第五話(1-5-1) 皆砥李空
難読漢字等でルビを多用しています。
その為、読み辛いと思われる向きもあるかも知れませんが、ご容赦下さい。
1-5-1
「えぇっ?! 辞める?!!」
郊外の倉庫を改装した建物から、頓狂な叫びが谺した。声の主は、此の体操教室の代表である兼古翔兵だ。
「うん! 今迄お世話に為りました!!」
対照的にあっけらかんと言うのは、14歳の女子中学生、皆砥李空である。
「い……いや、な……何故だ?! 同業他社に行くのか? 手前味噌だが、ウチより練習環境の良い所はそうそう無いぞ?! まぁ、建物は旧いが……、設備は一級品を入れてあるだろう!?」
兼古は口角泡を飛ばす勢いで慰留する。其の形相は必死そのもので、只ならぬ気配に練習に勤しむ生徒達、そして講師陣も動作を止め、注目しつつある。
「否、そうじゃなく」
「じゃあ、どうしてだ?! 引っ越しとかか?! ……も、もし家庭の事情が何らか有るなら、差し出がましい様だが僕の方でも協力させて貰うよ!!」
「や、そうでもなく」
優秀な生徒を何としても手放すまいと声を荒らげる兼古に、李空は全く的外れだ、とでも言いたげに首を横に振る。
「じゃあ!! 何で!!! お前は全国区の選手だ!! 将来、日本の体操を背負って立つべき逸材なんだぞ!?! まさか、徒辞める訳じゃ無いだろう?!!」
「そう!! 其の通り!!!」
苛立ち、怒鳴る兼古に対抗する様に、李空は声を張り上げた。最早、李空は此の場に居る全員の耳目を一身に集めている。
そして、李空は胸を張り、堂々と宣誓した。
「りくは!! アイドルに!!! 成ります!!!!」
必死だった兼古の顔面が、呆けた様な無表情に変わる。辺り一帯が、水を打った様に静まり返る。外の国道を往く大型貨物車の走行音のみが、建屋の中に響いた。
「…………あ、アイドル……?」
辛うじて、拍子抜けした様な腑抜け声で兼古は訊き返した。
「です!! ……いけないですか!?」
李空は一点の曇りも無い顔で、恩師を真っ直ぐ見詰め返した。其の眼には赤い炎が立ち上り、一点の曇り無く、揺るぎない――。
「参ったなあぁ~……」
舌打ちを一つした後、そう呟いて、志川雄路は本日何十回目かの深い溜め息を吐いた。
「……ぅううぅ~……」
全身を戦慄かせ乍ら低い唸り声を上げると、甲斐路結芽は両手で机を思い切り叩き、叫んだ。
「だぁああもぉお~!! 辛気臭いったらありゃしないっすねぇえ~!!!」
叫んでから数秒後、掌に拡がるビリビリとした痛みに図らずも身悶える。悶絶しつつも、
「一緒に仕事する人間の身にも為って欲しいっすよ! そんな舌打ちと溜め息と愚痴連発されたら、こっちの士気も削がれるってモンです!」
と唇を尖らせた。
「ほぉう、お前に士気なんてものがあったとはなぁ~」
志川はニヤニヤして結芽を見返した。結芽は黙りこくり、唯セ氏-273℃の眼差しで志川を見返した。志川は結芽の背後に揺らめく、憤怒が可視化された、気体の様な謎の靄を確かに視認して、ニヤついた口許の儘、硬直した。其の様子を見た結芽は、はぁ、と溜め息を吐く。
「で? 何でそんなにしつっこく、溜め息吐いてたんすか?」
仕方無く、と云った風情で結芽が問い掛けた。志川はメドゥーサの呪縛から解放され、慌てて呼吸を再開しつつ答える。
「い……いや、実は……俺の恩人から、新しいプロジェクトに其の御方の知人の姪っ子さんを入れて呉れ、と頼まれてだな……。俺は、蒼鷲と西船橋と鮎見と小梢の4人で初期メンバーは揃ったと思ってたんだが」
結芽は間髪入れず「はぁあ?!」と眉間に縦皺を刻んで、苛立ちを露わにした。
「何すか其れ?! 可笑しくないっすか!?! 何で他人の意見聞いちゃってんすか? 別に、もう自分が決めた事だったら其の儘行けば良いじゃないっすか!? 社長はU.G.UNITEDで一番偉いんすよ!? 代表なんすよ?! 社長がブレてどうすんすか? 社長は遣りたい事を遣りたい様に遣れば良いんですよ!! あたし何か間違った事言ってます?!」
言いたい事を露骨に吐き出した結芽は、気持ち胸がスッとした感覚を味わっていた。怒鳴られた志川は虚を突かれた様な表情をしていたが、らしからぬ頼りなげな笑顔を浮かべ、弁明した。
「とは言ってもなぁ……其の御方はウチの会社の設立時に一番協力して呉れたんだよ……。あのカローラバンだって、其の御方の計らいで俺が昔勤めていた会社から譲り受けた物だし……。あの御方には色々と恩義が有るんだよ……」
「じゃあ!!」
結芽が再び牙を剥く。
「ソノオカタさんだかアノオカタさんだか知らんすけど! のっぴきならんならそうすれば良いじゃないっすか!? 何を何時迄もぐちぐちぐちぐち言ってんすか?! 別に『俺は気乗りしないけど、もう一人入れる事にした』で良いんすよ!! 寧ろ社長なら、『此れはあの御方が下さった新たな好機なのかも知れない! もう一人追加だ!!』くらい言いそうなモンじゃないっすか?! あたしが何でこんなに怒ってるか分かるっすか?!」
「……い、否……」
「社長が社長らしくないからっすよ!! 社長が溜め息吐きまくったり、陰気なのは見たくないっす!! もっと毅然とした、何時もの格好良い社長で居て下さいよ!!」
結芽は一気に捲し立てて、何かに気付いた様にハッとした。即座に頬を赤らめ、
「と……兎に角、皆の前では堂々としてて下さいよ?! あたしの前では、別に良いですけど……」
と付け加え、更にカーっと赤面して事務机に突っ伏した。志川は一連の不可解な結芽の言動をじっと立ち尽くして聞いていたが、腕を組み一つ頷くと、
「確かに甲斐路の言う通りだな! クヨクヨするのは俺らしくも無い!! 取り敢えず面接してみて、ピンと来るものが有れば採用、引っ掛かるものが無ければ仲渕さんには申し訳無いけどお断りしよう! 此れを機会にするもしないも俺次第! 機会は俺が悪くもするけど、良くも出来る! そう云う事だろ!?」
眼を爛々と輝かせて哮った。
「其処迄は言ってないっす。あと『そう云う事だろ』は大分古いっすよ」
結芽が突っ伏した儘呟いた突っ込みが志川の耳に届いたかは定かでないが、志川は結芽の後頭部に掌を置いて、
「有り難うな、甲斐路」
と言い残して、社長室へ戻り、電話をし始めた。
「……ずりぃよな、そう云うの全部……」
結芽は独りごちた。此れ以上無い程紅潮した頬を隠す為、未だ当分は顔を上げられそうにない。
明くる土曜日、結芽が出社すると、志川の他にもう一人、女性の姿が在った。
「あ……お早う御座います、利嶋さん……」
「お早う、久し振りね。……どうしたの? 結芽、何時もの調子じゃないじゃない」
オフィス内で志川と立ち話を交わしていた女性――利嶋映理は、扉の方を振り返り、優雅に挨拶をすると、結芽の態度に小首を傾げた。
「いや、滅多に居ないお前が居たから吃驚してんだろ。なぁ、甲斐路?」
志川がニヤニヤしつつ訊いてくる。
「あ……えぇ、まぁ……」
「あら……。まぁ確かに、ワシルカちゃんとも一度挨拶しただけだしね。でも私は……現場を離れたくないのよ。所属芸能人達を独りにしたくないのよ……」
映理は悩ましげに眉間に皺を寄せて言った。其の言動には、大人の色気とでも云うべきものが常に付帯している。
「お前の信念は解ってるよ、映理。昔、あんな事が有ったらな……」
「朝から昔話はやめてよ、憂鬱に為るから」
映理は嘗て、成樹エミリと云う芸名でグラビアを中心に活動していたらしい。然し結芽は、映理に関する其れ以上の情報を持ち合わせていなかった。其の過去に何が有ったのか、そして志川との関係性も――。
「でも、此れからはもう少し、事務所に居られる様にするわ。今は居ないけど、ワシルカちゃんともお話ししたいし、結芽に此処の仕事丸投げみたいになっちゃってるしね」
映理はそう言いつつドアの方に歩み寄り、立ち尽くす結芽の頭にポン、と掌を置いた。
「もう行くのか?」
「今日フラウンダーの出るイベントの打ち合わせよ。午前中から出番が有るのよ。……所属グループのスケジュール位、U.G.程度の規模の会社なら頭に入れといて貰わなきゃ困りますよ、『社長』」
皮肉たっぷりに揚音を置いて、映理は返答した。「フラウンダー」は「ゆめぐみ」に統合される予定の、所謂育成組の下部アイドルグループである。志川はタジタジの様子で、後頭部を擦っている。
「じゃあ、結芽、行って来るわね」
「あ、利嶋さん」
映理が自分の頭から手を離し、出て行こうとするのを結芽は引き留めた。
「ワシルカさん、『ワシルカ』って呼ばれるの嫌ってるんで、気を付けてあげて下さい」
眼光鋭く、結芽は言った。其の瞳に、映理に対する全く別の意味を込めて。
映理は一瞬だけ、結芽の眼差しに呼応する様に眼を細めたが、直後にフッと笑い、豊満な胸に押し出されているシャツのポケットに手を差し入れつつ、言った。
「……分かったわ、結芽。ご忠告有り難う。……でも、結芽も『ワシルカ』って呼んでるじゃない?」
「や、其れは……! あたしはワシルカさんから許可貰ってるんで……!」
「蒼鷲は別に許可してはないんじゃなかったか?」
「しゃ、社長迄……!」
映理は一連の遣り取りに微笑み乍ら、胸ポケットから出した薄型の眼鏡を掛けた。そして唸る結芽の頭頂部に再び手を置き、
「結芽、志川を宜しくね」
と呟いた。結芽がバッと振り向くと、其処には元グラドルの色香漂う綺麗なお姉さんの姿は無く、銀縁眼鏡の中に険しい眼を光らせる、辣腕女性マネージャーとしての映理が居た。
「じゃあ」
「あぁ、宜しく頼む」
志川の見送りの言葉と共にドアは閉じ、映理は去っていった。
「あ、あの……」
結芽は閉じられたドアの方を向きつつ、口を開いた。
「ん?」
「あの……しゃ、社長と利嶋さんって、どう――」
其処で結芽は躊躇った。更に云えば、正気を取り戻した。
――其れを聞いて、何に為ると云うのか。自分は、何と云う回答を期待しているのか。もしそうでなかった場合、自分は其の後どう振る舞うべきか――。
種々の問題を勘案した結果、今は未だ突っ走るべきではない、と直感した。
「あ! いえ、何でも……」
首を傾げる志川に、結芽が振り返り有耶無耶にする言葉を発した時、
「ねぇ、志川」
唐突に結芽の背後のドアが開き、再び映理が登場した――少女を一人、従えて。
「此の娘、何か今日U.G.UNITEDに用が有るみたいなんだけど……。外で突っ立って待ってたけど、可哀相だし、今のご時世何かと物騒だから連れて来たわよ?」
「え」に濁点が付いた様な声を発した志川は、半ば呆れ顔で背の低い少女に問うた。
「き……君は、皆砥李空ちゃん……?」
「あ、はい!!」
「仲渕さんの紹介の……?」
「はい!!」
「参ったな……。時間って、正午過ぎって聞かなかったかな?」
頭を掻き、苦笑し乍ら志川は言う。結芽は反射的に腕時計を確認した。分かりきってはいた事だが、午前9時を回った頃だった。
「はい、そう聞いてました! でも気合入ってるのを表明した方が良いかと思って!!」
屈託の無い笑顔で李空は言った。常識・慣習・相手の都合……そんな忖度に塗れた大人達の渋面を撃ち抜いて余りある破壊力が存分に感じられた。無垢と云うものは時に、穢れた心の持ち主に対し強烈な兵器と為る。
「ふふふ……可愛らしいじゃない。リクちゃん、頑張ってね」
映理は李空の頭を軽く撫でると「じゃあ、今度こそ行くわね」と言い残し出て行った。
「……あれ、もしかして拙かったですか?」
室内に流れる雰囲気を察してか、李空は一挙に表情を曇らせる。志川は気を取り直し、
「え、あ……あぁ、否、大丈夫だよ。遣る気が漲ってるのは良い事だ。じゃあ……此方の部屋に入って呉れるかな?」
と社長室の方に呼び寄せた。李空がとてとてと歩いていき、結芽もそれとなく後に続く。李空が入室した所で、志川が社長室の間仕切りの扉を閉めようとする。既の所で結芽が閉扉を阻止し、顔を捩じ入れる。
「またか甲斐路お前は何をしれっと~……」
「いやいや社長、あたしにも見る権利は有るって何回言わせるんすか~……」
扉を挟んだ恒例の小競り合いを繰り広げた後、志川は不意に力を緩めた。
「あっ」
勢い余った結芽は、扉の内側に雪崩れ込む様に入り、志川の身体に打つかって転倒を免れた。
「す、済いません……。でも、良いんですか?」
結芽は赤面しつつ志川の身体から離れ、尋ねた。
「あぁ。小梢の時に言ったろ? お前の眼は信頼出来るんだよ。見たかったら見て呉れて構わない」
なら、普通に入れて呉れても良いのに――結芽は言いかけて、其の言葉を飲み込んだ。志川はそんな結芽を一瞥し、李空に向き直る。
「じゃあ改めて、お互い自己紹介から行こうか? 俺は志川雄路、此のU.G.UNITEDって云う芸能プロダクションの社長を遣ってます。で、そっちのお姉さんが」
「あ、えっと……事務所で電話番とか遣ってる、甲斐路結芽です。宜しくね」
志川からの振りを受けて、結芽も自己紹介をした。
「あ、りく……皆砥李空って云います! 14歳の中学2年です! お願いします!!」
膝に額がくっ付かんばかりの勢いで辞儀をする李空を、志川は眩しそうに見乍ら、
「うん、分かったよ、有り難う。頭上げて良いよー?」
と声を掛けた。其の様子は宛ら幼稚園児をあやす園長先生である。些か舐めて掛かり過ぎだろ、此の娘中2だぞ? 結芽はそう脳内で突っ込みを入れ、自分はより一層引き締めて様子を見ないと、と自戒した。
「で、えっと……李空ちゃんは芸能活動はした事無い……で、良いんだよね?」
「あ、はい! りくはずっと体操をしてたので。半月くらい前です、アイドルに為りたいな、って思ったのは」
「「は、半月……?」」
志川と結芽の反応が丸被りした。李空は二人の驚きを不思議そうに見ている。
「半月前迄……アイドルは眼中に無かった?」
「はい、全く! テレビすらあんまり観てなかったので」
「……で、半月前に何かを見て……?」
「はい! リマーカブルの稀羽ちゃんを現場で見て、『あんな風に為りたい!!』って思ったんです!」
「……なら、導下社長の事務所……ニコムーンプロの方に入りたい、とは思わなかった?」
「だって、ニコムーンに入っちゃったら稀羽ちゃんに近付く事は出来ても、稀羽ちゃんを倒す事は出来ないじゃないですか。りくは稀羽ちゃんに為りたい、って思ったけど……其れって詰まり稀羽ちゃんを倒したい、って事なんだと思ったんです! ニコムーンは内部の誰かに稀羽ちゃんを負けさせる、なんて絶対させないと思うので」
アイドル業界有数の芸能事務所、ニコムーンプロモーションが擁するトップグループが「リマーカブル」だ。其の中でも押しも押されぬ看板メンバーが屶綱稀羽である。蒼鷲琉歌を間接的に引退へ追い込んだ人物としても非公式に認知される所だが、事実彼女の人気は確かなもので、ファンの総数や一般層への認知度等、総合的に勘案したら現時点で紛れも無く最強のアイドルであろう。そして、琉歌を強制退場させる程極端な稀羽推しを進めたニコムーンが、其の甲斐有って名実共にアイドル界を代表する程の存在に為った稀羽を、其の地位から陥落させる事は、先ず有り得ない。此れは云わば現代アイドル基礎知識の1頁目に出て来る様な事柄で、アイドルに興味を抱いて半月と日が浅い李空でも容易に辿り着ける常識だ。
「確かにな。導下社長が屶綱稀羽を他の人間に挿げ替えるなんて有り得ないだろうな……。あの人は斯う、と決めたら梃子でも動かさないからな。其の所為で俺は……」
話を逸らせてしまった事に気付いた志川は、自ら右の頬を張って軌道修正を図った。こんな挙動不審男が代表を張るプロダクションの面接を受けている李空の心中は、察するに余りある。が、当の李空は大して気に留めていなそうで、けろりとしている。結芽は場の異常っぷりに俯いて肩を震わせた。
「……済まない、元い。じゃあ君は、屶綱稀羽を負かせられる、と云うんだね?」
「はい!! りく、稀羽ちゃんを打ち負かす自信、有ります! 少なくとも体操だったら絶対負けませんから!!」
鼻息も荒く気合満々の表情で、李空は顔の前で両拳を握る。
「じゃあ、屶綱稀羽に勝てそうな……此処で出来る様な一寸した体操的な事、軽く見せて呉れるかな?」
「はい!! 証拠、見せます!! 見てて下さい!!」
水色のジャージを上だけ着て、下はひらひらした白いミニスカート姿の李空は、宣言して立ち上がると、椅子から離れてしゃがみ込む。そしてバッと跳び上がると――
ひらりと身を翻し、華麗な背面宙返りを決めた。
ミニスカートは重力法則に忠実で、当然の仕様の如く齣送りに為った時空の中で、李空の色気の無い下着は丸見え状態であった。
「――助走無しでバク宙……凄ぇ」
「てかリクちゃん、パンツパンツ! 見えちゃってたから!!」
結芽の突っ込みも意に介さず、ヘヘ、と誇らしげにVサインを見せる李空に、嘆息頻りの志川は紛う事無き可能性を垣間見た。
扨、皆砥李空をどう活かそうか……と志川が早くも考え出した時、結芽が李空に駆け寄り、其の姿を志川から覆い隠す様に立って、言い聞かせた。
「こら、リクちゃん! 志川社長の前でパンツとか見せちゃ駄目でしょ?!」
「え? でも……稀羽ちゃんとか、他のアイドルの娘でも、よくテレビとかでパンツ見えちゃってるじゃないですか?」
李空は心底疑問に思っている様で首を捻った。志川が尋ねる。
「え……あれ見せパンじゃないの?」
「……『みせぱん』って何ですか?」
李空は穢れの無い瞳をくりくりと輝かせて、首を傾げる。――無垢と云うものは時に、強烈な兵器と為る。
「そりゃ半月じゃ、アンスコみたいな重ね履きの知識が無くても仕方無いですよ」
そう言って結芽は小さく溜め息を吐いた。
「まぁ、そうか……。じゃあ甲斐路、其処等辺の教育も頼むぞ」
「え……」
もう採用決めたんですか? と、迚も口を挟める様子ではない。志川は見るからに猪突猛進モードだ。
「じゃあ、皆砥」
「は、はい!!」
志川は李空に右手を差し伸べる。
「今日を以て、お前はU.G.UNITEDの一員だ。宜しく頼むぞ」
李空は幼げな顔をパッと輝かせた。大きな双眸が躍っている。
「はい!! 宜しくお願いしますっ!!!」
体育会系仕込みの威勢の良い挨拶と共に、李空は志川とがっちり握手を交わした。
契約に関しての一連の口頭説明が済み、結芽が李空に署名を貰おうとした頃だ。
「……あぁ、風邪引いたか?」
其れ迄電話として席を外していた志川が鼻を撮み乍ら社長室に戻り、独りごちた。そして景気付ける様に声を張る。
「いや然し皆砥、お前は本当に凄いな! あんな離れ業見た事無いぞ!?」
「あぁ……でも、りくの周りには此の位余裕な人が一杯居たので」
懸命に理解しようと書類に目を通している、と云った風情の李空は、事も無げに答えた。
「あ……そりゃあ凄い環境だ……。確か、有名な体操教室に通ってたんだよな?」
「はい、兼古先生はオリンピックに出たとか出ないとか……。あ、惜しい所迄行った、って言ってたかな? でも全日本の大会では優勝してるみたいです、そう云えば」
李空はごく普通に言ってのけた。大会優勝とか、五輪代表候補とか、そう云う類の言葉が日常的に頻出する環境なのだろう。
「……そんな凄い所で、テレビも碌に観ない位練習してたのか……。確かに握手した時の掌の……何て云うか、剛性感? 小さい手なのに確りした感じだったもんなぁ……」
志川が感嘆する一方、結芽は異論を述べる。
「否、テレビは別に関係無くないっすか? 親御さんが観ないとか、家庭環境かも知れないですし、寮とかじゃなく体操教室に通ってたって事は、朝から晩迄ずっと練習してた、って訳でも無いんでしょうし。観ようと思えばテレビ観る時間は有ったんじゃない?」
「はい、そうですね。お母さんがあんまり観てなかったし、りくの部屋にテレビ無かったですし」
「いやいや、其れ位禁欲的に遣ってた、って事だよ。……皆砥、お前何歳から体操遣ってるんだ?」
「幾つからかは覚えてないですけど……幼稚園の頃から遣ってたので、もう10年は」
志川と結芽は、はぁ~、と揃って感嘆した。書類に目を通し終わり、机上に置かれたノック式ボールペンを手に取る李空に、志川が問う。
「其れだけ積み重ねて、練習環境も良くて……皆砥、ひょっとしてお前、凄い選手なんじゃないのか?」
李空は署名欄に三菱鉛筆のジェットストリームを走らせ乍ら、飽く迄も素っ気無く言う。
「……そうかも、です。だってりく、全国一位ですもん」
李空は記名を終えると、書類を両手で持ち、結芽に差し出した。
「…………あれ? どうしたんですか?」
志川と結芽は、顎が外れるかと思う程に開口していた。がくん、と手で以て顎関節を戻し、志川が口角泡を飛ばす。
「お……お前、良いのか?! 全国一位なんて、そんなの簡単には成れないだろ? ……芸能界だって、本気なら片手間で遣れる様な世界じゃないぞ?」
「はい、分かってます! なので兼古先生の教室は、もう辞めてきました! アイドル一本で遣るって、決めたので!!」
志川は再度絶句した。代わりに結芽が言葉を継ぐ。
「あ……あのね李空ちゃん、もう少し考えた方が良いんじゃない? 全国大会で優勝した、って事でしょ? そんな選手が、アイドルに為りたいからって、辞めるなんて……」
「……いけませんか?」
李空は俯いた。志川は、其の声が僅かに低くなったのを聞き逃さなかった。
「いけない、って訳じゃなくて……李空ちゃんは体操を極めたかったんじゃないの? 10年以上続けて、当然才能も有って……そんな選手が、アイドルなんかに為るって辞めたら……」
「さっきから……っ!」
李空は顔を上げ、真っ直ぐに結芽を見据える。
「アイドルを、馬鹿にしないでください!! りくが憧れたものを、馬鹿にしないでください!!!」
李空は眼を見開いて怒鳴った。だが正直な所、小型犬が威嚇して吠えるみたいな感覚で、背筋が冷える様な迫力には欠ける。怒りに肩を震わせ、ふぅふぅと荒い息を吐く其の姿も、宛らチワワだ。それでも結芽は、一人の少女を激昂させてしまった事を率直に申し訳無く思った。
「…………あ……御免ね? 言葉遣いが悪かったよ……。あたしが悪かったから……。馬鹿にする心算は無くてね……」
「あ……いやっ、りくこそ済みませんでした! 生意気な事言ってしまって!!」
普段の不遜な態度は何処へやら、すっかり萎れてしまった結芽と、反省頻りの李空は互いに黙りこくり、場は停滞した。
「皆砥……一つ、訊いても良いか?」
暫く何かを考えていた志川は、右手で顎を擦り乍ら口を開いた。
「あ……はい!」
「俺の思い過ごしかも知れんが……お前、体操を辞めたかったのか?」
「…………はい」
あ、と声に為らぬ声を上げ、結芽は李空から志川へと順に視線を移した。
「……そうか、だからか。お前は……体操への情熱を喪っていた。そんな中で屶綱稀羽を見て、『アイドル』と云う新たな道を見付けた訳だ。……ずっと一筋に追っていたものへの執着を喪う時ってのは、一種の敗北感が伴う。自分に負けた様な気がするんだよな……。そんな状態で発見した『アイドル』ってのは、嘸かし輝いて見えただろうなぁ……」
志川は眼を細めた。視界の先に、眩む程の光源を幻視する。
「お前はアイドルへの憧憬が人一倍強い。沈みきった気持ちの中で見付けた、新たな希望とでも云うべき存在なんだから、そりゃあ当然だ。だから、希望を軽視する様な発言に我慢ならなかった……そうだな?」
李空はこくりと一つ頷く。志川は椅子に座る李空に合わせ、しゃがみつつ眼を合わせた。
「差し支えなければ、皆砥がどうして体操を厭に為ったか……教えて呉れるか?」
物心付く前から、近所の体操教室に通っていた李空に取り、体操は生活の一部であった。両親は当初、体が硬いよりは柔らかい方が良いのではないか、と云う軽い考えで通わせ始めたらしい。が、取っ掛かりはどうあれ、李空は次第に非凡な才能を開花させていった。小学校中学年の辺りで、試しにと勧められて出場した大会であっさり優勝し、其の現場に居合わせた兼古翔兵に見初められた。其れ以降、元五輪代表候補で優秀な指導者、と云う触れ込みで独立した直後だった兼古の教室に移籍し、更に練習した。平日は殆ど学校帰りに練習を行い、土日は大抵潰れた。其の環境に就いて、李空は特に不平不満や異論反論を抱かなかった。其れが幼い頃からの日常だったからだ。
兼古は、積極的に李空を大会に送り込んだ。恐らく其れは、何方かと云うと自らの指導者としての株を上げる為だった感も有るのだが、李空は然程気に留めていなかった。全国大会ともなると流石になかなか良い成績は残せなかったが、それでも徐々に順位を上げている事実は何よりも励みになった。小学生時代最後の全国大会で李空は3位になり、初めて表彰台に上った。此の頃から、兼古を筆頭に関係者の眼の色が変わってきて、体操教室の仲間達の態度も妙に恭しく為ってきた。
そして昨年度の全国大会、李空は中学に上がって初めての全国大会で優勝した。表彰台の頂に立った李空は、其処で初めて考えた。――自分は、何故、体操を遣っているのか?
一度気に為り出したら、もう振り払う事は出来なかった。幼い頃から続けているから? でも其れだと、始めたのは自分の意思ではない、と云う事に為る。自分の意志で始めた訳では無い事を、此処迄遮二無二頑張れるものだろうか。では、兼古達に求められ、仲間達に囃し立てられるから? 其れは考えたくなかった。今迄の数年間の、物心付く前から取り組んできた事が、他人の為、人の評価の為だったなんて、虚しくて受け入れ難かった。ならば、結果を残す為? だとすれば、もう達成してしまった。連日、会う人から褒められ続け讃えられ続け、何を祝福されているのか分からなくなっていた。人は、称賛され続けた場合、二種類に分類出来る。無尽蔵に其の称賛を受け入れ、只管鼻を伸ばす者と、褒められれば褒められる程に白けていき、気分が降下していく者だ。対象と為る者が、実際にどう云った内容を、どの程度の頻度・数量で、どの程度の時間・金額・労力・覚悟を掛けて乃至懸けて成し遂げたか、にも因るとは思われるが、此の時の李空は後者であった。或る日の練習中、李空はトランポリンの最高到達点で、ふと気付いた。――あれ、何時から、楽しくないんだろう……。
そして李空は、初めて練習を無断欠席した。級友に誘われて、リマーカブルの公演へ行ったのだ。特に中心の屶綱稀羽は、眩しかった。純粋に、憧れた。稀羽に為りたい、そう思った。幼稚園児が特撮ヒーローや児童向けアニメのヒロインに為りたがるのとは似て非なる。本気で為りたい、と感じたのだ。そして、何故そう感じたのかを分析した。其の結果が、今だ。
「……次は、投げ出さない。自分で見付けたものだから、厭にもならない。そう、決めたんです。だから、りくはアイドルに為ります。続けていくんです。……何としても」
――此の情熱は、確かなものだ。志川は実感した。蒼鷲、西船橋、鮎見、小梢……各々が持つ、内に秘めている熱と同じものが、皆砥にも確実に在る。
「……話して呉れて有り難う、皆砥。お前は、きっと……良いアイドルに為るよ」
志川は真正面から眼差しを、李空に送った。李空は熱を帯びた眼を志川に返して、口を真一文字に結び、大きく頷いた。
「そうだ……。甲斐路、一寸頼まれ事――」
何か閃いた志川が、結芽に依頼を発注しようと目を向けて、言葉を呑み込んだ。結芽は、声を上げず涙を流していた。其の流れは留まる事を知らず、止め処無く溢れている。
「……だ、大丈夫か?」
「あ……いや、平気です……。李空ちゃんが、そんな決意を抱いてたなんて……。そりゃあ、懸ける気持ちも半端じゃないし、あたしの発言に怒る訳です……。御免ね、李空ちゃん……。本当に、御免ね……」
自分の手を取り、咽び泣く結芽を、李空は持て余した。困惑の視線を志川に送る。
「あぁ……甲斐路もお前と同じく、アイドルに懸けてた彙類でな……。大目に見て遣って呉れ」
志川は手刀を李空に送る。とは云え、自身も頼み事をしたいので、稍間を開けて、声を掛ける。
「……甲斐路、悪いが小梢に連絡取って呉れ。今何処に居るか、此れから予定空いてるか、訊いて呉れないか?」
「ふぇ……な、何でですか……?」
「いやまぁ……皆砥と小梢の歌唱力を診る為に、一緒にカラオケに行こうと思ってな。蒼鷲のグループが5人に為った場合、二人は『妹組』に為る訳だし、顔合わせの前に先行して相性を見とこうと思って……」
結芽はえぐえぐとしゃくり上げ、左手で李空の手を握り乍らも器用にiPhone5Sにフリック入力する。
「……即行返事来ました。『今日は空いてる。近くに居るから事務所に向かう』……らそうれす……うぅ……」
何時迄も自分の手を離さない、また何時迄も泣き止まない結芽を、李空と志川は希望が来る迄の間、持て余し続けた。
――――其の前日。
「此処が……ルゥさんが通ってた……」
「そう! 自動車の専門学校。実家から一番近かったから。……言い方は悪いけど、何でも良かったの。兎に角、勉強でもして、気を紛らわせたかったから」
カローラバンは、静岡県中部の路肩にハザードランプを焚いて停車していた。東京からの長旅で、すっかり暖まったエンジンは、作動を止めて猶、キンキンと名残惜しそうに鳴いている。
琉歌に促され、カローラバンから降車した糺凪は、背伸びする様に軽く伸張して、深呼吸をする。同国内で、緯度も経度も殆ど変わっていないのに、気分的なものだろうか、吸い込んだ空気が東京の其れとは僅かに異なる気がした。空気を味わう糺凪に、琉歌がそっと声を掛ける。
「じゃあ、私挨拶してくるから」
「あ……あたしも行きますよ」
「……うん。じゃあ、先ずは事務員さんの所に行こうか」
糺凪を引き連れた琉歌は、迷い無く来客用の玄関へと足を向ける。淀み無く歩く琉歌の背中を見て、糺凪は改めて、琉歌が此の学校に通っていたのだ、と云う実感を得た。
硝子戸を開けて、事務室の出窓を琉歌はコツコツと打擲する。アクリル製の窓が開き、40代後半と思しき女性が顔を出した。
「あらぁ~琉歌ちゃん久し振りねぇ~! 元気にしてた?」
「ご無沙汰してます……まぁ、二ヵ月経ってないですけど」
琉歌が苦笑交じりに会釈をするので、釣られる様に糺凪もぺこりと辞儀をした。
「U.G.UNITEDの所属アイドルの西船橋糺凪です。今回私と同行してまして」
「あ……えと、西船橋糺凪です……。宜しくお願いします……」
銀色の袖の派手なスカジャンを羽織り、冷血系の顔立ちをした現役アイドル、と云う要素を悉く裏切る、人見知り全開の自己紹介をした糺凪を、事務員さんはこの上ない慈しみの表情で受け容れた。
「はい、レナちゃんね。此方こそ宜しく。可愛い子じゃないの~」
「ええ、弊社の自慢の娘ですから。まぁ歌が巧いんですよ!」
「あの……ルゥさん恥ずかしいです……」
糺凪は隣に立つ琉歌の右腕の袖を引っ張り、制止する。事務員の小母ちゃんは、そんな糺凪の反応を見て微笑んだ。
「何か、アイドルらしくない子ねぇ~。褒められて恥ずかしがっちゃうなんて」
「……まぁ、一口にアイドルと云っても、人それぞれですから……。私だって褒められたら照れますもん」
「あら~……まぁ、そうよねぇ~。スレてない子が居たって良い……寧ろスレてない方が良いわよねぇ~。琉歌ちゃんだってスレてる感じじゃなかったし……。あ……御免なさい琉歌ちゃん、昔の話はしない方が良いかしらねぇ……?」
「いえ、大丈夫ですよ、そんな……お気遣い無く」
「あぁ……昔の話と云えば、琉歌ちゃん、またアイドル遣るんですって? ……大丈夫なの?」
「えぇ、以前の事務所じゃないんで、大丈夫です。ご心配有り難う御座います。……でも、良くご存じでしたね。テレビじゃ殆ど流れませんでしたけど……」
「そりゃあ、だって……。学生達が口々に言ってたもの。『琉歌さんは大丈夫なのか』とか『また大変な思いしないだろうか』って……。ほら、琉歌ちゃんの一学年下の……」
「あぁ……唯惟とかですかね……」
「あ、そうそう! 唯惟ちゃんとかねぇ、深海君とかねぇ」
「あぁ……シンカイ君。そうですね、皆事情解って呉れてますからね……。心配掛けちゃったみたいなんで、一言挨拶でも」
「あぁ! そうよねあたしったら。世間話なんかより、先に皆の所に行かせてあげれば良かったのにねぇ。一寸待ってね、一応琉歌ちゃんは今日はお客さんだから、あたしが案内役として一緒に行くわね」
そう言いつつ、事務員さんは事務机や鉄製の書棚を避ける為に室内を大回りして、小窓の横に在る扉から廊下に出て来た。
「じゃあ、案内しますねぇ。此方へどうぞ」
「いやいや、校舎内は知ってますよ。つい此の前迄通ってましたから」
ほほほほ、と笑い合い乍ら歩き始める二人の背中を、糺凪は黙って追った。琉歌と事務員さんとの会話には参加する心算も無かったが、もし参加しようとしていても出来なかっただろう。二人が共有している内容を、糺凪は知らない。知ったかぶりを平然と噛まして話に参加出来る程、糺凪は鉄面皮ではない。
建物に入ってから、まるで自分の知っている「ルゥさん」ではなくなってしまったみたいだ――とさえ、糺凪は思っていた。知らぬ間に、気分がモヤモヤしている。其れが何故なのか、今は分かりそうもない。
「――多分、崇貴君とかも、相当心配してるんじゃないかしらねぇ~」
「あぁ、そうですね。タカキとか、ゆーまとかですね。後で連絡しておきます」
「そうしてあげて。あの子達は特に、琉歌ちゃんの事、気に掛けてたからねぇ~」
相変わらず、糺凪の分からない、関われない内容の会話が続いている。糺凪は俯きがちに、胸のモヤモヤの訳を探り乍ら歩いた。
「糺凪ちゃん」
ぼんやりと床に眼を落とし乍ら歩いていたので、糺凪は声を掛けられる迄、琉歌達が止まっているのに気付かず通り過ぎてしまう所だった。
「あ……済みません、一寸考え事を……」
「御免ね、糺凪ちゃんには良く分からない状況だし知らない土地だし、?だらけだと思うけど……。また後で、全部説明するからね」
琉歌はそう言うと申し訳無さそうに微笑みかけ、糺凪の黒髪を撫でる。糺凪は琉歌に、全てを見透かされている様な気がした。
「さぁ、入るわよぉ」
事務の小母ちゃんが、壁に備え付けられた鉄製の扉を押し開ける。蝶番から微かに軋む音がした。
扉の向こうには、車庫が在った。乗用車が車庫の左右に一台ずつ配置され、それぞれの車の周囲に数人ずつ、複数の集団が居る。
「皆ぁ、授業中悪いけど、琉歌ちゃんが来たわよぉ!」
事務員の小母ちゃんが声を張り上げた。生徒達の視線が一挙に集中する。次の瞬間――。
「琉歌さん! お久し振りです!!」
「待ってました!」
「何でも言って下さい!!」
各々声を上げ乍ら、灰色の実習着を身に纏った生徒達が扉に駆け寄って来る。どうやら琉歌は相当、慕われている様だ。糺凪は一見して、そう理解した。其の人柄の賜物だろう、と推測出来る。
「暫く振りだね、琉歌君」
琉歌を取り囲んでいた生徒達の列が自然と割れて、奥から一人の中年男性がモーゼの如く現れ、声を掛けた。
「武藤先生、ご無沙汰してます。……まぁ言う程ご無沙汰じゃないですけど」
糺凪以外の、其の場に居る全員が笑う。再び何とも言えない気不味さを覚え、糺凪はゆっくり下を向いた。
「今日は無理言って申し訳有りません。実習がてら整備をお願いしたくって……」
「そんな他人行儀に為らんでも良いのに……。まぁ、低姿勢なのが琉歌君の良い所でもあるんだがな」
「そうっすよ! 琉歌さん、水臭いっすよ!」
武藤教員の言葉を継いだのは、アッシュグレーのミディアムヘアを毛先でくしゅくしゅさせた頭髪の女子だ。無論、他の生徒と同じく、実習服を着用している。
「唯惟……有り難う。恩に着るよ」
「だからそう云うのが……」
「まぁまぁまぁ……。じゃあ琉歌君、早速車両を入れて呉れないか」
「あ……はい、分かりました」
琉歌が開け放たれたシャッターから外に出て行ってしまい、糺凪は急速に心細くなった。此処に、自分の存在を知る人は、誰も居ない。土地柄も分からない。完全なる孤立無援に、突如として陥ってしまった。
こんなにも、自分が孤独に弱かったとは……。糺凪は、混乱していた。自分とて、曲がりなりにもアイドルの端くれだ。現状よりも緊張する場面や、不安が伴う現場も経験して来た。なのにどうして、こんなにも胸拉ぐ思いをしているのか。
――否、自分はルゥさんに依存しているのだ。無論、半強制的に見知らぬ土地へ連れて来られたのだから、致し方無い事ではあるのだが。
「……それで、君は何方様かな?」
不意に、武藤教員が糺凪に尋ねた。
「あ、えと……」
「此の子はレナちゃん。琉歌ちゃんの新しい会社のアイドルさん。ね?」
事務員さんが助け舟を出して呉れた。有り難い、と感謝しつつ糺凪は伏し目がちに名告る。
「あ、あの……西船橋糺凪と申します。今度、ルゥ……琉歌さんと同じグループに入る者です。宜しくお願いします」
糺凪は頭を下げた。生徒達が軽くどよめいている。所々耳に入って来る声の内容は、琉歌がアイドルとして復帰する、と云う報道が矢張り本当だったのか、と云った、琉歌を案じるものだった。
「ねぇ……ニシフナバシちゃん?」
糺凪が頭を上げると同時に、唯惟と呼ばれていたくしゅくしゅアッシュグレーの女子生徒が声を掛ける。
「あ……はい、何でしょう?」
「その……琉歌さん、本当にまた、アイドル……遣るの?」
全生徒の懸案事項を代表した質問だったのだろう。糺凪は居合わせる全員の視線が自分に集中しているのを感じた。
「あ……えぇ、あたしはそう聞いてますけど……」
生徒達が再び騒めく。再びくしゅくしゅアッシュグレーが訊く。
「琉歌さん……大丈夫なの、かな……?」
糺凪は此処へ来て漸く、生徒達の顔を見られる様になった。生徒達は皆一様に、まるで自分に災厄が降り掛かっているかの様に不安げな表情をしている。――蒼鷲琉歌と云う人は、どれ程愛されているんだろう? 糺凪は生徒達の表情とは対照的に、ほんの僅かに口許を緩めた。少しだけ、精神の凝りが和らいだ気がする。
「……心配無いと思います。U.G.UNITEDは割と優良な方だと思いますし、琉歌さんも『もう一度遣れるんだったら環境は選り好みしない』って仰ってましたし」
「……そっか、そうなんだ……。やっぱり琉歌さん、遣りたかったんだね……」
全員が、ほっとした様な、胸の痞えが取れた様な顔に変わっていくのを見て、糺凪は不思議と嬉しくなった。後ろで様子を見ていた事務員さんが糺凪に一歩近寄り、耳打ちする。
「琉歌ちゃん、良い子だからねぇ。誰にも嫌われてないし、誰もが心配して呉れてるのよ」
そんな子、中々居ないわよねぇ、と付け加え、事務員の小母ちゃんは微笑んだ。
「貴女の先輩は、尊敬に値する凄い人よ」
ことU.G.の在籍歴では自分の方が先輩ですが――などと云う屁理屈は、糺凪は口にしない。人生も芸歴も、琉歌が大先輩である事に変わりないからだ。唯、肯定の言葉を返す。
「おい皆、整備対象が来るぞ」
武藤教員が咎める様な声を上げると、ざわついていた生徒達は途端に一端の整備工の顔に為った。
琉歌はカローラバンをそろりそろりと慎重に車庫内に乗り入れさせる。車庫の中央辺りに車を停めてエンジンを切り、降りてドアを閉め、唯惟達に言う。
「クラッチの交換と、諸々の潤滑油の点検をお願いしたいの。後は……此れはまぁ別に良いけど、何故かラジオの調子が滅茶苦茶悪い、みたいな所かな……」
「お安いご用です!!」
「任せて下さい!」
「何でも言って下さい!!」
口々に頼もしい言葉を浮かべつつ、生徒達は挙ってカローラバンを取り囲んだ。其の様子を微笑みつつ眺める琉歌は、武藤教員に話し掛けた。
「そう云えば、100系のカローラワゴンが教材車だったな、って思い出しまして。まさか運良く予備のクラッチ迄有るとは思いませんでしたけど……」
糺凪は中央に鎮座し、生徒達に取り囲まれるカローラバンと、向かって右側に在るワゴン車を見比べた。成る程確かに全体の造形は瓜二つである。此のワゴン車が、糺凪達が乗って来たカローラバンと共通の部品を用いている、と云う事なのだろう。
「あぁ、丁度良かったよ。実習の一環として遣るから費用も浮くしなぁ」
「……はい、済みません。甘えさせて貰います……」
「なぁに、構わんさ。つい此の間迄在学してた卒業生の――況してや琉歌君の頼みとあれば、誰も文句なぞ言わないさ。生徒達も案じていた所だったし」
「――あの、琉歌さん……」
会話に割って入ったのは、くしゅくしゅアッシュグレーこと坂西唯惟である。右手に工具を握った儘、眉尻を下げて琉歌に問う。
「さっきニシフナバシちゃんに訊いたんですけど、本当にまたアイドル、遣るんですよね。……大丈夫ですか? その……また酷い目に「唯惟、止めようよ」
割って入ったのは、谷本深海と云う男子生徒だ。エンジンルームに半身を突っ込み、手を動かし乍ら言う。
「琉歌さんが決めた事だろ。きっと色々考えた末に決断したんだ。さっきニシフナバシさんがああ言ってたんだから、もう外野がどう斯う言っても邪魔でしか無いでしょ?」
唯惟は反論しようとするが、継ぐ言葉は見当たらない。
「シンカイ……だって」
「シンカイ」と云うのが谷本深海の名前の漢字から考案された渾名である事を、糺凪が琉歌から説明されるのは、もう暫く後の事である。
「……御免ね、皆に心配掛けちゃって。……結局、東京の芸能事務所に就職したのも、アイドルへの憧憬が少なからず残ってたからだと思うの。……私は、幼い頃からアイドルが好きで、古今東西のアイドルに詳しく為る内に憧れて、或る日気紛れに応募したニコムーンの登用試験に拾って貰って。いざ自分が憧れていた場所に立つ様に為って、責任感と……或る種の誇りを持つ様に為って……。楽しい事、嬉しい事ばかりじゃなかったし、寧ろ辛くて窮屈な事の方が多かったし、最後はまぁ、突然だったけど……やっぱりそれでも私は、アイドルが好きなんだなぁ、って……改めて感じた。だから、もし……一度棄てられた私が……事実上『要らない』って言われた私が、またアイドルに為れるのなら……どんな形でも良いし、どれだけ叩かれたって気にしないし……酷い扱いを受ける覚悟も出来てる。だから……皆は心配しないで。……気持ちは嬉しいよ! それだけ私の事を考えて呉れてる、って事に対して報いる事が出来る様に頑張るから。……皆、有り難うね。此れからも応援、宜しくお願いします。……何か一人で纏めちゃったけど」
琉歌は話し終えると、はにかむ様に苦笑した。糺凪は唯、嘆賞の吐息を漏らした。琉歌の傍に居ると、度々彼女の抱く覚悟を垣間見るが、改めて其れに触れた気がする。そしてふと糺凪が周囲を見渡すと、生徒達は皆、手を止め今にも泣き出しそうな表情をしている。くしゅくしゅアッシュグレーこと唯惟など、最早しゃくり上げている。武藤教員や事務員の小母ちゃんもホロリと来ている様子だ。
此処の人達、どんだけルゥさんの事好きなんだよ……。糺凪は半ば呆れつつ、心の奥底で少しだけ悔しがった。決意表明を聞いただけで泣ける程、未だ糺凪は琉歌に就いて深くは知らない。
琉歌が其の場の全員を感動の坩堝に陥れた為、温かくもしんみりした空気に為ってしまった。其れを感じ取った琉歌は慌てて状況の回復を図る。
「あ……じゃ、じゃあ、カロバンの整備、お願いします!」
琉歌の言葉に、逸早く正気を取り戻したのは武藤教員だった。
「お……おい皆、手を動かせ! 金曜・土曜で全部仕上げるぞ!」
武藤教員の声で生徒達は、憑き物が落ちたかの様に作業を再開し始めた。
「……先生、それじゃあ、宜しくお願いします」
「あぁ、琉歌君。任せておいて呉れ。まぁ、手を動かすのは生徒達だが」
ははは、と笑う武藤教員に呼応し愛想笑いを浮かべる琉歌を眺め、やっぱりルゥさんは優しいな、と糺凪は皮肉気味に思う。
「じゃあ、そろそろ……。糺凪ちゃん」
琉歌は武藤教員に会釈して、糺凪を促した。
「あ、はい。お邪魔しました……」
「そう云えば琉歌さん、今から何処か行くんですよね? 移動手段って有ります?」
カローラバンのインパネ周りを弄っていた唯惟が、不意に手を止めて問い掛けてきた。琉歌は一瞬ポカンとした顔を浮かべ、
「あ~……其処迄は考えてなかったね」
と苦笑いした。其の横顔に眼を遣る糺凪は、何故蒼鷲琉歌と云う人物が、苦笑の交じらう表情ですら此れ程迄に可愛らしいのかを頻りに考察していた。
「じゃあ、あたしの練習機、使っちゃって下さい!」
「え……良いの?」
「勿論です! 駐車場に停まってる白い後期のS14です!」
「うん、知ってる」
遣り取りに一同が笑う中、糺凪は数回目の疎外感を覚えた。然し以前よりも苦痛ではない。“慣れ”と云うものは、人類の持つあらゆる機能の中で最も優れているものではなかろうか。
唯惟はポケットから取り出したキーリングから日産の鍵を外し、琉歌に差し出す。
「じゃあ、好きに乗り回しちゃって下さい。琉歌さんなら何しても構わないんで!」
「いやいや、そんな無茶しないって。丁寧に乗るから。有り難う、唯惟」
鍵を受け取り、琉歌は唯惟の頭頂に手を伸ばした。くしゅくしゅアッシュグレーの唯惟がご主人様に撫で褒められる、良く懐いた飼い犬に見える。糺凪は微笑ましく思う反面、少し嫉妬した。
「御免ね糺凪ちゃん。何の説明も無く見知らぬ人達の前に連れ出して。居辛かったでしょ?」
建物を出て、裏手に在ると云う駐車場迄歩く道すがら、琉歌は謝意を示した。
「あぁ……でも、あたしが一緒に行くって言ったので。独りで待ってたらつまらなかったでしょうし」
「だけど、私が糺凪ちゃんの立場だったら、一寸面倒だな、って思うからね……。あ、アレだ」
新しげな舗装が黒光りする駐車場の一角に、白いS14型日産シルビアが停まっていた。所々擦り傷が目立ち、車高が落とされた其れは、所謂典型的な走り屋仕様で、ハヤシレーシングのアルミホイールを履いている。
「渋いなぁ~。敢えて社外品のエアロも付けずにリアスポイラーも取っ払ってる。そう云う素っ気無さが妙に戦闘的なんだよね」
琉歌は糺凪が全く理解し得ない単語を並べる。「自動車に詳しい琉歌」も、糺凪に取っては未知である。糺凪の知らない琉歌の側面が、まだまだ相当有る。
「糺凪ちゃーん? 乗って乗って!」
琉歌は一足先に運転席に収まっていた。車内から若干テンション高く呼び掛けられる。
気が付いたら、校舎内で強烈に感じていた胸のモヤモヤは、霧散していた。其の代わり、胸部の中央から稍左寄りに、内側から締め付けられる様な痛みが仄かに感じられる。
――あたしは、もっともっと、ルゥさんの事を知りたい。知らなきゃいけない。同僚として、仲間として、そして何より、個人的に――。
糺凪はシルビアの助手席側の把っ手に手を掛け、胸に誓った。
「ルゥさん、色々訊いても良いですか?」
「うん、何でも!」
S14シルビアは片道二車線の県道を走っている。落とされた車高から予想された通り、カローラバンよりも乗り心地は硬い。恐らく競技的走行の為だろう。
「じゃあ、先ず……、ルゥさんが此の車を借りた時に、あのくしゅくしゅした娘……」
「唯惟ね。坂西唯惟」
「その、ユイさんが『練習機』みたいな事言ってたじゃないですか、此の車の事……。普通、移動手段に使う車の事、そんな風に言わないですよね?」
「あぁ……糺凪ちゃん、『ドリフト』って知ってる?」
「否……分からないです」
「だよね。私も専門学校入る迄全く知らなかったもん。平たく云うと、車両を制御し乍ら横滑りさせる事なんだけど……。元々は峠……山道を走り回る様な人達の文化から出て来たものなんだけど、徐々に競技化されていって、今や複数の全国大会が催されて、競技だけで食べてる人も居る位になってるんだけど。私も、学校入ってから誘われて、仲間内で少し遣った事も有ったんだけどね。唯惟は仲間内じゃ一番巧くて、確かアマチュアの大会で優勝した事も有るって言ってたな。でね、そう云う大会では登録抹消して本格的に色々改造した競技用車両に乗る訳。そう云う車って、普段の一寸した練習では使えないし、一般道も走れないから、競技大会で使うドリ車――本番機に対して、普段使いする練習機、って訳」
「……成る程」
正直、ピンとは来なかったが、糺凪は取り敢えず返事をした。今、其れを仔細に掘り下げるのは、何か違う気がしたからだ。詳しくは後で検索すれば良いだけの話だ。
シルビアは赤信号に捉まり、停車した。BRIDE製のバケットシートに収まる琉歌は、助手席の方へ頭を向け、催促する。
「他には? 何か訊きたい事、有る?」
「あの、えっと……何か雑然とした質問なんですけど……」
糺凪は上目遣いに琉歌の様子を窺う。琉歌は一つ頷いて許諾する。
「ルゥさんは、どんな感じだったんですか? その……地元に戻って来た時って……」
折悪しく、信号が青に変わった。琉歌は一旦前を向き、純正のシフトノブを1速に入れる。社外品だが、然程扱い辛くはない強化クラッチを滑らかに繋ぐと、S14後期型シルビアは見た目に似合わず穏やかに発進した。余り引っ張らず、直ぐに2速にシフトアップする。左手を介して伝わるギアボックスの動作に、嫌な渋さは無い。
「唯惟、大事に乗ってるなぁ……」
思わず琉歌は、独り言を呟く。3速に入れると同時に、琉歌は口を開いた。
「あの頃、私は……碌に他人とも話せなかった」
糺凪は琉歌の横顔を見遣る。助手席は純正の座席だが、路面の微細な凹凸を正確に太腿に伝えてくる。
「実家に帰って来て、一週間は引き籠もってたかな……。色々考えてたよ。どうして自分は棄てられたのか? 自分にはもう価値が無いのか? 残された仲間達やファンの皆は、どう思ってるのか? ……でも、明確な解答の無い事を悩み続けるのは、一週間が限界だね。考えるのが厭に為るんだよ。考える事に疲れ果てる。若しくは、考え続ける事に飽きる、って言っても良いのかも知れない。……それで、屋外の空気が吸いたくなって、外に出たの。ぶらぶら近所を歩いて――其の時丁度平日のお昼だったし、住宅街だから人目にも付かずにね。で、偶々あの学校の前を通り掛かって。ほら、私アイドルしかして来なかったから、何か手に職付けるのも良いかなって――此れはまぁ後付けだけど、さっき言ったみたいに、兎に角何か勉強して思考を整理したかったんだよね。それで其の場でさっきの事務の小母さんに相談したら『今なら来年度の新入生として扱えるよ』って言って貰えたから、じゃあ入学します、って」
琉歌は破顔した。糺凪は相槌を打とうと、丁度良い言葉を探る。
「だ……大分、何と云うか…………適当なんですね……」
失敗した。糺凪は過言に口を覆うが、反して琉歌は笑い飛ばした。
「否、全然問題無いよ。私も其の時そう言ったもん。『随分適当なんですね』って。そしたら小母さんも『まぁそんなモンよ』みたいな事言うから、『お、おぅ……』みたいなさ」
7点式ロールバーが走る車内は、段差を踏む度に鼠が鳴く様な軋み音がする。が、それよりも所々剥ぎ取られた内装の所為で、タイヤの走行音や排気音の車内への侵入の方が酷く、鳴き声は大して気に為らない。
「まぁ、そんなこんなで通い始めたけど、やっぱり最初は馴染めなかったな。未だ世間が色々騒がしい時期だったし、私も別に、身の上話を自分から拡げる心算も無かったし。でも、或る頃から打ち解け始めたんだよね。其れからは、さっきの後輩――あの学校2年制だから、あの子達1学年下なんだけど、あの子達も含めて皆、私に良くして呉れて。……其れはやっぱり、ゆーまとタカキに出会ったからなんだと思う。此の二人の事も、また追い追い紹介するけど」
琉歌は助手席側のドアミラーに眼を遣り、更に左後方を目視し、左折する。糺凪はそんな琉歌の横顔を眺める内に、心の裡で一つの懸念がむくむくと膨らんでいくのを感じ取っていた。
「あの……ルゥさん」
「ん?」
其れも一人の健全な人間としての幸福なのだ、とか、何をしようとどう生きようと生き様は当人の勝手である事は重々承知ではあるのだが、とか、数瞬の内に色々と考えたが、訊きたい気持ちが優った。自らの制御の範疇を外れて、糺凪の口は開いていた。
「あの……さっき学校でも出てましたけど、その……『タカキ』さんとか、男の人の名前……。あの、ルゥさんって、多分現役時代にはそう云う相手って居なかったと思うんですけど…………その、ルゥさんって、男の人と付き合った事って……」
糺凪は思い切って琉歌の顔を見た。琉歌は頭ごと糺凪の方を向き、糺凪の視線を真正面から受け止める。そして眼を僅かに細めて口角を上げ、妖艶に微笑んだ。糺凪は初めて見る琉歌の色気に満ち満ちた表情に戸惑いつつ、其れ以上に琉歌が明確な否定をしなかった事に衝撃を抱いた。
「……まぁ、取り敢えず行こうよ! 其れに関してもまた後で話してあげるから」
糺凪は打ち拉がれ乍ら周囲を窺った。シルビアは駐車場に停車しており、背後には黄色基調の建物が在る。其の看板に記された文字を、糺凪は呟く。
「100円ショップ……」
「そう、100円均一店! 結構色々有るからね、今後の私達に必要な物とか」
「此れからの……?」
まぁまぁ、と琉歌に促され、二人は100均に入店する。店舗は2階に在るらしく、上り側だけ設えられたエスカレータに乗ると、琉歌は慣れた足取りで売り場の奥へと進んでいく。
「ルゥさん、此処良く来るんですか?」
「うん。私がデビューする前から遣ってたから、子供の頃結構来てたよ。……大まかな配置は変わってないね。確か此の辺に……」
琉歌はそう言うと棚に目を配り始めた。糺凪が辺りを見回すと、LEDの豆電球やCD-R、USB充電コード等の並ぶ一角だった。
「……あ! 有った、此れだ!」
琉歌は吊り下がっているプラ袋入りの商品を手に取った。糺凪は其れを琉歌の背後から覗き込む。
「……分配器?」
「そう! イヤホンジャックの分配器! 此れが有れば一つの音源を同時に二人で聴ける」
「一つの音源……」
「で、此れも昼間のSAで注文しといたんだけど……」
琉歌はiPhone5Sを取り出し、Amazonの商品説明画面を糺凪に示す。
「地デジTV用片耳イヤホン……?」
「そう! 此れ、左右の音が一つのイヤホンに集約されて出力されるヤツなの。良く小型携帯ラジオとかに片耳イヤホンって付属品で有るんだけど、大概そう云うのって左右どっちかの音しか出力されないモノラルってものなのね。簡単に言うと、普通のイヤホンの片耳を取っ払ってある感じ。でも此れは左右の音を合成して片耳分のイヤホンに出力する……」
糺凪の顔が豪く曇っている。雲量10と云った感じだ。琉歌は正気に戻り、反省した。
「……まぁ、そんな片耳ステレオイヤホンって云うのを2つ頼んだ、って話。……何か、御免ね? つまんない話だったよね」
「……え? あ……もしかして眼付き悪かったですかね? 良く言われるんです、済いません……」
糺凪はパッと笑顔を作り、逆に謝罪した。先程、心に突き刺さった棘が悪さをして、顔色を曇らせてしまっていた様だ。琉歌の話を阻害してしまった詫びの意を込めて、糺凪は続きを促す。
「それで、其の片耳イヤホンと、其の分配器で……?」
「あ、うん。片耳のステレオイヤホンを2個買ったから、分配器に両方共接続する。で、其の分配器をiPhone5Sに繋げる。すると、同じ音源を同時に聴けるって訳!」
糺凪には未だ、話が見えない。首を傾げて意思表示する。
「ほら、今度ガールズバンドの方達と遣らせて貰うじゃない? あれ、唯の糺凪ちゃんのカラオケ大会じゃ捻りが無いし、勿体無いと思ったのね。で、勿論歌うのは糺凪ちゃんだけど、私も曲を覚えて、軽いコーラスとか、一緒に簡単な振り付けとか遣ったら面白いかなぁ、って考えてるんだけど……。今後のプロジェクトの予行演習も兼ねてね。糺凪ちゃんには言ってなかったけど、それでも良いかな……?」
糺凪は大袈裟でなく、感動していた。センスレスネスと云うバンドにカラオケで配信されない曲を演奏して貰い糺凪が歌う、と云う約束を琉歌が覚えていた事、そして琉歌が糺凪との新しいグループの事を確り考えていた事に就いてだ。尤も後者に関しては、琉歌がプロジェクトを一任される様なので、当然と云えば当然なのだろうが。
どうも琉歌と居ると、感情が動いて仕方無い。僅かに潤む瞳を意識しつつ、糺凪は満面の笑みで返答する。
「ルゥさん……最高です!」
PETボトルのミルクティーを口に含み、糺凪はキャップを締めてドリンクホルダーに置く。内張は所々剥がされているが、車室中央部分は其の儘残されているお陰で、ドリンクホルダーは存在した。
「ルゥさん、ご馳走様です」
「良いって。飲み物位、幾らでも奢るから」
100円ショップから出て、S14後期型シルビアは再び市道を走り始めた。運転する琉歌が口を開く。
「さっきの『タカキ』の話なんだけど……」
「あ……はい」
「未だ私が学校に馴染めてなかった頃、『ゆーま』……宇部把佑麻って云う同級生の女の子が、唯一話し掛けて呉れたの。どっちかと云うと、他の皆は戸惑ってるのか、距離を置いてる感じで……。まぁ、友達作りに来てる訳じゃ無いし、私は勉強して頭脳に知識を入れたかっただけだから別に良かったんだけど、でも今思うとやっぱり、寂しかったんだと思う。……きっと、ゆーまも少なからず勇気が要ったとは思うんだよね、私に話し掛けるのは。何せ、忽然と姿を消したって報道されてる、電撃引退したアイドルが、何故か地方の同じ専門学校に居る訳だから。それに、私が親和的じゃなかった所為でも有るけど、周りの誰も私と話してなかったし……。ほら、有るじゃない? 誰も仲良くしてない同級生って、自分も話し掛け難いって云うか、色々忖度しちゃう、みたいな雰囲気って」
糺凪はシルビアを操る琉歌の横顔に向けて頷いた。
「そんな中、ゆーまは話し掛けて呉れた。ゆーまは、高校卒業してから1年は事務系の仕事してたんだけど、幼い頃から自動車整備士に憧れてて、それで思い切って会社を辞めて専門学校に通い出したんだ――って、そんな身の上話から始まって。私も会話に飢えてたのも有るし、意気が合って仲良く為り出してね。……あの頃、ゆーまに救われたなぁ。あの儘、ゆーまが仲良くして呉れてなかったら、私は今も立ち直れずに燻ぶってたかも知れない。私は勝手に、心の支えにしてた、ゆーまの事を。其れ位、大事な人」
糺凪は胸が苦しくなって、俯いた。琉歌の心情を慮ったのと、其の当時琉歌を支える役目を担えなかった悔しさとが綯い交ぜに為って、スカジャンの上から胸の辺りをぎゅっと押さえた。冷静に考えると、其の頃の糺凪は琉歌と何ら接点も無く、佑麻の代わりに為れる筈も無いのだが。
「で、其のゆーまが校内で一番仲良かったのがタカキなの。碓氷崇貴って云って、県内に凄い影響力が有る碓氷興産グループの御曹司なんだけど、親子仲は険悪みたいで、会社は継がせないって言われてるから手に職付ける為に学校に入った、って言ってたな……。で、実はタカキ、リマーカブル時代の私のファンだったんだよ。もう本当に大ファンだったみたいでね、気にしてたけど恐れ多くて話し掛けられなかった、って。昔ゆーまが訊いた事があったんだけど、『本当にガチのワシルカ推しだったから、話すのも烏滸がましいですし、付き合うなんて以ての外です』ってさ」
琉歌は思い出し笑いを交えて語る。
「だから、糺凪ちゃんが心配してたみたいに、タカキと付き合ったりはしてないよ」
此処へ来て漸く糺凪は、自分が大層失礼な質問をしたのだ、と自覚した。人間に取って最も私的な事柄の一つである、交際経験に就いて問うなど言語道断である。自分の身に置き換えて考えると良く解る。間違い無く、良い気はしない。それを、艶やかな笑み一つで不問にして呉れたのだ、糺凪は改めて琉歌の寛容さに首を垂れると共に、自身に猛省を促した。
「あの……ルゥさん……今更ですけど、済みませんでした。滅茶苦茶個人的な事、訊いちゃって」
「うぅん、良いんだよ。私は糺凪ちゃんに何も隠し立てする心算無いから。それに、あんな事訊いて呉れるって云うのも、私に興味を持って呉れてる事の証左だしね」
琉歌は言い終えると左眼のみを瞑った。助手席から横顔を見ている糺凪に其のウィンクが伝わるかは判らなかったが、取り敢えず遣っておく。
「…………はい」
琉歌の方を向いていた糺凪は、俯いて呟く様に返事をした。其の頬はほんのり赤らんでいる。
気付いたら、シルビアは可成り入り組んだ路地に分け入っていた。車幅一杯と迄はいかないが、相当に狭い幅員の道を行っている。
「糺凪ちゃん、そろそろ着くよ」
教習所のクランク路の如き曲がり角に、バンパーの先端を気にしつつ社外品のハンドルを切る琉歌が言う。
「……何処にですか?」
糺凪は問うが、琉歌は乗り慣れない車の鼻先をブロック塀に擦らない様に気を配りつつ、絶妙な左足の操作でクランクを無事通過する事に神経を傾けていて、応答出来なかった。借り物の車両である以上、慎重に慎重を重ね、クランクを通り抜けた所で、琉歌は答えた。
「私の実家に」
空いている本来の駐車枠を避けて、軒先に捻じ込む様にS14型シルビアは駐車した。車室から降りた糺凪は、足を置いた庭先から2階建ての一軒家を見上げ、
「ルゥさんの……ご実家……」
と呟いた。
「だから、そんな恭しく言わないでってば」
聖地を拝む様な目線を送る糺凪に、琉歌は苦笑交じりに釘を刺し、シルビアを施錠する。
「じゃあまぁ、上がって?」
琉歌は小ぶりな黒いハンドバッグから家の鍵を取り出し、円筒錠を開ける。
「ただいまぁ」
「お……お邪魔します……」
各々の挨拶を繰り出し、二人は敷居を跨いだ。廊下の奥から、五十路過ぎと思しき女性が姿を見せる。
「お帰り、琉歌。……其方の娘が糺凪ちゃん?」
見た目若っぽいが、よくよく見ると年相応の容貌の女性は、大凡30年後の琉歌と云った感じだ。糺凪は最敬礼し、
「ルゥさ……琉歌さんのお母様、初めまして! 琉歌さんと同じU.G.UNITEDでアイドルとして活動する、西船橋糺凪と申します! よ……宜しくお願い致します!!」
10年振りに声を発したかの様な間違った声量で自己紹介をした。
「あらあら、元気ねぇ。そう堅苦しくなくても良いわよ? 糺凪ちゃん」
「そうだよ、企業面接じゃないんだから……。糺凪ちゃん、さっきから可笑しいよ?」
そりゃ可笑しくも為るわい! と糺凪は辞儀をし続け乍ら口腔内で突っ込んだ。頬の辺りを中心として、顔面が異様に熱を帯びている。
「ほら糺凪ちゃん、何時迄お辞儀してるの? 私のお母さんだよ? 別に『お母様』なんて畏まった言い方する様な人物じゃないって」
苦み走った笑みを浮かべ、琉歌は言う。琉歌の母親が反応した。
「ちょっと? それじゃ、母さんが大した事無い人みたいじゃない」
「あ、否……世間的には、って意味だよ?」
「全然改善されてないじゃない」
漫画の様な遣り取りを交わす親子を見て、糺凪は自然と笑顔に為った。其れを眼に入れ、蒼鷲親子も胸を撫で下ろし、笑みが零れる。3人で暫し、笑い合った。
「じゃあ、上がるよ」
「あっ、御免なさいね、気が利かなくて。どうぞ上がって。つまらない家だけど。あ、私ね、実江って云うの。実が生る江戸で、蒼鷲実江。静岡生まれの実江ちゃんです!」
「あ……はぁ」
「だからさお母さん、其の滑ってるヤツ止めなよ。糺凪ちゃん困ってるじゃん」
「あら、母さんは素晴らしいと思ってるわよ? 実江と三重県掛けてるし。掴みの鉄板ネタなんだけど」
「其の鉄板、キンッキンに冷え切ってるから。熱された鉄板だから受ける訳で、冷めた鉄板は唯の鉄板だからね?」
「はぁ~、『飛べない豚は唯の豚』的なね。勉強に為るわぁ」
「……良いから! もう早く上がらせてよ! 糺凪ちゃんの前で恥ずかしい!」
一連の応酬が終わり、靴を脱いで揃えている時、糺凪は小さな疑問を抱いた。琉歌に追従し乍ら、小声で訊く。
「……あの、何で実江さんはあたしの名前をご存じだったんでしょう?」
「あぁ、SAで連絡しといたからね。『今日帰るよー。糺凪ちゃんって云う娘連れて、今週末泊まるよー』って」
琉歌は糺凪に合わせ声を絞って返答する。詰まり、あのSAでの休憩は必然だった訳だ。U.G.に、専門学校に、そして琉歌の母親に、諸々を連絡する為に。更に、Amazonでステレオ片耳イヤホンを注文をする為に。糺凪と一緒に唯メロンパンを食んでいただけでなく、裏では各所に根回しをしていたのだ。糺凪は琉歌の裏方としての仕事振りに、改めて敬服した。
廊下の先に居室が在り、琉歌と実江に促され、糺凪は紺色の人工皮革のソファに座した。其の姿を見ていた実江が問う。
「そう云えば、糺凪ちゃんは荷物持ってないの? 琉歌も略手ぶらだけど」
「あ……急なお話だったので……」
「そう。急に思い付いちゃったからしょうがないよ。まぁ私は実家に帰るだけだし、糺凪ちゃんも最悪要る身の回り品は経費で遣っ付けちゃえば良いかな、って」
「アンタ……社長さんに叱られるわよ? そんな適当な事じゃ……」
「もし何か言われたら建て替えれば良いだけだし。私も未だ其処迄、困ってないから」
「まぁ知ってるけど……。2年前帰って来るなり此の家のリフォーム代出して呉れたもんねぇ。お陰で水回りとキッチンも遣って、屋根もガルバに葺き替えられたし」
「ガルバ」とはガルバリウム鋼板の事で、近年普及している建材である。
「此の前も軽自動車新車で買ってたし。あれも結局、貯金でしょ? やっぱり相当、稼いでたのよねぇ、蘞い話」
「うん、本当に蘞いね。止めよう? 糺凪ちゃんの前で金銭的な話は……」
「そうね……。余りにも生臭い話だもんね」
「……あのさ、『銭臭い』って単語、日本語に在る?」
糺凪としては、正直もう一寸聞きたかった。糺凪が、そして世間が知らない、琉歌の空白の2年間に就いて知る、貴重な機会なのだから。
「……はぁ、もう良いよ。お母さんと話すと疲れる。糺凪ちゃん、私の部屋行こう? 2階だからさ」
実母との丁々発止の遣り取りに溜め息を吐いた琉歌は、糺凪を誘った。
「あ、じゃあ此れ持って行きなさい」
居室と一繋がりに為っている食堂兼台所の奥に在る階段へ歩く琉歌に、実江が食器棚の下段の戸棚から三幸製菓のパックを取り出し、手渡す。
「ついさっき買って来たのよ。『こだわりのコク旨おかき』。初めて買ったから美味しいか分からないけど」
「あぁ……糺凪ちゃん、米菓食べる?」
「あ、はい。有れば……」
「じゃあ、貰ってく」
琉歌を先頭に、階段を上っていく糺凪の背中に、実江は訊いた。
「あ! 糺凪ちゃんって、無糖珈琲飲める?」
「えぇ、平気です」
「そう。もう一寸したら持って行くわ」
「あ、いえ……お構いなく……」
「良いの良いの。客なんだから、気なんか遣わずに持て成されなさい」
言い残し、実江は台所に消えていった。♪が可視化された様な語尾である。
「そうだよ。気なんて遣わなくて良いから。早く上がって」
琉歌が階段を上がりきった所から声を掛ける。糺凪は実江を気にしつつ、琉歌を追った。
階段の先に在る角部屋が琉歌の部屋だった。入室すると右手に幼少期からの物と思しき学習机が、其の奥にベッドが在り、逆側の壁面には書籍やCD等が居並ぶ棚と洒落た箪笥が鎮座している。
「まぁ座って?」
琉歌は学習机の横に立て掛けてあった小さな折り畳み机の脚を展開し乍ら、部屋の中央付近の座布団を眼で示す。
「……お邪魔……します……」
糺凪は頻りに周囲を見回し乍ら、何等かのキャラクターが印刷された座布団の上に座る。
「ほいっと」
軽やかな掛け声と共に、琉歌は小さな机を糺凪の眼の前に置いた。そして机を囲む様に、糺凪の斜向かいに腰を下ろす。
「いやいや……漸く一寸落ち着いたね……。あ、取り敢えず此れでも開けとく?」
琉歌はおかきの外装の上側表裏に小さく印刷されている赤い星印の箇所を撮み、開封した。比較的柔らかいPSの透明トレーを引き摺り出す。
「何か、凄い……木みたいですね、見た目」
「確かに! 此れとか、略木材だよ、見た目! ほら!」
琉歌が個包装された内の一つを手に取り、ビニール包装を破く。二段仕込み醤油のお陰か、将又鰹節パウダーの仕業か、或いは縦に数本桟が刻まれた形状の所為なのか、ほんの少し光沢の有る褐色に彩られたおかきは、表札宜しく長方形に切り出された材木を連想させた。
「……あ、でも此の木、旨いよ?」
「……本当ですね。若干辛味も有って」
二人は手の平を返す様にして、舌鼓を打った。丁度其の時、部屋の扉が打擲される。
「コーヒー淹れたから、飲んで?」
琉歌の返事を受けて、実江が盆を手にし、部屋に入る。折り畳みの机の上に盆を置くと、会話の邪魔をしない様に、との配慮なのか、おかきを数個くすねると何も語らずさっさと出て行った。琉歌は閉まった扉と机上の盆に乗っかった二つのカップを見遣り、呆れ顔で言う。
「……あの人の好みなんだよ。ブラックコーヒーにお煎餅とか合わせるの。普通其処は緑茶じゃない? 折角静岡なんだしさぁ」
糺凪はおかきを一枚食べきって、コーヒーカップに口を付ける。
「……否、でも……思ったより悪くないですよ」
「優しいね、糺凪ちゃんは。まぁ私も別に、言う程嫌いな訳じゃないけど」
琉歌はそう言ってコーヒーを啜り、手提げ鞄に手を伸ばす。暫し弄って、青い携帯電話を取り出した。
「あれ? ルゥさん、其の携帯って……」
「あぁ、此れ? へへへ、未だにガラケーなんだ、私。操作性が気に入っててさ……」
「じゃあ、あのiPhoneは……?」
「あぁ、あれは支給品。U.G.からの」
「あ、そうだったんですね……」
糺凪の語尾は僅かに寂しげである。其れを察知した訳では無いが、琉歌は不意に、
「自家用のケータイにも糺凪ちゃんの連絡先、入れとこうかな?」
と呟いた。糺凪は即答する。
「あ、是非!」
糺凪は嬉しかった。個人用の携帯電話に登録される事で、唯の同僚、単なる仕事相手から一歩昇格出来る気がしたからだ。
地元に連れて行き、知人に紹介し、共に実家に帰る程なのだから、言わでもの事ではあるのだが。
「……扠!」
互いの携帯電話に改めて連絡先を登録し終え、琉歌は仕切り直しだ、と云わんばかりに自らの両腿を叩いた。
「糺凪ちゃん、今度のカラオケ大会は何の曲を歌うんだっけ?」
「あぁ……The Mirrazの『プロタゴニストの一日は』と、日笠陽子の『風と散り、空に舞い』ですね」
「じゃあ、此のiPhoneにダウンロードしちゃって呉れないかな? iTunesで配信してるよね?」
琉歌はパスコードを入力し、ロックを解除した状態のiPhone5Sを糺凪に差し出した。
「あ、えぇ、多分……。両方共メジャーレーベルの曲なんで……。でも、公用携帯に落としちゃって大丈夫なんですか?」
「うん、平気だと思うよ? 云わばプロジェクトの第一段階なんだし、必要経費だよ! 私が歌覚える為だし、此の音源で振付とか考えるんだし」
「そうですね……」
糺凪はiPhone5Sを受け取り、身震いする様な感覚を受けた。其れは今後への期待と緊張、僅かな不安や心配が混淆した、有り体に言えば武者顫いに近似したものだった。気持ち亢進した心拍数を気にしつつ、右の人差し指でiTunes Storeのアイコンをタップする。糺凪はアンドロイド端末利用者だが、其の操作で特に困る事は無かった。軈て決済の段階に為り、サインインが求められた。
「あの、ルゥさん……」
糺凪が注視していた画面から顔を上げ、パスワードを尋ねようとした時、琉歌は青色のau端末のテンキーを忙しく操作していた。
「……あ、御免。どうしたの?」
琉歌はスパークリングブルーのS007を床板に画面を伏せて置き、柔らかく訊いた。糺凪は無言でiPhoneの画面を示す。
「……あぁ、パスワードね。御免ゴメン……」
琉歌はiPhoneを受け取り、タッチパネルに入力していく。糺凪は黙って琉歌の様子を窺う。
「……はい。もう一曲買う時、また入力するから、貸して? 御免ね、遣って貰ってるのに……」
恐らくルゥさんは、自分が曲を買う様に頼んだにも拘らず携帯を弄っていたからあたしが臍を曲げた、と思っているんだろう――糺凪はそう推察した。そして、其処迄他人の思考を読んで応対する琉歌をいじらしく思った。
「……いえ、あたしは大丈夫ですよ。そんなに心狭くないですから」
「あ……そう、だよね。ははは……」
敢えて突き放す様に、iPhoneを受け取り乍ら糺凪が言うと、琉歌は迎合する様な、宥め賺す様な猫撫で声を返した。糺凪は若干の罪悪感を抱き、
「ルゥさん、あたしが拗ねたと思ったでしょ?」
と戯けた声で笑顔を浮かべた。琉歌は弾かれた様に否定する。
「え……いやいや! 全然そんな事……無いよ」
「……まぁ、ルゥさんがそう言うんなら其れで良いですけどね。でも……」
「……でも?」
「ルゥさんが誰と連絡してたかは気に為るかも、です」
言ってから、また琉歌に干渉し過ぎた、と後悔を覚えた。本当に自分と一切関係の無い相手との遣り取りである可能性も大いに有ると思い直し、糺凪は付け加える。
「……まぁ、別にどうしても教えて欲しい、って訳じゃないですけどね?」
話し乍ら2曲目のダウンロードに際してのパスワード入力画面迄進み、再びiPhoneを琉歌に差し出す。なかなか琉歌が受け取らないので糺凪が顔を上げると、琉歌はニヤニヤと笑っている。
「……な、何ですか?」
「いやぁ、可愛いよね、糺凪ちゃん。ツンデレみたいで」
「……え?」
唐突に、予期せぬ方角から褒められて、糺凪は虚を突かれた気分だ。
「あ、此の場合『デレツン』なのかな? 今一用法が分かんないや。まぁ兎に角、糺凪ちゃんが妬いてる彼女みたいで可愛い、って話」
琉歌はニヤニヤし続けている。からかい返されているのだ、と糺凪が勘付いたのは、数瞬後だった。
「……ルゥさん、そう云う角度で来るの止めて下さいよ……」
はっきりと赤面しているのを自覚し乍ら、糺凪はパスワードが入力されたiPhone5Sを受け取った。
「じゃあ糺凪ちゃん、行こっか?」
ダウンロードを終え、iPhoneで歌詞サイトを閲覧しつつ楽曲を再生する琉歌と、一緒に為って曲を聴き乍ら時折会話をする糺凪は、暫く落ち着いた時間を過ごしていた。
そんな時間が今、琉歌の一声に因って終熄した。
「……え、何処へです?」
至極真っ当な糺凪の疑問に、琉歌が答える。
「さっき、糺凪ちゃん知りたがってたじゃない、私が誰と連絡取ってるか、って。あれの回答にも為るんだけど、今日学校で会った唯惟とシンカイ君、あとさっき話したゆーまとタカキ、此の四人と私達で落ち合ってご飯でも、って話でね。私としても、特にゆーまは糺凪ちゃんに紹介したいし。まぁ、私が居るし、昼間みたいに置いてけぼりにはしないから、ご飯行くと思って気軽に、ね?」
固より糺凪には、此の地で琉歌と別行動を取る、と云う選択肢は無い。琉歌と云う緩衝材抜きで、実江と二人で夕食を迎えるなど、想像も出来ない。……実江を嫌っている訳では無いが。
「分かりました、行きます」
糺凪の返事を聞いた琉歌は満足げに頷くと、
「よし、出発だ!」
と上機嫌に宣言した。
S14後期型日産シルビアは、もう随分走っている。琉歌の家を出た頃は未だ西日が強くなっていた程度だったが、今はすっかり陽も暮れて、辺りは夕闇に包まれていた。地理的にも市街地を離れ、灯りも疎らな山間に来ている。
「料理店って、こんなに遠い場所に在るんですか?」
「否、今向かってるのはお店じゃなくて、其の前に一旦集合する所。もう一寸で着くから……」
何方かと云うと白色に近いヘッドライトの光が前方の曲がりくねった道を照らす。軈て辺りを覆っていた木々が突然失せ、景色が開けた。
「……着いた。此処だ……」
青白い光源が照らし出す看板を、糺凪は其の儘読んだ。
「『モーターパークベースTDHS』……?」
「うん。『Thin Drifting Hub Spot』の略だったかな? 『Thin』って云うのは英語で『薄い』って意味で、タカキの名字の『碓氷』と掛けてるらしいんだけど。まぁ要するに、資金力にモノを云わせて山を切り拓いて、ドリフトとか色々出来る様に整備した場所だね」
「へぇ……。凄いですね……」
看板を曲がり、緩く右にカーブしつつ上っていく真新しい舗装路を、シルビアは徐行していく。入り口迄の導入路の長さからも、そこはかとなく潤沢な予算が感じられる。そして、施設の入り口に到着した。
「あ、あれタカキのクルマかな?」
琉歌が指差した先には、派手な青色のメタリック塗装が施された、如何にも改造車と云う風情のトヨタ・ヴェロッサが在った。其の奥に在る、導入路とはそぐわない掘っ建て小屋が入場口の役割を果たしている様だ。眼に突き刺さる様な色をしたヴェロッサの横に立っていた男性が、シルビアに気付いて手を振ってくる。
「いやぁ、お久し振りです! 急遽帰って来られる、って聞いたもんで」
シルビアから降車し、近付いて来る琉歌に男性は話し掛けた。
「そうだね、今朝決めたからさ。カロバンの点検整備が眼目なんだけどね」
琉歌の後を付ける糺凪は、車内から聞こえていたエンジン音とスキール音に気を取られている。
「あ、糺凪ちゃん。紹介するね。此奴がタカキ。全く疚しい関係じゃない」
琉歌は茶化し乍ら自己紹介を促した。男性は動揺している。
「えぇ、何すか其れ?! ……えっと、碓氷崇貴です。此の間迄、琉歌さんと同じ専門学校に通ってた同級生で、今21歳です。宜しく」
糺凪は一通り簡潔に名告り返し乍ら眼の前の男性――崇貴を観察した。爽やかな黒い短髪には、何処かしら軽薄そうな匂いも伴う。すらっとした長身に真っ白なシャツが似合っている。顔立ちも整っていて、俗に云う美男子だ。糺凪は内心で、思い切り顰めっ面を飛ばして遣った。
「……もう来てるの? 随分走ってるけど」
「えぇ。唯惟とシンカイが一寸前に来て、もう走ってますね。佑麻さんは少し遅れる、って言ってました。琉歌さんも其れ迄、どうですか? 久し振りに一っ走り」
「うーん、他人のクルマだと気が引けるなぁ。慣れてないし……。車両選ばない程巧くないしね」
「S14、どうすか? 唯惟は『良い』って言いそうですけど」
「あぁ、『何しても良い』って言われたけど、ねぇ……。私、下手だし」
「いやぁ、シンカイより巧いじゃないっすか! レナちゃんにも魅して遣ってくださいよ、先輩の雄姿を! ねぇ、レナちゃん? 見てみたいよねぇ?」
此の流れで自分に話が振られる事は無いと思い、気を抜いていた糺凪はぎょっとした。
「あ、え…………はぁ」
「ほら! レナちゃんも斯う言ってますし! 佑麻さん、琉歌さんのクルマで来るって言ってましたし、是非!」
「……うーん、まぁいっか。Ⅴ35なら」
「よし! じゃあ、中で待ってて下さい。僕は入場口で佑麻さん待ってるんで」
一旦シルビアに戻り、入場門を潜る。場内には二階建てのプレハブ小屋と十台程度は停められそうな屋根付きの車庫、そして他の施設と比較して可成り上等そうな見た目の工場の様な建物が在るが、敷地面積の殆どは唯の舗装された地面である。其の広場には赤いコーンが幾つも置かれて、疑似コースが形作られているらしく、オレンジ色のスポーツカーと灰色のセダンがけたたましい音と白煙を上げて走り回っていた。
「……だから、山中なんですね」
糺凪は耳を塞ぎつつ、琉歌に話し掛けた。耳を劈くスキール音と唸るエンジン音、そしてタイヤと路面の摩擦に因る、強烈なゴムの焦げる臭いに包まれている。
「まぁ、土地が安いって云うのも有るんだろうけどね。或いは此処等辺一帯の土地を碓氷興産グループが持ってたか。……後者かな? 何にせよ市街地では反対意見が強すぎて無理だろうし」
琉歌は懐かしげな眼でドリフト走行する二台の車両を眺めつつ、轟音に負けない程度に声を張って答えた。
「琉歌さん! どうすか一っ走り?!」
一旦走行を止め、赤みの強い橙色に全塗装されたZ32型の日産フェアレディZから颯爽と降りた唯惟が、ヘルメットを外し乍ら崇貴と同様に琉歌を誘った。
「否、私はゆーまがサンゴー持って来て呉れたら遣るよ」
「えー、そうすか? 別にあのイチヨン潰しちゃっても良いっすよ?」
くしゅくしゅアッシュグレーこと唯惟はおちゃらけて言う。すると、琉歌の眼は途端に険しくなった。
「唯惟、そう云う事軽々しく言っちゃ駄目でしょ。……今日乗って分かったよ。唯惟、『練習機』とか『潰しても良い』とかって言う割には、結構気に入って大事にしてるんじゃない?」
軽く説教された唯惟はしゅんとして、宛ら主人に窘められた小犬の様だ。
「……はい。済みません」
「唯惟、琉歌さんに怒られるのも久し振りじゃんか?」
灰色のトヨタ・アルテッツァから降りて来た谷本深海が茶々を入れた。唯惟は照れた様に反応する。
「う……煩いなぁ……」
完成された関係性だなぁ――糺凪は遣り取りを眺めつつ思った。表舞台を2年間去っていた琉歌は、此の世から消えた訳ではない。地元で彼等と共に時を過ごし、斯うした関係を構築していたのだ。
「そう云えば、ニシフナバシちゃんは何歳なの?」
不意に唯惟から投じられた問い掛けに因って、数歩離れた場所から3人を眺めていた糺凪は会話に参加する事となった。
「あ……あたしは20歳です。今年21に成りますけど」
糺凪の返答を聞いた唯惟は「え」に濁点が付いた様な声を発し、途端にバツが悪そうな表情に変化した。
「……あ~……。生意気言って済みませんでした、ニシフナバシさん!」
糺凪がきょとんとする一方、琉歌は笑い声を噛み殺している。
「え? あの……どうしました?」
「ニシフナバシさん、今迄の非礼、どうかお許し下さい! あたし、今年二十歳に為るんで、ニシフナバシさんの一歳下なんです!」
唯惟は勢い良く頭を下げた。糺凪が弱り顔頻りなのとは対照的に、琉歌は肩を震わせている。
「……あの、あたしってそんなに……怖そうに見えます……?」
頭を下げ続ける唯惟に、眉尻を下げた糺凪が問い掛ける。琉歌は辛抱堪らず噴き出した。代弁する様に深海が言う。
「唯惟、畏縮し過ぎ。ニシフナバシさんはそんな人じゃないでしょ。あとニシフナバシさんも、そんなに唯惟の発言を真に受けないで下さい」
大した事ではないのだが、不思議と面白く、4人で笑い合った。そうする内に、崇貴が遣って来た。
「お、皆さん楽しそうだねぇ~。ところで唯惟、Zの脚廻り、あんな感じで良さそう?」
「あぁ……そうっすね、前輪側がもうちょい硬い方が良いっすかね……。現状でも問題無いっすけど、そうして呉れた方がもっと遣り易くなるかな……?」
「了解。修正しとくよ。……で、琉歌さん。お待ち兼ね、ですよ」
唯惟との業務報告的な遣り取りを終えた崇貴は、琉歌に向かって爽やかなウィンクを寄越した。糺凪はそんな崇貴に「いーっ」と歯を剥き、「んべーっ」と舌を見せる自分を空想した。
「え? ……あ」
瞬間に琉歌の頬が染まる。心の支え、と迄言って憚らない友人との再会に胸躍っている事が端的に分かり、糺凪の心に薄雲が懸かった。
程無くして、紺色よりは少し淡い青のV35型日産スカイラインのセダンが乗り入れられ、運転席から水色のツナギを身に纏った女性が降り立った。ショートカットの其の頭髪は、稍くすんだオレンジ色に染め上げられている。
「ゆーま! 元気にしてた?!」
琉歌が駆け寄っていく。糺凪は広がっていく琉歌との物理的な距離を脳内で勝手に置き換えて、心の暗雲を厚くした。
「いやいや、たかが二ヵ月位だろ、ルカ」
「否、まぁそうだけどさ……」
唯惟や深海も再会を果たした二人に歩み寄っていくが、糺凪は立ち尽くす。ふと、崇貴が他の誰からも見えない様に、糺凪に手招きしている事に気付き、行かないと、と思い糺凪も歩き出した。踏み出す一歩が、何故か矢鱈と重い。ひょっとすると顔色も悪くなっているかも知れない。ふらふらと数歩進んだ所で崇貴が迎え入れる様に、必要最低限の音量で声を掛ける。
「どうした? 何処か調子悪い? 大丈夫?」
潔癖な迄に欲気の無い素振りで、崇貴は糺凪の身を案ずる。
「……平気、です……」
「……そう? まぁ、無理しないで「こら!! タカキ!」
飽く迄も紳士的な振る舞いを見せる崇貴に、其の姿を眼に入れた琉歌が吼えた。
「アンタ何ウチの糺凪ちゃんにちょっかい出そうとしてんの!!」
「あ、否、誤解ですって……」
へらへらと釈明する崇貴を眺めて、まぁ第一印象よりも悪い奴ではないか、と糺凪はぼんやり思った。それよりも、琉歌が自分の事を蔑ろにしていなかった事が、心の曇りが薄らぐ程度には糺凪の気持ちを浮上させた。
「ほら、琉歌さん知ってるじゃないですか。俺がそんなに手の早いリア充系統の人間じゃない、って。イケてる見た目に似合わず」
「自分で言うかね……。最終的に自慢に為ってるんだよ、其れじゃあ。糺凪ちゃん、来て?」
「あ……はい」
糺凪を呼び寄せた琉歌は、大手石油販売会社である大成石油のツナギを着たオレンジ髪の女性を紹介した。
「糺凪ちゃん、此れがさっき話したゆーまね」
「『此れ』って……。宇部把佑麻、宜しく」
「あ……西船橋糺凪です。琉歌さんと同じ事務所でアイドル遣ってます。宜しくお願いします……」
佑麻が手を差し伸べて来たので、糺凪も手を差し出し、握手を交わした。
「……じゃあ、フナレナで良い? 呼び方」
「あ……えぇ、大丈夫です……」
呼ばれ慣れない渾名に戸惑いつつも糺凪は承諾した。握手を終え手を離し、佑麻は琉歌の方に向き直り、
「……でさぁ、ルカ。またアイドル遣るって報道、本当なの?」
眉間に皺を寄せ、ぶっきらぼうな口調で問い掛ける。其の物言いは云わば固有の癖なのだろうが、其の所為で尋問の様な風情が漂い、場の雰囲気は一挙にピリついたものとなった。
「……うん。まぁ、其の話は後でにしよう? あ、ほら、サンゴーで走っても良い?」
琉歌はあからさまにはぐらかしたが、不承不承に頷いた。無理に穿鑿せずに退く余裕が、二人の関係性を象徴している様に思える。
琉歌はV35スカイラインに積んであった白いフルフェイスヘルメットを被り、意気揚々とスカイラインに乗り込む。
「んじゃ、一寸走ってみるね!」
納得行っていない表情の佑麻を残し、琉歌は遠慮無くクラッチを繋いだ。3.5Lの排気量を誇るV型6気筒エンジンが生み出す分厚いトルクは、スカイラインの後輪を容赦無く空転させる。そして青いスカイラインは赤いコーンで示されたコース上を、そこそこ上等にドリフト走行していった。
「やっぱ琉歌さん、巧いよね。俺等みたいに暇さえありゃドリフトしてた、って訳じゃ無いのにあんだけちゃんと繋げて走れるんだもんな」
「あぁ。Ⅴ35基本街乗り仕様で切れ角とかも殆ど弄ってないのにな。シンカイよりよっぽどセンス有るよ、ルカは」
「……悔しいですけど、其れは認めざるを得ないですね。けどまぁ、僕は飽く迄メカニック志望なんで」
青いスカイラインは大柄な車体をものともせず、VQ35DEの力強いエンジン音を轟かせつつ白煙を上げ滑走している。
「……ニシフナバシさん、どうっすか? 琉歌さんの走りは?」
糺凪は唯惟の問い掛けに、青いスカイラインを眼で追いつつ答える。
「なんか……本当にルゥさんが運転してるのかな? って思う位で…………凄いですね」
「『ルゥさん』って……琉歌さんの事?」
半ば脊髄反射的に口走ったので、改めて崇貴に訊かれ、糺凪は赤面した。世間一般には一切知られていない、少々甘えた様な印象も含有する此の愛称を、唯惟達がどう受け取るか――糺凪の赧面には、恥じらいと一抹の不安が混在する。
「あ……そう、です。ルゥさ……琉歌さんに『何か呼び名決めて』って言われたので、あたしが……」
「へぇ……」
唯惟を始め、一同は興味深そうに聞いていた。糺凪は馬鹿にされるかも、と危惧し、身体を強張らせたが、其れは杞憂だった。
「可愛いっすね、『ルゥさん』って!」
「あぁ。俺も『ルゥさん』って呼んでみようかな?」
「止めとけタカキ。お前が呼ぶと可愛くない」
「えぇ~」
唯惟や佑麻の笑いに嘲笑めいたものは無い。糺凪はほっとし乍らも、自ら発案し、自分のみが用いていた渾名が他の人間に知られて口にされた事には、ほんの少し悔しかった。
その内、琉歌は一旦走行を止め、V35から降りて来た。
「いやぁ、やっぱ難しいね。あんまり巧く繋げらんないや」
ヘルメットを脱ぎ、爽やかな苦笑を見せる琉歌に唯惟が話し掛ける。
「でも佑麻さんもシンカイより巧いって褒めてましたよ、『ルゥさん』の走り! それで」
其の言葉を聞いた琉歌の顔が曇った。唯惟の発言を手振りで遮り、糺凪に眼を向けて問い質す。
「……糺凪ちゃん、其の呼び方、言っちゃったの?」
「あ……はい、済みません……」
よもや琉歌に咎められるとは思っておらず、糺凪は取り敢えず謝罪した。
「いや、こっちこそ謝らせちゃって御免。糺凪ちゃんが喋るのは別に良いんだよ。唯惟」
「……え?」
「其の呼び方して良いのは糺凪ちゃんだけだから。糺凪ちゃんに著作権帰属するから。駄目だよ、法を犯しちゃ」
「あぇ……さぁせん……」
冗談めかしていたが、琉歌も同じ事を考えていたんだ、と糺凪は嬉しく思った。西船橋糺凪と云う個人を、琉歌との関係性を、彼女自身に認められた様な気がしたからだ。
本当に、琉歌に関わる事象では、糺凪の心はコロコロと色を変える。落ち着きが無いなぁ、と糺凪は頭の片隅で自己分析した。
「……琉歌さん、折角なら皆で軽く団体遣りません?」
意気消沈の唯惟の思惑を汲んで、深海が提案した。崇貴が掩護する。
「ほら、レナちゃんに観客に為って貰って! 琉歌さんは先頭で気兼ね無く走って呉れて構わないんで。琉歌さんの直ぐ後は唯惟に遣って貰えば安心じゃないですか?」
「あぁ、良いんじゃない? 久々に、気楽にさ……」
佑麻の擁護も有り、琉歌が拒否する訳は無くなった。
「……じゃあ、遣ってみる?」
琉歌の号令に、4人は俄かに色めき立った。
「あ、じゃあニシフナバシさんには上で観て貰いましょうよ!」
軽い打ち合わせをする中で、唯惟が提案した。
「スポッター席? あぁ、其の方が全体見渡せて良いかもな」
佑麻が同意した。崇貴が唯惟に糺凪を案内する様に託けたので、糺凪は唯惟の後に附いて行った。細い階段を上った先は、車庫の屋根の上に設えられた露台の様な場所だった。
「ドリコン……大会みたいなものなんですけど、そう云うのには大抵運転者に指示したり状況とかを連絡する人が一人居て、そう云う人を『スポッター』って云うんです。此処はそんなスポッターの人が立つ事に為ってる場所……なんですけど、まぁ此処ではそんなちゃんとしたイベントを遣る事はそうそう無いんで、大会前の予行演習の時くらいしか使わないんですけど」
唯惟は一頻り説明して呉れたが、糺凪には余り理解出来なかった。
「じゃあ、観ていて下さい。終わったらまた迎えに来ますんで!」
言い残し、カンカンカンと音を立てて鉄製の階段を足早に下っていった唯惟を見送って、糺凪は眼下に拡がる、アスファルトで覆われたそれなりに広い土地を見遣った。複数設置された投光器のお陰で、すっかり陽は暮れているが、場内は隈無くバッチリ視認出来る。改めて冷静に考えると、此れだけの分の山林を切り拓き、均して舗装し、投光器等の附帯設備、そして今糺凪が立っている車庫や奥の方に見える工場の様な建物……可成りの金額が投じられているのだろう。決して整備し尽くされ、誰が来ようと文句は出ない公共施設の様な完全な出来ではないが、却ってそんな所に個人が造った感が現れていて現実的だ。
あのタカキって優男、割と凄い奴なんじゃないか――そんな事を糺凪が考えている内に、5人の打ち合わせが終わったらしく、各々乗り込んだ車が走り出した。
5台は、可成り接近している。一般公道で此れだけ前車に近付いていたら、危険運転で一発検挙待った無しだ。
排気音が、変わった。各車エンジンの回転数を上げ、常軌を逸した加速を見せる。糺凪はハラハラし乍ら其の光景を見詰める。車の進行方向にはもう、大した余裕は無い。次の瞬間――。
先頭の青いV35スカイラインセダン、続くオレンジ色のフェアレディZ、3台目のメタリックブルーのヴェロッサ、4台目の白いS14後期型シルビア、そして殿を務める灰色のアルテッツァ、5台が接触しそうな程の距離迄近寄ってドリフトしている。そして距離感を維持した儘、幾つかのコーンを駆け抜けていく。5台が走り終わった後には、濛々と白煙が立ち込めている。無論、タイヤが発したものだが、小火が起きたと云われても納得出来る程度の煙が居座っていた。
「す……ごい……」
正直、描写出来る程の時間的な猶予は無い。唯、糺凪の脳裡には、琉歌の操る青いスカイラインが真横に4台従えて、猛烈な音と白煙を上げ乍ら此方へ向かって滑走して来る、あの瞬間が写真の様にこびり付いている。通常糺凪が知る常識的な車の動きとは懸け離れた、曲技と呼んで差し支えない様な走行を続けている一行を、糺凪はただただ口に手を当て、驚愕して見ていた。
幾度目かの走行の際、先頭を走る琉歌がドリフトの開始段階で明らかに挙動を乱し、ドリフトが安定せずスピンした。糺凪は息を呑む。琉歌の直ぐ後を追い掛ける、唯惟の乗るフェアレディZは間一髪、絶妙な回避を見せ、スピンしたスカイラインに寄り添う様に停車した。余りにも素晴らしい回避っぷりだったので、其れさえも演目の一部だったのではないか、と錯覚するほどだった。崇貴のヴェロッサもフェアレディZ同様、強制的に自車をスピンさせ回避、唯惟の練習機であるS14シルビアを借りて駆る佑麻と、最後尾の深海のアルテッツァは失敗した3台を避けて通り抜けていく。此処迄僅か数秒の内の出来事で、糺凪が息を呑んでいる間に事態は収束していた。
「……危なかったぁ……」
停車する3台が気を取り直して発進する頃、糺凪は漸く呼吸を再開し、独り呟いた。が、一番ドキドキしているのは琉歌だろう、とも思っていた。気ぃ遣いのルゥさんの事だ、走り終えたら土下座でもして詫びかねない。糺凪はスカイラインの運転席に収まる琉歌の視点に為って、自らの失敗で制御不能に陥る車、そして真横に迫るオレンジ色のスポーツカーを想像して、改めて途轍も無い事を遣ってる人達だなぁ、と小学生並みの感想を抱いた。
其の後、もう一本走り、最後に糺凪の居る車庫の前で、まるで写真撮影でもするかの様に扇状に車両を整列させ、5人は各々降車する。直ぐに唯惟が此方に駆け寄って来るのが見えたので、糺凪は自ら階段を下りて行った。
「ニシフナバシさん、どうでした?!」
曲芸的な走行を終え、心拍数も亢進しているであろう唯惟は、糺凪の横に回るなりテンション高く問う。
「いやぁ……凄いですね。何でぶつからないんだろう、って……」
「ですよね!! あたしも最初見た時思いましたもん! 『何で事故んないの? どう遣ってんの?』って!」
にこやかに喋る、相変わらず小犬の様な印象のくしゅくしゅアッシュグレーには、先程迄超絶的な腕前で青いスカイラインにビタ付けしていたフェアレディZの操縦者である事実はまるで感じられない。
「でも、あの時はドキッとしました。あの、ルゥさんがミスっちゃった時……」
「あぁ……あの時は本当に『ナイス回避あたし!』って感じでしたね! 今の走りだとあそこで当たらなかったのが唯一褒められる所ですかね?」
「ゆ……唯一、ですか?」
「はい! 言い方悪いかも知れないですけど、全然本気出してないんで。半分気ぃ抜いて流してたんで、全く頑張ってなかったから、個人的に称賛には値しないですけどね。でもあの避けれたのはファインプレーでした!」
糺凪は気後れした。マルチーズを思わせる外見の唯惟にも、本物に漂う特有のオーラめいたものが見えたからだ。
オーラと云えば――糺凪は圧倒的なオーラを漂わせていたセンスレスネスの金髪ロン毛の女ヴォーカルを思い出した。彼女もきっと、唯惟の様に本物の能力を持っているのだろう。
あたしは、どうなのだろうか――。糺凪は考える。歌唱力には、自負も自尊心も有る。だが、志川や琉歌が言う様に、アイドルグループのメインヴォーカルとして、振り付けもせず堂々と歌唱するだけで映えるのか、見世物として成立し得るのか。其れ程の才能が自分に備わっているのか、現時点での糺凪は其処迄の自信が持てなかった。
思索に耽る内、琉歌達の許へ辿り着いた。糺凪の予想通り、琉歌は全員に謝り倒している。
「あ、唯惟っ!! 御免ね本当に! 避けて呉れて本当に助かったっ!! 有り難う、御免なさい!!」
皆の許に戻って来た唯惟の腕を引っ掴み振り回し乍ら、琉歌は何度も頭を下げて喚く様に謝罪する。こんなアニメのギャグ描写みたいな琉歌は、なかなかお目に掛かれないだろう。糺凪は貴重な琉歌の取り乱す様を、笑い話として語れる時の為に脳内の格納庫に保存した。
「いやいや、琉歌さん別に良いですって……。ドリフトなんて失敗してナンボ、打つけてナンボじゃないですか。別に今回は当たらなかったんですし、謝るのは無しにしましょうよ!」
眉尻を下げて琉歌を宥める唯惟は、心做しか嬉しそうだ。滅多に見られない琉歌の姿を楽しんでいる風でもある。
「で……でも……」
「良いんです! 避けたあたしが『良い』って言ってるんだから、此れ以上何も無いじゃないですか! はい、もう此の話は終わりですよ!」
名残り惜しくも、琉歌の名誉の為にも問題を終熄しに掛かる唯惟に猶、琉歌は食い下がった。様子を見ている3人も、流石に苦笑交じりに為っている。恐らく、唯惟が糺凪の迎えの為に離れている間も3人には謝罪し捲っていたのだろう。
「ルカ、気持ちは分かるけど良い加減にしな」
苦笑いの表情を改め、ピシャリと言い放ったのは佑麻だ。
「たかがスピンしただけだろ? そんなに後生謝り続ける程のこっちゃないよ。唯惟も困ってるじゃんか」
「あぅ……でも」
弱りきった琉歌は、実に庇護欲をそそる。糺凪は新しい発見をした。
「『でも』じゃない。……あーもう、腹減ったよ。そろそろ飯行かない?」
相当な荒療治ではあるが、佑麻は話題の変更を試みた。唯惟が追従する。
「そうですねぇ、あたしもご飯食べたいです!」
「……うん、もうそろそろ良い頃合いかな?」
崇貴は左手首の腕時計を確認しつつ言った。掩護射撃は功を奏し、琉歌は謝罪の鬼から一転、糺凪が見知った平時の琉歌に戻った。
「……そう云えば私達、海老名から食べてなかったっけか。糺凪ちゃん、お腹空いた?」
先程迄あれだけ取り乱していたのに、凛然と訊いてくる琉歌が可笑しくて、糺凪は込み上げてくる笑いを抑えつつ答えた。
「そうですね、お腹空きました」
正確には、琉歌の実家で木製の表札みたいなおかきは食べていたが、琉歌の言わんとする事は分かるので、糺凪は話の腰を折る様な真似はしなかった。
「じゃあ、ご飯にしよっか!」
琉歌の号令で、各自後片付けを始めた。唯惟の乗っていたフェアレディZはナンバープレートが取り付けられていない競技専用車で、同様に崇貴の青メタヴェロッサもナンバーは取得してあるものの殆ど公道を走らせる事は無い、と云う事で奥の方の上等な工場の様な建物のシャッターの中に蔵われていった。あの建物は崇貴がフェアレディZを筆頭に、自分の主宰するドリフトチームで使用する競技用車両の製作や保管に用いるのだ、と待機する間に琉歌から説明された糺凪は、何処迄金持ちなんだあの人、と半ば呆れた。
片付けも大体終わる頃、照明を落としてくる、と言い残して崇貴は走り去っていった。暫くして、常設型の投光器の灯りが消えた。深海のアルテッツァ、唯惟の練習機、そして佑麻が乗って来たV35スカイラインセダンが前照灯を点けていたので完全な暗闇には為らなかったが、其れ等が無ければ他に外灯も無く、辺りは夜闇に包まれている筈だ。3台の通奏低音が無ければ、周囲は薄気味悪い程の静けさに覆われている事だろう。孰れにせよ、今し方の悲鳴の様なスキール音と唸るエンジン音、そして灼けるゴムの臭いと煙幕の如き白煙に包まれた狂騒は跡形も無く、祭りの終わりの寂寥感が微かに漂っている。ドリフトと云うものの是非は抜きにして、糺凪はこんな雰囲気は良いな、と感じた。
「OK。じゃ、行こうか」
出来れば此れもちゃんとした門扉にしたいんだけどね、と言い乍ら崇貴は入場口に金鎖を張り渡した。
「ルカ、サンゴー乗ってって良いよ。日曜にカロバンと引き換えにすれば良いから」
「あ、そう? それじゃゆーま、仕上がったら学校迄来て呉れる?」
「まぁ其の位、別に面倒でも無いし」
「有り難う、ゆーま! 恩に着るよ」
「良いって」
佑麻と琉歌の会話が一段落した所で、唯惟が提案する。
「あ、じゃあ今日はどうします? あたし送って行きましょうか?」
「あぁ、うん。頼むよ、唯惟」
「じゃあ俺はシンカイに乗っけてって貰おうかな。頼める?」
崇貴は深海に問う。深海は頷いた。
「良いですよ、勿論」
「悪いな、世話に為るよ。……ところでシンカイ」
崇貴は整った顔立ちを歪ませ、下世話な表情をした。
「今夜は唯惟とパツイチ極めねぇの? お邪魔じゃねぇ?」
「ばっ……」
唯惟と琉歌は一瞬で赤面した。心持ち頬を染めつつ、佑麻が崇貴の頭を強く叩く。
「お前、何抜かしてんだっ!? フナレナも居るんだぞ?! 此の馬鹿っ!!」
「あぁ、そうだっけ……。ゴメンね、レナちゃん」
後頭部が窺える程の叩かれた反動の中、崇貴は軽佻に謝る。
「あ、いえ……」
正直糺凪は、唯惟と深海は恋人関係なんだ、へぇ……と云う感想しか抱かなかったので、逆に唯惟や佑麻の初心過ぎる反応を意外に思った。と同時に、琉歌の初な反応に仄かな疑念を抱いた。
「今日は普通に帰るから大丈夫ですよ、邪魔じゃないです。それに……もしアレなら帰宅後落ち合えば良いだけですし」
「馬鹿シンカイ、お前迄……」
飄々と言ってのけた深海に、明らかに赧面の度合いを増した佑麻が突っ込む。当事者の唯惟は顔を真っ赤にして俯き、崇貴は馬鹿笑いしている。
「せっ、セクハラだぞ!?! お前等っ!!」
「ニシフナバシさん、済みません」
「さーせん」
佑麻の二の矢に、深海は糺凪に対して謝罪し、崇貴も便乗する。
「あ、いえ……」
これまた特に感想を抱く事も無かったので、糺凪は素っ気無い返事をする。
それよりも――。糺凪は琉歌の様子を注視していた。琉歌は隣の唯惟と同様、赤面と云う単語の典型例の様な風情だ。昼間の艶めかしい笑顔など嘘の様に――。
何故、こんな事が気に為ってしまうのだろう。糺凪はV35スカイラインセダンの助手席に収まっている間も、頭の片隅でずっと其の疑問を考え続けていた。
食事の場は、地場外食チェーンを代表する、24時迄営業するハンバーグレストランだった。一般的な夕食の時間からは少しずらしたが、金曜と云う事も手伝ってか、店内は割合込み合っている。
「さっき走ってたのも、店の混雑を避ける為って云うのも有ったんだけどねぇ……。やっぱ混んじゃってるなぁ……」
客の話し声とナイフやフォークの金属音とが無軌道に鳴り渡る中で、崇貴が呟く。県外にも比較的名の知れているチェーン店の様で、日曜の昼など可成りの待ち時間を強いられる程に繁盛しているらしい。
「やっぱり静岡に来たからには味わって欲しいからね。まぁ、混んでるのが玉に瑕だけど」
琉歌が糺凪にそう言ってから数分経った後、一行は6人掛けのボックス席に案内された。
「私は邪道だろうが、誰に何と云われようと『よく焼き』の『デミソース』だね」
琉歌はメニュー表を見る迄も無く、ソファ風の座席に着いた途端に断言する。
「ルカは初対面の頃から其れ固定だよな」
佑麻が笑い乍ら反応する。唯惟から机上のメニュー表を手渡された糺凪は一通り見渡して、
「どれがお薦めですか?」
と琉歌に尋ねた。琉歌は、一般的なのは和風のオニオンソースで、“よく焼き”と言い付けなければ客の眼前で肉を切って調理する興行的な手法になる、と教えて呉れた。
「まぁ、初めて此の店に来たんなら、折角だったら王道で良いと思うよ?」
琉歌の教示に全員が首肯している。郷に入っては郷に従え、と云うので、糺凪はお薦めの組み合わせを注文した。
「で、ルカ。もう訊いても良いよな?」
恐らく意図して琉歌の真正面を選んだのだろう、佑麻が天板上に肘を突き、鋭い眼光で琉歌に問う。ボックス席の奥の方の窓際に相対する二人の間に、そして否応無く他の4人にも緊張が走る。
「……うん。良いよ」
琉歌は窓外に眼を逸らし、答える。店舗は通称“インター取付け道路”と呼ばれる、東名高速道路のICに接続する片道2車線の県道に面している。余程の夜間・早朝でも無い限り、引っ切り無しに車両の往来が在り、今も家路に就く乗用車の群れに交じって大型トラックが時折駆け抜けていく。
「――ルカ。どうして、またアイドルなんか遣るんだ?」
食って掛かる佑麻に、琉歌は答えない。窓の外に眼を向け、押し黙る。
「お前、あれだけ傷付いただろう? 真面な人間なら精神病んで再起不能な位の酷い仕打ち受けただろ? また、あんな思いをしない、って確約出来るのか?! ……出来ねぇだろ!!」
佑麻は徐々に感情を昂らせる。其の声に、周囲の客達も目線を送り始めた。
「あー、済みません。皆さん気にしないで下さい。騒がしくして申し訳無いっす……」
崇貴が席から腰を浮かし、周りに声を掛ける。崇貴の隣、通路側に座する深海も方向を変えつつペコペコと辞儀をした。逸早く応対した事で、他の席の客達の衆目も次第に離れていった。此れで、もう数回声を荒らげても「またあの席の連中か」と或る種の諦めが働き、あからさまに視線を向けられる事は無くなるだろう。糺凪は今更乍ら気付く。彼等は周辺に気を遣い乍らも、佑麻を抑えようとはしなかった。周囲に配慮する事で、或る程度佑麻が好き勝手出来る環境を醸成したのだ。阿吽の呼吸、と云う奴だろうか。
「……オレは、反対だよ。お前がもう一度、芸能界で働くのは。……もう、二度と見たくねぇんだよ! 初めてお前に会った頃の、何もかも全て喪ったみたいな、空っぽの表情してるお前なんか、見たくねぇ!!」
佑麻が感情的に迫る。琉歌は其れでも動じない。変わらず窓に顔を向けている。――だが、隣に座る糺凪は見逃さなかった。琉歌の腿の上で震える握り拳を。窓に反射して映る琉歌の頬を伝う、一縷の煌めきを。
糺凪の向かい側では、崇貴と深海が再び中腰に為り謝り屋さんと化している。客席担当の男性店員が此方に歩み寄って来るのに対して、
「や、大丈夫ですよ。済みませんね、静かにしますから」
と崇貴が制する。糺凪の横では、通路側に座する唯惟が糺凪越しに、濡れた瞳で食い入る様に琉歌を見詰めている。
全く、呆れる程の琉歌愛に包まれたボックス席である。糺凪は微笑ましく思いつつ、他の4人同様、琉歌の反応を窺った。
「――有り難う。其処迄、私の事を案じて呉れて。……ゆーまの言う事は尤もだよ。ド正論。……私が選んだ事務所だとしても、また裏切られるかも知れない。ひょっとしたら、あの時以上の仕打ちを受けるかも知れない。可能性としては、ね」
琉歌の声は、涙を流しているとは思えない程、平静なものだった。
「分かってんじゃねぇかよ! じゃあ何で」
琉歌は自らの顔の前に掌を提示し、荒ぶる佑麻を制した。
「……それでも、遣りたいんだよ」
発言を遮られた佑麻に、琉歌は漸く正対した。二人の視線が交錯する。
「もう一度舞台に立てるとしたら……考えた時に、やっぱり私は遣りたかったんだ、って……思い知らされた。結局私が、裏方としてまた業界に関わったのも……未練が有ったんだろうな、って」
佑麻は唯真っ直ぐ、潤んだ眼で真正面から琉歌を捉えている。琉歌は静かに、ゆっくり息を吸い込んだ。
「……私も、打ちのめされたよ。『あぁ、私どんだけ、アイドルに執着してるんだよ』って……。泣き乍ら考えたよ、色々……。まぁ、ぶっちゃけると私が復帰する、って云うのも今の事務所の社長に唆された様な側面も有る訳でね。口車に乗っちゃった、みたいな所が有るのは、まぁ正直否定出来ないよ。もっと言えば、ひょっとすると社長は、私を復帰させる腹積もりで、私を入社させたのかも知れない。だとしたらまんまと既定路線に乗せられてる訳で「じゃあ!「でもね!!」
一旦佑麻が遮断したが、琉歌が其れを更に上塗りし、主導権を握った。
「決めたのは、私なの。最終的に決断したのは、私。……私の、意志だった」
琉歌の言葉を聞いた瞬間、気丈に強気な表情を保っていた佑麻が、眉間に皺を寄せた儘、落涙した。
「……次に考えたのは、ファンの皆の事。私は、忽然と放り投げる様に引退して、皆を裏切った形に為ってる。勿論、公式発表の通りには受け取らない人達が居るのも分かってるし、色々と噂されたのも知ってる。……でも、前の事務所が勝手に出したリリースを鵜呑みにして、何の抵抗もしなかったのも、私。結局は……裏切った事に為る。ファンやメンバーの皆との関係性とか、仕事や立場……『アイドルとしての蒼鷲琉歌』を自ら棄てた様なものだから。仮令其れが、事務所に遣られた事であっても、結果としては、そう云う事だから……。そんな私が、二年も経って別の小さい無名の事務所から再デビューします、なんて……考えられなかった。申し訳無い、と思った、全ての人に。何だろう、合わせる顔が無いな、って……思ってた。でも、社長が『本当にお前のファンであれば、お前が今生きているか、元気で居るかだけでも知りたいと思ってる筈だ』って言われてね……。其れには心、揺さぶられたよね。……居るもんね、今何処に居るんだろう、何してるんだろう、抑も生きてるんだろうか、って人。芸能人に限った事でも無いけどさ。……そっか、タカキは特例として、私が生存してるかさえ、知りたくても知れない、そんなファンの人が未だ居て呉れてるのかも知れない。だとしたら其の人に、存在を証明しても良いのかも、って思い直したんだよね……」
滲む視界の中で、糺凪は相対する席の様子を窺った。フリクエンター時代の琉歌の大ファンだった、と云う崇貴は謝罪屋だった頃の面影は一切無く、ぼろぼろと男泣きしている。深海も、涙を堪えるのに精一杯の様に見える。琉歌の正面に座る佑麻は、最早突っ伏していて、其の肩は不規則且つ小刻みに震えている。隣の唯惟が泣いているのは、息遣いで把握出来た。糺凪は再び琉歌に眼を向ける。
「後は……別に過去の事をネタにする心算は無いし、前事務所の事は恨んだりはしてないけど、思えば私、屈服した儘だしね。負けっ放しなのも一寸どうかな、って云う思いも有るし。……今は結構、前向きなんだ。もしまた裏切られても、其の時は仕方無いって……諦めが付くかな、気は病まないかな、って気はしてるんだ。何しろ、自分が心から遣りたいんだもん。此の選択に後悔はしない、って……もう決めてるから」
琉歌は言い切った。復帰を決断してから、琉歌が此処迄前向きな思いを他人に表明したのは、初めてだ。
「だから……ゆーまも応援して呉れると良いな、って……思ってるよ」
琉歌は一筋、涙の跡が残る頬で、オレンジ色の頭頂部に慈しみの眼を向け、語り掛けた。
「…………何と無く、そんな気がしてたんだ」
暫く何も反応しなかった佑麻が、漸く突っ伏した儘話しだした。
「ルカが東京に戻る、芸能事務所に裏方社員として就職する、って聞いた時、何時かこんな風に、ルカの口から話を聞くんだろうなぁ、って……何と無くね。……想像よりは、早かったけど」
「……うん」
「……はっきり言ってさ、傲慢だよ。だって、オレ等が幾ら心配した所で、ルカが決めた、って……決断したんだ、って言われたら、もう……オレ等は応援するしかないんだから。……本音を言えばさ、今直ぐにでも会社を辞めさせて静岡に帰って来させたい位だよ。オレはルカに悲しんで欲しくないから、其の可能性を摘む為に。でも……ルカはそうしないんだろ? もう……決めたんだろ?」
「……うん」
「なら、オレはもう何も言えねぇよ。……オレは、ルカの幸せを願ってる。人間、遣りたい事を思う存分遣れてる事が幸せなんだ、ってオレは思う……。オレが止めさせたい事が、ルカの遣りたい事な訳だよ。ならオレには、もう其れを応援する、見守るって云う選択肢しか無いんだよな。オレはお前を苦しめたい訳がないんだからさ」
琉歌は口を結んで、佑麻の言葉を受け止める。
「だから、ルカ、此れだけは覚えといて呉れ。応援される者の傲慢を。……オレ等はお前の事を応援してる。けど、其れはお前が本気で心から遣りたい事を遣ってるからなんだ、って事を。オレ等の一番の願いは、お前が何一つ哀しむ事の無い、幸せな人生を送る事なんだ、って事を」
「……うん」
応援される者、愛される者の傲慢、と云うのは、なかなかに深い題材かも知れない――と糺凪は思った。少なくとも、其方側のそう云う視点に立って、自分自身の事を考えた事は無かった。
「……肝に銘じて呉れたんなら、良いよ」
佑麻はそう言いつつ上体を起こし、大成石油の企業色のツナギの袖で目許を拭った。右手を下ろすと、其処には晴れやかな笑顔が在った。
「……頑張れよ、ルカ。後悔すんじゃねぇぞ」
「うん。有り難う、ゆーま。……皆も」
琉歌は各々の顔を見渡して感謝した。そして満面の笑顔で言う。
「……まぁ、私には糺凪ちゃんが付いてるから! 心配しないで!」
「……フナレナ、そんなに凄いの?」
「うん! そりゃあもう! 歌は超巧いし、此の美貌だもん! 百人力だよ!」
「ちょ……一寸ルゥさん、言い過ぎですって……」
「いぃや、言い過ぎじゃない! 糺凪ちゃん分かってないなぁ、自分の事。凄いんだよ、糺凪ちゃんは!」
「そう、なん……ですかねぇ……」
「そうだよ! さ、涙拭いて! 皆、一寸湿っぽいよ! 笑って肉喰おう! ……まぁ、原因作ったのは私だけど」
「……流石、確りオチ付けるなぁ~」
涙目の崇貴が笑い乍ら言う。ボックス席の雰囲気は急速に氷解し、周辺の温度と同化していった。間も無く、時機を見計らったかの様に料理が順次配膳され始めた。
「お待たせ致しました。お手元の油跳ね避けを上げて頂いて宜しいですか?」
眼の前で切り分けられ、鉄板に押さえ付けられるハンバーグを呆気に取られつつ見ていた糺凪は、激しく立ち上る湯気の中にふと、探し求めていた答えを見た気がした。
――ずっと考えていた所で、糺凪が何故琉歌の恋愛遍歴に関して此処迄引っ掛かっているのか、自分でも分からない。先程琉歌に指摘された様に、自分が果たしてどの程度魅せる程の才能を持っているのかも、分からない。果たして人間は、自分自身の事をどれ程理解していると云うのか。
自らの事すら完全に理解出来ない“人間”と云う生物が、他人の人物像を理解するのは、況して容易ではない。少しずつ、理解を深めて、距離を縮めていくしかないのだ。焦らなくとも構わない。ゆっくり、時間を掛けて、ルゥさんをもっと知っていけば良いんだ――糺凪はそう言い聞かせ乍ら、一口大に切り分けた牛肉100%のハンバーグを頬張った。
「どうだった? 糺凪ちゃん。美味しかったでしょ?」
会計を済ませると全員分貰える、薄荷のキャンディーを口腔内で転がし乍ら、琉歌は問うた。
「はい、凄く美味しかったです!」
同じく、癖の有る味の飴を舐めつつ、糺凪は笑顔で応えた。佑麻がツナギの肩口辺りを引っ張り、鼻に近付けて言う。
「此の臭いもなぁ……旨いから別に良いけどさ」
確かに、店内は換気されているだろうが、燻された様な香りに満ちていた。唯惟が擁護する。
「まぁ、其れは焼肉とかBBQとかでも一緒ですし。と云うか焼肉なんかより未だマシですよ」
「まぁ、そうか……」
「そうですよ。まぁ、確かに髪とか結構臭い付きますけどねぇ……」
言い乍ら唯惟はくしゅくしゅアッシュグレーを気にしている。不意に、そんな唯惟の頭頂部に深海が顔を埋めた。
「――うん、一寸香ばしいね」
「!! なっ――……」
唯惟が顔を真っ赤にして深海から距離を取る。
「し……シンカイっ、アンタ…………!!」
「おいお前等、何いちゃついてんだよ?」
会計を終えた崇貴が遅れて駐車場に現れた。結果崇貴の奢りと云う事で落ち着いたが、糺凪はついさっき迄レジ前ですったもんだ遣っていたのを知っている。
「おいおい、どうしたシンカイ? 酒入ってんじゃねぇのか?」
軽く頬を染めつつ、佑麻が突っ込みを入れる。糺凪は、実は佑麻はぶっきらぼうを装いつつ、気を配って場を盛り立てる役目を担っているのではないか、と感じた。「オレ」と自称したり、男勝りな言葉遣いをしてはいるが、男女の交際を匂わせる発言には頬を赤らめるなど、きちんと乙女らしい所も有る。仲間内での“立ち位置”を理解し、其の期待値を裏切らない様に振る舞っている様な気がするのだ。実に健気である。
「飲む訳無いじゃないっすか。飲酒運転に為っちゃいますもん。『乗るなら飲むな』は常識ですよ。……僕だって、久々に琉歌さんと再会して、舞い上がってるんですよ……」
深海は照れている。真面目で純朴な其の性格が伝わってくる様で、何処か愛らしい印象さえ受ける。
「ご、ご馳走様でした、タカキさん!」
照れ隠しの様に、唯惟が率先して礼を言う。一歳上である事が分かった途端の糺凪への応対の落差と云い、見た目に似合わず唯惟には体育会系の精神が根付いている様だ。
「私が払うって言ったのに」
「いやいや! 琉歌さんに払わせる訳には行きませんよ!! ……いやぁ、然しまた、ステージに立つ琉歌さんが観られるとは……」
崇貴が感慨深そうに遠い目をして言う。
「俺、本当に一時期フリクエンターとリマーカブル追っ掛けてたんで! まぁ、ライブ自体に参戦する事は殆ど無かったですけど……。でも、あれですよ!! フリクエンターの全国ツアーで市民文化会館来た事有ったじゃないですか?! あれだけは琉歌さんの凱旋公演だ、ってんで近いし絶対行こうと思って! チケット取れた時は本当に嬉しかったなぁ~……。で! あ、そうだ! レナちゃんなら解るかな? リマーカブルの『ノーサティスファクション・サテライト』!」
「あ……御免なさい、あたしアイドルあんまり詳しくなくって……」
「えぇえ!?! マジで?! レナちゃん其れは拙いよ!! 現役のアイドルで全盛期のリマーカブルの楽曲知らない、って云うのは些か……」
「阿呆タカキ!! 決め付けるんじゃないよ!! アイドルだから絶対知ってるなんて訳無いんだから!! アイドルは多様性が魅力なの! 色んなアイドルが居て良いの! ドルソン聴かないアイドルが居ても良いでしょうが! ね、糺凪ちゃん全然悪くないからね?」
「あ……後で、調べてみます……」
取り敢えず、今日の就寝前にYouTubeを漁る事は、糺凪の中で此の瞬間、確定した。
「観といてね! 絶対、損しないから! で、あともう一箇所! 東京ドームで遣ったのは観に行ったんですよ! 何せリマーカブル史上最大規模のライブでしたからね! でね! 収容人数が全然違うでしょ?! たかが街中の市民文化会館、対して天下のドーム!! 俺が驚いたのはさぁ、もう『ノーサテ』の琉歌さんの有名なあのロングトーン! あそこの力の入れように全く差が無いの! 地方の小っちゃい会場でも一切手抜きが無いんだよ! 俺は本っ当に感動した……あれ?」
熱弁を揮う崇貴は、漸く周囲との温度差に気付いた様だ。先程奢りを感謝していた唯惟と深海は、後輩であるにも拘らず、うんざりした表情を隠さない。褒められている当の琉歌本人でさえ、あからさまな苦笑を浮かべている。
最も鬱陶しそうな顔をしている佑麻が、一言釘を刺す。
「タカキ……其れ、疾っくに耳胼胝だわ」
どうやら、崇貴の琉歌に関する話は殆どが何度も繰り返されている様で、然も崇貴は熱弁する間、同じ話をしている事に無自覚らしい。何とも質の悪い崇貴の悪癖が発覚した所で、琉歌は唯惟と深海にカローラバンの整備の労いと期待を伝えて、解散と為った。
「此の車、ルゥさんのだったんですね」
「うん。専門学校に入って暫くして中古で買ったんだ。其の頃にはゆーまとタカキとは連んでたから、後輪駆動のMT車が良い、って言ってね。東京で乗るには大きいかな、と思ってコペン……軽自動車を買ったんだけど、2年間の思い出が詰まってるからさ、V35には。売っ払うのが勿体無くて、今はゆーまに乗って貰ってるんだ」
穏やかに夜の県道を走るV35スカイラインセダンの助手席で、糺凪は微睡む様な心地良さを感じていた。自然と、声が漏れる。
「……ルゥさん、皆良い人ですね……」
琉歌は糺凪を優しく一瞥してそっと頷き、3本スポークのステアリングを握り直した。
「本当にね。私、直接関わった人に嫌だな、って思う人居ないんだよね。本当にツイてる、って云うか……人に恵まれてるよ」
其れは多分、琉歌が引き寄せているのだ、と糺凪は思った。人間は、自分が必要な、出会うべき相手には必ず出会う仕組みに為っているものだ。そして、付き合う人間を意識的にも無意識的にも取捨選択している。「良い人」と出会い、そしてそんな人物と良好な関係性を継続出来る事も、一種の才能である様に糺凪は思う。
其の後、何の下準備も無く泊まり掛けとなった糺凪の為に、深夜営業をしている大型ドラッグストアやコンビニに立ち寄り、買い出しをして家路に就いた。「必要経費で何とかなるから」と琉歌が言い張り、糺凪は1円も支払わなかった。
「気に病まないでよ。事務所の社員としてタレントに払わせる訳に行かないでしょ?」
琉歌はそう言うが、U.G.UNITEDはそんなに余裕が有る事務所ではない。其の事はより長く在籍している糺凪の方が承知していた。iTunesで曲を購入する程度は大目に見て貰えるだろうが、今買った分は恐らく其の儘琉歌の支出となる筈だ。また、琉歌の実家で実江に発言した様に、琉歌もそうなる事は織り込み済みなのだろう。何だか申し訳無くて、糺凪はスカイラインの助手席で背筋を伸ばしていた。
「ただいま」
「あらぁ、お帰り。随分遅かったじゃないの。……全くアンタ、糺凪ちゃんみたいな可愛い娘連れて、変な所ほっつき歩いてんじゃないでしょうね?」
帰宅するなり、愛娘に辛辣な声を掛ける実江を軽くあしらい、琉歌は糺凪を引き連れて2階の自室に向かった。部屋に入るなり、琉歌は壁際の箪笥から上下のジャージを引っ張り出し、徐ろに着替え始めた。
「あっ、ちょ……ルゥさん!!」
「へ? あぁ……良いじゃん女同士だし着替え位。今後同じグループで遣って行くんだから、一緒くたに着替える事も有るでしょ、多分。そんな時に迄いちいち照れていられないでしょ?」
琉歌の反論に糺凪はぐうの音も出ない。糺凪が不自然に視線を逸らしつつ赤面する内に、琉歌は濃紺のスポーツウェアに全身を包んでいた。
「じゃあ、私一寸走って来るから」
「……今からですか?」
「うん。毎日走ってるから、日課みたいなモンで遣らないと気持ち悪いんだよね」
「ま……毎日……。ち、因みにどの位の距離走るんですか?」
「私の場合、距離じゃないんだよね。60分って決めてるんだけど……まぁ大体10km位かな」
「じゅっ……きろ……。あの、日課って言ってましたけど、何時頃から続けてるんですか?」
「うーん……ニコムーンのオーディションに受かって、レッスン受け始めた頃に体力とか持久力付けなくちゃ、と思って始めたから……かれこれ10年は経つのかな?」
糺凪は最早何も声に出せず、唯口をまごつかせるのみだった。
「じゃ、行ってきます!」
颯爽と玄関を出て行った琉歌の背中を見送った糺凪は、背後から実江に声を掛けられた。
「こっちに帰って来てからもあの子、毎日走ってたからねぇ。日課に為ってるから、とか言ってるけど、なんだか私には走り込み自体があの子の未練を表してる気がしてたのよね……。まぁ、実際また復帰するらしいから、やっぱりそう云う事だったんでしょうけどね……」
「……あの、実江さんは、ルゥさんが復帰するのって、どう思っていらっしゃるんですか……?」
糺凪の問いに、実江は此れ以上無く寂しい笑顔を返した。
「……止めれば良いのに、って思ってるわよ、そりゃあね……。東京から帰って来たばかりの頃のあの子ったらもう……痛々しくて目も当てられなかったわ。親の贔屓目を抜きにしても、可哀相だったわね……」
ハンバーグが配膳される前に佑麻が言っていた通り、矢張り琉歌が失意の内に帰郷した当初は、可成り精神的に参っていたのだろう。無理もない、当然だ。
「でも、そんな中でも走るのと筋トレは欠かさなかった位だから、相当執着してたのよね……」
糺凪は頷くしか出来なかった。「執着」と云う言い回しは、肉親である実江にのみ許される。
「よっぽどアイドルって云う職業が……小さい頃からアイドルが大好きだったから、自分が其の立場に為って、やっぱり相当覚悟を決めたんでしょうね」
唐突に糺凪は理解した。琉歌は恐らく、異性との交際経験は無い。少なくとも、フリクエンターの一員に名を連ねてからは。でなければ、琉歌の10年間毎日欠かさず走り続ける、と云う或る種異常な迄に克己的な行動とは整合性が取れない。そして先刻糺凪の心に引っ掛かった、琉歌の初過ぎる反応も、交際経験が乏しいのなら至極当然である。青天の霹靂を絵に描いた様な仕打ちを受けて引退に追い込まれ、実家に帰省し専門学生と為ってからも猶、毎日の走り込みを欠かしていなかったのだから、其の期間も「何時か表舞台に復帰する時」に潔白で居る為に、恋愛沙汰とは距離を置いていたと考えられる。糺凪が腑に落ちなかった、100均の駐車場で見せた蠱惑的な笑みだって、年頃のいち女性としてのせめてもの抵抗だった、と解釈すれば得心が行く。
全ては糺凪の推測でしかないが、少なくとも糺凪自身は此れが揺るぎ無い真実だ、と信じきる事が出来た。なら、其れで良い気がする。もし違っていたとしても、糺凪に此処迄信じきらせる琉歌の能力には相違無いのだ。
「ほら、アイドル遣ってる間は、きっとあの子、お付き合いもしないでしょうから。前の事務所に居る間は噂の一つも無かったし、帰って来てからも、ねぇ? 男友達は何人か学生仲間が居たけど、特定の誰かと、って云う訳でも無かったみたいだし。私としては、せめて三十路迄には結婚して欲しいと思ってるけど……。私が結婚した年齢迄には、ねぇ?」
図らずも裏付けが得られた。もう琉歌の交際経験に就いてうだうだ考えるのは止そう。そう思い乍ら糺凪は同意を求める実江に曖昧な笑みを寄越した。
「あ……あら、また私喋り過ぎたかしらね? 琉歌に怒られちゃうわ。糺凪ちゃん、あの子には内緒ね?」
実江は漸く自覚すると、左目を瞑り人差し指を口許に立てた。……並の同年代が遣ったら醜悪な笑劇に為りかねないが、実江にして琉歌有り、である。純粋に可愛らしいと糺凪は思った。
「はい。内緒です」
満面の笑みを浮かべる糺凪も、ウィンクと人差し指を返した。
琉歌の部屋へ戻り、「ノーサティスファクション・サテライト」に就いて調べようとした時だ。実江が階段を上り、部屋の扉越しに声を掛けてきた。
「そうそう! 糺凪ちゃんお風呂入っちゃって? 一番風呂、用意したから!」
「あぁ……済みません、気を遣わせて……」
「良いのよ! 持て成されなさい、って言ったでしょ?」
「……じゃあ、お先に頂きます……」
「あ、着替えは其処の引き出しの中の適当に使っちゃって? バスタオルなんかは下に置いてあるから!」
実江はそう言い残し、階下へ降りて行った。糺凪は逡巡したが、HTC社製のスマートフォンを折り畳みの机の上に安置し、持ち物を用意して部屋を出た。
「あ、糺凪ちゃん、出た?」
風呂から上がった糺凪に実江が室外から声を掛ける。
「はい、頂きました。あの……何か入浴剤入ってますよね? 色と香りが……」
「えぇ! 『バスハーブ』って云うのを入れてるの。すっごく温まるでしょ?」
「あ、はい。何か凄い、ポカポカするって云うか……暑い位で」
「でしょう? 冬場は良いのよねぇ。まぁ、もうそろそろ時期外れだけど。暑そうだから今日で終わりにしようかと思ってるのよ」
「確かに……其の方が良いかも知れませんね……」
洗面室の扉越しに実江が笑う。
「あはは、やっぱりもう暑かったかしらね。琉歌に怒られちゃうわね、『走って来たのに暑すぎる』って」
糺凪は此の後に琉歌が入る事に為る、と今更気付き、変な汗が分泌される気がした。
「ノーサティスファクション・サテライト」は、リマーカブルの19枚目のシングル表題曲で、琉歌がリマーカブルに編入されて初のシングルである。下位グループのフリクエンターから昇格して来た琉歌の鬼気迫るシャウトが曲後半に有り、其れが此の曲一番の盛り上がり所だ――と云う。Wikipediaに依ると、大手飲料品メーカーのタナカビバレッジの当時売り出し中であった炭酸清涼飲料のCMに起用され、大量出稿されていたらしい。予備知識を入れた所で、糺凪は動画投稿サイトで検索を掛けた。流石は往時業界を席捲していたリマーカブルのA面曲の題名だけあって大量の動画が該当した。一番上に出て来たのが公式の宣伝用PVだった。再生してみる。
サビ始まりの曲は、其のメロディーがなかなかにキャッチーで、耳に残る。既聴感を覚えるのは、知らぬ間に刷り込まれたCMの影響なのかも知れない。潤沢な予算が投じられたであろう、詞の内容を表現した退廃的且つ近未来的なCG映像が秀逸だ。時折アップで画面に抜かれる琉歌の顔が未だ少し、あどけない。2番のサビが終わり、琉歌の全身が抜かれ、琉歌がロングトーンを叫び出した所で画面は徐々に暗転し、所属レコード会社のロゴマークが現れ、映像は終了した。販売促進効果を狙った投稿動画なので、レコード会社としては全編公開する利点は無いのだ。曲の続きが気に為る方はどうぞシングルCDを、動画の続きが気に為る方はどうぞPV集をお買い求め下さい、と云う寸法だ。昨今の販売戦略からは逆行しているが、斯う云った売り方をする会社は現に存在する。糺凪は溜め息を吐き、一覧の画面に戻る。すると、上位の方に英字で「ドームコンサート」と表記された動画が在った。
糺凪は考えた。恐らく此れは、リマーカブルの東京ドーム公演の収録作品を違法アップロードした代物だろう。著作権侵害の観点からも、利益滅失の観点からも、倫理道義上宜しいものではなく、無論表現者の端くれとして生きている糺凪の様な人間が最も許してはならない投稿である。が、生憎U.G.UNITEDは資金力に乏しい為、抑も滅失する様な利益を生み出す映像作品は無に等しく、糺凪自身が看過出来ない、と思う程の違法動画に出くわした経験は無かった。加えて糺凪は、商品化されていない過去のテレビ番組やCMなど、権利者が正規製品を販売していない映像作品に関しては、違法アップロードされても仕方無いのではないか、との見解を常々持っていた。違法とは云え、投稿されている動画の中には、正規の手段で此の世に視聴する方法が存在しない作品と云うのはごまんとある。だから見過ごせ、と言う訳では無いし、肖像権や商業面で製品化が困難なものがある、と云うのも分かる。が、正規視聴する手段を用意しない状態で違法動画を消していくのは、権利者の横暴とも云えるのではないか、と思う。極論・暴論の謗りは免れないだろうが、万人から興味有る映像を観る愉悦を摘み、延いては知る権利を侵害しているとも云えるだろう。消すなら正規版を発売する旨を告知してからにして欲しいものである。
無論、正規版が販売されている、或いはされていたのに投稿される動画は論外で、此の動画も即刻削除されるべきだ。
様々な思いを瞬時に巡らせつつ、結局糺凪はドーム公演の動画をタップした。今直ぐ手軽に観たい、と云う欲望には抗い難く、自分みたいな奴が居るから違法動画が無くならないんだよなぁ、と諦め交じりの笑みを浮かべつつ、糺凪は円環を表示する画面を眺めていた。
動画の再生が終了してから暫く、糺凪の心は現世に無かった。正に圧巻である。粗過ぎる画質の中でも、琉歌の輝きは微塵も減衰していなかった。中でも矢張り特筆すべきは、曲の中盤、シャウトの場面だ。説明文にはドーム公演の終盤、と記されており、琉歌を始めリマーカブルのメンバー達にも疲弊が窺える中、「ノーサティスファクション・サテライト」は披露された。そんな悪条件下で琉歌は曲中盤、半ば間奏を無視した20秒近いロングトーンを見せるのだ。後半は息も絶え絶え、声を出し切った直後は思わずふらつくなど、決して格好の良いものではないが、其の姿に糺凪は、剥き出しに迫り来る琉歌の意地と矜持が具現化した魂を確かに見た。
「――ありゃ、観ちゃった?」
背後から掛けられた声に、糺凪は魂打ちした。
「ひゎっ――……ルゥさん、か、帰ってたんですか……?」
「あは、可愛い声出たねぇ」
糺凪が表情で抗議すると、琉歌は笑い乍ら「御免ゴメン」と言った。そして微かに切なげな表情をする。
「……其れさ、『我を出すな』って叩かれたんだよ、当時」
「……『が』?」
「うん。まぁ要するに『出過ぎるな』って事だね。当時のリマーカブルは協調性って云うのかな……何事にも一丸と為ってパフォーマンスする同調感が長所だったから。突出した事を遣るのは評価されなかったんだよね。だから此れも『曲の邪魔をするな』とか『一人だけ目立つな』みたいな事を散々言われてね……。まぁ、評価して呉れる向きもあるにはあったけど、少数だったね。だから個人的にはあんまり……良い思い出じゃないんだ」
糺凪は強く、遣る瀬無さを感じた。良かれと思って遣った事や、日頃の研鑽が産んだ最良のパフォーマンスが報われない事など、間々有る事だ。だが同時に、糺凪は引っ掛かりも覚えた。
「――え、でもさっきタカキさん言ってましたし、ウィキペディアにも纏めサイトにも載ってましたけど、今は可成り評価されてませんか?」
琉歌は頷いた。其の眉尻は下がっている。
「うん……。多分、私が引退してからだね。其の頃から急に賛成する意見が多くなってきた様な気がする。……まぁ、其れ自体は良い事だけどね! 少なくとも私は、あの時私なりに頑張ってたし、格好良い様に遣ろうと思って、ああした訳だから。世間の評価が追い付いた、って云う奴?」
琉歌は最後、お道化て言ったが、糺凪は死後に作品の正当な価値が見出された芸術家達を想起して、笑い返す事が出来なかった。
何とも云えない沈黙が流れる中、其れを打破したのは部屋に入室して来た実江だった。
「琉歌、お風呂入らないの? 冷めちゃうから早くしなさい」
「あぁ……お母さん先に入っちゃって。私未だ腹筋してないから」
「そう? じゃあ先入るわね」
実江が部屋を出るなり、糺凪は琉歌に問うた。
「ルゥさん……毎日、一時間走った後に腹筋遣ってるんですか?」
「あぁ、否、毎日じゃないよ、腹筋は」
琉歌が続けた言葉は、糺凪の予想とは正反対だった。
「東京の自宅には色々道具が有るからさ。腹筋は週2位かな。後は他のトレーニングを」
「……あ……あの、どうして其処迄、遣るんですか? ……習慣に為ってるからってだけじゃない、ですよね?」
糺凪は何故か恐る恐る訊いた。何と無く、畏れ多い気がしたからだ。
琉歌は少し黙って考えた。
「……まず一つは、体型維持の為。もう一つは運動出来る身体を保つ為。後は……私自身がアイドルで居られる為、かな? 呪文じゃないけど、私はアイドルなんだ、って暗示を掛けてるみたいな。毎日走って、毎日鍛えてる間は、私は未だアイドル出来る、って言い聞かせてる――願掛けみたいなものなのかもね」
糺凪はただただ、感服した。言葉が見付からない中で、糺凪は唯一絞り出した。
「…………恐れ入りました」
琉歌は「飽く迄簡略的に」と注釈を付け乍らも、腰に負担の掛からない方式で腹筋を計60回行った。傍観しているのも何なので、糺凪も一緒に遣ってみた。後半、全く附いていけず、首を持ち上げるのさえ辛かった。
「ふ……腹筋が千切れてどっか行くかと思いました……。明日絶対筋肉痛です……」
「あはは! どっか行っちゃったら困るけど、大幅にじゃなくて一寸だけ千切れる事で筋繊維って強化されるからね。それに明日は振りと立ち位置も決めるからね! 筋肉痛でも確りして貰わなくちゃ!」
鬼だ、と云う呟きは口腔内に留めておいて、代わりに糺凪は
「……頑張ります」
とだけ回答した。
「ふぁ~、バスハーブ暑いって~!」
ハーフパンツにTシャツ姿で、首にタオルを掛けた琉歌が風呂から戻って来た。
「冬場は凄く良いんでしょうけどね、温まって」
「うん、確かに冬は助かるけどねぇー……」
「……どうしました?」
不意に言葉を途切れさせ、立ち尽くす琉歌を糺凪は見上げる。琉歌は顔を赤らめていた。湯上がりの火照りだけではなさそうだ。
「……何だろう、今更だけど糺凪ちゃんが私の家の服着てるな、って気付いたら……一寸照れるよね。ほら、彼女が自分の服着てるのを見て男の子はドキドキする、って言うじゃない? アレみたいな感じなのかな」
そんな譬え、された方だって照れる。糺凪も俯いて頬を紅潮させた。気恥ずかしい時間が流れる。
「……さぁ、寝よう寝よう! 明日は朝5時に起床だよ!」
「……ルゥさん、流石に其れは……早過ぎないですか?」
糺凪は壁掛け時計を見遣った。時刻は午前1時を回っている。
「……そうだね。御免、一寸燥いだ。7時頃起きようか?」
「分かりました」
糺凪の返答を聞いて、琉歌が折り畳み机を窓際に寄せ、二つの座布団を縦に並べた。
「じゃあ糺凪ちゃん、ベッド使って。私は床で寝るから」
「いやいや!! ルゥさんの部屋なんで、ルゥさんのベッドですし、どうぞ!!」
「いやいやいや!! 泊まらせてるんだから泊まって貰う人にベッド譲るのは当たり前でしょ!? 大丈夫! 私も何ヵ月か使ってないから、臭いはしない筈だから! どうぞどうぞ!!」
「いやいやいやいや!!」
「いやいやいやいやいや!!」
一頻り定番を熟した所で互いに噴き出し、手打ちにして床に就いた。琉歌は直ぐに寝息を立て始めたが、糺凪は琉歌のベッドで寝ている此の状況に心拍数が亢進し、中々寝付けなかった。
「……ん、ふぅ……」
「あ、お早う」
瞼の明るさで目を覚ました糺凪は、窓から差す真っ白な陽光の中にぼんやり浮かぶ、琉歌の絞られた上半身と控え目に割れた腹筋に眼を奪われた。
「……割れてるの、格好良いですね……」
「……あ、バレた?」
丁度Tシャツを着替え終えた琉歌は、僅かに頬を染めて言う。
「いやいや、ルゥさんが見せてたんじゃないですか」
「いやいやいや、態とじゃないし……」
「いやいやいやいや……」
「いやいやいやいやいや……」
昨夜からの繰り返しを噛まし、二人は笑い合った。
其の後、糺凪も着替えを済ませ、朝食の為、階下に降りた。昨日、糺凪が着ていた私服は洗濯して貰える、との事で、今日一日は昨夜に引き続き、琉歌のお下がりを着用する事に為った。普段と異なる柔軟剤の香りにそわそわしつつ、糺凪が琉歌の後に続いて食堂に向かうと、夜半に帰宅したのだろうか、琉歌の父と思しき中年男性が食卓に着いていた。台所から顔を覗かせた実江が声を掛ける。
「あぁ、お早う糺凪ちゃん。其の人、私の旦那。琉歌の父親ね。不審者じゃないから安心して?」
「……はぁ」
実江の心配には及ばず、誰だって此処迄周囲の背景に溶け込み、落ち着き払って味噌汁を啜る此の男性を不法侵入した得体の知れない赤の他人だとは思わないだろう。糺凪が琉歌の様子を窺うと、実江のブレの無さに半ば諦念を抱いた表情で、糺凪に着席を促してきた。糺凪は琉歌の隣に座る。
「お父さん、此の娘が今度の事務所のアイドルさんで、私と同じグループに入る予定の糺凪ちゃん」
「あ……初めまして! U.G.UNITEDと云う芸能事務所に在籍させて頂いております、西船橋糺凪と申します! 此の度ルゥさ……琉歌さんと組ませて頂く事に為りました! 宜しくお願い致します!!」
糺凪は傍から一目で判る程、肩に力が籠もっている。琉歌の父は汁椀を置き、
「これはご丁寧にどうも。琉歌の父の蒼鷲昌敬と云います。TOKIOの松岡君の『昌』に尊敬の『敬』で昌敬と読みます。以後、宜しく」
銀縁眼鏡を光らせ名告り、一礼する。一癖有る挨拶の文句に、糺凪は何処か実江との共通項を感じ取った。
「お父さん、変な挨拶しないでよ! 何で夫婦揃って名前の漢字迄紹介してんのよ恥ずかしい!」
琉歌が実父を窘める。親子3人の関係性を垣間見た気がして、糺凪は琉歌から見えない様に微笑んだ。
(1-5-2へ続く)
本作は架空の創作物です。
文中に登場する人物名、団体名等は、現実のものとは関係ありません。
また、文中に実在する著名人名、企業名、商品名等が描写された場合も、其れ等を批評・誹謗する意図は一切ありません。
前作から通読して頂けている方がもしも居られましたら、幸甚至極で御座います。
先ず、改めて今話の作業を通じて痛感したのは、自分の書いた文章を校閲するのが非常に不得手だ、と云う事です。自分の書いた文章を読み返すのが苦痛で仕方無い。でもルビの振り方や三点リーダが二点になってたりの誤謬が見られるので、見返すのは重要な事です。其れは承知ですが、元々文章を書くに当たって最適な単語と漢字とルビを考えているので、書き覚えのある染み込んだ文章をなぞる様で、非常に詰まらなく、作業が捗りませんでした。
ルビを重複して振っていないか、~の所での「所で」とby the wayの「ところで」の漢字を書き分けられているか等と云った漢字遣いが統一されているか。そんな所をワードに取り込んで検索機能で検証したりと、1-5-1は今迄になく校閲作業を施しました。まぁ然し此れでも一通り浚った程度なので、此れまで如何に読み返していなかったのか、と云う話です。
扨、前話の後書きで会社を辞める事を決断した、と云う所迄書きました。其の後の事を少々書かせて頂きます。自分語りうぜぇよ、とお思いの方、此の後ちょっと良さげな事も書きましたので、お時間に余裕が御座いましたらお付き合い下さい。
いやぁ……、先ずは耳苦しい言い訳をどうかお許し下さい。
年始早々、小説投稿サイト「カクヨム」に新シリーズを投稿して、何故か其の出来が自分の中で認められず打ちのめされていました。其の所為で1週間パソコンも禄に開けない位落ち込みました。
昨年末には以前から利用している小説投稿サイト「エブリスタ」の方に高校生の頃書き残していた掌編や、突如思い付きムクムクと創作意欲が沸き上がって速攻で書き上げた掌編をアップしたり、同じく「エブリスタ」に短編集を上げようとしたり(執筆途中なので、未だアップ出来ていません)、複数作品の劇中歌や作中作を拵えたりと、まぁ相変わらず色々と遣ってはいたのですが、最もメインに進めている本作が、此処迄更新出来なかったのは遺憾千万の思いです。
自分の中に期日を作り、何とか間に合わせようと集中して書いていたら7万字を超過していて保存出来ず青ざめたのがもう半月程前になります。苦肉の策で1-5-1と1-5-2に分割する事にして、何とか凌ぎました。まさか分割する事になろうとは、自分でも予期していませんでした。
琉歌が帰郷したパートで、ドリフトのネタを書いているときは、本筋からズレた事しかしていない気がして暗澹たる思いでした。「此れ、纏まるのかな?」みたいな感じで、あの辺りは相当筆が進みませんでした。元々、他のネタでいつかドリフトものを遣ろうと思っていたので、そっちにも使えるし、と設定や描写を遣り込みすぎた感は有ります……。肝心の走行シーンは死ぬ程迫力に欠けるので、将来ドリフトものを遣る時迄には改善出来る様にします。
後は、やっぱり通読すると、展開の繋がりがスムーズじゃないな、とは思いましたが、其れを直すと最早全修正に為ってしまうので、其処に関しては或る程度納得しています。
仕事を辞めてからですが、可成り自堕落に過ごしていました。自分と向き合える時間が圧倒的に増えた事で、却って自分の本質から逃避しているのかも知れません。人間、本気で自分と向き合う、と云う事は、非常に苦痛を伴います。
最近、遣る気が起きずに落ち込んでいる時と遣る気が湧いて前向きな時、そして遣る気も起きないが落ち込みはしない凪の境地(此の頃は此れが一番多い)の制御が自分で利かず、辟易しています。鬱だとかそんな大それたものではないと思いますが……。基本的に、仮令自分がどんな環境下であっても、自分より辛くてキツくて大変な方は世の中に必ず居ると思っているので、自分ごときでシンドいなどと言っては其の方達に申し訳無いと思っています。
皆様大なり小なり覚えが有るとは思われますが、昔から自分の辛さ、痛みが他人と比べてどんなものなのかが分からなくて不便に思っています。例えば怪我をして、あーコレ痛ぇなぁ~、でも此の位の痛みって他の人だと屁でもないのかなぁ、とか考えます。医者に「此の程度で来たんですか我慢弱いですねぇ」とか思われたら嫌だなぁ、と考えるとおちおち病院にも行けません。痛みや辛さを相対化する指標を誰か発明して呉れないものでしょうか。
閑話休題。自分の精神のアンコントロール振りに辟易する日々ですが、今の所は自殺する気はありません(急に重い内容に為って済みません)。死んだ所で、自殺では生命保険が下りない可能性もあるので親に出費をさせかねないし、輪廻転生には反対派で死んだら全てが終了だと思っているし、人間生きていても死んでいても誰かしらに迷惑を掛けるものだ、と云う諦念も有るし、死は究極の逃避だと思うので、取り敢えず死にはしません。人間、先ず命を粗末にしない事です。
もしも万が一、此処を読んでいて自殺を考えておられる方が居りましたら、僕は推奨しません。どうせ人間、生きようが死のうが必ず誰かしらに負担を掛けるのです。ならば、生きていれば其の負担の量を調整出来るし、死んでしまって何も手出し出来ないよりマシではないでしょうか? 特に、列車への飛び込みや自爆等に因る自殺は全力で反対します。此処からは暴論ですが、貴方が死のうがどうだって良いのです。ですが、貴方が死ぬ事に因って損害を被る人が居る事に想像力を持って下さい。貴方が電車に身投げする事で、親族には巨額の賠償請求が降り掛かります。数時間ダイヤが乱れる事で飛行機に間に合わず、ハネムーンに翔べなくなる新婚カップルが居るかも知れない。駅のホームで貴方がダイブするのを目撃した人は、場合に因っては一生鉄道を避けて生きていかざるを得ない程のトラウマを植え付けられる可能性もあります。貴方の体液や身体だったものの欠片、持っていた荷物、履いていた靴が近くの客に飛散して、其の人を直撃し打撲させ、失明に至らしめる事だって、極端ですが有り得ます。
其れが自分の存在証明に成るんだ、自分が生きた証を此の世に刻み遺して遣るんだ、なんて思っているのなら、尚更止めましょう。貴方は余計な仕事を増やしやがった迷惑な、人間だった物体として処理されるだけです。傍迷惑な肉塊と云う最終評価で終える、そんな人生で満足出来るでしょうか?
僕は全ての人間には相応に「人生」と云う壮大で膨大な物語が有って、そして其れは得難く尊いものだと信じています。そんな得難く尊いものを、たかが自己顕示の自慰行為で泥を塗って終わらせる事は、仮令自らの人生だとしても許される事ではありません。だから想像力を養って欲しい。綺麗に言うなら「自分が死んだら誰が悲しむか」、より現実的に言うなら「自分が死んだら誰を(多角的に)苦しめるか」と云う事に思いを馳せる事が出来たなら、そう安易に自殺を試みないと思います。また想像力を養う事は、辛すぎる現況から抜け出したいが為に死を考える方にはより強くお薦めです。生温い甘ったれた考えだ、と謗りを受けるのは承知の上ですが、あらゆる思考を駆使して、命を終わらせる以外に自分の辛さから逃げ出せる方法を編み出して下さい。時には常識を捨て去って考える事も不可欠でしょう。必ず何処かに、道は在る筈です。
兎に角、僕は自殺だけは推奨しません。お互いに、どんな形に為ろうと此の憂き世を泳ぎきって遣りましょう。
可成り偉そうでクサかったですが、一寸はマシな事書けたかな、と思うので、また自分語りしたいと思います。呆れずに宜しくお付き合い願います。
僕の理想は、人生無借金で終える事です。金の貸し借りは人間関係に罅を刻む事は身に沁みているので。
従前の浪費癖と諸税金が祟り、頂戴した退職金の分が無くなりそうなので、もうそろそろ働き始める心算ですが、現状で勤め始めたら結局、嘗て苛まれた二律背反を抱え込む事は明らかです。
とは云え、あの時点で会社を辞めた事は全く後悔していません。如何せんあの板挟みの心理状態で続けるのは無理があったと思うので。後悔すべくはその後の、約8年仕事頑張ったし、少し位休んだって、と云うクソ甘ったれた気持ちでダラダラと過ごしてしまった事です。本来は今の無職の期間に少しでもチャンスを掴む、其の為に時間を費やす予定でした。
金銭感覚も浪費癖も自分に甘い性格も、辞める前に考えていた程、自分で制御出来ませんでした。まぁ、此れもまた一つ自分の本質を知れた、と云う事で……(そんな風に考えないと遣ってられません)。
ガラッと話は変わりますが、基本的に文庫本と云う判型が好きです。読み易く携行に便利なサイズ、手頃な価格帯、其れ等から来る親しみ易さ……。逆にハードカバーは読み難くて好きじゃないです。余程好きな作家さんの本でも滅多にハードカバーは買いません。もし買ったとしても其れは生来のコレクター気質が招いているだけで、基本は文庫化待ち勢です。
文庫本が好きだから、其の形態が大勢を占めるラノベやライト文芸と云うジャンルが好きなのかも知れません。
僕の夢は、ラノベ乃至ライト文芸の形態で何某かの文学賞を獲る事です。そして史上最長の後書きを書く事です。文庫で30ページも書けば後書きで天下獲れるでしょうか? 「後書きで本気出す作家」なんて評されてみたいものです。夢を語るのは自由ですから、現状では影も見えはしませんが語りました。
基本的に、「此の漢字ってこう読むんだ!」とか「此のルビの振り方はねぇだろ(笑)」とか「あぁ、此の言葉ってそんな意味なのね」「こんな単語有ったんだ!」と云う様な知的好奇心や文章的な面白さを読者の方に与えられたらな、と云う思いがあります。其れを叶えるには現状、読者の皆様に辞書を引っ張り出して頂き、屡お手元の端末で検索を掛けて頂かなければいけないので、負担減の為にも脚注が有ればワンストップで済むじゃん、と云う発想から脚注付きの小説を上梓する事も夢です。今話に関する語句ならば、「ガルバリウム鋼鈑」に就いて、とか「言わでもの事」と云う言い回しの意味とは、とか「切れ角」や「VQ35DE」に関して、とかの解説を挿入した形態で、新書判に文庫分の文量で本文を入れて、空いた下のスペースに脚注を付ければ良い感じに纏まるのでは? などと妄想しています。脚注を入れる事で本文中に説明的な描写を挟まずに済むので、本文がもっと読み易くなるんじゃないかな、と云う希望的観測が籠もっていたりもします。
自分のだらしなさに打ちのめされたり手の遅さに辟易したり、集中力の無さに落ち込んだり、才能の足りなさを痛感させられたりと、殆ど希望など感じられないし、成功するイメージなど正直言ってこれっぽっちも浮かばない日々を過ごしています。
ですが、「割かし良い事書けたな」と思えたり「良いルビ振れたな」と思えたり「キャラクターが上手く動いて良い感じに転がったな」と思えたりと云う心地良さは偶に感じられるので、やっぱり止めようとは思えません。
結局、何かと理由を付けては、小説を書いて創作の世界で飯を喰う、と云う夢を諦められない。
惨めにしがみ付いていると思われるかも知れませんが、諦める事は既に選択肢に無いのです。些か勇壮に過ぎる気もしますが、此れが本心に最も近似している様に思えます。
今後もそんな、仮令世間に嘲笑されても、無様に愚直に夢を追い求める人物達を描けたらな、と思っています。
そんな訳で、1-5-2は近々上げられると思います。半分弱は書き上がっていますし、大まかな内容は纏まっているので。
こんなチラシの裏に書いとけレベルの駄文に此処迄お付き合い頂けた方が万一居られましたら、心底感謝申し上げます。今回は思い付く儘に書き殴ったので可成り危うい構成に為っていて申し訳有りません(原文は構成が無茶苦茶過ぎて、殆ど箇条書きだったので、幾分体裁は整っています)。
折角ですので、次回も何卒ご贔屓に……。
前述の「エブリスタ」や「カクヨム」にもtheBlueField名義で投稿しておりますので、気が向いたら検索の方、宜しくお願い申し上げます。
因みに拙作は全て、基本的に中学入学時に両親から戴いた「三省堂国語辞典小型版第5版」に漢字仮名遣いは準拠しており、一部漢字遣いや語句の意味合いはSHARP製電子辞書PW-9400内の広辞苑第5版に基づいています。此の二つが自分の好みに合致しない場合はセンスを優先させる文章としています。
(誰も望んでいない)おまけ
ホンダから発売されるN-VANと云う4ナンバーの軽自動車の登場に因って、俄かに軽商用車(軽の自家用貨物車)が注目されるかも知れません。
N-VANの他にも軽商用車にはダイハツのハイゼットキャディも有り、此れは実質ダイハツ・ウェイクの2人乗り版と云えます。
比較的大幅に上乗せされた自家用乗用車の軽自動車税に対し、自家用貨物車の軽自動車税の値上げは小幅で、増税前と比較して其の価格差は開いています。更に毎年車検と為る普通の商用車と異なり、軽商用車は軽乗用車と同じく2年毎の車検と為り、負担は同等です。
見た目や装備の簡素さは使用者が好きに出来る部分ですし、清貧の思想が再度普及すれば、軽商用車の時代が来るかも知れません。スズキがアルトバンにカラフルな塗装色でも設定した日には、軽バンブームも充分有り得るでしょう!
何故、米が他国に干渉出来るのか?米が一言呟いただけで、方針を発表しただけで、何故他国民を殺せるのか?
自分が不勉強なだけだけれど、訳が分からない。もうそろそろ、米に依存する社会構造から脱却しなければいけない筈なのに。
少なくとも、あの“クセ髪ツイートマン”が居る限り、米が主導権を握る世の中は歪にしかならない。
誰もが、彼が関与していた事は解りきっているのに、水辺で揺蕩う様にのらりくらり躱し続ける。野党も今一つ攻めきれず統率力に欠き、国民はとっくに見限っているのに「代わりに為りうる人物が居ないから」と生暖かい目で甘やかし続け、政府は其れを良い事に調子に乗って遣りたい放題。こんなんじゃ国民は何時まで経っても政治を信じられる訳がない。
国外が様々目まぐるしく変遷し続けるのに対して、内政は余りにも低レベル過ぎる。
我々は一体何を見せられているのか? 何もかも実にくだらない。