先輩は可愛い
可愛い先輩に好かれたいです。
僕は、ある先輩に好かれている。もっと言えば、つきまとわれている。
羨ましいと人は言うかもしれない。その先輩、沁水茜音は誰もが認める美少女で、対して僕は平々凡々を地でいくような、特段目立ったところのない単なる男子高校生だ。
だが考えてもみて欲しい。小説か漫画かならばいさ知らず、委員会や部活動でのつながりすらない先輩に顔が整っているわけでもない僕が無条件で好かれているという状況に、違和感や恐怖を感じないはずがない。たとえ相手が校内で知らぬ者がいない美少女で、おまけに性格も良いし彼女にかかれば出来ないことはないと噂される人物であったとしても、だ。いや寧ろ、だからこそと言ってもいいかもしれない。
「岩城くーん!」
登校中。聞きなれた声に振り向くと、首の真ん中あたりで切りそろえられた艶やかな黒髪を揺らしながら、顔中を笑みに緩めて件の先輩が走り寄ってくる。
岩城というのは僕の名前だ。
「……何ですか先輩」
僕はうんざりとしているであろう表情を隠す気も起きず、そのままに先輩へと答える。
先輩は緩い口元をさらに緩めて笑った。もとよりたれ目で柔らかな顔つきの彼女の笑顔はこれ以上ないほど柔らかい。
どんなにぞんざいに対応しても笑むばかりの先輩に、僕は時々彼女には妙な趣味でもあるのではと疑ってしまう。
「えへへ、今日もストーキングしにきました」
「…………そんな堂々と言われても……もしかして通報されたいとか」
うわあ、という目を向けると、やっと先輩の笑顔が崩れた。
「もう、ひとを変態みたいに言わないでよ」
ぷくと頬を膨らませて睨んでくるが、柔和な顔つきのせいで全く怖くない。どころか寧ろ可愛らしくさえあるのだから、美人は得だなとため息をつきたくなった。
「ねえ、それより先輩だなんて他人行儀な呼び方やめようよ!私と岩城君の仲でしょう?」
「はあ」
先輩と僕の仲と言われても、先輩と僕が先輩後輩関係以外のつながりで関わった覚えはないし、これからそれ以外の関係になるつもりもない。
我ながら間の抜けた相槌で適当に返すと、先輩は眉を下げた。
「……どうせ岩城君のことだから、私と岩城君の関係は先輩後輩に過ぎないしこれからも変わらないとか考えてるんでしょう。それならそれでいいから適当な返事はやめてよぉ!ツッコミのないボケをしちゃったみたいで悲しいから!」
先輩が訴えてくるが、その例えだと先ほどの発言は単なるツッコミ待ちの冗談で、呼び方は変えなくてもいいという事になるのだがそれで良いのだろうか。
それはともかく、彼女はオーバーリアクションをお待ちなようなので、ご要望にお応えするとしよう。
「ええ!?先輩どうして俺の考えてる事わかったんですかあ!?俺は確かに先輩と俺は単なる先輩後輩だしこれからもそうだから呼び方も先輩でいいじゃねえか何なんだこの人って思いましたが、まさか思考回路を読まれているとは!」
「うわあああんなんでこういうときだけ饒舌なのお!?」
先輩が叫んだ。若干涙目になっている。少し苛め過ぎたらしい。
前を見ると、そろそろ学校に着きそうだ。
「では先輩。俺はここで」
「あ、う、うん。じゃあね」
先輩がぱちりと瞬きをしながら手を振ってくれる。
僕は軽く会釈をして足早に彼女から離れ、
「いや待って一緒に行こうよ!?」
られなかった。
「ちっ」
「やだ!舌打ちやだ!」
首を振りまたも涙目になりながら追いついてきた。
「いわしろくんのいじわるぅ……」
ならば離れればいいものを、先輩の手はしっかり僕の制服の袖を握っている。やっぱり被虐を好む嗜好でもあるのかもしれない。
先輩は可愛い。
今時珍しい黒髪を、肩の上で切り揃えて、髪と同じくらい真っ黒でまるい瞳はいつもきらきら光っている。体つきはどちらかと言えば肉付きが良く柔らかそうで、大きめの胸やむちっとした太腿に視線が行ってしまうのには抗い難い。性格は真っ直ぐで誰にでも親切。先輩の癖して、僕より幼く見える程素直に感情をぶつけてくる。
はっきり言って、彼女に好かれて嬉しくないはずがないのだ。
ただ、どうしても信用出来ない。性格的に嘘を吐いたり騙したりするタイプでない事は分かってはいるが、やはり素直に自分をさらけ出すには自信が足りなかった。
そうして彼女について思い悩む事は酷く面倒で、気づけば僕はいつも彼女が僕に飽きてくれるよう望むようになっていた。
そもそも、僕は特別彼女が欲しいと望んでいたわけでもないのだ。突然魅力的な先輩に誘惑されたところで、自分の自信のなさが浮き彫りになって悩むくらいならばその鬱々とした気持ちから解放される事を望む。
それに、彼女にだってもっとお似合いの相手が居るはずだ。
考えれば考えるほど僕と彼女が上手くいく未来が見えない。ああ面倒くさい。
「考えすぎなんだよ、取り敢えず付き合っちゃえって」
肩をすくめ、呆れたように言うのは悪友の新條要人。
顔のいい男はこれだから、といった目で見ていたのが伝わったのか、新條は半目になった。
「お前また顔がどうのとか考えてんだろ。関係ねえから。世間一般の男子高生は沁水先輩に迫られたら一も二もなく付き合うから。考えてもみろよ、これからの人生あんな美人と出会う事あるか?騙されてようがいまいが付き合って損はないって。あんな堂々とお前を追っかけてんだからすぐに捨てられるってこともないだろうしさ。とりあえずさっさと付き合ってやるだけヤッ……」
クズを冷ややかな目で見ている僕に気がついたのか、新條は口を閉じて目をそらした。
ひとつ咳ばらいをして、新條は続けた。
「と、とにかく先輩の想いに応えてやれよ。女にあそこまでさせて放置なんて男として情けないし、何より可哀想すぎるだろ?」
耳当たりの良い発言が先程の言葉のせいで薄っぺらく聞こえる。
どうしてこいつはモテるんだろうか。やはり顔か。顔なのか。
僻みの多分に含まれた視線を感じ取ったらしい新條。再び口を閉じると、深いため息をついた。
「そもそもさ、お前の最大の問題は他人を……というか、自分を信用していないところだ。もっと自信を持て。お前は悪い奴じゃない。俺が保証する。あともっと喋れ。気付いてるか?さっきからお前ひとっことも喋ってないからな。誰だって、言わないと気持ちなんてわからないんだ。付き合い長いから俺は別にいいけど、そんなんじゃ先輩にもすぐ飽きられるぞ」
そう言う新條の顔にはもう先程までのふざけた色はない。そう、この友人が悪い奴ではないことくらい僕の方だってわかっているのだ。忠告が、新條なりに僕を思いやってのものだという事も。
しかし、飽きられたいと願っている今の僕にはむしろその発言は逆効果だ。
「……本当に良いんだな」
「……」
僕は新條から目を逸らし、無言を貫いた。
「岩城君」
反射でうんざりしたような顔を作りそうになり、慌てて戻した。その声は、思い浮かべていた人物ではなく、クラスメイトの佐々木さんのものだ。
振り返ると、透けた茶色のフレームをした眼鏡をかける凛とした表情が目に入る。
先輩ほどではないが、彼女も美人だ。そう考えて、僕は首を左右に振る。ここにはいない誰かと比較するなど、彼女に失礼だ。第一、どうしてここで先輩が出てくるんだ。確かに先輩は、この学校では美人の代名詞となっているが─――ともかく今は目の前の佐々木さんに集中しなければ。
「今日の日直の事だけれど、私が日誌を書くから岩城君は黒板をお願いできるかしら」
肩より少し長めの黒髪を耳にかけながら、少し首を傾げてこちらを見る。そういえば、佐々木さんも黒髪だ。髪の長さは少し長いが……だから、誰と比べているんだ僕は。
額に手をあててため息をつく僕にいぶかしげな視線を寄越す佐々木さんに向かって、僕は手を横に振る。
「悪い、こっちの事情。わかった。ありがとう、佐々木は字が綺麗だしな、頼んだ」
誤魔化すように言葉数が増え、余計な事を言ってしまう。実際、佐々木さんの字は丁寧で整っている。僕……というか男子からすれば大抵の場合女子の方が字が整っているし、男子の方が高いところに手が届くので自然と日直の際女子は日誌、男子は黒板を消す係に分担される。その点、きちんと確認をとるあたり佐々木さんはやはり丁寧な性格をしている。性格はその字にしっかり表れている。そうすると、先輩はなかなか大雑把な性格をしていると思う。彼女の唯一と言っていい欠点はその字の独創性だ。日直での男女の分担を話したとき、先輩はうちのクラスにはそんな分担ないけどなあ、と首を傾げていた。きっと周りがお互いのために気をまわしたに違いない……。
……認めよう。僕は先程から先輩の事ばかり気にしている。
日誌を手に席に戻る佐々木さんが遠ざかってから、僕は机に顔を沈めた。理由ははっきりしている。先輩が今までの猛攻が夢だったかのようにぴたりと現れなくなったのだ。大切なものに気付けるのは失った後だという使い古された事実に初めて直面し、余りの馬鹿らしさに自嘲が止まらない。過去の僕の願いは叶った。先輩は僕に飽きた───いや、飽きたという表現は正しくないのかもしれない。彼女が僕で遊んで楽しむような性格でないことはわかっている。きっと、本気ではあった。ただ、静かに心が離れていったのだろう。もしくは、押して駄目なら引いてみろ作戦か。無意識にそんな考えに希望を見出してしまっていることに気付き、深く息を吐いた。
結局のところ、先輩が僕に好意を向けてくれていようがいまいが、僕がひたすら彼女について考えてしまうのは変わらなかった。それが答えだったのだ。まず先輩を雑に扱うこと自体普段の僕にはない行動だった。いつもにこにこしている先輩の笑顔以外を見たいとか、今時小学生でもしない幼稚な発想だろう。
前の授業内容を消しながら、いっそ過去の自分も消してしまいたいと少々乱暴に黒板消しを動かすのだった。
放課後、日誌の最後の欄を埋める佐々木さんを待って、連れ立って職員室へ向かう。
「……あの、岩城君。この後少し、時間はあるかしら」
「……?」
いつも真っすぐ人を見る佐々木さんには珍しく、眼を泳がせて俯き気味にそう問われ、僕は首を傾げる。
そういえば先輩も目を真っすぐ見て話す……そろそろ、いい加減にしないとそのうち何を見ても先輩を連想するようになってしまいそうだ。
「あの、それほど時間は取らないから……」
おずおずと、眉を下げ弱弱しい口調で見上げられる。眼鏡のフレームの上から二つの眼が不安そうに揺れているのが見える。普段どちらかというとさっぱりしている佐々木さんのそんな表情に不覚にもどきりとする。
「あ、ああ……用事とかはないし……」
しどろもどろにそう答えると、佐々木さんは目に見えて表情を明るくさせた。
「良かった!じゃあ、教室でまた話しましょう」
ふふ、と笑って前へ向き直る。僕はどぎまぎしながらも、彼女の話は一体何だろうと首をひねるのだった。
───その時そんな僕たちを見る影があったことにも気付かずに。
「あのね」
ずい、と佐々木さんが顔を寄せてくる。どうでもいいけれど、すごく近い。女子特有のいい香りがする。汗が止まらないのでとりあえず離れて欲しい。先輩と言い、美人は人との距離感を測るのが苦手なのだろうか。
緊張したように唇を舐める。だから、止めて欲しい。
そして息を細く吸って……
「わ、私と、学級委員になって欲しいの!」
……。
「……へ?」
がたん。
その真意を問おうとしたとき、物音がした。
つられるようにして振り向くと、見覚えのある揃った黒髪が教室の扉にはめ込まれた窓ガラスに映る。
半ば無意識にそれを追う。無意識ではあったが、何故かその時の僕は必死だった。絶好の機会であることも、これを逃せば次はないことも全く分かっていなかった癖に、ただただ彼女の後姿を追った。
そして僕は先輩を捕まえた。と、言うより、少し飛び出した形になっている大きな柱に激突し、後ろに倒れた彼女を受け止めた、が正しい。
「せ、先輩!?だいじょ……」
慌てた僕はその顔を覗き込んで絶句した。
「う……ううう…………」
先輩は泣いていた。打つかって痛かったのか、それとも他に理由があるのかはわからないが、ぼろぼろ落ちる涙が柔らかそうな頬を次々に濡らしていく。
「先輩?」
「せ、せんぱい、じゃ、やだぁ……」
ぐし、と制服の袖で目を覆う。ポーズだけ見たら男泣きしているみたいだ、とよくわからない感想を持ったが、そんなことはどうでも良い。混乱する頭を何とか回して、何があったのかと尋ねる。
「なにっ……何がって、ちゅう、してたあ」
ちゅう?と一瞬ネズミを思い浮かべ、ネズミはするものではなくいるものだな、と頷く。僕も相当動揺しているらしい。おそらくその、あれの事だ。接吻というやつ。
「してたって……誰が」
まさか先輩が誰かと?泣いているところからして、同意なく?
一瞬湧きかけた怒りに近い何かは、次の先輩の発言で打ち消された。
「かわい、かわいいこと、いわしろくんが、ちゅーしてたああ!!」
わあああと遂に声をあげて泣き始めた先輩。
……先輩は何を言っているんだ?僕が、可愛い子と?
そもそも可愛い子と話をする機会すら先輩を抜かせば数えるほどしかない。その数回、しかも毎回違う人となればいつどうやってしろというのだ。新條でもあるまいし。と若干憤慨しつつ、こうも大泣きするぐらいなのだから何かしら勘違いするような場面に出くわしたのかもしれない。
可能性としては、先程妙な提案をしてきた佐々木さんだろうか。そう言えば置いてきてしまった。明日あたり謝らねば。
「可愛いって……もしかして、佐々木さんのことですか?」
「知らないよ!!」
そりゃそうだ。先輩はクラスどころか学年が違う。
「えーと……茶色い眼鏡で……肩より下くらいまでの黒髪の……?」
「ちゃいろめがね!」
ぶんぶんと勢いよく首を縦に振る。なんだか、先輩の言動がいつにも増して幼い。
「……あの、してないです」
とりあえず誤解は解かねばと簡潔に伝える。
「へ?」
きょとんと目を瞬かせる先輩。簡潔すぎたようだ。
「…………だから、佐々木さんとちゅうはしてないです」
気恥ずかしくて先輩の言った通りになぞったのだが、余計に恥ずかしい。なんだちゅうって。先輩はともかく、僕の口からそんな言葉が出る事が気持ち悪い。
先輩は、言葉を理解してくれたようだが、納得はしてくれないらしい。みるみる眉を吊り上げ、口をへの字に曲げる。相変わらず全く怖くない。
「うそだ!してたもん!見たもん!!」
「してないです」
「してた!」
「してません」
暫くしたしてないの不毛なやり取りが続いた。先輩はやがて再び泣きわめき始めた。
「ううう!わ、わたしはすっごい辛い思いしていわしろくんのとこいかないようにしてたのに!しんじょーくんが、あいつは押しすぎると引くからちょっとはなれればすぐ食いついてくるって言ったから、わたしっすごい、すごい我慢したのにじぶんはさっさとおいしい思いして!わたしだって、わたしだって結構かわいい方なのにいいい!」
…………新條め。
先輩の話した真実に様々な感情が頭を巡ったが、最後に残ったのはそれだけだった。とりあえず奴には後ほど発売予定の本でも買ってもらおう。
先輩は引き続き泣いている。子供っぽいところもあったけれど、基本的になんでも冗談にしたり笑って流していた先輩が、ここまで感情的になるところは初めて見た。そして、先輩をこんな風にさせた理由が僕にあると思うと、じわじわ喜びと愛しさがこみあげてくる。
言わないと、いけない。新條の言葉が頭に蘇る。言わないと、わからない。
当たり前だ。僕だって誰の気持ちも言われなきゃわからない。今まで僕はきっと甘えていたんだろう。新條にも、先輩にも。先輩は言ってくれていた。僕はただ言わせるだけだった。そんなのフェアじゃない。先輩は笑いながら辛かったのかもしれない。
すうっと息を吸い込む。今言わないで、一体僕はいつこの口を使うんだ?
先輩、と呼びかけて、僕は良いことを思いついた。
「……茜音」
ぴた、と先輩が固まる。ついで、みるみるうちに耳まで赤く染まった。
見開かれた、たれ気味の目と目が合い、僕は笑った。
先輩は、可愛い。
短編にまとめる技術力が圧倒的に足りませんでした。
次回の自分に希望を託します。
拾えなかった設定はいつか先輩視点で……いつか。