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クラーケン

「アレガ クラーケン デスジャ」


 長老が指差しながら声を小にして伝えた。


 ジンタ達は、まだぽかぽかと湯気の出そうな温泉の温もりでほぐれた体のまま、温泉から半魚人とマーメイドの集落を跨いだ先の洞窟内の入り江へと来ていた。


 時刻的にちょうど引き潮なのだろう。今、クラーケンはその大きなイカの白い頭を地上に出し、うつらうつらと眠りこけているようだ。


「あれが、クラーケン……」


 ジンタはやや前傾に三角の頭部を倒して、こくりこくりとしているソレを見る。


 見えるだけの上半身部分で、体長が一〇メートルはありそうだ。あれに十一本の足が上体の倍ほどの長さであると言うから、体長は三〇メートル位か。馬鹿デカいな……と言うのが感想だ。


 クラーケンが占拠しているのは、半魚人とマーメイド、二つの種族が外海と行き来するための洞窟内の入り江。

 そこには、引き潮時に歩いて通れる小道もあり、ジンタ達はそこを通って地上に出るしかないのだ。


 今の眠りこけているクラーケンの前なら通れそうな気もするが、もし目覚め暴れた場合のリスク。

 そして何より、ここに住む半魚人やマーメイドの生活のためにも、あのクラーケンは倒しておかないとまずい事は、もうジンタ達も知っている。


 この入り江はただの出入り口なだけでなく、二種族の食糧事情にも繋がっているためだ。

 水中内であれば、彼らはなんとかクラーケンに掴まらず動けるらしいが、それでも余裕というわけでない。


 追い掛けられれば当然逃げるしかない、しかも食料である魚を獲ることが出来ずにだ。仮に逃げ切って獲ることが出来ても、それはもう外海、つまり彼らからすれば暴走しないで済むテリトリーを越えての食料の調達となってしまう。


 二種族にとって、その事はこのままクラーケンに居座られることの食料不足問題と同等、いや、それ以上の苦渋なのだ。


 数時間で自我を失い暴走してしまう、そのリスクを押しても、子孫繁栄を決意し外に出ると言う、一生に一度の決意が失われるのだから。


 仮に一度は無事戻ってきたとしても、次も必ず無事とは限らない。そんな綱渡り的な、自身の自我と存在を掛ける事なぞ、正直ジンタには想像も出来ない。しかしそれをしようと思ったら、きっと一生分の勇気を振り絞るぐらいの気概が必要になるだろう事は分かる。


 そこまでの想いを持って外に出る二種族の人達をこのまま置いて、ジンタ達はクラーケンを放置したまま帰るわけにも行かない。


 もっとも、マスターである子供達、ロンシャン、エルファス、ベンジャミン、ミリアの四人にあーちゃんとリゼット、そしてミトと松が、知り合った半魚人のさゆとマーメイドのフロレに、「自分達がきっと何とかする」と約束してしまったのだそうだ。だからジンタ達は、ただ何もせずにおとなしく帰るという訳には行かない。


 もっとも、倒すにしても通り抜けるにしても、今のこの条件は絶好なのだ。


『引き潮』『眠り』『浅瀬』


 この三つの好条件。


 適度に暖まった、まだ温泉に未練のある体のまま、急ぎここに来た理由は、今のこの条件を逃さないためだ。


 クラーケンに海の中に入られては、ジンタ達では手も足も出ない。

 ジンタを始め、イヨリもリカも竹も梅も、あーちゃんも、全員は地に足を着け戦うタイプ、いわば地上戦のエキスパート。


 ミトと松が、一応海面上を走り戦えるとは言え、それも海面上でのことだ。

 海の中で戦う事が出来るのは実質ゼロと言っていい。


 それが半分とはいえ、常に体が出ているクラーケンの状況なら、ジンタ達でも十分攻撃を仕掛けられるのだ。


「さて、どうしたもんかな」


 溜め息を吐きつつ、洞窟の天井を見上げるジンタ。


「サッサとやっちまおうぜ」


 松がやる気そのままに両拳を合わせる。


「ま、松さん、落ち着いて下さい。あ、ある程度作戦を立てないと、あ、あれは大きすぎますよ」

「んだ、あれは大き過ぎるだ」


 急く松を、宥める竹と梅。


「あれって倒しきる前に、逃げられちまわねえか?」


「だ~か~ら~。それをさせないように今作戦を考えてるんでしょ。ミトの筋肉脳」


「あの大きさですと、私の美しい爪を最大に伸ばしても、切り裂ききるのは無理ですわね」


「とりあえず、あれを逃がさないようしないとダメですね」


 最後のロンシャンの問い掛けに、ジンタはもう一度溜息を付き、


「確かになぁ……。本当ならこの戦いに一番有利性のある二人が不在って……、なんか俺って海に嫌われるんだろうか……」


 雪目と水音、そしてラーナの三人は、今もまだ、地上で日光浴兼お昼寝中で、この洞窟には来ていない。


 海に来てからこっち、不運というか狙われているとか言うか、とりあえずあまりいいことがないジンタ。

 もう海には来ないぞ。と内心で心に誓う。


「いない方達の事を言っても始まりませんから、とりあえず今の戦力で考えないと」


 隣のイヨリに言われ、「だな」と頷く。


 もう一度クラーケンに目を向け、ジンタは作戦をみんなに告げていく。


「まず、イヨリとあーちゃん、そして竹と梅は、足場のしっかりしている砂場でクラーケンの足を引っ張ろうか」


「はい!」

「わ、分かりました」

「あーちゃんがんばるよう!」

「わっちも、頑張るだ!」


「で、次は攻撃組。リカさんとミトと松の三人は、クラーケンの体をとりあえず切り裂いていってくれ。ああ、足の数を出来るだけ減らしたいからイヨリ達が引っ張ってる足以外は出来るだけぶった切って欲しい」


「分かりましたわ」

「分かったぜ」

「へへ、おれっちも分かったぜ」


「後、リゼットはマスター達を見ていてくれな」


「分かったぞ!」


 と、そこまで話を進め、みんなを見渡すと、エルファスがそろそろと手を上げた。


「あ、あのジンタさん」


「ん? どうしたんだエルファス?」


 手を上げて、みんなの前で自分から何かを言おうとするのは、エルファスからすれば珍しい。ジンタが聞くと、全員の目がエルファスに向いた。


「えっと、ですねぇ。なんと言いますか~、こ、今回は~」


 指だけで拍手をするような素振りを繰り返し、視線を宙に彷徨わせ、言い淀むエルファス。


「エ~ル~ファ~ス~。言いたい事があるならさっさと言え!」


 エルファスの一番最初の『召喚されし者』であり、自称母親兼父親を担っていると自負するミトが、焦れたようにエルファスに手を伸ばす。


「わ、わわ、言う、言うからちょっと待ってよミト!」


 両手をコキコキと怪しげに動かし迫るミトの手を払い除けて、エルファスは深呼吸をしてから、一言を発した。


「あ、あのですね。今回は私も弓で攻撃しても良いですか?」


「「「え?」」」


 全員が驚いた顔でエルファスを見た。


「い、いや、ダメならダメでもいいんです。攻撃すると言っても、向こうからの攻撃が届かないぐらい遠くから、チマチマと矢を放つだけの予定ですし、いざとなれば逃げることを優先しますし、でも、今回は的がかなり大きいから、私の矢でも何とか当たるかなぁ~、なんて思ってたり思ってなかったりでして――――」


 みんなの沈黙に耐えられず、エルファスは金色のクセッ毛の髪を激しく揺らし、その間から伸びるエルフ特有の長い耳までもを真っ赤にさせて、きっと自分でも今何を言ってるのか分かっていないだろうと思えるほど、顔を真っ赤にさせて口を動かし続けた。


「で、でっ、ええっと、だ、だから、も、もし、です、ね……」


 エルファスが、言った事を後悔し始めたように、目を潤ませ口籠もり始めた時、バシッと、正面からエルファスの肩を叩いた人物がいた。


 他でもないミトだった。


「エ~ル~ファ~ス~。ようやく自分から訓練の成果を試してみたくなったのか? それともちょっとみんなの前で強くなった姿を見せたくなったか? ん?」


「べ、べべべ、別に、そ、そそ、そう言うんじゃなくって、こ、今回は私達のところは、ミトと私だけでしょ。だ、だから少ない分、わ、私も少しは手伝ってもいいかなぁ~って……」


 腰に手を当てエルファスを見つめているミトの表情はジンタには見えないが、ジンタとミトの正面に立つエルファスは、真っ赤な顔を俯かせた。


 また数秒の間があり、ジンタがエルファスに手を伸ばそうとすると、ミトがそれを止めた。


「エルファス、本当にやるんだな? これは稽古じゃないぞ?」


「う、うん。分かってるよ」


「この間の戦いように、今回はお前を守ってくれる人はいないぞ?」


「わ、分かってるよ。だ、だから安全ゾーンをキープして矢を射ろって言うんでしょ?」


 ミトが、エルファスを見つめたまま黙った。


 数秒の後、ミトはゆっくりと頷いて、


「そうだ。お前が死んじまったら、おれは戦わせたことをすげえ後悔しちまうからな」


「べ、別にミトのために死なないとか思わないよ! 私だって元々死にたくないし……」


 頬を膨らませるエルファスにもう一度頷いたミトが、ゆっくりとジンタに振り返る。


「悪いけどよジンタ。エルファスも今回の作戦で攻撃させてやってくれないか」


 問われたジンタは、ミトの顔を見た後、笑んでエルファスに向いた。


「じゃあエルファス、君もクラーケンを倒す為の攻撃に参加してくれ」


「は、はい!」


 まだ顔は赤いが、エルファスが元気に頷く。

 そしてジンタはミトに向き直り、溜息交じりに口を開いた。


「いや、なんだミト。すごく嬉しいのは分かるけど、そんな涙と鼻水垂らして戦いに行かないでくれよ……」


 振り向いた時からミトの顔は、激しくぐちゃぐちゃになっていた。必死に堪えようとしながらも、全然追いつかない顔中の液体がドバドバと地面に落ちていく。


「だ、だってよ~~。ほんっとうに嬉しくってよ~~」


 ずずずっと、勢いよく鼻を啜りながら、ミトが言い返した。




 エルファスがやる気になってくれたことに、感無量の嬉しさで泣いていたミトが落ち着くのを待って、作戦は実行に移された。


 先行するのは、イヨリとあ―ちゃんと竹と梅。


 四人はクラーケンが海に逃げないように、最低でも今の場所にクラーケンを足止めする役目だ。


 こちらの攻撃開始で、地上に姿を見せるだろうクラーケンの足を引っ張るため、しっかりと引っ張れる場所を見つけるための準備をしに行ったのだ。


 四人がそれぞれに自分なりの場所を見つけたのを合図に、攻撃組が動き出す。


 まず、攻撃組のジンタ、ミト、リカ、松、エルファスに、ロンシャンがスピードの強化魔法を掛ける。


 そして足止め組には、ベンジャミンがアタックを掛けていく。


 それぞれの準備が終わると、最後にミリアが範囲強化魔法で全員にアタックを掛けた。


 準備が完了したのを全員と目を合わせることで確認し、ジンタが行動開始の合図を告げるように腕を振った。



 海の怪物クラーケンとの戦いが幕を開けた。


 一番槍で突っ込んだのは、当然とばかりにミトだった。


 下半身をウサギのようにし、おでこに一本の角を生やした、アルミラージの獣人化した姿に、第二段階である風を体に纏って疾走するミト。


「エルファスがやる気になってんだ! ぜってえに負けられっかよッ!」


 クラーケン、イカの代名詞的とも言える頭頂部の三角形部分、今は寝ているのだろうコクコクと揺らしているその部分に肉薄したミトは、戦闘開始をクラーケンに伝えるように叫びながら蹴り裂いた。


 シュッ! と、ミトの半分もクラーケンに近づけていないジンタの耳にも届くほど、鋭利で勢いの乗った蹴りの音が響き、同時にクラーケンの最上部の三角形部分が、ずるりと切り離されズレた。


「す、すげえな……」


 クラーケンへと向かい走っていたジンタが呆気にとられたように言うと、


「あら、頭が三角形じゃなくて台形になってしまいましたわね」


 隣で、全速力で走るジンタより幾分余裕を持って走っていたリカが可笑しそうに口元を押さえ答えた。


 続く二番槍は松だった。


「ミトには負けねえッ!」


 ミトの攻撃で、やっと目を覚ましたように頭を上げたクラーケンの白い体部分に、両腕の爪を大きく左右に振るった。


「うおっ! おれっちの爪の長さじゃ切り裂ききれねえ!」


 クラーケンの体を蹴り、反動で後ろへと飛びながら、松が悔しそうに叫ぶ。


 事実、松の切り裂いた部分は、切れてはいるのだろうが、傍目から見ると、まったく切り裂けているようには見えなかった。


「さすがにあの大きさですわね。ミトさんの『纏い風』。あれは纏わせる部分を調整することと『風を飛ばす』という事が出来ますから、風の力と今のお気持ちの高ぶりもあったのでしょう。ですが、私のこの爪だけでは切ることは出来ても、深く、あの肉を引き裂ききるまで深く切り裂くのは無理そうですわね」


 リカが、第二段階である毛の生えた腕の爪を最大限に伸ばして見せる。

 長さにして四十センチほどだろうか、その切れ味の鋭さはジンタも一度味わっているから分かっているが、クラーケンの大きさを考えると、確かに長さが足りてない。


「松の爪も、それ位伸びるのかな?」


「さあ、正確には分かりませんが。松さんは種族大リス、切れ味はソコソコですが、爪が伸びるなどに関してはあまり聞きませんね」


「そっかぁ……」


 ジンタの持つ直剣は刀身が約五十センチぐらい、今爪を伸ばしているリカよりは幾分長くもあるが、切れ味と言う点では比べるまでもないほど落ちるだろう。


 こりゃあ、俺も切るより突き刺す方が良いだろうか……。


 走りながらそんな事を考えていたが、それもすぐに頭からすっ飛んだ。


 自分が置かれた状況にやっと気付き、クラーケンが大暴れを始めたからだ。


 海に隠れていた下半身、そのうねうね動く足が海面から浮き出してくる。


「一、二、三……」


 海から現れた足を数えながら、ジンタは狙いを決める。


 ジンタとリカの二人は、同じ攻撃組でも、動き特化したミトと松とは違う役割を担っていた。

 ミトと松はその身軽さを生かしクラーケンの本体である上半身部分を攻撃するのに対し、ジンタとリカの二人は、イヨリ達が引っ張る足以外の除去が役割なのだ。


「私はあっちをやりますわ」

「分かった、じゃあ俺はこっちを」


 海面に浮き上がり続けるクラーケンの足に向け、ジンタとリカはそれぞれに向かい分かれた。


 ――まずは、こっちだっ!


 ジンタが真っ先に向かったのは、同じ家族であるあーちゃんの元だった。


 理由なぞいたって簡単。


 本来であれば、いくつかの足の処理が終わってから掴むのがあーちゃんやイヨリ達の役目なのだが、あーちゃんはそのやる気というか、負けん気というか、とりあえずまだ処理も出来ていない状態のクラーケンの足をいきなり掴み取ったのだ。


 しかも、しっかりと一本ではなく、頭の左右に太く纏めた深緑色の蔦の髪二本で、クラーケンの足二本を絡め取っている……。


 こうなることを危惧して近くにいたイヨリが「放しなさい!」と大声で叫んではいるが、顔を真っ赤にして地面に足を踏ん張り、ムキになって引っ張るあーちゃんには届かない。


 ――はぁ~~、本当にあーちゃんは、あれだけ可愛らしく見えて、負けん気だけは強いな……。


 あ―ちゃんの元へと向かいながら、ジンタは我が家族ながら困ったもんだと苦笑する。


 引っ張るあ―ちゃんの元へ辿り着いたジンタが、真っ先に剣を突き立てたのはあ―ちゃんへと襲いかかろうとしている三本目の足だった。


 直径にして八十センチはあるクラーケンの足に、ジンタは斬り掛かる。


 何時もの感覚で、まずは叩き付けるように打ち込んだ剣。しかしその剣はクラーケンの見事な足の弾力によって、いとも容易く弾かれた。


 ――やっぱ、すげえ弾力だ。


 諦めず、次いで弾かれた勢いをそのまま乗せ、二撃目の攻撃へと移す。


 しかし、次いでの斬撃は叩き付けるのではなく、クラーケンの足、その表面を滑らせるように斬った。


 しゅるっと、剣がクラーケンの足を滑り、切り裂く。


 ――やっぱりこっちの方じゃないと切れないか……。


 そう納得はするが、如何せん、その切り方ではジンタの直剣の刀身では、それを滑らせるように扱ってクラーケンに与えられる傷の深さはいいところ十センチ程度。

 これでは一本の足を切り落とすのにどれ程の時間が掛かるか皆目見当もつかない。


 しかも、斬った先からその傷口はクラーケンのヌメヌメとした粘着肌に合わさり、見極めが困難になる。


 ――これは相当時間が掛かりそうだ……。


 五度目の斬撃をしたジンタが舌打ちする。


 見れば、離れた場所でジンタ同様にクラーケンの足を攻撃しているリカも、ジンタ同様に苦戦しているようだった。


 ――のっけから、この調子じゃ先が……。


 ミトと松の先制攻撃で、寝起きの大混乱をしているクラーケンだが、戦いが長引けば長引くほど、当然冷静になってしまう。

 そうなれば、自分の戦闘スタイルが海中であることを思い出し、潜ろうとしてしまうだろう。


 そうなると厄介だ。


 そうなる前に、相手の動きを封じる予定だったが、うまくいっていない。


 焦る気持ちと苛立ちに、ジンタは斬るのではなく、クラーケンの足に剣を突き刺そうとする。

 しかし、ヌメヌメするクラーケンの皮膚表面が剣の切っ先を滑らせる。


 ――クソ! 


 口から吐き捨てるように罵声が出る。


 上半身を攻撃しているミトと松は頑張り、クラーケンを翻弄し攻撃をしている。

 リカも、苦戦しつつも二本目のクラーケンの足を切り裂いた。

 そして自分は…………。


 クラーケンのくねくね動く足の攻撃を躱し、もう数えるのを止めた何十度目かの突き刺しを敢行する。


 ずるり、と盛大な感触を腕に響かせ、今までのように剣は表面を滑ってしまう。


 歯痒さと悔しさと自分のチカラのなさ、未だに自分が立てた作戦を実行しているにも関わらず、一向に自分だけが進展しない状況に、頭の芯を白熱くさせる。


「このッ‼‼」


 視界が狭くなり、苛立たしい感情のピークを迎えたジンタが、強引な突きを出す。

 視界の外から向かい来るクラーケンの足に気付きもせず。


 ドッと重い音が頭に響いた。


 次いで、柔らかくも重量のある衝撃が、ジンタの体を真横に吹き飛ばした。


「ぼほっ」体の中の空気が一気に口の外へと吐き出され、耳に聞き慣れた数人の叫び声が響く。

 その一瞬後、空気の壁を突き破り、ジンタの体は海の中へと叩き込まれた。


 痛みはなかった。


 重いと思える攻撃ではあったが、重さ以上に柔らかさがあり、落とされたのが海の中だったせいだろう。

 しかし、勢いよく海の中へはじき飛ばされたジンタの肺の中には、はじき飛ばされた際に吐き出されたため、空気がほとんどなかった。


 がぼ、と肺に残る微かな空気が海に出され、後は空気を求めるように肺は海水を吸い込もうと試みる。


 口からだけではなく鼻からも、自身の意思が拒絶しているのに海水を吸い上げる。

 一気に、激しい痛みと苦しみがジンタの気管を覆い尽くす。

 空気を求め、頭と体が海中にいるという思考を無視し、海水を吸い込む。

 痛みと苦しみ、そして渇望する感覚が襲い、より意識を遠のかせる。


 ――もう、だめだ……


 視界が、揺蕩う海面の光を映しているにも関わらず、体が一切動かない。

 さっきまでの水を吸い込んだ痛みはもうない。

 普段浮くはずの体が、重りのように沈んでいく。

 朧になる意識の中、海面にそっと手を伸ばしたジンタ。


 もう何も考えられない閉じかけた意識と視界の中で、何かが近づいてくる。

 それは一直線に向かって来る。


 力強い踏み込みと両手での掻き分け、ぐいっと掻き込むたびに、閉じかけたジンタの視界に近づいてくる。


 完全に視界が消えたジンタの唇に、強く押しつけられる固くも微妙な柔らかさを持つ何かが、ジンタの体内に大量の空気を送り込んできた。


 がばごぼごべ……、大量に体に入った海水がそれ以上に大量に入って来た空気によって鼻と口から吐き出された。


 一気に送られた酸素により、意識が活性化したジンタが目を見開く。


 そこにあったのは、大きなギョロギョロとした目でジンタ見る半魚人だった。


「ダイジョウブ デスカナ ?」


 海水の中、良く響く声。それは聞き覚えのある声。


 半魚人の長老の声だ。


「お、俺は……」


 空気の玉を吐き出しながらジンタは問うが、


「マツノデスジャ スグチジョウニ」


 水中を、ジンタが見たこともない速度で進んで行く。

 長老の、ジンタを掴んでいない方の片手での一掻きで、海水が引き裂かれるように二人を上へ上へと推し進める。

 長老の数度目の掻き込みを終えると、二人は地上に顔を出した。


「ジンタさん!」

「ジンさ!」

「ジンさん!」


 家族達の心配そうな声がまず耳に届いた。


 今まで当たり前のように無償で吸っていた空気を、体の隅々にまで行き届けるように染み渡らせ深く吸った。

 大きく息を吹き出すと、頭がクラクラした。

 そのクラクラでさえ、幸せなことなんだと感じながら、ジンタは頭を左右に振り辺りを見渡した。


 状況は、ジンタの予想を超えて変化していた。


 確認するように見渡すジンタの目に、イヨリとあーちゃんが必死に引っ張るクラーケンの足を鋭利な尾っぽのヒレを使い切り裂くマーメイド達の姿が見えた。


 そして地上である砂場では、半魚人達が竹と梅を手伝い、綱引きするようにクラーケンの足を引っ張っている。


「こ、これは……」


 呟くジンタを抱えたまま、長老が答える。


「ナンジャナ ココハワシラノスムバショ オヌシタチダケニマカセテハ ワレワレハソセンニモ ソシテコドモタチニモ カオムケガデキヌジャテ」


 長老は、大きなギョロギョロした目と大きな口元を弛ませる。


「ソレニジャ ワシモヒサビサニ  ダ ダンセイノクチビルニ セ セップンヲ ……………」


 緑色の魚のような顔に朱が混じり気恥ずかしそうにする長老を見て、ジンタの頬がヒクつく。

 そして思い出してくる、あの遠のく意識の中、唇に感じた固くも少し柔らかかった感触を……。


 一気に込み上げてくる何かを無理矢理、喉の奥に押し込んでから、ジンタはもう一度周りを見渡した。


 総勢十人足らずだった戦力が、今や一〇〇人ほどへと増えていた。


「ジンさん! 集落の方が手伝ってくれてるよ、このままクラーケンの足を切り落として、一気に決着を付けちゃおう!」


 マスターであるミリアの声に、ジンタは大きく頷いた。

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