第三話(1-3) 鮎見愛悠乃
難読漢字等でルビを多用しています。
その為、読み辛いと思われる向きもあるかも知れませんが、ご容赦下さい。
1-3
思えばわたしは、流されて生きてきた気がする。
鮎見愛悠乃はそう思い至り、溜め息を吐いた。
他人の意見に乗せられて、其の決定に乗っかって、此れ迄の人生を揺蕩ってきた様に思える。誰か大人が敷いた道筋に水を差す事も無く、流れに掉差す様に滔々と流されてきた。其れが当たり前だったから、別に疑う事も無く、また不満を抱く事も無かった。
愛悠乃は今現在、弱小芸能事務所U.G.UNITEDが展開するアイドルグループ「シトロンヘロン」の一員として活動している。其れも詰まる所、母の意向に流された結果だ。
元来、芸能の業界に強い関心があった――要するに自分が芸能人に成りたかった母の影響で、物心付く前から子役として働いてきた。言わずと知れた事ではあるが、子役と云うのは残酷な商売だ。幼少期の、心身共に成熟する以前の数年間を切り売りする子役は、その成長に伴って次第に仕事が無くなっていく。「天才子役」として名を馳せた様な者でさえ、大抵はそんな状況なのだから、現役時代に一旗揚げられなかった場合は猶更厳しい状況に置かれる。大概は其処で芸能界から引退するか、路線変更して別の分野に活路を見出すかの二択となるが、此の業界に固執する愛悠乃の母は当然後者を選んだ――否、後者の道を行く様に仕向けた。愛悠乃には当時、自分の意志と云うものが無かったので、母の決定に従うのみだった。そうして、二回の事務所移籍を経て辿り着いたのが現在の事務所、U.G.UNITEDなのだ。地下アイドルを主軸に運営されているU.G.に於て、愛悠乃も半ば必然的にアイドルと為る事になった。
そうして、アイドルグループの一員として再デビューと云う形に為った愛悠乃は、其の瞬間から否応無しに激烈な競争の世界に揉まれる事と為った。言わずもがな、アイドルと云うのは他を出し抜いてナンボの世界であり、自分なんかよりよっぽど可愛いと思える様な娘達が日々切磋琢磨している。抑々、大半の娘が積極的且つ自発的にアイドルへの道を歩んだ訳で、其の時点で既に愛悠乃は、僅かならぬ後ろめたさと気後れを抱えていた。
深い溜め息を吐き乍ら、愛悠乃は俯き加減に歩道を進んでいた。其の足取りは、しょぼくれた背中と同じ印象で、重々しいものだ。
自らを卑下する訳でも無く、冷静且つ客観的に考えて、アイドル活動に懸けている訳でも無い自分が、事務所内でも一推しのグループ「シトロンヘロン」に加入出来たのは、単なる頭数合わせなのだろう、と最近愛悠乃は考えている。何せ有るのは無駄な芸歴だけ、取り立てて可愛い容姿でもなく、歌も踊りも不得手な自分が一軍に選ばれるなんて、ちゃんちゃら可笑しな話なのだ。実際、愛悠乃がU.G.に移籍して初めに所属した下位グループのメンバーの中にも、自分より可愛らしく、自分より歌が巧く、自分より踊れる、と傍から見ても明らかな娘は居た。なのに、何故自分なのか? ……矢張り、無作為に人数を合わせる為に入れた、としか思えないのだ――……。
いけないいけない、と愛悠乃は歩みを止めて、首を意図的に大きく左右に振る。じわりと滲みかけた視界も、ぎゅっと眼を瞑り、回復させる。
振付けの明日子先生にも良く叱責されているではないか。お前の悪い癖は、そうやって自分を下に見ていじける所だ――と。
「……ダメだダメだ!」
自分に言い聞かせる様に小さく呟いて、愛悠乃はマイナス思考を是正しよう、と努めた。
――そうそう、行き成りは変われない、と云う事も、解ってはいるのだが……。
控えめにも程がある音量の打擲は、辛うじて室内に届いたらしく、「どうぞー」と云う間の抜けた女声の返事が有った。
「失礼します……」
おずおず、と云う擬音が聞こえてきそうな素振りで、愛悠乃は自らの所属事務所に入室した。
「お待たせ、しました……」
成るべく音を立てない様にして扉を閉め、室内にぺこりと一礼する。迎えたのは、社員の甲斐路結芽だ。結芽は事務机に附属の椅子に座した儘、
「お疲れさまー」
と満開の笑顔を愛悠乃に向けた。
「お……お疲れ、様です……」
「いやぁ、急に御免ね? 何か社長が昨日行き成り言い出したもんでさぁ。文句は社長に言って呉れる?」
剽軽な口調で、背後の間仕切りで仕切られた社長室と呼ばれている空間を親指で示し乍ら、結芽は愛悠乃に目配せをした。
「だから聞こえてんぞ甲斐路!!」
間仕切りの奥から男の怒鳴り声が聞こえてきた。反射的に愛悠乃は肩を竦める。
「はいはーい」
一切の反省を感じさせない返事をした結芽は、小声で
「じゃあ、申し訳無いけど、行ったげて? 何か社長、苛付いてるみたいだし」
と愛悠乃に言ってウィンクした。
「は、はい……」
怒らせてるのはアンタでしょうが! と内心結芽を恨めしく思いつつも、愛悠乃は返答して、間仕切りの扉をノックした。
「入って呉れ」
返事を受けて入室すると、U.G.UNITEDの社長である志川雄路が立派そうな事務机に腰を預けていた。
「全く……甲斐路は減給だな、最早……」
志川は俯き加減でボヤく様に言い、愛悠乃に向き直った。
「お疲れさん。悪かったな、突然呼び出して。何か予定、有ったか?」
「い……いえ、特には」
「そうか、なら良かったよ」
其れきり、志川は黙り込んでしまった。発言を思案している素振りは無い。唯単に、間を取っているだけだ。然し、愛悠乃は其の十数秒に頭脳を全速回転させ、良からぬ想像をした様で、焦りを表しつつ、「あ……あのっ」と声を上げた。其れを待っていたかの様に、完璧に共調させたタイミングで志川は言った。
「最近、どうだ?」
余りにも素っ気無い声音で放たれた志川の言葉に、愛悠乃は肩透かしを喰った。そんな世間話みたいな事をする為に呼び出したのか? そんな訳は無い、と脳内で即座に否定し乍らも、志川の思考が読めず、愛悠乃は落ち着かない様子で「は、はぁ……」と答えた。
「あぁ、済まない。唐突だったかな? 『トロン』での活動はどうかな? 手応えは有るか?」
まるで愛悠乃の困惑を読んだかの如き配慮の言葉を挟んだ上で、志川は本筋に触れた。
「え、あ……手応え、ですか……」
愛悠乃が戸惑っていると、志川は促す様に頷いた。其の表情は一見柔和だが、双眸には鋭さが表れている。愛悠乃は観念して、訥々と話し始めた。
「……みんな、凄く頑張ってて……。キラキラしてるんです。わたしは、多分……否、きっとそんなに輝けてなくて……。『カワズ』も凄い良い曲で、トロン自体も何か、波に乗ってる感じがしてて……。凄く、空気が良かったんです、此処最近……。昨日の発表から、未だみんなと会ってないから、此の瞬間の空気感は、また変わってるかもですけど……。そんな中で、皆頑張ってて……、やっぱり、努力してる人って、キラキラしてるじゃないですか? ……そんな中に、わたしが居ても良いのかな、混ざってても良いのかな……って云うのは、正直言うと…………トロンが結成された時から、思ってました……。だから、手応えは……あんまり無い、ですかね……」
愛悠乃が在籍するアイドルグループ「シトロンヘロン」――ファンやメディア等での略称は「ロンロン」、メンバーやスタッフ等近しい者達の通称は「トロン」である――は、愛悠乃がU.G.に所属して直ぐに発足した。故に愛悠乃は、シトロンヘロンの結成メンバーなのだ。
「……そうか。初めて、鮎見の本音を聞いた気がするな……」
志川は机に腰を預けた儘、腕を組んだ。そして、話を核心へと近寄らせてゆく。
「鮎見が本音で語って呉れた以上、俺も本音で向き合うよ。少々辛辣に為るかも知れんが、気を悪くしないで呉れよ?」
志川の真っ直ぐな瞳が、愛悠乃に突き刺さった。反射的に愛悠乃は唾を飲み込み、小さく頷いた。
「実はな……鮎見、お前がトロンの『最後の鍵』だったんだよ。と云うのもな、お前が移籍してくる、と云う話が有って、其れで漸くトロンに必要な人材が揃った、と確信したんだよ」
「……え?」
前振りとは異なり、予想外に讃えられた愛悠乃は、唯ぽかんとするより他無かった。志川は腕組みをした儘、話を続ける。
「お前は子役出身だろう? 社内外問わず、昨今のアイドルってのは、幼い頃から、もうアイドルに為りたくて成りたくて、アイドルに成るぞ、って決め打ちしてアイドル遣ってる奴ばっかりなんだよ。何となく分かるだろ? まぁ其れも悪くはないんだが……、どんな業界にも云える事だが、同質ばかりだと動脈硬化を起こす。活性化を図るには『異質』が不可欠なんだよ。幼い頃から其の身を削って子役を遣ってたお前が、自ら望んだ訳では無いけれども、アイドルを遣る。俺には、此れが中々訴求力が有る様に思えたんだ」
恐らく、志川は愛悠乃の葛藤を推察していたのだ。そして其の上で、子役からの転身と云う、異業種より吹く新風と云う目玉の裏に、其の葛藤が孕むドラマ性を期待してもいたのだろう。
愛悠乃は、志川の聞き役に徹する事しか出来ない。
「それでだな、此処から気を悪くしないで貰いたいんだが……、お前も多少なりとも自覚が有るとは思うし、断じて揶揄する目的では無い事だけは解って欲しいんだけれども……」
志川は思いっ切り保険を掛けた上で、意を決した様に言い放った。
「お前に……『アイドルとしての実力』が劣っている事を期待していたんだ」
余りに直截的な言葉。然し、愛悠乃は然程驚かなかった。寧ろ、合点がいったのだった。
「…………ショックじゃないのか?」
愛悠乃から予測していた反応が得られず、志川は拍子抜けした。
「あ……えぇ、何と無く。……わたしは、自分がシトロンヘロンに選ばれたのは、単なる人数調整だと思ってたんです。だって、歌も巧くはないし、ダンスも苦手だし、もっと若くて可愛い娘は一杯居るし……。だから、もし万が一、ひょっとして、わたしを敢えて選んだんだとしたら、何かしら訳が有るんだろう、って考えてました。……アレですよね? 能力的に劣ってる人間が居た方が、巧い人物が引き立つって云う「違う!!」
愛悠乃の言葉を、志川が語気を強めて遮った。
「……否、もう、包み隠さず、何もかも正直に話すよ、お前には。……確かに、そう画策した俺も居る。でも、其れは飽く迄、当初の青図に付随して来たものでしか、無い」
志川は顎を擦りつつ話す。
「……昨今――特にグループアイドルが全盛に為ってからは其の流れは復権しつつあるが、デビュー直後から完璧じゃなく、良く言えば伸び代が有る、敢えて悪く言えば能力が劣ってる娘の方が、観てる側からしたら応援したくなるもんなんだ。一人はそう云う面子が居れば良いと思ってた所に、アイドル未経験のお前が移籍して来る事に為った。此れで最後の一欠片が埋まったと思ったんだよ。本当に、嘘偽り無く。鮎見、お前が来て呉れて、トロンが完成した、と思った。だからお前を一軍に抜擢したんだよ」
志川は訥々と、言い聞かせる様に話した。愛悠乃は唯、聞き入るばかりだ。
「……然し、俺の其の思惑が、鮎見に重荷を背負わせてしまっていたのかもな……」
志川は溜め息交じりに言った。其の言葉の合間から、愛悠乃は志川が演じていると直感した。物心つかない頃から厳しい業界に揉まれたからかも知れないが、愛悠乃は他人が芝居を打っているのか、素で発言しているのかを何と無く、見抜ける様になっていた。
実際、志川は自分の意図する方向へ話の舵を切っていた。意図的に会話の内容を操作しているが故に、僅かにでも芝居がかってしまうのは致し方無い事だ。
「鮎見、そう云えば、つい此の前高校を卒業したな。おめでとう」
「えっ?!」
出し抜けに祝福されたので、愛悠乃は動揺した。
「あ……はい。有り難う、御座います……」
志川は間髪入れず次の一手を打って出る。
「鮎見……お前は此れからを、どう考えてる?」
「ど……どう、って……自分の今後ですか?」
「あぁ、そうだ。……正直に言って、アイドルに取って現役高校生って云うのは意外と魅力的な要素だ。其の強力な武器を失った今、お前自身は行く先をどう考えている?」
愛悠乃は時折、上目遣いに志川の様子を窺っているのみだ。ならば、と志川は更に踏み込む。
「……まぁ、お前がさっき打ち明けて呉れた様に、もしも『アイドル』と云うものに苦痛や重圧を感じているんだったら、其の状態で何時迄も活動を続けるべきじゃ、ない。……高校卒業、と云うのは、其の人物の人生に於て、可成り重要な、大事な分岐点に為る。もし……もしもだな……」
愛悠乃は、志川の眼を見て、勘付いた。
――わたしは、試されている……。
「鮎見、お前の出自はTVドラマ……女優だったよな? もしも、お前が其方の方面で勝負したい、と思うんなら……、俺は最大限努力するよ。U.G.はほぼ地下アイドル専門みたいな事務所だが、手蔓を当たれば役者の仕事も取れる。何なら其れで、ウチの仕事の幅も拡げられるし、な」
志川はもう、探りを入れている己の眼の色を擬装する事も辞めていた。愛悠乃がアイドルとしての活動を続けるのか、役者の道に進むのか、其の選択を迫っている。愛悠乃の母親の意向を汲んでか、芸能界を去る、と云う選択肢は提示しなかった。
「わ……わたしは……」
正直、役を演じる事に関して、自分が巧いとは思っていない。悩み乍ら俗に云う役作りをし、呻き乍ら台本を覚え、怒られ乍ら現場で撮り直しを重ねる――そんな10年程度も前の記憶しか無い。だが、其れは苦ではなくて、寧ろ楽しんで遣っていた気がするのだ。
「わたしは…………」
でも、現在は。今、此の瞬間は。
「わたし、未だアイドル、遣っていたい、です……」
絞り出す様に、愛悠乃は言った。志川は頼りない声音の中に、か細い芯が通っているのを感じ取った。
「……そうか。でも、良いのか? トロンでの活動、辛かったんだろ?」
「はい……。でも、辞めたくは、ないんです」
愛悠乃は決死の思いで志川と眼を合わせた。
「どうしてだ? ……人間、辛い物事には何かしらの『熱』を感じないと続けられない。――歌手を夢見る青年が、キツくてイビられる薄給のバイト生活に耐えられるのは、叶えたい其の夢が心の中で燃え続けて『熱』を発するからだ。厭々仕事をしている会社員も、何故其れでも会社に向かうのか、と云うと、己や家族を養わなきゃ――喰わさなきゃならない、生活していかなきゃならないからだ。動物が生きる為には、必ず『熱』が発生する。稼ぐ為だけに働いてる連中だって、生きる為って云う『熱』を持ってるんだ。でもお前の場合実家暮らしだし、別に生活懸けてる訳じゃ無いだろ? ……鮎見が持ってる『熱』は、何だ? お前は何故、辛くて険しい事を承知の上で、敢えて此の道を選ぶ?」
志川の瞳は、情け容赦無く其の鋒を愛悠乃に突き付ける。然し愛悠乃は、勇気を振り絞り、其の視線と真っ向から対峙した。其れは、母親に連れられた愛悠乃が初めてU.G.を訪れてから志川に見せた、唯一の自分の意志と云うものだった。
「意志」と「意思」とでは、天と地程の差が、在る。
「こんなわたしにも、応援して呉れてるファンの人が、居ます。其の人達の為にも、厭に為ったから勝手に辞める、って云うのは……したくない、です」
継続は力なり、と似た様な事で、当初何の思い入れも無かった仕事でも、続けていれば愛着も湧いてくるし、責任感も生じてくる。愛悠乃にも、最初は何の興味も無かった「アイドル」と云う仕事に就いて、次第に矜持が芽生えていた。
「それに、トロンの皆が頑張ってるからには、わたしだけ諦めちゃうのは……。その……わたしが抜ける事で皆に迷惑掛けたくないし、単純に……負けるみたいで嫌だな、って」
「…………そうか」
愛悠乃の内に秘めた負けん気の強さを、志川は当初から見抜いていた。其れ故の、今回の作戦なのだ。
「あと、ワシルカ……蒼鷲琉歌さんが、凄くて……。一寸でも近付きたい、って思いました……。わたしなんかが、烏滸がましいですけど、トロンみんなででも、少しなら、って……」
「……成る程、な」
平静を装いつつも、志川は半ば驚愕していた。蒼鷲琉歌とトロンのメンバーを接触させた事が、此れ程迄に功を奏するとは。正直、想像を超えていた。予想以上に、我乍ら良い手を打ったのかも知れないぞ……と、若干の昂りを覚えた。然し自制心は正常に機能していて、此処で舞い上がっておじゃんにする訳にはいかん、と数瞬後には気を引き締め直した。顎に手を遣りつつ、意図的に眉間を寄せる。次の一手だ。
「分かった。鮎見が続けたい、と言うならば、俺は其れを応援する…………が、」
愛悠乃が胸を撫で下ろしたのも束の間、志川が其れを見越していたかの様に、打ち消しの一文字を放り込む。愛悠乃の呼吸が、たった一文字で瞬停止する。
「済まないが鮎見、君は『トロン』からは外れて貰う」
「え…………?」
半開きに為った口から、頼り無い母音が漏れ出た。其れを見越していたかの様に、志川が続ける。
「一応、断っておくが、お前が危惧する様な理由じゃない。一昨日知らされた様に、西船橋も『トロン』から外れて貰おうと思っている。鮎見と西船橋には、今立ち上げようとしている、蒼鷲を中心にした新グループに入って貰う心算だ」
昨日、突如として当事者連中に一切の事前連絡無く、U.G.UNITEDの公式ホームページにて為された幾つかの重大発表。其の中でも、取り分け世間からの注目を集めたのが、「蒼鷲琉歌が、自身のプロデュースする新規グループで現役復帰する」と云う一文だった。前触れの無い、不可解な電撃引退の後、完全に消息が不明だった――其れ故に一時芸能ゴシップ誌上に其の名が出突っ張りだった――蒼鷲琉歌が、唐突に弱小零細の地下アイドル系事務所から復帰する、と云うのだから、メディアが放っておく訳は無かった。インターネット上で瞬く間に拡散された其の情報は、一夜明けた今、大手芸能ニュースサイトに其れなりの扱いで記事が載る迄に為っていた。そして、其の一大ニュースは、勿論愛悠乃の脳裡にも強烈に焼き付いていた。何せつい先日、当の蒼鷲琉歌の衰えぬ異次元の能力を目の当たりにしたばかりだったのだから。
「……凄い事に、成りそうですね……」
愛悠乃は、凡そアイドルとして求められる才能を高いレヴェルで満遍無く兼ね備えた琉歌と、現役アイドルの中ではトップクラスと評される歌唱力を誇る糺凪がタッグを組む事を想像して、素直な感想を呟いた。
「まぁ、俺としては西船橋に頼りっきりなトロンの歌唱面を強引にでも底上げさせる事も狙っている訳だが……」
へぇ、此の社長も或る程度はしっかり考えてるんだなぁ……と愛悠乃は少し志川を見直した。
そして志川は核心へと踏み込む。
「もう一つ、トロンを足並みの揃ったグループにしたいと思ってるんだ。……更に言うと、或る一定以上の技量を備えた者だけのハイパフォーマンスグループにしたいんだ。其の為に、お前に異動して貰う」
愛悠乃は急速且つやんわりと、息苦しさを感じていた。実際に、真綿で首を絞められているかの様な感覚だ。宛ら金魚が水面付近で新鮮な酸素を欲するかの様に、口が戦慄く。
口をパクパクさせるだけで一切の言葉を発さない愛悠乃に焦れたのか、志川が苛立った様に言う。意図的に感情を突沸させて。
「お前は、悔しくないのか?!」
愛悠乃の肩が、ビクン、と跳ねる。
「お前なりに努力して来たんだろう?! 人知れずあらゆる葛藤と闘って来たんだろう?! 自分を推してくれてるファンに感謝してんだろう?!! ……どうして!!! 何も言わないんだ?! お前は!!」
愛悠乃は、ぐっと俯いて、垂れた前髪で表情を隠した。
「……トロンには要らない、と言われたんだぞ、其れでもお前は、悔しくはないのか?!」
愛悠乃の首を絞めていた真綿が、荒縄に其の姿を変えた。即座に、息が詰まる。
苦しくて、涙が眼球の奥底から湧き出してくる。酸素が取り込めない事に対する身体の条件反射と、そして、もう一つの意味合いを含んで。
「ちょ、此の阿呆親仁!! 昨日ワシルカさんに『もう所属アイドル泣かすな』って言われたばっかでしょうが!! ワシルカさん、今居ないからって!!!」
衝立で仕切られているだけの結芽が、徒ならぬ志川の声を聞きつけて、志川に噛み付かん勢いで名ばかりの社長室に飛び込んできた。
「だから、お前は勝手に入って来るなよ!!」
可成り強めに叱る志川を一切意に介さず、踵を返して結芽は愛悠乃の許へ駆け寄った。
「アユノちゃん、大丈夫? 此の腐れ外道の言う事なんか真に受けなくて良いんだからね?」
「お前は……。其れが雇用主に対する言葉か……?」
愛悠乃の肩を抱き、慰める結芽の台詞に、最早志川は呆れ果てつつ言った。
「だ……大丈夫、平気です……。わたし……傷付いてませんから……。そう云う涙じゃないんです……」
結芽は訝しげに愛悠乃の顔色を窺い、驚いた。
「ただ……悔しくて……、情けなくて……、不甲斐無くてしょうがないんです……っ」
愛悠乃の眉間には深く皺が刻まれ、涙腺分泌液を溢れさせる其の眼は見開かれ、歯を食い縛った口許からは、唾液が垂れ落ちそうになっている。こんなにも感情を表出させた愛悠乃の顔を、結芽は未だ嘗て見た事が無かった。
「悔しいだろう? ……なら、新しいグループで、全力で挽回して呉れ。返上して呉れ」
射貫く様な視線で言った志川は一転、
「……鮎見、お前なら出来る。俺はそう信じてるからな」
柔らかい声音で愛悠乃の背中を押した。
「…………はい……!」
愛悠乃は確りと返事をした。其の双眸には、熱の籠もった決意が揺らめいている。
「はぁあ~。また幼気な少女が腹黒中年社長に手籠めにされてしまった……」
愛悠乃が帰宅し、常時の平静を取り戻した事務所内で、結芽がこれ見よがしに言い放った。
「人聞きの悪い言い方をして呉れるな……着信か」
あしらう様に反論していた志川は会話を打ち切ると、背広の内ポケットで震えるiPhoneを取り出した。発信者の登録名を見た志川は眉を顰め、応答するか否か逡巡する様な仕草を見せた。
「……出ないんすか?」
電話の相手を知る由も無い結芽は、志川が躊躇いを見せる事に違和を感じ、何の気無しに問うた。
「あ、あぁ……。そう、だな……」
何とも歯切れの悪い返事をした志川は、意を決し画面上の釦を押下する。そうしたくはない本心が垣間見える様な、ぎこちなくゆっくりとした動作でアップル社製のスマートフォンを耳許に近付ける。
「……貴宮か。久し振りだな……。どうした?」
結芽は志川の口から出た相手の名字を聞いて、あぁ~成る程、と即座に受話しなかった理由に納得した。と同時に、動揺ってこんなにも声に表れるモンなんだなぁ、と他人事な感想を抱いた。
〔どうもぉ、お久し振りですぅ。其方は如何ですかぁ? 最近、何やら企んでいる風な匂いはプンっプン感じますがぁ……〕
「……そんな世間話がしたかったのなら、切らせて貰うぞ」
〔いえいえぇ、ほんの話の導入じゃないですかぁ。別にどうでも良い事を発言している心算は有りませんよぉ。僕だって人の子ですぅ、古巣が上手く行っているかは気にも為りますよぉ〕
志川は全身の神経に虫唾が駆け巡るかの様な幻想を抱いた。イライラが許容量を超え、何も持っていない左手が勝手に震えてくる。然し、結芽が見ている手前、迂闊に物に当たったりしたら後で何を言われるか分かったものではない。此の世で最も苦い虫を噛み潰した顔をして、志川は通話を続けた。
志川が電話の主――貴宮颯馬に此処迄の苛立ちを募らせるのは、彼の喋り口調だけが原因ではない。貴宮と志川の間には、浅からぬ因縁が在るのだ。
「じゃあ、何だ? 悪いが此方は色々と立て込んでるんだ。手短に本題を頼む」
ふぅん、此の短気社長にしちゃあ、割と我慢してんじゃん――。結芽はデスクに就き、仕事をする素振りをしつつ、志川の通話風景を盗み見た。志川は苛つきの雰囲気を全身から放ちつつ、忙しなくうろついている。
〔あぁ、そうでしたかぁ。じゃあ、早速本題に入りますよぉ。……実はぁ、ウチの事務所を辞める子が居ましてぇ、其の子の引き取り先を探してたんですよぉ〕
志川は眉間の皺を一層深くし、暫し黙った後、呟く様に問うた。
「…………何でお前が、其処迄面倒見るんだ?」
〔……そうですねぇ、確かにぃ、通常なら移籍元の芸能プロダクションが、移籍するタレントの移籍先を探す事は有りませんよねぇ。其れはそうなんですがぁ……〕
志川は或る種の嗅覚で、貴宮の話から何らかを感じ取っていた。何時しか脳内を埋め尽くしていた苛立ちが鳴りを潜め、貴宮独特の会話の間を待てる様になっていた。
〔其の子、物凄く惜しい子なんですよぉ。努力も人一倍、情熱も人一倍、だけど『己の信念』が強過ぎてですねぇ、どうも礼儀とか、集団行動とか云う面で敵を作り易い……と云うかぁ、何時の間にか周囲に敵しか居ない、って云う感じに為っちゃう子なんですよねぇ……。今回ウチを辞める事に為ったのもぉ、ウチの社長に暴言を吐いてしまったからでぇ……。本人としては、自分は何一つ間違った事は言ってない、と言い張るんですがぁ……〕
結芽は思わず、志川を二度見した。数十秒前迄あれ程苛ついていた志川が、口許に薄く笑みを浮かべているのだから。自分がニヤついているのを知ってか知らずか、志川は薄笑いの儘、斯う返した。
「……良いよ。其の子、U.G.で預かるよ」
〔あぁ……本当ですかぁ? いやぁ、僕も彼女は其方が最適かと思っていたんですぅ。……と云うよりぃ、U.G.でしか巧く遣っていけない、と思うんですよねぇ〕
「兎に角、其の子に一度会わせて呉れ。俺の腹積もりは決まってはいるが、一応会っておきたい。……都合が付いたら、甲斐路の方に連絡して貰えないか?」
「うわっ」
デスクに向かって仕事をする振りをしていた結芽は、志川が面倒事を押し付けてきた、と直感して、思わず声を漏らしてしまった。結芽がそろりと志川の方を向くと、iPhoneを耳に当てた儘、志川は何処か得意げな表情を寄越してきた。其のドヤ顔に結芽は軽い殺意を覚えた。
「……あたしも貴宮苦手なんだよなぁ……」
結芽が今度こそ仕事に取り組もう、と溜め息を吐き乍らデスクに向き直る内に、志川は通話を終え、颯爽と歩き出した。
「じゃあ甲斐路、そう云う事だから。貴宮から連絡が有ったら受け付けといて呉れ」
「……了解っす~。社長の携帯に転送すれば良いっすね?」
「……勘弁して呉れよ。じゃあ、一寸出てくる」
「何処行くんすか?」
「UDレコだよ。トロン絡みで色々打ち合わせなきゃならん問題が山積みでな」
UGLY DUCKLING RECORDS――略称UDレコーズは、インディーズのレコードレーベル大手で、其の名の通り醜いアヒルの子の様な、磨けば光る原石を手広く、将来有望なロックバンドから無名の地下アイドル迄手掛けている企業である。例に漏れず、シトロンヘロンもUDレコーズからCDをリリースしていた。
威勢良くバタンと閉じられたドアを眺めつつ、結芽は暫く過去の回想に耽り、軈て溜め息を一つ吐いて、デスクトップPCと業務用の電話機が待ち構える事務机に向かった。
「……良いのかなぁ、こんな……遊んでも」
琉歌はそこはかとない後ろめたさをひしひしと感じていた。
「良いんじゃないですか? 社長が打ち解けろ、って言ったんですもんね?」
糺凪が振り返りつつ、言った。どことなく楽しそうな声音だ。琉歌は靡く黒髪から窺える其の微笑みに、何故か心拍数が亢進するのを自覚した。
今朝、出社した琉歌は、社長室(と本人は言い張っている空間)から出てきた志川に呼び掛けられた。
「おぉ、蒼鷲」
「あ、お早う御座います」
琉歌は事務机と一対に為っている椅子の背凭れを掴み、手前に引く。
「うん、お早う。丁度お前に話が有ってだな……」
「何ですか?」
琉歌は前日から積んであったデスク上の書類を手に取りつつ、促す。
「うん……お前、会社来なくて良いぞ」
「…………は?」
思わず琉歌は、手にしていた書類を取り落とし、A4判のコピー用紙が机上や床へと盛大に散らばった。
「おわ、蒼鷲、書類が……」
「あ……え……く……馘?」
嘗ての経験が胸に去来したのか、紙束をばら撒いた事にも一切の関心が無い琉歌は瞬時に思考停止状態に陥り、立ち尽くした。
「悪い悪い、俺の語彙選択が悪かった! 言葉足らずだったよ、済まん!」
志川は書類を拾い集め乍ら謝罪した。其れに因り琉歌は再起動し、
「あぁあ、済みません……」
と散らかった書類集めに参加した。
「……俺が言いたかったのはだな、お前は新しい『4速のローラプロジェクト(仮)』に備えて、通常業務から離れて、暫く西船橋達と打ち解けて貰おう、と……」
「……なら、言い方ってモンが有るでしょうよ……」
一頻り書類収集を終えた二人は漸く、本題の会話に戻った。
「……『達』って……糺凪ちゃんと二人組って事は無いかな、とは思ってましたけど……、此れって何人組に為るんですか?」
「さぁな、今の所は未だ決めてない。まぁ俺は面子がしっくりきた時点で、後の運営はお前に一任する心算だから。其の後は蒼鷲次第だな」
「…………」
志川社長、自分でプロデュースするのが面倒臭くて、私に丸投げするんじゃ……、と琉歌は勘繰った。
「で、だな……。お前には其の下準備に専念して貰いたいんだよ。事務方の仕事は従来通り、俺と甲斐路と利嶋で遣ってくから」
「分かりました……」
因みに利嶋とは、志川と略同年齢で、志川に勝るとも劣らない辣腕女性マネージャーとしてU.G.UNITEDを支える古参社員である。担当タレントに附いて回る現場主義で、普段は殆ど事務所には居ない。琉歌ですら一度事務所で顔を合わせた程度である。
「そうだな……、先ずは互いに為人を知って貰って、メンバーの現状の実力だな、其れを踏まえて今後の方針や、グループの色、ジャンルなんかを決めていって欲しい。勿論、大本の土台は『一台のバンに乗って全国津々浦々を巡業して、U.G.UNITEDやシトロンヘロンの名を草の根から世間に知らしめる広告塔的な役割』と云うのは遵守した上で、だがな。其の大原則の下に、グループとしての特徴、個性、もっと云うと自前の曲の曲調とか、そう云う辺り迄、出来れば詰めていって欲しい。……まぁ、其処等辺の突っ込んだ所はしっくりくる初期メンバーが集まりきってからで構わんがな。……遣れるか?」
琉歌は改めて、自分に殆どの決定権が預けられた案件である事を理解した。同時に、此の案件が成功を収め、グループが大成するかが自分に託されている、と云う責任の重さも刻み込んだ。
「…………分かりました」
固より、どんなに係る責任が重大であろうと、「遣れるか?」の問い掛けに否を返す心算は無かった。
「……頼むぞ」
志川の、いつになく重い口振りで発せられた一言に、琉歌は身を引き締めたのだった――。
引き締めた――のだが。
今現在、琉歌は糺凪と共に全国展開のカラオケ店の受付に居た。
「……やっぱ、誰がどう見ても、此れは唯遊んでるだけだってぇ~……」
「大丈夫ですよ、打ち解けるのにカラオケは一番ですから!」
後ろめたさを重く引き摺る琉歌が受付カウンターを前にして渋りに渋るのとは対照的に、何時も以上に朗らかな糺凪は率先して受け付けを済ませる。
「ほぉらっ、早くして下さい!」
「うぅ~ん……」
勤務時間内にカラオケをする事への罪悪感に苛まれる琉歌に、受付から戻ってきた糺凪が赤いスカジャンをはためかせ乍ら背後に回り、囁く。
「それに、お互いの歌唱力を共有しておくのも大事なコトじゃないですか?」
糺凪の悪魔の囁きに、琉歌の生真面目さが徐々に浸蝕されていく。
「……そう、だよね。社長も言ってたもん、『メンバーの現状の実力を知っておけ』って……」
遂に良心が瓦解した琉歌が、自らに言い聞かせる様に呟く。
「そうですよ! だから早く其の歌声を聴かせ――」
思わず零れた本音が、琉歌の正義の心に響かないよう、糺凪は途中で口を噤んだ。
「え? 今何て」
「さぁさ、行きましょう行きましょう!!」
訝しがる素振りを見せた琉歌の両肩を後ろから押し進む様にして、糺凪はカラオケルームの在る二階に続く階段へと突き進んでいった。
「さぁて……何歌いますかね?」
呟きつつ個室の扉を閉めた糺凪は、持っていたグラスを黒い天板のテーブルに置いた。一足先に戻っていた琉歌は、部屋の奥の方に立ち、
「糺凪ちゃん、何処が良いとかある? 座る場所」
と問うた。糺凪は、ワシルカさんって気遣いの人だなぁ、と思いつつ、
「いえ、別に何処でも大丈夫です。あたし此処で良いですよ。入口から近いし。ワシルカさん奥の方で……」
返答し乍ら琉歌を見遣ると、若干目つきが鋭く、気持ち頬が膨れている。
「あ……あれ?」
可愛い、と云う感想を辛うじて飲み込んだ糺凪は、琉歌が立腹する理由が解らず、首を傾げた。
「その……『ワシルカ』って云うの、止めて貰えるかな? 私、あんまり気に入ってないんだ」
「あ、えっ、そうだったんですか?! 済いませんでした!」
意外な事実に、糺凪は反射的に謝った。
「折角同じチームに為ったんだからさ。それに……昨日は『ルカさん』って呼んで呉れたのに……」
唇を尖らせ、拗ねる様な口振りの琉歌に、糺凪の心臓が唸った。全く、何で、蒼鷲琉歌と云う人は、自分より五歳も年上なのに、こんなにも可愛らしいのだろう――。
「じゃ……じゃあ、何て呼びましょう……?」
動揺を隠そうとする糺凪は、辛うじて訊き返す。
「其れはさぁ……糺凪ちゃんが決めてよ」
相変わらず若干ご機嫌斜めの琉歌は、重たく為り過ぎない様な口調で言った。
「えぇ……と、じゃあ……『ワッシー』とか……?」
琉歌の反応を窺いつつ、糺凪は恐る恐る答える。琉歌はそんな糺凪の反応を半ば楽しんでいるかの様に、
「何かさぁ……名字から取るのって、あんまり渾名として可愛い感じじゃないよねぇ。もう一回!」
と遣り直しを要求した。無論、糺凪も琉歌が本気ではない事は承知の上だ。唇を尖らせる琉歌の口角は上がっている。糺凪もそんな琉歌の雰囲気に乗って、冗談半分に頭を捻る。
「じゃあ…………『ルゥ』とかどうですか? ルゥさん、って!」
糺凪は殆ど巫山戯て言ったのだが、琉歌の反応を見てみると、予想に反して満更でも無さそうに照れている。
――何なんだ此の人は!! 可愛過ぎるだろうが!!!
糺凪は余程叫びそうになったが、寸前で衝動を堪えきり、「『ルゥさん』で、良いですか?」と確認をした。
「ん……うん、オッケー。中々、可愛らしい響きだね……」
自分で求めておき乍ら、照れと恥じらいを見せる琉歌に、堪らず糺凪は抱き着いた。普段、糺凪は馴れ合い――特に女子同士の密着を好んでおらず、後にも先にも、自分から他人に抱き着いたのは此の時だけである。
「ルゥさん、可愛いです!! 此れからも是非、宜しくお願いします!」
琉歌の胸に額をくっ付け乍ら、糺凪は照れ隠しに捲し立てた。琉歌は心を落ち着かせつつ、
「うん。私こそ、此れから宜しくね、糺凪ちゃん」
と無意識に糺凪の頭髪を撫で乍ら返した。
志川は、UDレコーズの担当者と相対していた。
「此の度は、私共の勝手な無茶にご理解頂き、誠に有り難う御座います」
志川は応接机を挟み、腰を下ろさずに深々と辞儀をした。
「いえいえ、止めて下さい、志川社長!」
UDレコーズの担当社員である橋渡禎久は、競う様に腰を低くし、志川に頭を上げる様に促した。
「弊社の我儘を呑んで下さり、本当に感謝致しております」
応接ソファに腰を下ろしてからも、志川は平身低頭の心持ちを崩さなかった。志川と同世代か、稍年下に見える橋渡は、人の良さそうな笑顔を浮かべ乍ら、
「いえ、志川社長の方にものっぴきならぬ事情が絡んでおられた事は存じ上げておりましたし、事前に逐一ご報告も頂戴しておりましたから、何の問題も御座いませんよ」
と声を掛けた。志川は漸く、救われた気分に為り、少しだけ気分が軽くなった。
「で……飽く迄も念には念を入れてのご確認なんですが……」
今度は橋渡の方が眉間に皺を寄せ、申し訳無さそうに切り出した。
「あ、はい……何でしょうか?」
「結果的に、『カワズDreamin’オーシャンズ』は『シトロンヘロン』の名義での発売、と云う事で宜しいんですよね?」
「あ、えぇ……申し訳御座いません、ややこしい事をしてしまって……。今日明日中にも再びプレスリリースを出させて頂きますけども、『シトロンヘロン・アヴァン』と為った旧シトロンヘロンは再度『シトロンヘロン』に名称を戻しますので、『カワズ』のシングルの方には一切影響を出さない様に配慮致しますので……」
「……有り難う御座います。承知致しました。……で、ですね。此処からは砕けた話なんですけども……」
「えぇ」
橋渡は飽く迄上品にニヤリと笑って、言った。
「正直な話、『シトロンヘロン・アヴァン』と云う一連の件……アレ、要りましたか?」
志川は気持ち顔を寄せ、声量を落として訊いてきた橋渡に破願して、答えた。
「あぁ!! あはは、バレましたか?!」
「えぇ! いや、どう云う経緯なのかは或る程度存じ上げておりましたが、いざリリースを読むと『おや?』となったものですから……!」
橋渡も、全く敬語は崩さないものの、随分と打ち解けた感じで接している。
「いや、そうなんですよねぇ! あれがですね、専有ライヴハウスの不動産屋が提示してきた、『新規立ち上げグループの為の専用劇場化』と云う条件を『シトロンヘロン』の劇場とする為に、実質『トロン』である『アヴァン』を仮に立ち上げて、其れで何とか誤魔化そうとしたんですが、『いや、アヴァンは新規のグループじゃないだろう』と見抜かれまして……。苦し紛れに下位グループを統合した『ゆめぐみ』を作ります、って言って何とか契約出来たんですけど……、よくよく考えたら『ゆめぐみ』を出した時点で『アヴァン』だとか『(旧)』だの『(新)』だの言う必要無くなってたんですよね!」
「あはは、やっぱりそうだ! そう云う秘話が有ったんですね! いやぁ、納得しました!」
「まぁでも、蒼鷲のグループが出来る、って云うのもアピールしたかったし、多少謎めいた方が奥行きが出るかな、と思って其の儘発表したんですよ」
「うーん、成る程……。志川社長、シトロンヘロンはインディーズからは『カワズ』で終了、と云う事に為りますよね?」
「あぁ、はい……そう為りますね。お世話に為りました」
「えぇ。いや……正直、僕自身も志川社長とは懇意にして頂いて、非常に名残惜しいんですよ」
「其れは此方もです。是非、またの機会にはご一緒に」
「ええ! 何せ弊社はUD、御社はU.G.ですからね! ユーディーとユージー、似た名の者同士、今後も是非宜しくお願い致します!!」
「……はい! 宜しくお願い致します!」
志川と橋渡は固く熱い握手を交わした。
琉歌は、the Mirrazの「イフタム! ヤー! シムシム!」とUVERworldの「Roots」の2曲を見事に歌い切った糺凪を、畏敬の眼で眺めていた。幾ら歌い慣れているであろう十八番だったとしても、此れ程迄の水準で歌い熟せるアイドルと云うのは、そうそう居るものではない。カラオケの安っぽい演奏音の後奏が鳴り響く中での糺凪の立ち姿は見惚れてしまうものがあり、琉歌は思わず、キャップもニットも被っていないが脱帽したい気分だった。其れと同時に、糺凪の歌唱風景に、目映い未来を確かに見た。
「……はい! 次はルゥさんの番っすよ!!」
嬉々として手渡してくる糺凪からマイクを受け取った琉歌は、一人一本有るんだけどなぁ、と思いつつ、机上のプラスティック製の籠の中に横たわるもう一本のマイクを一瞥した。
琉歌はフリクエンター、そしてリマーカブル時代の自身が参加した曲――所謂持ち歌を含めつつ、当たり障りの無いJ-POPのヒット曲を中心に歌った。そして、自分よりもなるべく糺凪が多く歌える様に曲数を調整した。糺凪は薄々勘付いていた様だが、特に何も言わず、邦楽のロックバンドの曲を主に歌った。そうしている内に、2時間が経過した。
「はあぁ~、良く歌いましたねぇー」
ドリンクバーのグラスを片付けようと、琉歌と糺凪が揃って部屋を出た時だ。丁度、向かいの部屋から出て来た、女性五人組のグループと鉢合わせに為った。互いに行き先は一緒の様で、七人グループの様相を呈しつつ、ドリンクバーのコーナーへ辿り着いた。
「……でも、本当に歌いたくて、あたし好みの曲ほど、カラオケに入んないんですよねぇ」
「あぁ、でもそんなモンだよねぇ」
糺凪と琉歌が他愛無く話していると、女性五人組の内の一人が突如として会話に割って入ってきた。
「カラオケに無い曲なら、自分等で演奏して歌えば良いのよ!」
髪を明るい金色に染め、緩くパーマを掛けた長髪の女性は、勝ち気そうな吊り眼をギラリと光らせて、そう言い放った。
「……あ、あの……どちら様でしょうか?」
「そんなの関係無いの! カラオケに無いなら、自分達でむぐっ」
琉歌が恐る恐る尋ねるも、金髪吊り眼の女性は聞く耳を持たず自説の主張を続けた。と、其処で漸く女性の連れの内一人が女性の口を塞ぎ、残りの三人がペコペコと頭を下げてきた。
「こらっ!! 見ず知らずの人に、勝手に話し掛けちゃ駄目でしょっ!!」
女性は、宛ら小学生の様な説教を喰らっている。琉歌が唖然としている一方、糺凪は興味をそそられた様で、
「て事は、お姉さん達ってひょっとして、バンドとか遣ってるんですか?」
と一歩前に出て尋ねた。
「あぁ、うん。私達、『SENSELESSNESS』って云うバンド遣ってて。一応、インディーズからCDも出したりしてるんだけど」
金髪を抑え込んでいる、ショートカットの女性が答えた。
「うわぁ、凄いですね!!」
糺凪は努めて明るく反応した。向こうから絡んできたとはいえ、嘗て全国区の超一流アイドルだった琉歌が隣に居るのだ。糺凪は自分が話し掛けた事で、琉歌に何かしらの迷惑を掛けない様に、自分が率先して応対しなければ、と云う使命感を今更乍ら感じていた。
「まぁ、インディーズでCD出してるバンドなんて今は山程転がってるし、ウチ等正直そんなに売れてないからね……」
騒がしい二人の背後に控える三人の内の一人がごちた。
「良いのよ別に初対面の人に其処までぶっちゃけなくても!」
ショートの女性が相変わらず金髪の女性を抑え込みつつ、忠告する。琉歌は其の様子を眺めつつ、何かコントみたいだな、此の人達――と思った。
抑え込みが甘くなったのか、金髪ロングの女性が手の猿轡を外し、糺凪を見据えて再び言い放った。
「あんた、歌巧いでしょ?! ウチのバンドで遣ったげるから!!」
一瞬、其の場の全員の理解が追い付かなかった。其の隙を突いて、金髪は制止を振り解き、一挙に糺凪の許へ詰め寄る。
「あっ! ちょ、馬鹿!! 迷惑掛けんなって!!」
数瞬遅れてショートカットが金髪を追う。金髪は何時の間にか取り出したスマホを片手に糺凪に近寄る。
其の時、糺凪の背後に居た琉歌が脚を進め、金髪と糺凪の間に身を捻じ込んだ。全てが刹那の出来事だ。
「あの! 私達芸能事務所の関係者で、彼女現役アイドルなんです。ですので、見ず知らずの方々相手に連絡先を交換する事は出来兼ねます」
琉歌は毅然とした態度で言い切った。琉歌は琉歌で、所属会社の社員として糺凪を護る責務を負っている。金髪は琉歌に動じず、糺凪に視線を固定した儘、言った。
「……へぇ、あんたアイドルなんだ? 此処迄歌巧そうなオーラが有るアイドル、中々居ないけどね」
「あんたもう黙っといて!! 本当に済みませんでした、悪気が有る訳じゃないんです」
「えぇ、其れは解ってますから。別に事を荒げる心算は有りません」
ショートカットと琉歌が事態の収束を図る。相変わらず、金髪は糺凪を見詰めていて、糺凪も不思議と金髪を見返していた。其処には、琉歌とショートカットが危惧した様な不穏な空気は全く無い。
「……あれ? ワシルカ……?」
後ろの方のバンドメンバーの内の一人が琉歌に気付いたらしく、また琉歌から名刺を受け取ったショートカットも「蒼鷲……琉歌……」と呟き、姓名を知って思い当たった様だ。
「え、フリクエンター脱退してニコムーン辞めた、あの……?」
ショートカットは名刺と眼の前の人物の顔とを交互に見て、驚きを隠せないでいる。
「えぇ、まぁ……。今は名刺に載っている通り、小さいプロダクションで働いてます」
「へぇ、そうなんですね…………。何か、凄い人と知り合っちゃった……」
ショートカットは一歩引いて静観していたバンドメンバー達と小声で燥いでいる。
「ねぇ、ルゥさん……」
呼ばれた琉歌が糺凪の方を向くと、金髪と熱く視線を交わし合う糺凪の姿が在った。
「あたし、此の人の話、乗ってみたいんですけど……」
「……そう来なくっちゃ」
互いに試す様な目線を逸らさず、バチバチと見えない火花を散らす二人は、糺凪の台詞を受けて微笑み合った。
「……あんた、何が歌いたいの?」
「ミイラズの『プロタゴニストの一日は』って云う曲……。あと、日笠陽子の『風と散り、空に舞い』って曲。此の2曲はどうしても歌いたいんだけどカラオケに入んなくて、ずっとモヤモヤしてた……」
「……美玖!! 今の、解った?!」
金髪は背後のバンドメンバーに訊いた。無論、糺凪を見据えた儘だ。
「……うん、2曲共当たりは付いたよ。後でダウンロードしてみるね」
ミク、と呼ばれた少女はそう返答した。五人の中では最も若そうに見えた。
「オッケー。サンキューね、美玖。こっちでアレンジする時間欲しいから、準備出来たら連絡するよ。マネージャーさん!」
金髪はやっと糺凪から視線を外し、琉歌を見据えた。
「じゃあ、マネージャーさん経由なら連絡取っても良いでしょ? あんたも、結構巧そうだし……」
金髪はまじまじと琉歌の顔を見て、言った。どうやら眼の前の女性が蒼鷲琉歌である、と云う事に気付いていない様だ。
「ちょっと、良い加減にしなさいよ! ワシルカさん、困ってるでしょ!」
「……ワシルカって、誰?」
金髪とショートカットの喧しい遣り取りが続いている中、琉歌は思案していた。先程のカラオケ中にぼんやりと思い浮かんでいたグループの音楽性と、バンドサウンドと云うのは、相性が良さそうだ、と思った。
「ルゥさん、お願い。あたし、歌ってみたい。仕事には為らないだろうけど、連絡先だけでも……」
通りすがりの通行人に救いの手を求める捨て犬の様な眼をした糺凪に懇願された琉歌は、気持ち赤面し乍ら、頷いた。鞄の中から、志川から支給された仕事用のiPhone5Sを取り出した。
「……では、其方の代表者の方のご連絡先をお願い出来ますか?」
ショートカットが驚く中、金髪は
「……そう来なくっちゃ」
と不敵な笑みを浮かべた。
琉歌と糺凪は、相棒となるカローラバンに乗り込んだ。運転席に収まる琉歌がキーを挿し込み、捻る。数回咳き込む様にしてから、排気量1.5Lのガソリンエンジンは快調な燃焼を開始した。
「……何て言ったっけ、あのバンド?」
「……『センスレスネス』ですね、確か……。あ、Wikipediaのページありますね」
「其れなりに知名度は有るんだね」
「……あ、でもページの中身スッカスカでした。『ライヴハウスEffervesceを中心に、主に都内で活動している。』……位しか書いてないですね」
赤いAndroid端末から眼を離した糺凪は、シートベルトを締めた。琉歌は其れを横目で確認し、シフトノブを握り1速に入れ、踏み込んでいたクラッチをゆっくりと繋げてゆく。ミートポイントは若干上だが、未だ走行には支障無い。
「……ねぇ、糺凪ちゃん」
「はい?」
「糺凪ちゃんって、ロックが好きだよね?」
「あ、はい。J-ROCKは結構聴きますね。好きなバンドも多いですし」
「私もね、今日糺凪ちゃんの歌声聴いてて、思った。……此のグループは、糺凪ちゃんを中心に据える」
「え、ちょ……!」
「で、糺凪ちゃんは主に歌唱面を担当して貰って、場合に因っては糺凪ちゃんは振り付けが無くても良い、と思う」
「……其れって」
「そう。社長が言ってた草案其の儘で、一寸癪だけど……、でも、其れが一番良いと思うから」
糺凪は沈黙した。琉歌は其の様子を視界の隅で捉えつつ、運転を続ける。
「……でね、歌う曲は、邦楽のロック系の曲。当分は予算も無いし、カヴァー曲が中心に為ると思うから。結構さ、ロックの曲って踊れるリズムの曲が多いでしょ? バンドサウンドの邦楽ロック曲を、糺凪ちゃんの歌唱力で歌い熟して、私達皆で歌って踊る――って、何か良いと思わない?」
糺凪は口を閉ざした儘だ。仕方無いので、琉歌は続ける。
「……確かに、最近ロック系の曲を歌い踊るアイドルグループも散見されるけどね。それこそ、ヘビメタやラウドロック、スクリーモなんかと組み合わせたグループも居るけど」
「あたしは……」
漸く糺凪が口を開いた。長い黒髪とスカジャンの襟に隠れて、琉歌は其の表情を窺い知る事が出来ない。
「あたしは、ルゥさんが前線に出て、皆が輝ける様な……そんなグループが良いです」
「……うん。其れも良いと思う。ジャンルとか、曲調とか、演出とか、そう云う決まり事に拘り過ぎて縛られるのも違うと思うし……」
糺凪は僅かに首を左に向け、車窓を眺めた。自分でも、少し混乱していた。何故、琉歌の方針を承服し兼ねたのか、其の根源に有る理由を、自分自身掴み切れていなかった。
琉歌はそんな糺凪の様子を慈しみの眼で見遣りつつ、信号待ちから車を発進させた。呟く様に言う。
「まぁ、未だそんなに急いで決めなくても良いけどね……。メンバーも集まりきってないんだし」
夕暮れの中、カローラバンは国道を行く。辺りには夜闇が漂い始めていた。
もし此処迄読んで下さった方が居りましたら、有り難う御座います。本当に感謝致します。
前話から通読して頂けていたら分かるかと思いますが、またもや書いている内にボリュームがかさんでしまいました。
年内に掲載したい、と云う個人的な目標があった為、後半ルカレナが出て来る辺り以降は正味二日位(年末年始の休暇に入った、と云うのも大きいですが)で書き上げました。会話主体で進行しているのはそのせいだと思われます(個人的には会話での遣り取りの方が書き易いのかも?)。
前半、愛悠乃のパートは全くと言って良い程筆が進まず、まさに暗中模索と云った感じでした。
正直、かなり心折れかけてます。頭の中には大まかなストーリーが描けてるのに、遅々として話は進まないし、文章は下手に為っていっている気がするし、話の流れは雑に為ってるし……。理想の遥か下、でも書いている瞬間は思い付く最良のものを書いている心算なんだよな、とか……。
相変わらず、仕事にかこつけて平日の帰宅後は余り書けていません。休日も何だかんだ娯楽が溢れる部屋の中に負けて、日曜の夜中から本気出す、みたいな感じです。そんな状況なので、夜更かしが祟って仕事に身が入らなかったり……。そもそも、自分は作家で喰っていきたいので、仕事には正直本気で打ち込めていません。そんな仕事の方も勤続年数が増えてきて、此の儘中途半端で良いのか、こんなスタンスだと会社にも迷惑を掛けるのではないか、と云う悩みもあり……。かといって、辞めた所で金は無いし、いい歳してニート出来る様な家庭環境でもないし。
でも、そんな中でも日々「何時か使いたいなぁ」と思うワンフレーズが頭に思い浮かんだり、偶に新しい作品のストーリー(プロット)を思い付いたり、最近では本作や他作品の劇中歌の作詞曲までしてしまっています。文章化出来ていない、メモのみのストーリーのストックは増え続けています。
此の懊悩や、自分のアイディアを無駄にしたくない。何よりも自分の脳内にしか存在出来ていない物語やキャラクターを世に出してあげたい、日の目を見せて遣りたい、と云う昔からの思いがある限り、僕は恐らく夢を捨てられません。
才能のせいにするのは容易い事です(現に、ついさっき僕もそうしようとしていました)。ですが、僕に取って、夢を諦めるのは、多分此の世の何よりも難しい事です。
本作ではそんな、諦める事が出来たなら、その方がずっと幸せに生きられる、でもそれは出来ない――そんな人物達のもがき足掻く様を描いていければ良いな、と思っています。
そんな訳で次回も、なるべくコンパクトに、なるべく早く、もっと良質に――書いていきたいと思います。
とはいえ此の儘では、何年も同じ事をほざく儘に老いぼれていきそうなので、2017年は何らかの決断を下したいと思っています。今はそれがどんな形に為るのか、自分にも分かりません。
取り敢えずは、夢の実現へ向けて足掻いていきたいと思っております。
(万が一、此処まで読んで下さった読者の方が居ましたら、末代まで感謝したいと思います。こんなチラ裏な駄文の存在を、どうかご容赦下さいませ……)