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赤い絨毯と花びら
(デルムントのパラレルワールド)
星野☆明美
入江絵礼と麻也は近所でも評判の美人姉妹だ。
姉の絵礼は十八歳高校三年生。眉目秀麗な生徒会書記。理知的な風貌だ。
妹の麻也は十六歳高校一年生。容姿端麗で、ミスN高と謳われて、男子生徒の秋波を一身に受けている。
この入江姉妹が巻き込まれた(?)事件の顛末を書き記そうと思う。
☆
「麻也、マヤーっ」
二階の勉強部屋から姉の呼び声が聞こえた。
麻也は一階リビングのソファでクッションを抱きしめてテレビを見ながらくつろいでいたが、ちらりと二階の方を一瞥して、すぐに何事もなかったかのようにテレビに目を向けた。
とたとたとたとた。
勢い良くステップを踏んで姉の絵礼が階下に下りてきた。
学校から帰宅してすぐだったので、有名進学校の紺のブレザー姿のままだった。
「なぁに、お姉ちゃん」
麻也はテレビから振り向きもせずに言った。
「麻也。私の宝石箱に入っていた青いペンダント、知らない?」
麻也はやっと振り向いた。そうして両目をぱちぱちやった。
長いまつげがきれいにひらめく。たいていの男の子はこれをやるといちころなのだが、同性の実の姉にはききめはないようだった。
「これのことかしら?」
麻也が自分の襟元からひょいとつまみあげたのは、確かに絵礼が探していたアクセサリーだった。
繊細な銀色のくさりの先に青い大きなスワロフスキー製のペンダントトップがきらきら輝いている。
「そう。それよ。また勝手に私のものを持ち出して…」
絵礼は眉をひそめてそっとため息をついた。
「ごめんなさい。前からどうしてもつけてみたかったの。今日はお姉ちゃんが帰ってきたらちゃんと貸してね、って言うつもりだったんだけど、帰りが遅くて、つい待ちきれなかったのよ」
麻也は悪びれずににっこり笑って言った。
いつもこんな風に悪意がないので始末が悪い。
絵礼はその場にくったりとしゃがみこんだ。
「…。そうそう、そういえば」
麻也は絵礼の気持ちを知ってか知らずか、のほほんと言った。
両手をひらひら振ってみせて、服のポケットから何かの紙切れを二枚取り出した。
「今度来日する、なんとかいう名前のバイオリニストのコンサートのチケットが二枚あるんだけど、一緒に行かない?」
「えっ?」
絵礼は何か信じられないものを見たかのように両目を見開くと、途端に顔を輝かせた。
「ホルスト・シュテンプケのチケット?本当に本物?」
麻也はうなずいてチケットを絵礼に見せた。
「麻也ねぇ、すっごく苦労してこのチケットを手に入れたのよ。お姉ちゃんが、好きって言ってたから。嬉しい?」
「嬉しいもなにも…」
絵礼は喜びすぎて言葉につまってしまった。
手にしたチケットを至近距離からまじまじとみつめる。
ホルスト・シュテンプケというのは、今世紀最大のバイオリニストの異名をとる、若き名手だ。つい最近、彗星のように現われて話題騒然となった。なによりもその神秘的な外見と奮える程の奏でる音で人々の心をとりこにしてしまった。
絵礼は、テレビのニュースで紹介されたほんの数分間の映像でホルストに夢中になってしまったのだ。
「私にはその人のどこが良いのかよくわからないんだけどね…」
と、麻也は肩をすくめた。
「マヤっ!ありがとう、大好きっ」
絵礼はソファに座っている麻也を後ろから抱きすくめた。ペンダントがかすかな音をたてたけれど、もう絵礼の関心はそこにはなかった。いつもこんな感じで争いの火種はうやむやになってしまう。麻也の手回しの良さは絵礼にもわかってはいるのだが、ついつい麻也のペースにひきこまれてしまう。
「麻也ねぇ、そのコンサートに行く時、お姉ちゃんの持ってるエンジ色のワンピースを着て行きたいなぁ」
麻也はいつものおねだりモードに変わって言った。
このエンジ色のワンピースというのも、おしゃれにあまり関心のない絵礼がめずらしく親にねだって説得までして買ってもらったお気に入りの服だった。絵礼本人もほとんど袖を通したことのない、大事なよそいきの服だ。
「んー、そうねぇ」
さすがの絵礼もちょっと考えこんだ。
でも、せっかく妹が手をつくしてチケットを準備してくれたのだ。自分は他に持っている黒の外出着を着て、ワンポイントにブローチでアクセントをつければ少しは見栄えがするだろう。それでいいか。と絵礼は思った。
「いいわよ」
「やったぁ」
麻也はクッションを放りあげた。
絵礼はチケットを両手で大事そうに胸の前にしっかり握りしめた。
服なんかよりも、ホルスト様!だ。
絵礼の記憶の中のホルストは、きらめく銀髪と少しかげりのある整った横顔だ。その青年の瞳は冬の日の空のような色をしていた。
ホルストの演奏を初めて聞いた時、絵礼はぞくっとした。彼のバイオリンの音色は聞く者の胸をかき乱す。
ある一種の魔力がホルスト・シュテンプケにはあるのだった。
ぽやっ、となってしまった絵礼を麻也はしばらく観察していた。
はっきりいって麻也は男の子にもてる。もてるが故にいろいろごたごた続きで、男はもう勘弁!とさえ思っている。だから、直に会ったこともないような相手に入れ込んでしまう姉が不思議に思えたのだ。
ただでさえ大事な服やアクセサリーをすんなりゆずってくれる所も理解しがたかった。
でも、自分にとっては大切な姉だ。実際、チケットを入手するために嫌な目にもあったが、その甲斐があった。
姉妹はいつもこんな感じで過ごしていた。
☆
コンコンッ。
コンサート会場の控室のドアがノックされた。
鏡の前に座って、まるで祈るように両手を額の前でにぎりしめていたホルストは、はじかれたかのように立ち上がると、ドアを開けた。
「デルムント!来てくれたのか」
「ああ」
デルムントはちょっと皮肉めいた笑みを口元に浮かべて答えた。
白いシルクハットに白い燕尾服。あちこちに小さな石を縫い取りしてあって、光の加減できらきら光る。このある意味奇抜な格好で彼はうろついているのだが、不思議なことに、誰も彼に気をとめない。例えるならばホルストだけに見える透明人間のような存在だった。
デルムントは片手をぴっ、とあげてあいさつに代えると、帽子をとった。それは彼流の敬意の示し方だった。
「今日の演奏を君が観客席で聞いていてくれるのならば、成功間違いなしだ。精魂こめてがんばるよ」
と言って、ホルストは本当に嬉しそうにこの友人の手をとった。
ホルストは無名の時代にデルムントと出会い、それがきっかけのように有名な演奏家としての道を歩み始めた。デルムントはともすれば落ち込み、嘆き悲しむホルストを幾度となく力づけ、勇気づけてくれる存在だった。
ホルストにとって今の自分があるのは、このデルムントのおかげなのだった。
ホルストと会話を楽しむデルムントは、帽子をもて遊びつつ終始笑顔だった。
年齢不詳の外見、つかみどころのない性格。
唯一自信をもっていえることはお互いに好意を持っていて、信頼しあえる間柄だということだった。
「実は、しばらく旅行に出ることになってね、今回の演奏だけは聞き逃さないで行こうと思って今日は来たんだよ」
デルムントは透明なものを見る時のような目つきになった。
「そうか…。まあ、今日は時間の許す限り、ゆっくり聞いていってくれたまえ。君がいつだったかリクエストしていた曲も今夜は演奏する予定だから」
「ああ」
実はそれを聞くために今夜を心待ちにしていたとはデルムントは言わなかった。
「君のために精一杯がんばるよ」
熱心な目でみつめられて、デルムントは内心、これじゃ、どっちがコンサートの主役なんだか立場があやふやだぞ、と苦笑した。
「あんたなら絶対大丈夫だ」
と、いつものように元気づけると、ホルストは俄然やる気を出したようだった。
時は満ちた。デルムントは目を細めた。
デルムント自身、ホルストのバイオリンの音に拠るところがあるのだ。
百年に一人いるかいないか、と謳われる天才の紡ぎ出す音!その音色のまさに奇跡とも思える瞬間、とある『ゆらぎ』が発生する。それがデルムントの目的だった。
開演五分前のアナウンスが流れた。
「そろそろ出番だな。じゃあ俺は観客席に行こう。がんばれよ」
「ああ」
デルムントはホルストにいつもと変わりない態度で話しながら、内心では別れの言葉をつぶやいているのだった。
控室から廊下へ出ると、間接照明の薄暗さで目がしばらく慣れなかった。
音響のために配慮された廊下は、特殊な素材の床と壁だ。
デルムントはのほほんと歩いて行き、何気なく曲がり角まで進むと、果たしてあちら側から歩いてきた二人連れとぶつかってしまった。
「きゃっ」
「おっと失礼」
ちょっと注意力が足りなかった。足音を吸収してしまう廊下ではしかたがなかった。
なるべく人と接触しない方針の彼は相手にあまり印象を与えなければ良いが、と危惧した。相手は若い女の二人づれだった。
赤と黒。
そのまま通り過ぎようとしたデルムントは、ふと、『何かの感覚』を感じて振り向いた。「いや…、思い違いだろう。一つの世界に『ゆらぎ』は一つだから…」
デルムントは思い直して歩いて行った。
☆
トイレから戻って観客席に座ると、もらったパンフレットのホルストの写真にみとれたまま、絵礼はぽやっとなってしまった。
何を話しかけてもうわのそらの姉をまじまじとみつめた麻也は、気をとりなおして、他の観客の観察を始めた。
服装やなにやかやを眺めて心の中で色々と批評するのだ。
「あの中年のカップルはとても上品そうだわ。物腰が洗練されているし…。あっちの女の人の着ているマリンブルーのドレスはきれい。モスグリーンのスーツの人もいいな。…あら?」
麻也は先刻、廊下でぶつかった謎の外国人を見た。
どうしてもその男に視線が釘付けになってしまう。どこがどう、とははっきり断言できないのだが、違和感がした。
「服装…?いいえ、それも確かに変だけど、もっとなにかこう、全体的に異彩を放っているというかなんというか…、って近づいて来るし」
麻也が見ているのを知ってか知らずか、その男は自分のチケットの番号の席を探してどんどん入江姉妹の方へやってきた。
「13-B」
探し当てた席はよりにもよって麻也の隣だった。デルムントと麻也は視線をかち合わせた。
「失礼。ここに座ってもいいかな?」
麻也が予想していたよりは流暢な日本語だった。麻也は目をしばたいて、こくこくとうなずいた。
「こ…こほん」
麻也は軽くせきばらいして、デルムントとは逆隣りの姉にちらりと目を向けた。
絵礼は全く気づいていない。
やがて開演のベルが鳴った。ゆっくりとホールの照明がおとされ、舞台のどんちょうがおごそかに上がっていった。
舞台中央にスポットライトをあびて、一人たたずむ人影があった。
静けさの中、音が流れ始めた。
高く、低く。うねりながら速く、遅く。たゆたう旋律。
稀代のバイオリニスト、ホルスト・シュテンプケは、今、全身全霊をこめて演奏を開始した。
彼の五感の全てが弓と弦に集中している。
見守る観衆もこの場にいないのではと疑いたくなるほど静まり返って音楽に耳を傾けていた。
この時間と空間は、バイオリンの音が支配している。
絵礼はホルストにうっとりと見入っていた。
隣の麻也は不謹慎にもホルストのバイオリンの品定めなどしつつ、曲に聞き入っていた。
その隣のデルムントは時が満ちるのを待っていた。
何曲か演目がすすみ、ついにデルムントのリクエストしていた曲が始まった。その曲は演奏するのにとても困難な曲として定評があったが、ホルストは危なげなく弾きこなしていった。
観衆の誰もが様々な思いを抱きながらその曲にひたりきっていた。
やがて音楽はクライマックスを迎えた。
曲は、とある一瞬の『ゆらぎ』に集束した。
『これだ!これを待っていた!』
声にならない叫びをあげながらデルムントは立ち上がった。
「えっ!?」
麻也がゆらめくデルムントの姿に驚いて声をあげた。
「な、何?」
つられて絵礼が麻也とデルムントを凝視した。
ぐにゃり。
入江姉妹はデルムントを見て、そしてそれから自分達三人がコンサート会場どころか、通常の常識の範囲内にあてはまらない『どこか別の空間』に存在しているのに気づいた。
上下左右が奇妙にねじれて、お互いの位置関係を把握するのが困難だった。
「…しまった!」
デルムントは青ざめた。
大混乱している入江姉妹にデルムントはすまなそうに声をかけた。
「巻き込むつもりはなかったんだ…。俺は『平行世界を行き来する者』だ。時空を移動してさまよっている。ただし自分の力だけじゃ時空を移動することは出来ない。だから今回の移動はホルストの音楽の『ゆらぎ』のエネルギーを借りて俺一人が移動するはずだったんだが…。普通、俺は他人から意識されにくい存在で、これまで一度も他人を移動に巻き込んだことはないんだ」
これを聞いて、麻也の方は、おそらく自分がデルムントを意識していたせいだろうな、と思ったが、それは口に出さなかった。
「とりあえず、元の世界へあんた達を戻す方法がみつかるまで、俺の移動先にいっしょに来てもらうしかない。…あきらめてくれ」
「あきらめる?」
その言葉で絵礼がはじめて我に返った。きまじめで努力家な絵礼は『あきらめる』とか『しかたがない』とか『だめ』とか、そういう類の言葉が大嫌いなのだ。
「無責任よ!なんとかしなさい!」
絵礼はデルムントにぴしゃりと言った。そうして矢継ぎ早に理屈を並べて説教を始めた。
これにはさすがのデルムントも面食らって閉口するしかなかった。
麻也は目をまんまるに見開いて、姉と謎の男のやりとりを見ていた。そうして、
「おもしろいわ」
と言った。
ぐにゃり。
次の瞬間、どこかの世界の見知らぬ湖のほとりに三人は立っていた。
「でしょう、だからそれで……、あ、あら?」
絵礼がやっと口をつぐんだ。
開放されてデルムントはほっとした。
「ここどこ?」
麻也が目をきらめかせて尋ねた。
「んー、前に来た時のイメージだと、あんたらの世界の知識で一番近いものに例えれば、何世紀か前のインド…のような、そうじゃないような…」
デルムントは首をひねりながらぶつぶつ言った。
「なんていいかげんなの!」
と絵礼が言った。
「まぁ、できるだけ早くあんたらを元の世界に戻してやれるように誠意を尽くすから、それまでここでがんばってくれ」
「そんなあてどない…」
絵礼はふるふる震えながら目に涙を浮かべた。
「絶対、大丈夫だよ」
デルムントは笑って言った。
そのへらへらした態度に絵礼はへなへなと座りこみ、一方、麻也は好感を覚えたようだった。
「素敵!私、一度はどこでもいいから知らない場所を旅行してみたいなぁって前から思っていたのよね」
と麻也はわくわくして言った。
「こっちのお嬢さんは放っといても大丈夫だろうなぁ。…問題はこっちか…」
とデルムントは絵礼の方に目を向けた。
「いいかい、要は気持ちの持ちようだよ。俺はちゃんとあんたらを元の世界に戻すと約束するし、一度約束したからには俺のプライドにかけて必ず実現させる。安心しな。大丈夫」
デルムントが絵礼の背中をぽんぽんと軽く叩くと、絵礼はなんとか泣きやんだ。
「おまえたち、何者だ?そこで何をしている?」
三人のいる方へ複数の人間が近づいてきた。
見慣れない服装、しぐさ。なんだか役人じみた雰囲気だった。
「えらそうな態度ね」
と麻也がつんとすまして言った。
「しいっ!」
絵礼があわてて麻也をたしなめた。
「やあ、初めまして。我々は旅行中の者です。こちらの二人のお嬢様がたは異国の上流階級の方々で、高貴なご身分でいらっしゃいます」
デルムントが前に進み出た。彼は帽子をとっておじぎをすると、にこやかに笑った。
麻也はかなり嬉しそうにデルムントを見た。
絵礼はデルムントのでまかせに顔をしかめた。
見知らぬ人々は顔を見合わせ、なにやら相談しあうと、三人を白亜の宮殿へと誘って行った。
☆
「…異国からの旅行者とはめずらしい。我が国は湖の先に広がる砂漠と、海と、ハノウ山脈に囲まれて外部から孤立しているのでな。いやはや我が国、我が宮殿へようこそ。滞在される間、文化の違いや技術を教えて頂けたら幸いに思う。今夜は宮殿内に部屋を用意させるゆえ、ゆっくりと旅の疲れを癒されるがよい」
礼服に身を包んだ若い王が玉座から声をかけた。
浅黒い肌、中肉中背、黒いひげを生やし、人好きのする、実際の年齢より若く見える整った顔つき。
しかし、笑ってはいるが、その瞳には底知れぬ力がみなぎっていた。
入江姉妹とデルムントは王の迫力に圧倒されてその場に立ち尽くしていた。
「これ、王を前に無礼だぞ」
王の側近が怒鳴った。
絵礼はおどおどしながらこういう場合どう対処したらいいのか、と思い悩んだ。映画やテレビのフィクションの世界そのままだ。
この場に平伏すべきか?と思っていた。
ところが。
「あら。王様だって人間なんでしょ?」
と麻也はつんとすまして言ってのけた。
すると、王はいきなり大笑いした。
側近の者はたしなめる機会を逸して憮然とした。
王はあらためて興味深そうに珍客たちを見た。
「…そなた名前は?」
「マヤよ。王様は?」
「シンドレッドという。…そちらは?」
「デルムントでございます」
あいかわらず帽子をとって優雅におじぎする。
「では、そちらは?」
「…え、エレです」
絵礼はびくびくして答えた。
シンドレッド王は、三人のうちの勝気な娘に特に興味を持った。黒目がちの美しい娘だ。
父王が生前ハーレムを廃止していたので、この王は女性と縁のない生活を送っていた。だから、それは強い好奇心を伴っていた。
シンドレッド王は麻也を異国の姫君だと思った。麻也といっしょにいるデルムントという男は物腰や言葉使いから異国の大使だと考え、そしておどおどしているもう一人の娘は麻也の従者かあるいは教育係あたりだと見当をつけた。
どちらにせよ、この三人を丁重にもてなすことに決めた。
「長く滞在されることを希望する。その間、最高のもてなしをしよう」
「ありがとうございます」
デルムントは目を細めて微笑んだ。
「…マヤ。よければ私といっしょに食事を。あなたの話をぜひ聞いてみたい」
シンドレッド王は麻也をまっすぐみつめて言った。
「ええ」
麻也は軽く受け答えた。
彼女の経験からいうと、要ははったりなのだ。堂々としていればたいていのことはうまく行く。
麻也は片手を王に預けて、優雅に食事の間に歩み去った。
これにはデルムントも絵礼も、ぽかんと口を開けて見送るしかできなかった。
☆
「あー、疲れた」
天蓋つきのベッドの上に、ぽん、と身を投げ出して麻也が言った。
「大丈夫なの?」
心配して待っていた絵礼が尋ねた。
「んー多分ね。食事はまあまあおいしかったし。でも今日はコンサートから無事に家に帰れていたら、お母さんのお手製の炊き込みご飯のはずだったでしょう?それを食べ損ねたのは惜しいわね」
「…私が言っているのはそういうことじゃなくて、あの、王様相手になまいきな態度で、殺されたりとか…」
「ああ。心配ないわよ。王様っていっても、ついこの前即位したばかりで、なんだかいなかの純粋な男の子みたいな人だったから。何の話をしても本気で感心していたわ」
麻也は視線を上に向けて、天蓋の装飾を見た。
「アラビアン・ナイトってあるじゃない?なんだかあの話を連想する世界よね、ここ」
麻也のその言葉に、絵礼は物思いにふけった。
『アラビアン・ナイト』は日本でも有名な話で、空飛ぶ絨毯やランプの精の話など絵本でも紹介されている。もともとは英国のマザー・グースみたいに小さな話をたくさん集められたものだったようで、別名『千夜一夜物語』と呼ばれている。
『千夜一夜物語』の骨子は、傍若無人な王が夜伽の女性に満足できずに毎夜相手を殺してしまっていたが、シエラザードという女性はとても話上手で、千と一夜の間物語を語って聞かせ、王から殺されずにすんだ、というものだ。夜明けが近づくと、続きは明日の夜、という話の運び方だ。
絵礼は『千夜一夜物語』を図書館で借りて読んだことがあったが、半端な長さではなく、途中で読むのを断念してしまった。
しかし、この世界に来て、インドやアラビア風の混在した不可思議な雰囲気に酔ってしまいそうだった。
「ねえ、麻也?」
絵礼が声をかけると、麻也はもうぐっすり眠りこんでいた。
絵礼はため息をついて、上掛けを麻也にかけてやった。
ふわりと夜風が吹いた。
さらさらと音がして、ベッドの天蓋から垂れ下がっている薄布越しに豪華な室内装飾が見てとれた。
春めいた気候だった。
絵礼は眠れずに寝室用にあてがわれた部屋を出て、夜の庭園に出てみた。
元の世界のアラビアやインドの絵礼の中のイメージは、アラベスク模様の建築物とターバンを巻いた人たちだったが、この世界では白を基調にした柱にこった彫刻で装飾を施した資材が主な建物と、薄布を幾重にもまとったスタイルの人々が目立った。
夜の庭園におりてみると、噴水のある広い池と様々な花が咲き誇る木々があった。
絵礼は異世界の花の香りにつられて歩いた。
ゆりの花を連想させる大きな白い花に顔を寄せる。
「なんて良い香りかしら」
うっとりと花をめでる。
夜空を見上げると、遠くの星が見知らぬ星座を形成していた。月に似た大きめの天体が今は三つ、それぞれの色と形で浮かんでいる。
「本当にここは私たちのいた世界じゃないのね…」
絵礼の全身の毛が粟だった。
「…だけど、なんてきれいな世界なんだろう」
もう一度見上げると、星空がにじんでみえた。
「お母さん、お父さん。友達、学校の先生…みんな、心配してくれてるだろうな。早く戻らなきゃ。…でも私は受験や外国の戦争やいろんなことが元の世界ではとっても怖かった。…ここは?この世界はどうなんだろう?どこにいても未来はわからなくて怖い」
ぐすん、と鼻をすすった。
どこからか、つん、と潮の香りがしたような気がした。海が近いのかもしれない。
三つ浮かんでいる天体のうちの、一番元の世界の月に似た白い天体を見上げて、絵礼は知らず知らず歌を口ずさんでいた。
それは、ホルストがデルムントにリクエストされて弾いたバイオリンの曲調に合わせた即興の歌だった。
「…彼女は夕刻のバイオリンを聴いている
月のダンスステップの下
優しい案内人の天使は
砂丘に反射した星の鏡について行く…
(タイスへの子守歌!作詞…オリヴィエドリューズ より引用)」
果たして一人で過ごす絵礼の近くへデルムントがやってきた。
「眠れないのかな?」
「えっ?ええ。びっくりしたわデルムント」
「ちょっと『時空のゆらぎ』に似たものをこの近くで感じたんで調べに来たらあんたがいたんだが…、一足遅かったかな?消えてしまったよ」
「『時空のゆらぎ』って、私たち、元の世界に戻してもらえるの?」
「ああ。だから、誠意を尽くす、って言っただろう?信じてなかった?」
「…うん。ごめんなさい」
「もう、夜も遅い。若い娘が一人でこんな所にいるのはどうかと思うよ。妹さんの所でゆっくり眠って、明日からまたがんばるんだ。希望は捨てないで」
「うん、ありがとう、デルムント。おやすみなさい」
絵礼はこの世界に来てから初めてにっこりと微笑んだ。
部屋へ戻って行く絵礼を見送りながら、デルムントは『ゆらぎ』が起きた場所を特定しようと試みた。
「ああやはりそうか。思っていた通り。あのお嬢さんにも素質がありそうだ。そうでなければ、俺一人で二人もの人間を巻き込んで『跳ぶ』ことができるわけがない。問題は、あまりこちらの世界に長居しすぎると、チャンスを逸してしまうかもしれないことだ」
デルムントは庭石に腰かけた。
「今の調子ならきっと大丈夫だ」
デルムントは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。