第四話(1-4) 小梢希望
難読漢字等でルビを多用しています。
その為、読み辛いと思われる向きもあるかも知れませんが、ご容赦下さい。
1-4
「じゃあ辞めてやるよ、こんな事務所!!」
激烈な啖呵を切って、小梢希望は社長室の扉を蹴破らん勢いで開け放ち、飛び出していった。
何故、解らないんだ? どうして、理解して呉れないんだ? 考えれば考える程、苛立って、遣る瀬無くなって、切なくなってくる。視界が滲むのを気に掛けない様に意識して、希望は1年強世話に為った芸能事務所が入居するビルを駆け出してゆく。
「……社長」
「構うな。礼儀のなっとらん奴を此れ以上置いておける程の余裕は、ウチには無い」
社長室の窓から、夕暮れの街に消えゆく希望の後ろ姿を見遣りつつ、貴宮颯馬は深い溜め息を吐いた。
「! ……もしもし」
8回も呼び出し音を聞いた後だと、此方から発信していても通話が成り立った事に驚きを感じてしまう。
「…………もしもし」
相手は受話した筈なのだが、応答は無い。背景音も無い、ぽっかりと穴が開いた様な静寂が、携帯電話越しに拡がっている。
――斯う為ったら、我慢比べだ。通話相手が沈黙を決め込む心算なら、此方も口を閉ざし、沈黙の耐久選手権に持ち込んで遣ろう、と考えた。或る種のくだらない意地の張り合いだ。相手が呆れて通話を切ってしまう可能性も有る。然し、僅か乍ら勝算も有った。其れは、相手が自分だと分かった上で電話に出ている、と云う事――。
〔……今更、何か用?〕
受話装置越しの希望は、頗る機嫌の悪そうな声音で、漸く口を開いた。貴宮は内心とは裏腹に、飽く迄冷静に告げる。
「申し訳無いが、斯う為ってしまった以上、俺はもう庇う事が出来ない……済まないが」
〔良いよ、別に。ウチが遣った事だし。後悔は……してないし〕
希望の台詞に挟まった僅かな沈黙が、入り組んだ心情を吐露している様だった。
「其処でだな、君に会って欲しい人が居る」
〔何、それ……何が『其処で』なの? どうして貴宮がそんなにウチの面倒見るの?〕
希望は静かな口調で捲し立てた。貴宮は一つ一つに回答していく。
「別に大した意味は無い、単なる接続詞だ。……確かに、事務所を離れる者に対して、面倒を見る義理は俺には、無い。だが、君が此の儘此の業界を離れてしまうのは、俺は勿体無いと思う」
〔ウチ、辞める気なんか〕
貴宮は希望の反論を遮った。
「まぁ、君が此の業界から足を洗うなんて事を考えているとは思わないが、でも恐らく此の儘だと君は、今回と同様の理由で移籍先の事務所にも居づらくなり……そんな事を繰り返していくだろう。そして其れを繰り返す内に、君の精神は摩耗し、軈て逆風に打ち克つ気力さえ削がれてしまう……」
〔……決め付けんなよ〕
「分かるんだよ、俺には。……分かるからこそ、俺が思う最適解を君に提示しておきたい、と思うんだ。……君の其の『信念』を理解して呉れる事務所が、一つだけ、在るんだよ」
〔…………ふぅん……〕
貴宮は、先方に紹介する際には同席して欲しい、と希望に伝え、通話を終えた。口角を上げた、特有の笑みを浮かべつつ、引き続きスマートフォンを操作して、志川雄路の携帯電話番号を呼び出す。
「面白く、なりそうだなぁ……」
呟きつつ、発話する。稍あって、電話が繋がった。
事務所の固定電話が、不意に鳴り響く。地下アイドルを主とする弱小芸能事務所U.G.UNITEDの社員である甲斐路結芽は、2コールで受話器を取った。
「はい、U.G.UNITEDで御座います」
〔あぁ、甲斐路さんですかぁ? ご無沙汰しておりますぅ、皆木プロの貴宮ですぅ〕
「あぁ……はい。……昨日、社長とお電話しておられた件ですか?」
〔えぇ、明日の正午頃にお伺いしたいと思いましてぇ。志川社長にお伝え頂けますかぁ?〕
「あ……はい、承りました。連絡しておきます」
〔宜しくお願いしますぅ、では、またぁ〕
「……はい、失礼致します」
相手が電話を切ったのを確認してから受話器を置いた結芽は、ふぅ、と溜め息に近似した吐息を漏らし、
「……やっぱり、どうも苦手だなぁ、あの人……」
と、独り愚痴を零した。デスクトップPCと睨めっこするかの様に、文字通り液晶画面の目と鼻の先で頬杖を突く。事務所での電話番が主たる職務の結芽は、呼び出し音が鳴らない限りは暇であった。口煩い下衆社長も、今日は朝から外出している。結芽は暫し、焦点を合わさずに眼前に拡がる21吋フルHDのTFT型非光沢液晶を見据え、回想に浸った。
――嘗てU.G.UNITEDには、「シトロンヘロン」の云わば前身と為る、社を挙げた「sur−FIRE」なるアイドルグループが存在した。志川がU.G.を設立してから初めて陽の目を見たグループであり、また業界内でも順調に其の勢力を拡大させていた。流行りモノに乗る習性の強い一部メディアは、「次世代を担う」と大それた修飾を用いていた程である。
然し、結果的に、現在其のグループは、無い。結局はインディーズ止まりで、唐突に解散してしまった。
sur−FIREは、一部のマニアックなアイドルファンのみならず、少なからぬ一般層にも其の名を認知されている。取りも直さず、中堅芸能事務所である皆木プロダクションに所属する、有望な実力派若手女優の琴平遥和を輩出したアイドルグループとして、である。遥和は、sur−FIREに所属していた頃から、図抜けた容姿を誇っていた。其の上で、平均水準以上の歌唱力や身体能力をも有していた。そんな遥和を、アイドルファンや業界人が放っておく訳が無かった。グループの順風満帆な成長は、遥和の存在其の物に因る側面が大きかった。
当時、U.G.を立ち上げた直後の志川は、熱心に、それこそ心血を注いで、と云う表現が過言ではない程に、sur−FIREに力を入れていた。そんな志川の下で働いていたのが、現在皆木プロの社員である貴宮だった。
結論から言ってしまえば、sur−FIREが解散に至った最大の要因は、遥和の皆木プロへの移籍だった。グループを有名にしよう、もっと大きくしよう、と邁進していた志川と共に知恵を絞り、共に汗を流した貴宮の皆木プロへの転籍と同時に、遥和はU.G.を後にした。
此の業界、より規模の大きい者が、より強い発言権を得るものである。歴史の無い、駆け出しの零細事務所だったU.G.UNITED、そして志川は、皆木プロへの遥和の移籍を、唯承服する他無かった。
最大の主力メンバーを喪ったsur−FIREは、以後の飛躍を果たせる筈も無く、相次ぐメンバーの離脱等の紆余曲折を経て、遥和の移籍から数ヵ月後、敢え無く解散する。一方の遥和は、業界の主流にきっちり喰い込む皆木プロの地盤の強さも相俟って、今や民放テレビ局の連続ドラマの主役に名を連ねる程に伸し上がっていった。
志川は、此の悔しさを糧に、其の後シトロンヘロンを立ち上げ、苦杯を味わった過去を払拭すべく奮闘しているのだ――。
「……ま、多分実際は、ハルちゃんをNTRたのに腹立っただけなんだろうけどねー」
結芽は回想の世界から戻りつつ、半嗤いで独り言を呟いた。結芽は当時、志川を近くで見ていたので、略確信を持っている。志川は当時、遥和と親身に仕事をする内に、未必の恋を抱いてしまっていたのだ……恐らく。志川は葛藤しただろう。グループをマネジメントする立場、然も所属事務所の社長である自分が、よもや売り出し中のアイドルグループのメインメンバーに惚れてしまうなんて。其の頃、志川はsur−FIREのエース兼リーダーの様な立場だった遥和と二人、今後の方向性等を話し合う機会も多かった。現在の彼女が纏いつつある、大人びた女性の色香を仄かに感じさせつつ、幼さが残る往時の遥和の絶妙な魅力を以てすれば、どんなに身持ちの堅い男であろうと、恋心を抱かない筈が無いだろう。
多分、志川は遥和に惚れてしまっていた筈だ。そんな状況下、同胞の貴宮が遥和と宛ら駆け落ちの様な移籍劇を演じ果せたのだ。志川の自尊心が幾重にも引き裂かれたであろう事は想像に難くない。
勿論、此の事を志川が口にした事は無い。諄い様だが、全ては結芽の憶測である。
「……あぁ、そうだそうだ」
結芽は呟いて、仕事用として貸与されているiPhoneを事務机の引き出しから取り出す。貴宮から連絡が有り次第、志川に電話を寄越す様に託けられていたのだ。
「――あ、もしもし社長っすか? …………」
結芽は義務付けられていた連絡を終えると、再び溜め息の様な息を吐いた。アイコンが並んだ眼の前の液晶画面を漫然と眺める。
其の後、時折マスコミから琉歌の電撃復帰に関する問い合わせの電話が入ったが、詳しく答えなくて良い、との志川からの言伝が有ったので、「詳しくは後日プレスリリースを出しますので」と云う定型文を返答する事の繰り返しだった。
そんな此の日、結芽は終日、何だか仕事に集中しきれなかった。
狭苦しい有料駐車場に、一台のハイブリッドカーが停車した。暖機運転音の代わりにインバータの高周波音を微かに響かせるトヨタ車の後部座席から降り立ったのは、スウェットのズボンに黒いパーカーと云う、寝間着の様な素っ気無い服装をした小梢希望だ。社有車である、水色の初期型アクアの運転席から出てきたのは無論、貴宮である。
「さて、行こうか」
普段とは少々異なる、緊張感を含んだ貴宮の声に、希望も気を引き締めて、歩き出した。
社長室とは名ばかりの、雑居ビルのフロアを間仕切りで区分けしただけの空間。其の中で、安物の応接机を挟み、貴宮と希望、そして志川が相対していた。更に、志川の斜め後ろ、社長室的空間の片隅には、結芽が腕組みをして立っている。とは云え、結芽の女の子らしい容姿の所為で、其の仁王立ちには本来在るべき威厳や威圧感は、皆目無い。
「……あのなぁ甲斐路、お前の仕事は何だ? 電話が直ぐ取れる場所に居なさいよ」
志川も、此処最近の制御不能な結芽の言動にはほとほと参っている様で、深い溜め息交じりに窘める。
「否、嫌です。あたしにも事務所の新入りちゃんを見る権利は有る筈ですぅ」
結芽は至極当然、と云う顔で言い張った。志川は眉間に皺を寄せ、
「じゃあ、其の間に電話が掛かって来たらどうするんだ?」
と問うた。結芽は然も当然と云った風に、
「其の時はちゃんと電話出ますよ!」
と言い切った。志川は額を押さえつつ、
「……分かった、なら良い。元々、お前の人を視る目は頼れるモンだ、其処で見てて呉れ」
と留飲を下げた。一段落したと見るや否や、貴宮が
「楽しげな遣り取りをお聞かせ頂いたのは幸甚ですがぁ、我々客人をほったらかしにするのは如何かと思いますよおぉ?」
と口を挟んだ。志川は一瞬、露骨に厭そうな表情を浮かべたものの、気を取り直し、本題に入る。
「……あぁ、そうだな。じゃあ……君、自己紹介をお願い出来るかな?」
言われた希望はすっと一礼し、凛然と言った。
「初めまして、小梢希望と申します。先日迄皆木プロダクションに在籍し、アイドルとして活動していました。此の春、高校二年生に為りました、16歳です。宜しくお願い致します」
結芽は、希望の蟀谷辺りが強張っているのを見逃さなかった。恐らく緊張しているのだろうが、ぱっと見其の緊張感は見受けられず、表層は上手く取り繕っている。
「……小梢、さんだね? 小梢さんは、どうして皆木プロさんの方を離れたのかな?」
志川が整った作り笑いを浮かべ乍ら、慇懃に訊く。猫被ってんなよ、気色悪い――と眼で罵声を浴びせ掛けてくる結芽の視線を痛い程に感じつつ。
「…………恐らく、ウチ……私が生意気、と云うか……何かと反発的だったからかな、と思います……。ウ……私、名前が『希望』って書いて『ノゾミ』って読む、まぁ一寸DQNネームって云うか……。其の所為で以前から悪口、って云うのか……言い合いに為る事が多くて……。何かそうやって、馬鹿にされたり、見下されたり、良くない風に言われる事に対して敏感に為ってて……。後は…………ウチ……あ、私」
「良いよ、そんな一人称に迄気ぃ遣わなくて」
幾度目かの希望の言い直しに、志川が優しげな声色を意識して口添える。
「あ……そうですか、有り難う御座います……。……ウチ、一つ信念が在って。同じ一つの目標に向かう、一丸と為った同胞じゃないですか、アイドルと事務所社員って。まぁ、ウチ等だけじゃなくて、世の中の『仕事』って云うものの全てに云えると思うんですけど。で、そう云う対等な関係だったら、別に敬語とか遣わなくても良いと思うんです。寧ろ、そう云う言葉遣いが或る種の壁を作るんじゃないかな、って思ってて。だから、其れを実行してたんです。同僚達や事務所社員達にタメ口だったんです。社長とかにも……。其の上、過敏に為ってて色々噛み付いたりしたから……多分、そう云う所なんだと思います……」
「成る程ね……」
神妙な面持ちで志川が相槌を打った。矢張り、其の素振りは何処か芝居がかっている。
「やっぱり、変えた方が良いんですかね、そう云う所って……?」
自信無さげな微笑を浮かべ乍ら、希望は呟く様に言い、俯いた。貴宮は、自分が想像した通りだった、と得心が行った。矢張り、希望は相当に参っている。
貴宮が一年程前、街で声を掛けた時、希望は既に二つの芸能事務所を後にしていた。詰まり、皆木プロで三度目の解雇と為り、希望本人からすれば盥回しに遭っている様な気がしている筈だ。どれ程強い意志を持ち、折れない信念が在ったとしても、真面な神経ならば多少なりとも弱気に為るだろう。
「――否、別に構わないんじゃないかな」
志川はぽつりと漏らす様に言った。希望は思っていたものと異なる回答に、パッと顔を上げた。
「――え?」
「……確かに、礼儀は大切だよ。挨拶とか、目上の方や先方に対しての言葉遣いは確りしなきゃいけない。でも、俺は、小梢の云う其の信念が、そんなに間違ってるとは思わない」
志川は、右手で顎を擦りつつ、続けた。
「所属事務所の社員やタレントに対してタメ口を利くって事だろ? 大いに結構だと思うね、少なくとも俺は、な。だから、小梢」
志川は希望の眼をじっと見つめて、言い聞かせる様に言葉を紡ぐ。
「お前は、お前の信念を曲げるな。お前が一度、正しいと信じた事だろ? お前位は、そいつを信じ抜いて遣れ。最後迄そいつの味方であって遣れ。ブレるな。……大丈夫、お前がそう出来る様に、俺等は全力で後ろ盾するから」
「――じゃ……じゃあ……?」
希望が、心做しか潤んだ瞳で、志川に確認を求める。志川は意味ありげな視線を貴宮に投げてから、
「まぁ、過去に色々有ったけど、基本的には貴宮の視る目は信じてる。だからコイツから話が有った時点で、もう決めてはいたがな」
と言い、希望に右手を差し出した。
「小梢、此れからはU.G.UNITEDの一員として、宜しく頼むぞ」
「……了解!」
希望はガッチリと志川の手を握り、固い握手を交わした。
「まさか、貴方の口からああ云う言葉が聞けるとは、思いませんでしたぁ」
希望の正式な所属契約の手続きは結芽に任せ、社長室には志川と貴宮のみが残っていた。
「……本音を言ったまでだ。俺はあの時の事を赦した訳じゃない」
「…………勿論です。赦される事ではありませんしぃ、赦して貰えるとも思ってませんしぃ、赦されるべきでも無い、と思ってますぅ」
志川は右手で生えかけている顎髭を覆う様にした。
「……まぁ、お前にどんな事情が有ったのかはもう詮索する気も無いが……。でも、最近思うんだよ。お前の遣った事は、或る意味では正解だったのかも知れない、とな」
貴宮は、志川が何を言おうとしているのか予想がつかず、唯志川を見返した。
「遥和……元い、琴平に就いてだ。アイツの観点に立てば、あの時点での移籍が今の成功に繋がっている訳だからな。……俺は、琴平を女優として育てよう、なんて見通しは持ち合わせてなかった。それに……悔しいが、皆木プロの地力が無ければ、此処迄売れなかっただろうしな、まぁ言わずもがなだが。…………俺は、所属する娘達の幸福を第一に考えてる心算だ。此れは体裁振ってる訳じゃ無く、本心で、だ。だから、あの時点で皆木プロに琴平を引き抜いたお前の行為が、今の琴平の好況を招いたのなら、俺はお前に感謝する。……現況は、琴平に取っては、少なくとも芸能生活上では幸せである事には違いないからな。…………有り難う」
言い切ると、志川は貴宮に頭を下げた。向かい合う貴宮は、志川の後頭部を見下ろし、軈て顔を背けた。ひくつかせ乍ら、口の端を強引に上げる。
「……相変わらずぅ……偽善がお好きですねぇ…………」
志川は頭を下げた儘だ。貴宮は数歩距離を取り、キッと志川を睨んだ。
「あんたのそう云う所が!! 僕は嫌いだったんですよぉお、ずっと、ずぅっとねぇえ!!」
「……そうだったのか」
合わせる表情を持ち合わせていないのもあり、志川は辞儀をした儘応えた。
「えぇえ!! あんたはそう遣ってぇえ!! 口先で耳障りの良い事を言ってぇ!! 他人からの心証を稼いでぇえ!! そんで胸ん中じゃあ正反対の事考えてんだろぉお!! そう云う所がぁあ!!! 僕はずぅうっとぉお!! 大っ嫌いだったんですよぉおぉ!!!」
感情を突沸させた貴宮は、肩で息をしている。一方の志川は、相変わらず頭を下げた儘だ。
「偽善なんかじゃ、ないさ。俺は所属タレントを護りたい、と心底思って、U.G.UNITEDを遣ってる。……遠い昔に受けた仕打ちを、俺は生涯忘れない。あんな思いをするアイドルが、タレントが、一人でも居なくなる様に……そう思って此の会社を興したんだ」
志川は久方振りに顔を上げた。其の眼は、痛い位に真っ直ぐ、真正面から貴宮を射貫いた。
「其の筋が通せなくなるんなら、俺は此の会社を、潰す。其れは本気で思ってる。……まぁ、最近は一寸無理し過ぎてて、此の前蒼鷲に怒られたんだがな」
くくく、と志川は苦笑した。一拍置いて、続ける。
「だから俺は、偽善は言ってない。偽善じゃないが……ひょっとしたら、理想論ではあるかも知れない。だが、少なくとも、嘘は無い」
言い放った志川に、貴宮は顔を背け、溜め息を一つ吐いて返す。
「…………喰えないねぇえ……。あんたはとことん、喰えないよぉ……。其の言葉だってぇ、何処迄が本音でぇ、何処からが芝居かぁ、分かったものじゃないですよねぇえ……」
「……其れは、お前が俺の事を信用してないからだ。信用出来ない、気に喰わない奴の言ってる事なんて、誰だって素直に聞けないモンだ。……誰かが言ってたが、ありゃあ本当なんだな。『自分が嫌っている人間は、其の相手も自分を嫌っている』って奴。対人感情ってのは山彦なんだよな……」
志川はしみじみと言った。貴宮は睨みを利かせつつ沈黙し、相手の出方を待つ。
「此の際だからはっきり言うが、俺はお前を嫌っていた。あの仕打ちを受けた時から、脊髄反射的にな。でも、其れも今日でお終いだ。……俺は、思い出したよ。琴平とsur−FIREの話を良くしていた頃に、一度だけ遥和から、『将来は女優としてステップアップしていきたいと思ってるんです』って話を聞いた事が有ったんだよ。今の今迄記憶からすっ飛んでたが、俺は確か『まぁ、おいおいな。今はsur−FIREの事に集中しろ』って答えた筈だ。思えば、其れから直ぐだったか……お前が琴平を連れて出て行ったのは……」
志川は一旦、話を切った。深く息を吐き、続けた。
「昨今のメジャー規模のアイドルグループを見ても分かる通り、一旦アイドルとして認知された娘達が、女優とかそう云う第二の芸能人生に行き、尚且つ其の分野で根付くのは、相当難しい。各々個別の事情ではあるとは思うが、其の難しさの大きな要因の一つは、『アイドル上がり』と云う偏見が掛かる所為だと、俺は思う。兎角、軽視されがちだからな、アイドルって云う職種は」
貴宮は「そうですねぇ……」と、俯き加減で小さく相槌を打った。
「だからこそ、琴平があの時機で皆木に移籍して、若手実力派女優としてイチから売り出す方針がハマったんだ。未だ『アイドル臭』が染み付いてなかったからな、世間様も『アイドル上がりの見た目偏重の女優』って云う色眼鏡を貼らずに評価して呉れたんだよ。……何が言いたいのか、って云うと詰まり『あの時点でのお前の引き抜きが、今の琴平の好況を作り出した』って事だ。だから、所属タレントの幸せを願うプロダクションの社長として、お前には感謝してる、と云う訳だ。……まぁ、現段階での結果論だがな」
達観した様な志川の言葉に、貴宮は打ち拉がれた表情で、
「……此の期に及んで、貴方は未だ、そんな綺麗事を宣うんですね……」
と呟いた。其れが、精一杯の足掻きだった。
「何とでも言え。俺は本心から、そう思ってるんだ。……無論、お前のした事は背信行為だ。平たく云えば、裏切りだ。だから、事前に何の相談も無かった事に相当腹が立ったが、今の結果が琴平の幸せを物語っている。繰り返しに為るが、な」
志川は顎の先を擦りつつ、続けた。
「だから今、此の瞬間、俺はお前への蟠りも捨てるよ。そう……俺の下で働き、同じ釜の飯を喰った、と云う意味で言えば、お前も云わばU.G.の元・所属者なんだ。だから、お前が皆木プロで活躍していて、俺も嬉しく思うし、ほんの少し誇らしくもある。今と為っては、な……」
項垂れる貴宮に、志川は駄目押しとばかりに、右手を差し出した。
「だから俺は、お前を赦す。過去の事は、もう今日で清算しよう。……琴平は成功した。貴宮も皆木で活躍してる。俺も、あれから発奮して、今『トロン』で再び攻勢を掛ける。三者良い方向に向かっている……。三方勝者って事で……良いんじゃないか?」
貴宮は、肩を震わせている。――昔から、志川は理想論を語る男だった。否、正確に云えば、理想論に聞こえてしまう程の正論を忌憚無く語る男だった。
或る時から、何某かから聞いた話を切っ掛けに、志川の語る其の正論に、影が有る様に聞こえてしまう様になった。そうして、水面下で志川への疑念が膨れ上がっていく最中で、偶然皆木プロの現社長との交流が形成され、激流の如き日々の中で、諸々の条件を呑んで、琴平と二人で皆木プロへの電撃移籍を果たす事に為ったのだ。
――初めから、志川は何も変わってはいないのだ……。
「……ぼ、僕は……赦されても、良いんですか…………?」
震える声を必死に制御し乍ら、貴宮は絞り出した。
「俺は、赦すと言っている。それでももし、お前の胸中で良心の呵責が消えないのなら、お前は今後、皆木プロの社内から俺を援護射撃して呉れよ。何時か、お前の助けが要る時が来る、と思う……。其れで相殺だ」
貴宮は頭を上げた。其の顔面は、涙と洟と脂汗で塗れている。必死に声を絞り出そうとしているが、込み上げる感情が邪魔をして、言葉にする事が叶わない。唯、差し伸べられている志川の右の掌を両手で握り、肩を震わせる事しか出来なかった。
「名演技、お疲れ様です」
貴宮と希望が去った事務所内で、社長室から出て来た志川に紙コップを手渡しつつ、結芽は言った。
「……何の、事かね?」
注がれたインスタントコーヒーに口を付け、一息吐いてから志川は茶化し半分の口調で答えた。
「良く言うっすよ。本当は貴宮の事、これっぽっちも許してなんかないっすよね?」
志川はクハハ、と無邪気に破顔した。
「あぁ……赦す訳無ぇだろ」
と満面の笑みで口にした後、
「あんなモンじゃ、赦されねぇよ。俺は未だに、腸煮えくり返ってんだからな。俺の人生で二番目に恨んでんだ、貴宮は……」
急速に顔色を硬化させ、眉間に皺をくっきり刻んで怨嗟し、
「ま、現段階で良い感じに為っといた方が、後々有利だからさ」
瞬時に顔面から毒気を抜き去り、安らかな顔で宣うと、上島珈琲のコーヒーを啜った。
志川の、百面相の如き表情の変化を目の当たりにした結芽は心底呆れ果てた。――此のクソ社長、本当に喰えねぇ輩だな……。
だが同時に結芽には、其の百面相の中で、喜・怒・楽と、「あい」が欠落していた事こそが、志川の本質を暗喩している様な気がしてならなかった。
此処数日、西船橋糺凪は、暇さえあれば蒼鷲琉歌の事を調べていた。今も自分名義のHTC製スマートフォンで蒼鷲琉歌に就いて検索している。
蒼鷲琉歌は、嘗てアイドルグループ「フリクエンター」と、其の上位グループである「リマーカブル」を兼務していたアイドルであり、2年前に不可解且つ忽然と、キナ臭い噂話を残して芸能界から姿を消した人物である。そして同時に、糺凪に取って琉歌は、自らが所属する地下アイドル系の弱小芸能プロダクション「U.G.UNITED」に此の春入社してきた仕事仲間でもある。
糺凪は、激烈に後悔していた。そして、強烈に恥じ入っていた。――何であたしは、アイドル遣ってんのに、こんな凄い人物の事を詳しく知らなかったんだろう?
蒼鷲琉歌の名で検索を掛ければ、一発でズラリと表示される、まとめサイトの数々。其の殆どは、神懸かった運と実力を併せ持つ伝説級アイドルの武勇伝、と云う様な方針で固められている――。
「お待たせー」
歩道上の車道寄りに立っていた糺凪の前に、古い型の商用車が停まった。其の白いバンの運転席に収まり、助手席側の窓越しに声を掛けてきた女性こそが、凄い人物――蒼鷲琉歌其の人である。糺凪はスマートフォンを赤いスカジャンのポケットに突っ込み、何食わぬ顔でガードレールを跨いで、ハザードランプを焚き路肩に停車しているトヨタのバンに乗り込んだ。琉歌は後方を確認しつつハザードを消してウィンカーを出し、稍滑らせ気味にクラッチを繋いで、発進した。
「今日は何処行こっか?」
努めて明るい口調で、琉歌は糺凪に言葉を投げ掛けた。返球は、無い。糺凪は黙った儘、ポケットから取り出したauのスマホを眺めている。車内に気不味い空気が流れた。御座なりに据え付けられた純正カーラジオは、AM電波しか拾わない上、運転席側のAピラーから生えるアンテナを最大限伸ばしても、何故か感度が悪く雑音塗れなので、電源を切っていた。
「何処でも構わないっす……」
暫くの沈黙の後、糺凪は呟く様に言った。それきり、車内は再び走行音と排気音のみが支配する空間へと戻った。行き先が決まらない以上、意味も無く片側二車線の道路を流し続けるしかない。目的地の無いドライブは苦手なんだよなぁ……と、脳内で愚痴り乍ら、琉歌はEE101V型カローラバンを淡々と走らせる。
赤信号に捉まり、琉歌は糺凪に聞こえない様に小さく溜め息を吐いた。相変わらず糺凪は、手許のスマートフォンに目を落としている。其の表情は、赤銀ツートンのスカジャンの襟と、緑の黒髪に遮られ、琉歌が窺い知る事は出来ない。
――こんな、ぎくしゃくしてる場合じゃないのに……。琉歌は角が立たない様にゆっくり、どうしたものか、と安い灰色の内装材が張られた天井を見上げた。琉歌が一昨日から、平日にも拘わらず糺凪と落ち合い、半ば遊び回っているのは、事務所の社長である志川の指示があったからだ。「これから共にユニットとして遣っていくんだから、仲を深めておきなさい」と云う趣旨の命に従って、琉歌はオフィスに出勤する事も無く、斯うして糺凪と一緒に居るのだ。気不味い関係に為るために、放任されている訳じゃ無い。
……そう、どうしたもこうしたも無いんだ。時間を無駄にしてる場合じゃないんだ。ぶつかり合う事を避ける様な、生半可な関係性で遣っていく訳じゃないんだ――。
ふと視線を感じ、琉歌は糺凪の方を見遣る。糺凪は琉歌の所作を察知して、目が合う前に顔をスマホの方に戻した。信号は青に変わり、先行車のブレーキランプが消えた。琉歌は左足でクラッチを踏み込み、シフトレバーを1速に入れ、右足でアクセルを軽く煽り乍ら、左足をじわりと上げて、滑り気味のクラッチを繋いでいく。
「糺凪ちゃん、やっぱりそんなに、私の案が気に入らない?」
動き出したバンの車内に、琉歌の核心を突く疑問形が反響する様だった。糺凪には、他のあらゆる雑音を差し措いて、其の言葉だけが明確に聞こえた。暫く、糺凪の耳には他の音が入って来ず、真っ新な世界が拡がった。軈て、漸次聴覚が戻って来るに連れ、糺凪は緩やかに自らの昨夕からの真意を理解していった。――あぁ、あたしは逃げてたんだ。ルゥさんと向き合うのが恐くて、避けていたんだ……。
意識が平常に戻り、糺凪は自分がオンボロのバンの助手席に座っている事、其のバンを運転しているのが蒼鷲琉歌である事、そして、自分が琉歌の発言を受けて、今迄不遜な態度を取っていた事を、一つ一つ再確認していった。其れは、現実世界と対峙する為の、再起動の様な儀式だった。
意を決し、首を右方に振る。すると其処には、真っ直ぐ此方を見据える、穏やかで、仄かに切なそうな琉歌の顔が有った。気付けば、車は再び赤信号で停車していた。
「……大丈夫? 糺凪ちゃん」
琉歌は糺凪を慮る言葉を掛ける。糺凪は自分が大きな勘違いをしていた事を知った。――此の人は、敵じゃない。あたしが闘うべきなのは、怖じ気や臆病を内包する、自分の精神だ。
「あ……あの……、済みませんでした。その……無礼な態度を取ってしまって……」
「うぅん、良いよ。大丈夫。気にしないで? 私だって、此の先一緒に遣っていく内に、不機嫌に為っちゃう時も有るかもだし。其れはお互い様だよ」
琉歌は努めて明るい笑顔で言った。糺凪はハッとした。そうだ、あたしは此の人と――。
「…………うん、そうだね。私達は此の先、一緒に活動していくんだよ。もっと解り合いたい。もっと話し合いたい。グループの事とか、今後の方針とかは勿論、其れ以外も……」
青信号に為ったので、琉歌は仕方無く車を発進させた。此の儘話を続けたかったが、道路交通を阻害してはいけない。
「……はい」
糺凪が返事を寄越したのを横目で見て、琉歌は行き先を決めた。後方確認し、右折レーンに進入する。対向車が途切れるのを待つ車列の三台目につけ、カローラバンは停車した。
「言葉にして、表していこう? じゃないと、伝わらなくなっちゃうから。私は、糺凪ちゃんと、ちゃんと意思疎通したい。今度のグループに就いても、遠慮してお互いの本音が見えない様な関係性にはしたくない。だから……、糺凪ちゃんが何を気に入らなかったのか、言葉にして欲しい」
ヘッドレスト一体型の廉価そうな座席から、尻と太腿を介して、1.5Lガソリンエンジンの小刻みな振動が伝わってくる。糺凪は脚の付け根辺りで両拳をぎゅっと握り締めた。
「あ、あの……正直、自分でも考えが纏まりきってなくて……。グダグダに為っちゃうかも知れませんけど……」
琉歌は右手で2本スポークのハンドルを握った儘、一度頷く事で糺凪を促した。
「……ルゥさんは、あたしを主体にして遣りたい、って言ったじゃないですか」
「うん」
「でも、あたしは其れは……反対です」
「……どうして?」
糺凪は、此処数日読み漁っている、蒼鷲琉歌に関する纏めサイトの内容を思い出していた。大概、記されている内容は複数有るサイトで共通していて、蒼鷲琉歌の現役時代の活躍を美談交じりに描いたものだ。
「……ルゥさんは、あたしより……先頭に立つべきです。能力も、才能も、実績も……、本当に、先頭に立つべき人、って云うか……」
知れば知るほど解る、蒼鷲琉歌が不世出の素晴らしいアイドルで、類い稀な実力を有している事を。
其れ故に、苛立ったのだ。
「一番力を持ってる人が……一番向いてる人が先頭に立って、引っ張っていく、って云う……。其れって、何て云うか……世の中の理と云うか……。其れが自然じゃないですか? ……あたしは、其の器じゃ、ない」
自分なんかより格段に力のある琉歌が、自分を立てる為に一歩退く、みたいなのが、許せなかった。
「あたしなんかに譲ったら、ルゥさんも霞んじゃいます。あたしはルゥさんの輝きを邪魔したくない。それに、ルゥさんが引っ張って呉れた方が、絶対グループとして上に行けます。上に行ける機会を、自ら逃す事無いですよ。あたしには、ルゥさんに匹敵する程の実力は無いから……」
琉歌は敢えて、黙って糺凪の言い分を聞いていた。右折用の矢印信号で漸く曲がった車は、道なりに走行している。
「あたしなんか……アイドルになんて向いてないし、魅力的じゃないんですよ……」
徐々に自虐的に為っていった糺凪は、言い終えると再び俯いた。琉歌は糺凪を一瞥し、声を掛ける。
「人それぞれだよ。魅力的じゃない人なんて、此の世に居ない。誰が魅力的で誰にそう云う力が無い、なんて事でもない。みんな、それぞれの魅力を持ってるんだよ」
幾度目かの赤信号に捉まり、カローラバンは停車した。琉歌は糺凪の方に肩ごと身体を向けて、言った。
「それに、糺凪ちゃん勘違いしてるみたいだけど、私が糺凪ちゃんを主体に据えたグループにする、って言ったのって、そっちのが格好良いと思ったからだからね?」
糺凪は顔を上げ、琉歌を見遣る。
「……え?」
「私以外のメンバーを立てた方が事務所的に良い、って思ったからじゃない。私が矢面に立って、批判されたりするのが嫌な訳でもない。単純に、私と糺凪ちゃんと、あと何人かが居るアイドルグループの中で、歌が巧い糺凪ちゃんが中心となって、ロック系の楽曲を遣る、って云うのが、見た目的にも一番格好良いなぁ、って……そう思って言ったんだよ」
「そう……だったんですか?」
「うん! あと、私は糺凪ちゃんが魅力的なアイドルじゃない、とは思わないけどなぁ。客観的に見て、歌唱力はやっぱり頭一つ抜けたモノがあるし、毎回自転車操業の間に合わせ、って自分では言ってたけど、言う程ダンスも悪くは無いと思うよ? 寧ろ、他のメンバーに後れを取るまいと影で努力してた、って聞いた方が推したくなる、って云うか……。クールで歌うまキャラなのに、苦手な分野を隠す為に必死に練習してた、とかさ!」
「止めて下さい恥ずかしいです」
糺凪は再び俯いた。然し、其の赤面した横顔からは、もう先程迄の自虐的な雰囲気は無い。琉歌は心做しか満足げに前を向き、前車に続いてカローラバンを発進させた。
U.G.UNITEDの社長室内で、志川と結芽は雑談を交わしていた。貴宮との一件を乗り越え、若干の気の緩みも有るのか、結芽が社長室に居座っていても、志川はお小言を垂れなかった。
「……でも、思ったよりもワシルカさんへの質問とか取材依頼がマスコミから来ないっすねぇ。だって! あの! ワシルカが!! 復活するんですよ!!! 何故にマスメディア諸君が盛り上がらないのか!?!」
結芽は腕を上下に振り乱し、不満を露わにした。志川は平静に突っ込みを入れる。
「落ち着けルカヲタ。……まぁ、間違い無くニコムーンが元凶だろうがな」
「え?! ニコムーンが圧力掛けてんすか?! 此の前社長がニコムーンの社長に会いに行ったのも……?」
「否、其れは無いな。導下社長に取っては、蒼鷲の復活は取るに足らない些事の様だったよ。あの感じじゃあ、態々メディアに圧力を掛ける様な事はしてないだろうな」
「え……じゃあ、何で……?」
「配慮、と云うか……忖度と云うか……、まぁ、平たく云えば『自主規制』って奴だろうな。マスコミがニコムーンに遠慮してるんだ、大きい事務所だからな」
「じゃあ、別に其の社長が指示してる、って訳じゃ……?」
志川はインスタントコーヒーの入った紙コップを手に取りつつ、頷いた。
「あぁ、恐らく、な。まぁ、どんな業界でもそんなモンだろ? 昨今のTV番組とか、一時期のマンガとかもそうだっただろ。結局、自主規制ってのが一番タチが悪いんだ。第三者に要らぬ気を遣って、挙げ句其れが逆効果だったり、あらぬ方向へ飛び火したり、過剰に展開していったり……。ちと話は逸れたが、要はそんなモンだ。恐らくニコムーン……少なくとも導下社長は何とも思っちゃいない。けど、メディアが気ぃ遣って取り上げるのを躊躇っている――そんな所じゃないか?」
「でも、ネットでは割と話題に為ってるし……」
「あぁ。勿論、大手メディアが黙殺する話題を敢えて取り上げたがる傾向の連中も居る。例えば、外でずっと路上駐車してるあのレンタカーとか、な」
「――え?!」
結芽は窓際に駆け寄り、窓外を見渡した。確かに、建物から数mほど離れた路上に、まるで気配を消しているかの様に存在感の薄い国産の小型セダンが停まっている。
「……あの白い車が、張り込みしてる記者なんですか……?」
「ああ、恐らくな。二、三日前からあそこが定位置だ。リリースを出して、ネット上で拡散されだしてから直ぐに現れる様に為った。……まぁ、刑事の内偵捜査じゃあるまいし、向こうも強いて隠れようとは思ってないんだろうけどな。普通に居なくなる時もあるし」
「…………よく、気付きましたね」
「一応此れでも芸能プロの社長だからな。ああ云う連中に蒼鷲とかが捕まったら面倒だから、気を配ってはいるよ。だから蒼鷲には、西船橋と親睦を深める、って云う名目で、出社させない様な措置を取った」
結芽は、クリーミングパウダーと砂糖をたっぷり加えたコーヒーを口にしつつ、志川を少しだけ見直した。
「まぁでも……そろそろかもな、頃合いは」
そう言って志川は、紙コップに口を付け、粉末の砂糖を袋半分だけ入れたコーヒーを一口、啜った。
「何のっすか?」
「蒼鷲のアイドルグループのプロジェクトだよ。蒼鷲と、トロンからの移籍組である西船橋と鮎見、そして他社からの転籍である小梢――メンバーとして各々の個性やキャラ立ちは申し分無い。此れで、必要な人材は揃っただろう。もうそろそろ、時機的にも、此の新しいプロジェクトを始動させたい」
言い終えて、喉を湿らせる様に、志川はコーヒーを口にした。一息吐き、続ける。
「其の前に、該当する当事者に集まって貰って、今回の件に就いて、色々と話をしておきたい。……蒼鷲のプロジェクトに就いては、其処の場が初顔合わせ、と云う事に為るな」
「それって、トロン……『シトロンヘロン・アヴァン』のメンバーも含めて、って事ですか?」
「ああ。皆の前で話をした方が、一度で済むだろうからな……」
志川は紙コップを机上に置き、天井を見上げた。溜め息交じりに言う。
「……蒼鷲の言った通りだ。今回は一寸、暴走気味だった……。トロンは上り調子で、正に『此れから』って時期だ。でも同時に、此の儘メジャーに行っても……今一つ、伸び悩む様な予感もしていてな……。そんな折、蒼鷲が入って来る事に為って……。何か、最後の好機の様な気がしたんだ。今、此処を逃したら……トロンがメジャーに為ったら、大手のレコード会社は今みたいな無茶は聞いて呉れないだろうし、蒼鷲に表舞台への憧れが残っている内に手を打った方が良い……。何だか、決断を下す制限時間がじりじりと迫って来てる気がして、首が締まって息が詰まってくる様な気がして…………。結果、あの娘等を泣かす様な事に為ってしまった。……さっき、貴宮に『所属タレントを護れなくなったら、会社を潰す』なんて偉そうな事言ったが……、俺は本当はあれを言う資格は無かった……」
一旦言葉を切って、志川は残っていたコーヒーを飲み干した。結芽は無表情に其れを見ている。
「分かってたよ、トロンのメンバーに堅い信頼関係が築かれてる事は。でも俺だって、俺なりの考えが有って……。あいつ等を引き裂く様な心算は無かったし、なぁなぁの関係に為ったら先は無い、って云う思いも本音だし「らしくないっすね」
志川の声を、結芽が遮った。
「社長は弱音を言う様な柄じゃないっしょ。どうせ、『でも俺は間違ってない』って云うのが本心でしょ? なら、其れで良いじゃないっすか。自分の決めた事くらい、てめぇが認めて遣んなきゃ。それに、過ぎた事をくよくよ悩んでんのも、らしくないっすね。もう公にしちゃってんですから、悩んだ所でどうしようも無いでしょうに。本っ当に、キャラじゃないっす。寒気すら覚えますよ。あんた誰ですか? 社長の面の皮被ってる誰かっすか?」
「て……手厳しいな……」
「抑も! 其の『言い訳』は、あたしに聞かせるモンじゃないっす。其れを其の儘、皆に伝えて下さいよ。そしたら少しは解って貰えるんじゃないっすか?」
「あぁ…………そうだな」
志川は苦みばしった微笑みを浮かべ、立ち上がると暫く窓外を眺めた。軈て徐ろに振り返り、爽やかな笑顔で言った。
「……じゃあ、面子の招集頼めるか?」
「えぇ!? 行き成り?! 招集だって大変なんすよ?! 全員のスケジュール合わせんの、本当に骨折れるんすから!!」
「解ってるよ。毎度毎度、感謝してる。今回も宜しく頼むよ」
「……まぁ、遣りますけどね。仕事ですから」
不服そうな結芽に向かって、志川は一言、付け加える。
「あぁ、それから。…………話、聞いて呉れて有り難う。恩に着るよ、甲斐路」
「……別にっす」
頬が紅潮するのを自覚して、結芽は志川に背を向け、素っ気無く答えた。其の時、志川の内ポケットのiPhone6が震えた。
「はいもしもし、志川です。……あぁ、お久し振りです。……はい、まぁボチボチ……。……えぇ、えぇ……。え?!」
「え」に濁音が付いた様な声を上げた志川を、結芽は思わず振り返った。
「……あぁ……、はい……。……うーん……。……分かりました。……はい……いえ、全然。……はい、失礼します……」
はぁー、と大きな溜め息を吐きつつ終話した志川は、結芽に言った。
「悪い甲斐路、暫く招集は先延ばしに為りそうだ。頼んだ矢先に済まん」
「あぁ、丁度良かったです」
「……え?」
結芽は仕事用のiPhone5Sの画面を志川の方に向ける。
「ワシルカさん、糺凪ちゃんと一緒に2~3日、実家の方に帰省するみたいです」
101型のカローラバンは、3車線有る内の真ん中の走行車線を、時速90kmで直走っていた。
「……あの、ルゥさん。此れ、何処に向かってるんですか……?」
先程、トイレ休憩も兼ねて、国内でも屈指の有名なSAに立ち寄ったし、100km/h近い速度で走っているから、高速道路に乗っている、と云う事は分かる。
「あぁ、言ってなかったね。今後の全国行脚に備えて、EE101Vの整備をしておきたいな、と思って。一寸クラッチ滑ってるんだよね、此の車」
「其の修理工場? って、こんな……高速使う位遠いんですか?」
「否、今から行くのは修理工場じゃないよ。自動車整備の専門学校。……まぁ、私の母校なんだけどね」
「母校……?」
「あぁ、そうだよね。……私、アイドル辞めてから、実家に帰ったの。で、遣る事が無くて、2年間近所の自動車系の専門学校に通ってたんだ。だから其処で、実習兼ねて整備をお願いしようと思ってね。さっきのSAで連絡して、学校には許可貰ったから」
「……て事は――」
糺凪は琉歌に就いての纏めサイトを再び思い出した。大概のサイトの冒頭に載っていた、蒼鷲琉歌の出身地は――。
「うん。行き先は、私の故郷、だね」
「えぇぇ?! い……今からですか?!?」
「うん! 善は急げ、ってね! 事務所にもさっき連絡入れといたから」
「い、否、あたし……身支度とか何も……その、着替えとかも……」
「大丈夫! 早ければ一泊二日で済むし、着替えは私のを使えば良いから! どうせ実家に泊まるんだし」
「え!! ルゥさんのご実家って事ですか?!!」
眼を丸くする糺凪に、琉歌は苦笑した。
「『ご実家』なんて謙遜しなくて良いのに……。そうだね……『お泊り会』みたいな感じで良いんじゃないかな?」
糺凪は赤面しつつ、譫言の様に繰り返した。
「お……お泊り会…………」
「うん! あぁ……何か、そう考えたらワクワクして来たな……!」
満面の笑みでハンドルを握る琉歌の横顔を見た糺凪は、まぁ……ルゥさんが楽しそうなら良いか、と微笑んだ。無邪気に喜ぶ琉歌は、嘗ての伝説級アイドルなど関係無く、素直に心底、可愛らしかった。
4速MTのカローラバンは、高速道路の下り線を駆け抜けて行く。
本作は架空の創作物です。
文中に登場する人物名、団体名等は、現実のものとは関係ありません。
また、文中に実在する著名人名、企業名、商品名等が描写された場合も、其れ等を批評・誹謗する意図は一切ありません。
前話から通読して頂けている方でしたらお分かり頂けるかと思いますが、今回もコンパクトに纏める事は出来ませんでした……。其の時其の時で、逃せないエピソードを入れ込んでいったら、矢張りボリューミーな出来と為ってしまいました。
ですが、其の点に就いては、諦める(斯う云うと聞こえが悪いですが)と云うか、長所として捉える、と云いますか……単純に、「コンパクトに纏める(≒端折る)」と云う事が不向きなのではないか、と云う考えに至りまして……。少なくとも本作に就いては、此のスタイルは変えずに、執筆時間をより一層確保する方向で更新時間短縮を図りたいと思います。
其れに関連しまして、前話の後書きで言及した「仕事との鬩ぎ合い」の問題に就いてですが、結論を出しました。正社員として高卒から勤務していた会社を退職する事にしました。
此れ以上宙ぶらりんな気持ちで勤務していては会社にも迷惑が掛かる、と云う思いはより一層強くなり、また社会人として当たり前ですが、絶えず技能知識の向上を強いられる事への精神的重圧や一寸した人間関係でのストレスも相俟って、退社させて頂く事に為りました。また、自身の年齢も顧み、もうそろそろ踏ん切りを付けねば、と云う思いも、ひしひしと感じていました。
辞める事を決意して、会社絡みの思い悩みから解放され、心が軽くなった一方、今後の金銭面や正社員の肩書きを捨てる事(厳しい社会で揉まれつつも日々頑張っていて、替えの利かない人材と為ってきている会社員の友人達に合わせる顔が無い様で、気が引けてしまいます)への新たな悩みが日に日に滲出してきていますが、其れも此れも全て引っ括めて、今後のネタに、芸の肥やしに為るかな、とも考えています。
抑も、小説や原作をより多く世に送り出す為の決断ですので、今後首が締まっていくのは予想されますが、現在は比較的気楽で居ます。当面はフリーターと云う形に為るかと思いますが、食い扶持を稼ぐ為に、此の道で出来得る事は全て手を尽くしていきたいと思っています。
人によっては、「甘い」「夢見がちだ」「虚勢を張っている」「現実を見ろ」等と思われるでしょう。ですが、遣ってみない事には、成功するか失敗するか、何も分かりません。後悔は、遣った人にのみ訪れるのです(些か使い古された臭い表現ですが)。或る程度、危地を取らなければ、向こう見ずに為らなければ、其れは叶わないと僕は感じました。
本作でも、そんな危うさを覚悟で夢に挑む向こう見ず達を描いていきたいと思います。
そんな訳で次話も、なるべく早く、変わらず内容満載で、もっと良質に――書いていきたいと思います。
万が一、此処迄お読み下さった方が居られましたら、平身低頭で感謝致したいと思います。次話も、また他の拙作も、叶うならば何卒宜しくお願い致します……。
(チラ裏以下の駄文レベルの)追伸
アイドルものに手を出して以来、追えるだけ実在するアイドルグループの動向も気にしてはいますが、最大手グループの選抜総選挙での某メンバーのアレには、流石に度肝を抜かれました。選挙ポスターのスローガンはそう云う意味だったんかい、と云う。何処に「風穴あけ」てんすか、と云う。個人的には名前聞いた事有る、程度だったのですが、全力で応援していたファンの心境を思うと、数日間ソワソワした落ち着かない気持ちでした。
因みに、所謂「楽曲派」を自負しているので、メジャーからローカル迄幅広く曲は聴いていますが、僕個人が特定のグループや何処の誰を推してる、と云う事は無いです。ドラムが効いてるテンポ速めのグッドメロディな曲が好みです。
因みに序でに、本作は宮島礼吏先生のマンガ「AKB49」のアツさに、多分に影響を受けています。