絵礼はいつになくそんなことを言った。


麻也はショックで、ちょっと言葉につまってしまったが、


「大丈夫よ。だってここの世界の王様みたいにおねだりすれば何でもしてくれる人だってちゃんと存在するんだから」


とけらけら笑ってみせた。


絵礼は妹の行く末を心配してため息をついた。


麻也の世話を焼いている間は他の不安を感じずにいることを絵礼本人は気づいていないようだった。


「それより、変わった果物を食べたのよ。とってもおいしかったから二人も食べてみなさいよ」


そう言って麻也は絵礼とデルムントを導いていった。


       ☆


「マヤ、ちょっとこちらへ来てくれないか…」


従者に呼ばれて王の間へ行ってみると、シンドレッド王がとてもやさしい笑みを浮かべて麻也を手招きした。


「この人も悪い人じゃないんだけど…。でも一生一緒にいるのはどうか、って思うくらいお人好しなのよね…」


と麻也は思った。


「まぁ、何かしら?」


いつも鏡を見て練習していた特に異性に効果的な笑顔を浮かべて、麻也は王の側へ歩いて行った。


「マヤ、あなたの美しさをひきたてるアクセサリーを創らせたんだ」


「えっ?」


まただわ、と絵礼は思った。


「どうして皆、私にいろんなものをくれるんだろう?私はお礼に返せるものを何も持っていないのに。…そしてたいていいつも人はプレゼントの代償に私の心を求めようとする。それは、とても嫌なことなのに…」


麻也のそのわずかな表情のかげりをシンドレッド王は見逃さなかった。


「お気に召さなかっただろうか…。私はあなたに何をしてほしい、とか無理を言うつもりはないんだ。ただ、似合うと思う物を差し上げて、それを喜んでくれたら、それ以上は求めまい」


「何て…親切な人かしら」


麻也はそっと微笑んだ。


「今つけていらっしゃる青いペンダントもきれいだが、こちらに用意したペンダントもつけてみて欲しい。アクセサリーなどの手工芸で有名なハノウ山のものなのだが…」


 ホルストのバイオリンコンサート以来肌身離さずつけていた姉のペンダントを麻也はそっと指でつまんで眺めた。


きらきら輝くスワロフスキーのガラス製の青い星。


元の世界ホームワールドでは二束三文だけれど、麻也にとっては宝物だった。


「私、このペンダントが一番気に入っているのよ」


「そうか…」


王は目に見えてがっくりと肩をおとした。


「ごめんなさいね。でも、私、そのハノウ山っていう所のお話はお聞きしたいわ」


「そう?…そうかい?」


王はちょっと嬉しそうに麻也を見た。


シンドレッド王の話によると、ハノウ山という地域には麻也にとって興味深い手工芸の技術をもった職人や工場があるらしかった。


「この世界にいつまでいられるかわからないけれど、ここで何か知識を学んでおけば、元の世界ホームワールドに戻った場合でも、この世界にとどまる場合でも、きっと役にたつと思うな」


と麻也は思った。


「いつか容色がおとろえて、誰も私に見向きもしなくなる日が来るだろう。でも何かこれという知識があれば、お姉ちゃんや誰か他の家族といっしょに生きていけるんだろうなぁ…」


麻也は漠然とした未来を予想した。


「この王様には悪いけれど、いつか近いうちにそのハノウ山という所へ行ってみよう。一人で行くって言ったらきっと止められるだろうから、何かのどさくさにまぎれて…ね」


と麻也はにっこり微笑んだ。


王はなぜ麻也の気嫌が良くなったのかわからないながらもその微笑みに魅了されてしまった。


       ☆


「あらデルムント。久しぶりね。…と、いうことはもう元の世界ホームワールドに帰れる目星がついた、ってことかしら?」


しばらくどこかへ姿を消していたデルムントと宮殿内で出くわした麻也が言った。


「いや、今日はちょっとあんたにお願いがあってきたんだ。内密に願いたいんだが…」


「良いわよ」


二人はついたての陰に入った。


麻也はまつげをひるがえして両目をぱちぱちやった。気に入った相手といる時の癖みたいなものだ。だが、デルムントはそれを見ても無反応だった。


「実は…」


ぼそぼそと耳打ちをする。


「そう、そうなの。わかったわ。私にしかできないのね。やってみるわ。ちょうど良い機会だし…」


「じゃあまた」


デルムントは簡潔に用件を伝えて了承をもらうとまたいずこへか立ち去った。


 「王様」


わりとめずらしいことに麻也は自分からシンドレッド王のそばへ行った。


「ああ、マヤ。どうされた?」


王は嬉しそうに微笑んだ。書類にサインをしていた手を止めて、麻也の方に向き直った。「あの私、宮殿内ばっかりで退屈になってしまって、気分転換に街に出てみたいの。今日は市が立つ日だと聞いたから…」


このおねだりに、王はちょっと思案顔になった。


しかし、他ならぬ麻也の頼みなのだ。王は王宮専属の馬車を用意させた。


「急な話なので、私は公務でご一緒できなくて残念だ」


シンドレッド王は、御者にくれぐれも気をつけるように念を押して見送った。


「あんまり妹を甘やかさないでください」


めずらしく絵礼が王に意見した。


「妹?…ではエレはマヤの姉だったのか?」


「今まで何だと思っていたんです?」


「いやその…」


シンドレッド王はさすがに口ごもってしまった。まさか召使いか何かだと思っていたとは言ってはいけないような気がしたのだ。


そういえば、大使だと思っていた男もいたがどうしただろう?あまり姿を見ない。


王は絵礼の顔をまじまじと見た。確かに麻也と目鼻立ちが似ている。だが、雰囲気が二人とも全く違っているのだった。


 そこへ、今しがた出かけたと思った御者がかけこんできた。


麻也から果物を買うよう頼まれてちょっと馬車から離れたすきに麻也が馬車ごとどこかへ失踪してしまった、というのだ。


おそらく街の子どもが馬をおどかしでもしたのだろう、一刻も早く知らせようと舞い戻って来たという。


麻也の安否を気づかって皆が心配したが、シンドレッド王の狼狽ぶりははたで見ていても凄かった。


絵礼はシンドレッド王のそんな様子を見て、胸に雷でも落ちたかのような衝撃を覚えた。 その日の夕方頃、捜索に出ていた使者が戻り、壊れた馬車をハノウ山方面の崖下で発見した旨を伝えた。馬だけが自分で厩舎に戻っていたが、麻也の姿だけはどこをどう捜してもみつからなかったそうだ。


       ☆


 ふいに王宮内が騒然とした。


「何事だ?騒がしいぞ」


ケイチが声をはりあげた。


「ふはははははっ」


聞き覚えのある笑い声がした。


黒マントをひるがえしたルドルフがハノウ山の仲間をひきつれて玉座の前へのりこんで来たのだ。


「なんだお前か。今、私は頭の痛い問題を抱え込んでいてお前につきあっている暇はない」シンドレッド王はしかめっ面で言った。めずらしく眉間にしわを寄せている。


「なんだ、とはごあいさつだな。…だが安心しろ。お前の頭痛も今日限りだ。なぜならこの王宮の主は今日から俺様だからだ!」


「なにを無茶苦茶言っている。そんなことが許されるわけないだろう!」


と、ケイチが怒った。


「…ああ、そうなのか」


と、シンドレッド王は真顔で言った。言ってからしばらく間があって、


「それじゃあ後は頼む。私はもう疲れた」


と言った。


「えっ?」


ルドルフはきょとんとしてその場に突っ立っている。彼の筋書きでは、力尽くで王位を乗っ取る予定だったのだ。


シンドレッドは玉座から立ち上がると、王冠をテーブルの上に置き、そのまま出入り口の方へまっすぐ歩いて行った。


「おい、あの、ちょっと…」


ルドルフはシンドレッドが姿を消すまでおたおたしていた。ルドルフの仲間たちも気勢を削がれたのか、お互い顔を見合すばかりだった。


「王様!シンドレッド様!」


ケイチが顔を青くしてシンドレッドの後を追った。


「ああ。私、麻也のことも心配だけど…、あの人…シンドレッドは大丈夫かしら?」


我に返った絵礼は、シンドレッドとケイチの後を追って王宮を飛び出した。


「ルドルフの輩なぞに王位は渡せません。シンドレッド様のことをお願いします。私は公務を怠らないために王宮へ戻らねばなりません。頼れるのはあなただけです」


追いついた絵礼にケイチは言った。頭を下げて一生懸命頼むケイチに、絵礼は心打たれた。「わ…わかりました」


承諾すると、ケイチはほっとした様子で戻って行った。


「きっとあの麻也のことだから、自分の意思でいなくなったのかもしれないわ」


と絵礼はなんとなく妹の無事を確信した。


さすがに今度ばかりはシンドレッドも麻也の性格を思い知ったのでは、と考えたがそうではなさそうだった。


目前のシンドレッドのただならない様子に絵礼は戸惑った。彼を一人きりで放っておくとどうするかわからなかった。


「構うな、一人にしろ」


絵礼の手を振り払っていらいらした様子で怒鳴った。


そうかと思うと、いきなり崖の方へ突進して深くて青い湖水に身を投げ出しそうになったり、髪をくしゃくしゃにかき乱したり、大声で笑いだしたり、ぼろぼろ涙を流して泣いたり、大変な有様だった。


絵礼はシンドレッドをなだめ続けた。


 やがて夕暮れが訪れた。


白くてきれいな砂の上にシンドレッドは黙って立っていた。


月が空にかかり、薄暗がりの中、シンドレッドは風をまといたたずんでいた。


彼はただじっと天をにらんでいた。


「風邪をひきます。うちに来てください」


みかねた近隣の者が絵礼とシンドレッドを家に招き入れた。


 明るく暖かな室内。そして簡素な食事。


シンドレッドは無言でそれらを受け取った。


「疲れたでしょう?そちらで休んで下さい」


家人に寝室を示されると、シンドレッドはのろのろと顔を上げた。


彼は隣にいた絵礼の服の裾を握ってひっぱった。


「どうしたんです?」


「…一人で眠るのが怖い。せめて私が眠りにつくまでそばにいて、何でもいいから気のまぎれる話をしてくれ」


「…はい」


絵礼はシンドレッドと一緒にあてがわれた寝室に行くと、床についた彼のそばに座った。シンドレッドは絵礼の服の裾をにぎったまま片時も手を離そうとしなかった。


「王宮内の生活しか知らなかった。どこかで他の者たちの生活をさげすんで、この目で見ておこうともしなかった」


「でも、ここの生活はこの生活で、考えようによってはとっても幸せなものなんですよ」


絵礼の言葉に、シンドレッドはちょっと考えてから、うん、とうなずいた。


「ケイチ…。あやつがいれば政治などの公務は滞りなくすすむ。私はしばらくこのような場所で頭を冷やしたい。エレ。お前は一緒にいてくれるか?」


シンドレッドはかつて幼い頃に乳母に甘えたような気分で絵礼に言った。


「そういえば、私の誕生日の祝賀の折、お前が歌い、マヤが踊った曲があったな。あれをまた聞いてみたい」


「ああ、あの曲ですね…」


絵礼は過日を振り返った。


ホルストの弾いていたバイオリン曲を思い出しながら即興で歌をつけて絵礼が歌い、それに合わせて麻也がやはり即興で踊ったのだ。


「…炎は揺れる弦を抱きしめる


  夜のダンスステップの上


  輝く月に抱かれた


  無邪気で小さな命の甘い眠り…


(タイスへの子守歌より)」


小さくやさしく口ずさむ絵礼。


「…マヤがいつのまにか私の心の中一杯になっていた。他には何もいらないとさえ今は思える。目を閉じればマヤの美しい顔が見えそうな気がする。今も手の届く所にいるような…」


シンドレッドの閉じたまぶたのすきまから輝く滴がこぼれおちた。絵礼はそっとぬぐってやった。


「私は間違っているのか?…この国を治めるのが仕事なのに、それを放り出して民たちを裏切ったのに、今、こうして親切にしてもらえるのはなぜなんだろう?」


「私や麻也があなたの前に現れる以前から、あなたは他の人たちに恐らく仕事とか義務とかいうもの以上の形で、人間として親切に接していたのではないかしら?だからきっと、それが今、返ってきているのだと思います」


絵礼は静かに言い聞かせた。


「歌の続きを…」


「ええ。


 …そして 天使は弓のリズムに揺らめく


  目覚めのメロディの波の下


  彼女は妖精に抱きしめられ


  眠りのプロムナードを散歩する…


(タイスへの子守歌より)」


いつのまにかシンドレッドは眠りについていた。


絵礼は、


「千夜一夜物語のシエラザードは、本当に殺されたくない一心だけで王に毎晩物語を語って聞かせていたのかしら?」


と思った。


壁の燭台の炎がゆらめき、寝室の光と影がそっと揺れ動いた。


絵礼はシンドレッドの顔を不確かに照らすわずかな光でその存在を感じた。


閉じた二重まぶた。くたびれた服。くしゃくしゃの髪。黒い立派なひげ…。


そんなものを絵礼は飽きもせずみつめていた。


「そして王は、なぜ物語を聞きたがっていたんだろう?」


それは永遠の謎のようなものでもあり、刹那的には理解できる真実のようでもあった。


「服の裾を離してくれないから、動けないわ」


絵礼は困りつつも、少し嬉しかった。シンドレッドにぽんやりみとれたまま夜は更けていった。








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